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鎌倉時代と仏教

国宝 京都・神護 寺頼朝像
1192年(建久3年)、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて、全国に守護職を置き、本格的な武家政権が始じまってから、北条氏滅亡までの凡そ百五十年間を鎌倉時代という。
鎌倉幕府の成立により、貴族の摂関政治による律令政治から、武家政治へと政治上の大変動によって、社会百般の事物は転換期を迎えた。
ただ、京の朝廷と、地方の荘園・公領はそのままで、地方支配は、「地頭」などを通じて、幕府が行政に関与するという、二元的支配構造ができあがった。
地頭職は、当初は勅許を得て置いた幕府の職で、鎌倉御家人が任命され、荘園・公領内の警察権と刑事裁判権をもっていた。
のち地頭は、その行政権によって次第にその力を地方で拡大し、実力で在地領主として成長し、公家の荘園は次第に消滅して行く。
こうした事から、古代の朝廷政治の時代から、幕府政治の中世への転換期にあたるのが鎌倉時代といえる。

平治の乱の図
各地で飢饉が発生するなかで、源平合戦という戦乱が起き、栄華を誇った平家は滅亡し、鎌倉に武家政権が誕生した。
この飢饉と戦乱と、武家政権の誕生という大変動期に、民衆の不安は増大し、末法思想がはびこった。人びとは相次ぐ戦乱と飢饉で、末法の世の到来を実感し、救いを新しい仏教に求めた。
こうした世相を反映して、京の後白河法皇は、戦乱で焼失した東大寺の再興を図るため、造寺費用の勧(かん)進(じん)職(しよく)に、僧重源(ちようげん)を任命した。
長講堂の後白河法皇坐像(重要文化財)
源頼朝も、米1万石、砂金1千両などを送って重源の勧進にこたえた。
一方で、12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの支持を得て、新しい宗派である浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗の宗祖が活躍した。
鎌倉時代に入って、「法(ほう)然(ねん)」を開祖とする浄土宗は、末法思想に立脚し、末法濁世の衆生は、阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとし、称(しよう)名(みよう)念(ねん)仏(ぶつ)による救済を広めた。

親鸞聖人 熊皮の御影
一方で浄土真宗の開祖の「親鸞」は、師の法然の末法観を受け継ぎつつも、正法・像法・末法といった時代を超えて、受け継がれてきた念仏の普遍性を強調した。また同時期、「日蓮」も末法思想を真剣に受け止め、末法であるからこそ、信じて行うべき法を求め、法華経こそが正しい教えであるとし(法華一乗)、南無妙法蓮華経と唱えることを広めた。
こうした変革期に、宗教の革新は、社会変革の先駆的役割を果たした。
新仏教6宗は、教説も成立事情も異なるが、「旧仏教」のような厳しい戒律や学問、寄進を必要とせず(禅宗は戒律を重視)、ただ信仰によって在家のままで、浄土へ行くことができると説いた。
従来の出家中心主義の仏教から在家中心、あるいは広く一般大衆を視野に入れた仏教が主流となる。そしてそれに従って「衆(しゆ)生(じよう)済(さい)度(ど)」も広範な領域で具体的な形態をとりはじめた。
信仰と実践を重んじる、新仏教が相次いで生まれ、武士や庶民に急速に浸透していったものの、社会的勢力としては、南都六宗や天台宗・真言宗などの勢力(旧仏教)が、依然として大きな力を保っていた。
しかし、鎌倉の新仏教の活発な活動に刺激をうけて、旧勢力も現状の反省と革新への気運が盛り上がってきた。

木造栄西禅師坐像 鎌倉時代
鎌倉期は、また禅宗の勃興と隆盛の時代であり、臨済禅の流れは南宋に渡った栄西禅師が、日本に請来したことから始まっている。
曹洞禅も、道元禅師が南宋に渡り、南宋で印可を得て日本に帰国することから始まったとされている。
鎌倉時代以後、禅宗は、武士や庶民などを中心に広く受け入れられ、各地に禅宗寺院が建立されるようになった。
また、五山文学(鎌倉および京都の五山の禅僧の漢詩文。
広義には同時代の禅林文学を総称)や、水墨画のように、禅僧による文化芸術活動が盛んに行われた。 こうした背景で、鎌倉期の経済、技術、医療の「宋医方」などは南宋からもたらされた。
鎌倉幕府の庇護もあり、巨大化したのが中世の禅宗寺院・仏教教団であった。
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仏教と学問と医学
仏教は、魂の救済を説く教えである。
仏教では現世のあり方を、「苦」と捉えている。それは四苦八苦という定型句で表現されている。
四苦とは、生老病死、つまり「生」まれ、「老」い、「病」んで、やがて「死」んでいくことの苦しみを言う。この避けることの出来ない、四つの苦しみは、すべて肉体に由来する。更にその上に「愛(あい)別(べつ)離(り)苦(く)」(愛しいものと別れる苦しみ)、「怨(おん)憎(ぞう)会(え)苦(く)」(憎いものと出会う苦しみ)、「求不得苦(ぐふとくく)」(求めて得られぬ苦しみ)、そして「五蘊盛苦(ごうんじようく)」(生きて心身の活動をしているだけで、苦しみが次から次へと湧き上がってくること)を加えて八苦としている。つまり仏教の教えには、肉体、そして生存そのものが、苦しみの直接の原因であると考える。

つまり仏教は、この苦渋に満ちた、この世の現実からの「解(げ)脱(だつ)」を説く教えである。現実に苦しむ人々を救うための、実利的な教えであるともいえる。
もともと学問は宗教ともに、その社会的な広がりと、現実の具体的な問題への対処という実践理論である。 さまざまな学問を、仏教では、その宗教的理想の実現のための補助として位置づけ、全体を五つに分類している。
これを五(ご)明(みよう)という。インドの伝統的な学問の分類法である。
仏教においては、仏教内における「内(ない)の五明」と、世俗一般の「外(げ)の五明」とが区別されている。「内の五明」は、声明(しようみよう)(文法学、音楽)、工巧明(くぎようみよう)(建築、工芸)、医方明(医学、薬学)、因(いん)明(みよう)(論理学)、そして内(うち)明(みよう)(自らの奉じる宗教学)である。
「外の五明」は、因明、内明の代わりに、呪術明(じゆじゆつみよう)(呪術)、符印明(ふいんみよう)(呪符・呪印)の二つが入る。
大寺院では、こうした学部や付属施設が、本堂を中心に配置されていた。寺院は、いわば現在の総合大学の機能を持っていたのである。
仏教とは、つまり総合的な学問体系の上に立つ、文化の総称であったと言える。とりわけ日本では、仏教伝来の経緯から、特に文化面が重視され、この時代の寺院は、国家統合の象徴であった。時代が下っても、各地域毎の文化センターの役割を担い続けたのである。

かくして、現世での最大の苦痛、病いや死の苦しみといった、命の根底に関わる問題に対し、これらを克服するための、直接的な医療を展開することになった。
医療に関しては、古来から今なお、占いや呪いと祈祷、そして得体の知れない民間療法が行われてきた。
しかも、こうした呪術と宗教と占術の混った医療は、遥かな昔から、全世界で行われてきた。
日本でいう東洋医学は、中国を発祥とした医学であり、仏教の経典と僧侶に伴われて、日本や朝鮮半島に伝わっている。
中国では伝統医学という呼称を使っている。日本の東洋医学は、まさに仏教と二人三脚で伝来し、経験の積み重ねで、日本で独自の発達をしてきた。

中国には陰陽五行説に基づく、いわゆる漢方の世界観と施薬法、治療法がある。陰陽五行説にもとづく東洋医学では、人間を大きな自然の調和の中で捉え、さまざまな疾病を、その均衡の破綻と見なしている。
このため、基本はまず全身を診て、バランス状態を把握し、どこの調和が乱れているかを探し、そこが患部であると認識し、治療方針を決める。しかし治療の基本は、自然治癒力を高めることに心血を注ぐ。
患部を除去しようとする西洋医学とは異なり、人間が自然から備わった治癒力を向上させ、無理なく患部の治療を行うことを目標としている。
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鎌倉時代の医療
「釈迦如来の」の異称に「大医王(いおう)」(大(たい)医(い)ー名医とも)がある。
仏は、心の苦を救う名医、という事から名付けられている。
病は気からというが、心の調和が取れていて健(すこや)かであれば、身体も従って健康となる。
鎌倉時代の医学は、武家政権の誕生という政治上と、従来の出家中心主義の仏教から、在家中心の衆(しゆ)生(じよう)済(さい)度(ど)という宗教上の革新によって、医学もその内容を革新して、実質的な進歩が著しくなった時代である。

衆生済度(さいど)を祈願した千体の阿弥陀仏
衆生(しゆじよう)済度(さいど)とは、仏・菩薩が衆生を、迷いの苦海から救済し、彼岸に渡すこと。人々を救って、悟りを得させることをいう。
大きな変化は、律令制の崩壊とともに、医療の主軸が官制医療から、民間医療に移った事である。そしてそれを担ったのが、仏教の僧侶であり医師でもある僧医であった。
しかし京には大学があり、地方には国学(国毎に設けた学校)があって、医学の権限も鍼医博士、典薬頭といわれる人々の勢力も、あまり衰えなかった。こうした中で、和気・丹波の両氏は、医道の名家として朝廷の要職についていた。
鎌倉時代でも、最新医学・医術は、大陸から渡来するという事情に変化はなかった。国家的な遣唐使の廃止以後は、最新の医療技術(宋の医学・医術)を、持ち帰ってきたのは禅宗系の僧侶であった。
宋代では医療制度が確立され、公立医療機関および民間医療機関も数多く設立され、さらに医療学校が設けられた。
こうして医師も、知識と技術の向上を求められ、医療教育が発展することになった。
また宋代では印刷術の発達と共に、『太平聖恵方』・『聖済総録』・『和剤局方』など、医書も多く刊行されて、医療技術の発展を促した。

人体解剖図
その中で、中国史上初の「人体解剖図」が完成している。
慶暦(1041年-1048年)年間に、反乱を起こし処刑された欧希範を、呉簡(医者)が解剖し、それを宋景(絵師)が画いたのが『欧希範五臓図』である。
現存はしないが、日本の梶原性全(しようぜん)が著した『頓医抄(とんいしよう)』はこれを参考にしたという。もう一つが崇寧年間(1102年-1106年)に、楊介が罪人を解剖して描いた『存真図』がある。こちらも現存しないが、一部が元代の『玄門脈内照図』に写され、現在まで伝わっている。
更にまた史上初の「鍼灸銅人」も完成している。

鍼灸銅人
当時の鍼灸のツボの位置が、医者によって異なり、混乱をきたしていた。北宋の第4代皇帝仁宗は、鍼灸の書を調査し、ツボを整理するように命じ、王惟一がその成果である『銅人腧穴(ゆけつ)鍼(しん)灸(きゆう)図経』全3巻を編集、さらに翌年、これを基に銅人を作り上げた。
銅人の人体模型に、鍼灸のツボの位置、つまり経(けい)絡(らく)と360か所以上の経穴(けいけつ)(ツボ)が作られていて、銅人形のツボに針を刺し、正確にツボに当たると、人形の中から水、あるいは水銀が出てくる。という仕組みであった。以後、銅人を教材に鍼灸技術指導が行われ、大いに貢献があったという。
南宋では「太平恵民局」という、公立の薬局が設けられ、医者や官民に良質な薬を提供するシステムが構築され、宋慈が『洗冤集録』という、世界初の本格的な「法医学書」を著しており、こうした成果は南宋を滅ぼした元王朝にも継承された。
こうした宋代の新しい医療技術や医書、そして他の技術なども、僧侶が積極的に大陸に渡り、仏典とともに最新の医療技術を習得してきたことから、仏教医療の黄金時代とも言える。

鎌倉時代には本草の日本化がまた一歩進んだ。筆頭は惟宗具俊の『本草色葉抄』8巻(1284)(図6)で、平安の『本草和名』をさらに発展させた本草薬名辞典である。すなわち、漢音読みのイロハ順に配列した薬物につき、『大観本草』での記載巻次とおもな条文を記して検索の便がはかられている。また、それ以外の薬名も『本草和名』から転録するほか、独自に『本草衍義』(1119)など各種漢籍より引用する。出典にあげられた文献は転録も含め約140種で、うち平安末以降に新渡来の中国医書が18種ある。中でも漢方医学のバイブルとされる『傷寒論』の引用は注目に値し、日本へ渡来していた証拠記録として今のところ最も早い。
さらに丹波家系の宮廷医である惟宗具俊は、当の日宋交易の増加で中国薬物の実物に接する機会が多かったであろうことも見のがせない。
具俊は『本草色葉抄』に続いて『医談抄』を著し、ここでは豊富な知識により過去の漢名→和名の同定に反論している。同族の惟宗時俊が続いて著した『医家千字文注』(1293)にも両書を踏襲した薬物の名物論があり、本草知識の血肉化と日本化の進展を示している。
中世の医療活動では、僧院がもっとも活躍し、大きな業績を残している。慈悲心の厚い仏教僧侶が、僧医として医療を実践した時代で、良弁、叡尊、忍性らの貧困者に医療を施して救う「救療(きゆうりよう)事業」は特筆すべきものである。特に、医療の社会事業として、良寛房忍性(にんしよう)が筆頭である。
武家出身の僧医梶原性全(かじわらしようぜん)(浄観房)は、仏教的医療精神をもとに、既成の隋・唐医学に宋医方を加え、実際的な独自の経験医方を確立した。鎌倉時代を代表する梶原性全は『頓医抄』並びに『万安方』の著者として有名である。『頓医抄』は、先進医術を衆生救済がに使用することが編纂目的であり、全体をわかりやすい、和文で書かれている。参考文献は、『諸病源候論』『太平聖惠方』をはじめ、中国古医書から引用している。

『頓医抄』
後者は、隋・唐・宋の医書を参照しながら、自分の経験も加えたもので、内臓諸器官の解剖や、生理について、かなり詳しい。
基本的医学観は、経絡を軸とし、陰陽五行説を背景とした内経医学であり、仏教的慈悲の心も、随所に認められる。
『万安方』は参考文献は、ほとんど『聖済総録』からで、編纂目的は、医術を自家の家学として、伝え保存するためであり、全体は漢文で書かれ、他見を禁じている。

忍性の事業展開は、奈良と鎌倉において行われている。奈良においては、西大寺内に常施院、悲田院を建立し、日本最古の救癩施設(北山十八間戸(奈良))を設立しているる。
つぎに鎌倉における活動では、建長四年(1252)36才のとき関東に下向し、北条氏の支援のもと、文永四年(1267)から鎌倉極楽寺を中心に医療救済事業を推進した。中でも、もっとも大きな事業は、鎌倉で疫痢が流行したことにより、弘安十年(1287)極楽寺内に恒常的病屋(鎌倉桑谷療養所)を開設したことである。

鎌倉の極楽寺の古絵図
『元亭釈書』では、20年間で、5万7千人余の患者を収容し、貧者、病人、子供の救護に当たったと言われている。このうち治癒したものが4万6千8百人、死するものは1万4百余人とし、活きたる者は五分の四を超えたとと記されている。また、療病所以外に、関連施設として薬園、薬湯室、馬病者を設置し、不定期の活動として、飢饉等の罹災民救済などがある。
鎌倉の極楽寺の古絵図によると、境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、関連施設として薬園、薬湯室、馬病者を設置し、不定期の活動では、飢饉等の罹災民救済などがあり、医療・福祉施設としての役割が大きかったことがわかる。
また20年間に、83の伽藍を建立し、一八九の橋を架け、道路71、井戸33など多方面に活躍した聖僧であった。
最大の苦しみの病苦を、慈悲の心を体得した僧侶が、仏教の教えで苦しみを和らげ、安心に導き、最高の医術で治療に当たってくれたら、病者にとって、これほどありがたいことはない。
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療病と往生の問題
病や老いの終局にあるのは、誰れもが逃れられない死である。
忍性が設立した鎌倉極楽寺でも、治療の施しようが無く、静かに死を迎えるべき人々のために、「無常院」が建てられていた。
僧侶としての役割は、死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外にないと説くことだけである。自らの命の終局を悟り、この世は無常であることを悟り、心静かに死を受け入れるべく、念仏を唱えつつ極楽往生を願い来世にこそ希望を見いだすことが必要なのである。

極楽往生の図
病を経て死に到るその間際、どのように死を看取り、いかに往生せしめるかという関心は、源信『往生要集』(極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書)以来、きわめて強くなっていた。
ここで往生の際における、医療の役割にふれておきたい。
往生の際でも、薬を使用するか、どうかの議論があったようで、善導『臨終正念訣』において、以下のような問いと、それに対する答えを記している。「求められて、服薬に応ずべきか」の問いに、善導は、
「薬は病を癒やすもので、命を癒やすものではない」と答えている。
このようにこの時代から、往生の際、救命処置として、医療をすべきかと云う問題が、横たわっていたことが、この記述から伺える。

往生要集
真言宗、法相宗、浄土宗の代表的な臨終行儀書にあげられた医療の記述では、まず「真(しん)言(ごん)宗(しゆう)」では、はじめて浄土教をとりいれた実範の『病中修行記』を、さらに体系化したとされる覚鑁(かくばん)の『一期大要秘密集』では、「寿命が決定していない間は、医療を行うこととするが、これは身命に愛着を起こさせるものではない」としている。
さらに後述に
「医薬無験命終在近。…表捨娑婆穢処得極楽浄土」として、やはり医療が延命の術であるような記述はみられない。
次に、「法(ほう)相(そう)宗(しゆう)」で、湛(じん)秀(しゆう)
の『臨終行儀注記』、貞慶の『臨終之用意』が、その代表的なもので、後者には療治の記述は無く、『臨終行儀注記』には以下のように記されている。
ここで湛秀は、臨終時に観仏や仏音を聞くことなどに専念せしめるために、薬が必要かどうか、医者と相談しつつ、使用を認めているのである。この記述は、上記の記述にも、次にあげる良忠の記述にもみられない。浄土宗良忠の『看病用心抄』には、
「療治灸治の事は、これ命を延る事ならず。 ただ病苦を除くばかり也。されば、苦痛を止めて、念佛せしむるためには、自ずから用いるべしといえども これもあながち尋ね求めんべきにあらず。
その故は、およそ生死の際には、身を愛し、命を惜しむをも等し。 往生の際には、生をむさぼり、死を恐るゝを、みな基とす。しかるに療治は、苦痛のためにと云うけれども、いかにも身命を惜しむ心根より求めぬるようである」 とし、良忠は療治を「あくまでも病から生じた苦痛をとり除くもの」としている。
どのようなすぐれた医術をもってしても、死から逃れることはできない。そこで、真言宗系では、医療は命寿を無駄にすべきではない、という姿勢に基づいて、必要とされた。
法相宗湛秀においては、死の際に、仏縁に親近し、往生に専心するために、薬を用いることの可能性をのべている。良忠は、病の苦を抜くための医療は認めている。いずれも、往生の妨げになるような医療行為は否定されるが、苦を取り除き、往生を勧めせしむ医療行為は、認められているといえる。
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五運六気
運気論は、中医学の基礎理論の一つであり五運六気を略称して述べたものである。運気論は、「古代中国の天文学思想」である。
古代中国医療は、自然界の太陽や月、更には宇宙の星の動きが、人間や万物に、どの様に影響を及ぼすのか、克明に観察し、その気候の変化の中に法則性を見出し、論として纏めたものである。

自然界のあらゆる営みには、一定の原理原則とリズムがあり、地球上に生きる人間も、このリズムの中で生きているとしている。
自然界のリズム、つまり気象の変化は、四季、二十四節気、七十二候とし、人や万物の発生と生長、そして消滅の変化を運気論として捉えている。天地自然から気象現象が生まれ、人や万物との関係を説いた理論体系が「運氣論」(五運六気)である。
つまり人体の生理現象を、陰陽五行によって説明しようという、中国医学の学説の一つである。
運気論という名称は、人体は木、火、土、金、水の五行の運行(五運)と、風、熱、湿、火、燥、寒の六気の影響を受け、その過不足によって、それぞれに対応する臓腑、経絡に変調が起こって病気になるという主張による。『素問』『黄帝内経』にもとづく説で、特にそのなかの、いわゆる運気七編が、直接のよりどころになっている。
この説が流行するようになったのは、宋代に入ってからで、南宋では「太医局」の試験課目にも指定されている。
運気論は一年365日25刻を五期に分けて、五運(初運~五運・木火土金水)とし、六期に分けて六気(初の期~六の気・三陰三陽)とする。 毎年の春夏、長夏、秋冬を主運とし、その主運に変化をもたらす年毎の五運を客運とし、六気も2ヶ月毎の主気と、主気に変化をもたらす客気の組合せにより、気候の変化を読みとる。

運気論にもとづく医療は、天地自然の法則を暦によって知り、その自然界の気象現象に、人の脈を合わせることで体を巡る気のバランスを整えようとする。季節に合った気のバランスに、人の脈が整うと、心も安定し、さまざまな症状の予防や改善につながるという。
具体的な治療は、「体力を補う」「症状を取る」という両面からの治療 を行う。体力を補うのが「本治法」で、症状を取る「標治法」の両面から治療する。体力が補われると、自然治癒力が強化され、治りやすい体になる。体を正常な働きに戻す「正気」を補い、体に異常をおこす「邪気」を取り除いて気の巡りを整える。
個々の体質にあった治療を原則とし、症状が同じでも、原因は違っているということを診る。
干支(かんし)九(きゆう)星(せい)、つまり生まれ年の十(じつ)干(かん)、十(じゆう)二(に)支(し)、九星(陰陽道で、九つの星に、五行と方位を組合わせ、これを人の生年に当てはめて、吉凶を判断するもの)によって、暦に載っている月日や方位を調べ、その人本来の体質、つまり内臓、肉体・考え方が分かるとしている。 これによって、ひとり一人の体質にそった治療を行うことができるとしている。
また病については、日常生活の中に、その病の原因があるとしている。
元来、人には三つの気があるとしている。
一つ目は、生まれ持った「先天的な気」の働きで、心や五臓六腑の働きの盛衰に関わるとしている。二つ目は、生活環境や食生活による「後天的な気」の働きで、肉体そのもの強弱に関わるものとしている。
三つ目は、先天的な気と、後天的な気を合わせた「活動状態の気」の働きで、思考・感情に関わるものとしている。
これら全体の関係から、病の原因を見て治療して行く。
とくに木、火、土、金、水の五運と風、熱、火、湿、燥、寒の六気を重視して臨床に結びつけ、これを知らずに治療はできないとした。 治療法は、主に鍼灸を用いた。
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栄西禅師の喫茶養生
明菴栄西(みようあん えいさい)は、鎌倉時代初期の僧で、臨済宗の開祖とされ、建仁寺の開山でもある。生地は備中国賀陽郡で、13歳で比叡山に上り、翌年得(とく)度(ど)(出家)した。二度に亘って渡宋し、二度目に臨済宗黄龍(おうりよう)派の虚庵(きあん)懐敞(えじよう)に参禅し、建久2年(1191年)、虚庵から印(いん)可(か)(師匠の法を嗣いだという証明)を得て帰国した。
ただ、当時は、比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。そこで栄西は、はじめは九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の庇護をうけ正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となった。

栄西禅師
その2年後に、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の援助を得て、京都での臨済宗の拠点として建立されたのが、建仁寺である。
建仁の元号を寺号とし、伽藍は宋の百丈山に擬して造営されたが、創建当時の建仁寺は、天台、真言、禅の3宗並立であった。これは当時の京都では、真言、天台の既存宗派の勢力がまだ強大だったことが背景にある。
創建から半世紀以上経た、正元元年(1259年)には、宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺し、この頃から純粋に禅の寺院となった。
臨済宗や曹洞宗などの禅宗は、鎌倉幕府の庇護を受けて、武士や庶民などを中心に広く受け入れられ、各地に禅寺(禅宗寺院)が建立されるようになった。

建仁寺
さて、禅宗では、只管(しかん)打坐(たざ)、ただひたすらに坐禅を実践せよという。
ひたすらとは禅定の深さを表現した言葉である。
いま坐禅している。という自覚すら忘れてしまうほどに、坐禅そのものに没頭する。この手法によって、初心者でも、より深い禅定(ぜんじよう)の境地を容易に体験可能であるとされる。禅定とは、心を静めて一つの対象に集中する宗教的な瞑想のことで、その心の状態をいう。
坐禅の境地には上下なく、坐禅すれば等しく仏であるという。
たとえ今世で悟りを開けずとも、坐禅の功徳によって、来世では悟りを開く事ができるとされる。このため、坐禅をすれば、そのままただちに仏であるという。

達磨(だるま)禅師
仏道成就の早い遅いについて達(だる)磨(ま)禅師いわく、「心がすでに道である者は早く、志を発して順々に修行を重ねる人は遅く、両者には百千万劫(こう)(きわめて長い時間の単位)もの時間差がある」という。
深く正しく坐禅する者は早く、しなければ遅いという意味の一連の偈(げ)(仏教の真理を詩の形で述べたもの)は、坐禅の実践を強調する表現である。さて姿勢を正し、呼吸を整え、座禅をするということは、心身の乱れを整える効果がある。雑念を払い、瞑想をつづけることによって、東洋医学でいう、心身の調和をとりもどし、さまざまな迷いや、苦痛から解放されるという医療的な効用がある。
坐禅を続けると、臍(せい)下(か)丹(たん)田(でん)の気が全身を巡り、巡っている間に、気「エネルギー」の不通の場所を察知して、気が自然に局部に行き修復する。完全なリラックス状態になると、気が流れるのである。
東洋医学では、人間を大きな自然の調和の中で捉え、さまざまな疾病を、その均衡の破綻と見なしている。この故に、ひすらに坐禅を組むという効用は、人間が自然から備わった治癒力を向上させ、無理なく病の治療を行う結果に繋がった。

栄西禅師座禅木造
さて、栄西禅師には、喫茶の薬効を説いた『喫茶養生記』がある。
この書は、後鳥羽上皇の下命により、茶の効用を記し、献上したものである。書の内容は、栄西が入宋中に見聞し、あるいは経験した茶の栽培法、飲み方、採取法、効能等を述べている。
またこの他、桑(くわ)の飲み方、効能を記している養生書である。「養生の記」の序に
「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。山(さん)谷(や)これを生ずれば、その地神霊なり。人(じん)倫(りん)(人)これを採れば、その人長命なり。天竺、唐土、同じく之を貴重す。我が朝(ちよう)日本、亦(また)嗜愛す。・・・」とある。さらに
「偸(つと)に聞く、今世の医術は則(すなわ)ち、薬を含みて、心地を損ず。病と薬と乖(そむ)くが故なり。灸(きゆう)を帯して、身命を夭(よう)(若死に)す。脈と灸を戦うが故なり。・・」だから、普段から茶を喫する養生が重要だと説いている。
栄西は言う、「養生の根源は、人体のうち肝、心、肺、腎、脾の五臓であり、それぞれ肝は酸味が、心は苦味が、肺は辛味が、腎は鹹(かん)味(み)(しおからい)が、そして脾は甘味がそれぞれ適した味であり、これらの味をもつ食物を調和よく摂ることが重要である」としている。
上巻には、茶の生理学的効能を説いた「五臓和合門」、下巻には鬼魅(きみ)を駆逐する、桑の病理学的効能を説いた「遣除鬼魅門」がある。
後漢時代に書かれた『神農(しんのう)本草経(ほんぞうきよう)』に桑の葉の薬効について記述がある。

『喫茶養生記』
『喫茶養生記』によって、武家の間に「茶の湯」が流行し始め、桑の葉を茶として喫したり、桑の枝や根の皮、桑の実などが漢方薬として用いられるようになっている。

桑の葉の茶
今日では、桑の葉の効能は、糖尿病の予防・改善、食後の血糖値上昇の抑制作用、高血圧の改善、中性脂肪値を下げる、コレステロール値を下げる、腸内環境整え便秘を改善する、肝臓および腎臓機能の改善などさまざまな効用が知られている。栄西が、ここまでの効用を知っていたはずはないが、東洋医学的に、身体の調和の乱れを正し、自然治癒力を高めるから、普段の養生に最適と考えたのであろう。
茶と桑の薬用効能を、あわせ説いたところから、室町時代には「茶桑(ちやそう)経(きよう)」ともよばれる。この事により、鎌倉から室町期には、武家の作法に「茶の湯」が取り上げら普及することになる。

なお1214年2月、将軍源実朝が二日酔いで苦しんだとき、茶一服と、この書が献じられた事が、『吾(あ)妻(づま)鏡(かがみ)』に記されている。
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日本の中世

足利尊氏
14世紀の後半の57年間を、南北朝時代と呼んでいる。
亀山・後宇多天皇の流れの「大覚寺統」を南朝方といい、足利氏が支援する後深草・伏見天皇の流れの「持明院統」を北朝方と称し、皇統が南朝と北朝に分裂抗争した。
その後、足利尊氏が北朝を擁立して室町幕府を開き、名実ともに公武両勢力の頂点に上った。以後、14世紀頃から、16世紀頃までを室町時代と呼ぶ。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。
室町幕府が各国に置いた守護は、荘園領の年貢半分の徴収権を公認され、また年貢納入を請負う「守護請(しゆごうけ)」の拡大などによって、領国の支配力を強めていった。やがて国衙(こくが)機能(地方行政の役所)を取り込み、行政権を持った守護大名へと支配体制を確立していった。
前期の室町幕府第3代将軍・足利義満は、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、南北朝合一を果たした。

勘合貿易船
また明皇帝からも日本国王に冊封され、両国の国交が正式に樹立されて、日明貿易すなわち「勘合貿易」が開始された。
日本国王が明皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易は、1404年(応永11年)から始まった。一方で、中国沿岸を荒らし回っていた倭寇を、明に要請されて鎮圧に乗り出した。
足利義満は、守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の勢力拡大がつづき、幕府対守護大名の戦乱が発生するようになった。
幕府・守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺し、やがて政変を契機に崩壊し、戦国時代へと移行した。
この荘園解体期には、村落社会の自立化が進み、惣(そう)村(そん)・郷村が各地に成立した。これらは村民の共同体的結合で、村民全体の名によって村の意思を表示し、また行動するようになった。
この時代の社会の傾向は自力救済であり、各階層内でも連帯の動きが活発となり、農民一揆も多発した。応仁の乱以後の、政治的に混乱した時代を戦国時代と呼ぶ。
この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は、中世的な支配体系を徐々に崩し、戦国大名の領国支配の法である、分国法を定めるなど、各地で自立化を強めた。
こうして各地に地域国家が多数並立し、地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。

織田信長
そうした流れの中で、16世紀半ばに登場したは、兵農分離などにより、自領の武力を強力に組織化し、急速に支配地域を拡大していった。 この時代は、鉄器農具によって農業生産力が飛躍的に向上し、地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていった。
1557年にポルトガルが、マカオを拠点として、日本・明・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。これを南蛮貿易という。

南蛮貿易の図屏風
織田信長・豊臣秀吉は、基本的に南蛮貿易を推奨した。
スペインはポルトガルに遅れて、アメリカ大陸を経由する太平洋航路を開拓し、ルソン島のマニラを本拠として、日本を訪れるようになった。
南蛮貿易は、日本産の銀と、中国産の生糸・絹織物との交換的売買を主軸とする、仲介貿易であり、総監府のあるゴアからマカオを経て、日本の貿易港である鹿児島・坊ノ津・平戸・府内・長崎にいたり、また、そのコースで帰還するものであった。
このような貿易を通じて、戦国大名たちに鉄砲・火薬・皮製品・鉄といった軍需品をもたらした。また南蛮貿易によって、火縄銃やキリスト教などが伝来すると、それまでの戦術や、日本の宗教観念に大きな影響を与えた。
ポルトガル船は、キリスト教(切支丹)の布教を許した大名領の港に入ってくる事になった。このため南蛮交易に積極的な大名は、貿易と宣教師の活動を保護した。そしてイエズス会の宣教師、ヴァリニャーニの勧めで切支丹に改宗した大名が誕生した。

宣教師ヴァリニャーニ
主なキリシタン大名は、大友義鎮、有馬晴信、大村純忠の三人である。
さらに1582年には、少年使節をローマ教皇のところに派遣した。この時に派遣された少年使節を、天正遣欧使節という。
織田信長は、室町将軍の足利義昭を放逐すると、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して、天下人となった。
これによって他の有力な大名を抑えて、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。信長は、中世的支配体系を徹底して排除し、また好奇心が強く、鉄砲が一般的でなかった頃から火縄銃の性能を重視し、長じて戦国最強の鉄砲部隊を編成するに至った。

また切支丹の布教を許し、イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などを、よく理解したと言われる。当時、世界が丸いことを知る者はおらず、地球儀献上の際も、家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解したといわれている。
信長が本能寺の変により滅ぼされると、天下統一の事業は、豊臣秀吉が継承することとなった。
秀吉は、信長の政権を母体とし、東北から九州に至る地域を平定することで、統一事業を完了した。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、太閤検地の実施を通して、荘園公領制を消滅させ、中世は終焉を迎えた。秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去した。
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李朱医学
李朱医学は、漢方医学の一学派で、中国の12~14世紀に「金元(きんげん)医学」とよばれる新しい潮流が、劉完素(りゆうかんそ)、劉河間(かかん)、張従正(ちようじゆうせい)、張子(こ)、李杲(こう)、李東垣(とうえん)、朱震亨(しんこう)らによってつくられた。そのうち、劉完素(りゆうかんそ)と張従正(ちようじゆうせい)は、寒涼派といわれ、激しい作用を持った薬を多く用い、李杲(こう)と朱震亨(しんこう)は温補派といわれ、温和な薬を用いることを提唱した。
 
李杲 朱震亨
李杲(こう)は、病気の原因は、体外ではなく、体内の環境にあると考え、朱震亨(しんこう)は李杲の考えをさらに発展させ、治療法などを生み出した。この2人の医説を「李朱医学」とよぶ。
李朱医学は、元の医学者李東垣(とうえん)と、朱丹溪の学説で、儒教の陰陽五行に、宋の頃の五薀六気(ごうんろつき)や、五臓六腑などの思考を組み合わせたもので、儒教で説く宇宙の原理に対して、人体の生理や病気を、小宇宙にみたてた観念論である。これらの医家が、それぞれの治療理論の共通のよりどころとしたのは中国最古の医書で、自然哲学的な医学論が中心の『素問(そもん)』、『黄帝八十一難経』などの書である。

『素問(そもん)』
朱震亨(しんこう)は〈陽は常に余りあり、陰は常に不足せり〉という説をたて、陰を養って、火を下す薬剤をよく用いたため、滋陰派といわれる。
元気を損ずると内傷を起こし、病気になるとして内傷学説を唱え、最も重要な臓器が脾と胃で、その気を補益することが大切であるとして補剤(滋養補給)を多く用い、彼の一派は滋陰派といわれる。
李杲(こう)は、元気を損ずると、内傷を起こして病気になる。として内傷学説を唱え、最も重要な臓器が脾と胃で、その気を補益することが大切であるとして、補剤(滋養補給)を多く用い、温補派と呼ばれた。
似た傾向の李杲の説と朱震亨(しんこう)の説一緒にして、李朱医学といわれ、日本にも導入された。

『黄帝八十一難経』
この「金元医学」派の李朱医説を、室町時代の日本の医家、田代三喜(さんき)が、中国に留学して修めて帰国、田代は日本における李朱医学の開祖と称されている。
田代に師事したのが曲直瀬道三(まなせどうさん))で、彼は京都で多くの後進を指導、李朱医学は日本化され、充実して江戸時代初期まで、日本の医学に重要な位置を占めた。なおこの医説は後世派とよばれる。
従前の日本では、宋代の発汗剤、吐瀉剤、下剤を中心にした、体内のものを外に出す、激烈な処方を主としていた。
ところが李朱医学よって、緩やかな栄養補給的な処方に変わったのを学んできたのである。これは劇剤は体内を傷つけるから、緩やかな処方によって、自然治癒力を高めるという医療を李朱医学という。
曲直瀬は、李朱医学を田代に学び、京都に出て大いに名声を博した。
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田代三喜(さんき)

三喜は、武蔵国越生(現埼玉県入間郡越生町)の生まれで、父の兼綱は川越城を治める上杉持朝に仕えた。
三喜は、室町・戦国時代に活躍した医師で、後世派(ごせいは)医学の開祖とされている。ちなみに後世派は、漢方薬の処方において、唐・宋以降の医書をよりどころにする一派である。
15歳の時、臨済宗の寺で僧籍に入り学問を身につけ、「足利学校」に移った後、長(ちよう)享(きよう)元年(1487年)23歳で明に渡っている。

足利学校
ついでながら足利学校は、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関で、室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。
足利学校は、教育内容から仏教色を排し、教育の中心は儒学であった。
鎌倉円覚寺の僧、快元が指導者であったから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた。
戦国時代には、足利学校の出身者が、易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。
学費は無料で、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていたという。
さて、中国では、金・元代に李東垣、朱丹渓の流れを汲む、李朱医学が盛隆を極めており、三喜は僧医月湖に師事し、これらの医学を学んだ。 12年後の明応7年(1498年)、月湖の著した『全九集』、『済陰方』など多くの医学書を携え日本に帰国した。
当初、鎌倉の円覚寺の内江春庵に居を定めたが、後に足利成氏(古河公方)の招きにより、永正6年(1509年)下総国古河に移り住み、古河公方の侍医となった。ここで僧籍を離れ、妻を迎えている。

『全九集』
数年の後、武蔵に帰り、生まれ故郷の越生や河越(現在の川越市)を中心に、関東一円を往来して医療を行い、多くの庶民を病苦から救って、医聖と仰がれた。このため呼び名も、田代三喜、越生三喜、河越三喜、古河三喜などいろいろある。
享禄4年(1531年)25歳の曲直瀬道三は、三喜に会って医学を志す。三喜は、道三をよき後継者として指導し、死期近い病床でなお口述を続け、79歳で没した。
三喜が日本に持ち帰った李朱医学は、弟子の道三によって広められていくことになる。古河市の永仙院跡には三喜の供養碑が残されている。
曲直瀬道三・永田徳本などと並んで、日本医学中興の祖とされている。
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曲直瀬道三
戦国時代の医師・道三は、近江栗太郡勝部村(現守山市)の佐々木氏一族勝部氏の一門の出とされている。
道三は京都に生まれるが、幼くして両親を失い、伯母と姉に養われて幼年時代を過ごした。10歳で近江天光寺に引取られ、13歳の時に京都相国寺に移って僧籍に入り、そこで勉学に励んだ。

曲直瀬道三
この頃、姓を曲直瀬(まなせ)と改名している。22歳の享禄元年(1528年)、関東に下って足利学校に学び、ここで田代三喜と出会い、医学に興味を抱いたと言われる。三喜は、仏教の慣習にとらわれず、実践的な医療を人々に平等に施さねばならぬと説き、それに感銘を受けた道三は、医学を志す決意を固める。
ところが、田代三喜がその頃、足利成氏(古河公方)の招きにより、永正6年(1509年)下総国古河に移り住み、古河公方の侍医となった。
そこで道三もその後を追いかけて古河へ移住した。
古河へ移住した田代三喜は、古河公方の侍医をしながら、少数の弟子を抱えて医療活動を行ったり、後進の指導にあたった。
弟子のなかでもとくに優秀だった道三は、三喜から当時最先端の「李朱医学」を徹底的に学び、やがて一番弟子になった。
道三は李朱医学を講究ののち、師の三喜から古来の医学諸論と医薬用法の可否を伝綬されて、用薬百二十種の効能を伝授された。
天文15年(1546年)39歳の時、ふたたび京都へ上ると、還俗して医業に専念した。 道三は、それまでの観念的な治療方法を改め、道三流医道を完成させ、実証的な臨床医学の端緒を開き、四知(神・聖・功・巧)の方を生み出したのである。 道三のこの実践的な医療は、人々に受けいられ、その名声は京に急速に広まっていった。

将軍足利義輝
その噂を聞きつけた将軍足利義輝に、召し出されて侍医となって診療を行っている。名もない家柄から、医師として一家をなし、将軍に仕えるまでになった医師は他にいない。
時代が戦国の下剋上の世であればこそ、より実践的で役に立つ道三流の医学が、多くの人々にや将軍に受け入れられたのであろう。
曲直瀬道三は、他にも請われて細川晴元・三好長慶・松永久秀など、著名な武将にも診療を行い、篤い信頼を得て名声を高めた。
彼ら武将は、道三が医学生養成のため京に啓迪院(けいてきいん)という医学校を設立した際には、多額の援助をしたと云う。
この「啓迪院」は医学専門学校で、李朱医学を広範囲に教え、医者を養成教育した。足利学校のように著名にはならなかったし、百年程度しか続かなかった。が、北は青森から南は宮崎まで約800人の学生が巣立っていった。道三68歳のとき、医学書「啓迪集」8巻をを著している。
この書は、数十種の文献資料と、自らの臨床体験を加味し、74部門(内科、外科、婦人科、小児科、薬学などから構成されている。

「啓迪集」の記述法は、中国の諸医学の記載を抜粋して編集したもので、原典の文章を区切って表示し、それに対する解説文を並列するもので、記載の全体像を一目で見ることが出来る。
この書は、実際に医者が診療に役立てる本であったと同時に、啓迪院の学生が、教材として使ったことに大きな意味がある。
道三は啓迪院で「医は意なり」と、常に語っていたと言われる。
その医学教育の中で、57条の医家の守るべき法を門人に与えているが、それは非常に実用的なもので、よけいな道徳的説教は一条たりともなかった。ただ第一条に「慈仁」とだけ記されているだけである。
日本の医師で曲直瀬道三ほど、歴史上有名な武将を診察治療した者はいない。将軍足利義輝の侍医を務めたことで、戦国期の武将にその名を知られ、織田信長が上洛後は、織田信長の診療も行って、蘭奢侍(らんじやたい)という紅沈香と並び、権威者にとって非常に重宝された高級香木を授与されている。
道三はすぐれた学者であったと共に、大の雄弁家であり、諸侯たちは道三を大変尊敬したらしい。この故に毛利元就や明知光秀など、有名武将も病気になった際、道三の診療を受けている。

毛利元就
永禄9年(1566年)、毛利元就は月山富田城を攻めていたとき、長期滞陣が祟って病を患った。一時は重篤に陥るほどであったが、小早川隆景や吉川元春らが、京都から曲直瀬道三を呼び寄せ、懸命に治療にあたった結果、快方に向かった。

明智光秀
明智光秀は、天正4年(1576年)5月の石山本願寺攻めの後、過労のため病を患った。一時は、死亡の噂が流れるほど重篤であったが、曲直瀬道三の治療を受けて、2ヶ月ほど養生に努めた結果、病は快癒した。 光秀の病快癒には妻、熙子の懸命な看病と、曲直瀬道三の治療の効果が大きかったのであろう。しかし、光秀が快癒してのち、その妻、熙子が看病疲れによるものか、病に倒れて亡くなってしまった。78歳の天正12年(1584年)、豊後府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけで、キリスト教に入信し、洗礼を受けている。洗礼名はベルショールであった。
天正20年(1592年)86歳の時、後陽成天皇から「橘姓」と今大路の家号を賜っている。文禄3年(1594年)1月、88歳という長寿をもって没した。死後、正二位法印を追贈された。
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永田徳本
永田徳本ほど長命した医師は他におらず、またこれほど逸話の多い医師も珍しい。徳本は、戦国時代後期から、江戸時代初期にかけての医師で、「徳本先生」「「十六文先生」などと呼ばれ、庶民からも慕われた。

永田徳本
永田徳本は、戦国時代中期の1513年、三河国大浜(現在の愛知県碧南市)に生まれている。
少年期に学問を志して、禅僧・残夢に師事している。禅僧・残夢は、奇行に富む人物として知られ、永禄年間、関東に来て、常陸の福泉寺および会津の実相寺に住したとされている。貧しい人を見ると、自らに服を脱いで与えたという説話がある。このため禅宗的な宗教思想を身につけたが、また張仲景の『傷寒論』を学び、独自の処方を研究してこれを医療にも反映させていった。
永田徳本は、「万病は、体内の鬱滞(気の滞留)によって起る」とし、これを散らすため、好んで水銀、黒鉛、辰砂の入った峻剤(強い薬)の頓服を勧めた。また「薬は毒ありて、劇(はげ)しきがよろし」を理念とし、各種の吐剤、下剤、発汗剤を処方した。
さらに癩病(ハンセン病など)の治療も手がけ、古くからハンセン病の治療に使われた大風子油(だいふうしゆ)を用いた。大風子油は、古来からインドの民間療法であったが、中国には明の時代に伝わり1578年「本草綱目」に癩病の治療薬として漢方の処方が記載されている。
日本では江戸時代以降に「本草綱目」などに書かれるようになったから、日本では永田徳本が最初に使用したかも知れない。また梅毒の治療も行い、辰砂(水銀化合物)を用いて成功している。
その後、陸奥国で仏門に入り、出羽で修験道を学び、深山幽谷を跋渉したという。
その後、諸国を巡り、放浪の医師として、一服十八文の治療費だけで医療活動を行ったといわれる。江戸に戻って、田代三喜、玉鼎らより「李朱医学」を修め、さらに信濃・甲斐に移り住み、国主であった戦国大名・武田信虎・信玄父子二代の侍医となったと言われる。
諏訪で過ごした40年余りは、徳本にとっての円熟期であった。
甲斐では御子柴家に滞在、その娘と結婚し一子をもうけている。
徳本は武田家の侍医として、甲州に長く居住しており、「甲斐の徳本」とも呼ばれ、その名は関東にも知られた。
また徳本は山野をめぐり、薬草を採取しながら研究したため、植物学にも長けていた。このため、勝沼で甲州ブドウを作り出した雨宮家の子孫が、徳本に相談したところ、土地を有効に使うため、ブドウ棚での栽培方法や、つぎ木挿し木を教えた。さらには異種交配によって多様なブドウの栽培も勧めた。さらに「ブドウの名産地は甲州」という分かりやすい宣伝文句まで教えたという。こうして江戸期には、勝沼のブドウが、甲州名産として江戸市場で有名になった。

武田信玄
武田晴信による信虎の領国追放後は、信濃国諏訪に住み、その後、信長による武田家滅亡後は、東海・関東諸国を巡り、貧しい人々に無料で薬を与えたり、安価で診療を行ったとされる。
伝承に拠れば、彼は首から薬袋を提げ、牛の背に横になって諸国を巡り、どんな治療を行っても、報酬として16文以上の金額を受け取らなかったと伝わり、「十六文先生」とも呼ばれ慕われた。
将軍職を隠退していた徳川秀忠が重病を患い、御典医たちの手に負えず困り果てていたとき、徳本に白羽の矢が立った。
徳本と並び「医聖」と称され、畏友でもあった曲直瀬道三とその子息の玄朔が徳本を推挙したという。玄朔も以前に、秀忠の病を治したことがあり、その時の処遇は厚く、江戸城内に邸宅を賜っている。
また徳本が甲斐にいた頃、その世評を耳にした家康が、徳本を三河へ呼び、熱心に痘瘡の治療法を尋ねたともいう。そして何より無冠の徳本の名声は天下に轟いていた。
すでに齢百を数えていた徳本は、いつものように牛にまたがり江戸城に登城した。秀忠を一診するや、峻剤を処方した。すると忽ちに病は雲散霧消したという。これを大変喜んだ秀忠は、徳本に褒美を遣わそうとしたが、徳本はこれを拝辞して、一服十八文の治療費だけ頂戴すればよいと答えた。それでも秀忠に強引に押され、やむなく清廉で屋敷を持ず、徳本の友である甲斐の医師に、屋敷を賜りたいと言上した。

徳本十九方
秀忠は、すぐに甲斐国山梨郡の地に、金を添て屋敷を下賜した。
清貧の医師に、幕府から下賜された山梨郡の屋敷は、長く「徳本屋敷」と呼ばれた。
著書に『徳本翁十九方』があり、27種類の生薬を使った、工夫の行き届いた処方群である。処方を組み合わせながら、あらゆる疾病に対応しようとした。 黒鉛、緑礬、礬石、青蒙石、鉄粉などの鉱物薬の入ったものも多く、軽粉、辰砂などの水銀化合物も四処方に組み込まれている。
丸散薬が多く、携帯に便利であった。武田信玄が「十九方」を陣中の必携書とし、戦国時代の軍人医学書とも言うべき性質を持っていた。
平時、救急に使用できる薬を、戦時下の傷病兵にも活用するため、どうしても携帯性と平易さが要求された。この「十九方」を別名「救急十九方」とも称する。
1630年に亡くなった。享年は118歳で、記録が正確ならば、当時としては驚異的な長寿である。長野県岡谷市に墓碑がある。
「医聖」とも称され、号は知足斎、乾室など。
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宣教師ルイス・デ・アルメイダ
室町時代の天文18年(1549)、耶蘇会の宣教師フランシスコ・ザビエルが布教のために鹿児島に上陸した。薩摩藩主島津高久の許しを得て、布教活動を行い、その足跡は平戸、山口、堺、京都にまで及んだ。彼は2年3ヶ月の短い滞在で日本を去ったが、彼の残した足跡は実に大きい。
ザビエル以後も、多くの宣教師が来日し、キリスト教の布教や、交易や、文化の交流等の役割を果した。又、宣教師に同行して来た医師たちは、伝道の一環として、また神への奉仕として、医療活動を無償で行った。とくに医師としての活躍で有名なのが、修道士アルメイダである。

ルイス・デ・アルメイダ
修道士ルイス・デ・アルメイダは、日本最初の南蛮外科医であり、日本初の病院の創始者である。彼は病を治し心も癒す、病人が理想とする医師であった。
アルメイダは、ポルトガルに生まれで、1546年に国王から外科医開業免許を下付された。1548年、貿易商人としてインドに渡り、中国と日本の交易で財をなし、マカオで高名な商人となった。 1552年、彼は日本を訪れ、ザビエルの意志を受け、18年にわたって日本で宣教活躍するトルレス神父に出会っている。このとき、トルレス神父に感銘を受けその影響で、1555年、アルメイダは富と名声を捨て、日本で宣教する決心をした。
1556年、巨万の富をイエズス会寄進し、修道士となった。
翌年、アルメイダは、平戸に上陸し、大友宗麟の城下町、豊後府内(大分市)に行き、ガーゴ神父の元で心霊修行を行なった。
このとき、親が幼子を大分川の入り江の砂地におき、満ち潮で溺死させるのを目の当たりにし、私財を投じて豊後府内に乳児院を建てた。
当時の日本で広く行われていた、赤子殺しや間引きの現実に、大きなショックを受けたからである。

大友宗麟
さらに豊後の領主・大友宗麟から土地をもらいうけ、トルレス神父の命で、1557年に外科、内科、癩病科を備えた総合病院を建てた。
これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。 また、大分で「ミゼリコルディア」(慈悲の聖なる家)といわれるキリスト教徒の互助組織を発足させた。運営は「慈悲の組」と呼ばれる、信徒組織に委ねられた。入院患者は、彼がマカオやゴアから取り寄せた薬剤で治療を受けて、驚異的に回復した。

アルメイダの外科手術
アルメイダは、日本初の南蛮外科医として病める人の病を治し、修道士として心の救済もした。南蛮外科では、膿んだ腫物を切開し、焼灼(しようしやく)するという西洋外科の手法は、誰もが驚いた。日本で最初の銃創治療の記録として、1562年博多で、ルイス・デ・アルメイダの指示を受けた日本人医師によって、弾丸の摘出手術が行われ、僅か15日で全治せしめたという記録がある。
南蛮貿易の中心地の平戸藩主の松浦氏は、切支丹に不寛容であったために、日本初のキリシタン大名となった、大村藩主大村純忠の領地、横瀬浦に1563年貿易港が移された。
ところが、キリシタン反対派の勢力で、横瀬浦が焼き払われた。
トルレス神父は、大村純忠と相談の上、アルメイダを長崎に送った。
領主の長崎甚左衛門は、純忠の娘婿で、既に洗礼を受けていた。
こうしてアルメイダは、日本初の教会を長崎に建てた。これに伴って、長崎開港の扉をも開いたのである。1571年、貿易のために長崎の町が建設され、ポルトガル船が入港するようになった。
1580年長崎は、イエズス会領となり、教会による南蛮医学が栄えることとなった。教会の外郭団体で、病院と孤児、老人の救療施設である「慈悲屋」の組合(ミゼリコルディア)が、本博多町に建設され、当番制で、会計、病院事務、収容看護が行われ、院長は日本人宣教師であった。
「慈悲屋」は信者の組合員の寄付で、男女の養老院、療病院と貧民救済院等を経営した。長崎には、島原町・大村町・平戸町・横瀬浦町・文知町・外浦町と出身地を示すような町名が付けられ、迫害されたキリシタンが移り住んできた。

島原、天草で布教するアルメイダ
アルメイダは島原、天草で布教し、多くの信者を得た。亡くなる4年前ようやく修道士から司祭に昇格し、天草全島の責任者となった。
1583年、彼は天草河内浦で逝去した。ほどなく切支丹禁止、鎖国令の実施で、ポルトガル、スペインの宣教師や医師は国外退去になった。
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南蛮医学
ポルトガルやスペインなどの、宣教師や医師のもたらした西洋流の外科 (金瘡術) は、南蛮外科とも言われる。
ザビエルが日本に渡来したとき、キリスト教と共に、西洋流の医療が日本に伝えられている。この頃、西洋では解剖学の発達で、内科の医療が革命的に進歩しつつあった。
しかし宣教師がもたらした医療は、西洋では古典的な技法であった。このため、内科については、南蛮医学の影響を受けず、伝統的な漢方医学が主流でありつづけた。が、一方で、外科については、南蛮流が積極的に取り入れられた。
南蛮流の金瘡(きんそう)(刀など金属製の武器で受けた傷)の治療は、焼酎を浸した木綿で消毒し、ヤシ油を塗って縫合し、再度焼酎を塗って木綿の包帯を巻く。焼酎は消毒の意味で使用されている。
また腫物の切開や、銃創や手脚の切断などの場合は、煮えた油で焼灼して止血した。これらは漢方医学にない斬新な外科手術であった。
この南蛮外科の技術は、帰化人である沢野忠庵 (フェレイラ ) を祖とし、西玄(げん)甫(ぽ) (吉兵衛)、杉本忠惠(ちゆうけい)、吉田自庵らが、それぞれの流派で広めた。西玄甫は、南蛮医学とポルトガル語を、沢野忠庵に学び、承応2年(1653)
、父の吉兵衛の跡を継いで大通詞となった。
次いで紅毛外科(オランダ外科)を、出島のオランダ商館医に学び、オランダ商館長から医学証明書を取得している。
こうして西玄甫によって、南蛮・紅毛両流の西流外科医が誕生した。 延宝1(1673)年、出府を命ぜられ、幕府の宗門改めの参勤通詞目付と、外科医官を兼ね、江戸西久保に屋敷を拝領し、玄甫と改名した。
西流外科の一派をなし、を広めた。

南蛮外科
また向井元升(むかい げんしよう)と共に忠庵(フェレイラ ) の天文書を翻訳註釈した『乾坤弁説』を呈上した。また陳沖一(ちんちゆういつ)を祖とする名門唐通事の穎(え)川(がわ)藤左衛門と、共著『諸国土産書』がある。
杉本忠恵(すぎもと-ちゆうけい)は、沢野忠庵の娘婿で、沢野忠庵に師事し、南蛮外科を修得した。寛文6年(1666)、4代将軍・徳川家綱に拝謁している。
寛文10年(1670)、幕府の医官となり、200俵を給された。幕府の官医となった最初の南蛮医である。のちに将軍家の侍医に進み、法眼に叙せられた。延宝6年(1678)、京都で女院の病気治療にあっていたる。
天和3年(1683)隠居した。杉本忠恵の子孫は、代々医者となった。
向井元升は、肥前生まれで、長崎に出て漢方の本草学と、フェレイラから南蛮医学を学び、22歳で医師となっている。
幕命により、オランダ商館の医師ヨアンから、通詞とともに聞き取り編集した、『紅毛流外科秘要』5巻をまとめている。

南蛮外科書
吉田自(じ)庵(あん)は、筑前の出身で、医学を志して長崎にいき吉田自休(じきゆう)に西洋医学学び、やがて自休の養子となって吉田流外科を嗣いだ。元禄4年幕府に出府を命ぜられて幕府医官となり、二年後に奥医師の法眼となっている。養父の吉田自休は、長崎の半田順庵に、南蛮医学をまなび、慶長・元和(げんな)のころオランダ船でマカオに渡り、医術をおさめて帰国し、南蛮・和蘭・漢方の三方をとりいれた吉田流外科をおこした。
さて、帰化人であるフェレイラ(沢野忠庵)は、ポルトガル人出身のイエズス会の司祭として1609年ころ来日した。長崎、京都方面で布教したが、日本語に上達して日本のイエズス会の中心となって活動した。
豊臣秀吉が1587年、バテレン(伴天連・ポルトガル語で「神父」)追放令を出し、のち戸幕府は1612年切支丹禁教令を発した。
フェレイラは禁教令施行後も日本に残留潜伏し、長崎で管区長秘書を務め、のち23年(元和9)ころ上京し当地方の地区長、32年(寛永9)日本準管区長に任命されたが、翌年、長崎で捕らわれ、穴吊り刑の拷問にかけられた。

切支丹の穴吊り拷問で改宗を迫る
この穴吊り拷問は、文字通り逆さまにして穴に吊す拷問だが、普通に吊すと、内臓が下がって肺を圧迫し、数分で死亡する。
切支丹の拷問とは、本来、苦痛を与え恐怖を与えて、改宗させるのが目的である。このため、身体に布を強く巻き付け、さらに縄を何重にも緊縛して吊すと、内臓は動かない。しかし、血流が頭に充満して、意識を失う。このため、頭に傷をつけて血流を滴らせる。
それでも、血流が頭に充満して、神経が過敏となり、異常な苦痛を味わう。それでも堪える切支丹がいたため、さらに苦痛を強めるため、穴に汚物を入れて顔を付けさせ、さらには大音響を響かせたという。そして何度も引き上げては「転ぶか」と尋ねるのである。
フェレイラは、あまりに酷い穴吊の拷問に耐えきれず、についに棄教することを誓って許された。切支丹禁制の幕府にとっては、貴重な「転びバテレン」となって、幕府に協力することになった。
幕府のポルトガル通詞となり、また宗門改めにも協力し、「目明し忠庵」とよばれた。同年沢野忠庵の日本名で、キリシタン排撃の書《顕偽録》を著し、キリシタン宗門の真偽を論じて排耶蘇論を展開した。
そのご日本人妻を娶って、その間に娘が生まれ、その娘婿が杉本忠惠である。また鎖国下の日本で、西洋医学・天文学を教えた。著書に西洋天文学を伝えた『天文備用』、西洋の外科を伝える『南蛮外科秘伝書』などがある。フェレイラは、イエズス会にとっては裏切り者であったが、
人間としては正直で正常で、日本に帰化した以上はと、一生懸命日本人のために西洋科学を教えることに全力を尽くした。
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日本古来の外科
外科という医科の名は、鎌倉時代には渡来していたが、その名が使われ始めるのは、南北朝の頃である。それまでは腫物医、疵(きず)医等と呼ばれていた。腫物医は、その名の通り、腫(しゆ)瘍(よう)、おでき、腫れ物を扱う医科であった。むろん火傷や金瘡(きんそう)(金属の武器で受けた傷)などの外傷に対する治療も行ったが、それは主たる仕事ではなかった。
一方、骨折、脱臼に関しては按摩師が治療を行った。
金創医
古来から人類は、原因不明の「腫れ物」に悩まされ続けてきた。
腫れ物とは、オデキ、吹き出物で、触ると非常に痛みを感じる。一方で、まったく痛みを伴わない腫れ物もある。
最もありふれた良性の皮膚腫(しゆ)瘍(よう)で、俗に「脂肪のかたまり」とよばれている粉瘤(ふんりゆう)のことで、皮膚の皮下組織に、老廃物がたまって徐々に大きくなってくる瘤(こぶ)である。
「腫れ物、出物は、所かまわず」といわれ、身体のどこにでも出来た。
主な原因は、毛穴に汚れや皮脂などの老廃物が詰まり、そこに菌が入って化膿して膨れ上がってしまう。口の中の出来物の場合は、膿がたまっていたり、病気が潜んでいる可能性もある。
古来から腫れ物などを痼(しこ)りとも言ったが、腫瘍は良性と悪性に分けられる。悪性とは、今日の癌のことである。良性でも、皮膚機能の低下と化膿菌によって発症し、日に日に腫瘍が大きくなり、痛みが激しくなって、日常生活に支障を来すことも多くなる。
治療法は、腫れ物が小さな時は、吸い出し膏薬を貼ったり、針で穴をあけ膿を出すことで治療した。大きくなると、刃物で切開し、痼りを全部取り出すなどの処置をした。切開した場合は、傷口を縫合し、油脂を含んだ軟膏を塗って包帯を巻いた。
室町時代以降に外科という名が使用され始めているが、この時代はもっぱら金瘡(きんそう)(金属の武器や銃砲で受けた傷)を受けもつ外科医が現れた。
多くが時宗の僧医出身で、金創医として、従来の腫物医師、疵(きず)医師と区別した。
室町時代の末になると、金創学が一つの専門科として確立され、従来の外科である腫物医、瘡医から独立して行った。
これは、群雄割拠による戦乱が相次ぎ、有名な武将のお抱え医師が生まれたからである。戦国時代の刀、槍、弾丸による外傷、つまり金瘡(きんそう)の治療を専門とする金創医は、金瘡医とも称した。
金瘡(きんそう)の治療法は、負傷者の意識を回復させるため、気付け薬を飲ませてから、止血薬を内服させた。その上で傷口を洗い流し、内臓等が飛び出している場合は、内臓を元に戻したうえで、傷口を縫合した。 切断された筋や骨はつなぐ。とはいっても、筋同士を縫合し、骨折は、その場所の整復と固定である。
鉄砲の弾や矢は、筋肉を弛緩させる抜薬を投与してから除去し、最後に癒薬(きずくすり)と内服薬を投与して、あとは自然回復を待つ。
戦国時代は、戦傷を負う人が多かったことから、金瘡術が発達して、多くの流派が生まれた。また使用する内服薬や塗り薬などは、殆どが秘薬とされ、使用する秘薬などの差によって、多くの流派を派生させている。これは日本の医師は、その使用する薬を秘伝として、他に漏れないように子孫に相伝したからである。薬方が公開されて、どの医師も同じ薬を使用できるようになるのは明治以降からである。

戦陣金瘡治療
とはいえ織豊時代から江戸初期の頃に起こった鷹取流外科などは、従来の腫物外科治療の他に、金創の治療も行っている。
元々外科医は金創の治療も行っていたから、金創医の派生後も外科医による治療も継続されていたのであろう。 また「婦人の産後も、腹の疵(きず)に同じ」と説き、助産も行った。
つまり金創の出血手当ても、お産の出血も同じだとして、平時には、助産医に当たる金創医が出て、産科医と称するようになった。 金創医が陣中で使用した気つけ薬、止血に使用する振出し薬(布の袋に入れたまま湯に浸し、振り動かしてその薬気を出す薬剤。湯剤とも)が産前産後の薬として転用されたものも少なくない。
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傷寒論
『傷寒雑病論』は、後漢末期から三国時代に、張仲景が編纂した「伝統中国医学」の古典で、内容は伝染性の病気に対する治療法が中心となっている。現在では、2部に分かれ、傷寒(急性熱性病)については『傷寒論』、雑病(慢性病)については『金匱要略(きんきようりやく)』として伝わっている。

この『傷寒論』は長い歴史の中で、数多くの治療家によって編纂・校訂されつづけた。
『傷寒論』として現在伝わっているのは、北宋の時代に林億(りんおく)、孫奇(そんき)らが、北宋政府校正医書局で校正・復刻(宋改)した『傷寒論』である。
これら宋改を経た大字本、小字本をまとめて『宋版傷寒論』といわれるが、これも失伝している。小字本の宋改本系として、明・趙開美刻『仲景全書』(1599年)の中に、『翻刻宋板傷寒論』全10巻22篇が日本と中華人民共和国に現存している。
この書は『趙開美本傷寒論』と一般にいわれる。
南宋の成無己(せいむき)による『注解傷寒論』(1144年)では、『宋板傷寒論』と比較すると、『宋板傷寒論』では省略改変が行われているが、『注解傷寒論』は、日本の漢方および中医学に多大な影響を残している。
江戸時代の前半、最も流布した傷寒論は『注解傷寒論』系の傷寒論であった。日本の1660年ごろに作られた、活字刊印の単経本傷寒論も『注解傷寒論』が底本であった。
『傷寒論』では、傷寒の病態を三陰三陽(六病位)と呼ばれる6つのステージに分け、それぞれの病期の病態と、適応処方を記している。
『金匱要略(きんきようりやく)』では慢性病の治法を論じ、その中には循環器障害、呼吸器障害、泌尿器障害、消化器障害、皮膚科疾患、婦人科疾患から精神疾患までの疾病が含まれている。
なお、現在、中医学では『傷寒論』の六病論を経絡と結びつけ、六経説としてとらえている。 『神農本草経』、『黄帝内経』とともに中国医学における三大古典の一つに数えられている。
『傷寒論』は古典であるため、時代を経てさまざまな解釈がある。
主に内容から、一つは、風邪(ふうじや)などの温熱を含めた「外感熱病」の専門書という解釈と、二つは、疾病一般の、診断と治療する方法としての総合書という見解がある。
傷寒論の解釈の違い、林億(りんおく)、孫奇(そんき)らの校正・復刻による宋改の結果、起こったとされている。ただ、中医学の代表古典、『黄帝内経(こうていだいけい)』を土台にしている医学書とされている。
『黄帝内経』は、中医学の原点であり、総合医学といえるが、そこから様々な分野に分かれて、漢方、鍼灸、気功にはそれぞれの特徴と特性がある。後世の人たちが『黄帝内経』の中から、それぞれの領域を専門化したものが漢方や鍼灸、気功である。当時は、気功という言葉はなく、「導引按摩」と呼ばれていた。

さて『黄帝内経』は、前漢代に編纂されており、『鍼経』と『素問』の合計18巻であったと伝えられている。その内容は散逸し、一旦は失われた。現在伝のものは、1155年に南宋の史崧が、霊枢を新たに校訂し、24巻81篇として編纂したものが元になっている。
『黄帝内経』は、陰陽五行説によって記述されており、『素問』が理論的であるのに対し、『霊枢』はより実践的に記述されている。
『黄帝内経』では、病気だけを問題にするのではなく、その人の習慣や感情の傾向、食事、住んでいる土地、季節などとの関わりから、総合的に診て治療方針を決めていた。つまり、人が健康で寿命をまっとうするためには、どのようにあるべきか、哲学の観点から病気を考えていた。

『黄帝内経』
日本で現存する最古の医学書『医心方』は、『黄帝内経』や『注解傷寒論』など、隋・唐時代以前の、二百以上の文献から、病気の養生、医師の心得など抜き出し、症例別に編集した日本最古の医学書である。
この書では、経絡の概念にとらわれず、身体の部位別に経穴の記載し、脉診(脈診)についての記載を避けるなど、哲学を排除し、実用化・技術化している。また鍼灸を独立した篇として扱うなど、当初より日本化する傾向がみられる。
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六経弁証
六(ろく)経(けい)弁(べん)証(しよう)とは、漢代の張仲景が『傷寒論』で示した弁証方法で、「外感熱病」の経過による症候を分析し、経(けい)絡(らく)、臓腑、気血および八綱(陰・陽・病位・病情・病勢・気・血・津液(つばき))と結びつけた上で、太陽病、少陽病、陽明病、太陰病、厥陰病(けついんびよう)、少陰病という六つの病症に分類し、病変部位、病変の性質、邪正の盛衰、病勢の成り行き、それらの転化および治療方法を示している。
傷寒病の病状変化の情況を、総括的に六つの領域に識別分類しているため、三陰三陽の分類は、外感熱病がある段階において、あらわす症候で、独立した疾病ではない。
また、三陰三陽の六経には、相互に有機的関連が存在し、外感熱病の発病に際して、合病や併病がある場合や、相互に転化する場合もある。 各経の主な症状と、熱形を分類識別することには、一定の意義があるが、衛気營血弁証(えきえいけつべんしよう)のような総合的な識別に比べ、六経弁証は、症候からのみの分類識別で、不充分な点が残っている。

「六経弁証」では、寒邪(風邪)が身体を侵す状況を主に分析しており、太陽病は表証(風邪の初期病症で、病邪が体表にあり、悪寒、発熱などの症状を呈する病態。)、少陽病は、半表半裏証、陽明病は裏証(病邪が臓腑に侵入して引き起こす病変)であり、三陰病はすべて裏証であるとしている。
邪正の関係では、三陽病は、正盛邪実が主体で実証、熱証が多く、三陰病は、正虚が主体で寒証、裏証が多い。一般に、三陽病は、太陽病から始まり、直接あるいは少陽病を経過して、陽明病へと変化するとしている。正気が虚弱であれば、さらに三陰病へと変化したり、開始から邪が直接三陰に侵入することもある。三陰病は、太陰病から始まり、厥陰、少陰へと伝変することが多い。

以下は、『傷寒論』に基づく、病の三陰三陽の六つの病症である。
太陽病
悪寒、発熱、頭痛、項が強ばる(表実証で汗が出ないもの)
表証= 人体の表位、陽位に布行しており「一身の皮を主る」ともいわれる。太陽病では表証が最も特徴的である。
太陽傷寒証(表寒、表実)= 悪寒、発熱、頭痛、身体痛、無汗。
太陽中風証(表寒、表虚)= 悪風、発熱、頭痛、自汗、鼻鳴。
腑証= 表邪が経脈を通じて手足の腑に入った病態。
蓄水証= 発熱、口渇、多飲、飲むとすぐに吐く、尿量減少。
蓄血証= 発熱、下腹部の硬満、排尿は正常、狂躁状態。
少陽病
来寒熱(熱があるとき悪寒せず、悪寒するときには熱がない)、喉乾き、口が苦い、めまい、胸脇部が膨満して苦しい、むかついて嘔吐したがる、食欲がない、大便乾結、身体の痛みがある。
外邪が直接少陽に侵入するか、太陽病から少陽へと伝入する。
少陽半表半裏証= 往来寒熱或いは微熱、胸脇部が脹って苦しい、食欲不振、いらいら、悪心、嘔吐、口渇、腹痛、動悸、尿量が少ない、咳嗽、咽痛、目眩、口が苦い。
兼証= 表証の微悪寒、関節痛など、陽明熱盛の日晡潮熱など、心下熱結の心窩部の痞え、嘔吐、下痢あるいは便秘など、邪熱上擾心神の煩驚、うわごと。
陽明病
邪が陽明に直接侵入するか、太陽病、少陽病から陽明へと病邪が内部へ進行し、裏熱証に転変したもの。
陽明熱盛(経証)= 悪熱、高熱、汗が出る、口渇、多飲、元気がない。
陽明熱結(陽明腑実)= 高熱、悪熱、日晡潮熱、意識障害、うわごと、腹満、拒按、便秘。
太陰病
発熱がなく、腹部膨満、嘔吐、下痢、口渇なし、食欲がない。
多くの場合、三陽病から伝経変化したもの。普通は発熱がない。脾胃が寒湿の邪に侵された状態。
寒傷脾陽= 腹満、時に腹痛、温めると気持ちがよい、悪心、嘔吐、食欲不振、泥状から水様便、口渇がない。
脾虚肝乗= 腹満、絞約性の腹痛。
厥陰(けついん)病
四肢が冷える。冷えがひどくて熱が少ないか、逆に熱が高く冷えが少ない。精神錯乱。口渇、喉乾燥、気が上攻して心を突き上げる。心窩部が痛み熱っぽい。空腹だが食べたくない。場合によっては回虫を吐き出すなどがある。病状のあらわれが複雑で、重い陰経病となる。寒熱が錯雑し、冷えと熱がともに盛んとなる。
上熱下寒= 胸中の熱感、強い口渇、飢餓感などの上熱と、食欲不振、腹や下肢の冷え。
厥熱往復= 四肢の冷え、寒けなどと発熱、熱感、咽痛などが数日の感覚をおいて繰り返す。
寒厥= 邪が厥陰に入って気機を阻滞するために、陽熱が布達できないで厥冷を呈する状態。
寒厥= 寒け、冷え、腹痛、不消化下痢、筋肉のひきつり
寒滞肝脈= 手足の冷え、大腿内側から下腹両側の冷え痛み、陰のうや外陰部の収縮。
熱厥= 四肢末端の冷えとともに、発熱、胸腹の熱感、口渇。
少陰病
気力が衰える、悪寒、手足が冷える、眠りたがる(眠っているようで眠っていない)
心腎ともに傷ついて、陰気、陽気、元気、營血などすべて虚したことによる。臨床上では、陽気の虚がとくに目立つ。陽虚裏寒証。
少陰寒化証=元気がない、うとうとする、寒がる、冷える、踡臥する、不消化下痢、尿量が多い。
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