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韓のくに ソウル紀行2 |
李氏朝鮮の最期 ついでながら、朝鮮王朝の崩壊の経緯にもふれておく。 興宣大院君は、李氏の王族の一員ながら、複雑な事情で王位を継承できなかったが、次男の高宗が幼くして李氏朝鮮の第26代国王に即位した。 次男が幼くて王位に即位したため、興宣大院君は政敵を排し院政をしいて政治を壟断(ろうだん)した人物である。 時代は、日本では明治維新の後で、世界の列強の帝国主義の時代に、諸国に対する対外策は、あくまでも鎖国・攘夷(じようい)であった。 このため、李氏朝鮮の終末を早めたともいえる。 ついでながら、高宗(こうそう)は、王位を継承したあと、日本やロシアなどの外圧があり、紆余曲折のち「大韓帝国」初代の皇帝にも即位している。 高宗皇帝 高宗が成人すると親政を宣言したが、代わりに政権を握ったのは、高宗の王妃である閔妃(みんび)の一族である閔(みん)氏であった。 しかし1895年(高宗32年)、高宗皇帝の王妃である閔妃が、日本人暴徒に殺害される事件があり、高宗皇帝がロシア公館に避難し、そこで政務を執(と)るようになった。これを露館(ろかん)播遷(ばんせん)という。 こうして、景福宮は王宮としての運命を終えた。 その後、正宮は1897年に慶運宮(現徳寿宮)に移され、1907年に純宗の即位でまた昌徳宮に移っている。 西洋式の皇帝服の純宗皇帝 上の写真は純宗皇帝(高宗の長男)が、西洋式の皇帝服を着ている姿である。 純宗は、高宗の長男で、李氏朝鮮時代の第27代国王、もしくは大韓帝国の第2代皇帝で、朝鮮王朝最後の国王であり、韓帝国最後の皇帝ながら、事実上、親日派勢力の傀儡(かいらい)に過ぎなかった。 高宗皇帝とその家族 日韓併合にともない、純宗皇帝は、「李王」と呼ばれ、その父親であり先帝の高宗は、日本の天皇から「徳寿宮李太王熈(とくじゆきゆうりたいおうき)」の称号を受けている。 朝鮮と儒教 儒教(じゆきよう)は孔子の教えで、「仁・義・礼・智・勇」を兼ね備えた、有徳の君子と、士大夫(したゆう)による国家統治という「徳性ある統治」が徹底された理想政治を説いている。 それに基づいて、五倫(ごりん)すなわち、君臣、父子、夫婦、長幼、朋友などとの関係を説いている。 古(いにしえ)の君子の政治を理想の時代とし、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。 儒家は、天が万民を生み、 「統治は天命を受けた有徳の天子」 によって行われるべきで、武力による覇道(はどう)を批判し、徳治主義を主張した。 その儒家思想が漢代に、国家の教学(きようがく)として採用された。 「漢時代」から、政治体制と密接な関係を持ちはじめ、抑圧的支配や身分差別など、王朝支配に都合の良い、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友などとの関係が強調されてきた。 「随(ずい)王朝」で「科挙(かきよ)」の必須科目としての学問的地位を確立し、近代の「清(しん)王朝」に至るまで、必須の教養となっていった。科挙(かきよ)とは、役所の高官登用試験のことである。 王朝は成立してのち、「明」から正式に「朝鮮国王」として冊封(さくほう)(爵位)を受けて臣下の礼をとり、いわば属国のかたちをとる事で、王朝の安泰を計った。 朝鮮王朝は、「明王朝」の皇帝を、唯一(ゆいいつ)の天子として敬い、皇帝に対する朝貢や、朝鮮への使節の歓待を、朝鮮王自ら礼を尽くして行った。 孔子の像 また官制や「科挙」の制度を採用し、宦官(かんがん)の制度まで真似た。 やがて「東方礼儀之国」と呼ばれるようになり、こうして約五百年にも及ぶ「明」「清」の朝貢(ちようこう)国としてその命脈を保った。この約五百年は、日本の室町期から明治初期の時代に相当する。 儒教は「統治は天命を受けた有徳の天子によって行われるべき」の教えを、朝鮮国王は、自らを「天命を受けた有徳の天子」と読かえ、国王に対し、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱え、絶対恭順を強いた。 要は、儒教を歴代の為政者が、群衆支配をする思想として利用したといえる。 さらに、朝鮮王朝は、儒教の教えとして「商人」を最も卑しんだ。 戸籍上の身分として、「良民」は両班(やんばん)(科挙官僚を輩出する階層)とし、「中人」は、技術職を輩出する階層とし、「常人」を一般の農民とした。 朝鮮の貧しい農民 しかし、儒教を尊び、仏教を弾圧したため、僧侶や工人、商人などは常人より更に低い地位に置かれていた。 さらにその下層にある賤民(せんみん)階層は、初期の比率で人口の三割程を占めたという。当時の賤民とは、満州系の女真(じよしん)族などをさしている。 国策として、明(みん)、清(しん)への朝貢をのぞき「鎖国政策」をとり、外交的にも経済的にも孤立した逼塞した体制をとった。このため、「朝鮮通宝」などを鋳造したが、貨幣経済が十分には発達せずその末期に至っても、村落部では物々交換は残存していたという。 このように、一般農民以下は、無学文盲状態のもとで長い時代、逼塞した状態に置かれたといえる。 儒教の影響 儒教は、中国でも朝鮮でも、為政者(いせいしや)の思想として、都合良く解釈され弘(ひろ)められた。このため、成立早々の中華人民共和国では、 「儒教は革命に対する反動である」 として徹底弾圧された。 しかし、中国や朝鮮では、その影響が今日でも色濃く残されている。 たとえば「長幼の序」がうるい。 目上の人の前では、タバコをすってはいけない。 目上の人が箸を付けるまでは、箸を取ってはいけない。 目上の人から風呂に入る。 目上の人の前では、眼鏡を掛けてはいけない。などと、様々な生活習慣が残っている。 だから、目上の人の意見に反対するなどは御法度(ごはつと)であり、まして先人の考え方を覆(くつがえ)すことは御法度である。 儒教で閉塞された社会 このような閉塞(へいそく)された社会では、ひたすら守旧が美徳とされるから、社会の発展は望むべきもない。 反面、日本は儒教的には劣等生であったが故に、明治維新を成立させ、戦後もいち早く、経済的に成長を成し遂げ得たと思っている、 高麗王朝(コリョ ワンチョウ) 逆引きの朝鮮半島史のようだが、遡(さかのぼ)る。この紀行の冒頭でも少しふれたが、 「高麗王朝(コリヨワンチヨウ)」は、王建(太祖)が建てた朝鮮半島の国(918年 - 1392年)である。 元来は、「高句麗(コグリヨ)(こうくり)」の後期における正式な国号であり、当時の日本や中国でも高句麗を「高麗(コリヨ)(こうらい)」と称していたため、現代中国では、王氏高麗と呼ぶこともある。 「高麗王朝」は、アラビアとの貿易が盛行し、水銀・香料・ガラス工芸品・珊瑚(さんご)などを輸入した。 また、高麗は「宋(そう)」に入朝し、臣下の礼をとって政治的な安泰を得、また、高麗の最大の貿易国でもあった。 高麗は、宋やアラビアに、金・銀・螺鈿(らでん)漆器(しつき)・花茣蓙(ござ)・紙・銅・陶磁器(高麗青磁)・朝鮮人参を輸出し、宋から絹・薬材・書籍・楽器・香料を輸入した。 また、高麗初期から、仏教は王族たちの支援を得、太祖は開京(現北朝鮮)に多い寺院を建築した。これらは、儒教の教えと、信仰としての仏教が併存した事を意味する。 この時代は、インドや西方世界との接触により、高麗文化が花開いた時代であった。 高麗の社会は、経済的な発展を裏付けとして、朝鮮半島の歴史にとって、「新羅(シルラ)(しらぎ)」に続き、女性の社会的地位が高いという時代だった。 もちろん、政治や生活全般には男が優先されたが、財産の分配は、息子と嫁いだ娘を同等に待遇したという。 ともかく独自の高麗文化や技術が花開いた時代でもあった。 蒙古軍人が駐留 ただ、十三世紀頃から、北方ではチンギス・カン率いるモンゴル帝国(後の元)が台頭し、モンゴ軍の侵入が始まっている。高麗へ露骨な内政干渉をし、国内には多くの蒙古軍人が駐留した。 詳細は省略するが、ついに、「元帝国」は、二度の日本侵攻(元寇)を行い、高麗は前線基地として、兵站(へいたん)の補給と軍船の建造を命令された。 さらに、日本侵略の片棒を担ぐ負担を強いられた。 この元寇(げんこう)に遭った博多の人々に、 「モクリ・コクリが掠(さら)う」という伝説として筆者の幼い頃まで、語り継がれた。ただ、北朝鮮の「拉致問題」とは事件の本質が異なる話しである。 和冦 元寇について述べたついでに、倭寇(わこう)(前期倭寇)についても触れておきたい。 倭寇とは、日本人による海賊行為や略奪を含む、強制的な私的貿易である。 「前期倭寇」が活動していたのは十四世紀で、日本の時代区分では、南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。 倭寇 倭寇(わこう)は」日本人が中心で、元寇のとき、「元軍」とその支配下にあった「高麗軍」によって、住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、「三島倭寇」と総称された。 朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する地方の私軍による復讐の意味合い、および、再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられる。 また、これらの地域では、元寇による被害で労働力不足に陥り、農業生産力が低下した。 ために、これを補完する(奪還する)目的があったとも考えられている。 その証拠として、朝鮮半島で唯一稲作が盛んに行われていた南部の沿岸地方を中心に襲撃し、食料や人間を強奪していることが挙げられる。 さらには、朝鮮へ連れ去られた家族を取り戻すためであった事例もあり、実際に家族と再会した記録も残っている。 倭寇の行動範囲 高麗滅亡期の「前期倭寇」の行動範囲は、朝鮮北部沿岸にも及び、南部では内陸深くまで侵入するようになった。 中には、完全武装の大将に率いられ、数千人規模の騎兵や徒歩兵で城攻めすらおこなう集団もあらわれていた。 こうなると正規の軍隊の規模であり、西国武士が参加していた可能性が指摘されている。 後期和冦は、密貿易としての性格が濃く、また日本人が少なかった事もあり割愛する。 新羅と苗字 逆引きの朝鮮半島史を続ける。 朝鮮半島の上代史は、図式的には始めに三韓(かん)時代がある。馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)の三国時代である。 つづいて、高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)の三国時代が続き、やがて新羅が朝鮮半島の統一国家を樹立した。 新羅が朝鮮半島を統一 高句麗は、もとも満州系の民族の国家で、韓族とはちがった。韓族の国が百済(くだら)、新羅(しらぎ)であったらしい。 その新羅国の歴史は、三国時代から数えると、九百九十年も続いた。新羅の始祖王はなんと紀元前一世紀の人である。 ただ、高句麗や百済を滅ぼすときに、中国大陸の「唐(とう)」と連合した。高句麗が唐の地を侵略することが多く、新羅と利害が一致したのである。 日本の天智(てんじ)天皇の時代に、百済の要請で水軍を派遣し、結果として大いに敗れた。 滅亡した百済の亡命者が大量に大和(やまと)へ逃れてきた。この事は前にもふれた。 時の朝廷は国家事業としてこれを受け入れ、以後彼らの影響で飛鳥(あすか)文化ができあがったゆく。 新羅は半島を統一したが、「唐」の属領のような形になり、仏教やその他の文化が新羅に導入されることになった。 佛国寺山門 朝鮮の歴史は、事大(じだい)主義であるとも言われる。 半島に於ける歴代の国は、つねに「大(だい)に事(つかえる)」という政治感覚で、対外的な圧力をかわして、生き延びてきた。 この事大主義は、新羅時代に確立し、李氏朝鮮時代まで続くのである。 このため新羅の中では唐との軋轢(あつれき)や国内政争が絶えず、日本へ亡命する人も多かったという。 これら新羅の帰化人たちは、大和や近江(おうみ)には百済人が多かったため、遠くの関東の地の開拓に関わった人が多かったともいう。日本へ亡命しても、百済人と新羅人は仲が悪かったらしい。 百済人は「我はクン(大)・ナラ(国)の者である」と言うと、新羅人は「我はシロ(金)・キ(城)の者である」と言ったという伝説がある。 朝鮮半島の利権を巡る 日本人と朝鮮人と満州人 余談ながら、モンゴル人は 「我々は銀である」 と高らかに称した。モンゴル語では銀をムンクと言った。これを聞いた漢民族は蒙古と書いた。 また満州人は 「我々は金である」 と称した。満州のツングース語では、金をアイシンという。のちに、満州から興って清帝国を築いた愛親覚羅(あいしんかくら)の、愛親は、アイシンつまり金を意味しているという。 満州騎馬兵 さて、話を戻す。 この新羅時代の最盛期には、貿易が盛んで工芸が華麗な発展を遂げ、国土は冨 み、都の慶州の民家の何千軒は、ことごとく瓦ぶきの屋根であったという程であったという。ちなみに日本で一般家屋に瓦が使用されるのは江戸後期という。 この頃に、すべての人民が朝鮮固有の名から、漢姓の名(姓)である、金、朴、張、李、鄭などの苗字を名乗るようになった。 本来、韓族は、満州族や蒙古族と同様に、苗字をもっていなかった。 新羅時代の最盛期に、国から漢姓を名乗るように指導された時、血族の長が名乗った姓を、その直系の血族が名乗り継いだ。 こうした経緯から、朝鮮半島では、その姓の出身地を本貫(ほんかん)という。 つまり本貫(ほんかん)が同じなら、同じ血族という事になる。このため、朝鮮では「同姓オ娶(めと)ラズ」という習慣になっている。 しかし、同じ金姓でも、「慶州(けいしゆう)金」「金海(きめ)金」と区別する。だから同一姓でも、本貫(ほんかん)が違えば結婚できるのである。 かつて大統領だった金大中(きむでじゆん)氏も、「金海(きめ)金」の出自で、どうやら「金海(きめ)金」の宗家のような家柄らしい。 この「金海(きめ)金」を本貫(ほんかん)とする金姓の末裔(まつえい)は、なんと数百万の人口だという。それでも「同姓オ娶ラズ」の法が生きているという。 慶州や金海(きめ)はかつての新羅の地であり、慶州は新羅の古都でもある。新羅は仏教を保護したから、今日でも仏教寺院が残っており、日本の奈良に喩(たと)えられる地でもある。 国立民俗博物館 長々と朝鮮半島の歴史にふれたが、ようやく景福宮の見学を終え、同一敷地の一角にある国立民俗博物館を見学する事になった。時間は十時十五分ころであった。 国立民俗博物館は、韓国の文化を調査・研究および展示・収集保存を目的に設立されている。韓国の伝統的な生活文化を総合的に見ることができる。特に朝鮮時代(1392-1910年)を中心に、当時の一般庶民の伝統民俗文化と貴族社会の文化の両面を見ることができる。 韓国 国立民俗博物館 第1展示館 韓民族生活史 この展示館では、青銅器時代の生活像・高句麗の生活風俗・百済の生活風俗・新羅の服飾・高麗時代の木版印刷術、朝鮮時代の科学技術などであった。 青銅器から鉄器への移行、陶磁器の発達、陸路と海路の文化、印刷文化とハングルの誕生、庶民の生活用品などの展示があった。 第2展示館 生業・工芸・衣食住 高麗時代の展示館 この展示館では、住居は実際に一部再現した物があり、農耕のようす・漁労のようす・手工芸・韓国の服飾の変化・韓国の住居の様子などの展示であった。 特に、高麗時代に成熟したという螺鈿(らでん)を施した家具は素晴らしい。 第3展示館 韓国人の人生 この展示館では、韓国人が生まれ、教育を受け、成人になり、結婚する過程、そして韓国人の文化・人生像を紹介し、出産と教育・書堂・婚礼・還暦の祝い・喪庁と祭礼のようすなどなどの展示であった。 朝鮮時代の貴族である両班(やんばん)の男性の、華やかな生活が主であった。 時間が少なく、いわば駆け足の見学であった。 石像文化 博物館の屋外の広場に、石像が展示されていた。 高麗文化は、高麗磁器で有名だが、また石の文化でも有名である。 石人が多く作られ、武人(ぶじん)石と文人(ぶんじん)石があり、両班(やんばん)の墓に据えられたという。 他にも童子、守り神、石虎、石獅子、などの石像が多く作られ、灯籠、石塔なども多く作られた。 これら朝鮮半島の石像文化は、日本では地蔵尊や石仏として影響を与えている。 上の写真は、済州島伝統の石造物のトルハルバンである。 トルハルバンは、「石製の爺さん」を意味する済州島方言という。 集落の入口を表す位置標識の機能を果たして来た済州島伝統の石造造形物をいう。 大きい目、鼻。唇は閉じた顔で、韓国伝統の帽子(モジャ)をかぶり、両手を腹部で合わせるのが共通の特徴。 平均高約180㎝。トルハルバンは、済州島の象徴であり、街の入口などに立てられ、守護神と呪術(じゆじゆつ)的な宗教機能を兼ね備えているともいう。 故宮見学と付属の博物館を、まさに駆け足で通り過ぎた感じであった。 遠くて近い韓国は、人種的にも言語的にも、文化的にもかなり近い。 それでいて、朝鮮半島は常に北方民族の満州民族、蒙古民族や漢民族との抗争と侵略を受け続けた。 さらに、南からも日本民族の侵略を受けた。島国の日本と異なり、大陸の異民族との接点が多く、独自の文化を育んできた。 一方で、各時代で強大な異民族に、屈辱的な従属を強いられた歴史を有している。ために、民族としてはかなり屈折した感情が強い。 南大門市場(ナンデムンシジャン) 景福宮の駐車場から、バスで南大門市場のゲート前に到着したのは、十一時半頃であった。 南大門市場(ナムデムンシジヤン)は、ソウル市内にある四大門の一つの崇礼門(スンネムン)(南大門)を起点に、卸(おろし)業の店を中心に、一万店以上が軒を連ね、ひしめきあっている。 ソウルのほぼ中心部に位置し、韓国最大の総合市場である。 南大門市場案内図 仕入業者の他、立地の良さから観光客も多く、人出で賑わっていた。 昨夜訪れた東大門市場が、ファッションを中心とした市場であるのに対し、南大門市場はフード全般の他に、皮革製品やメガネ、さらには伝統工芸品、伝統衣装までそろっているという。 広大な規模の南大門市場だが、店舗はそれぞれ、食品通り、メガネ通り、レザー(革製品)通りと、商品分野別に分かれて店が集中して並んでいる。 洋服やファッション雑貨、アクセサリーなどは、専門のファッションビルに入店している場合が多いという。 日用品や食料品、衣料品が中心ながら、日本人観光客にも人気の高いスポットの一つであり、土産物を販売する店も少なくない。 深夜営業の店舗もあるが、それらの多くは卸売業的な性格を持っており、韓国国内から仕入れに訪れる人が多いという。 南大門市場 さて、我が一行は、地図で照合すると、チョンさんの案内で多分ゲート2から市場の通りに入ったと思われる。ここが観光地図で確認すると食品道りで、丁度やや大きな通りと交差していた。 この交差点を集合場所として、四十分間の散会となった。 交差点の角に食品店があり、海苔などが積まれていた。我が一行を見ていた店主が、にこやかに流暢(りゆうちよう)な日本語で話しかけ、 「韓国海苔が美味しいですよ。今から特別セールを始めます。中に入って見てください。試食もできます。柚茶(ゆずちや)をいれますから、どうぞ・・」 誘われるままに小さな店内へはいった。四、五人が座れる小さなテーブルが置かれていたが、我が一行の数人が、その小さな店内に溢れた。 奥の棚には、高麗人参が並んでいた。 早速海苔の試食品がだされた。 韓国を代表するお土産と言えば「海苔」であろう。試食すると、香ばしいごま油と塩がきいた韓国海苔は、一度食べたらやみつきになるほど美味しい。 小分けされたパック海苔は、お土産として配るのに都合がよい。 次に、柚子茶が出された。これも甘酸っぱい味で美味しい。 ここで少し食品のお土産(みやげ)を買う事に決めた。食品の土産は、人を選ばす渡せるから便利であり、価格も安い。 韓国土産の海苔 一人が海苔や柚子茶を買うと、連鎖反応が起きて、店主は大喜び。 どういう訳か「冬のソナタ」と日本語で書かれたチョコレートを出してきた。これも手軽な土産として、みなが買い始めた。 こうして、この食品店は俄(にわか)に活気づいた感があった。つぎつぎに買い求めると、袋が嵩張(かさば)ってきた。店主は、如才(じよさい)なく大きな緑色の、ジッパーのついた袋に変えてくれた。さらに感心したのは、名前シールを持ち出して、土産品が混同しないように配慮してくれた。 この緑色の土産品の詰まった袋を店に預け、すこし南大門市場を散策することにした。 しかし、食品店で買い物に時間を費やしたため、大通りを歩くだけにした。 市場とはいえ、殆どが商店ビルに入居しているから、そのビルに入らなかったから、その賑わいを感じることはできなかった。ともかく、通りを右手に行いてくと、鞄や靴などの間口の小さな店が多かった。その中で、小さな皮革の帽子専門店を見つけた。人の良さそうな親父が一人いた。 皮のハンチングを見て、価格を尋ねると、「2万5千」と言う。値下げ交渉をしたが、「2万2千」で譲らない。 この時、妻は財布から2万1千を取り出して、店主に握らせ、にっこり笑って「カムサハムニダ」と言うと、店主も苦笑しつつも、袋に入れてくれた。集合時間の都合で、肝心の市場の商店ビルには入れなかった。 南大門物語 ここでは、南大門そのものについて、ふれておきたい。 城郭都市であった当時の漢城には、門が四か所あったが、最も規模が大きいのが、この崇礼門(スンネムン)(南大門)である。この門こそ、韓国では最古の木造建築物として知られ、歴史的価値の高い建物で、国宝1号に指定されていた。 焼失前の崇礼門は、朝鮮王朝として 「漢城」に遷都(せんと)した太祖の李成桂(イ・ソンゲ)は、都の城門の建設に着手し、南側の主要な門である崇礼門を、1398年に完成させている。崇礼門は、俗に南大門と呼称され、六百十年もの歴史を有する貴重な文化遺産であった。 ところが。2008年2月の放火によって、石造りの城門を除き大部分が焼失した。 放火で焼け落ちた崇礼門 この崇礼門は、世宗治世の1448年、および成宗治世の1479年に、大きく改築され、風水の観点から、冠岳山(クヮナクサン)の火気を遮(さえぎる)ようにと、2階建てになった。 讓寧大君が書いたとされる懸板(けんばん)(詩文を記した板)は、火気を遮るために縦に書かれた。 その後、秀吉が企てた壬辰(じんしん)倭乱(わらん)(文禄(ぶんろく)慶長(けいちよう)の役)や、清(しん)が十万の兵力を率いて朝鮮に侵攻してきた丙子(へいし)胡乱(こらん)など、幾多の戦乱を経たが、崇礼門は生き残り、都の正門としての役割を果たしてきた。 大韓帝国時代の1907年、日本の皇太子の嘉仁(よしひと)親王(のち大正天皇)の訪問を機に、街路整備が行われ、の両側の城壁が撤去された。この時に門だけが、道路に孤立する形で残された。 同時に門の前に開業した京城駅(現在のソウル駅)は1905年から1922年の間「南大門駅」と呼ばれた。 大韓帝国時代の崇礼門 日本統治時代(1910年 - 1945年)に、門を挟むように、南に京城駅のレンガ駅舎、北に「京城(けいじよう)府」庁舎(現在のソウル広場に建つソウル市庁舎)が建てられた。 大韓帝国になってから、漢城府は「京城府」と名を変えている。府は現在の市の意味で使われている。 1934年、朝鮮総督府が、朝鮮の主要文化財保護の目的で、「南大門」を大韓帝国宝物第1号に指定した。 第二次大戦後の1948年に「大韓民国」が建国された。 その後に続いた「朝鮮戦争」で、ソウルの大部分がソ連軍によって破壊された。が、奇跡的に崇礼門は、一部の損傷にとどまり焼失を免れた。 破損した部分の大規模な改修工事が1962年に行われた後、改めて「大韓民国」の「国宝第1号」に指定された。 元々朝鮮総督府が、勝手に決めた国宝であったから、改めて国宝に指定されたのである。 日本統治時代の烙印であるとして、韓国内の一部には「国宝第1号」指定を、朝鮮の文化的な「独立宣言」であるハングルに変えるべきであるとの意見もあったが、崇礼門(スンネムン)の名が残されている。 しかし、残念なことに、ソウルの象徴のひとつでもあった崇礼門が、2008年2月の放火によって、石造りの城門を除いた大部分が焼失した。 2006年の「昌慶宮」の放火犯の男が、崇礼門放火容疑で逮捕された。 犯行の動機について、都市再開発事業による、家の立ち退きの件で、補償額が少ないことに不満を持ち、大統領府や区役所に再三陳情した。しかし要求が受け入れられず、不満が募(つの)った事と、 「不遇な自分を世間にアピールしようした」という。ただ、まさか全焼するとは思わなかったと述べている。 2008年4月、ソウル中央地裁は、崇礼門放火容疑で逮捕した男に対し、懲役十年の判決を言い渡している。 効果的な消火活動体制があれば、全焼には至らず、全責任を被告に負わせることは難しいと述べ、文化財保護の関係機関にも責任があると指摘した。大法院は上告棄却をし、懲役十年の刑が確定した。 修復された南大門 仁寺洞(インサドン) 南大門市場を出て、我が一行の故宮見学ツアーバスは、十二時二十分頃に、仁寺洞へ到着した。 仁寺洞は、鍾路区(チヨンノグ)にある地域で、韓国の伝統民芸品店や、骨董品店・古美術店が立ち並ぶ地域があり、観光客が多く訪れる地域である。ここも訪れたい候補に入れていたから有り難かった。 ガイドのチョンさんは、我が一行を仁寺洞のメインストリートの仁寺洞通(インサドンギル)りを歩き、その中間あたりに建っていた、伝統工芸ショッピングモールの「サムジキル」の前で散会とした。 仁寺洞 ただ、昼食の関係で、集合時間が早く約三十分の散策時間であった。 とりあえず目の前の「サムジキル」を見学してみた。 建物の真ん中に広場があり、広場を中心に店舗が入る建物が配置された、いわゆるドーナツ型のモールであった。 地下フロアから地上4階までの5階建で、1階には、ガラス張りのショーウィンドが並んでいて、天然染色繊維工芸・装身具などなどが並んでいた。他にも茶器専門店・伝統陶磁器・木工専門店・民画、そして繊維工芸品やバッグなどが目に付いた。 2階には伝統茶器・台所用品などを取り揃えたお店が多かった。他に、ガラス工芸品の、花瓶や、灰皿・コップなどがあったが、イメージしているお土産には不適と考え、この建物を出て、仁寺洞キル(通り)沿いを歩いた。 サムジキル 日本人観光客が多く、屋台の食べ物店からは、日本語で呼びかけてきた。 ただ、タクシーなどが通るので、歩道を歩かないと危なかった。 この通りの両側には、多数の骨董品店・古美術店・陶磁器店・ギャラリー・喫茶店・伝統工芸品店・土産物店などが並んでいて、ソウルの文化の街だと実感した。 アクセサリー店で、携帯ストラップを見ていると、なんと韓国土産に妻が貰っていた、ストラップと同じ物が並んでいて、3千ウォンとあった。 次に見つけた伝統工芸品店で、娘達へのお土産を買い求めた。 仁寺洞(インサドン)はソウルの中心部にあり、朝鮮王朝時代には、王宮に勤める両班(やんばん)たちが住む屋敷が立ち並んでいたという。 伝統工芸品店 今でも古い伝統的な家屋の「韓屋」が仁寺洞付近に多く残っているらしい。 王朝末期の十九世紀末には、経済的に困窮した両班たちが、家伝来の品を売り払う店を開いたという。 以来ソウル在住の外国人たちが訪れる骨董品売買の街となってきた。 1988年のソウルオリンピック以降は、観光地化が進み、外国から古美術買い付け目的の人だけでなく、多くの一般観光客が訪れている。 仁寺洞一帯に残る韓屋を使って伝統茶を出す喫茶店やカフェ・レストランが開店し、現代美術やデザインを扱うギャラリーなども増加している。 仁寺洞の骨董品店 仁寺洞の骨董品店で売られているものは、高麗や李朝の陶磁器、古い木製の書棚や箱などの家具、古書、書画などの類が多い。1万ウォン前後の安価なものから、1億ウォンは下らない高価なものまで、価格の幅は広い。 ソウルの骨董品店の多くがここに集中し、韓国国内の他の骨董品街と比べて高価なものが売られている。 客は地元の人たちから日本人・中国人・アメリカ人・フランス人などさまざまである。ここは、日曜日だけが歩行者天国になるという。 タプコル公園 タプコル公園は、仁寺洞観光地図の右下に位置していて、時間が無く足を伸ばさなかった。 タプコル公園は、李氏朝鮮の初期の十五世紀には、李氏朝鮮の護寺である大円覚寺がこの場所にあった。 しかし、後に儒教を国教とし、仏教を弾圧し始めため、寺院は十六世紀には廃止されている。 以後、この地は放置され、寺院は荒れ果てていた。 1897年、許可を得てイギリス人の宣教師が寺院跡を整備し、公園とした。 壊れていた寺院の名残の「十層石塔」(下写真)を修復し、八角亭を復元し、市民の憩いの場所である公園とした。 国宝 十層石塔 これが、韓国最初のパゴダ公園である。 十数年前までは、塔のある公園という意味で、英語で「パゴダ公園」と呼ばれていた。 この公園が、1991年純粋な韓国語の「タプコル公園」に変更され、現在に至っている。 修復された石塔は、国宝第2号の「圓覺寺地十階石塔」指定され、ガラスケースで保護されている。 ところで、この場所こそが、韓国現代史の原点とも言うべき歴史的な場所である。 日本による韓国併合(1910年)のあと、日本からの独立運動(三・一独立運動)が、朝鮮半島全土で起ったのである。 三・一 抗日 独立運動記念レリーフ その原点とも言うべき1919年3月1日、初めてこのパゴダ公園から宣言され、独立運動が開始された。 このため、三・一独立運動の発祥地として、韓国人にとって非常に重要な歴史的意義を持つ公園である。 とくに公園の「八角亭」で独立宣言書が読まれたため、独立宣言書が刻印された記念碑が据えられている。 公園中心部の八角亭のまわりを囲むように、独立運動の過程や、日本憲兵と韓国民衆の姿が描かれた12枚のレリーフ、独立運動記念塔、運動祈念壁画、義庵孫秉熙の銅像、韓龍雲の記念碑などがある。 ただ、日本人の観光客は殆ど訪れることはなく、無論観光ガイドブックにも記載はない。 ツアー昼食 チョンさん案内の、我が故宮見学ツアー一行の最後の予定が、ビビンバ昼食で、そのレストランへ向かうべく、またバスに揺られた。 どうでも良いことながら、レストランの場所が、何処(どこ)であったのか聞くのを失念した。 そこで、この稿を書くにあたり改めて場所の特定を試みた。 手掛かりになる上写真の、道路標示を拡大してみたら、「明洞」経由、「ソウルタワー」方面である。 次の写真には、ソウルタワーが遠望されている。写真の南山公園の手前から左折し、さらに右折してトンネルを通った事は記憶している。 南山公園 これらの断片的な情報から、地図で照合すると、南山公園の裏側に回る南山1号トンネルを抜けたと推測できる。 さらにで確認すると、梨泰院(イテウォン)のメイン道路である631号線の「漢江(かんがん)鎮(ちん)」に出たことになる。 この国道沿いにあったドライブインのような食道で昼食となった。 移動中の写真の時刻は午後一時を回っているから、到着は一時三十分頃であったとおもっている。 ビビンバ 昼食を摂ったレストラン名は、梨泰院(イテウォン)に限定して、Webで調べたが、ついに分からなかった。 ともかく、広い座敷の二つのテーブルに分かれて付いた。 韓式のお座敷では、床は必ずオンドル(床暖房)である。だから、ファンヒーターなどの暖房器具は見あたらなかった。窓から眺めると、裏の南山の裾に住宅が立て込んでいて、その中にキリスト教会の十字架が見えた。 予定通り昼食はビビンバであった。 ビビンバとは、韓国の混ぜご飯である。 「ピビム」が「混ぜる」、「パプ」が「飯」の意味である。原音に近い片仮名表記をすると「ピビムパプ」になる。日本では「ビビンバ」の表記が定着している。 さて、ステンレス製のお箸と、スッカラと呼ばれるスプーンを使って食事をする。 これについて、出典は忘れたが、朝鮮の伝説的な小話がある。祖母が孫に、食事の作法を教えるときの様子らしい。 「倭奴(わのな)(日本)が、礼儀作法を知らないから教えてくれと来た。そこで少しは教えてやったさ。しかし、金属(黄銅や銀)の箸は教えず、木の箸を教え、「スッカラ(匙(さじ))」は教えなかったんだよ。だから、倭奴(わのな)は、いまだに「木の箸」だけで食事をしているんだ。だから、ご飯や汁物を、お椀を抱えて食べるという、不作法をつづけているんだよ」 倭奴(わのな)に間違われないよう、お椀を抱えるな、という躾けである。次の頁の写真は、食堂から見た風景と同じものを、偶然Webで見つけたものである。 汗蒸幕(ハンジュマッ)) 昼食が終わって、故宮見学のツアーは終わり、ホテルへ戻ることになった。 次の予定は、やはりチョンさん手配の韓国エステ体験であった。 バスに乗るとき、韓国出張経験のある部長とKさんは、オーダーのワイシャツを作りたいとかで、バスには乗らなかった。この時は、現在地が見当が付かず、多分タクシーにでも乗るのだろうと考えていた。 後でわかった事ながら、ワイシャツのオーダーは、この昼食をしたレストランからはさほど離れてはいなかった。 ともかく、残りのツアー一行は、一旦ロッテホテルに戻り、買い求めた土産品などを部屋に置いて、チョンさん手配のエステ参加組は、すぐにまたロビー集合となった。 参加したのは、曽和課長と筆者夫婦と、金原さんと門畑さんの五人であった。 ホテルには、エステ店の出迎えのバスがすでに来ていた。 またバスに揺られ、土地勘のない市内を走って、目的のビルの地下にあったエステに到着した。 帰ってから検証してみると、なんと昼食を摂った食堂から至近距離の、梨泰院(イテウォン)ホテルの隣のビルの地下にあったのである。 正式の店名は「漢江火汗蒸幕(ハンガン・ハンジュマッ)」である。漢字をみると、その意味が大体通じる。 要するにサウナという意味である。 日本のサウナと大して変わらないだろうと考えていたが、アカスリは経験ないので楽しみであった。「驚くほど垢がでる」という話しを聞いていたからである。 大抵の人は、ほぼ毎日入浴しているにも拘わらず、どうしてそんなに垢が出るのかと不思議に思っていたからである。 だから、「アカスリ」というものに特別の期待感を持ったのである。 しかし、結果としては大いに期待を裏切られた感じである。 課長と二人で、地下2階の男性用のサウナへ向かった。 カウンターがあったが、手続きが済んでいるためか、そのまま中へ通され、案内した中年男性が、個室に通した。「初めてですか?」と聞くから、つい頷(うなず)いた。 システムの説明と称して、くだんの男性は、熱心にテーブルに置かれていた「人体の経絡(けいらく)図」などを見つつ、「全員資格を持つ人ばかりです。疲れが取れて、とても元気になるよ。とても気持ちが良いよ」 と、経絡マッサージ、足ツボマッサージと頭皮マッサージのセットで、特別価格で5万ウォンと説明し、盛んに勧めてきた。 基本セットには「各種マッサージが無い」からと、マッサージを勧めてきた。 追加セットは、日本円にして3千円余りだから、曽和課長と顔を合わせて、了解した。一人だけオプションを外すと、時間のタイムラグが生じるからである。 追加セットを了解するとさらに、角質取りの2万ウォンを勧めてきた。 相手のペースに載せられるのは嫌いだから、これは断った。 ようやく商談室のような個室を出て、ロッカールームへ案内され、此処で裸になり、風呂とサウナのある浴室へ入った。 日本の温泉の大浴場に比べると、やや狭い浴室で、浴槽が三つあった。 課長が最初に入浴したのが緑色の浴槽で、ヨモギ風呂らしい。 十分に湯船に浸ったあと、ふたりでサウナにはいった。 入るとき、外に置いてあった筵(むしろ)のような物を渡され、頭から被れと所作で教えてくれた。 サウナは特有の熱気があり、頭から筵(むしろ)を被ると、すぐに汗が噴き出した。 あとで調べて、このサウナは「黄土遠赤外線サウナ」だったかと推測している。サウナで汗を出し、また浴槽に浸っていると、課長のロッカー番号が呼ばれたらしく、別室のアカスリ室へ異動した。 一人で、ヨモギサウナに入って汗を出し、また浴槽に浸かるとすぐに、係の男が何か言っている。よく分からず浴槽にいると、その男が腕に付いている番号を見て、アカスリ室を指し示した。 アカスリ室には、寝台が幾つも置かれていて、その一つに「上向き」と指図された。筆者と入れ替わるように、課長のアカスリが終っで、室外へ出ていった。言われるままに、アカスリ台に寝そべると、小さな布きれを下腹部に被せてくれた。顔に何かを無造作に塗って、また布を顔に被せられた。これが、パックだろうと思った。が、しばらく、そのまま放置された。 団体客が入ってきたような気配が感じられた。 暫くして、アカスリがはじまったのだが、すぐに手を止めて、誰かを呼んでいる。二度ほど大きな声で呼ぶと、「ネー」という返事が聞こえた。 彼に何かを指示している様子だった。またアカスリを始めたが、また手を止めて、何処かへいった。顔に布を被せられているから、状況は見えない。 こうして、担当者がリーダーだったのか、何度も中断したアカスリで、実にぞんざいなものであった。 ところが、「うつぶせ」状態の時、丁字型カミソリのような物で踵(かかと)を擦(こす)り、それに付いた白い垢のような物を見せて、「角質がたまっています。角質とりをしますか?3万です」と日本語で聞いてきた。 黙っていると、左の踵(かかと)も丁字型カミソリで擦って、また白い垢のような物を見せて、「角質を取りましょう。3万ウォンですから。いいですね」と煩(うる)さい。 面倒だし、僅かな金額だからと、頷いた。 時間の割には雑なアカスリで、どれほど垢が取れたのかも全く分からないまま、また風呂に入るように指示された。アカスリに対する期待が大きかっただけに、なんだか裏切られた感じで、がっかりした。 ヨモギ風呂から上がると、パンツを穿(は)いて、マッサージ室に案内された。 ここのマッサージも、日本のマッサージに比べる、時間も短く、なんとも雑な感じであった。 このような人的サービスは、やはり担当する人間の質によるところが大きい。 担当が悪かったと思うしか無い。それでも日本のきめ細やかなマッサージとは比較にならず、大陸的と言う他ない。 帰ってから妻にも聞いたが、やはり大雑把(おおざつぱ)な対応であったという。 アクシデント2 課長と多少の時間差があったが待合室で合流して、地元のテレビ映像を見た。何やら、魚の干物の宣伝がくどく繰り返されていた。 課長が席を立ち、案内のチョンさんを探して、女性達の時間を聞くとまだ一時間以上掛かるとの話しであった。 やむなく、時間つぶしに梨泰院の街を散策する事にして外へでた。 やがて、女性達と合流して送迎バスに乗り込み、ホテルのロビーに戻った。 ロビーには偶然社長たちがいて、エステ組の一行の女性達の顔をみて、 「おお、綺麗になってきたな」 と冷やかし始めた。このとき、初めて妻の顔を改めて見ると、眉がくっきりと描かれていた。 この時は、女性のメイクに疎(うと)い筆者は、たんにメイクで濃く眉を描いて貰ったのだと解釈していた。 後で知った事ながら、女性達は「眉アート」のタトゥー(入墨)を施されていたのであった。男性もオプション攻撃を受けたのだが、女性達には「眉アート」のオプションが勧められたのだという。眉アート代は、一万七千円だったとのこと。 こうして、女性達は、予想外のエステを体験して、華麗に変身して帰ってきたのである。女性達には、他に民族衣装のチマチョゴリの写真撮影という恩典にも浴している。 帰ってから、「漢江火汗蒸幕」のWebページを見つけた。 基本コースは、八千二百円(82,000W)とあったが、これはウォン安になる前の一般価格で、実際には値引きがあり、実質は他店との比較表では、六千円三百円~六千八百円であった。しかし、ガイドのチョンさんに支払ったのは六千円であった。旅行当時は、1対15のレートのウォン安であったから、このレートから判断すると、15%上乗せされていた事になる。 ついでに、評価の書き込みを見ると、 「オプション攻撃が激しいですね。オイルも、洗剤をまな板にかけるようにかけられ、マッサージも流れ作業だった。旅行会社を通したからか、このサイトより断然高い82,000ウォンしたのに、満足度はまったくなかった」 「丁寧なアカスリで、大変満足でした」 などの書き込みがあった。やはり、人的サービスは、どんな人にサービスを受けるかによって評価は大きく違うようである。 梨泰院(イテウォン) 前後するが、サウナで女性達との時間差が生じたために、課長と梨泰院の街を散策する事にしたことは前に記した。 ガイドブックによると、近くに大使館や米軍基地があり、インターナショナルタウンとして発展した街とあった。また、革製品のオーダーメイド店が多いとあった。梨泰院路というメインの道路を、サウナから出て右に歩いた。 上の観光地図でいうと、右手から左へ歩いた。 落ち着いた町並みで、洒落た店が並んでいた。米軍基地や大使館などがあり、外国人が多いせいか、なんとなく高級な店が多いように思った。 革製品の店が目に付いたが、調べると、東大門の光煕市場の方が、この梨泰院の革製品の仕立ての半額くらいで手に入るとあった。 裕福な個人向けの高級店と、海外のバイヤー相手にする性格の違いだろう。 途中ホテルがあり、課長が問わず語りに話してくれた。 「ここはハミルトンホテルです。このホテルは、初めて韓国の友達を訪ねてきた時、ここで待ち合わせをした所です。韓国は初めてだったので、この時は、友達が来るまでは不安でした」 課長は、アメリカ留学の経験がある、と帰ってから妻に聞いた。 すると、多分留学中に知り合った友人を訪ねて来たのだろう。 海外留学経験があると、やはり行動も視野も国際的になる。 この通りは韓国では国際的な雰囲気がある。歩いてゆくと、「ナイキ」や「アディダス」という馴染みの看板が目に付いた。さらに、「バーガーキング」もあった。 バスで梨泰院へ来る途中には、ベンツやレクサスの販売店があった。 やはりここは、南大門や東大門の市場とは違うと感じで、東京で言えば、青山や六本木の雰囲気であろうか。 調べてみると、この地域には高級ホテルのグランドハイアットもあり、大使館ではコロンビア大使館、ペルー大使館、アルゼンチン大使館、エクアドル大使館、チリ大使館など南米の大使館が多い。 韓国の急速な経済開発と、貿易基盤が広がったことで、アメリカ風のファーストフードのチェーン店や、世界各国の専門料理店が、ソウル市内にも増加している。相対的に、インターナショナルな街としての、梨泰院の物珍しさはなくなっているという。 ハミルトン・シャツ しかし、1980年代以後の梨泰院は、韓国を訪れる日本人や外国人観光客が、大半を占めてるようになった。 その魅力の一つが、外国人観光客向けの、高級革製品のオーダー仕立や、洋服、ワイシャツなどの仕立だという。 こうした変貌で梨泰院は、ソウルを訪れる旅行者にとって、仁寺洞やソウルタワーと共に、最も人気の場所の一つとなっている。 通りを歩いていると、「オーダーメイドのスーツはいかがですか」と声をかけられることが多いともいう。 課長とメインの梨泰院路の歩道を歩き、地下鉄の駅がある丁字路で、反対側の歩道に渡り、サウナに戻ることにした。 梨泰院路はここで終了し、別の名の道となっている。 すぐにワイシャツの仕立屋で有名な(その時は無論知らない)「ハミルトンシャツ」があった。 ここは五坪ほどの小さなシャツ専門店ながら、1974年に創業の伝統ある店との事であった。 我が一行が昼食のビビンバを食べた後、部長とKさんは、ツアーバスには乗らず、ワイシャツの注文仕立てへ向かったことは先に述べた。 韓国が初めてではない部長とKさんが向かったのは、この「ハミルトンシャツ」ではと、見当をつけ妻に確かめて貰ったら、果たせるかな、このハミルトンであった。 ワイシャツ専門店 改めて地図で位置関係が分かってくると、昼食の食道からなら十分歩ける距離にあった。 ここでは、ズボンも仕立てているが、開店以来「ワイシャツ専門」としてその名を広めてきたらしい。 田中部長は、以前にもここでワイシャツの注文をしたらしい。 ビジネスマンは、やはりワイシャツが重要なお洒落のポイントである。 ワイシャツは、既製品のサイズも多様化したとはいえ、注文仕立に勝るものはない。 注文仕立のワイシャツは、まず採寸のあと、8種類の生地色の中から、気に入ったものを決める。大体 2~3日以内に仕上がるようである。 価格もワイシャツの場合、100%綿で23,000ウォン位で、まことに手軽な価格であった。 ハミルトンという名は、外国人に覚え易いし、近くにハミルトンホテルがあるから、忘れても思い出し易いからだろう。このことから、外国の客が主体と察しが付く。 今回のお二人は、翌日帰国するから、EMS便で送ってもらったらしい。 スターバックス ハミルトンホテルの前を過ぎた辺りで、馴染みのスターバックス・コーヒーを見つけた。まだ多少の時間があるため、ここで一息いれることにした。 喫茶店と比較すると、オープンテラス方式で入りやすく、ファーストフードのような明るい店ながら、落ち着いて一息入れるのに都合がよい。 ここは、エスプレッソをメインとしているが、種類が多い。 カウンターでメニユーを見ながら、味が濃いのでドリップコーヒーが良いかと、少し迷っていると、課長が 「ツデーズ・コーヒーが良いですよ」 とアドバイスしてくれた。カウンターの若い女性に、指を二本立て 「ツデーズ・コーヒー、ツー」 と言うと、サイズを聞いてきた。また、まごついていると、後ろから課長が、 「 トール(Tall )」と注文してくれた。 この時は、トール(Tall )がMサイズ(354 ml)であることを知らなかった。 日本ではSサイズ(236 ml)もあるが、アメリカなどでは、「 ショート(Short )」と呼ぶチャイルドサイズで、メニュー表示にはないが、注文できるとあった。 ついでながら、Lサイズは「グランデ(Grande )」 (473 ml) と呼ばれる。さらに、LLサイズに相当する「ベンティ(Venti)」(591 ml) まである。やはり、アメリカ留学の経験があるから、アメリカの事情に詳しい。 テーブルに付くと、課長はガイドブックを開いて、今夜の食事場所の検討を始めた。今回の記念旅行の幹事だから、何かと気遣いで大変だと同情した。 隣の席を所在なく眺めると、スーツを着込んだ白人が二人並んで座っていた。一人はノートパソコンを操作していたが、次から次に画像入りの画面が変わるから、多分ネット検索をしているようであった。 ここは、さすがはインターナショナルな街の梨泰院だと実感した。 やがて待ち合わせ時間が迫ったため、二人とも飲みかけのコーヒーを持って歩き出した。歩き飲みが可能な容器入りだが、街を歩きながらコーヒーを飲むのは初めての経験となった。 異胎院物語 ところで龍山(ヨンサン)区にある「梨泰院(イテウォン)」の地名の語源は、「異胎院(イテウォン)」から転じた名である。 昔、この地で多く生まれた混血児たちのための施設「異胎院」に由来するという。 異胎とは、混血児をさす差別用語である。 秀吉が朝鮮半島へ侵攻した「文禄・慶長の役」のとき、秀吉軍は首都漢城を占拠し、この龍山地区に陣を構えて駐屯した。 この時、尼寺であった「雲種寺」を接収し、尼僧たちは、日本人によって辱めを受けたという。 秀吉軍の龍山地区侵略の図 秀吉軍が引き上げるとき、尼寺を焼き払たため、尼僧達は行き場を失い、さらにのちに混血児を産んだ。このため、地元の人々が、尼僧や混血児のために「異胎院」を作り、保護したという。この由来で、この地は「異胎院(イテウォン)」と呼ばれた。 この地で非業な死を遂げた尼僧達を弔うため、尼寺の跡地に梨の木を植えたという。高さ15mほどにも成長する梨の木が生い茂った頃から、異胎院という被差別地名から、梨泰院という優しい地名に転じたという。 よく調べてみると、十三世紀の高麗時代に、元王朝に軍事力で服従を強いられ、この龍山地区に、モンゴル兵が駐屯した。 兵隊と女は付きもので、この時代から混血児は多く残されたはずである。そうすると異胎院の歴史は、意外にもっと古いかも知れない。 明治時代の龍山地区 近年の1882年(明治15年)、壬午事変(じんごじへん)に、日本軍と共に介入した中国の清(しん)国軍が、また龍山地区に駐留した。 以後、龍山には常に外国軍が駐留することになる。 明治37年の日露戦争の際に、日本軍は龍山の土地およそ三百万坪を取り上げ、兵営を置いた。さらに日本統治時代、龍山基地は日本帝国陸軍の駐屯地として使われ、朝鮮軍司令部などが置かれた。 当然、清国軍や日本兵士が引き上げた後、多くの混血児が遺児として残されたであろう。 太平洋戦争敗戦に伴う日本軍の撤退後、米軍第7師団のおよそ一万5千人が、日本軍兵営を引き継いだ。 1949年に米軍は一時撤収したが、朝鮮戦争休戦後の1953年、再び米軍が駐留した。 現在は、在韓米軍司令部がある。 龍山が再び米軍基地となり、梨泰院はアメリカ軍人相手のみやげ物売店や飲食店、売春婦が多く、インターナショナルな街として繁栄している。 龍山の駐韓米軍と女性達 改めて龍山の駐韓米軍を調べてみたが、地図の何処にも記されていない。 韓国の地図では、軍事基地は一切表示しない機密事項とあった。 北朝鮮とは、現在も危機的状況が継続しているし、韓国市民の反米感情もあるから、当然かも知れない。 ともかく、龍山地区は、なんとも軍に縁の深い土地であるといえる。 なぜ外国の軍隊が、龍山地区に入れ替わりこの地域に駐屯するか、その要因を調べた。 龍山という地名から、当然山があったと思っていたら、この地はもともと平坦な土地で穀倉地帯であったという。 ソウル中心部の漢江と龍山地区 さらに、南には漢江がながれ、しかもこの河の水深が深く、大きな船が航行できる。 こうした平坦な土地があり、首都の市街にもちかく、軍事物資を輸送するのに都合の良い水運が得られるという条件が重なっていたから、軍隊の駐屯地としては最高の条件が揃っていたことになる。 蔘鶏湯(サムゲタン) 旅行幹事の課長が夕食に、明洞にある有名な「百済蔘鶏湯」へ案内してくれた。 この店は、たぶん梨泰院のスターバックスでコーヒーを飲みつつ探した店ではないかと推測している。 百済参鶏湯 参鶏湯は、韓国の代表的なスープ料理のひとつである。 若鶏の腹から内臓を出してきれいにし、そこに高麗人参と洗ったもち米、さらに干しナツメ、栗、松の実、ニンニクなを詰めた後、水に入れて2~3時間じっくり煮んだ料理である。 調理時に味付けはほとんど行なわず、食卓で塩・コショウ、キムチなどで味を整えて食べる。 生後50日目のヒナ鶏の丸鶏を水炊きし、塩などで食べる料理ペクスク(白熟)と、もち米で作る粥がひとつになった、タックク(鶏肉のスープ)が、サムゲタンの原型とされる。 やがて、粉末で入れていた高麗人参が、丸のままとなり、鶏蔘湯(ケサムタン)と呼ばれていたが、人参の効能を強調するために蔘鶏湯(サムゲタン)とされた。 このスープ料理を食べるのは初めてで、一度は食べてみたいと思っていたものである。 よく煮込んでいるため、スプーン一つで簡単に骨がはずれ、また軟骨や小骨まで食べることができる。 熱いスープ料理であるが、実は夏の料理として知られ、専門店も多い。 ちょうど日本の土用の丑(うし)の日に、ウナギを食べるように三伏(さんぷく)(最も暑い時期)の日に食べると健康によいとされる。 このため夏の間だけ提供する食堂が多いが、専門店では一年中食べることができる。 参鶏湯を食べていると、幹事の追加で、トンダツのような、ローストチキンの脚の部分が回ってきた。 食べてみると、外はパリパリながら、中は柔らかくて美味しかった。やはり、トンダツの一部であったかと、今推測している。 調べてみると「百済蔘鶏湯」という蔘鶏湯を食べさせる同じ名の店が、なんと新宿区の歌舞伎町にもある。 しかし、今食べている蔘鶏湯は、ソウルの明洞2街のビルにある、40年以上も変らぬ味を守り続けている「百済蔘鶏湯」である。 広い食堂がほぼ満席で、隣の席から大阪弁が聞こえるほど日本人に人気の店である。どこに行っても、ソウルには日本人の観光客が溢れている。 明洞(ミョンドン) 百済蔘鶏湯で満腹となり、明洞の夜を少し歩き、希望者が多かったので、ソウルタワーへ向かうことになった。 夜の明洞の人出の多さには驚いた。 まるで、土曜日の夜に道頓堀を歩いている感じであった。 しかし、今日は月曜日なのである。 ともかく、その人混みを掻き分けるように課長は歩き始めた。 旅行幹事のご本人は、早くホテルに帰ってリラックスしたいのであろうが、海外旅行が珍しい一行を引率しているから、役目柄歩かざるを得なかった。 ところが、歩き始めたら、化粧品の店があった。 看板には、「IKKOさん絶賛」とあった。我が一行の女性達は、吸い寄せられるようにその店に入っていった。 全く知識がなかったので「IKKO」を調べてみたら、日本のメイクアップアーティスト・ヘアメイクアップアーティスト、タレントとあった。 初エッセイ『超オンナ磨き~美のカリスマIKKOの幸せを呼ぶゴールデンルール』を出版している。 本名は豊田 一幸で、「IKKO」は名前の音読みに由来する、とあった。 さらに検索をしていると、 「IKKOさん絶賛!BBクリーム、 韓国の女優・モデルも愛用!」とあった。 我が一行の女性達 のお目当ては、この「BBクリーム」であったと、帰ってから妻に聞いた。 この店では、どうやらすでに売り切れであったとか。 気ままな我が一行を、課長は怒りもせず待って、再び混雑している明洞の夜の街を、人波を掻き分けるようにして進んだ。 ようやく人混みがとぎれ、地図で確かめながら地下道を潜って、ソウルターへのアプローチの道を探しだしてくれた。 ソウルタワー 地下道を抜けると街灯の少ない道があり、やがて課長は「南山ケーブルカー」の標識を発見した。 細い急な昇り坂を上り始め、ふと上をの方を見ると、課長の前をなんとHさんが先頭で昇っていた。 我が一行では、最高齢者なのである。 そのHさんが最後まで先頭で昇って行かれたのである。 やはり、毎週土日は、社交ダンスに通っていとのる話しで、その成果なのだろうか。 息を切らしながら、ようやくケーブルカーの乗車駅に辿りついた。 すでに、夜の九時を回っていたが、大勢の客で混雑しているケーブルカーに乗り込んだ。 Nソウルタワーは、龍山区の南山公園内の頂上付近にある塔である。 ニュース専門テレビ局のYNTが所有し、正式名称は「YTNソウルタワー」ながら、通常は「Nソウルタワー」と称されている。 タワーの高さは236.7mながら、標高265の南山の頂上にあるため、海抜約500mの高さから、ソウル市内を360度を望できる。 もともとテレビやラジオ送信などを目的とした総合電波塔として建設されたが、展望台から市内を一望できるため、観光地としても人気がある。 我が一行が訪れたのは、夜景を楽しむ為であったが、残念ながら天候わるく、霧が掛かっていて、かすかにしか眺望が利かなかった。 また、写真も何枚か撮影したが、なまじ夜景モード設定にし、しかも三脚も持たずに撮影したから、すべて手ぶれで使い物にならない。仕方がないので、帰ってからネットで見つけた写真を掲載する次第である。ちなみに上の写真は、望遠撮影のまさに明洞を見下ろした夜景である。ロッテホテルも確認できる。 左は行かなった漢江の南方側の眺望。高層ビルが林立している アクシデント3 タワーからソウルの夜景を楽しみ、早々にソウルタワーを降り、またケーブルカーで登山口駅まで降りた。 ここにはタクシーが待機していた。 ここで、また明洞経由で歩く元気組と、タクシーで一足先にホテルへ帰る組に分かれることになった。 課長がタクシーに行き先を告げ、Hさん以下はタクシーに乗り込んだ。課長は、律儀にも元気組に同行してくれた。 帰りの坂道は楽で、また地下道を抜けて 明洞の賑わいの中に紛れ込んだ。 案内役の課長は、ホテルの位置が確認できる所まで案内してくれ、そこで散会しと、各自適当に散策してホテルへ戻ることになった。少し冒険をしたくなり、妻と二人で歩き、歩道にまだ店開きしている屋台を見学しつつ、ベルト専門の屋台で、ジーパン用の革ベルトを買い求めた。 バッグ専門の屋台がかなりあり、ふと足をとめて「ルイビトン」そっくりの財布などを冷やかそうと考えた。 しかし、生真面目な妻は、袖を引いて立ち止まるのを防止した。 適当に歩いて、ホテル方向へ左折すると、前日にも立ち寄ったセブンイレブンがあった。そこに、H氏さんが一人立っておられたのを発見した。タクシー組の女性達が、飲み物などの買い物をしているとの事であった。 事情を聞くと、タクシーに乗った後、大渋滞に巻き込まれて、なかなか進まなかったという。 たまたま、市民デモがあり、それを取り締まる戦闘警察隊が、デモ隊を包囲し、交通規制をした。このため、車が渋滞し、大変な時間を要したとの話しであった。 悪いことに、タクシーは距離・時間併用のメーターだったため、 「車は進まないのに、メーター料金ばかりはどんどん上がりました」 と、ぼやいておられた。なんでも、5千円ほどはかかったとの話である。 午後九時頃から「ミョンバク(大統領)退陣」等のシュプレヒコールをあげながら、ソウル駅から南大門方面で連座デモをしていたらしい。 韓国の市民は、日本では考えられないような大規模市民デモを実行している。 経済に強いといわれた「朴明博(イ・ミョンバク)」大統領の下で、昨年のアメリカ発の金融恐慌が波及し、経済基盤の弱い韓国経済は大打撃を受けている。 もともと、激情家の多い国民性から、デモが頻繁に行われている。大規模な市民集会だから、大体夜の九時ころから、ソウル市駅前辺りで集合するらしい。勢い余って観光客の多い明洞辺りへ流れ込まないよう、戦闘警察隊が戦闘服を着、放水銃を構えて防止するという。 日本人は、ウォン安のメリットで明洞の夜を楽しんでいたが、デモ隊のことは知らないでいた。これは、戦闘警察隊のお陰ということになる。 朝の明洞 朝食を摂(と)るため、ホテルから出た。 せっかくだから、二人で朝食の店を探す冒険に出たのである。 今回の旅は、幹事の課長や部長などのエスコートが徹底していたので、何の不自由もなかった。 だからこそ、言葉が通じにくい店で食事をしてみたいと思った。 朝の明洞は閑散として、夜の喧噪(けんそう)が嘘のように静かで、地下鉄の駅へ急ぐサラリーマンの姿が見られるだけであった。 街のワンブロックを廻ってみたが、粥の店が一件見つかったが、地下で入口が狭いので止め、また大通りの南大門路に戻り、南下すると明洞ギルという道幅の広い通りに出た。 夜には様々な屋台が並んでいて混雑していた通りながら、朝はひっそりとしている。この通りにスターバックスを見つけ、コーヒーとサンドイッチの簡単な朝食とした。 ここから少し歩くと、明洞中央路が南下していた。この道を南に下ると、意外にすぐに明洞地下鉄駅があり、右手にミリオレのビルが見えた。 無論まだ開店前で、ここから引き返し、明洞中央路と平行している路地を歩いた。 この路地こそ、夕べ「百済蔘鶏湯(サムゲタン)」で食事したあと、明洞地下鉄駅を目指して、人混みを掻き分けて歩いた路地であることが理解できた。 夜と朝の違いはどうであろう。まだ多くの店は深い眠りに就いていた。 ロッテ百貨店の前まで戻ってきたら、社長ご夫妻と出会った。 社長は、いつものように奥様をエスコートされながら、近所を散歩しておられた。こうして僅かばかり探索で時間を潰して、ロッテ免税店へと向かった。 免税制度 海外旅行の最大のメリットは、免税店での買い物である。特に、いつも愛飲しているタバコや酒が、なんと無税で買う事ができる。 無論有名ブランド品も免税扱いだから嬉しい。しかし、その免税の理由や仕組みを調べた事がなかったため、改めて調べてみた。 免税制度の理由は、どの国であれ、その国の店頭で標示される価格には、その国の税法で定められた付加価値税((VAT))、物品サービス税(GST)、日本では消費税のような税金が含まれている。 さらに、酒税、たばこ税、輸入品に対する関税などの税があり、国によって税率がかなり異なる。 たとえば付加価値税は、イギリスでは17・5%、スウェーデンでは25%、イタリアでは20%であり、日本では5%にしか過ぎない。 しかし本来、この付加価値税は、その国の居住者が払うべき税金である。その国で生活する人は、その国の税の恩恵に浴するからである。 このため、海外からの旅行者は、その国の税で賄われている諸制度の恩恵には与(あず)からない。この不公平を修正するために、各国に免税制度がある。 この制度は、一定額の範囲内ならば、付加価値税・関税が免除さる制度である。一定の範囲を超えると、勿論税金がかかってくる。 免税制度は、購入した国に持ち込まないことを前提に税金が免除されているのである。だから、再入国(帰国)時には、免税範囲を超える商品には課税される。 ただ、この免税制度は、やはり国によって、グローバル・リファンド(税金還付)の返金額が異なる。スウェーデンでは25%の税に対し、物品により異なるが8.33~18.0%の税金還付率である。イタリアでは20%の税率に対し、12.12~14.5%の税金還付率である。 要は、国によっては、完全な免税ではない事を改めて知った次第である。 海外旅行での免税(Tax Free)ショッピングは、 ①免税店(Duty Free Shop)、 ②機内販売、 ③グローバル・リファンド加盟店の三つに大別できる。 「TAX FREE SHOPPING」の加盟店では、付加価値税込みの価格で支払って、品物をその場で渡されるから、出国の際に払戻しを受ける免税手続がいる。ただし、一定以上の金額を購入した場合に限られる。 この「TAX FREE SHOPPING」加盟店は、世界三十七ヶ国の主な都市にあるが、アメリカにはこの制度がないという。 ロッテ免税店 ロッテ免税店は、ロッテホテルに隣接するロッテ百貨店内に本店があり、ホテルロビー店、ロッテワールド店があり、仁川空港にも展開している。 ロッテ免税店は、日本人好みの商品や流行の商品を選別し、本店では約400種類以上の豊富なブランド数がそろっているという。さらに国産品のキムチ、高麗人参、海苔、韓国茶等の食品の他、民芸品、陶磁器、革製品なども展開していた。 有り難いことに、ロッテ免税店では、ほぼ全店員が日本語を話せるという。 開店を待ちかねて店内に入ると、たちまち観光客で溢れた。 ブランド品コーナーを、一巡しPRADAのコーナーに入ると課長と社長ご夫妻とまた出会った。 いつもお二人が寄り添うように歩いておられ、社長の優しさがにじみ出ていた。 伊達(だて)に服装がダンディーだけではない、本当の紳士だと感心させられた。 また偶然、ティファニーのコーナーでのKさんと出会った。何やら宝飾品を買い求めていたが、 「お買い物ですね」 「今年で結婚十周年なものですから」 と照れながら、話してくれた。 国産品売り場で買い残しの土産品を物色していたら、また課長と出会い、お土産品の検討をされていた。他にも、今回の記念旅行の人々と何人にも出会った。 やがて娘から依頼されている財布で気に入ったものがなく、ロッテ百貨店を覗くことにした。 ロッテ百貨店は、百貨店の最大手で、韓国内だけでも22店舗を擁するという、流通業のトップである。 店内は、日本の百貨店と同じ雰囲気ながら、各フロアーをエスカレーターでチェックすると、目指す革製品や装飾品などの売り場がなんと地下にあった。 ここでは免税店とは違い、日本語が十分には通じず、リファンドの手続きの場所を探すのに苦労させられた。 ロッテ物語 韓国には「ロッテ」の名前のついた社名が数多い。 特にロッテ百貨店・ロッテホテル、テーマパークであるロッテワールドなどを中核としたサービス業を中心に、事業分野は非常に多岐にわたり、「ロッテ財閥」を形成するまでになっている。 ロッテ(LOTTE)は、日本でも有名な企業ながら、韓国のロッテ財閥との関係がよく理解していなかったため、改めて調べてみた。 日本人には、「お口の恋人・ロッテ」のキャッチコピーが有名で、ガム・チョコレートなどの菓子メーカーのイメージが強い。さらにプロ野球の千葉ロッテマリーンズでも有名である。 この「ロッテ」の社名は、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』のヒロイン「シャルル・ロッテ」に由来するという。 「青年ゲーテを虜(とりこ)にしたシャルル・ロッテのように、誰からも愛される会社になれるように、との願いが込められています」とある。 今年で61年目を迎えているロッテの歴史をたどると、ロッテ(LOTTE)は、昭和23年に創業している。 韓国慶尚南道蔚山(ウルサン)出身の、在日韓国人辛格浩(シン・キヨクホ)(重光 武雄)が、東京都杉並区荻窪で「ひかり特殊化学研究所」を設立し、石鹸、ポマードなどの製造販売に乗り出したのを手始めに、1947年 チューインガムの製造を開始し、翌年株式会社ロッテ設立したことに始まる。 当時は、社長自らリヤカーにガムを積んで、移動販売をしたという伝説がある。 そんな中、スペアミントガムと、それに続いて発売したグリーンガムが、現在まで続く大ヒット商品となる。こうして「お口の恋人・ロッテ」のキャッチフレーズのテレビ宣伝で、一躍菓子ーカーとしての基盤を築いた。 ロッテは、積極的な経営方針で菓子メーカーとして大成功を収め、その資金を元手に、1965年の日韓国交正常化を期に、母国の韓国に進出し、韓国ロッテグループを、日本以上の巨大企業グループにまで成長させた。 プロ野球チームとしても、韓国ではロッテジャイアンツ、日本では千葉ロッテマリーンズを所有しているが、現在でも非上場企業なのである。 日本法人 持株会社ロッテホールディングス 日本法人株式会社ロッテは、持株会社ロッテホールディングスとなり、持株会社に移行している。 菓子メーカーとしての現在の株式会社ロッテは、その際に分離・新設され、持株会社の傘下となっている。 在日韓国人の一世である重光武雄は、韓国国内でもロッテグループの会長辛格浩(シン・キヨクホ)として知られている。 ロッテでは、そうした経緯から、日本と韓国の関わりも深く、近年の日本向けCMのキャストは、韓流スターを中心に起用し、ロッテの韓国内のリゾートを、日本国内の商品のキャンペーンの景品として利用している。 そのほかにもNi-KOREA(ニッコリア)という韓国総合観光情報サイトのプロデュースも行っている。 これらは、日本人観光客を受け入れやすくするためのものでもある。 日本では想像が付かないほどの、巨大財閥となった韓国ロッテは、もはや日本のロッテと切り離して考えるのが妥当であるとの見方もあるが、ロッテホールディングスは、韓国のグループ企業も統括している。 実質的には多くの日本企業や、韓国のサムスン(三星)やLG(ラッキーグループ)などのように、多国籍企業となっているのである。 ロッテワールド(テーマパーク) 韓国内の主な企業を列記すると、ロッテ百貨店、ロッテホテル、ロッテ製菓(韓国)、ロッテ電子、ロッテショッピング、ロッテ建設 、ロッテ七星飲料(ペプシ社と提携)、キヤノンコリアビジネスソリューションズ(キヤノンと合弁、ロッテワールド(テーマパーク)、大弘企画(広告代理店)、國際新聞(釜山地域紙)、コリアセブン(セブン-イレブン韓国法人) 、韓国富士フイルム、ロッテ・ジャイアンツ(韓国釜山のプロ野球チーム)、ロッテ・ジェイティービー(旅行代理店。ジェイティービーとの合弁)など、錚々(そうそう)たる企業を傘下に持ち、さらに日本企業との合弁企業も多い。 偶然見つけた「朝鮮日報」によると、今年に入って、ロッテグループの辛格浩(シン・ギョクホ)会長が、経営難に陥っている、系列会社3社に、950億ウォン相当の個人資産を投入した、との記事を掲載している。 ロッテグループの李暢遠(イ・チャンウォン)政策本部理事は、「私財を出してでも、欠損法人の経営正常化を進めたい」という辛会長の意向により贈与されたと説明した。 世界的な金融危機が始まって以来、大企業のオーナーが、私財を提供して系列会社を支援するのは初めてのケースだという。 これだけの財閥の会長ながら、何の予告もなしに突然、グループの傘下企業に姿を現すという。このため、社員の緊張感が継続しているともいう。 ハングル (한글、hangeul)、 韓国に来て一番困るのが、殆どの看板がハングル表記である事だ。 漢字や英語表記ならば、多少なりとも意味が通じる。しかし、ハングルはどう見ても記号のようにしか見えない。 ハングル(hangeul)は、韓の文字、すなわち大いなる文字の意があり、朝鮮語(韓国語)を表記するための表音文字である。 ハングルの起源は、その構成法から、ウイグル文字に影響を受けた契丹(きつたん)文字の系列とも言われている。 「ハングルは、世界中のあらゆる言語を、正確に表記できる文字体系である」と、ハングルを民族の誇りとしている。 ハングルの文字体系の優秀性は、音声学的にも合理性的に作られた表音文字体系で、他の文字体系よりも表記できる音の数が多いという。 しかも、表音文字の形が、調音器官の象形であるともいわれている。 ハングルの文字体系は、ひとつとつの文字が、音節を表す文字体系の「子音」と「母音」を規則的に組み合わせて文字を構成している。 「子音」+「母音」の単純な組み合わせだけでも、十の基本母音と、合成母音(二重母音)十一があり、合計二十一の母音がある。子音は十九もある。 これらの組み合わせだけでも三百九十九音もある。 さらに、「子音」+「母音」+「子音」の三音を組み合わせた字母の総数が、四十個である。 これら字母を組み合わせて作られる、文字の理論上の組み合わせは、11,172文字となる。もっとも、実際に使用されているのは、その半分以下というが。 現代日本語の母音は、ア・イ・ウ・エ・オの五つしかない。 しかし、日本語の音韻は、「っ」「ん」を除いて、母音で終わる開音節言語の性格が強い。 子音は、「か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ行」の子音、濁音「が・ざ・だ・ば行」の子音、半濁音「ぱ行」の子音である。都合七十の子音、濁音を持っているに過ぎない。また、日本人は子音単独の発音ができない。 子音で終わる場合、最後の子音をパッチムと呼ぶが、特に日本の関西系の方言では殆ど使用されない。関東圏の方言では、かなり子音で終わる場合があり、歯切れがよいと言われる。 ともかく、実際の発声音をべつにすれば、日本の表音文字である「仮名」表記では、母音と子音合計で、75文字しかない。単純な素人の比較ながら、改めてハングルの表音文字の威力を思い知らせれる思いがある。 たとえば、仮名表現が難しいロシア人名や、ドイツ人名の表記でも、ハングルならば、かなり正確な音で表記できるらしい。 逆に日本人は、韓国人の名を仮名表記するのに、不正確な表記しかできない。李明博大統領の名でも LEE Myung-bakを「イ・ミョンバク」としか表記できず、現地の音とはにても似つかない音となってしまう。 朝鮮半島は漢民族との接触が多く、漢民族以外のモンゴル系の元帝国、満州人の清帝国も含めて、代々の中国王朝に臣下の礼をつくしてきた。 このため、日本語にはない漢民族の音や、周辺の北方民族の音を正確に聞き取る能力が高くなった。特に複雑な中国音を正確に表現できるように、ハングルは音声学的に合理性を持っているという。 朝鮮語は15世紀半ばまでは、それを表記する固有の文字を持たず、庶民が他人に物事を伝えるには、口で直接言い伝える口訣(くけつ)がしかなかった。 当時の支配者層の両班(やんぱん)の公的な書記手段は漢文であり、下級官吏の書記手段は吏読であった。 吏読(りどく)とは、万葉仮名のように朝鮮音を漢字を借りた表記法で、断片的・暗示的にしか表現できなかった。 このような状況下で、1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音(くんみんせいおん)」(Hunmin Jeong-eum)の名で公布したのが、朝鮮文字のハングルである。 保守派から猛烈な反発を受けたが、これを押し切って学者らに命じ、朝鮮独自の文字であるハングルを創った。 略して「正音」とも呼ばれ、「民を訓(おし)える正しい音」の意である。 当初は、主に民衆の書記手段として用いられたが、国家的な出版事業にハングルが使用され、普及するようになった。 ソウル市庁舎 ロッテホテルの斜め向かいのブロックにある、ソウル広場にソウル市庁舎がある。 1926年に建築後、約80年間にわたり市中心部のランドマークとして存在し続けてきた。 本館とその裏にある太平ホールは、当時としては珍しいルネッサンス様式で建てられた歴史ある建物である。 その由緒ある市庁舎が、大きな騒動の渦中に巻き込まれている。発端は、現ソウル市が推進する庁舎の再建築計画であった。 2008年、老朽化の進んだ市庁舎の一部分を解体し、復元しようとした。 数年前の安全診断で「危険」の判定を受けていたからである。このため、現市長は「市民の安全を第一」とし、本館一部の撤去工事をかなり進めていた。ところが、国の文化財庁が、 「歴史的・文化的価値から解体は絶対禁止」 現状保存せよという指示を出した。 元々市庁舎の建物は、韓国の登録文化財に指定されていたのである。 この文化財庁の指示に対して、市民を巻き込んで様々な意見が噴出し、ひと騒動となった。 「ソウル市庁舎は、独立運動の象徴的な場所に、朝鮮総督府の指揮の下、日本人が設計および工事を監督した。自然的に形成された国家、民族、世界的遺産という、文化財の定義に合っていない。文化財指定を取り消して撤去するべきだ」 とし 「文化財の定義に合う要素がなければ、撤去反対論者らが理由として挙げている歴史、芸術、学術、景観的価値があっても、文化財にはならない」 と指摘した。市庁舎の解体・撤去工事は、現市長が陣頭指揮した経緯もあり、さらに問題は広がる様相を呈している。 市民を巻き込んだ、ソウル市庁VS文化財庁という形で広がっている。北棟は1962年に建てられ、新しい建物は1986年に建てられたが、どちらも2006年に新市庁舎建設のために取り壊されている。 本館の方は、ソウル市庁側と文化財庁との対立で、現在も中断されたままである。 2012年に完成したソウル新市庁舎 新市庁舎の建築費は3000億ウォン(当時で約210億円)。 旧市庁舎(写真左)は撤去の声もあがったが、「痛ましい歴史を残す必要がある」と保存が決定。 過剰装備 楽しかった記念旅行も、あっと言う間に終わり帰途に就いた。 いつかは夫婦で海外旅行をと考えていたから、今回の記念旅行へ参加したことでそれが実現し、しかも費用は一人分で済む。こうして、ただ一人の社員の家族という形で参加させて頂いた。 旅行前には、ソウルは寒いという先入観があったため、十分な防寒装備もしてきたが、三日間とも天候は穏やかで、身震いするような寒気に出会うことは無かった。 三十年ほど前に、はじめてソウルへ来た時は、漢江が凍っていて、市民が漢江でスケートをしていた。外へ出ると、寒いというより、鼻先や耳たぶが痛いという感覚を今でも覚えている。 今回の旅行は、極寒のはずの2月のソウルへ行く、そういう緊張感があった。 このため、防寒着や雨具の他、靴に入れる使い捨てカイロまで準備した。 さらに用心のため、下痢止薬、風邪薬、解熱剤、鎮痛剤、ビタミン剤、マスク、バンドエイドなど、考えられる応急措置を準備した。 観光用の地図、ガイドブック、簡単な韓国語会話の本、空港でレンタルした海外用の携帯電話、万一に備えた日本大使館の電話番号メモなども準備した。 さらに、円とドルとウォンのレート換算表、ひとり一台の電卓と、筆談するためのメモ帖なども揃えた。 「凍てつく」「言葉が通じない」という前提で、種々準備した次第である。 しかし、これらの装備は殆ど使用する機会が無く、有り難いことにいわば過剰装備となった。旅行幹事の課長や、部長たちのエスコートと気配りによって、何の不自由もない楽しい旅行を満喫できたのである。 それに、絶好の円高の時期に海外旅行できて幸いであった。 pageTOP ■My Fhoto WorldTOP ■Top Pageへ 日本紀行TOP |
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