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  星野東装物語






 株式上場話

 有力な顧問と契約し、星野東装を上場させよう、という話しが降って湧いた。
 東京という所は、実に怪しげな人々が蠢いていて、欲望のままに動いている感じであった。
 東京に本社があって、そこそこの売上げと利益を上げている中小企業があると、様々な人々が寄ってくる。
 自薦他薦で、さまざまな人々が、社長を訪ねて来た。 
 そういう背景で経営コンサルタントや企画コンサルタントなどが、星野東装へ出入りしていた。
 そした中で、また新規の売り込みがあり、大蔵省の幹部に顔が利き、顧問として契約してくれれば、元大蔵省銀行局長を紹介するという。

 話の構成としては、大蔵省銀行局長・証券局長を努め、次は大蔵省次官かと言われている人物がいる。この人物が、山梨でのゴルフ場開発に絡んで関係先が損失を作り、上場するときに面倒を見た上場企業が穴埋めをしているという。
 そこで、資金を作るために、「少しテコ入れすれば上場可能な企業」を探している。という話しであった。

      

 その頃は企業が上場すると、発行額面の五十倍から百倍になるのも珍しくなかった時代であった。人気が出ると、50円額面の株が、上場する時3千円〜5千円にもなった。そこまで行かない場合でも、10倍、20倍は当たり前の時代であった。

 くだんの大蔵官僚としては、銀行への顔を利用して、上場への環境を整え、2、3百万位を上場前に未公開の株を貰う。上場を果たすと、その投資が億になって帰ってくるという仕掛けである。
 オーナーの星野一族としても、数十億の資産ができる事になる。
 現代の花咲か爺さんのような、お伽(とぎ)話のような話しである。

 1970年代当時の星野東装の売上げ規模は、20億円程度だったが、メーカーだから生産設備といくつかの不動産を持っていて、業界ではトップのシェアを持っていた。だから、資金のてこ入れと優良な得意先を紹介すれば、上場可能だと、言ってきた。

   

 当時主力のダイエーをクレーム対応を誤って失い、売り上げが低迷していたから、社長はこの話しに飛びついた。
 さっそく、元大蔵省銀行局長の手配で、日本を代表するトーマツ監査法人から監査が入った。星野東装を徹底的に内部調査し、支援すれば本当に上場可能かを確かめるためである。その辺は、官僚のする事だから、実に用意周到であった。
 数日かけて監査法人の調査が行われ、筆者にも面談があって、営業の状況や得意先について色々質問を受けた。
 監査法人の調査結果を踏まえ、くだんの高級官僚が、星野東装上場計画に正式に身を乗り出す事になった。仲立ちのメッセンジヤーは、歴代の大蔵官僚に仕えて、官僚の影の手足を努めている男であった。官僚が直(じか)に動けない、民間企業との裏交渉などに活躍し、官僚は裏金を作ることに腐心する。

 大手企業でも、上場する時には様々なハードルがあり、証券会社や銀行に指導権を発揮してきた大蔵官僚としては、銀行へ睨みが利く。だから、さまざまな便宜を計るのは実に容易であった。殆どの場合が、電話一本でことが済む場合が多い。
 ただ、そこまで物事を段取りし、お膳立てする役割が、メッセンジャーの役目であった。
 メッセンジャーの収入は、高級官僚とのパイプを利用したい企業の顧問になることで得ていた。

 幾つもの企業の顧問を務めて、優雅な暮らしをしている。有能であれば、官僚が退官するとき、次の担当へ申し送りされて引き継いでいく仕組みであった。
 監査法人の結果ゴーサインがだされ、環境庁長官を務めているK氏が、直接星野東装を訪れた。
 白髪まじりの五十代後半の男で、実に物腰の柔らかい紳士であった。
 目的は、社長に面談し、人物を確認することと、本気で上場する気があるかを確かめるためであった。K氏は、社長を見て、まだ比較的若い元気の良い経営者と判断し、前向きの話しで、和やかに初回の顔合わせを終えた。
 K氏の送迎は筆者の役目となり、目黒の自宅へ何度か車で送った。閑静な住宅地で、大きな屋敷であった。庭にある植木は、メッセンジーが寄贈したと言っていた。
 
 K氏の戦略は、まずメーン銀行を、銀行局長当時に面倒を見た三和銀行の神楽坂支店へ変更させる。次に、当面の資金を確保するため、中小企業金融公庫総裁へ電話を入れてくれた。中小企業金融公庫といえば、大蔵省の天下り先の一つであった。

 社長が経理部長を連れて、中小企業金融公庫の新宿支店を訪ねた。
 K氏の紹介と言うと、支店長が総裁から指示を受けていたと思われ、大慌てで応接室に案内したという。開口一番、
「あのぅ、K氏さんとは、一体どういうご関係なんでしょうか」
「K氏さんには、顧問のような形でご指導頂いております」
「そうで御座いますか。よく分かりました。それで幾らご用立てしたら宜しゅう御座いますか?」
「一億ほど、欲しいのですが」
「分かりました。早い方が良ければ、二、三日後に実行します。必要な書類はのち程、担当が御社に持参いたします」
 こんな要領で、あっと言う間に一億の金が、三和銀行神楽坂支店に振り込まれた。
 社長と筆者と二人で、K氏の役所である環境庁の長官室を訪ねることになった。
 K氏は、大蔵省銀行局長から次官になり損ねて、当時大蔵省の縄張りとなっていた環境庁長官に転任していた。もう一つ、水産庁長官も大蔵省の縄張りであった。
 環境庁長官は、大蔵省次官に次ぐ重要なポストで、実力は相当なものだったと思われる。

 その環境庁の長官室を、社長と恐る恐る訪ねた。
 無論、仲立ちのメッセンジャーがちゃんとお膳立てをしてくれている。長官室の官房の受付に来意を告げると、時間通りに長官室に招じいれてくれた。
 まず、官房という長官のサポートする事務室方の部屋を抜けると、長官室であった。

 官房と言っても、4、5人が机を並べている事務室で、小さな会社の事務室なみであった。続く長官室の広さに驚いた。長官室は、普通の会社の大会議室ほどはある大きさで、中央の窓を背にした正面に木製の大きな机が置かれている。その前に、両側に肘掛けのある一人掛けのソファーが、十脚ほど並べられていた。

      

 正面のソファ左側にはサイドテーブルが置かれ、その上に電話が置かれていた。
 正面の大臣が座るソファーの両側に、左右各四脚の両肘付きの一人掛けのソファーが置かれている。さらに正面と向かい合う二脚もあった。大臣以外に合計十人が同時に座って話ができる応接説とであった。

 また入り口に近い所に、会議用テーブルが二脚置かれていて、パイプイスが十脚はあった。陳情などで人数が多い場合に使用するものと思われた。
 こんな、環境庁長官室に、小さな民間企業の社長と、その側近として筆者が入り込んだ。
 K氏は、相変わらず温厚な顔で、にこにこしながらソファーを勧めてくれ、デスク前の中央のソファーに腰を沈め、サイドテーブルの電話を取り上げて、話しだした。

「ああ、Kでございます。ご無沙汰しております。こないだ、銀座に旨いカレー屋を見つけましたよ。一度ご一緒しましょう。ところで、私の知り合いで、懇意にしている元気のいい星野さんをご紹介したいと思いますので宜しく。またご一緒しましょう。それでは失礼します」
 K長官は、そんな会話で電話を切った。
 電話の先は、水産庁のS長官であった。彼もやはり大蔵省の出身で、証券局長時代に、イトーヨーカドーの上場の面倒みて、社長の伊藤正敏と懇意だという。
 また、西友ストアの役員にも知り合いがいる。さらに職掌でもある全農の会長も懇意だという。だから、水産庁のS長官を紹介するという。彼から、紹介を貰って取引しなさいという。

 なるほど、大蔵官僚というのは、銀行と証券会社などに顔が利く。
 彼らを動かすことが出来るという事は、企業のトップに人脈があるという事で、大げさに言えば、日本を動かすことが出来るという事である。
 環境庁長官室を出て、官房を通り過ぎるとき、
「次は、宮崎県知事でございます」
という声が聞こえた。官房室から廊下へ出ると、そこに7、8人を従えた宮崎県知事が待っていた。陳情だと思うが、こんな公の長官室に、のこのこ出かけて中小企業の私的な相談ができるのも一つの現実だと驚いた。

 日本社会は人脈次第で、特に高級官僚の人脈があるというのは実に有利なことである。K氏もS氏も、東大法学部を優秀な成績で、少なくとも10番以内の席次で卒業している。
 大蔵省の事務次官になれるのは、東大法学部を主席か次席の成績で卒業する必要があるとか。 大蔵省という役所は、とにかく他の省庁とは歴然と違い、東大法学部も上位の成績で卒業しないと、出世がままならない世界のようである。

    
      東大法学部のア−チ部分

 後日に、紹介を受けた水産庁長官室を、社長と二人で訪問した。K氏と同様に、S氏長官も電話一本で、イトーヨーカドーの伊藤社長や全農の会長などを、簡単に紹介してもらう事ができた。
 このような経緯で、イトーヨーカドーの本部を訪れた。事前にS氏長官から、伊藤正敏社長に連絡が行っているから、取締役ハードライン統括部長が出迎え、役員応接室に招じ入れてくれた。同席した担当の林バイヤーとは、何度も商談してきた相手である。林バイヤーはびっくりしていた。
 そして、何故いまさらトップへの紹介が?という顔をしている。

  ハードライン統括部長への売込みの主題は、スエーデンのIKEAの組み立て家具であった。IKEAジャパンの桐山社長も同行した。
 IKEAの戦略は、商品を単品で売るのでは無く、五十坪、百坪という売場を一括して任して貰い、売り場全体の構成を演出して行うという、ダイナミックな話しであった。

      

 ヨーロッパのIKEAは、メーカー兼大規模小売店であった。
 当時は全てパインのノックダウンの組み立て家具を中心に、それらにコーディネートできる、様々な小物まで開発されていた。
 パインの組み立てベッドには、当然マットレスから、マットカバー、枕からクッション、サイドテーブルから照明スタンド、果てはベッドカバーと同一柄の壁紙まで品揃えがあり、トータルコーディネートできる仕組みであった。
 とにくスケールが大きい。

 当時は、湯川家具と三井物産の合弁で、イケアジャパンが設立され、これから展開を始めるという時期であった。
 いずれ千葉の「ららぽーと」に直営店を出店する計画があったが、スーパーへの展開は星野東装に任されることになった。ヨーロッパで展開している、イケアのショップ写真をスライドで見せた。イトーヨーカドーの森田総括は、最終的には、相模原の新店で80坪をそっくり任せてくれる事になった。

 また、東急不動産の東急ハンズ一号店の藤沢店がオープンする時も、40坪ほのスペースを任せて貰った。 例えばベッドルームを作り、全てコーディネート陳列する。隣にはリビングルームのコーディネート陳列を作る。
 実際の部屋に近いスペースで、壁で仕切り、窓を作ってカーテンを吊るなど本格的な部屋を作っている。
 テーブルに掛けているテーブルクロスから、ランチョンマット、コーヒーカップに至るまで、イケアで同じデザインや同じテーストの商品を、揃えることが出来る。
 単品を価格で売る商売とは、全く異なった販売方法であった。ターゲットは、ニューファミリーと言われた、団塊の世代であった。

 既存の価値観を嫌い、新しい自己主張をしている世代であった。個性的でセンスがよく、価値を認めたものにはお金を払い、そうでない物は、例え安くても買わない傾向があった。そして、団塊の世代が、ちょうど所帯を持ち始めた頃であった。
 こうして、K氏によって資金面のテコ入れと、優良得意先の紹介が始まった。

 これで、星野東装も救われる。上場企業になれるかも知れないと期待が膨らんだ。
 しかし、不思議なことに、そうはならなかった。
 肝心の星野正弘が、会社を乗っ取られるのではという疑念を持ち始め、途中からこの計画を放棄してしまった。少なくとも、星野正弘の実権が無くなるのではと、勘違いしたのだろう。

 社長は非常に猜疑心の強い人間で、どこかで人を疑っている。
 K氏は、単純に高級官僚の権威と人脈を利用して、星野東装という上場企業を育てて、上場時の株の利ざやを狙っているに過ぎない。
 しかし、星野社長は影に怯えて、亀のように首を縮めてしまった。
結局、上場話しは中途でとん挫して、最初に紹介して貰った国民金融公庫の一億円の融資と、一部得意先を紹介して貰っただけで終わった。
 それからは、また業績は坂を転がり落ちることになり、それから二、三年で倒産することになる。




糊付きふすま紙の誕生

社長は豪放磊落で、大胆細心で、情熱家で仕事に夢中になるアイディアマン、というのが当初のイメージであった。
 能力があり、大変ツキのある経営者で、時に激しい気性を見せるが、勇猛邁進しながら事業を拡大している、戦国期の信長のようなすばらしい人間だと思った。
 福岡の板付にある「Y飼料」の次男に生まれている。次男と言っても、両親が早く亡くなり、長男が父親代わりを務めたくらい、長男とは年齢が離れていた。
 中央大学の経済学部を卒業している。学生時代に星野豊治の長女と恋愛して、卒業と同時に星野家の養子になっている。Y飼料を手伝う気もなく、東京から離れるつもりもなく、兄の了承を得て、星野家の養子となった。

    

 先代の社長は、山梨から若いころ東京へ出てきて、襖の加工技術を習得して、襖加工所の星野紙工を経営していた。
 襖加工ではそれなりに成功し、下請け加工所から、独自の見本帳を発行するメーカーに成長していた。新宿に工場を持ち、襖紙を印刷する輪転機もあった。
 先代の社長には、四人の娘があったが息子がいなかった。長女と縁があったYを養子にとって、これで後継者ができたと大変喜んだ。
 Yは、大学を出てすぐに結婚し、星野紙工の専務になった。
 糊付きふすま紙を製造するに当たり、土地の安い埼玉に工場を設置して、工場の規模拡大を計っている。そして大学時代に一緒だったU氏、H氏などを呼び込み、「東京装紙」を発足させた。
 当時、糊付き襖紙を発売するにあたり、本業のプロ向け襖紙の材料商に対して遠慮したためであろう。
 糊付き襖紙を作ったが、当初はプロ向けと同様な平織り形状で、紙・文具ルートへ持ち込んだ。しかし、既に像(ぞう)太(た)商店が、スカット糊付き襖紙を、販売しており、苦戦した。
 どこか新しいルートが必要と考え、当時急成長し始めたばかりの、スーパーへ売り込みをかける事になり、神戸にあったダイエー本部に持込んだ。

 商品としては面白いが、スーパーはセルフ販売だから、セルフ販売できるようにパッケージを考えなさいと言われた。何枚かを巻いて、外から見える柄写真や、商品説明のラベルなどを付けないと取り扱い出来ないと言われた。

 さっそく、二枚に巻いて、柄写真と貼り方説明がついたラベルを巻き付けた筒状のパッケージの「手軽にはれるマミー糊つきふすま紙」が誕生した。この辺の活動は早く、一月後には商品が出来上がっていた。

 ダイエーでは、早速テスト的に店頭に並べられたが、さっぱり売れない。
 お客が、本当に自分で貼れるかどうか、不安だから売れないのだろう。
 実演したら売れるはずだ、とバイヤーの意見もあり、本部のある神戸の店で実演販売を実行したら、黒山の人だかりとなった。
 これはいけると、ダイエーのバイヤーは判断し、秋口から全店取り扱いとなり、実演販売のキャラバンを回すこととなった。

      

 ダイエーで実績がついたのを皮切りに、各スーパーへ売り込みをかけ、営業部長が、西友ストアの口座を獲得した。ようやくスーパーで糊付きふすま紙が認知され、一定の数量が販売ができた頃に、東京装紙と星野紙工を合併し、星野東装という妙な社名が誕生した。
 
 この直後に、大分での共同経営に失敗して、星野東装へ筆者が入社している。
 入社と前後して、社長の片腕であった、U氏が退社した。
 大学の同期で星野社長の友人でもあった。東京装紙で営業部長を努め、実力があり西友ストアや、他の新規開拓に功労があった。詳しい経緯は知らないが、意見対立があったのであろう。
 しかし、U氏は退社して、別会社を設立し、ライバルであった光建産業のルノン襖紙を担いで、西友ストアと取引開始している。

 つまり、U氏が辞めて、西友ストアを盗られたという事になる。
 星野会長から、社長を早くに譲られていたから、星野社長は、非常なワンマン経営者となっていった。当時は、全てがうまく回転したから、有頂天になっていたのかも知れない。友人であり、営業の実力者でもあった、U氏の言うことを無視したのか、或いはとことん営業方針で対立したのだろう。結果としては、喧嘩別れとなっている。

 U氏の退社以来、西友ストアには、「マミーふすま紙」は一度も取り扱われる事はなかった。筆者が、福岡から東京へ転勤になって、二、三年後にイトーヨーカドーやジャスコは問屋経由でマミーふすま紙を定番化した。
 当然、池袋の西友本部へも顔を出したが、取扱いはしてくれなかった。余程上層部をしっかり接待していると思われた。

 さて、星野社長のことである。
 苦労しらずに、大学を卒業して、いきなり経営者に成っている。星野会長は、星野社長に希望通りに長女の養子になって貰った、という負い目を感じたのか、早々と社長を譲って会長に退き、養子の社長に経営を委ねた。

 星野社長は、大変頭がよく、アイディアがいつも泉のように湧いてくる感じであった。従って開発や企画事が大好きで、つぎから次へ新しい事業に取り組んでいった。
 そして、この時期は、夜には社員を集めて、熱心に研修会を開いてくれた。

 印刷の基礎知識や、有機顔料と無機顔料の違い、糸入りふすま紙に使われているスフ糸の知識、織物の基礎知識、製紙の話し、糊の知識と、さまざまな商品の原点である、基礎知識を教えてくれた。これは、以後の営業に非常に役立った。

「一見どこの糊付き襖紙も同じように見えますが、マミーは他社と違います。ま
 ず、印刷インキを、他社は、価格の安い有機顔料を使用しています。しかし、有機顔料は、発色がいいが、すぐに変色します。弊社は単価の高い無機顔料を使っております。また、マミーでは、紙のペーハー(PH)を調整し、紙のサイジング(水の浸透)を調整して、糊の戻りと、紙が伸びる時間を、3分になるよう調整しています。だから、紙が伸びきった時に貼るようになり、皺が発生することなく綺麗に貼れるのです。
 また、織物では、日本一の椿原織物を使用しています。これは・・・」と、
 専門用語や、専門的な話を、水が流れるように喋ると、バイヤーは訳が分からないままに、品質がよいと思いこんでしまう。

     

 そういう知識を教え、製造工程や、その他の品質に関して、社内用テキストを、昔の漢字タイプライターで打ち、ガリバンで刷って、本のような冊子に仕上げた。
襖のメーカーで、これほど熱心に社員教育したのは、星野社長だけではないかと思う。

 簡単な襖紙の歴史を教わり、緒方光琳や俵屋宗達などの名もこの時知った。
 筆者は、福岡で実績を上げ、本社の係長に入社一年で抜擢された。 
 東京本社では、新規開拓担当として、新規ルートの開拓と、コンテナ単位でセット販売するなどの流通革新で社長賞をもらった。

 さらに実績をあげて二階級特進で、いきなり次長となった。先輩たちは、その頃、係長から課長になっていたが、筆者は課長を飛び越し次長に就任した。
  子飼いの古参はまだ課長だったから、従って自動的に筆者の部下になった。ともかくも、社長の抜擢を受けて、ますます社長を信頼した。

 社長は事業意欲旺盛で、次から次へと持ち込まれる話に乗って、様々な商品開発や事業拡大の方策を採用した。
 スイスの壁紙を輸入したり、バーレープリントというエンボスと同時に印刷出来るヨーロッパサイズ52p幅の壁紙印刷機械を導入した。

 52p幅の壁紙は完全に失敗で、のちのちデッドストックとなった。
 次に、九州に二千坪に及ぶ新規工場を建設する事になった。
 通産省の外郭団体で、産炭地域振興事業団という組織があり、炭坑が廃坑となった地域の活性化を目的に、産炭地域で事業を行う企業に、低利の融資を行い、地域の雇用を確保するという政策であった。
 事業を一気に拡大するチャンスと見て、事業計画を提出して認可を受けて、福岡県の糟屋郡粕屋町に、低利の融資を受けて工場を建設して、九州に工場を移転した。埼玉の工場は、物流センターへ衣換えした。
 


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韓国美装 

 どういう人脈があったのか、韓国へ合弁会社「韓国美装(ハンクック・ミジャン)」を設立して、韓国で、スフ糸の織物を織らせ、張り合わせて襖の生地を作るという事まで行った。
 金正彩とどういう経緯で知り合ったのか経緯は聞いていない。 
 金正彩社長は、流暢な日本語を喋り、長身で身ごなしもスマートな紳士でクリスチャンであった。名刺には、釜山ライオンズクラブ会員、釜山商工会議所会員、釜山織物染色工業会会員などの肩書きが並んでいた。

 韓国社会では、肩書きが物を言うとかで、韓国美装社長だけでは信用力にかけるとかで、仕事とは直接関係のないライオンズクラブ会員などの社会的ステータスを誇示していた。 
 襖の業界は、実に細かく分業体制が確立している。まず、ふすま用の紙を漉く製紙会社がある。鳥の子の場合は、製紙会社から星野東装のような印刷メーカーへ直接売られる。
 糸入り襖紙の場合、まず織機を所有して、織物を織る織布屋がある。次にそれを裏打ち紙に張り合わせる、テンター屋がいた。製紙会社から裏打ち紙を仕入れ、織布と張合わせ、印刷出来るようキラ(雲母)コーティングして、襖生地を作っている。
 この襖生地を、印刷メーカーである星野東装などへ売る。複雑な分業体制が出来上がっており、コストダウンには限界があった。

    

 そこで、韓国でも平織織機は有り、人件費も安いから、韓国で襖の生地まで一貫して生産するという事になった。韓国釜山に工場を設け、下関で荷揚げして、福岡の工場で印刷加工して、全国へ販売するという、日本で始めての一貫生産メーカーとなった。
 襖業界にとっては、大変な革新的な出来事で、古い体質の業界では異端児のようにも見られた。 しかし、ダイエーなどの量販店で価格競争するには、強力な武器となった。
 業界トップの地位が揺るぎないものとなり、営業にとっては大変有り難いことであった。
韓国美装の立ち上げを記念して、社員旅行が韓国旅行となり、こうして生まれて初めて韓国旅行を体験した。
 
 金海(キメ)空港から、釜山市街にある観光ホテルへ、貸し切りバスで釜山の街を通った。 
 窓外に展開する街並みを見て、終戦直後の日本へタイム・スリップしたのかと勘違いするほどの驚きであった。街は全体的に暗く、裸電球が軒下にぶら下がっている店が多かった。
 旅行へ行く前は多忙で、胃の調子が悪く気分もすぐれなかった。ところが、韓国で辛い料理を食べたら、お腹の調子が良くなって、とても元気になった。 

 初日の夜、初めてキーセンパーティーを経験した。女の子もいた団体で、大きな宴会場だったがオンドルの床で、あぐらをかいて座り、一人用のお膳があった。
 一人一人に、若いキーセンが付いた。ピッタリと寄り添い、勝手に金属の箸で料理をつまんでは、口元へ運んでくれる。
 とにかく口を動かすだけで良かった。まさに大名気分を味わった。この頃のキーセン(芸者)は、観光資源としての位置づけで、みな日本語の教育を受けていたらしく、片言ながら日本語を喋りつつ、男のもてなしに長けていた。
 いかにして「男を楽しませるか」という健(けな)気(げ)な態度があり、本当の大(や)和(まと)撫(なでし)子(こ)はかくもあるらんと感激した。
 翌日は、慶州という古都に行き、寺などを観光して回った。

 この韓国の合弁工場「韓国美装」へは、印刷の立ち会いや、その他で何度も出張することになる。この頃は、星野正弘のやる事、なす事が成功し、順風満帆であった。
 この当時は仕事も順調で、社長を尊敬していて、ある日社長から、入社の原因であった母親名義の不動産担保を解除してもらった。こうして、いつの間にか社長の側近となっていった。全てに対して前向きに取組んでいた。

 社長が、人材が欲しいと言えば、ジョンソンOBで、太陽物産を経営していたらO氏を紹介し、グループ会社として広島星野東装を合弁で設立した。
 手が回っていなかった広島地区の子会社として、中国・四国の充実を図った。

 また、やはりジョンソンのOBで、エリアマネージャーだったT氏が、退社後に大阪で仕事に恵まれず苦労している様子だったので、星野社長に引き合わせした。
 新宿本社で引き合わせて話し合い、さらに星野社長の自宅に泊まってもらい、当時はまだ尊敬していた社長のざっくばらんな人物を見てもらった。
 T氏の場合は、星野社長の人物の本質を見抜いたのか、星野東装に入社するとか、タイアップするという事にはならなかった。

 天下取りの勢いがあった、尾張の織田信長を見て、筒井順慶が、「このお方は、いつか高ころびに転ぶだろう」と喝(かつ)破(ぱ)したように、星野社長を、信長のような危なっかしさを感じ取ったのかも知れない。
 結果としては、星野社長は、やはり後に高転びに、転んでしまうことになる。

 当時は、微塵もそんな未来予測も出来ず、大阪にいた実の兄まで、星野東装の大阪支店に引き入れた。実兄は、福岡大学を卒業して、大阪マツダに就職した。その後、上司が退職して不動産会社へ転職し、兄を不動産会社に引っ張った。
 しかし、不動産の営業は長続きせず辞めた。その後、まともな会社に就職できず、不遇な時代だったので、社長に話して大阪支店の営業で、課長待遇で入社させた。
 兄は長男で、いつかは福岡に帰らなければならないので、二、三年後に、また社長に相談して九州工場へ転勤させた。

 その後、大阪支店で女性事務員に恵まれないと言うので、一番下の妹を大阪支店の事務で入れた。こんな事が可能だったのは、社長を全面的に信頼し、また全面的に信頼されていたということである。また、何かにつけて「佐野君、この件どう思う?」
 と意見を求めてくる。
 また、右すべきか、左すべきか、選択に悩んでいる時も、
「佐野君、どう思う?」と、必ず意見を求めてくるが、本当は、どうしたいか、ほぼ決めている。
 あと、一押し、誰かに後ろから、押して欲しいという事が分かっている。
 その辺の阿(あ)吽(うん)の呼吸は、側近だから、分かっている。
 社長が何を考えているか。何をどのようにしたいか。ほぼ理解していた。

 また、物事が複雑に絡み合っている場合は、必ず筆者に状況を分析させた。
 そのような分析は、最も得意とするところで、図を描きながら、複雑な関係を分析していく。つまり、社長の頭の整理まで手伝った。
 この頃の社長は、九州工場にいるか、韓国の韓国美装にいることが多く、東京に帰ってくる事が、少なくなってきた。筆者は、通常社長のクラウンを、通勤と営業車として利用していた。社長から帰京の連絡が入ると、羽田空港へ出迎え、在京している間、毎日、自宅と会社まで送迎するのも役目だった。社長車の運転手兼、事業部長として、社長が東京に在社している時には、いつも一緒にいたように思う。
      



商品開発物語


・グリーン・チャイム

 星野正弘は直感力にすぐれ、またアイディアや思いつきが豊富で、何か閃くとすぐに筆者を呼んでその思いつきを披瀝する。なんとか実用化できないかと提案してくる。
 またインテリア雑誌「室内」の編集長の西女史や、独立デザイン事務所の顧問など何人かと定期的な開発会議を開催していた。

 最大のテーマは、新製品開発と潜在需要の掘り起こしであった。
「本当に素人で貼れるのか?」その不安を解消させるためと、実際に失敗するケースは、
水の量が少なくて紙が十分に伸びない場合であった。
 そこで筆者が、裏面に「小さな水玉模様」を糊で印刷し、これを消させることで、水の量不足をが防げるのではないか。と提案した。これが発端で、「グリーン・チャイム」というアイディアが完成し、実用化した。
 これは裏面に糊加工した後に、さらに糊に緑色の水性インキを混ぜて罫線を印刷した。この裏面の罫線は、水を付けてスポンジで撫でると消える。
 目的は、裏面に水を付けるとき、塗りむらで水分が不足すると、紙が十分に伸びずに皺の原因となることを防止する。これは「皺とり グリーン・チャイム」として特許申請もした。「裏面のグリーンラインが消えたら、貼り頃のサイン」という表示をした。

     

  さには、襖紙の巾は三尺巾(92p)ながら、幅が狭い襖の場合、紙を裁断する必要がある。
 普通は一間二枚、二間四枚建てだが、中には三間四枚建てという巾が狭い襖が団地などに多い。
 この巾狭の襖のとき、裁断を適当にすると、四枚並べたとき絵柄が個別にズレて、みっともない。
 そこで、巾狭の襖の裁断位置を、裏面に罫線で表示した。この線で裁断すれば絵柄の中心部が襖の中心部にきて、仕上がりがプロ並みとなる。
     

 さらに、このとき「張り損じたらお取り替えします」として「張り損じ保険付」とした。
 これは初めて貼り替えをする人へ、安心感を与える為で、潜在需要の掘起こしが狙いであった。
 これは失敗した場合、絵柄部分だけを切取って、購入店に持込めば、店頭で商品と交換できるシステムとした。
 これは筆者のアイディアが採用された。
 この「グリーン・チャイム」は、他社との大きな差別戦略として功を奏した。



・あんしん襖紙

 この頃の糊付きふすま紙は、すべて「糸入り」であった。
 価格の安い「網目糸入り」、普及品のマミーは「新紗織布」、高級手加工は「スフ・麻糸混紡織布」、さらに総模様の織布襖も「スフ・麻糸混紡織布」であった。
 公団住宅やアパート向けには「新鳥の子」が使用されていたが、家庭用糊付きふすま紙では、生地が丈夫ということで、すべて糸入りの時代であった。

   
 
 
 そもそも「糊付きふすま紙」の誕生は、京都の「象)太商店」であった。
 日本合成化学が再湿性の糊を開発し、最初に売込んだのが「象(ぞう)太商店」であった。
 これに手応えを感じて、星野東装にも再湿性糊が持込まれて商品化された。一方「象)太商店」は、主に文具ルートに販売されていた。

 これに対して星野東装では、ダイエーを皮切りに、大手量販店ルートに販売した。
 ところが「象太商店」では別の事業で失敗して倒産してしまった。こうした経緯で、「糊付きふすま紙」は、「マミーふすま紙」がパイオニアとしての地位を確立した。

 当初は「新紗織布」だけであったが、次第に種類を増やしたが、これが業界の標準となっていた。
 さて、この織布の襖紙の弱点が、表面に汚れが付くとどうにもならない。さらに表面が濡れると織布が浮くという問題があった。
 商品は二枚を小さく筒状に巻いているから、巻き癖がついている。これを広げて裏面に水を塗るとき、端の紙押さえがズレると、一気に巻き戻る。この時に、織り布の表面に水が廻る。
 表面が濡れたとき、あわてて表面の水分をぬぐうと、織布が浮くことがある。
 或いは、貼り上げてからでも、表面の織り布部分を濡らすと、シミになったり、糸が部分的に浮き上がる。 

 この問題を解決するには、表面に撥水樹脂をコーティングすれば解決出来る。が、表面を樹脂で固めると、紙の伸縮を妨害して旨く貼れない。
 この問題をなんとか解決出来ないか。工場に相談すると、工場長の田中清が種々テストを繰返し、紙の伸縮性を残して、撥水樹脂をコーティングすることに成功した。

 これは撥水樹脂をロールコーティングするとき、平なロール塗りでなく、ロールに点状の凹凸をつけてコーティングすることで、紙の伸縮を妨害せずに撥水加工ができた。
 早速、特許申請をするとともに、「汚れても あんしん。水洗いができる」「あんしんふすま紙」として大々的に発売することになった。この頃は、「マミーふすま紙」がトップメーカーとして君臨していて、会社の財務にはかなり余裕があった。

 そこで、15秒のTVスポット広告を集中的に流し、一気に売込みをかける事になった。
 このため15秒のフィルムを作るため、広告会社から「絵コンテ」で何種類かの提案をうけた。「絵コンテ」とは、5コマ漫画のように、起・承・転・結の順に、簡単な場面のイラストを描いたものである。
 社長と協議して、一番面白そうで大胆な、「襖にバケツで水をブッ掛けて洗う」というシーンを採用することになった。女性モデルが襖の前に立って、引手の部分を指さしている。引き手部分をズームすると、手垢がついている。
 そこへ、いきなり水がザブンと掛けられ、女性がスポンジで拭くと、汚れが綺麗に取れる。テロップが流れ、モデルがニッコリ笑って「汚れてもあんしん。水洗いができる。 マミーあんしん襖紙」と紹介する。

 15秒のTVスポットは、強烈なものでないと印象に残らない。
 そこで、意表を突くように、室内にある襖に、「バケツで水をザブンと掛けて洗う」という演出で驚かせて、「水洗いが出来る」という事を強調したのである。
 この15秒のTVスポットの撮影に、朝から渋谷のスタジオで撮影をはじめて、夜まで掛かった。「水をバケツでザブンと掛ける」
 文字で書くと簡単だが、映像で実際に効果的に掛けるのは、意外に難しかった。チョロっと掛けても映像的なインパクトがない。
 バケツの水を一気に掛けるのが、意外に難しい。
 水の広がりがなければ、映像的に印象に残らない。さらにはモデルの動きと、うまくかみ合いがないと絵にならない。撮影のために床には防水シートを敷いていたが、何度も水をかけるから、水浸しとなり、何度も中断した。

 ともかく、初めての15秒のTVスポットの撮影監督を経験し、ヘトヘトになった。
 テイク1(ワン)から始めて、テイク7・・、テイク9とつづけた。
 このころのTVスポットは、すべてフィルムの時代だから、各テレビ局へ必要な本数をダビングしてフィルムを送らねばならなかった。
 テレビ局では一週間分の番組と、その間に挟むコーマーシャルフィルムを、すべて一日分をセット編成するから、一週間に流す本数だけフィルムを要求された。
 ともかく、この15秒のTVスポットは、あくまでもバイヤー向けのもので、「TVスポットを今、流しています」という事実を商談のとき宣伝し、販促ボックスを店頭に導入してもらうことが最大の狙いであった。
 テレビ局は東京・名古屋・大阪・広島・福岡の一局だけに限定し、三ヶ月間のキャンペーンであった。投じた広告費用は2千万円ほどだったと記憶している。
 今の金額なら、一億か二億に相当するであろう。この頃が、星野東装の絶頂期であったであろう。



・ユポ 粘着シート

 王子製紙が合成紙「ユポ」を開発し、代理店の大永紙通商を伴って売込みにきた。
 「合成紙」は石油化学品ながら、紙と同じ印刷適正をもち、さらに丈夫で耐久性に富み、耐薬品性や耐候性に優れている。
 開発した王子製紙の加工本部、加工品部副部長山添義男は、この紙にない特性を活かして、さまざまな用途開発を行っていた。

 そうした中で、家庭用の襖紙・壁紙を製造している星野東装へ売込みを掛けてきた。
 このころ、発売されたばかりの粘着シートで、セキスイ・テープ事業部が発売していた「アデックス」を販売していた。この粘着シートは塩ビシートにグラビア印刷したものであった。星野東装ではグラビア印刷機はなかったが、王子製紙のユポなら、フレキソ印刷が可能ということであった。
 京都製袋という会社では、油性フレキソ印刷で、合成紙の丈夫な紙袋を作っているという。テスト原反を送付してもらい、工場でテスト印刷をしてもらった。可能性がでてきたところで、王子製紙の春日井工場見学に招待された。

 このとき、王子製紙の副部長山添義男と名古屋駅に到着すると、代理店の大永紙通商名古屋支店から差し回された黒塗りのクラウンが横付けされ、王子製紙の春日井工場へ案内された。製紙工場は初めての見学で、その工場規模の大きさに驚いた。
 まるで製鉄工場のような広大な敷地で、製紙原料となる木材チップの山が幾つもあり、巨大な地球釜で熔解する設備など、まさに巨大な装置産業であった。
 内部では、クラフト紙の製造工程を見せて貰った。 製紙巾がなんと5〜6mもあり、最終の巻取り部分にスリッターが付いていて、4本ほどに分割スリットして巻取っていた。それも自動で切り離され、別の巻き芯が自動でセットされ、流れが中断されずに製紙が連続していた。

 この後、京都へ行き、ユポを使用している京都製袋にも案内してもらった。
 ここで始めてフレキソ印刷ながら、写真製版の樹脂版を見せてもらった。
 写真製版は三色に色分解された版で、三原色の版ですべての色が印刷出来る。この油性フレキソ印刷は、グラビア印刷よりも低コストでできるという。

 星野東装の水性フレキソ印刷では、6色とか8色印刷機があったが、掛け合わせは出来なかった。
 余談ながら、この王子製紙の加工品部副部長山添義男は、東大出のエリートながら、一緒に出歩くと筆者に「部長、鞄を持ちます」などと平気で言うからやや閉口した。
 そのくせ代理店の大永紙通商の部長クラスに対しては、横柄な口調で指示を与えていた。
 大永紙通商は王子製紙の一次代理店で、日本を代表する紙商社ながら、王子製紙に対しては、頭が上がらないという立場であった。

 ともかく王子製紙のユポを使用して粘着シート、「ワンタッチシート」を発売した。
 ところが二・三年で、第一次石油ショックが起き、石油関連商品が暴騰しユポの製品は中止した。そこで大日本インキのステッカーシール用のヤックペーパーを使い、グラビア印刷の「ワンタッチシート」に切り替えた。原紙はあくまで紙ながら、表面はPPフィルムをラミネートして、耐水性をもたせた。

    

 このころ、セキスイでは「アデックス」は市場規模が小さいということで撤退した。さらに、松下電工も粘着シート「ママはりーな」で参入し、一時はTVスポットを投入していたが、これも三年ほどで、市場規模が小さいということで撤退した。
 大手企業は、比較的参入しやすい壁紙市場に目をつけるが、けっきょく市場規模がまだ小さく、撤退した。最低でも50億円くらいの市場規模がないと、あつさり撤退していった。
 一方でモダンプラスチック工業が後を引き継ぎ、塩ビシートの粘着シートを発売し、確実にシェアを伸ばしていた。
 また松下電工の粘着シート「ママはりーな」は、アサヒペンがその商品とルートを引き継いで、本格的に壁紙や襖紙に乗り出してきた。
 星野東装では、紙の粘着シートにこだわり、価格の高い塩ビシートの粘着シートは発売しなかった。のちに紙の弱点を補うため、紙に印刷後にOPPフィルを貼って、30pのタイル状にカットした「デコレーションシート」を開発した。
 OPPフィルを貼ることで、表面の強化と、伸縮を防止したから、タイルのように貼り付けることができた。このタイル状の壁紙は、のちにアサヒペンが真似て発売することになるが、原型は筆者が企画開発したものである。



・デコール・ウォールネット

 好調な時代の星野正弘は企画開発が大好きで、思いつきや閃(ひらめ)きを商品化に結びつけようと必死であった。ただ、最初はあくまでも単なる思いつきだから、茫洋としたアイディアをいかに具体化し、枝葉をつけて形にしないと商品化はできない。
 ともかく社長はワンマンで、時間の観念も曖昧だから、夕方から深夜にかけて思いつくままの企画会議を行った。
 東京では、目と鼻の先にある新宿の「京王プラザホテル」のツインを予約して、そこへ何人もが呼ばれる。

 ベッドに腰を降ろしたり、ソファーに腰掛けたりして、さまざまな議論をした。
 それらのまとまりのない議論を、後で要点を纏めるのが筆者の仕事ともなった。
 こうして、襖紙・壁紙メーカーから脱皮して、総合的なDIYインテリアメーカーをめざすことになり、DIYインテリア「DECOR」というブランドを作った。
 一方で、主力取引先のダイエーでは、これからのDIY部門の主力はハードではなく、主婦の関心のもっとも高い「壁面収納」を前面に打ち出してきた。

 これに呼応して、星野東装でも様々な開発をすることになった。
 筆者はたまたま海外のインテリア雑誌にあった、ワイヤーネットを開発することになった。この当時は「三井ハンガーボード」があった。パンチング加工したボードと、その穴に取り付けできるワイヤーの棚や、フックなどの部品が売られていた。

 これにヒントを得て、パンチングボードの代わりに、ワイヤーネットをベースにし、このネットに吊す、さまざまなラックやフック類を組み合わせて、お洒落なワイヤー収納を開発した。

      


 従来の「紙」をベースとした商品開発から、まさに未知の「金属」加工の商品開発となった。手探りでスポット加工所を探しては、ワイヤーネット企画の見積を依頼した。
 スポット加工の知識もなく、その表面仕上げのビニールコーティングに関しても一から調べた。
 規格サイズは、隙間用のスリム・タイプが巾20p、30pとし、レギュラー・タイプの巾は42pで、各長さは60pと90pを決めた。 これだけで6規格となる。

 このシリーズはあくまでキッチンや洗面所・バスルーム用で、このほかにワイヤーネットに木製のフレームを付けたインテリア用ベースも開発した。
 これでベースとなるネットだけで12サイズを準備した。そしてこのワイヤーネットを利用する、多くの収納用パーツを開発した。

    

 主な物は、角棚、深ポケット、フック類、まな板ラック、鍋フタラック、スライドフック、カップフック、フキンハンガーなどさまざまなラック類を開発した。
 さらには、このワイヤーネットの壁面取付具も開発した。一般に売られているスクリューフック、ビス用金具の他に、タイルに使用できる強力吸盤フックも準備した。
 また専用の取付具として、樹脂製のフックで、木製壁、タイル壁、コンクリート壁面に対応したビスも開発した。
 これらの開発には凡そ一年以上も時間をかけ、加工所を探しに、関東周辺だけでなく、大阪や新潟まで出張した。

 このワイヤーネットシリーズの専用什器も開発し、セット販売も行った。
 この開発の関連で、九州工場の木工部門で作っていたカラーボックスと組み合わせる、ワイヤーバスケットなども開発した。
 これはデコール・バスケット・収納庫として各種規格を発売した。
 これらのデコール・収納シリーズだけで1200巾の陳列台2台の品揃えとなった。
 この他に、筆者は関与しなかったが、韓国で生産したキャンバス製のウォールポケットシリーズや、キャンバス生地と木製棚を組み合わせた吊り戸棚シリーズも開発された。
 こうして、本来の襖紙・壁紙以外の「壁面収納シリーズ」開発にかなりのエネルギーが費やされた。
 が、突然ダイエーから取引を中止され、これらの収納シリーズも大きく開花する前に会社自体が消滅することになった。
 このデコールのワイヤーネットシリーズは、新潟の加工を依頼していた会社が、のちに「パピーネット」として独自に発売した。
 さらにはセキスイがやはり「セキスイ・ネット」として販売していった。そ
 れなりの市場が形成されたが、その市場に先鞭を付けたのが星野東装であった。だから筆者もそれなりにこの市場の開拓に貢献したといえるだろう。



・デザイン室

 印刷というのは、一般的にはオフセット印刷と、グラビア印刷が主流である。
 オフセット印刷は、通常のあらゆる紙媒体の印刷物に適している。グラビア印刷は一般的には、包装用品などの大量印刷に適している。これらはマゼンタ、イエロー、シアンの三原色の版で印刷される。写真をこの三色の微少な点の集合に分解して版をつくり、それらの微少な点の混ざり具合で、あらゆる色合いが表現される。
 一方、襖紙はフレキソ印刷という凸版印刷機の一種で印刷された。
 このフレキソ印刷方法は、いわばゴム版のような版を使用するから、使用する色の数だけ版を作る必要がある。一般的には6色、8色が主流であった。このため襖紙のデザインはこの色の制限の下で描く必要があった。このため、星野東装にもデザイン室があり、ここで襖紙や壁紙のデザインを制作していた。
 デザイナーは山田純念主任デザイナーと、二人の若い女性アシスタントがいた。
 基本は襖紙や壁紙のデザイン開発ながら、製品ラベルのデザインやカタログ、そしてPOPやディスプレーのデザインなども依頼した。
 とくに山田純念主任のイラストは絶品で、貼り方説明などに使用する女性イラストは評判が良かった。また非常に器用だったから、何かとイメージを伝えては販促物のデザインまで手がけてくれた。また、デザイン文字も得意で、スッキリしていて目立つ文字を描いてくれた。星野東装としては、得がたい人優秀な材であった。
 彼は筆者のいうイメージに耳を傾けては、取りあえずはデザインに取り組み、その仕上がったデザインに対して、さらに種々の変更を依頼しても、こころよくその変更にチャレンジしてくれた。こうした二人三脚で、新製品の商品ラベルや、カタログ、POPなど多くの仕事をした。
 写真に掲載している「マミーふすま紙」の総合カタログは、三十数年も前に作成したものながら、今でも通用するかなり完成度の高いデザインと自負している。
 それまではシリーズ別に、ペラの両面刷りで、白地ベースに、襖の絵柄を乗せるという方法であった。ところが、糸入り襖紙は、絵柄の部分をのぞけば、大半は白地である。
 このため、なんとなく落ち着きがなかった。
 そこで、筆者がはじめて総合カタログとして、表紙に濃紺を使い、シリーズ別に薄い地色を使用し、そのなかに襖の絵柄を入れた。このカタログは、品が良くて、しかも分かりやすい、好評であった。 
 身近にデザイナーがいて、種々相談に乗ってくれたから、筆者のデザイン感性も次第に磨かれた。主任デザイナーも、種々新たなチャレンジをしてくれたから、まさに二人三脚で、新製品のDIYインテリア「DECOR」シリーズの、イメージデザインやデザイン文字が完成した。
 ただ星野東装が倒産したことで、そのご経済的に大変苦境に落ちたという話を聞いた。
デザインというのは特殊な仕事の世界であり、独立するだけの人脈はなく、デザイナーを自社で雇用する会社が意外に少ないという現実があった。


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暗転
 
 星野社長との、二人三脚の蜜月時代は、会社が傾きはじめて崩壊していった。
 業績が傾きはじめてからは、すべてが旨くいかなくなった。
 こうなると、社長は、苦労知らずのボンボン育ちの本性を発揮し始め、耐える事が出来ず社員に当たり散らした。
 社長の性格が一変したと思うくらい変わっていった。
 ダイエーから取引を切られてから、業績は急に悪化の一途を辿った。
 悪いことは続くもので、韓国で糊加工した襖紙原紙が、糊付き不良でクレームが多発生した。調べてみると、韓国工場で、井戸水(硬水)で糊を溶いたから、ゲル化(凝集して固まる)して、水を付けても糊には完全には戻らない事が判明した。いくらか糊化しかけているが、粘着力が不足して、スピード貼りで縁を外さない場合、切り口から剥がれてくる。

 急遽、店頭から自主回収することになった。特にジャスコでは、近畿地区へ出荷されており、手分けして各店を巡回して、該当品番の該当ロットだけを探して、店担当者に返品依頼するという面倒な手続きを実施した。店頭から適当に返品されると、大変な返品数量となるから、やむを得なかった。
 未加工のふすま原反資材も含めて、かなりの金額の資材と商品を、破棄しなければならなかった。

    

 さらに、つづいて工場火災という、大災害にあった。
 九州工場の襖工場棟から失火して、大半を消失した。もともと紙製品だから、一旦火がつけば良く燃える。原反ロール状態の原紙は、表面を焦がす程度だったが、消化のための放水で水浸しになって、使い物にならなかった。製品や半製品、そして原反ロールなどの他に、印刷機械、その他の加工機械等も火に曝され、水を被ったから、そのまま使用できる状況ではなかった。さらには、それらの大量の焼け屑を、何台ものダンプカーで産業破棄物として処理しなければならなかった。

 火災保険には加入していたが、一ケ月以上は工場閉鎖に近い混乱があった。
 幸い秋のシーズン期ではなかったから、市場への納品に困ることはなかったのが幸いであった。その他、ダイエー取引中止の影響でキャンセルされた、韓国美装で段取りしていた、キャンバス生地の引き取り要請でもめた。
 結果としては引取りせざるを得ず、デッドストックの原因ともなった。

     

 ほかにも様々な要因が重なり、会社の業績は坂を転がり落ち始めていた。
 経営多角化で九州工場には、襖紙の製造ライン棟の隣には、組子建具の木工工場ラインがあり、さらにその隣には、組み立て家具工場ラインの棟があった。

 建具製造のラインで、製材所から仕入れた材木を加工して、建具を作っていたが、入荷した材木の石数(こくすう)から、仕上がり製品数を計算すると、辻褄があわない事が判明した。入荷した時点で、ちゃんと検品していないから、入荷した時点ですでに材木の石数が違っていたのか。加工する時点で、予想以上にロスが発生していたのか。それとも夜間に材木が盗まれたのか。一騒ぎあったが、原因不明のままに終わった。この時の担当課長がかっての部下のH氏であった。

 また、組み立て家具ラインでは、勝手に大量の三段ボックスを製造してデッドストックを抱えることになった。カラーボックスとも言い、一時期は大変売れた。
 スーパーの開店チラシの目玉によく使われ、コンテナ単位で販売していた。
 しかし、競争が激化して、もともと980円が超目玉価格だったのに、さらに880円、はては780円と家具問屋かメーカーの換金目的の投げ売りが出始めた。市場が悪化して採算がとれないと、会議で報告していたのに、工場で製造するものがなく、いずれ売れるだろうと大量に製造してしまった。 
この当時の担当課長が、かっての部下のT氏であった。

 営業が低迷すると、韓国美装でも生産するものが無く、何か注文をくれと、毎日のように国際テレックスが送信されてくる。
 営業会議には、金正彩社長が乗り込んできて、
「LCを送ってください。韓国には三十数人の従業員が飢え死にします」
と、会議テーブルを叩きながら懇願する。

 韓国美装の取引は、海外だから貿易となり、日本からLCを送らないと製造ができない。LCとは、レターオブクレジットの略で、日本の銀行から韓国の銀行へ、ドルを送金する為替のことである。
 子会社だから、日本からの発注と、それに見合うLCを貰わねば工場運営が成り立たない。少しでも歯車が噛み合わなくなると、方々で様々な問題が噴出してくる。

 こうして見ると、高度成長している時には、全く見えなかった問題点が、会社が低迷し始めた頃に、さまざまなボロが、露見し始めたと言えるかも知れない。
 人材育成の基礎を固めず、社長一人が、機関車として経営多角化に走って急成長させたたが、社員の能力がそれに追いついていなかったとも言える。
 ダイエーから取引を切られてから、会社の経営は少しずつ傾きはじめ、社長の性格が一変したかと思えることがしばしばだった。

 もともと、性格が激しく、革新的でもあり、いい意味の信長のイメージを抱いていた。しかし、経営が下降線を辿り始めると、気に入らない事があるとよく癇(かん)癪(しやく)を爆発させた。会議のときに、説明が気にくわないと、激して鉛筆を投げ付けたりした。
 何か起きると、必ず誰かの責任にしなければ気が済まず、またその責任追求の仕方が凄まじく、尋常ではなかった。

 会議では、誰かが血祭りに上げられるから、みな戦々恐々として会議に臨んだ。
「これだけの問題を起こしておきながら、この一カ月間、何をしていたのか。何をどのようにしたか、血の滲むような努力の一つ一つを、説明してみろ」
「こんなにロスを出しやがって!給料で償いしろ」
「営業の売り上げが足りんから、資金が行き詰まった。全員、親戚からでも金を借りてこい」

 もともと安い給料で使われていて、経営責任を取らされるような立場ではない。
 と皆な心の中で反発した。営業責任者とは言え、取締役でもないのに、売上げが落ちたから、金を借りてきて穴埋めしろと叫ぶ経営者が、一体何処にいるだろうか。
 このように、社長が荒れるに従い、社長を尊敬していた心が冷めていった。

 さらに、それに追い打ちをかけるような情報を耳にして、愕然とした。社長の側近として、身近にいたから、まさに灯台下暗しであった。
 社長の女癖の悪さの情報が、ようやく耳に届きはじめた。それも、社内の社員の事務員を片端から手を付けているという。そう言えば、社長室の秘書は必ず九州へ連れていった。必ず同じホテルに投宿していた。なる程、そういう事かと理解してみると、不自然なことが多いのに気がついた。社長秘書が、再三よく変わった。

 女性社員には、いろいろ体験させるという名目だった。 後に、元社長秘書から聞いたところでは、同じホテルに投宿し、明日の予定で話しがあるから、と自室へ呼び、話しをしながら、少し疲れたから肩をもんで欲しいと言いだす。ベットで、肩をもませる。やがて、彼女の手を引き寄せ、抱き寄せる。

「君のことが、前から気になっていた・・妻とは長く旨くいっていない・・とても寂しい・・悪いようにしないから・・・」
と、甘えるような仕草で、母性本能をくすぐりながら、ベッドに押し倒していくという。
 相手が、権力のある社長という立場であり、使われている秘書としては、とことん抵抗
出来ない。とことん抵抗すれば、会社を退職せねばならない。

 もともと、血液型がO型であり、自己中心的で、我が儘で、独断専行で、寂しがりやで、甘えん坊のところがある。星野正弘の女の話は、次から次へと耳に入るようになった。信頼していた分、その落差も大きかった。若かったから、人でなしとも思った。
 未婚のうら若い女性を、社長という地位と権力を使って、立場の弱い女性社員を慰み者にしている。それも一人や二人ではない。
 私の能力にいち早く気がつき、事業の失敗というどん底から、一気に日の当たる場所へ引き上げてくれた恩人である。また、結婚の仲人も務めてもらった恩人である。
 しかし、それでも許せない。という感情に支配されていった。



カリマンタン商事事件 

 時間的には前後するが、もう一つ、社長を震撼させる事件が大阪で起きた。
 白紙の小切手を、大阪支店の支店長が、取引先であった「カリマンタン商事」の社長に渡したという事件であった。
「白紙小切手」だから、金額はいくらでも書き込める。それを取立てに出されたら、金額によっては不渡りとなる恐れがある。 会社始まって以来の最大の事件となった。
 それも、星野社長の信頼が篤い支店長が犯人であった。
 ことの起こりは、そのころ大阪支店の経理事務を担当していた、妹の清見から電話をもらったことに始まる。
 支店長の様子が、変だという。つまり、小口現金入金が、全てずれて入金するようになったという。小口の得意先でも、従来はきちんと入金されていた。
 ある月を境に、どの現金得意先も、入金がずれ始めた。
 女の直感で、使い込みが発生し、現金入金の得意先の入金を、たらい回しにして誤魔化している、可能性があるという。

 支店長は、最近落ちつきが無く、何かに怯えている感じがするという。この事実を、経理部長に報告し、大阪支店を監査し事件が発覚した。
 大阪支店には内緒で、社長と二人で大阪に乗込み、まず支店長の尾行を始めて、調査を開始した。最終的に、支店長を問い詰めて全貌がはっきりした。

 競馬で損をして、つい現金集金してきたお金に手を付けてしまった。
 すぐに返すつもりだったが、返せなくて、次の得意先の入金で穴埋めした。何とか取り返したいと、また競馬につぎ込み、また穴を開ける。終いには、生活費まで手をつけて、懇意にしていた、「カリマンタン商事」の社長から借金したという。

 さらに、現金集金に次々手をつけて、競馬につぎ込んで借金が膨らんだ。
 カリマンタン商事の社長に、追加で借入を申し込んだら、白紙の小切手を持って来いと言われて、市販の小切手に、言われるままに、星野東装大阪支店長名義とした。

   
 
 支店長が、このような追い詰められた状況で、本社に情報が入ったことになる。
 最大の課題は、白紙の手形を取り返すことであった。
 ただ、阿波座にあったカリマンタン商事の社長には、筆者も社長も全く面識がない。どのような人物か見当がつかない。

 支店長が借り入れた、金額の十倍請求されるかも知れなかった。
「白紙小切手」の恐ろしさを改めて知った。弁護士に相談すると、実際には代表権の無い、大阪支店長名義の小切手でも、表見代理人と見なされて有効だという。

 支店長にすべてを白状させて、カリマンタン商事の社長の事を聞き出した。
 彼は、戦前にインドネシアに住んでいた。戦後最初に、インドネシアのカリマンタンに入国した日本人で、現地の信頼は厚いという。
 カリマンタンと貿易して、日本へカリマンタンの物産を輸入し、日本からさまざまな物資を輸出しているとの事であった。壁紙をいくらか販売して貰っていた。その阿波座にあった小さな事務所を社長と二人で訪ねた。小柄だが色が浅黒く、精悍な顔つきをした、六十代の男だった。

 世間話しから入り、インドネシアの話しなどを聞き出しながら、
「ところで、大阪支店の支店長が、大変ご迷惑をお掛けしている、と聞きました。誠に申し訳御座いません。お借りした金額は、すぐにご返済させて頂きたいのですが、白紙の小切手がお手元に在ると存じますが・・」
「小切手は預かっている。いくらで買い取るつもりでっか」
 やり手の大阪商人という感じであった。

 支店長が借り入れていた金額は30万位であった。結果的には50円で買い取った。
不幸中の幸いであった。もう少し悪どい人間だったら、大変な事になるところであった。問題が解決して、白紙小切手を持って、星野社長と二人で、伊丹発羽田行き最終便の機 上の人となったが、時は12月31であった。

 本来ならば、このような大事件を起こした支店長は、懲戒解雇と成るべきである。ところがそうはならなかった。暫くは、そのまま大阪支店長を続けている。
 本人は、反省のつもりか、丸坊主になった。
 小切手を取り返すのに使った50万は、給料から天引きして返済するという、甘い処置であった。この辺のいい加減さが、星社長の情に溺れるところで、経営者としては失格でもある。信賞必罰が行われず、私情に流され、厳しい叱責が尻抜けとなって、タガが緩んだ経営を続けて、やがて終局を迎える。
 事件後、半年か一年で、支店長は退職していった。


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クーデター計画

 星野東装が倒産する前に、クーデター計画が持ち上がった。
 クーデター計画は、大蔵官僚出身のK氏のバックアップによる上場計画が、星野社長の臆病さから、とん挫した事に始まる。
 星野会長の次女と結婚していたのが星野東装の専務だった。
 もともと獣医師の資格を持っている。獣医師になるつもりだったが、星野会長の次女と結婚したため、説得されて星野東装の専務に就任していた。筆者が星野へ入社したときは、埼玉工場の工場長兼専務であった。

 専務は、温厚でお人好しで、反対に過激な発言の多い激情家の星野社長とは対照的な性格であった。仕入先などからは、鬼の社長に仏の専務と揶揄されていた。
 仕入先に無茶を言う星野社長に対し、常識的な専務の方が、仕入先からの信頼は厚かった。専務は、部下の面倒見がよく、工場の従業員からの信頼も篤かった。
 月一回の営業会議で、普段は司会が社長自身でもあり、社長の独壇場となるが、感情が激して収拾が付かなくなった時は、専務が冷静に幕を引いてくれた。

 さて、クーデター計画の経緯の話しである。
 元大蔵官僚のK氏の力添えで、上場出来るかも知れない。と、全社員が希望の光を見い出していた。メーンバンクが変わり、中小企業金融公庫から、一億円の融資も実行された。また、K氏から、やはり大蔵省証券局長出身の、S水産庁長官を紹介され、S長官から販売先の紹介を受けてもいた。
 全農の専務理事、イトーヨーカドー伊藤正敏社長、西友ストアの副社長などを相次いで紹介を受けた。これらにもとづいて営業責任者として、イトーヨーカドーの商談や全農のルートへ商談を始めた。誰もが、星野東装はこれで苦境から脱出して、いずれ上場企業になれると信じた。ところが、ある日の会議で突然、星野正弘社長は、
「会社の上場計画は中止する。自力で運営する」
 と宣言した。

 中止する理由について、それ以上は語らなかった。全員が唖然とした。
 それから、社長の成すこと、やる事が、すべて裏目に出始めた。前述したとおり、さまざまな問題が一気に噴出してくる感じであった。
 会社の先行きに、役員全員が危機感を抱いた。業績悪化に危機感を抱いた訳ではない。
社長の超ワンマに更なる危機感を抱いた。

 高度成長期に順風満帆で企業業績が拡大一方の時代は、社長のワンマン体制がすべて良い方向に作用した。社長の直感力は鋭く、先見の明も発揮された。
 埼玉から、九州へ、工場を移転するという大事業は、たぶん専務のような、常識で物を考える経営者には出来ないだろう。非常にリスクを伴う事であった。

 しかし、星野社長は、これを公的資金を、低利融資受けられる事をテコにして、強引に進めた。結果的には、糊付き襖紙の成長期と相まって、会社を一回り大きくする事に成功した。気が付いたら、ふすま業界のトップにのし上がっていた。これで弾みを付けて、韓国に合弁会社を設立するに至た。

 この辺までは、社長のダイナミックな独断専行が、時代の流れに乗っていた。社長自身の運気が強く、社員に対しても寛容なところも見せ、社員も社長を信頼していた。
 それが狂い始めたのは、主力取引先のダイエーから、取引を切られた頃からである。
 一旦物事が旨く行かなくなると、貧すれば鈍するという諺通り、物事の見定めが狂ってくる。焦るから、本来の苦労知らずの性格が、むき出しに出て来る様になっていた。
 業績が悪く成ってきたのは、全て役員や社員が悪い。と、生け贄(にえ)を探すことに狂奔する事になっていた。

 そんな、傾き始めた会社を建て直す絶好のチャンスが、上場計画であった。そのチャンスを星野社長自身が潰した。誰もが納得できなかった。
 このままで良いのか。星野社長のワンマン体制を続けると、これから先どうなるのか。
 当時の取締役全員が、誰もが暗澹たる気持ちになった。

 当時の取締役には、星野会長、専務、経理部長、工事部長、福岡支店長、そしてH・I事業部長の筆者という面々であった。
 さて、星野会長と専務を中心にして、何時頃か「社長を解任できないか」
 という、不穏な動きが検討され始めた。

 それだけ、社長ワンマン体制に危機感を抱いたのである。法的に代表取締役を解任するには、星野東装の発行株式の過半数が必要であり、取締役の四分の三の賛成が必要だった。取締役の全員が、社長の解任に賛成する。問題は、発行済み株式のうち、過半数を集められるか、どうかだった。

 星野東装の最終資本金は、9千9百70万円であった。
 資本金一億円を超すと、国税庁管轄になるとかで、ぎりぎり一億以内の資本金であった。
 成長過程で、何度か増資を実行している。新宿本社工場から埼玉工場へ移転の時、九州工場移転時、韓国美装設立の時など節目の時点と、それ以外にも増資している。

 資本増強の増資を繰り返したから、星野一族では賄いきれない。
 社長の実家のY飼料や仕入先などに何度も増資依頼しているし、従業員持株会や取締役にも株を持たせた。
 取締役では、星野会長と専務が、星野社長に匹敵する株数を所有していた。
 それに、賛成する取締役全員の株数と、従業員持ち株会を含めても、過半数には遠く及ばない。

 仕入先の株主の同意を得る必用があった。これは、専務の役割であった。
 専務は「仏の専務」で、仕入先の信頼が篤い。
 主力仕入先で襖紙原反仕入先の、S内装、T織物、などの取引先へ話しをする事になった。結果は、専務が社長となり、全取締役が賛成で、且つ他の仕入先も同意するなら、賛成するとの同意を得た。

 いよいよ、クーデター計画が、実行されるかと思ったが、残念ながら不発に終わった。
 最終的には、星野社長の解任に踏切れなかった。星野会長や専務は、本質的にお人好しで、鬼には成れなかった。
 もっと率直に言えば、修羅場に耐えられなかったと言えるだろう。

 が、後日談に飛ぶが、専務は、星野東装倒産後、福岡で、組子建具の製造会社を設立して、かつての部下を数人雇用した。専務の人柄で、販売先や仕入先にも恵まれて、企業として安定した運営を続けている。平成13年に六十二、三の若さで永眠した。

 さて、クーデターの話しは、続編がある。
 会社が傾き始めた頃、別会社を設立していた。製販分離という構想があった。工場は営業に甘え、営業は工場に甘えている。工場はもっと品質管理を徹底し、新製品を開発して、営業が頼りにならないときは、独自に販売するくらいの気力が必用だ。
 営業は、工場の価格に不満なら他社から商品を購入してでも、利益を確保する。そのような厳しい体制が必用だ。との観点から「デコール」という会社を設立していた。

 デコールという社名は、その頃デコールというブランドを作り、ワイヤーネットなど壁面収納商品シリーズは、全てデコールブランドだった。
 また糊付きの商品でも、オフセット印刷を応用した写真を使ったドアデコールという商品を発売していた。

 順次、マミーシリーズとは別に、デコールシリーズを浸透させていた。そんな状況で、新会社名はデコールとしていた。登記する時、代表取締役が、星野社長では、別会社にする意味が無いという理由で、専務が代表取締役に登記されていた。

 ただ、ダイエーに切られてから、一時期、仕入先から「星野東装、危うし」、という噂が出た事があった。そんな中で、販社を独立させると、危機説が拡大する可能性がある。と筆者が反対した。社長以下、みな同意して、デコールは設立したものの、実歳には発足せずに休眠していた。

 デコールは、専務が代表取締役である。
 星野社長の、社長解任が難しければ、それならば、取締役全員で星野東装を辞任しよう。
 逆転の発想であった。これも筆者が言い出した。
 全員星野東装を辞職して、改めて「デコール」に採用して貰う。
 これなら、実現の可能性が高い。そうして、星野東装の販売ルートを確保し、星野東装から商品を仕入れる。

 価格面で折り合いがつかねば、別の仕入先を開拓する。こうすれば、星野社長の立場もできる。問題は、デコール株式会社としては、最低の資本金一千万円であったが、現実には手元に資金が無いから、デコールのスポンサーが必用だった。

 そこで、K氏から紹介を受けたS氏(元水産庁長官)が、外資系企業(社名失念)の顧問をしていた。このS氏に依頼したらどうか。と工事部部長が言い出した。
 この外資系企業は、アメリカのベンチャーキャピタル企業で、日本の中小企業を物色して、手頃な成長可能企業に投資して、育成のうえ上場させて株式を売る。順調にいけば、短期間で莫大な上場利益を確保できる。

 K氏が計画していた事を、ベンチャーキャピタル企業として組織的に実行するという企業だった。そして、新宿にその傘下企業で、日本ロボットという会社があり、上場準備しているという。専務と一緒に、新宿でS氏と面談し、バックアップを依頼した。
 星野東装でお世話になったが、星野社長の思わぬ支援辞退で、途中とん挫した事を詫びた。取締役全員で、別会社デコールで再出発したいが、スポンサーが欲しい、と率直に申し入れた。
「分かりました。優良企業を支援して、上場させるのが私どもの仕事です。私どものオフィスを使って結構ですから、業界の分析資料と、今後の企業運営のマスタープランを作ってください」
 非常にソフトな物腰で、にこやかに申し入れに対して応じてくれた。新宿の安田生命ビルの中に、「日本ロボット」という会社のオフィスがあった。

     

 新宿中央公園のリージェント・ハイアットホテルと隣接している安田生命ビルの中にあった、「日本ロボット」の事務所へ、一人で暫く通うことになった。
 星野東装の新宿本社とは、新宿中央公園を挟んだ位置にあり、歩いていける距離であった。事務所と言うより、まさにアメリカスタイルのオフィスであった。
 
 デスクが、一つ一つ独立して配置され、それぞれ低いパーティションで仕切られている。デスクは、少なく5、6脚しかなく、後はソファーで、広々とした感じのオフィスであった。ジョンソンの東京麻布にあった東京事務所のオフィスもそうであった。
 S氏から、日本ロボット新宿事務所の、責任者の弁護士(名を失念)を紹介された。 訪ねていくと、デスク一つを当てがわれ、「どうぞ、ご自由にご利用ください」
 と、それだけであった。

 他に話す事もなく、一人でデスクに座り、持参した社用箋で、業界の分析などの資料を作成し始めた。弁護士と一人の事務員が、時々英語で話しをする。また、その女性が電話
で、弁護士と英語で喋る。無論日本語での会話もしている。
 すると、私に聞かれては困るような内容は、早口の英語で喋るのか。不思議なオフィスであった。それにしても、私が英語を聞き取れないと、どうして判断したのだろうか。

 二、三時間程度、その事務所で書類作成をして、夕方星野東装の事務所に戻った。時間を見つけて、何度かその事務所のデスクに通った。
 私の作った資料、「デコール経営マスタープラン」を、S氏へ提出したが、スポンサーになるとの話しには成らなかった。分裂した星野東装の一部では、上場させるには時間と金がかかり、リスクが高いと判断したのだろう。
 こうして、クーデター計画は、雨散霧消して星野東装再建の希望は消えた。




星野東装倒産

 星野正弘のワンマン体制の継続で、取締役全員が意気消沈してしまった感があった。
 そのような暗い心理状態で、傾き始めた会社が立ち直るはずがない。
 しかし、誰もが、怯えた。倒産という経験が無いからである。
 何度も不渡りのぎりぎりの所で、かろうじて手形決済資金を作って、生き延びるという瀬戸際の状態が一年くらい続いた。

 何度も、取締役は給料遅配という状況に陥った。
 星野社長は、それに付いて、決して済まないとは言わない。取締役の努力が足りないから、当然だという顔をしている。
 会社の状況が悪くなるのは、取締役と従業員が悪いからである。社長の責任ではない。と何処かでそう信じている節があった。だから、金を作って来いとも言う。
 金が作れ無いなら、融通手形の相手先を見つけて来いという。

 乱暴な話しで、こんな状況に陥ったら、早く企業を倒産させた方が良いと誰もが思った。
 それでいて、倒産が怖かった。取締役としては、今更逃げる訳にもいかない。
 こんな状況で、社長からの指示で、陳列器具などの発注先で、長年つき合いのある、横浜のアート産商とい小さな会社があった。社長と言っても、自ら工場にも入るし、自ら配達もするというような会社であった。

 社長の指示で、ついにそのアート産商とも、融通手形を交換する事になった。安西社長は、人の良い、温厚な性格で、
「絶対に迷惑をおかけしませんから。ぜひご協力をお願いします」
 そう言い張って、融通手形を交換してもらった。

 一度融通手形を発行すると、それだけで終わらないのが、融通手形の恐ろしさである。お互いに、その手形を決済しなければならない時期が来る。決済資金が無いから、また融通手形の交換となる。こうして、星野東装の都合で、小さな町工場まで巻き込んで、倒産した。てっきり、安西社長も連鎖倒産すると思っていたが、連鎖しなかった。

 彼は、日本人名を持っているが、華僑に繋がりのある、中国系の人だった。
 その華僑の援護で、倒産しなかった。そればかりか、倒産した後、筆者の自宅に電話してきて、「私の人脈で、中華食堂のチェーン店があります。もし、再就職に困る様でしたら、佐野さんの事ですから、店長でいつでも紹介します。横浜でも、神戸でも可能です」
と、親切にも心配してくれた。大変迷惑をかけたのに、仏のような人だった。

 話しをもどす。
 遂に、万策尽きた。倒産を避けられない事態で、ついに来るべき時が来たかと、腹をくくった。
 かつて、大分で、星野東装へ不渡り手形を出した状況とは、天地の開きがある。
 売上高年商20億前後で、負債総25億くらいの規模であった。
仕入先数は、二百社を越えていた。中野にあった顧問弁護士事務所に、会社更生法適用の依頼をしており、事前に確か百万程度の現金を支払った。

 不渡りを出す二日前くらいに、経理帳簿を顧問弁護士の所へ移動した。
 その後、どういう訳か、新宿にある、当時日本弁護士会会長を務めていた、有名な弁護士にも、会社更生法手続きを依頼する事になった。弁護士一人では、不安だと思ったのかも知れない。
 一度、書類を持って事務所に顔を出したが、ブルドックのような顔をした、三重顎をした、貫禄のあるヤクザと間違えるような鋭い目つきをしていた。

 不渡り当日には、ビルの事務所の入り口を閉鎖して、貼り紙を掲示した。
 「星野東装株式会社は 会社更生法適用申請中です  何人も許可無く事務所に立ち入る事を禁じます                    連絡先○○弁護士事務所」


      

 徹夜で作成した、負債金明細書に基づき、債権者集会の案内状を送付した。
 債権者集会には、多くの債権者が訪れた。星野正弘の要請で、取締役は全員同席させられた。会場の右前方に会議用テーブルを並べて、全員着席して、下を向いた。

 まさに、被告席というか、針の筵に座らされている感じであった。
 社長が、倒産に至る経緯の説明に入る。社長は弁舌が得意だから、滔々と述べていくが、どこかで他人の責任というような口吻になる。

「主力得意先であったダイエーから、一方的に取引中止させられまして・・」
「○○から、単なる噂によって一方的に取引を中断されまして・・・○○からの仕入れを一方的に中止され・・・」

 説明の途中で、何度か罵声が飛ぶ。
「社長、お前の責任は、何処へ行った!言い訳ばかりするなっ」
「全員、土下座しろっ!」
「こんな事では、許さんぞ!」
と、次々罵声が飛ぶ。一方で落ち着いた声がした
「まぁまぁ。一応、話しは聞こうじゃないか」
 つい、顔を上げて会場を見渡すと、ヤクザのような罵声を繰り返していた男が、別な男から腕を取られて、会場の外へ連れ出されていた。


債権取立屋
  
 後で分かった所では、連れ出されたのは九州大川のヤクザで、仕入先であった製材所の不渡り手形を持っていたらしい。
この他、大阪から山口系のヤクザも来ていた。このへんのヤクザを手際よく追い返したのが、東京ファクタリングの看板を持つ、債権取立屋のヤクザであった。

 こちらの方が、債権取立て専門だから、ヤクザの扱いには慣れている。
 会場に乗り込んでくるヤクザは、不渡り手形の額面の一割で買い受けている。だから二割〜三割も回収出来れば商売として成り立つ様だ。
 百万円の手形持っていた大川のヤクザは、25万円の現金を握らされて帰っている。
大阪の山口組系ヤクザも同様に、30〜40万の現金で、帰っていったという。
 第一回の債権者集会が終わって、ファクタリングの社長から話しがあった。

      

「星野さん、あんたもこれから色々金が要るだろう。これまで苦労してきた経営者の資産を守ってあげるのが、ワシらの仕事や。ワシに任せなさい」
 この話しを聞いた星野社長は、このやり手の東京ファクタリング会社を、盾にしようと考えた。

 彼らは言う、「騒ぐヤクザは、小銭を持たせりゃすぐに帰る。彼らだって、最低額面の二割も換金できれば、まずまずの世界や。空の(換金できない)場合だって多い」
と言う。
 しかし、彼らの債権屋の凄腕は、これから本格的に発揮される事になる。

 ファクタリングの指図で、会社更生法の申請を取り下げることになった。
 すかさず、星野東装の債権を、すなわち「売掛金」を、ファクタリングへ譲渡するという契約が密かに行われた。そして、全ての得意先へ、内容証明郵便が送達された。
「貴社への星野東装(株)が有する売掛金債権の残高は、○月○日付けで、弊社へ債権譲渡されましたのでご通知いたします。表記債権金額に相違が有れば、至急にご連絡ください。後日債権回収にお伺い致します。  東京ファクタリング(株)」 
 こうして、ファクタリングの担当者同行で、星野東装の得意先へ、売掛金の集金に出かける事になった。

 星野東装が、東京地方裁判所へ申請していた会社更生法は、債権者の知らないところで、勝手に取り下げられ、法的には、任意整理の状態となっていた。
 しかし、殆どの債権者は、会社更生法が申請されているから、何らかの通知が有るだろうと、待機している状態であった。この間隙をぬって事が運ばれている。多くの債権者に対しては、二重の迷惑をかける裏切り行為であった。
 星野東装の殆どの売掛金が回収された所で、営業責任者の筆者の使い道は済んだと思われた。退職を申し出ると了解された。

終わり


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