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第六章 江戸時代の医学  江戸時代の医師  
 ・本草学
 ・平賀源内
 ・江戸期の李朱医学  
 ・名古屋玄医  
 ・後藤艮山   
 ・山脇東洋  
 ・吉益東洞  
 ・蘭学事始め  
 ・解体新書  
 ・華岡青州  
 ・乳がん摘出手術  
 ・江戸幕府の医師制度  
 ・シーボルト 
 ・シーボルト江戸参府紀行  
 ・江戸の蘭方医
 ・多紀元堅ー楽真院  
 ・漢方医と蘭方医の相克  
 





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  第六章  江戸時代の医学


 

江戸時代の医師

 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、江戸幕府を開いてから、徳川慶喜が大政奉還するまでの、二百六十五年間を江戸時代という。
 江戸時代の最大の特徴は、身分固定制度と封建制度、さらに鎖国制度を特徴としている。
 侍と百姓・町民の間での身分異動を禁じ、あらゆる身分が世襲制となった。この身分世襲制と、封建制度を維持するため、キリスト教を禁じ、特に儒教を奨励し、武士道や、道徳や倫理の高揚を第一義として国を治めた。さらには、長崎でのオランダと清国以外の貿易を禁じ、世界に対して国を閉じて、いわば世界から孤立する立場をとった。

     徳川家康
       徳川家康

 幕府の政治方針は、すべてが先例主義をとり、鎖国制度を維持するこで、新しい事柄を排除する仕組みが作り上げられていた。
 江戸時代は、世界の進歩から取り残された、停滞の時代といえる。
 このような身分固定制度のなかで、唯一の例外が、医師の道であった。家督を継げず、養子の口もない武家の子や、農民でも二・三男、また町人の中からも、身分的拘束のない医師を目ざす者が多くなった。
 律令制が崩壊して以降、朝廷を除き官であった僧医がなくなり、医師は民間のなかから医業の知識と、臨床体験を身につけた者たちが主役となっていった。いわば、誰でも自由に、医業を行うことが出来るようになった。
 こうして、医師は身分制度の法外の者として、頭を剃り上げた僧形の姿をとった。
 僧形の姿をとることで、将軍家の大奥や大名の私的な奥へ入り、脈をとり、施薬をすることができるようになった。 
 さらには将軍や大名、あるいはその家族の病の治療に、高い効果を上げると、異数の出世を遂げる者がでた。これは治療費という概念がなく、治療に対する謝礼という習慣で、病状に合わせて高額な謝礼や高い地位を与えられたのである。
 通常、将軍家には侍医である奥医師がいて、各大名にも御抱えの藩医がいた。それらの御抱えの侍医に、手に余る重篤の病を癒えさせた者は、高い位を授与された。
「高い治療効果をあげる医師には、高い録を与えるな。高い位階をあたえよ。」と家康の遺訓にあり、侍医で高い位階をもらった医師も数多い。法橋(ほつきよう)、法(ほう)眼(げん)、法(ほう)印(いん)などの位階があり、僧位に準じて、医師・儒者・仏師・連歌師・画工などに授けた称号で、僧形となるが僧籍には入らない。

          奥医師装束
           奥医師の装束
    
 ちなみに法(ほう)印(いん)が最高の僧位である。幕府の医師制度では、医師最上席は、従五位法印に叙せられた。
 江戸時代の医官制度は、五代将軍・徳川綱吉の頃に整えられた。
 将軍家の侍医団は、幕府の最高医官である典薬頭は、半(なから)井(い)と今大路(いまおおじ)の両家が世襲し、殿中表方を診療する番医師、不時の御用に備える寄合医師、小普請(こぶしん)医師、小石川養生所の養生所医師などがあった。

 江戸時代の町医者でも多くが剃髪していたが、これはかって医者は僧医であった名残であり、かつての僧医が、町医者に転じた者も多かった。
 また戦乱の時代には、従軍医として僧侶のように剃髪し、非戦闘員であることを表した戦国の名残でもある。
 医業は誰でも開業できるが、医術を習得するには名のある医者に弟子入りし、医学を学ばねば治療はできない。
 師匠に腕を認められ、代診の期間を経て、師匠に独立を許された後に開業する。腕の未熟な弟子を世間の送り出すと、師匠の評判にも関わるだけに相応の腕前がつくまでは独立を許さない。凡そ10年から20年間の修行を経て独立していた。
 医業を目ざす者は、基本的に医書の多くは、漢文で記されているから、漢文を学ぶためにもまずは「四書五経」を必ず修める。学ぶ機会がなかった者は、一旦僧籍に入って基礎教養を身につけた。そして名のある医師の流派の門下生になる。例えば江戸初期であれば、曲直瀬(まなせ)道(どう)三(さん)流の流派に属する医師の門下生をめざした。
 また大名に仕える儒学者を兼ねている医者は、儒医と呼ばれた。
 儒学者が医者を兼業するのは、儒学者としての収入が少なく、医学書を読むことができたからである。町医者でもその名が高名になれば、幕医や藩医へ取り立てられることも多かった。
 将軍家の侍医団は開業出来ないが、各大名の侍医や藩医は、藩からの俸禄が少なく、修行を名目に町医を開業している者が多かった。一方、京の朝廷に仕えていた医師は、あくまでも代々世襲の医官であった。
 
    奥医師一覧  奥御医師一覧

 診療科は、内科は本道と呼ばれ、他の科より権威があった。
 他に外科、眼科、口科(歯や喉、唇を診察)、鍼灸科、児科(小児科)、産婦人科などかなり専門医に分化していった。
 医師の診察方法は、既往症や症状を患者から聞く「問診」、患部に触って患者の反応から診断する「触診」、患者の目や唇、舌など顔色や挙動を見て診断する「望診」がある。また排泄物も診断の重要な材料にした。「聞診」では、呼吸音や動悸、体臭からも診断した。病によって体臭が異なることもある。この四つが、江戸時代では基本的な診察方法であった。
 さらに後藤艮山は、既存の診察方法に「手足看法」と「候旨(こうし)」、「按診(あんしん)」を加えた。「手足看法」は、手足のむくみや腫れの有無を調べ、「按診」は、臓器のある部分を指で押して、内臓の沈殿や動きを調べた。「候旨」は背骨の曲がりや肉付き、片寄りがないかをみた。
 現在でも漢方を専門とする医者は、現代医学と併用してこのような方法で診察している。

       薬種問屋
         薬種問屋

 施薬では、薬種問屋の薬を用いるが、医者が独自に病状に合わせて調合処方し、薬草を煎じ薬、貼り薬や塗り薬として用いたが、その処方はその医家の秘薬と称して秘伝であった。
 診察料は、薬礼と呼ばれ、薬代と併せて請求した。
 後で触れるが、江戸時代初期の名医とされる永田徳本は、身分に関わらず18文しか請求しなかったことで有名である。平均的な町医の診察料は一分から二分、薬代が三日分で一分、七日分で二分であったらしい。蘭法医の影響から、次第に診察料と薬料を別々に請求するようになった。
 江戸時代では、公立病院の性格を持つ、幕府の「医学館」と「小石川養生所」があった。医学館は、現代の医科大学に相当する。
 明和二年(1765年)に、奥医師の多紀元至が、医家の子弟育成を目的に私立の医学館を建てたが、のち全焼して再建してから、幕府所管となり「医学館」と改称した。
 医学館は現代の医科大学に類似し、基礎を学んだ学生が、来館した患者を診察し、所見(カルテに相当)と処方箋を、教授へ提出し、教授が内容を確認し、適切と判断すれば薬の調剤を命じた。

      幕府の医学館
        幕府所管「医学館」

 医学生の教育が目的で、患者の負担は一切なく、困窮した入院患者には食事を支給した。
 困窮者救済策として、享保七年(1722年)に設立されたのが小石川養生所である。医者は寄合医師や、小普請医師など御役についていない幕医であったが、のちに町医者が担当するようになった。
 設立の主旨から貧窮者を対象し、外来患者は最初の一年間だけ受け付けたが、あまりの多さに入院患者に限定になった。
 入所期間も、当初は20カ月までと決められていたが、後に、12カ月と短縮され、期間が過ぎれば強制的に退去させられた。





本草学

 

 自然界に存在するものを収集・分類する試みは、太古から行われてきた。古代ギリシアではアリストテレスの『動物誌』、古代ローマ時代ではプリニウスの『博物誌』などがある。
 東洋では「本草学」と呼ばれ、薬草(漢方薬)だけでなく、植物や自然に関する現象を探求する学問のことをいう。本草とは、薬の本となる薬草のことで、転じて、薬物となる鉱物、鳥獣、虫魚、亀貝などの動植鉱物を総称したものをいう。
『神農(しんのう)本草経(ほんぞうきよう)』は、中国最古の薬物学書であり、個々の生薬の薬効について述べている。中国古代の伝説の帝王で、農耕・医薬・商業の神であった「神農」に因んでその名がある。

       神農本草経神農本草経
         『神農本草経』

 一年の日数に合わせた365種の薬物を上品(じようほん)(120種)、中品(ちゆうほん)(120種)、下品(げほん)(125種)と、薬効別に分類している。(上薬、中薬、下薬ともいう) 上品は養命薬(生命を養う目的の薬)で、無毒で長期服用が可能で、身体を軽くし、元気を益し、不老長寿の作用がある。
 中品は養性薬(体力を養う目的の薬)で、使い方次第では毒にもなるので注意が必要とされる。病気を予防し、虚弱な身体を強くする。
 下品は治病薬(治療薬)で、毒性が強いものが多く、病気を治すために用い、長期にわたる服用は避けた。
 このように『神農(しんのう)本草経(ほんぞうきよう)』では、保健もしくは予防的な薬物が上ランクに、治療薬が下ランクに位置している。『黄帝内経』、『傷寒雑病論』とともに、中国医学における三大古典の一つに数えられる


 『本草綱目本草経』
 『本草綱目(ほんぞうこうもく)本草経(ほんぞうきよう)』は、中国の本草学で、分量がもっとも多く、もっとも充実した本草学の著作である。
 著者は明朝の李時珍で、1578年に完成、1596年に南京で出版された。 日本では数年以内には初版が輸入され、本草学の基本書として大きな影響を及ぼした。中国では何度も版を重ねたが、日本でもそれらが輸入されるとともに、和刻本も長期に亙って数多く出版され、それら和刻本は3系統14種類に及ぶ。

  
 本草綱目本草経
    本草綱目本草経

 全52巻、収録薬種は1892種(374種は新収)、図版1109枚、処方11096種(うち8000余は李時珍自身が収集、確定したもの)にのぼる。
 薬物ごとに釈名(名称の考証)・集解(産地の注解)・正誤(それまでの文献における間違いを訂正)・修冶(製造方法)・気味・主治・発明・処方(民間に流布される処方を収集)などの項目が立てられている。 なお、第52巻には、人体の薬物利用について、35の部位が収載されている。


 『本草和名』
 日本では、10世紀の平安時代前期に、日本初の漢和薬名辞書『本草和名』が編纂されている。大医博士深根輔仁(ふかねのすけひと)が、醍醐天皇の勅命をうけて延喜年間(901‐923)に編纂されている。
 「和名本草」「新抄本草」などの書名のほか、「輔仁本草(ほにんほんぞう)」の名もあった。当時の官医のテキストであった、唐の『新修本草』を主体とし、その他の薬草書も参照して、本草1025種の薬物の漢名に、それぞれ和名を仮名で当て、異名・産地、和産の有無、などを注記しており、平安前期の日本国内の動・植・鉱物名を知るうえに重要な資料となっている。
 
  『本草和名』『大和本草』

 江戸時代には1607年の『本草綱目』の輸入をきっかけに、本格的な本草学研究が興った。その研究は江戸時代にもっとも盛んであり、とくに小野蘭山が本草綱目について、口授した「本草記聞」を、孫や門人が整理して出版した「本草綱目啓蒙」(48巻、享和3年刊)。また、岩崎灌園の「本草図譜」(96巻、文政13年刊)などが著名である。
 林羅山は1612年に『多識篇』を著わし、『本草綱目』を抄出した。 


 『大和本草』
 以後さらに研究が進められ、『大和本草』(1708年)を著わした貝原益軒や、田村藍水などの著名な本草学者が出現した。
 『大和本草』は、貝原益軒が編纂し、1709年(宝永7年)に刊行された本草書である。
 明治時代に、生物学や農学の教本が西洋から輸入されるまでは、日本史上最高峰の生物学書であり農学書であった。現在、江戸時代までの生物学書や農学書の資料は、『大和本草』以外は残っておらず、当時の日本独自の生物学や農学を知る上において第一級の資料である。
 益軒は『本草綱目』の分類方法をもとに、独自の分類を考案し編纂、収載された品目は1,362種、本編16巻に付録2巻、図譜3巻、計21巻の構成であるる。薬用植物(動物、鉱物)以外にも、農産物や無用の雑草も収載されている。
 また『大和本草』は、古典に記載された物の実体を、確定する名物学的側面も持っている。本来の本草学とは、薬用植物を扱う学問で、このこの本草に於いて、日本の本草学は博物学に拡大された。

     『大和本草』

 これらは益軒が本草学にとどまらず、農学、儒学、和漢の古典など多数の学問に通じていたからこそ出来たことでもある。
 また『大和本草』には、漢名の無い品目も多数収載されている。
 益軒以前の日本の本草学は『本草綱目』を分析する文献学であった。他の学者は、漢名のない日本独自の物は無視して取り上げない、あるいは無理に当てはめるというようなことをしたが、益軒はそれをしなかった。また、図版を多く用いることで理解を助ける、仮名が多く使われていることも、当時の学問書としては異例のことである。
 これは益軒が、学問を真に世の人の役に立つものにしたいという思いの現れである。益軒は自ら観察・検証することを基本とした。
 この後、日本の本草学は文献学から脱皮し、自らの足で歩き植物を発見・採取する本草学者が現れるようになった。



『和漢三才図会』
 『和(わ)漢(かん)三(さん)才(さい)図(ず)会(え)』は、寺島良安によって、江戸時代中期の正徳2年(1712年)に編纂された、日本の類書(百科事典)である。
 この書は、内容を事項によって分類・編集した書物で、百科辞典的な性格を有している。『倭名類聚鈔会(え)』『嬉遊笑覧会(え)』なども類書である。
 編纂は大坂の医師寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭され、これが編集の動機となった。

     『和漢三才図会

 明の王圻による類書『三才図会』を範とし、絵入りの百科事典形式で、
全体は105巻81冊に及ぶ膨大なもので、各項目には、和漢の事象を天(1-6巻)、人(7-54巻)、地(55-105巻)の部に分けて並べて考証し、図(挿絵、古地図を添えた。約30年余りの歳月を費やして編纂されている。
 各項目は、漢名と和名で表記され、本文は漢文で解説されている。

      『和漢三才図会』本文


 木版による印刷で版元は大坂杏林堂。
『三才図会』をそのまま写した項目には、空想上のものや、荒唐無稽なものもあるが、博物学などでは貴重な文化遺産といえる。
 博物学者南方(みなみかた)熊楠は、全巻を筆写したという。また著者が漢方医であるだけに、東洋医学に関する記事は非常に正確で、鍼灸師の中には、これをもっとも信頼できる古典と見る人もいる。



 『庶物類纂』
『庶物類纂(しよぶつるいさん)』は、江戸時代中期の本草学者で、加賀金沢藩の儒医で医学者、本草学者あった稲生若水(いのう じやくすい)と、その弟子の丹羽正伯らが編纂した博物書である。古今の漢籍から植物、動物、鉱物、薬物などの記事を調査し、その3590種の記事を、それぞれの種類・分類を精査し、26属に分けて分類後、再編集を加えた漢文による博物書である。

       庶物類纂 本文庶物類纂 本文
         庶物類纂 本文

 稲生若水は、淀藩の御典医稲生恒軒の子として生まれ、医学を父から学んだ。その後、本草学を、大坂の本草学者福山徳潤に学び、京都の儒学者伊藤仁斎から古義学派の儒学を学んだ。
 元禄のころになると、若水の学識は広く知られるところとなり、学問、教育に熱心であった、加賀金沢藩主・前田綱紀がその名声を知り、元禄6年(1693年)、若水を儒者として召抱えることになった。

            稲生若水
              稲生若水

 このとき、稲生若水が、藩主前田綱紀に、「物類考(ぶつるいこう)(博物書)」の編纂を申し出て許可された。この結果、京都と金沢の隔年詰が、認められて編纂を開始した。
 若水は、漢方、薬物などを中心とした本草学に、さらに動植物全体も含む博物学への方向性を打ち出した。京で研究に努め、支那の典籍174種に記載されている動植物関係の記述を広く収集し、統合や整理、分類を施して、1697年に執筆を始め、26属1000巻の予定で編纂を開始したが9属362巻の記述を終えた時点で、京都の北大路の家で正徳5年(1715年)に死去した。
 若水の子の稲生新助や、弟子の丹羽正伯らが、その遺志を継いで続編の編纂を開始した。4年の歳月をかけて638巻を書き上げて、計1000巻にわたる大著が完成し、加賀藩主に提出し、加賀藩はそれを幕府に献納した。のちに八代将軍徳川吉宗の下命で、丹羽正伯らにさらなる増補を命じ、延享4年(1747年)に完成し、現在の形となった。





 平賀源内

 平賀源内は、江戸時代中頃に活躍した本草学者で、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家など、あらゆる分野に才能を発揮した異色の人物で、日本のダ・ビンチともいわれている。その類のない破天荒な性格と、その多岐にわたる才能の発揮や、飽くなき探究心と果敢な行動力で、まさに波瀾万丈の人生を送っている。

          平賀源内

 讃岐国(香川県さぬき市)で、高松藩の足軽身分の家に生まれた。
 源内は、幼少の頃にから、さまざまな天分を発揮し、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学と儒学を学び、また、俳諧グループに属し、俳句や連句にも才能をみせた。父の死により、家督を相続して藩の蔵番となった。宝暦2年(1752年)頃に藩命で間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学んでいる。遊学によって、源内の眠れるあらゆる才能がうずき、吹き出す探究心に火が付いた。
 藩に拘束される仕官の身分では、自由に他国へ往くことが出来ず、自由な勉学の機会を求めて、藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせ家督を放棄した。
 そのご後、大坂、京へ遊学し、さらに宝暦6年(1756年)には、江戸に出て、本草学者田村元雄に弟子入りして本草学を学び、さらに林家に入門し、湯島の聖堂に寄宿した。聖堂は、儒学を主とした学校で、林羅山が創設した家塾に始まる。元禄3年(1690)将軍綱吉が、孔子廟先聖殿とともに、「弘文館」を湯島昌平坂に移し、大成殿(聖堂)を造営して、林家当主に主宰させ、のちに幕府直轄の昌平坂学問所となった。

      林羅山と昌平坂学問所
          林羅山と昌平坂学問所


 平賀源内は、単なる儒者や本草学者で収まるような、いわゆる学者肌の性格では無かった。どちらかというと、山っ気が多く、一獲千金を目論む事業家、起業家の性格を持っていた。こうして2回目の長崎遊学では、鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶんでいる。
 宝暦11年(1761年)には、伊豆で鉱床を発見したり、各地の物産を集めて物産博覧会をたびたび開催し、産物のブローカーを行っている。
 この頃の鉱床発見で、幕府老中の田沼意次にも知られるようになっている。
 本草学者として名を成した源内は、宝暦9年(1759年)には、高松藩の薬坊主格となったが、藩の許可なく旅行できない事に不便を感じ、宝暦11年(1761年)脱藩した。この事によって、高松藩から「奉(ほ)公(う)構(こう)」という刑罰をうけ、以後、幕臣への登用を含め、他家への仕官が不可能となった。宝暦12年(1762年)、物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催している。江戸では知名度が上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友している。
 宝暦13年(1763年)、物産の図鑑『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』を刊行した。

   

       『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』
         『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』

 魚介類・鳥類・植物などを図鑑としてまとめる作業は、大名などのあいだで流行し、極密の魚介図譜・禽獣図譜などが作られた。これらの多くは、美術的にも評価が高い。
 源内は自ら「天竺浪人」と名乗り、明和3年(1766年)から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で、奥秩父の川越藩秩父大滝の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見し、秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行っている。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。
 安永2年(1773年)には、出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれ、鉱山開発の指導を行っている。秋田秩父での鉱山開発では、木炭の運送事業、羊を飼っての毛織物生産、輸出用の陶器製作、珍石・奇石のブローカーなど、様々な事業に手を出した。
 まさに事業家としての面目薬如であった。
 また静電気発生装置「エレキテル」、燃えない布である火浣布(かかんぷ)(石綿)、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明品を生んだ。

        静電気発生装置「エレキテル」
         静電気発生装置「エレキテル」

 正月に初詣で買う縁起物、破魔矢を考案したのも源内である。
 一方、画才、文才も惜しみなく発揮し、油絵を習得して日本初の洋風画「西洋婦人図」を描き、司馬江漢、小田野直武(「解体新書」の挿絵画家)らに、西洋画法を教えた。浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、この版画革命を受けて色とりどりのカラフルな浮世絵が誕生した。
 大名屋敷の修理を請け負ったとき、酔って修理計画書を盗まれたと勘違いし、大工の棟梁2人を殺傷した。
 このため投獄され、破傷風により獄死した。享年52歳。杉田玄白らの手で葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。
 その後杉田玄白らによって蘭学が成立すると、ヨーロッパから渡ってきた博物学書の翻訳が行われた。
 大槻玄沢や司馬江漢が、オランダ渡りの図鑑をいくつか翻訳して公刊した。博物学的知識は、実用可能である上に、当時の幕府が危険視するような思想的背景が薄いため、かなり早くから流入し、本草学にも影響を与えている。




江戸期の李朱医学

 江戸時代初期は、曲直瀬(まなせ)道(どう)三(さん)流派の後継者、曲直瀬玄遡(げんさく)の李朱医学が一世を風靡していた。玄遡は、幼少のころに両親を失い、母の兄である道三に養育された。天正9年(1581年)にその孫娘を娶って養嗣子となり、道三流医学を皆伝された。やがて将軍家の奥医師になり、天正14年(1586年)に法印になった。文禄元年(1592年)に朝鮮出兵で朝鮮に渡ったが翌年帰国、喘息発作に苦しむ関白豊臣秀次の診療をした。
 文禄4年(1595年)、秀次の切腹に伴い常陸国に流されるが、のち赦免される。慶長18年(1613年)、徳川秀忠の病を治して江戸に招かれ、城内に邸宅を賜わり、京都と江戸に交代で住むようになった。

     脈経(みやくきよう)
        脈経(みやくきよう)

 玄遡は、李朱医学を基本としながらも、多くの医書と本草書を研究して、診察は『脈(みやく)経(きよう)』(脈診書)を主とし、処方は張仲景を宗とし、用薬は李東垣(りとうがい)を、諸症の判断は朱丹渓(しゆたんけい)を専らにし、熱病は劉完素、外感は張仲景、内傷は李東垣(りとうがい)、雑病は朱丹渓(しゆたんけい)の法を採用するなど、諸家諸説の長所を積極的に取入れることを主張した。また、玄朔には多くの著書がある。
 その中の『医学天正記』は、玄朔が28歳のときから58歳までの、30年間にわたる診療記録を整理し、中風から麻疹に至る60の病類部門に分類して、患者の実名、年齢、診療の年月日を入れ、日記風に記載されている。医学史の文献としても、重要なものである。

      医学天正記
          医学天正記

 正親町天皇、後陽成天皇を初め、信長、秀吉、秀次、秀頼、秀忠などの関白将軍や、公卿左大臣近衛公を筆頭に、公達、女院、文人墨客、毛利元輝、加藤清正などの諸大名、その他の重臣、家臣足軽から一般庶民に至るまで、三四五例に及ぶ治験集である。
 この書によって、金元「李朱医学」が、初代道三と玄朔によって、どのように日本化され、後世派医学のいわゆる「道三派」として流布されたかがわかる。またその診察法や、治療体系の概略を、臨床記録を通じてうかがい知ることができる。また『延寿撮要』『十五指南篇』などもある。
 こうした経緯で道三流派は、江戸初期の医師の主流派であった。

     岡本玄治(げんや)

 曲直瀬玄遡の門下生にも、岡本玄(げん)治(や)や野間玄琢その他の名家が出て、もに一代の師表として学を伝え術を施し、ついに道三流学派の勢力を天下に知らしめた。
 岡本玄(げん)治(や)は、16際で玄遡の門下生となって医学を学び、在学十年で玄遡門下生の筆頭となり、玄遡の娘を妻とした。
 慶長年間に家康に拝謁し、元和年間に法眼に叙せられた。
 徳川秀忠の医官となって江戸にでて、法印に進み、三代将軍家光の侍医として、家光の治療にあたり、たちまち治癒した。
 のちに、家光またも病を得て、玄治の薬で治癒した。この貢献によって菜地千石を賜った。
 野間玄琢は、その父が玄遡の友であったため、玄遡の学僕となった。
 門下生として説くに優秀で、やがて法(ほつ)橋(きよう)に元和年間には法眼に叙せられた。寛永3年、徳川秀忠に仕えて医官となり、のち法印となった。
 また著作を多数残している。






名古屋玄医 

 江戸時代の初期、儒医の名古屋玄医が出て、実証主義の中国古代の医学(古方派)にもどり、宋時代以降に盛んになった五運六気、十二支、三陰三陽などの、理論中心の「李朱医学」から脱出しようとした。
 名古屋玄医は京都に生まれ、『経書』(四書・五経・九経・十三経の類)を足利学校の羽州宗純に学び、周易筮儀(ぜいぎ)筮竹(ぜいちく)によって卦(け)を得、その卦によって将来の吉凶を占う)に長けていた。
 医学は壮年になって志し、明の喩嘉言(ゆかげん)の『傷寒尚論』『医門法律』を学んで開眼し、当時盛行の後世(ごせい)派の医説、「李朱医方」の陰陽五行説による病因病理を否定し、医学の源流にさかのぼって、後漢の張仲景の『傷寒論』の実証精神に戻ることを主張した。
 特に『周易』(古代の占術の)の本義は「貴陽賤陰」(陽を貴んで陰を賤しむ)にあると会得してから、この理に基づいて、『内経』『難経』『諸病源候論』『傷寒論』『金匱(きんき)要略』の諸書を、一貫した医書として把握しようとした。玄医は、張景岳・程応旄の学説の影響下で、衛気(本来もっている防御力)の虚を助けることを病気の治療法として、そのあとで残った病状に対し、虚実を考慮して治療することを説いた。
 
      『傷寒尚論』
           『傷寒尚論』


 江戸時代の始めの医学は、曲直瀬道三の学流が最も盛んであった。
 曲直瀬流の特徴は、陰陽五行説に基づく、臓腑経絡をもって、疾病の病理、予後、治療を論ずることであった。

           曲直瀬道三
              曲直瀬道三

 「五臓六腑」に立脚した考え方では、とかく温補(冷えた体を温める)の剤を多用する弊害が生じやすいと考えるに至った。五臓六腑とは、伝統中国医学で、人の内臓全体を言う。現代医学の解剖学とは異なる概念。陰陽五行説による解釈では、五臓も六腑もともに五行に配当され、それぞれの役割などについて説明されている。
 温補の説は、金元の時代に李東垣、朱丹渓が出現して盛んになったが、江戸時代の始めには、やみくもに温補した結果、下剤を用いるべき時機を失し、命が損なわれるという事例も多かったのであろう。
 ところで、名古屋玄医の「玄」は、曲直瀬玄朔の一門の名に由来する。
 当然、玄以は、曲直瀬玄朔からも多くを学び、結果として、李東垣、朱丹渓の教えを墨守する危険を説いて、張仲景の考え方に戻ることを主張したのである。つまり玄医の学説は、道三派である「後世派」の学説を否定する形で構築されたのではなく、張景岳など「易水学派」と程応旄などの「錯簡重訂派」の影響下に形成されていると言われている。
 この故に、貴陽賤陰、扶陽押抑陰を、治療指針とする独自の生命観に立って、古典への回帰を説き、その線上に『傷寒論』があった。
 こうした医学思想の基盤は、当時の儒学、特に仁斎学にあると考えられる。玄医の「万病はすべて寒気の一つに傷られるによって生ず」という病因論や、経験主義的実証主義は、後藤艮山や吉益東洞に連なり、内藤希哲の医説には、重要な部分で玄医の思想が受けつがれている。
 これ故に、玄医は古医方派の始祖とされる。
 ついでながら、医療としての抜歯は、日本では名古屋玄医の著した『医方問余』(1679)に記載されている。具体的な手法は、ある薬剤を歯肉に用い、歯を弛緩させて脱落させたという。
 諸藩からの仕官の招きもことわり、在野で活躍したが、生来、多病で晩年にはつねに病床にあり、46歳頃から運動麻痺となり、両手両脚も痿痺して廃人の如くなったが、気力は少しも衰えず、診療に従事するとともに著作に打ち込んだ。

        『難経註疏(ちゆうそ)』
            『難経註疏(ちゆうそ)』

 『医方問余』をはじめ『難経註疏(ちゆうそ)』『金匱(きんき)註解』『丹水子』『食物本草』などが知られている。

       名古屋玄医著作集
           名古屋玄医著作集

 漢方医学の歴史で、玄医は後の後藤艮山(こんざん)や、山脇東洋、さらに吉益東洞らの、いわゆる古方派の先駆けとされている。 玄医が残した家訓は、その著書『丹水家訓』の第四訓には、診察の際の心得として、望診には素問の『玉機眞藏論』などを参観すべしと述べ、さらに第五訓には、「頭痛には頭痛を治し、腹痛は腹痛を治し、咳は咳を治し、喘は喘を治す。みな仲景の方に随う」としている。
 これらの家訓からは、後のいわゆる古方派のような、極端な立場にはないことが分かる。さらに玄医には、後藤艮山や山脇東洋のような、解剖に対する関心は皆無であったことも特徴である。





後藤艮山

 後藤艮山は、古医方派と呼ばれる江戸中期の、医学革新運動の先駆者であった。ただし、古医方派という呼称は、彼の門人である香川修庵や山脇東洋の代になってから、使われたものである。艮山自身は、金、元の医術「李朱医学」が、陰陽五行説などの空理空論に流れる傾向があったのに対して、後漢末の張仲景の『傷寒論』に戻ることを主張した、名古屋玄医の流派を汲み、古医方派を代表する医師とされている。

          後藤艮山
            後藤艮山

 後藤艮山は、1659年(万治2年)、江戸常盤橋辺で生まれ、俗称左一郎と称した。艮山は号である。 幼時より聡明で、少年の頃より学問を好み、林祭酒のもとで経学を学び、さらに牧村ト寿に医学を学んだ。
 その頃から、すでに従前の医学に対する疑惑の念が生じていたという。
 当初、名古屋玄医に師事しようとしたが、入門を断られ、独学で医学を学んだ。27歳のとき、江戸から京に移り、相国寺西の室町に居を定め、名を養達と改め、医師として開業した。
 貧苦のなかで育った艮山は、救民のために尽し、時に薬を無料で施したので、患者は跡を絶たなかったという。治療は灸を施し、熊胆、蕃椒(トオガラシ)を服用させ、湯に入ることを奨励したので、「湯熊灸庵(ゆのくまきゆうあん)」と評された。これは血行を良くし、自然治癒力を促進する方法である。
 また按腹(あんぷく)を採用して治療効果を上げた。つまり腹をもみさする按摩術で、血行・胃腸機能・吸収・排泄を盛んにするという方法で、「一気留滞」を解消させる治療を行った。診療に当たっては常に、経験を重んじ、古医方の確立者となった。

        後藤艮山の一気留滞病因説
          後藤艮山の一気留滞病因説

 その後、住居を狩野に移して養庵と号し、次第に医名が高くなり、門人は二百人を超え、そ中でも香川修庵、山脇東洋らが高弟として有名である。その後、禁門前の正親町に移り、ここを終生の居とした。 艮山について特筆すべきは、従来の医師の多くが髪を剃り、僧形となり、僧の位階を受けていたのに抵抗して、艮山は髪を束ね、平服を着用した。世人はこれを後藤流と呼んで、多くの医家がこれに追従し、形の上でも、医業が仏教から独立し、医師の社会的地位確立の原動力になった。吉益東洞の「万病一毒説」とともに、目本人の病因論として目本医学史上に不滅の光を放っているのは「一気留滞説」である。
 つまり、「百病は、一気の留滞に生ずる」と主張し、順気をもって治療の基本とした。艮山は古方派の祖とされているが、必ずしも『傷寒論』のみを金科玉条としたわけではなかった。広く他の『黄帝内経』『難経』などの医書や、あるいは民間療法の中から、実効のあるものを採用し、卑近な材料を用い、民間医療も取り入れた。
 艮山には著述はほとんどなく、『師説筆記』『東洋洛語』なども門人の編著が残されているだけである。




山脇東洋
 
 東洋は本名を尚徳、通称は道作で字を玄飛、号を東洋とした。
 父は丹波亀山の医者・清水立安で、宝永2年(1705)京に生まれている。実父清水立安は、後に東洋の養父となる山脇玄脩の門に入り、医学を学んだ。東洋が少年時代の秀才ぶりとその非凡さは、早くから周囲の驚異の的となっていて、21歳のとき乞われて法眼・山脇玄脩の養子となった。翌年、玄脩が没したため、その法眼を嗣いでいる。

            山脇東洋
            山脇東洋

 養子に入ってから数年間は、養父玄修に就いて曲直瀬流の「李朱医学」を基本に学んだ。
 享保12年(1727年)養父玄修が死去し、東洋は山脇家の家督を嗣いだ。その家督相続の御礼言上のため、江戸で第八代将軍吉宗に御目見えをした。東洋24歳のことであった。翌年、将軍家から法眼に任ぜられ、2年後には、中御門天皇の侍医を命ぜられた。しかし、東洋は名門の侍医であることに満足しなかった。
 山脇東洋の医学の最初の師は、いうまでもなく養父の山脇玄脩である。山脇玄脩の師は、道三流派の曲直瀬玄朔である。この道三流派の山脇玄心から医学を学んでいる。ただ玄遡は、曲直瀬道三流の「李朱医学」を基本としながらも、多くの医書と本草書を研究し、処方は「傷寒論」の張仲景を宗とし、用薬は李東垣(りとうがい)を、諸症の判断は朱丹渓(しゆたんけい)を用いるなど、諸家諸説の長所を積極的に取入れていた。曲直瀬道三流でありながら、かなり現実的な手法を採用していた。
 東洋は行動的であり、医学への実証研究に異常な熱意を捨てきれず、当代随一の古医医方の医家、後藤艮山に師事して医学の実証精神を学んだ。師が、後藤艮山である。艮山から、理論より実践(臨床研究)を重視する古医医方を学んでいる。
 つまり東洋は、李朱医学を宗とする「後世派」の学問から出発して、のちに師の後藤艮山の思想を継承発展させて、実証主義にもとづいた古医方派医学を確立したのである。
 東洋が臨床の聖典と仰いだのは、張仲景の「傷寒雑病論」であった。その理由は、著者張仲景の自序にみられる「勤めて古訓を求め、博く衆方を采る」という姿勢であった。
 この当時の業績の一つが、1746年(延享3年)、唐の王燾(おうとう)の著書『外台秘要方(げだいひようほう)』(40巻)の復刻である。この書は幕府医官、望月三英が秘蔵していた漢方医学書で、東洋はそれを借り受け、私費で翻訳し、書物として刊行したのである。東洋42歳のときである。これにより彼は古医方家としての声価をいよいよ高めた。

        『外台秘要方(げだいひようほう) (40巻)   
           『外台秘要方(げだいひようほう) (40巻)


 また、人体の内部構造について、「五臓六腑」説に疑いを持ち、内臓が人に似ているという、カワウソを自ら解剖したりしたが、疑問は解けなかった。それだけに、東洋は医学の進歩には「人体の構造を見る」ことが是非とも必要と願い続けていた。
 そんな東洋に宝暦4年(1754年)、幸運が訪れた。
 それは京都六角獄で、5人の罪人が斬首刑に処せられた。当時の京都所司代は、若狭藩主酒井忠用だったが、斬首刑が行われたことを知った、東洋の門人でもあった同藩の医家3人が、東洋に代わって刑屍体の解剖許可を酒井候に願い出たのである。罪人といえども、かつて死体解剖の前例がなく、本来は却下されるはずであった。
 ところが、所司代酒井忠用はその解剖の意義に理解を示して、それを許可した。こうして東洋以下3人の医家たちは、初めて人体の「腑分け」によって内部構造を直接観察した。
 東洋たちは次々にあらわれる臓器に眼を凝らし、メモを取り絵図を描くことに努めた。このときの観察記録が『蔵(ぞう)志(し)』で、この書は日本で公刊された最初の人体解剖記録である。
 
     最初の人体解剖記録
          最初の人体解剖記録

 これによって、漢方医による五臓六腑説など、身体機能認識の誤謬が明らかとなった。
 国内初の人体解剖は、蘭書の正確性を証明し、医学界に大きな衝撃と影響を与えた。東洋の影響を受け、江戸では前野良沢、杉田玄白らが、より正確性の高いオランダ医学書の翻訳に着手している。
 ドイツ人クルムスが著した原書のオランダ語訳の、『ターヘル・アナトミア』という解剖書であった。
 突き詰めていえば先人の山脇東洋がいたからこそ、あの当時、前野良沢による翻訳が進み、『解体新書』が生まれたともいえるのである。
 吉益東洞らの古医医方でも、人体解剖には抵抗が強く、批判を浴びたが、国内初の人体解剖は、蘭書の正確性を証明し、医学界に大きな影響を与えた。日本医学の近代化に大きく貢献した。 宝暦12年(1762)58歳で没した。
 





吉益東洞

 東洞は名を為則、字を公言、通称は周助といった。その号が東洞である。元禄15年(1702)、安芸(広島県)で、医師の畠山重宗(道庵)の子として生まれた。
 吉益家はもと畠山姓であったが、曽祖父が戦乱を避け一族の外科医吉益半笑斎に身を寄せ、吉益姓を名のっていた。
 その子政光の代に安芸に移り、姓を再び畠山に復した。東洞の父道庵は医を業とした。東洞は、祖父の吉益半笑斎について、四書五経を学び、武道で身を立てることを望んだが、やがて武道をあきらめ、19歳のとき医に志し、祖父の門人に医を学んだ。まず吉益流の金創術(外科術)、それに産科の術を学んだ。この時代は、金創外科が止血を必要とする産科を兼ねる場合が多かった。

           吉益東洞
             吉益東洞


 後に「本道」と称される内科に転向し、「李朱医学」を学ぶうちに疑問を抱き、陰陽五行、臓腑経絡をすべて観念論の憶説として排した。
 さらに独力で張仲景の著『傷寒論』を学び、研鑚につとめた。
 30歳代のときに『傷寒論』『金匱要略』に基礎を置いて古医方を唱え、東洞独自 の医学体系を創りあげた。 東洞の医説の主軸となるものは、「万病一毒説」と「眼に見えぬものは言わぬ」の二つの柱である。
「万病は唯一毒による。衆薬は皆毒物なり。毒を似て毒を攻む。毒去って体佳なり」と万病一毒説を唱えた。
 病気を種々に分類し、病名を付け、対処法を論じる既存の中国医学は、思弁・臆断に凝り固まっている。全ての病気は一つの毒によって起こるものであり、体内で形を変えて出現しているに過ぎない。従ってこの毒を、薬という毒で排除すればよい。と説いた。
 これを「」と言う。すべての病が、ひとつの毒に由来するとし、この病毒を作用の強い薬の毒力をもって制するという思想で、はげしい攻撃的療法で知られる。
 毒とは、生体の恒常性を乱すモノを意味する。生体に何らかの理由で、後天的に生じた毒が、疾の原因であり、この毒を毒薬で攻めて駆除すれば、外邪も侵入することができない。といい、毒を去ることが万病を根治する必須条件であるとした。これにより、もたらされた生体のゆがみ、病毒の実態を把握するため、東洞は腹部や体表部を診察して、「手に触れ見定める」ことの重要性を説いた。
 万病一毒説は、その後、後世派、古医方派の欠点を補うべく、折衷派、考証派などが生まれたが、当時の医学界を驚愕させた。
 また、東洞は眼に見えるもの、手で掴むことのできるもモノでなければ相手にしないという実証主義に立っていた。だから、この体内の毒も、眼で見、手で触れるモノでなければならない。そこで、体内に毒があれば、その証が体表に現われ、その多くは腹診によって確かめることができるとした。これにより、傷寒論系の腹診が発達をとげた。

 37歳のとき、「天下の医師を治療せん」と、大志を抱いて京に出て、自信満々で開業し、姓を吉益と改めた。ところが意に反して、田舎医者と相手にされず、生活は困窮を極め、京人形作りや鉢皿を焼いたりの生活で糊口を凌ぐ日々となった。
 44歳のとき、出入りしていた人形卸問屋の奥方が、傷寒(急性熱性病)を患っていると聞き、医業を志しているから、是非にと奥方の診察を試みた。ついでに、医者の処方した薬を見て、「この調剤処方なら、間もなく快復する」と伝え、「ただ、この処方薬からは、石膏は除いた方がよい」と伝えたという。
 この人形卸問屋の奥方を診察し、薬の処方をしていたのは、当時、京でもっとも高名で、禁裏付き御医師の山脇東洋であった。
 再診に訪れた山脇東洋は奥方の症状を診て、薬の調剤に取り掛かったが、少し思案していた。
 そこで人形卸問屋の番頭が、先日の医家修業の東洞の話をした。その話に、山脇東洋は膝を打ち、「私も今、石膏は除いた方がよいと、そう思案したところだ」と叫んだという。この一件で、京で高名な山脇東洋に、吉益東洞は見いだされ、大きく飛躍するきっかけとなった。

         山脇東洋と吉益東洞


 ついでながら、石膏には強い消炎効果があり、漢方の代表的な清熱薬(熱性疾患や炎症を鎮める)とされている。熱を下げ、口渇を止め、ほてりをとる効能があり、さらに炎症性の浮腫(むくみ)、カユミ、歯痛などにも用いる。
山脇東洋は、吉益東洞のために、その人形卸問屋の一室を診療所に
するよう取り計らい、同世代の名も無き東洞を引き立てた。 これは、日本漢方史の有名な美談である。
 山脇東洋の引き立てを受け、やがて次第に京で名を上げ、やがてその高い治療実績で、名医として知られるようになった。
 以後順調に医業も伸び、東洞院に移って門戸を張った。はじめは東庵と号していたが東洞と号を改めた由来は、この地名である。
 彼は東洋医学の基礎概念を破壊し、臨床実践に根ざした新たな治療論を提唱した古医方派の大成者である。

                『類聚方』


 代表的な著書は、『類聚方』『方極』『薬徴』の三部作のほか、『方機』『医事或問』『古書医言』、さらに治験 をまとめた『建殊録』などがある。『類聚方』の冒頭に「医の学たる方のみ」とあるように、医学とは処方学であり、陰陽五行説などの理論はどうでもよく、その処方を出す根拠は「腹診」であるとした。腹診で「証」を決め、証に対して処方が決まるという、日本漢方の特徴を明確に示した。 また『類聚方』では、『傷寒論』『金匱要略』の中の 220 処方の条文を、処方ごとにまとめ、自らの意見を加えて、古方の運用の規則を示した。これによって陰陽五行説などの素養がなくても、ただちに処方を便用することができるようにした。

         『薬徴』


 また薬物についても、『傷寒』『金匱』の処方中に含まれる、薬物の薬効を類推し、『薬徴』を著した。『薬徴』は、東洞が最も力を尽くした書で、後世に影響を与えた点では、この書の右に出るものはない。
 たとえば「石膏は煩渇を治す」という表現をとるなど、それまでの伝統的な薬物学書とは異なる書であった。弟子としては、村井琴山や岑少翁、中西深斎などが傑出した存在がでた。
 こうした東洞の出現以後、日本の漢方医学は、伝統医学理論によらず、「実証主義」を主とするようになった。この影響で、いわゆる「方証相対」というやり方が普及した。「方証相対」とは、「証」は「あるがまま」の患者の姿を追求するため、患者の体質的条件(虚・実)、病状的条件(寒・熱)、病勢的条件(緩・急)、病位的条件(表・裏、内・外、上・下)等によって、特定の処方と対応していることをいう。
 日本漢方は、中国医学と袂を分かち、独自の道を発展していったが、その発端となったのが吉益東洞の「実証主義」による医学大系であった。
 『東洞門人録』によると、門弟も546名を数え、後世の漢方医学に与えた影響は絶大である。息子の吉益南涯も漢方医として著名で、華岡青洲は弟子である。
 東洞は安永2年(1773)72歳で没し、東福寺荘厳院に葬られた。





蘭学事始め

 切支丹禁制と鎖国以来、世界の情報は長崎で、中国とオランダとの交易による窓口だけであった。日本人では、彼らとの接触が出来るのは通詞だけで、しかも持込まれた蘭書の閲覧も、輸入も厳禁されていた。
 このため、通詞たちは、オランダの商館員や医官から聞いた話をもとに、西洋の医学の断片知識を手探りで採集した。こうした通詞から、蘭方外科医が始められるようになった。
 外科といっても腫物の切開方と、手当のことに尽きる。それでも当時は多くの人が腫物に悩み、命を落とす者が多かったから、腫物外科も大いに繁昌した。こうしたなかで、通詞であった西玄甫が西流外科をもって1670年代に幕府に召し出され、御医師になった。
 西玄甫は、元々南蛮通詞で、転び切支丹のポルトガル人の沢野忠庵に西洋外科を学び、西流外科と呼ばれていた。 当時の医者は、諸芸と同様に流儀名で称された。西玄甫の場合は、西流、または紅毛流(南蛮流)などと言われた。
 この頃、出島の蘭館に出入りして、外科を学び取った者に、嵐山甫安がいた。この流儀は嵐山流といわれ、その門人から大和の人、桂川甫筑が出て、第6代将軍徳川家宣の侍医として、将軍家の奥医師になった。
 桂川家は、桂川甫筑以来、代々将軍家に仕えた幕府の奥医師であった。特に奥医師の最高の位である「法眼」に叙任されていたから、蘭学書を自由に読む事が許されていた。桂川甫三は、前野良沢・杉田玄白と友人であり、「解体新書」は甫三の推挙により将軍に内献されている。

       蘭学事始め



 やはり同時代に、通詞の楢林時敏(鎮山)がいて、これも似たような経緯で外科医になり、その流儀を楢林流といわれた。楢林流には、腫物に塗る膏薬に特別な秘伝があったといわれているが、いずれにしてもその程度で、西洋の体系的な医学を、学んだわけではない。
 楢林時敏は、突如、オランダ人との内通の疑いをかけられ、閉戸処分を受けて通詞を辞任した。のち許されて、医師として開業、診察の傍ら多くの門人を育て、彼の子孫及び門人達の流派は楢林流と称された。
 宝永3年(1706年)には、フランスの外科医アンブロワーズ・パレの著書のオランダ語版を翻訳した『紅夷外科宗伝』を刊行し、同書には本草学者・朱子学者として名高かった貝原益軒が序文を寄せている。
 宝永5年(1708年)には、名声を聞いた時の将軍、徳川綱吉が招聘をしているが、咎(とが)人(にん)にされたことを理由にこれを辞退している。また、福岡藩主黒田綱政の招聘も、同様の理由で辞退している。
 
           八代将軍吉宗
             八代将軍吉宗

 ところが18世紀に入って、八代将軍吉宗の代になって事情が一変した。 家康をのぞき歴代将軍は、政治を老中や側近に任せ、自ら物事を裁断するという事はしなかった。ところが八代将軍吉宗に限って、家康と同様に、自ら物事を裁断する能力をもち、また高い見識を持っていた。
 この吉宗が、天文暦数そのたの知的好奇心が旺盛であったため、西洋の知識を積極的に取り入れるべく、青木昆陽の願いを容れる形で、蘭学についての禁をとき、蘭書の輸入も奨励した。吉宗の治世は僅かに30年であったが、この間にその後の蘭学の基礎が出来た。
 のちに蘭学の祖とされる青木昆陽は、日本橋の魚屋の子に生まれたが、幼くして神童と呼ばれ、京で漢学を学び、曲折を経て幕府の書物御用掛りに抜擢された。のちに幕命によって長崎へ留学させられ、蘭語を何百語を学んだ。このとき通詞たちの能力の低さに驚いたという。
 つまり通詞たちは、ただ日常語を憶えているだけで、書物を読んだり、文章を翻訳したりする能力が無かったという。
 これは、幕府が蘭書の閲覧を禁じていたからだという。青木昆陽が長崎で接触したのは、吉雄幸左右衛門(耕牛)、西善三郎などの秀才であり、のちに長崎の蘭学の太宗になる人々だが、この当時はその程度であったという。

             青木昆陽
               青木昆陽

 青木昆陽は、江戸に帰ってから、蘭書の禁を解いてもらうように運動した。将軍が吉宗であったことが幸いし、制限付きながら蘭書の輸入や蘭学の研究が始められた。このことで、青木昆陽自身は、蘭学に長じていなかったが、「蘭学の祖」と呼ばれるようになった。こうした流れで、のちに有名な『解体新書』が刊行されることに繋がっている。





解体新書

 杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らによる『解体新書』(1774年)の出版ほど、現役の医師や医学を志す人々に衝撃を与えた本はない。
杉田玄白は、若狭小浜藩の蘭方医、前野良沢は豊前中津藩の藩医で蘭方を青木昆陽に学んでいる。中川淳庵は、江戸の生れで、山形藩安富寄碩に蘭学を学んだ。
 彼らは幕府に願い出て、明和8年(1771)3月、江戸小塚原刑場で刑死体の腑分け(解剖)を見学した。死体の刃物による腑分け自体は、刑場の傭人に依頼し、指図だけをしながら、腑分けされた臓腑を観察した。
 その時、彼らが持参していた参考書、ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの医学書『ターヘル・アナトミア』の図と、腑分けの所見とが完全に一致している事に驚嘆した。

    『ターヘル・アナトミア』


「いやしくも医術をもって、主君に仕える身でありながら、人体の構造も知らずにいた事は、面白なき次第なり。」と語り合って、「ターヘル・アナトミア」を翻訳して世に出そうと誓い合い、かねてから蘭書翻訳の志を抱いていた良沢はこれに賛同した。 翌日から前野良沢邸に集まり、翻訳を開始した。時に玄白38歳、良沢48歳、淳庵32歳であった。当初、玄白と淳庵は、オランダ語が読めず、オランダ語の知識のある良沢も、翻訳を行うには不十分な語彙しかなかった。またオランダ通詞は長崎にしか居なくて質問することも難しく、当然ながら辞書も無かった。

        ターヘル・アナトミア 本文
            ターヘル・アナトミア 本文

 そこで、暗号解読ともいえる方法により、翻訳作業を進めた。この様子については、杉田玄白が晩年の著書『蘭学事始』に詳しく記している。
 杉田玄白は、この厳しい翻訳の状況を「櫂(かい)や舵(かじ)の無い船で、大海に乗り出したようであった」と表した。蘭学を学びながら4年の歳月を費して、『ターヘル・アナトミア』の邦訳『解体新書』を完成させた。 安永2年(1773年)、翻訳の目処がついたので、世間の反応を確かめるために事前に『解体約図』を刊行した。

             『解体約図』


 翻訳の際に「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」などの語が作られ、それは今日でも使われている。もっとも、最初の翻訳ということで仕方ないことながら、『解体新書』には誤訳も多かった。
 このため、のちに大槻玄沢が訳し直し、『重訂解体新書』を文政9年(1826年)に刊行した。
 吉雄耕牛(吉雄永章)は、オランダ語通詞で、『解体新書』序文を書き、この書が良沢と玄白の力作であると賞揚している。
 ただ、前野良沢は翻訳作業の中心であったが、著者としての名は『解体新書』に無い。一説には、訳文が完全ではないことから、学究肌の良沢は、名前を出すことを潔しとしなかったという。
 一方、杉田玄白は「私は多病で、いつ死ぬかわからない」と言って、訳文に不完全なところがあるが、刊行を急いだ(『解体約図』の出版も玄白の意図であり、これに対して良沢は不快を示していたと言われている)。しかし彼は、当時としては非常な長命の85歳まで生きた。
 
      『解体新書』
          『解体新書』

 中川淳庵は『解体新書』刊行後も、蘭語の学習を続け、桂川甫周と共にスウェーデンの博物学者カール・ツンベリーに教えを受けている。
 平賀源内は、1774年(安永3年)正月に、杉田玄白宅を訪問し、の本文の翻訳がほぼ完成し、解剖図の画家を捜していることを知らされた際、小田野直武を紹介した。
 小田野直武は秋田藩角館の武士、画家であっが、源内と出会って、源内から西洋絵画の遠近法、陰影法などの技法を学び、秋田蘭(らん)画(が)と呼ばれる一派を形成していた。平賀源内の紹介で『解体新書』の図版の原画を描くことになったが、『解体新書』の開版まで半年という短期間に、江戸での最初の仕事で、しかも日本学術史上記録的な仕事を成し遂げた。
 小田野直武が描いた、有名な『解体新書』の扉絵(表紙)は、『ワルエルダ解剖書』をモチーフにし、描かれているのはアダムとイブである。

         杉田玄白
            杉田玄白

 桂川甫三は、杉田玄白と同世代の友人で、法眼の地位にあり、将軍の侍医を務めた。翻訳作業に直接関わった様子はないが、子の甫周を参加させ、また補助資料となる3冊のオランダ医学書を提供している。 『解体新書』刊行の際、幕府の禁忌に触れる可能性があったため、甫三を通じて大奥に献上されている。
 桂川甫周は甫三の子で、後に自身も法眼となる。翻訳作業の初期から関わったという。のちに大槻玄沢とともに蘭学の発展に貢献している。
 その他に翻訳作業に関わった者は、巻頭に名前が出てくる石川玄常、『蘭学事始』に名前が出てくる烏山松圓、桐山正哲、嶺春泰などがいる。

  前野良沢中川淳庵
         前野良沢                中川淳庵

 爾来、玄白、良沢に師事する者、漢方から蘭学に転ずる者などが続出して、蘭方志向に拍車をかけることになった。
 その一人である大槻玄沢は、仙台藩侍医、玄白と良沢の一字づつを合わせて玄沢と名乗る程の入れ込みで、蘭学の振興に情熱を燃やして江戸に私塾「芝蘭堂」を開いた。
 日本に於ける蘭学塾の始まりで、18-19世紀日本の、医学を動かした人材を多数に輩出した。
 大阪の橋本宗吉はその一人で、傘屋の絞書き職人から志を立て、江戸に出て大槻玄沢に蘭方を学んだ。オランダ語を4ヶ月で4万語暗記した程の努力家で、帰阪して医業を開き、又、多くの門人を育て、大阪の蘭方医の祖と称えられた。
橋本宗吉の弟子、伏屋素狄(そてき)は河内日(ひ)置(き)荘(しよう)の郷士で、実証主義の大切さを悟り、漢方から蘭学に転じた。素狄は動物の腎動脈に墨汁を注入して動脈を閉じ、腎臓を圧迫すると、尿管から澄んだ水が出てくることを実験して、腎臓には尿を瀘過する機能があることを発見した。
ボーマンの瀘過説(1842年)より38年も以前のことである。





華岡青州

「古医方」の隆盛に対して、「漢蘭折衷派」の医師たちが現れた。
 彼らは、漢方と蘭方の利点をそれぞれ取入れ、独自の医術を実施した。 漢蘭折衷派には、華岡青洲、本間玄調らが代表的人物である。また杉田玄白ら蘭方医たちも、日常の診療と治療には、漢方薬を用いているので、厳密には漢蘭折衷派ともいえる。
 本間玄調は、幕末の水戸藩医で、父本間玄有と祖父本間玄琢、養父道偉も医者であり、名医一族の中で育った。17歳のとき、原南陽に入門し、その後、杉田立卿(玄白の次男、眼科書を翻訳し『眼科新書』として刊行のちに『瘍科新選』を訳刊)、華岡青洲、シーボルトなどに師事した。
 漢蘭折衷の学識と、医術で水戸弘道館医学館教授となった。講義・治療・著述などに活躍し、水戸藩医政の第一線を担い、徳川斉昭より救という名を賜った。
 華岡青州は、宝暦10年(1760年)、華岡直道の長男として、紀伊国那賀郡平山村(和歌山県紀の川市西野山)に生まれている。

            華岡青州
              華岡青州

 青洲が生きた時代は、江戸時代末期で、松平定信が寛政の改革を行い、杉田玄白、伊能忠敬、葛飾北斎などが活躍した時代である。
 天明2年(1782年)、23歳のとき、京都に出て吉益南涯に古医方を3ヶ月学び、つづいて大和見立(けんりゆう)に就いて、カスパル流外科(オランダ商館医カスパル・シャムベルゲルが長崎で伝えた西洋外科技術)を1年学んでいる。
カスパルから直接学んだ人物は、出島の通詞で猪俣伝兵衛、大目付井上政重の侍医「トーサク」、河口良庵、西吉兵衛(玄甫)、などがいる。また、カスパル治療と講義を受けた通詞の中から、猪俣伝兵衛、本木庄太夫、楢林鎮山など西洋医学を志す者も現れた。さらに見立の師である伊良子道牛が確立した「伊良子流外科」(古来の東洋医学と、オランダ外科学の折衷医術)を学んだ。

 京都遊学3年にして父の死去により、26歳で家業を嗣いでいる。
 京都にいたとき、医学書や医療器具を買い集めたが、その中で永富独嘯庵の『漫遊雑記』に大きな影響を受けた。その書には乳癌の治療法の記述があり、後の伏線となっている。
 その後36歳のとき、再度京へ行き、改めて製薬等の勉学をしている。
 その頃の青洲は、麻酔薬の必要性を痛感し、諸方の薬方を集めることに余念がなく、その成果の一部は『禁方録』や『禁方集録』などにまとめられた。

          チョウセンアサガオ
            チョウセンアサガオ

 麻酔薬の研究成果をもとに、マンダラゲ(曼陀羅華)と、トリカブト配合の、内服全身麻酔剤の通仙散(別名麻沸散(まふつさん))を案出調合した。 
 曼陀羅華は、チョウセンアサガオなど数種類の薬草を配合したものである。チョウセンアサガオの薬効は、古くから知られており、中国明代の医学書『本草綱目』に、患部を切開する際、熱酒に混ぜて服用させれば苦痛を感じないとの記述がある。
 さらに中国の元時代の『世医得效方』にも、その薬効が記されているという。ただチョウセンアサガオは、アサガオの名を冠してはいるが、別種のナス科に属し、毒性が強く、果実は球形でオクラと間違えて誤食し、強い中毒症状を起こした事例が多い。
 華岡青州は、チョウセンアサガオと、数種類の薬草の配合を行い、動物実験だけでなく、母於継(おつぎ)と妻加(か)恵(え)の協力による人体実験を繰り返し、実に20年の歳月をかけて通仙散を開発した。
 華岡青洲の通仙散の処方の原型は、『世医得效方』を参照した京の花井仙蔵、大西晴信の処方を改変したものという説もある。 しかし、具体的な調合と、実際に臨床実験を行って実用に供したのは、華岡青州以外に誰一人いないのである。まさに「漢蘭折衷派」の情熱と行動力の賜物と言える。この試行錯誤の臨床実験のとき、妻の加恵が失明した物語は今も人々に語り継がれている。
 そして、1804年(文化元年)10月13日、青洲45歳のときに、通仙散による全身麻酔下で、外科手術を成功させた。
 近代麻酔の起源は、ウィリアム・モートンが、エーテル麻酔で手術の公開実験に成功したのが1846年のことで、青洲の業績はそれに先立つこと約40年も前の快挙である。紀州平山での青洲は臨床一筋に精進を積み、43歳で紀州藩に召され、士分に列し帯刀を許された。
 麻酔薬の完成によって華岡流外科は、手術技術も多彩を加え、従来の外科医が行い得なかった、腫瘍摘出術、関節離断術、膀胱結石摘出術、腟直腸瘻閉鎖術、内翻足(ないほんそく)(内反足)整復術をはじめ、各種の手術法を考案し、相当の成果を挙げることができた。
 大成して天下に名声が轟いた青洲は、民衆に対する医療尊重の故をもって、紀洲侯の招きをも再三断わり、特例の「勝手勤め」で藩の侍医待遇となり、一生を在野にあって診療の第一線で活躍した。
 南紀の僻村に青洲の盛名をしたって、集まる向学の医生はおびただしい数にのぼった。天保6年(1835)没した。享年76歳。


 
 
乳がん摘出手術

 青洲の麻酔は、通仙散とい飲み薬であるため、麻酔が効き始めるまでに約2時間、全身麻酔が効きいて、外科手術を行う事が出来のまでには、約4時間を要した。手術語に目覚めまでには、6~8時間を要したという。現在の麻酔ガスや静脈麻酔法に比べると、格段の時間を要するものであった。しかし、患者が無痛、しかも切開による激痛反射動態がなく、しかも無意識下で記憶に残らない外科手術という方法は、痛みや出血などの手術苦痛から患者を開放させ、手術がスムーズに行えるという、まさに画期的手術であった。
 青洲が世界で初めて、全身麻酔下で行った外科手術は、乳がんの手術であった。西欧ではすでに16世紀頃から、乳がんを切除することは行われていたが、麻酔無い時代は、大きな切除ができず、患者の激痛による反射動態で、メスが反れて手術の結果は惨憺たるものであった。
 また乳房は女性の急所であり、これを摘出すれば命にかかわるとされ、乳房は手術対象外の臓器とされてきた。しかし、青洲はドイツの医学書で、西欧では乳がんを摘出していることを知っていた。
 さらに牛の角で切裂かれ、乳房を失った女性が、縫合手術で元気に治ったことを経験し、乳がんを手術で治療できると考えていた。また妹の於勝が、乳がんで亡くなっていたことも、この病気の治療に対する強い動機となっていた。そして、長年にわたる諸方の薬方の調合研究と、臨床実験の成果で、「通仙散」を完成した時期に合わせて、全身麻酔による乳がん手術に踏み切った。

       全身麻酔による乳がん摘出手術
          全身麻酔による乳がん摘出手術


 病者は大和国五條の藍屋利兵衛の母の勘で、齢60歳であった。
 左の乳房に1年前からシコリがあり、青洲の診察のときには、左の乳房が、全体に赤く腫れていた。病者の姉も乳がんで亡くなっており、このままでは命が尽きると悟っていて、勇気を持って乳がんの切除に同意した。青洲は勘の勇気を「予の治術の方を聞くに、皆恐怖して去る。この婦人は然らず」と記している。
 そして、文化元年10月13日、青洲は世界で初めて、全身麻酔下で外科手術を行った。手術方法は、青洲が考案したメスやハサミを用い、がんの部分だけを、乳房から摘出する方法であったが、見事に成功した。 

         藍屋利兵衛の母の乳房部分切除手術
           藍屋利兵衛の母の乳房部分切除手術

 現在の、「乳房部分切除」術と呼ばれる方法に相当する。手術後の経過も良く、勘は手術から20数日ほどで故郷五條へ帰ることができた。
 この成功を受けて、青洲の名は日本中に知れ渡り、全国から乳がん患者が集まってきた。紀州平山で、青洲が手術した乳がん患者の名は『乳巌姓名録』に記録されている。その数は152名に及んでいる。
 さて、勘のその後は、残念なことに4ヶ月後に亡くなっている。
 これは、すでに癌が転移して、身体全体に広がっていた可能性があると推察されていて、青洲の手術に問題があったとはされていない。

      春林軒
          春林軒


 青洲の「華岡流外科」を学ぶために、多くの入門希望者が全国から集まり始めた。このため、青洲は建坪220坪の「春林軒」を新築した。
 春林軒は、大正時代に移築されたが、今は建築当時の場所に復元され、青洲の偉業を顕彰する「青洲の里」の中心施設となっている。
 春林軒には、住居・診察室・手術室・講義部屋として使われた主屋、薬調合所、病室、看護婦宿舎などが備わっていた。 診療所というより、医学校としての形態がすでに整っていたといえる。 この「春林軒」と、後に大阪に作られた分校「合水堂」に学んだ門人の数は2千人あまりにおよび、全国60余州のうち、入門者のなかったのは九州の壱岐の国だけだったという。

      春林軒の全景
       春林軒の全景

 一方、青洲は修行を終えた門下生たちに、免状を与えたが、その際に「奥伝誓約文之事」を提出させている。「教えをみだりに他人に教えない」ことを誓わせている。これは、当時の技術や芸事、そして医療の診断方法や調剤薬などは、その流派家門の秘伝として直系の弟子にしか教えなかった習慣による。
 清洲の思想の背景は、「春林軒」で伝授される、高度な外科医療が、聞きかじりの未熟な医師によって行われると、病者の命の危惧が生じ、「華岡流外科」の名が廃ることを危惧したゆえであった。こうして春林軒を巣立った門人たちは、故郷で華岡流の医術を施し、多くの人々を救済した。
 時の紀州藩主・徳川治宝から、侍医として城下に住むことを求められた時、「我仕官を望まず 山中に隠居し 随意に治療いたし術を研きたく思うが故に」と述べ、故郷平山での診療を続けることにした。

 「内外合一」「活物窮理」という言葉は、青洲の医療に対する考え方を示している。内外合一とは、「外科を行うには、内科、すなわち病者の全身状態を詳しく診察し、十分に把握した上で治療すべきである」という意味である。活物窮理とは、「治療の対象は、生きた人間であり、それぞれが異なる特質を持っている。そのため、人を治療するのであれば、人体について熟知した上で、深く観察し、病者自身やその病の特質を究めなければならない」という教えである。「内外合一」、「活物窮理」はわずか八文字の言葉ながら、青洲の医療理念であり、人生哲学でもある。弟子第1号は中川修亭で、ほかに本間棗軒(水戸)、難波抱節(備前)らが著名である。
 清洲は、臨床記録以外は、自ら著書を残さなかったが、門人たちによる写本が流布した。
                               




江戸幕府の医師制度

 幕府の医官、すなわち侍医では「典(てん)薬頭(やくのかみ)」というのが最高官で、半井家、今大路家、吉田家、竹田家の四人いた。
 半(なから)井(い)家(け)と今大路家は代々世襲の従五位下に叙され、半井氏は1500石高、今大路氏は1200石高であった。典薬頭は三日に一度登城して勤務につく三番勤めであった。世襲制の常で、どの家の当主も、医師の能力は無くしてしまっている。次が奥医師である。法印と法眼の二階級があり、この階級の者は、医師としての能力は多少はある。典薬頭や法印は将軍家以外の患者は原則として診ることは許されていない。法眼のの御医師はこれを認められていた。
 江戸城の幕府高官などを診察する医師は、表御医師とよばれた。
 幕府医官の職は、奥御医師、奥御外科、御鍼科、御口科、御眼科、
奥詰医師、表御番医師、表御番外科、表法印御医師、表寄合御医師、御目見得医師とあり、さらに無役の小普請医師・養生所医師などがいた。

        半井(なからい)家)に伝わる医心方 国宝
          国宝 半井(なからい)家)に伝わる医心方

 
 法(ほう)印(いん)、法(ほう)眼(げん)などの奥御医師たちは、大旗本でも遠慮するほどの位を持っているが、登城してもさしたる用事はない。最高官の典薬頭に到っては、元旦の祝いに屠(と)蘇(そ)を献上するだけで高位と高禄を世襲している。
 つぎの法印というのは、法眼に比較すると格段に上で、院号で呼ばれる。平素は仕事がないため、歌や俳句を作って将軍の遊び相手になる。こうした将軍やその家族と接する機会の多い、法印、法眼などには、表役人の老中や若年寄りでさえ、気を遣うという立場にあった。
 奥御医師は、1日おきに登城し、江戸城中奥の、御座の間近くの「御医師の間」に、不寝番で詰める。将軍が朝食を済ませ、小姓に髪の手入れをさせている際に、将軍の左右から2人ずつ6人が計3回、脈を測った。その後、6人の医師は別室で、それぞれの診立てを云い合い、異常があるようなら腹診も行った。
 ほかにも、御台所や側室たちも昼食前に6、7回、定期健康診断を行い、二の丸や西の丸にいる将軍の子息たちの診察もした。
 病人が出ると、奥医師は全員集められ、それぞれの診立てを告げて、治療法を決定する。治療方針が決まったら、主治医を決めて、昼夜の別なく診療を施す。この際に「典薬頭」は、自らは治療の手を下さず、法印や法眼の医師たちに形だけ指示を出すことになる。
 将軍家の奥医師は伝統的に漢方医で、多紀家の「医学館」が、幕府の医学教育機関としての役割を果たしていた。こうして幕府の医学教育は、漢方に限られていた。唯一の例外が、蘭方の桂川家であった。

 桂川家の家祖は、桂川甫筑という。
 寛文元年(1661)大和国に生まれ、医をめざして京で判田甫安に師事した。判田甫安は、平戸藩松浦家の侍医で、長崎出島のオランダ商館医ダニエル・ボッシュから外科医の免許を授けられ、日本で初めて兎唇手術を行っている。八条宮親王、一条右大臣など公卿の治療に功を立て、寛文12年(1672)法橋(ほつきよう)(五位相当)に叙されている。この師匠から、「桂川は、末は大河となる、今後は桂川姓を用いよ」と命じられ、「桂川甫筑」に改めたといわれる。
 桂川甫筑はその後、長崎出島のオランダ商館医に外科の教授を受け、元禄9年(1696)、甲府藩主、徳川綱豊の侍医となった。ところが、徳川綱豊は、家宣として6代将軍になったたため、侍医の桂川甫筑も、そのまま江戸の奥医師に就き、法眼に叙せられた。
 初代から奥医師・法眼を世襲し、徳川幕府にあって唯一、蘭学研究の許された家であった。
 4代甫周(国瑞(くにあきら))は『解体新書』の翻訳に参加したことで知られ、ロシアへ漂流した大黒屋光太夫らの調査を、将軍家斉から命ぜられ、『北槎聞略』を纏めている。さて、7代は甫周(国(くに)興(おき))は、安政5年(1858)、蘭日辞書『和蘭字彙(おらんだじい)』を校訂公刊したことで知られている。
 これは長崎出島のオランダ商館長ズーフが、フランス人フランソア・ハルマの纏めた『蘭仏辞書』を原典に、蘭日辞書の翻訳編纂に取り掛かり、ズーフの帰国後は、幕命によってオランダ通詞吉雄権之助らが継続して、天保4年(1833)に完成していた『ズーフハルマ』だが、公刊は許されなかった。
 蘭日辞書『ズーフハルマ』の公刊が、西洋軍事技術の導入上から必要と痛感していた7代甫周は、幕府と再三折衝し、安政元年(1854)に許可された。

     『ズーフハルマ』
           『ズーフハルマ』

 多紀楽真院の政治的に画策した「蘭方医学の禁止令」は、あくまでも幕府や藩の医官に対してであって、町医者にはその影響は及んでいない。
 この江戸時代末期は、流通経済の発展から町人が実力を持ち、町医者が格段に増えていたから、医学界全体の蘭学の隆盛と、蘭方医者の隆盛に歯止めをかけることは不可能なことであった。
 多紀家の医学館は、進出著しい蘭方に対する漢方巻き返しの拠点として期待されたが、考証派の学問は、科学性に欠ける為に、後に明治新政府に接収され廃絶した。
 




シーボルト

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、ドイツの名門の貴族出身の医者で博物学者でもあった。 父の友人で博物学に造詣の深い、解剖学と生理学のデリンガー教授の家に下宿し、博物学を個人的に教授されながら、ヴュルツブルク大学医学部を卒業した。
 1820年、優秀な成績で卒業すると、幼児時代に母と過ごしたハイディグスフェルトで、医者として開業した。しかし博物学への情熱と、東洋への興味が強くなり、伯父の旧友のオランダ陸海軍・軍医総監を紹介された。軍医総監から、オランダ陸軍の外科軍医少佐に任命され、オランダ領東インドバタビアへ赴任することになった。
 バタビアに赴任したシーボルトは、その博物学の知識で、バタビア総督カペレンの目に止まり、バタヴィア芸術科学協会員に任命され、特別の任務を担って、日本に派遣される軍医に抜擢された。 カペレンはシーボルトに、日本でのあらゆる種類の、学術調査の権限を与え、総督府が必要な経費を負担すること。収集した資料の所有権は、オランダ政府にあること。これらの内容の契約を、シーボルトとの間に結んだ。「日本における、自然科学的調査の使命を帯びた、外科少佐ドクトルフォン・シーボルト」という肩書きは、この契約にもとづき、総督府に、この肩書きでの報告書が多数残っている。

          フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
           フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

 こうした経緯で、オランダ商館付き医官として、特命を帯びてシーボルトは1823年長崎出島に赴任してきた。長崎に着任すると、まずは商館長の依頼に基づき、バタビアから持参した「牛痘苗」を用いて、オランダ通詞の子にジェンナーの牛痘法による種痘を行った。
 これは大村藩医・長與俊達や、佐賀藩医・楢林宗建らからの要請を受け、町年寄を通じてオランダ商館長へ、バタビアから「牛痘苗」の持ち込みを、正式に要請されていたからである。
 この当時、死亡率の非常に高い、天然痘の大流行が猛威を奮っていた。 そうした中、ジェンナーが、牛痘法によって種痘に成功したという情報が、長崎にも伝えられていた。このため、痘家を専門とする藩医たちが、出島のオランダ商館長へ、「牛痘苗」の調達を依頼していたのである。しかし、シーボルト持参の牛痘苗では成功しなかった。
 その後も再度試みたが、すべて失敗した。後で判明した事ながら、バタビアから日本までの、20日余に及ぶ長い航海で、痘苗がすべて腐敗することが原因であった。期待されていた牛痘法による種痘の試みは失敗した。が、シーボルトにとっては、大きな問題ではなかった。
 日本の医師たちに西洋医学を教授することと、日本での自然科学的調査の使命が大切であった。
 
 商館付き医官として、シーボルトが長崎に滞在したのは、江戸時代の文政6年(1823)から文政12年(1829)の7年間である。
 この時代は文化文政時代で、江戸時代の文化的な欄熟期にあたり、政治的にも安定した状態にあり、支配階級から庶民に到るまで、健康・医学に対する関心が高かった。
 この時代より遡ること百年前、幕府が鎖国してから凡そ百年後の、享保5年(1720)、8代将軍吉宗は、宗教を除く西欧の学術書に限定して、オランダ書の輸入を解禁している。
 将軍吉宗は、家康以来という政治能力もった将軍で、政治決断を自ら行い、科学的知識欲がつよく、西欧文明にも興味を示した。こうした事から、西欧の書物の輸入を解禁したのである。これを契機に、オランダを経由して、西欧の多くの学術書や医学書が渡来した。
 要はシーボルトの来日は、吉宗の学術書輸入解禁から、凡そ百年のちの時代にあたる。こうして時代背景で、科学的実証主義の西洋医学への関心が高まり、オランダ通詞から学んだ断片的ながらも、西洋医学による蘭方医が急増していた。

              長崎奉行  高橋重賢
                 長崎奉行  高橋重賢(しげかた)


 シーボルトが長崎出島に上陸したとき、幕府直轄領の長崎を統括する長崎奉行は、幸いにも高橋重賢であった。
 高橋重賢(しげかた)は、勘定役などを務めた、旗本の高橋方政(のりまさ)の長男として生まれ、寛政9年(1797年)父と同様に勘定役に抜擢された。
 その後、東蝦夷地が、松前藩から幕府直轄地となると、蝦夷地御用を命じられ、仕入物御用取扱に任じられた。そののち、抜擢されて10年余り、箱館奉行支配「吟味役」に就任した。吟味役とは、職務すべての監査を担当した役職のことで、実務官僚である。
 任期中に勃発した「ゴローニン事件」の処理に携わり、日本側代表として、この事件解決に向けて、ロシア側との交渉などで、外交実務能力を高く評価された。その後、佐渡奉行、そして松前奉行などの奉行を歴任して、長崎奉行として赴任してきた。
 長崎奉行は幕府の重職で、遠国奉行の中では、特段の格式と権威があった。遠国奉行とは、幕府直轄領の政務を行なう奉行で、京都、大坂、伏見、駿府などの町奉行や、長崎、山田、日光、奈良、堺、佐渡、下田、浦賀、箱館などの直轄領の奉行をいう。大名が就任する伏見奉行以外は、すべて旗本が任命された。

      長崎奉行所 西役所
          長崎奉行所 西役所

 長崎奉行は、千石以下の旗本から、特に実務能力の高い俊才を撰んで任命し、役料として四千四百俵がついた。この点でも、幕府の諸奉行職としては、最高の収入が与えられている。さらには経済的な役得があり、毎年8月1日には、地元の商人、唐人、オランダ人から「八(はつ)朔(さく)銀」が奉行に献上された。この金額は、毎年一万両以上であった。
 この役得は、中国の習慣の影響をうけたもので、徳川初期から公認されてきた。さらには、長崎奉行には、輸入品を御調物(おしらべもの)の名目で、関税免除で購入する特権が認められていた。つまり唐人やオランダ人から、一定数量を買上げる権利を有し、これを京・大坂で販売して、およそ一万両以上の収入となった。こうした役得があることから、一度、長崎奉行を務めれば、子々孫々まで、安泰な暮らしができる程といわれた。
 それだけに、函館奉行から、いきなり長崎奉行に抜擢された高橋重賢(しげかた)が、いかに幕府直轄領の政務に対して、高く評価されたが分かる。

       オランダ商館長室の一部
         オランダ商館長室の一部


 シーボルトが来日した頃は、オランダ語に翻訳された西洋の学術書が多数渡来し、日本全体に、蘭学を享受しようとする気運と、西欧科学を受け入れる素地、環境が整っていた。こうして全国から、蘭学を学ぶために長崎で、通詞に就いて蘭語を学ぶ者が多かった。
 こうした背景で、1823年にシーボルトが来日したとき、前任者のブロムホフ商館長と新任のステューレル商館長が、長崎奉行の高橋重賢に、日本の医学に貢献するべく、「日本の医者が、出島で新任の医官シーボルトから、最新の西洋医学を学ぶ機会を与えて欲しい」と要請した。
 鎖国以来、オランダ人を出島に閉じ込め、日本人との接触を一切許さなかった。しかし、8代将軍吉宗が蘭書の輸入解禁をしてから、すでに百年も経過しており、通詞から蘭学を学ぶ者が増加し、日本全体が蘭学を受け入れる機運が高まっていた。
 一方、長崎会所調役頭取の高島秋帆が、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然としていた。このため、長崎奉行の高橋重賢へ、日本の医者たちが、出島で直接オランダの医官から、最先端の西洋医学を学ぶ重要性を説いた。
 一方、長崎奉行の高橋重賢も、函館時代に「ゴローニン事件」で、ロシアに拉致されていた高田屋嘉兵衛と、松前藩が逮捕していたゴローニン少佐の人質交換交渉で、ロシアのリコルド少佐との外交交渉を通じて、西洋の先進技術事情をある程度理解していた。
 こうしたロシアと交渉した経験もあって、「出島」で日本の医者や学者が、オランダの医官から直接、西洋の医学や科学を学ぶことの意義を理解して、異例ながら独断で許可した。
 さらに長崎町年寄の高島秋帆へ、シーボルトから、医学研修には、患者を治療する臨床が必要で、そのため診療所を設けたいとの申し出を受けた。シーボルトの熱意が伝わった秋帆は、診療所の設立を、高橋奉行に説得した。
 理解力が高い高橋重賢は、秋帆が用意した長崎郊外の鳴滝の地に、あくまでもシーボルトの私塾という形で、異例中の異例として、出島の外でシーボルトの授業を許可した。

      鳴滝塾
          鳴滝塾


 こうして翌年の文政7年(1824年)、診療所も兼ねて鳴滝塾が開設された。邸は二棟あり、その間取りは、平屋の方が十畳ほどの座敷で、塾生の住居であった。二階屋は、階上・階下とも板敷きで、二階は八畳ぐらい、下は十畳ぐらいで、診療室や教室として利用された。一階の入って右側に書物部屋、北側の端が台所(料理部屋)で、室内に井戸があり、料理人として三吉が賄いをしたという。
 敷地内の庭園には、その後、各地でシーボルトが採取した、薬草類が栽培されることになる。 この鳴滝塾には数人の生徒を住まわせ、薬草類の栽培や、その他のシーボルトの研究助手をさせた。 シーボルトは出島から塾まで通い、診療所で日本の町人や農民の診療を行って臨床の実習を行い、西洋医学や自然科学など、科学の幅広い分野の講義を行った。鳴滝塾で学んだのは、楢林宗建、高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海、小関三英、伊藤圭介など50人以上に及んでいる。
 シーボルトは、使命を果たすため、最新の医学知識と技術を伝授することで、日本人との交流を深め、彼らから資料や情報を得ることを考えた。「鳴滝塾」で学んだ塾生たちは、シーボルトの博物学の情報収集に多大の貢献をした。標本を集めるだけでなく、シーボルトが命じた課題についての報告を多数提出している。
 つまりシーボルトは、医学や科学の講義のほか、塾生に一人一人課題を与えて、その課題に対する論文をオランダ語で提出させた。
 塾生にレポートという形で、日本の動物や薬草をはじめ農産物や特産品、園芸用植物などの自生地、分布、生育地の状況、栽培状況、日本名、名の由来、利用方法、薬効などを細かく報告させた。最も興味を示したのは、茶であった。塾生のレポートには、茶について、実に様々な情報が報告されている。
 こうしてシーボルトは居ながらにして、日本の各地の植物に関する情報を集めることができた。帰国して『フロラ・ヤポニカ』、『日本植物誌』などを出版したが、その覚え書に、四国や九州南部からの情報が多いことを記している。これらの地方からの入門者が、多かったのであろう。北海道などの情報は、最上徳内から得た情報をまとめたものである。
 論文という形で、塾生から色々な情報を集めたが、また論文はオランダ語で提出させたため、塾生たちは語学習得に役立ち、シーボルトは論文を通して、日本の動植物の知識を吸収できたのである。

       フロラ・ヤポニカの本文フロラ・ヤポニカの本文
          フロラ・ヤポニカの本文

 またシーボルトは、図版をもって日本の植物のリアルな姿を伝えるために、独自に長崎絵師の川原慶賀を見出し、植物の絵を描かしている。慶賀はシーボルトが要求するレベルで、植物の素描画を千点近く描き、彼の要求に応えている。こうして鳴滝の私塾は賑わい、多くの学者たちが西洋流の学問を身に付けた。

        『日本植物誌』
          『日本植物誌』

 さて、シーボルトは、出島に上陸してから僅か2月で、日本人妻の楠本滝を迎えて、出島で一緒に生活を始めている。
 シーボルトが、たまたま出会った遊女の「其扇(そのぎ)」を気に入って、妻にしたとすると、あまりにも早い。また、楠本滝は本来遊女ではなく、長崎銅座跡の商人・楠本左兵の四女とされている。大変な美人だったらしい。偶然なのか、通詞が意図したのか、16歳のお滝を、シーボルトに察診察させた。シーボルトは外科医だから、あるいは腫物の手術だったかも知れない。ともかく、シーボルトが一目惚れしたともいう。

          楠本滝
             楠本滝

 一方で、お滝が、島津藩の長崎駐在藩士の屋敷で、武家奉公していたとき、唐人船の船主が、お滝を見染め、ぜひ妻にと懇願してきたという。 こんな事情からか、しかるべき手続きの上、遊女「其扇(そのぎ)」として出島に入り、シーボルトの妻になった。楠本左兵と仲立ちのオランダ通詞と交友があったから、通詞の意図があったのかも知れない。
 出島で新居を持ち、シーボルトとお滝の間に、イネが生まれた。
 シーボルトは31歳、お滝は21歳のときで、それから6年4か月の間、シーボルトと共に出島で暮らした。





シーボルト江戸参府紀行

 江戸参府とは、オランダ商館の一行が将軍への献上品を持って、江戸城に入り、将軍を表敬訪問する恒例行事である。
 1609(慶長14)年に始められ、1633(寛永10)年から毎年行われる行事となったが、1790(寛政2)年以降は4年に1度に改められた
 1826年4月、4年に一度で、162回目にあたるオランダ商館長の、江戸参府旅行にシーボルトは陸軍軍医少佐として随行することになった。
 『江戸参府紀行』には、1826(文政9年)2月5日、シーボルト一行が長崎出島を出発、7月7日に長崎へ戻るまでの、半年間の出来事を事細かく記されている。

     オランダ商館長の江戸参府行列
         オランダ商館長の江戸参府行列

 シーボルトにとって、日本の博物調査の絶好の機会でもあり、二年ほどかけて入念な準備をし、日本の地理、住民の言語、彼らの風俗習慣を調べた。さらには、国民の文化程度、商工業、国家や国民の施設についても、塾生を通じて交友を広め、見聞を広めた。鳴滝塾で二年間の間に、治療した数百人の患者も協力的で、多くの標本や情報を得た。また鳴滝塾の塾生たちも、全国の博物標本や動植物の図譜、乾燥させた植物標本などを集めてくれた。
 また数人の猟師に依頼し、鳥や獣、そして昆虫などの採集も依頼していた。こうして、日本列島の動植物をある程度は知ることができた。

     オランダ商館長の江戸参府行列

 さらに旅行で、さまざまな研究を成功させるために、バタビヤに助手と絵師を依頼し、薬剤師のビュルガーと、ヴィルーブが派遣されてきた。
 江戸参府旅行の人員は、先例によって商館長と書記と医師の三人と定められていた。派遣されてきた二人の同行を願い出たが、シーボルトの書記の名目で一人だけ許されたので、ビュルガーを同行することで四人となった。
 他に現金出納や、政治外交などの業務を行う大通詞として、末永甚左右衛門と小通詞の岩瀬弥十郎がいた。他に商館長の私的な通詞として、名村八太郎がいた。日本人の同伴者で最高官は御番上使の川崎源三で、彼の部下や、荷物運搬任務の監督、料理人、役所の小使など、日本人の随員は合計57名であった。
 市街地では、オランダ人はみな、駕籠を使用する決まりがあり、このため陸上旅行は、大名行列と同様の順序が守られた。まっ先に献上品とその他の荷物、距離を置いて二人の町使が行列の前駆となる。
 それから小通詞・医師・書記さらに使節の順で、そのあと大通詞・船番そして給人(付添検使)と続いて行列が終る。
 この他に、シーボルトの研究のために、日本人二人が随行した。
 一人は門人の高(こう)良齋で、四国徳島の若い医師で眼科に熱心だが、とくに植物に関する広範囲な知識と、オランダ語が巧みであった。
 もう一人は、長崎の画家登与助で、特に植物の写生に特異な才能を持っていた。すでに人物や風景画も、西欧の技法を取り入れていた。彼の描いた絵は、のちにシーボルトが出版する「日本」等で多数採用されている。
 シーボルトと助手のビュルガーは、旅の途中の行く先々で、クロノメーターと六分儀で、太陽の高度を測り、緯度と経度を調査している。

     六分儀 クロノメーター
           六分儀                クロノメーター

 例えば大村の町と城は、北緯32度55分27秒・グリニッジ東経130度1分にあると記している。ついでながら、江戸は北緯35度41分・東経139度42分と測量している。それから植物や動物の採取をしたり、気温や山の高さを測ったりした。また、訪問の先々で、門人や各地の医師が、訪問し、病気や外科治療法や、西洋の知識を尋ねている。
 二日目の大村藩領の松原では、戸口に赤い注(し) 連(め)縄(なわ)を発見した。
 それが天然痘の魔除けで、山伏が伝染病の予防のために張っていると説明受けた。大村藩では、天然痘が流行しており、罹患者は古田山に強制隔離されるという話をきいた。
 下関では、門人、知友来訪し、門人がシーボルトへ学位論文提出した。また病人の診療と手術を行っている。この参府旅行中に、至る所で自生あるいは栽培されていた植物について記録している。
 目的は、日本の植物をヨーロッパに移入し、彼地の庭園を豊かなものとし、また林業の活性を図ろうとした。このため、緯度がオランダやドイツに近い、本州東北部や北海道の植物にも、強い関心を寄せていた。
 江戸では、11代将軍徳川家斉に謁見した。将軍やその他の高官への献上品は、1万3千8百62両に達した。通常、献上品は、毛織物・毛および絹布・更紗その他色さまざまの絹布・金糸銀糸で織った布地などである。将軍や幕府高官との謁見が終わると、多くの医者や学者に会っている。
 将軍御典医・桂川甫賢、植物学や化学に詳しい宇田川榕庵、蘭学大名・元薩摩藩主島津重豪(しげひで)、その息子で中津藩に養子に入った奥平昌高、長崎奉行・高橋越前守の紹介による蝦夷探検家・最上徳内、天文方兼書物奉行・高橋景保(かげやす)らの人物と出会っている。
 とくに最上徳内の知遇を得て、樺太とアジア大陸の間に海峡が存在すること、その海峡の発見者は、徳内の部下の間宮林蔵であること、などを知らされた。
 高橋景保(かげやす)は、海外情報を入手する役割を担っていたから、シーボルトとから、ロシア探検家クルーゼンシュテルンの、『世界周航記』をはじめ、「蘭領印度の地図」、『オランダ地理書』を手渡され、代わりに江戸城の「紅葉山文庫」にあった「江戸御城内御住居之図」、「江戸御見附略図」「武器・武具図帖」の写しを渡した。
 シーボルトはさらに、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」より琉球から樺太まで入っている地図も懇望した。これらの人々から地図・動植物・美術・民俗的道具や、日本国内の情報を収集していった。

     「大日本沿海輿地全図」
            「大日本沿海輿地全図」

 また シーボルトは、本草学者の水谷豊文、弟子の伊藤圭介や大河内存真、さらに宇田川榕菴、桂川甫賢などを「日本の植物学者」と記している。日本人学者との接触を通じて、シーボルトがえた情報は、彼の日本植物についての理解を深める上で重要だった。
 中でも宇田川榕菴と、桂川甫賢の情報は、重要と見なされた。
 サンクト・ペテルブルクにあるシーボルト植物画コレクションの多くに、宇田川榕菴のイニシャルであるW. J. が残されるが、これは榕菴が認めたことを意味する一種のサインだろう。
 5月18日、長崎へ戻るシーボルトに、見送りに来た最上徳内が、間宮林蔵の、樺太計測地図「黒龍江中之洲并天度(ならびにてんど)」の写しを手渡した。

     間宮林蔵の樺太計測地図
       間宮林蔵の樺太計測地図

 この地図はシーボルト著『日本』に掲載されている。こうした人脈で、日本国の中枢を知り、秘密にされていた絵図・地図類をシーボルトは次々と手に入れていった。
 帰国して著した『フロラ・ヤポニカ』では、ウラジロモミのところで、最上徳内の名前をあげ、情報と資料提供に謝している。最上徳内によったと思われる記述は、カラマツやモミなど随所に見られる。 

          最上徳内
            最上徳内

 蝦夷の地図の収集は、のちにシーボルト事件に発展した。
 1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出し、一部は日本の浜に流れ着いた。その積荷の中に、幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となった。
 後に「シーボルト事件」と呼ばれ、高橋景保ら十数名処分され、高橋が獄死した。
 シーボルトは、当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理学など、多岐に亘る事物を日本で収集、オランダへ発送した。シーボルト事件で追放された際にも、多くの標本などを持ち帰った。この資料の一部はシーボルト自身によりヨーロッパ諸国の博物館や宮廷に売られ、シーボルトの研究継続を経済的に助けた。
 こうした資料は、ライデン、ミュンヘン、ウィーンに残されている。また、当時の出島出入り絵師だった川原慶賀に、生物や風俗の絵図を多数描かせ、薬剤師として来日していたハインリッヒ・ビュルゲルには、自身が追放された後も、同様の調査を続行するよう依頼した。
 これらは西洋における、日本学の発展に大きく寄与した。
 日本語に関しては記述は少なく、助手だったヨハン・ヨーゼフ・ホフマンが多く書いている
 シーボルトは1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約締結によって、追放処分が取り消され、翌年オランダ商事会社の顧問として再来日し、長崎で楠本瀧・いね母娘と再会、江戸幕府の外交にも参画した。

           晩年のシーボルト
             晩年のシーボルト

 オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。
 日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。
 





江戸の蘭方医

 江戸末期の三大蘭方医といえば、坪井信道、伊東玄朴、戸塚静海といわれた時代がある。このうち伊東玄朴、戸塚静海は、長崎の鳴滝塾でシーボルトから直接西洋医学を教わっている。
 坪井信道は、美濃生れで家伝では、織田信長の7世の孫とされているが、美濃脛永村の農民のうまれである。幼くして両親をなくし、兄が僧を志し、信道が医を志した。各地を巡って東洋医学を学んだが、文政3年(1820年)、江戸で宇田川玄真とシーボルトに面識のある宇田川榕菴に蘭方医学を学んでいる。

         宇田川玄真
            宇田川玄真

 宇田川玄真は、江戸時代後期の蘭方医で、養父は宇田川玄随、養子に宇田川榕菴がいる。江戸蘭学における、大槻玄沢の実質的後継者で、門弟に吉田長淑、藤井方亭、坪井信道、佐藤信(のぶ)淵(ひろ)、緒方洪庵、川本幸民、箕作阮甫、飯沼慾斎、青地林宗らがいる。
 榕菴は、養父の玄真に学び1817年に津山藩医となった後、津山藩主が御家門であったことから、玄真とともに幕府に重用され1826年には天文方蕃書和解御用の翻訳員となってショメール百科事典の翻訳書『厚生新編』の作成に従事している。
 すでに触れたが、のちに江戸でシーボルトと出会い、シーボルト事件に巻き込まれて、獄死している。
 坪井信道は、江戸に出て赤貧の中、宇田川玄真の門下に入り、師の玄真から卓抜な才能と、その無欲な人格を愛され、玄真のさまざまな援助を受けて西洋医術を修めた。
 信道の学問が成就し、天保3年(1832年)38歳のときに、江戸冬木町に蘭方医学と蘭語を教える日習堂という家塾を開いている。信道はやさしい人柄で、とくに金銭に淡泊で、塾の経営から収入を得ようと意識が薄く、むしろ自分の得た蘭学を、広く世間に伝えたいという情熱で終始した。家計と塾の経費は、主として医者としての診療で得た。
 貧者にも富者にも、分け隔てなく丁寧な医療を施した。とくに薬代を払えない貧者には、豆一合でもよしとし、それも払えない者は無料とした。こうした「医は仁術」を実行したから、「行き菩薩」などと云われて、生涯金銭との縁は薄かった。

             伊東玄朴


 それに比べると、信道と生涯仲の良い友人であった伊東玄朴は、金の亡者のように云われ、玄朴の象先堂の塾生は「医を商売と心得る者が多い」と云われた。しかし玄朴は、幕府に於ける蘭方の地位を確立するという大きな功績があるが、のちに触れる。
 医者としての坪井信道には、治療を請う者が絶えず、また併設した学塾日習堂には多くの門弟が集まった。
 坪井信道の日習堂の門弟で、最高の弟子と云われたのが、備中足守の緒方洪庵である。信道について蘭方医学を修めると、天保9年、大阪で適を開き、信道のやりかたを一層研ぎ澄ましたようなやり方で、門人を愛し、医の道徳をやかましく言い、かつ単語を拾う程度の蘭学から、文法に主眼を置いて、読解力を身につけさせる教授法をとった。
 さらに医学についても、同じ思想に基づいて、病理学をやかましく学ばせた。個別の病の治療法の習得よりも、病理学を基本とした体系的な医学を学ばせようとした。
 この当時の蘭方医の塾では、患者を診察しながら、
「この症状はこれこれで、病名はこれである。これについては、こういう手当をし、この薬剤を与える。患者には、以下のことを注意せよ」
という具合で、医学を体系的に教える能力はなかった。
 のちに幕末に、ポンペが長崎で実施した医学の体系的な教育に、蘭方医師たちは呆然としたという。
 それでも臨床経験に基づく経験知の積み重ねで、的確な診断と投薬によって治癒率が高かった。また蘭方医の使用する薬剤は、漢方薬とは異なり、独自の化学的調剤を行った。ただ漢方薬は、その調剤方が家伝で秘法とされたが、蘭方の調剤は、誰でも同じ調剤と効能が期待できる局方調剤であった。
 坪井信道は、その学識と篤行により、天保8年(1837年)には長州萩藩毛利家の侍医に召し出されている。信道の門下生には、緒方洪庵、杉田成郷、黒田良安らがいる。嘉永元年(1848)没、54才であった。贈正五位。
 著書に『診侯大概』、翻訳書に『製煉発蒙』、『万病治準』、『扶歇蘭杜神経熱論』がある。実子に二世信道となった信友、養子に幕府奥医師の信良がいる。門下生には、緒方洪庵、青木周弼、川本幸民、杉田成卿、黒川良安らがいる。

          戸塚静海     
           戸塚静海

 戸塚静海は、遠州掛川の喜町(木町)に寛政11年(1799年)に医家の家に生まれている。 静海は、本格的に蘭学をするために17歳で江戸に行き、宇田川榛斎の流れをくむ箕作阮甫(みつくりげんぽ)に師事し、また儒学を松崎慊堂に学びんだ。そして25歳の年、文政6年(1823)に、シーボルトに師事すべく、長崎に遊学に出た。そこでは臨床外科の分野を学び、蘭学外科医としての実践面で、卓越した腕を磨き、臨床外科分野を開き、その元祖と呼ばれる程になったといわれる。
 ただ、シーボルト事件に連座して、一時獄につながれたが許され、のち天保3年(1832)掛川藩主太田家に仕え、翌年江戸で外科を開業した。 幕末の医学界は、伝統の漢方中心幕府医学教育の医学と、蘭方医学に分かれていた。蘭方医学は、長崎を中心に、シーボルトの弟子達によつて次第に江戸でも盛んとなって、各地で蘭方医学がその真価を発揮し好評を博していった。
 蘭方医学の隆盛に危機感を抱いた漢方医学界は、その元締めとして君臨していた江戸城奥医師の多紀元堅が、大奥の政治力を使って「西洋医学御禁制」を幕府に出させた。いわば時代に逆行するような、政治力によって、蘭方医学を抑圧した。
 ところが、安政5年、大老井伊直弼の政治力を使って、奥医師に取り立てられた伊東玄朴が、推挙で幕府奥医師となった。

 漢方中心の幕府の医療、医学教育機関を牛耳っていた、幕府の医学館総裁で、奥医師の法印多紀元堅と督学官が相次いで死亡したため蘭学反対の勢力は急速に衰えていった。翌年の安政5年3月7日、伊東玄朴と戸塚静海らが中心となって、私立の「お玉ヶ池種痘所」が開設された。
 これは種痘を行うための共同の機関で、現在で言う医師会立の予防接種センターのようなものである。しかし、この種痘所も半年後には神田相生町から発生した火災で焼け落ちてしまった。
 そののち、再び蘭方医らの寄付金によって再建され、現在の東京大学医学部の原点となっている。

     お玉ヶ池種痘所
          お玉ヶ池種痘所

 お玉ヶ池種痘所では、開設後まもない安政6年10月、死刑死体の解剖も行われ、種痘活動などの公衆衛生活動以外に、医学教育活動などの研修事業も行われていた。
漢方勢力の強かった江戸では、西洋医学は8年も京都・大阪に遅れていたが、お玉ヶ池種痘所が建設されて以来、組織的な行動を行ったこともあって、予想外の成果が得られ、蘭方医学への理解も急速に深まっていった。
 そして、幼児期に天然痘を患い、病弱であった徳川13代将軍家定公が重症の脚気を患ったとき、伊東玄朴と戸塚静海が奥医師として新たに就官している。 木町(喜町)の生んだ偉大なる人物戸塚静海は、伊東玄朴とともに西洋医学の発展に常に指導的立場に加わり中心的な存在にあったが、明治9年、78歳でその生涯を閉じた。





多紀元堅ー楽真院

 さて、江戸末期の法印に、多紀楽真院がでた。
 楽真院とは多紀元堅のことで、「医学館」総裁であった多岐家第7代の元(もと)簡(やす)の第5子として生まれたが、20歳のとき分家して町医者として市中で開業していた。ところが、多紀家第8代を嗣いだ元胤は腹違いの兄にあたるが、39歳で早死した。 このため、天保6年(1835年)、元堅は、37歳のとき幕府に召し出され、幕府医官となって、医学館の講師を命じられて、昇進の糸口をつかんだ。矢倉(やのくら)(浜町)に屋敷を拝領し、向柳原(浅草橋)の本家の多紀家と区別して、矢倉多紀家と呼ばれた。
 42歳で奥医師となり、46歳で法印に昇進し、さらに大御所家斉の御匙代理(主治医代理)、次いで法眼、のち法印に叙せられ、楽真院と称した。その後、没するまで、家斉・家慶・家定の将軍3代に仕えた。

       

 元堅は、父元簡がのこした著作を、整理刊行し、1830年代以降は、医学館で医学古典の講義をしながら、父元簡の古典注釈書を補遺する著作を執筆し、順次刊行していった。
 古典から単に説を立てるという方法から、考証学的な手法、つまり歴史文献学的な医学古典研究を進めた。例えば、父の代には未発見であった文献、仁和寺本の『黄帝内経太素』や、宋版『外台秘要方』といった文献が世に知られるようになったのを受け、現に伝わっている文書と、古い文書を比較検討し、文書の元のかたちを復元することに力を注いでいる。また臨床に関する著作としては、父が『脈診書』を残しているのに対して、元堅は『腹診書』を残している。
 元堅は、幕府の医学教育機関としての「医学館」を拠点に、考証派を代表して、幕府医官の頂点に立ち、幕末の医学界に政治的に君臨した。

        傷寒論述義
          傷寒論述義

 この頃やや停滞傾向が見られた、医学館の教育体制を立て直すために、祖父元悳(げんとく)と父元(もと)簡(やす)の時代を理想として、「六部書」(素問・霊枢・難経・傷寒・金匱・本草)を中心に、併せて基礎学としての儒学を講ずるかたちに改めた。また、元々多紀家の私塾であった「医学館」が、寛政時代に幕府直轄になって以降は、許されていなかった、幕府医官以外の各藩の医師や、町医者の出席を認めた。こうして、渋江抽斎や森立之のような、優れた人材が医学館に集まるようになった。
 父元簡がまいた考証医学の種は、元堅のもとで大きく花開いたといえる。考証派の学風は、古典医学書の収集・復元に努めるもので、その成果は中国のそれを凌駕するといわれる。
 元堅自身も『傷寒論述義』をはじめ、多くの医書を著したほか、原坦山(たんざん)・佐藤元萇・蒲生重章などの門弟多数を教育した。幕末から明治初期にかけて、「多紀楽春院の門人」と称する医師がきわめて多い。

            平安期の宮中の医官丹波氏
              平安期の宮中の医官丹波氏

 日本で最も古い医家は丹波氏で、平安期の宮中の医官を勤め、随・唐の中国の医書から、重要なものを撰んで、『医心方』30巻を編纂した。
 そして代々丹波氏が、宮中の医官を世襲した。
 そのなかから多紀家がでて、代々宮廷の医官を勤めた。江戸幕府が将軍家の医師団を組織するとき、京の宮廷医を江戸に呼んだ。そのなかに江戸の多紀家の祖である多紀元孝(げんこう)がいた。奥御医師となり、特に口科(歯科)を専門とした。多紀家は宮廷の医官を勤め、『医心方』を編纂した家系でもあり、多くの医書を蔵していた。江戸で初代の多紀元孝(げんこう)が、屋敷内に「済寿館」を立て、私塾として医官の子弟にに医学を教えた。
 これに幕府が維持費をだし、多紀家が運営してのちに「医学館」と呼ばれていった。
 この結果、多紀家は、幕府の医学教育を担う役割と権威があった。
 立場上、相当な権勢家として
の立場があり、奥御医師仲間だけでなく、直参のほぼ同格の旗本などは、何らかの形で親戚となっている。
 その養子縁組みの口利きなどによって、大きな権勢を奮った。
 





漢方医と蘭方医の相克
 
 多紀楽真院の仕事は、この多紀家の幕府奥医師「漢方家」としての権勢を、いかに維持するか、にその政治能力を最大に使った。
 蘭方医学が隆盛を極めはじめると、時代に逆行する形で、幕府が嘉永2年、「蘭方医学の禁止令」をだしたのも、漢方医学の総本山ともいうべき、多紀楽真院の執拗な大奥への運動によって、表役人の老中阿部正弘が根負けして、禁制を決定したという。

     ペリー来航


 ペリー来航という新時代の状況のなかで、幕府の医学だけは、ほとんど壮烈といえるほどの頑固さで、洋学を拒否しつづけた。要は、多紀家が守り続けた漢方のみが正しい、という態度であった。 かとぃつて、漢方医学が西洋医学より優れているという、論文が一行でも書かれたわけではない。つまりは、多紀家が、漢方医学の頂点に立ち、権威を維持し続けるための、方便であったに過ぎない。
「蘭方医学の禁止令」に関する法令の番人は、幕府の医官を監督する多紀家で、江戸幕府の法思想からいえば、この法令に関するかぎり、多紀家がいわば司法権にちかい権能を持っていた。
 ある日、岡部長崎奉行宛に、奥医師法印多岐楽信院より私信が届いた。「諸藩や町方は知らず、大公儀の医学はあくまで漢方で、蘭方は停止(ちようじ)されている。であるのに、長崎においてポンペなる蘭人を雇い、大公儀の施設めかしく、長崎医学伝習所なるものをお取立てあるそうだが、事実とすれば誠にけしからぬ。さらには松本良順(奥医師)は、拙者の監督を受ける者にかかわらず、ポンペとともに蘭方を鼓吹するやに聞く。乱臣賊子と言うべきである。右の件、もし事実ならば、しかるべくご処置なされるのが、憚りながら、上様の御意にかなう道であると存ずる」
 長崎奉行に対する大公儀の命令や指示は、勘定奉行からくる。あるいは別に、江戸の大目付から、長崎目付に命令や指示がくだり、その長崎目付から長崎奉行に対して申し入れがある。
 そういう系統ではなく、まったく横の筋から注意事項がくるのは、多岐楽信院の手紙が初めてであった。いずれは、大奥を動かして、医学伝習所を取り潰そうという魂胆があり、いわばその前触れとしての圧力であった。長崎奉行岡部駿河守は、これを無視した。
 江戸では、強烈な保守家の井伊直弼が大老に就任し、たちまち強力な権力をにぎった。多岐楽信院は、保守家の井伊直弼の登場に気をよくして、長崎伝習所を潰したいと思った。

     長崎医学伝習所のポンペと松本良順と学生
        長崎医学伝習所のポンペと松本良順と学生


 日本最大の困難な幕末期、ペリー来航の騒ぎの真っ最中に、13代将軍職に家定が就任した。将軍家定は、元来が病弱で、癇癖があって常に首を振り続けていたともいい、また暗愚で表役人が少し難しい話をすると、泣き出したともいう。幼いときに疱瘡に罹り容貌が醜く、本来虚弱な精神と病弱な将軍家定は、30歳をすぎても子がなかった。
 こうしたことから、将軍継嗣問題が大きな課題であった。
 当時、贒公といわれた薩摩の島津斉(なり)彬(あきら)、土佐の山内容堂(ようどう)、松平春嶽(しゆんがく)などを中心に、国家存亡の危機のときにあたって、将軍が英明であることを欲した。
 水戸徳川家の出身の一橋慶喜は22歳で、その聡明さは世に聞こえていた。そこで慶喜を養子に立て、一種の摂政のような位置につけば、家定の能力不足を、庇(かば)うことができると考えたのが、贒公といわれた雄藩の藩主たちであった。ところが一橋慶喜の実父、水戸の徳川斉昭は、女性についての背徳的な噂が多く、将軍の大奥の女達に嫌われていた。
さらには、家定の実母の本寿院が、もっとも激しく水戸の斉昭を嫌っていた。このため大奥の意見は、紀州の少年を樹立することを望み、さらに大老に就任して、実権を握った井伊直弼も、紀州擁立派であり、のちに、慶喜擁立派をことごとく、安政の大獄で検断してしまうのである。 この将軍継嗣問題の政争の末期に、将軍家定は病の床に就いた。奥医師法印多紀楽信院の診立ては、「脚気衝(しよう)心(しん)」であった。
 脚気は、いまではビタミンB1欠乏による、栄養障害に過ぎないが、この時代は原因が分からず、「脚気は湿気にあたっておこる病気という理論が信じられていた。「脚気衝心」は、ひどくなると、甚だしく血圧が低下し、わずかに身体を動かしても、心臓の血液輸送力が落ち、急性に心力が衰弱してしまう。この症状の急変について、俗に三日坊主ともいわれ、三日のわずらいで、僧侶を呼ばねばならないと言われた。

              井伊直弼
                 井伊直弼


 こんなときに、若年寄遠藤但馬守が、井伊直弼の元へ行き、「蘭方医ながら、伊東玄朴という名声のある医師」の噂を耳に入れた。
 若年寄遠藤但馬守の母が病のとき、往診を依頼し、ほどなく病人は平癒した。
 これを機に、玄朴と昵懇となっていた。また、玄朴の江戸での名声は、大奥の女性たちにも届いていた。

              伊東玄朴
                伊東玄朴

 井伊直弼が耳にした以上、もし聞き流して将軍がすぐに死ねば、井伊は名医を拒んで死期を早めたと、評判を落とすことになる。
 さらには、大老井伊直弼にとって、安政の大獄の仕上げともいうべき最後の検断のためにも、家定にはもう少し生き延びてもらわねばならない事情もあった。こうした背景で、安政5年(1858)7月3日、突然に伊東玄朴は奥医師に任命されたのである。
 本来奥医師というのは、公人としての将軍の、私的な家庭に出入りする医師だから、その任免は表役人の代表の大老といえども、自由にはできない。本来は、将軍が決めるということになっている。
 井伊直弼は便法として、将軍の実母本寿院を利用した。話をすると「将軍の病を治してくれれば蘭方医であれ、何であれかまわない」という言質をもらった。
 こうして、幕府の漢方総本山の、法印多岐楽信院の知らぬところで、幕府の「蘭方禁止」が解けたのである。それも多岐楽信院が密かに大老就任を喜んでいた井伊直弼によって、実行されたのである。 超保守派の直弼にとっては、蘭方医採用は便法に過ぎず、目的は将軍家定に一日でも長く、生きて貰わねばならなかったのである。
 
 往診途中の駕籠から、まるで拉致されるようにして、そのまま江戸城の奥に連れ去られた伊東玄朴は、老中間部(まなべ)下(しも)総(うさ)の守(かみ)から、奥医師に任命されたことを告げられた。
「他の奥医師に遠慮することなく、将軍家定の脈を診、お匙をたてまつれ」と命じられた。伊東玄朴はこのとき58歳、この時代で言う剛腹なうまれつきで、物事に対処するについての計算が立ち、物事の間合いを充分に見切って、落ち着き払っていた。貴人の場合の診察は、奥医師は必ず複数で診た。こうした事情から、戸塚静海を呼ぶことの同意を容易に取り付けた。
 戸塚静海はシーボルトの弟子で、その中でも出色の一人であった。

          戸塚静海の墓
             戸塚静海の墓

 江戸での開業は玄朴よりも古く、玄朴とも親交が深かかった。
 静海は人柄がよく、また一般に欲がすくなく、出自の良さからか栄達をすることを一切考えなかった。浪人の身分のまま江戸で開業し、臨床家としての名声が上がり、このため諸藩から召し抱えの使いが来たが、すべて断っていた。が、薩摩の島津家から、再三にわたる執拗な要請を断り切れず、ついに薩摩藩の侍医に就いていた。
 玄朴は本来が親分肌で、とっさの間にも、仲間を引き上げるという政治感覚があった。ともかく、家定の危篤のときでもあり、玄朴の推挙によって、静海もまるで網にすくい取られるようにして、有無を言わさず江戸城内に連れてこられ、そく奥医師に任命された。 
 二人の比較では、内科の臨床家としては玄朴がすぐれ、外科と産科では静海がすぐれていた。蘭語を読む力は静海がすぐれているが、文献的知識を体験と勘で柔軟に応用したり、飛躍させたりする能力では玄朴が優れていた。
 玄朴は、手短に静海に将軍家定の病状を説明し、蘭方医学が興隆するか、滅びるかの瀬戸際である。と小声で囁いた。

                将軍家定
                  将軍家定

 家定の病室には、漢方の奥医師たちと、その医長として多岐楽信院が詰めていた。伊東玄朴と戸塚静海が入室すると、漢方の奥医師たちは退室し、医長の多岐楽信院だけが、いわば監視役のように残った。
 二人は診察し、手首にふれ脈を診ると、心臓の衰えが甚だしい。二人の診断では(二日とは持たない。しかし今日ということはあるまい)と一致した。
 彼らは今まで、何度も重度の脚気を診ている。
 しかし脚気は西洋ではまれな病気で、蘭方医学では、これといった処置法は持っていない。しかし玄朴は、蘭方独自の処方があるかのように振る舞った。病室で家定の診察を終えると、別室で大老井伊直弼が待っていて、二人の診立てを問うた。玄朴も静海も、「重傷の脚気で、すでに衝心の症状が出ていて手遅れで、48時間で命脈が尽きる」と報告した。
 この診断は、奥医師の医長、多岐楽信院もほぼ同じながら、余命は12時間と短かった。
 この時代の名医というのは、死病の患者を治癒する力を持っていないが、いつ死ぬかということについては、よく当てた。
 大老井伊直弼は、家定の余命が12時間では、政治的な打つ手がないが、玄朴と静海の診立てのように、48時間の猶予があれば、政治的な大仕事がやれると決断させた。この5日は、まだ将軍家定の息はある。
 安政の大獄という、政治的大弾圧の仕上げと言うべきものが、徳川家の御三家、御家門の処分であった。これだけは大老の名では、検断できない。将軍家定の名で処分を発表する必要がある。 こうした事情から、ぎりぎりの安政5年7月5日に処分されたのが、尾張の徳川慶怒(よしくみ)(慶勝)、水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永という、直弼にとっては、弾圧対象の首犯級の大名は、将軍家定の名において検断され刑をうけている。

                越前の松平慶永
                  越前の松平慶永

 こうして一橋慶喜擁立派は、一網打尽に処分された。
 幕府が内々に家定の裳を発したのは7月8日で、10日に遺骸を上野の寛永寺に葬った。井伊直弼の政治弾圧の仕上げと、幕府の蘭方採用とは、事件としては一つ穴から生まれている。
 ともかく玄朴の診立てはあたり、家定は2日後の5日の午後に亡くなったらしい。しかしその後も、(お命に御異常はございませぬ)と大老からの要求に答えたという。大老が玄朴を奥医師に採用したとき、大奥では歓迎する歓声が上がったことを直弼は聞いていた。直弼は、家定の継嗣を、紀州の慶福(よしとみ)にするには、大奥を味方につける必要った。

     江戸城 大奥
         江戸城 大奥

 この直弼と玄朴は阿吽の呼吸で、家定の死を最大限に利用するという計算を立て、政治家と政医としての凄腕を発揮した。
 玄朴はこの機会に江戸中の名のある蘭方医をずらりと並べ、奥医師にしてしまい、多岐楽信院の漢方を根絶させるという魂胆であった。
 こうして剛腹な玄朴は、家定の投薬調剤についても、蘭方では一から化学的に調剤せざるを得ないので、一流の蘭方の調剤医が必要と説いて、急ぎ奥医師に採用されたのが、竹内玄同、坪井信良、林洞海、伊東貫斎の四人である。
 竹内玄同は、代々越前丸岡藩の藩医で、若い頃長崎でシーボルトの鳴滝塾に入った。伊東玄朴にとっては、戸塚静海とともシーボルトの門下生で、たがいに助け合ってきた。

             坪井信良
             坪井信良

 坪井信良は、江戸の蘭方医としては、人格見識ともに最高といわれた坪井信道の養子である。坪井信道は、江戸期の代表的な仁者であったから、その門下生の緒方洪庵をはじめ、みな信義の人なりといわれた。
 林洞海は、豊前小倉藩士、林祖兵衛の三男として生まれ、江戸で足立長雋(ちようしゆん)に学んだ後、佐藤泰然とともに長崎に遊学し、オランダ商館長ニーマンに師事して蘭方医学を学んだ。江戸に帰り、同門の佐藤泰然が佐倉に移ったあと、その旧宅を譲り受け、泰然の娘を娶って開業し、小倉藩医の江戸詰医師に就いていた。
 伊東貫斎は、武蔵国府中出身で、六所宮神官の猿渡盛徳の二男 として生まれている。江戸と長崎で学び、弘化2年(1845)緒方洪庵に師事し、のち「適塾」の塾頭を務めた。嘉永6年(1853)伊東玄朴の娘婿となっている。こうして、将軍家定の死に臨んで、ときの幕府の独裁的政治家の井伊直弼と、蘭方医で江戸で名声の高かった伊東玄朴によって、漢方の牙城が一気に崩されたのである。
 ついでながら、家定の死去により、多岐楽信院は隠退を申し出て受け入れられている。



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