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   第四章 近世西洋医学の夜明け

 第四章 近世西洋医学の夜明け 目 次
 占星術的医学  錬金術と古典的権威の破壊  解剖学と生理学  病理解剖  ハーヴェイの血液循環論

 
 細菌の発見  ワクチンの開発  
 








 
占星術的医学

 占星術または占星学は、太陽系の太陽・月・その他惑星・小惑星などの天体の位置や動きと、人間や社会のあり方を経験的に結びつけ、運勢や未来などを判断する、いわゆる卜占(ぼくせん)のことである。
 古代バビロニアを発祥とし、アラブ・インド・ギリシアを通じて発展し、ヨーロッパの西洋占星術となった。インド占星術や東アジアで発展した東洋占星術と対比される。
 天上の星々は、地上のあらゆる物質と照応関係を持つとされ、星々に照応する金属として、例えば太陽と金、水星と水銀など、鉱石などが定められた。また西洋占星術では、出生時の星々の位置から、個人の星位図をトレースすることが普及した。この思想は「ホロスコープ(星位図)占星術」と名付けられた。

           
                      ホロスコープ(星位図)

 占星術は、ヘレニズム時代以降は、実質上科学と位置づけられるものに拡がり、植物学、化学(錬金術)、動物学、鉱物学、解剖学、医学などにも占星術がかかわった。
 人体と星々の照応関係をもとに、占星医学が発達し、その治療に用いる薬草類の研究が、天体植物学として体系化された。
 さらに、ローマのマニリウス(西暦1世紀)は、『アストロノミカ』で、天球上の黄(こう)道(どう)を中心に、太陽と惑星が運行する帯状の領域を、黄経(こうけい)で12等分し、十二宮や黄道十二宮に分けている。
 個人の運命を星位と結びつける考え方は、人体の各部位を星々と結びつけることにつながった。
 天文学者で占星術師の、クラウディオス・プトレマイオスの『テトラビブロス』の第一の書で、惑星の冷熱乾湿などの一般的原理が論じられ、第二の書で社会変化を占う占星術が、第三の書と第四の書で、個人のホロスコープ占星術が論じられている。

             
                  個人のホロスコープ
  

 学派によって、その照応関係は異なるが、概ね頭部を第1のサイン(占星術の宮)である白羊宮に、足先を第12の双魚宮にそれぞれ対応させ、その間に残るサインを当てはめている。
 外科医学でも、こうした照応関係は重視され、後には瀉血で切る部位を決める際にも、占星術的な判断が用いられた。
 古典文化の復興と、文化の高揚がみられる「12世紀ルネサンス」の中で、他の科学書とともに多くの占星術書が、アラビア語からラテン語に翻訳され、占星術知識が再興・発展した。ヨーロッパの占星術師は、イスラム世界の占星術の技法を吸収し、そこから新たな技法を見出した。しかし、イスラム世界の占星術の権威は、長続きしなかった。
 西洋の占星術師が、独自の技法を発展させたことや、キリスト教神学者の、議論の影響を受けたためである。

 イタリアの哲学者ダンテも、イスラム科学や占星術を、キリスト教徒が使うことに批判的であった。彼は『神曲』の中で、13世紀の代表的な占星術師グイド・ボナッティとマイケル・スコットを地獄に落としている。このように、占星術は毀誉褒貶があるが、一方で占星医学はむしろ評価され、大学などで受け入れられていた。

             


 こうした背景で、当時の医学研究で主導的地位にあったサレルノ大学、ボローニャ大学、モンペリエ大学などの医学部でも、占星医学は講じられていた。さらには、1347年から1350年にペストが流行したとき、パリ大学医学部が、その原因は1345年3月20日に宝瓶宮で起こった、木星、火星、土星の三重合にあった、とする公式声明を出している。
 伝染病の流行と、星位を結びつける言説は、現在でも「(星の)影響」を語源持つ「インフルエンザ」などに、その痕跡を残している。

           
                 人体と星々の照応関係
          
 ルネサンス期の医学占星術は、マクロコスモスとしての宇宙が、ミクロコスモスとしての人体と照応しているという観点から、身体を見る医術である。ホロスコープ(星位図)を用いて患者の性格、行動特性、感情パターンを解明し、それに基づいた治療を行い、さらには人生の目的や方向性までの指標を示していった。
 中世からルネサンス期を経て、16世紀に巨大に開花した占星術的医学では、ゼウスの木星が、肝臓、肉、胃、腹、臍など内臓全般を、また血液や胸部、精液などを支配するとされた。
 一方で、かつて肝臓を支配していた金星は、肝臓に加えて女性性器、肉、脂肪、乳房、腰、尻などを支配するとされた。
 しかし肝臓は、いずれにせよ、金星と木星、ウェヌスとゼウスという絶大な力をもつ星と神によって、支配されている器官であった。そこには肝臓が分泌する胆汁に関わる、メランコリーの長い歴史がある。メランコリーとは、四体液説における黒胆汁質のことで、この体液の多い人は憂鬱な気質になるとされた。


                 
                           地球が宇宙の中心説

 ルネサンス期の占星術に、重大なインパクトを与えたのは、コペルニクスの『天球の回転について』である。これによって『アルマゲスト』の著者プトレマイオスの地球が宇宙の中心説や、伝統的占星術の、太陽やその惑星の概念が否定された。
 さらに、宇宙が地球を中心とする同心円でなく、広大な広がりを持っていると認識され、広大な宇宙の星々が、どれほどの人間に影響をもつかという問題が発生した。
 17世紀に入ると、天文学者でもあったヨハネス・ケプラーが、この問題に取り組んだ。
 ケプラーは『へびつかい座の新星』では、「賢いけれども貧しい母」(天文学)と「その生活費を稼ぐ愚かな娘」(占星術)の対比によって、占星術があくまでも、日々の糧を稼ぐための道具であると述べていたが、『占星術の確実な基礎について』(1602年)、『第三に介入するもの』(1610年)『世界の調和』(1619年)などでは、新たな占星術理論の構築を試みている。

                  
                      ケプラーの黄道座標


 ケプラーは占星術を、数学的に純化しようとしたことをはじめ、様々な改革を試みており、座相であるアスペクト(黄道座標)などでは重要な貢献を行っている。
 黄道座標では、天球上の緯度と経度にあたる黄緯(こうい)と黄経(こうけい)を使用する。
 ケプラー以前の黄道座標は、第1にサイン(占星術の宮)とサインの関係であったが、ケプラーは星と星の間の角度として再定義し、この新たな黄道座標概念は、多くの占星術師に受け入れられ、現代に到っている。






 錬金術と古典的権威

 
 16世紀から17世紀にかけて、医学界では三つの革新が行われた。
 まずは、中世に受けつがれた古的権威が破壊された。さらにタブーであった人体解剖が復活され、ガレノス解剖学の多くの誤りを正した。
 もうひとつは、人体の構造の正確な知識を基にして、諸器官の機能を解明する生理学を、いかにして研究できるかの道筋を示した。
 この時代を代表する医学者は、パラケルスス、ヴェサリウス、ハーヴィなどである。

               
                 パラケルスス

 錬金術師であるパラケルススは、西洋医学の歴史において最も重要な地位を占めている。パラケルススは、その傲慢で攻撃的な性格によって、多くの敵を作り、その結果、不遇な生涯を閉じている。彼は自分自身の能力に自信を持ち、自分を正統の国王であり、医学のキリストそのもの、であると宣言している。
 しかし、彼は天才的な錬金術師であり医学者でもあった。権威に媚びず、長い停滞状態にあった中世西洋医学の改革者であった。
 権威がもっとも重要な時代であり、人々は古典時代の指導者に盲目的に従っていて、古い権威から外れるのは、どの分野でも非難されるベき異端者である時代に、勇敢にも新しい精神で臨み、医学と神学の両方のすべての足かせを取り除いた。
 新しい視点で長期間の実験や経験によって、彼自身が発見し、確かめた方向に従って、自然を研究して行った。こうして硬直していた医学界に風穴を開け、医学のみならず自然科学全般を大きく進歩させるきっかけを作った。

          
            アヘン・チンキ剤

 パラケルススの発見で、有名なものがアヘン・チンキ剤である。たとえば薬草をアルコールで煎じれば、水溶性の他に、油溶性の薬効成分も溶出してくる。これをチンキ剤として、民間療法でも酒を用いて作っていたし、イスラム圏の医者も用いていた。しかし、中世ヨーロッパの大学医学部や医学者は、過去の権威を盲信しチンキを無視をしていた。
 チンキ剤とは、生薬やハーブの成分を、エタノールなどに浸すことで作られる液状の薬剤である。
 パラケルススは、アヘンのアルカロイドが、アルコールによく溶けることを発見し、特定のチンキに、アヘンを混ぜたものが、鎮痛に大きな薬効を発見した。パラケルススはこの薬剤をローダナムと名付けた。ラテン語の「ローダレ」、称賛するという言葉に由来している。
 アヘンチンキは、その後、歴史的に様々な病気の治療に使われたが、主な用法は鎮痛と咳止めであった。20世紀初頭まで、アヘンチンキは多くの国で処方箋なしで買えた。が、常習性が強いため、現在では世界の多くで厳しく制限され管理されている。

 また梅毒の研究で、当時梅毒の特効薬とされていた薬木グアヤック樹が、普通の皮膚病には有効だが、梅毒には効かないことを見つけ、さらに水銀が、梅毒の病気の進行を遅らせることを発見している。
 パラケルススには多くの著書があるが、その代表作は『パラグラーヌム』、『病因論』と『オープス・パラミドール』である。
 1524年に出された『病因論』は、病気の起こる原因について説いたものである。なぜ病気があるのか? なぜ人は死ぬのか? 人はなぜ狂気におちいるのか? そもそも人間とは何ぞや? パラケルススは生涯を通じて、この問題を考え続けた神学的哲学者でもある。
 彼は生命には5つの領域または病気の原因があると考えた。

             
                人体と黄道十二宮の照応関係

 一つは「天体因」である。占星術を信じていた彼は、天体が人体に影響を及ぼすと考えた。次に「毒因」、「自然因」、「精神因」である。これらの乱れによって病気は起こる。そして、これら4つの他に「神因」があり、ここに病気から回復する道が開けている。ここに患者を導くのが医師の務めである。としている。このパラケルススの病因論は、伝統的なガレノス医学に対峙する理論であった。
 『パラグラーヌム』では、彼独自の医学の考え方を解説している。
 これによると医学は、四つの柱から成るという。それは、自然哲学、占星術、錬金術、そして徳であるという。
 医師は自然哲学によって自然の作用、宇宙の構造を知らなければならない。そして、マクロコスモスが、ミクロコスモスに及ぼす影響、すなわち天体が人体に及ぼす影響についても、知らなければならないとしている。つまり出生時の星の配置が体質を支配し、人体(小宇宙)は、天(大宇宙)と対応するという、占星医学が関連付けられ、診断・治療に利用された。
 そして、錬金術によって、医薬の精製・調合が出来るようにならなければならず、最後に、医師は「神と人間の前に立ち、高貴な責任を自覚しなければならない」という。
 
 1530年に出された『オープス・パラミドール』は、最も重要な著書であるとされている。この著書によって、彼は錬金術に革命をもたらした。つまり、万物の基は「水銀」と「硫黄」の他に、「塩」があるとする三原質説を提唱した。
 パラケルススはアリストテレスの四大説を引きつぎ、アラビアの三原質、硫黄・水銀・塩の結合により、完全な物質であるエリクサーが生成されるとした。
 エリクサーとは、飲めば不老不死となることができると伝えられる霊薬、万能薬のことである。

            
                錬金術師と不老不死の薬作り

 アリストテレスの物質観では、任意の物質に「熱・冷」「湿・乾」などの単純な操作を行い、四大元素の配合を、金と同じに変化させることができれば、金を作りだすことができると考えられた。これが錬金術の原理的考え方である。
 このため、錬金術との相性が良く、「硫黄=水銀理論」または、これに塩を加えた三原質説と並ぶ錬金術の基礎理論となった。
 ヨーロッパの錬金術師たちは、錬金術と占星術を結びつけ、四大元素と黄道十二宮は対応関係にあり、四つの基本性質、季節も黄道十二宮の支配を受けると考えた。錬金術でいう塩、水銀、硫黄、金などの用語は、現在の元素や化合物ではなく、象徴的表現である。
 錬金術とは、狭義では、化学的手段を用いて、卑金属から貴金属(特に金)を精錬しようとする試みのことをさしている。
 錬金術も他の学問同じで、実験を通して発展し、各種の発明、発見が生み出され、旧説、旧原理が否定され、ついには科学である化学に生まれ変わった。
 広義では、さまざまな物質や、人間の肉体や魂をも対象として、それらをより完全な存在に錬成し、人間を不老不死にする試みを指す。
 錬金術の本来は「万物融解液」により、物質から「性質」、例えば金を金たらしめている性質を具現化させている「精」(エリクシール)を、物質から解放し、「精」そのものの性質を得ることが、その根元的な目的である。つまり金のエリクシールの取得は、過程であって目的ではない。生命の根元たる「生命のエリクシール」を得ること、つまりは不老不死の達成こそが、錬金術の究極の目的であるとしている。
 こうした錬金術の試行の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学薬品の発見が多く、実験道具が発明された。その成果は現在の化学にも引き継がれている。
 パラケルススは、「錬金術は金を作ることでも、銀を作ることでもない。これを使うことによって最高の科学が作られ、この科学を病気にたいして使うことができる」と言っている。
 錬金術と同様の試みは、有名な錬金術師に龍樹がいるインドや、中国などでも行われた。中国の錬金術は、辰砂などから冶金術的に、不老不死の薬「仙丹」を創って服用し、仙人となることが主目的となっている。
 余談ながら、卑金属から金を生み出すことは、現代の原子物理学によると、理論的には可能であるという。
 方法は、金よりも原子番号が一つ大きい水銀(原子番号80)に、中性子線を照射すると、原子核崩壊によって、水銀が金の同位体に変わるという。ただ、十分な量の金を作るなら、長い年月と、膨大なエネルギーが必要であり、得られる金の時価と比べると、意味が無いといえる。

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 解剖学と生理学

 動物の解剖については、古代ギリシャの哲人であるヒポクラテスが、ヤギの頭を切り開いて脳を調べた他、様々な解剖学についての記述が、ヒポクラテスの弟子が編纂した「ヒポクラテス著作集」に記述されている。しかし各地の伝統医学では、人体の死体解剖は宗教上の理由によってタブーとされてきた。
 病理解剖の最初の記録は、1286年にイタリアでペストが流行した際に、病因解明のために胸部の部分解剖を行ったものとされている。
 実証主義の科学として、解剖学が活発な動きを見せたのはルネサンス期以降である。この時期に最初に人体解剖を行い、詳細な解剖図を記録したのはレオナルド・ダ・ビンチ(1452-1519)である。彼は30体あまりを自ら解剖して多くの解剖スケッチを描いたが、人体の構造についての最初の正確な図である。

            
              レオナルド・ダ・ビンチ人体解剖図

 レオナルド・ダ・ビンチは、あらゆる分野に天才的才能を発揮し、ルネサンス的精神の申し子であり権化でもある。
 彼の才能と興味は、芸術だけではなく さまざまな実験に取り組むことに貪欲で、工学や医学・生理学の改革者でもあり、真実を自分の眼で確かめ、それを正確に表現しようとした。彼が残した人体解剖図は、ただ詳細に描かれただけでなく、それまでの解剖書とは全くことなり、人体の構造を、遠近法を取り入れて立体的な図として描写していることである。
 ただ残念なことに、レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図と詳細な人体構造は、その時代の医学的発展には寄与しなかった。
 なぜなら彼自身が、人体構造と身体機能や病気の関係について、医学への興味がなかったからであろう。
 彼は画家であり、さらに詩人で、彫刻家で、技術者で、建築家で、数学者で、化学者で、植物学者で、航空者で、音楽家で、その上に、夢想家で神秘論者であった。どれか一つの部門だけに満足することが出来なかった。結果的にレオナルドは、近代解剖学者の最初であり、50年後に彼が作った突破口をヴェサリウスが引き継ぐことになる。

            
               ヴェサリウスの解剖実習

 16世紀に入るとボローニャ大学で、体系立てた解剖学の研究が始められ、1543年、アンドレアス・ヴェサリウスが実際に解剖し、見たものを詳細に著した『人体の構造』を出版し、近代解剖学の基礎を築いた。
 ヴェサリウスはパリ大学医学部に進学し、解剖学の講義を体験したが、当時の解剖学は、ローマ時代のガレノスの解剖に関する理論を、そのまま解説するだけのものであった。
 解剖実習は、教授ではなく理容外科である解剖実習助手が、形式的に内臓を取り出したものを、学生たちに指し示すだけのものだった。
 ヨーロッパ中世では、内科のみが医学とされ、外科は医学と見なされていなかった。このため、外科医療は理容師によって施術され、外科手術や瀉血治療などが行われていた。また当時は、死体を切り開くことは、クリスチャンはタブーであり、下賤な作業と思われていた。
 ヴェサリウスは、1514年ベルギーのブリュッセルで代々医師であった家に生まれている。幼少の頃から動物の体の構造に興味を持ち、身の回りにいる動物を勝手に解剖した経験があった。
 こうした経験からヴェサリウスは、パリ大学の解剖学の講義に満足できず、子供のころに経験のある動物解剖の体験を生かし、自ら手際よく解剖してみせた。これが評価され、すぐに解剖学実習の助手に採用され、のち23歳の若さでイタリアの名門、パドヴァ大学の解剖学教授に就任することになった。
 ヴェサリウスは自ら解剖を行って見せ、学生たちに講義するとともに、解剖学をさらに探求し、古代からのガレノス解剖学の多くの誤りを指摘した。
 ローマ時代のガレノスは、豚などの解剖は自ら行ったらしいが、人体解剖の経験は無かった。しかし弟子たちや後世の人々が、ガレノスを解剖学の権威に祭り上げ、その理論が何百年も盲信されてきたのである。

        
           円形教室での公開解剖
 
 屈指の大学医学部では、古代円形劇場にならった円形教室での公開解剖が通例となった。ヴェサリウスの『人体の構造について』の挿絵では、彼が、医学を志す者をはじめ並み居る観衆を前に、誇らしげに死体を見せている。最初の解剖部分である内蔵の解剖が扉絵を飾っている。そして、腹腔からのぞかれた人体の恐るべき真実がそこにある。
 まるで鳥の皮のような黄色の大網と、それを掻き分けたときに現れる、ピンク味を帯びた腸、胃や膀胱、また茶褐色の肝臓や結腸、緑色の胆嚢などの臓物の群れが血潮を浴びて波打つ。それは、滑らかな肌色の皮膚の下に秘められた、汚濁の洞窟であった。人々は驚嘆し、嫌悪し、そして賛嘆する。
 実際に臨席している者ならば、色彩を見、さらに臭気をかいでいるはずである。「敏速に、愉快に、正確に」とは、ヴェサリウスのモットーであった。モンディーノ以来、解剖は腐りやすい部分から四日間で、しかもできるならば、気温の低い冬の時期に行われたが、この従来の方式はヴェサリウスによって改善され、骨格、筋、循環、内臓の各系を系統的に解剖することが提唱された。
 それでも腹腔からの解剖は定式である。ヴェサリウスの至言は腐敗と腐臭との戦いである解剖の極意を表しているのだ
 刑死体を使った公開解剖が定着した頃、デカルトの人間機械論やハーヴィの血液循環説は人体を神の創造という信仰から切り離し、実験科学の素材に貶める道を開いていったように思われる。
 一方、顕微鏡の開発や注射液の改良、組織固定血管注入法の開発によって、ミクロな研究分析が可能となり、生体組織の保存と展示という分野が開かれていった。

             
               『人体の構造について』の挿絵

 正確な人体構造の知識を得た西洋医学は、こののち飛躍的な発展を遂げていくことになる。解剖学は身体を切り開き、その形状・構造を肉眼的に観察することから始まった。さらに、顕微鏡の発明・発達に伴い、肉眼では認識できない構造が次々に明らかにされてきた。
 身体の内部構造を理解するには、構造の単なる記載だけでは不十分で、それぞれの機能や役割を研究せねば構造を理解したことにはならない。
 必然的に形態の観察は、機能の研究へと発展していった。
 また、発生現象に観察されるような生命体の成長・分化といった動的な変化を理解するには、その変化を制御する因子は何か、が考えられるようになった。

             
        
             ヴェサリウスの動脈と静脈の図
 
 人体構造の機能を研究するために生理学が誕生したが、解剖学と生理学の対象は基本的には同じものであり、研究課題の違いにより、形態をみるか、機能をみるかの差に過ぎない。
 また形態を制御する因子の研究から、遺伝学が発生した。
 こうして解剖学が確立されてからは、医学教育の体系としては、解剖学、生理学、遺伝学はその研究手法から、別個の領域を形成してゆくことになる。人体解剖によって人体の構造がわかり、診断学や外科治療に貢献しただけでなく、 解剖学を通して、人体を客観視できることになったことから、自然科学的に人体の生理現象や疾患そのものも客観的に考え、古来からの妄信的な考え方から脱却できたことでも、医学の発展に貢献した。









 病理解剖

 人体解剖には系統解剖、病理解剖、そして法医解剖、の三つがある。系統解剖は全身解剖の意で、人体の構造を究明するために、解剖学の研究で行われる。16世紀に始められた解剖学は、身体の内部構造を理解し、さらに内臓器官の機能や器官相互の機能分担などの、生理機能を解明することで、病気の診断とその治療、そして病理の解明に大きな進歩をもたらした。系統剖学の分類には、内臓学、骨学、靭帯学、筋学、感覚器学、脈管学、神経解剖学などに細分類化されてゆく。
 解剖学から派生した病理学とは、病の理(ことわり)を読み解くことで、病変部位を、肉眼や顕微鏡でさらに詳しく観察し、本来の状態からどのように変化したのか、その原因は何かなどを論理的に解明してゆく。
 一方で、病理解剖を、病因追及の手段として初めて位置づけたのは、18世紀イタリアの解剖学者のジョバンニ・バチスタ・モルガーニである。病理解剖は医学の発展自体に必要不可欠で、これによりさまざまな疾患の原因や、病態が解明されるようになった。
 モルガーニの病理解剖によって、肉芽腫全腸炎が、最初に報告された症例とされている。1760年代、モルガーニは痛みを伴う慢性の出血性下痢を発症した男性患者に関する、肉芽腫全腸炎の臨床経過を解説している。20歳の男性患者は、回腸末端の穿孔によって死亡した。

           
                      クローン病症例

 これが現在確認されているクローン病症例の、最初の報告であると考えられている。
 クローン病とは、主として口腔から肛門までの全消化管に、非連続性の、慢性肉芽腫性炎症を生じる、原因不明の炎症性疾患である。

 モルガーニは、多くの疾患で死亡した人々の解剖を続け、生涯にわたって7百例の病理解剖に携わり、生前の病状と解剖の所見を詳しく比較検討し、疾患の病態解明をしていった。そして1761年、モルガーニが79歳という高齢になったとき、『解剖によって明らかにされた病気の座と原因』と題する、18世紀で最も傑出した医学書を発表している。
 この本にはあらゆる疾患について記されており、ある病気は決まった場所に、決まった病変として現れると、記している。
 例えば、脳卒中という病気について、脳卒中はそれまで考えられていたように脳が損傷されるだけでなく、血管の障害によって起こることを初めて明かにしている。さらに脳卒中による片麻痺(半身不随)の神経症状は、損傷を受けた側ではなく、反対側に生じることを明らかにした。

              
                  モルガーニ

 この本の中でモルガーニは、病気の発生が、どのような原因で起こるのかには一切触れていない。単に、臨床症状と、解剖所見の事実だけを、淡々と記載している。このように、事実だけを述べることは、学問的に重要で、医学・医療には注意深い観察が必要であることを説いている。
 これがその後、臨床医学の世界に受け継がれ、医学という学問を「実証的科学的医学」へと導いていったのである。
 こうした事からモルガーニは、現代解剖病理学の父と呼ばれている。
 病理解剖することによって、臨床医の医療が適切であったかどうかを調査することにもつながり、医療の水準を高めるのことに貢献した。
 1832年ウイーン総合病院の病理医長に就任したカール・ロキタンスキーは、ロキタンスキー法とよばれる解剖手法を考案し、肉眼的な記述病理学を徹底して、疾患の形態学的特徴を明確にした。この病理解剖手法によって、1838年初めて、先天性の子宮・腟欠損症を主徴とする症候が発表されている。

              
                白血病の細胞

 1856年ベルリン大学の病理学教授に就任した、ドイツの病理学者ルドルフ・ウィルヒョウは、白血病の発見者として知られるが、個別臓器の系統的な検索を重視する解剖手法を開発し、見落としのない病理解剖の確立に貢献した。
 彼の法則で有名なものは、「全ての細胞は他の細胞に由来する」というものである。これは、全ての生命でなく、特定の細胞やその細胞のグループしか病気にならないという彼の発見とつながっている。
 この学説は、「細胞が生命体の基本単位であるなら、病気は細胞次元で起きるはずである。
 よって、病気は細胞次元から治さなければならない」という。 
 以来、西洋医学は、病気を個々の細胞や組織の病変であるとし、疾病の診断と治療は、身体の部分のみに集中し、自然科学の欠点である要素還元主義的傾向を強めてきた。
 今日でも西洋医学の根底を流れているのは、ウィルヒョウの「細胞病理学説」である。 

            


 さらにウィルヒョウは細胞病理学、比較病理学で人間と動物に共通する疾患の比較をすることで、人類学の基礎を作った。
 また、彼の死後になって確立された、静脈血栓症の形成に関する三つの要因、血管の障害・血流のうっ滞・血液性状の変化は、彼の名を冠して「ウィルヒョーの3要素」と呼ばれている。
 ウィルヒョウは、また「医療はすべて政治であり、政治とは大規模な医療にほかならない」と宣言し、公衆衛生の改善を強く訴え、ベルリンに近代的な上・下水道を作るために政治家として働いた。
 病理解剖の技術はその後、顕微鏡性能の向上、染色法の確立、パラフィン包埋法や、ミクロトームの発明、ホルマリンを固定液に用いたことなど、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、今日の病理解剖の基礎的技術は完成した。歴史的に病理解剖が最も盛んだったのは、ヨーロッパでは1800年から1910年までの百年間である。これは当時、病理解剖が最も有力な病理学的研究の手段であったためで、実験病理学や、生検材料を用いた研究の登場によって、研究手段としての病理解剖は次第に衰退してゆく。

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 ハーヴェイの血液循環論

 ガレノスの医学理論では、食物の栄養分は腸で吸収され、それが肝臓で血液が作られて全身に運ばれ、精気となって全身の生命活動に利用されるというもので、その血液が循環しているとは考えていなかった。
 このガレノスの血液の流れについての生理学が、17世紀になるまで信じ続けられてきた。これに対して1628年、ウィリアム・ハーヴェイが、『動物における血液と心臓の運動について』を発表して、血液循環論を確立することになる。
 ハーヴェイは1578年、イギリスの裕福な商人の家に生まれ、ケンブリッジの専門学校を卒業後、イタリアのパドヴァ大学に入学している。
 パドヴァ大学は16世紀にヴェサリウスが解剖学を教えていたところで、ハーヴェイはヴェサリウスの流れをくむ解剖学を直接学んだことになる。またこの大学で数学や天文学を、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイから学び、科学的な思考法を身に着けた。

                
                    ハーヴェイの血液循環論
 
 こうした環境が、合理的実証的研究となり、後の血液循環論につながっている。
 ヴェサリウスの詳しい解剖学によって、ガレノスの説には矛盾する点が多いことが徐々に分かってきた。これを実証し意見を述べた画期的な報告が、ハーヴェイの血液循環論である。
 つまり、「血液は心臓から出て、動脈経由で身体の各部を経て、静脈経由で再び心臓へ戻る」という説である。
 ハーヴェイは、血管を流れる大量の血液が肝臓で作られてはいないと確信し、「血液の系統は一つで、血液は循環している」との仮説を立てた。
 この仮説が正しければ、血管のある部分では、血液は専ら一方向に流れるはずであり、腕を固く縛る実験でそれを確認した。

           
              ハーヴェイの血液循環論の実験

 まず心臓の近くまで静脈を縛ると、縛った部分と心臓の間の静脈が空虚になる。また、心臓の近くで動脈を縛ると、心臓と縛った部分との間が血液でいっぱいになる。心臓の弁の構造によって逆流はしない。
 一回拍出量×30分間の心拍数の量は、全身に含まれる血液の量よりはるかに多いことがわかる。これにより、血液が一方的に、心臓から末梢にかけて駆出されているということは考えにくい。
つぎに静脈を縛り、心臓から遠い側を切ると、血液は勢いよく出るが、心臓に近い側を切っても血液は勢いよく出ず、あまり出ない。
また静脈弁があり、腕の静脈を指で押さえ、そのまま末梢側に血液を押してやっても、血液は静脈弁から先には通れない。以上のことより、血液は循環すると主張した。しかし同時代人には評価を受けなかった。
 その後、血液循環説は、多くの人々によって実験・検証され、その正しさは次第に受け入れられていく。また、この血液循環説が後に心臓や血圧の正しい理解へとつながった。







 細菌の発見

 ・顕微鏡と微生物の発見
 麹を使う発酵の研究は古代からなされてきたが、顕微鏡を使って酵母や細菌を発見したのは17世紀に入ってからである。最初の顕微鏡は1590年、オランダの眼鏡製造者サハリアス・ヤンセンと父のハンス・ヤンセンが作ったとされている。
 ガリレオ・ガリレイは、この顕微鏡を改良し昆虫の複眼を描き、顕微鏡を 小さな目と呼んでいた。

                 

                   ヤンセン父子の顕微鏡

 アントニ・レーウェンフックは、1674年に歴史上はじめて自作の顕微鏡を使って微生物を観察し、大量の生物学上の発見で「微生物学の父」と言われている。
 レーウェンフックは、池の水を観察していたとき、奇妙な動く物体を発見した。生物であるという証拠はなかったが、微小動物(animalcule)と名付けた。このとき顕微鏡の倍率は約200倍に達していた。
 1677年には精子を発見している。 彼は生涯を顕微鏡の改良に費やし、最終的には約300倍の倍率の顕微鏡を作っている。

        
             レーウェンフックの顕微鏡
 
 顕微鏡の急速な発達によって、生命体
は細胞が集まって構成されていることや、発見された微生物は、何らかの病気を発生させるのではないか、ということが次第に明らかとなってきた。
 1828年、クリスチャン・エーレンベルクは、顕微鏡で観察した微生物が細い棒状であったため、ギリシア語で小さな杖を意味するBacteriumと呼んだ。彼はベルリン大学の医学の教授に任命され、それまで体系的な研究が行われていなかった微生物の研究に注力し、水や土壌、堆積物、風塵、岩石などの試料を観察し、何千もの微生物の新種記載を行った。

             
               バクテリア


 ・パスツールの細菌の発見

 1859年、フランスの生化学者ルイ・パスツールは、アルコール発酵は細菌(菌類)によって引き起こされることを示し、さらに発酵が自然発生的ではないことを証明した。
 パスツールは、色々な実験によって微生物は外気から侵入すると仮説をたてた。これを証明するため、塵が入らないように工夫した「白鳥の首フラスコ」を開発した。白鳥の首フラスコを使用して、煮沸して放置した肉汁は腐敗しないことを証明した。

            


 このことから、腐敗した肉汁の微生物は、すべて外界からの混入によるものであり、「生命は生命からのみ生まれる」という説を強く提唱した。 さらに分子の光学異性体も発見している。
 また牛乳、ワイン、ビールの腐敗を防ぐ、低温殺菌法を開発した。これは牛乳などの液体を、60度程度で数十分間加熱し、バクテリアやカビなどの微生物を殺菌する方法で、現在でも広く利用されている。
 またワクチンの予防接種という方法を開発し、狂犬病ワクチン、ニワトリコレラワクチンを発明している。彼の業績は非常に幅広く、初期には化学、のちに生物学と医学の分野へと移り、それぞれに大きな発見を成し遂げた。特に、化学における分子の立体構造の予測や、ウィルスの培養とワクチン開発など、いずれも科学の進歩を数十年先取りしている面がある。
 微生物に関する医学の黎明期に、ドイツの医学者ロベルト・コッホとともに、「近代細菌学の開祖」とされるが、コッホとは強いライバル関係にあった。

          
             ルイ・パスツール研究所 
     
 微生物は、動物や人間の身体に感染する、という結論に達したパスツールは、スコットランドの外科医ジョゼフ・リスターが、外科手術における消毒法を開発するのを助けた。
 また、弱毒化した微生物を接種することで、免疫を得ることができるという発見は、ワクチンの予防接種という、感染症に対する強力な武器を供給するものとなった。その後、彼は狂犬病のワクチンも開発した。 実は狂犬病の病原体はウィルスであり、彼はその姿をとらえることが出来ないまま、犬の体で培養を行い、ワクチンの開発に成功している。液体培養で研究を進めたパスツールは、固体培養を駆使したコッホに大きく水をあけられた。しかしながら、パスツールの大きな貢献は、微生物が病原体である可能性を示唆したことである。



 ・コッホの細菌培養法
 ドイツのロベルト・コッホは、寒天培地や、シャーレなど多くの固体培養技術を開発し、細菌学の基礎を固める貢献をなした。細菌培養法の基礎を確立することで、炭疽菌、結核菌、コレラ菌が、病原性の細菌によって引き起こされることを証明した。

             
               ロベルト・コッホ

 コッホは、ドイツの片田舎のウォルシュタインで、多忙な開業医をしながら、高価な顕微鏡を覗き、バクテリアの研究に没頭していた。ある日、顕微鏡で奇妙な棒状のものを発見した。これが何であるか確かめるには、分離しなければならず、これが繁殖能力があるかを確かめるには、これを培養しなければならず、さらには他の動物に移植して発病すれば病気の媒体であることになる。
 コッホはまず、微生物は、餌食となる天然の栄養素が必要と考え、さらに観察を容易にするため、透明なものとして牡牛の眼漿液を撰んだ。また菌が繁殖するには体温が必要と考え、灯油で温熱機を開発した。
 こうした装置を考案しつつ、焦げるほど熱して殺菌した木片で、棒状菌を含んだ血を、牡牛の眼漿液に垂らした。
 
 これが繁殖することを確認したが、時間が経過すると、他の球状の微生物が、棒状菌を抹殺するほど増殖した。
 棒状菌を隔離するため試行錯誤して、一枚目のスライドガラスに小さな凹面をけ、もう一枚には血敵を乗せ、その周囲をワセリンで囲み、二枚のスライドを密着させて、反転すると表面張力によって血敵がぶらさがった。
。こうした懸垂血敵という工夫によって、空気中の菌の侵入を防ぐ隔離装置を開発した。この結果、棒状菌が急速に増加していった。

 この菌をハツカネズミの尻尾に垂らすと、翌日死んだ。脾臓を切開すると、棒状菌が充満し、脱疽の症状を示していた。
 こうして1876年、棒状菌の純粋培養に成功し、炭疽の病原体であることを証明した。このことによって、細菌が動物の病原体であることを証明し、感染症の病原体を特定する際、その証明指針である「コッホの4原則」を提唱した。1.ある一定の病気には一定の微生物が見出されること。
 2.その微生物を分離できること。3.分離した微生物を、感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること。4.そしてその病巣部から、同じ微生物が分離されること。以上がコッホの4原則である。
さらにコッホは、羊がこの棒炭疽菌をどこで拾ってくるかを研究した。

          
               炭疽菌
       
 コッホは、この棒状菌が動物の体温以下に下がると死滅することを確かめた。しかし羊が菌を拾うのは、他の動物の排泄物だと見当をつけた。排泄物の研究によって、この棒状菌は、繁殖できない温度以下に下がると、生息できる胞子に姿を変えることを発見した。この胞子が、動物の体内に入ると、たちまち菌としての活動を始めるという事を突き止めている。

          
             炭疽菌の胞子 

 コッホの研究をつづけさせるために、教授たちはベルリン大学の教授の椅子を要請した。が、かつてゼンメルワイスを葬った有力者ウィルヒョウが、コッホを迎えることに反対した。
 コッホは相変わらず田舎の開業医として、旺盛な研究心と恵まれた発想力によって、栄養素を含んだ固形培地の上では、菌種ごとに独立したコロニー(集落)が作られることを見出し、細菌を一種類ずつ純粋培養することに成功した。そして、ひとつひとつの感染症には、それぞれに対応した固有の細菌が存在することを発見している。

 1880年代には、人類を長らく苦しめてきた結核菌、コレラ菌を相次いで発見している。また微生物が染色に貪欲で、また菌の種類によって吸収する色合が相違することを発見していた。

          
              着色したバクテリア
          
 これらの性質を使って、各種の菌を、周囲から識別するため染色した。こうした工夫の積み重ねで、顕微鏡によるバクテリアの写真撮影方法を発見した。
誰もが成し得なかった、菌の着色とカメラの組み合わせで、病院病の正体と推定される病菌を追求した。
 こうして、敗血症、丹毒、破傷風、壊疽などの菌を追い求めた。
 1905年、結核に関する研究の業績よりノーベル生理学・医学賞を受賞している。こうした実績により、ベルリン大学にコッホ研究室が設立された。

             
               コッホ研究室の研究員と北里柴三郎

 コッホ研究室で、感染症に対する具体的な治療法を開発したのは、北里柴三郎である。
 彼は1889年、不可能とされていた、破傷風菌の純粋培養に成功し、その翌年には、破傷風の治療法として、世界初の血清療法を考案した。
 彼の研究スタイルには、コッホの影響が大きい。

          
             コッホ研究室の北里柴三郎

 32歳でドイツへ留学し、ベルリン大学のコッホの研究室に入った北里は、病気と病原菌との関係を、客観的に証明する基礎的な方法を叩き込まれた。破傷風菌の純粋培養も、この方法によって成し遂げられたのである。日本へ帰国した後も、北里は香港へ赴き、ペスト菌を発見するなど、感染症の医療に大きな足跡を残した。
 北里はドイツから帰国するとき、あえてフランスに立ち寄り、パスツール研究所を表敬訪問している。コッホの指導で研究成果をあげたが、パスツールによる細菌学の創始があればこその成果であった。
 この故に、パスツールに、敬意を表したかったのである。
 パスツールの「学問には国境がない」という言葉を実践したのである。







 ワクチンの開発

 最初にワクチンを発見したのはイギリスの田舎の開業医のエドワード・ジェンナーである。「実験医学の父」「近代外科学の開祖」と呼ばれたジョン・ハンターのもとで医学を学び、イギリスの田舎バークレーで開業医をしていた。
 この時代、イギリスでは天然痘がしばしば猛威をふるった。
 これに対して、18世紀初頭に、天然痘患者の膿を接種する「人痘法」が、アラブ世界からもたらされた。が、この人痘法では重症化して死亡するという危険を伴った。ジェンナーが田舎医師として活動していた頃、牛の乳搾りなどで、自然に牛痘にかかった人間は、その後天然痘にかからないということを知った。つまり、天然痘よりもはるかに症状が軽く、牛痘は安全な病気であった。

            
               ジェンナーの牛痘種痘の図
  
 ジェンナーは18年にわたって研究を続け、1796年5月、8歳の少年に牛痘の接種を試みた。少年は若干の発熱と不快感を訴えたが、深刻な症状には到らなかった。
 その6週間後に、少年に天然痘を接種したが、少年は天然痘に罹患しないことを確認した。こうした人体実験で、天然痘予防法を発見した。
 牛痘にかかった人間は、天然痘に対して免疫力をもつ事を発見し、これにより天然痘ワクチンを作った。
 ワクチンの名は、ラテン語の雌牛(vacca)を由来としている。
 また、弱毒化した微生物を接種することで、免疫を得ることができるという発見は、ワクチンの予防接種という、感染症に対する強力な武器を供給することとなった。予防接種(vaccination)の語を最初に使ったのは1796年、エドワード・ジェンナーである。

            
                種痘された少年の手 部分的発祥後回復

 ジェンナーが行った予防接種は、いわゆる牛痘種痘法で、天然痘よりも症状が軽く、天然痘への免疫を獲得できた。
 種痘の試みに対しては、倫理・安全性・宗教などによって論争があったが、初期の成功と国の義務化などによって、予防接種は広範囲にわたって受け入れられた。
 ジェンナーの報告によれば、1801年までにワクチン接種を受けた人は、イギリスだけでも10
万人に達した。ワクチンはさらに、各イギリス植民地、フランス、スペイン、アメリカ、カナダなどにも紹介され種痘された。この種痘によって、多くの地域での天然痘の発病が激減した。
 その後、ルイ・パスツールが、病原体の培養を通じてこれを弱毒化すれば、その接種によって免疫が作られると理論的裏付けを与え、応用の道を開いたことによって、さまざまな感染症に対するワクチンが作られるようになった。その後パスツールは、狂犬病のワクチンも開発した。
 実は狂犬病の病原体はウィルスであり、彼はその姿をとらえることが出来ないまま、犬の体で培養を行い、ワクチンの開発に成功している。
 ウィルスの培養とワクチン開発など、いずれも科学の進歩を数十年先取りしている面がある。この後ルイ・パスツールが、微生物学の先進的研究によって予防接種の概念をさらに進歩させた。


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