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■雪蹊寺 四国巡礼の三十三番札所は、雪蹊寺(せつけいじ)である。 山号は高福山(こうふくさん)といい、高知市の長浜にある。 高知空港をおり立った阿比留健太は、タクシーで長浜にある雪蹊寺を訪れた。 石段をのぼると石柱門がある。境内にはいると右手に鐘楼、左手に水場がある。正面に本堂が建ち、その右手に大師堂(だいしどう)がある。 四国八十八箇所の寺には、空海をまつる大師堂がかならずあり、四国遍路のさいには、堂とともに師堂にも参拝することが慣わしとなっている。客殿の奥に住職の住まいがあった。 目的は玄空(げんくう)和尚(おしよう)にあうためである。阿比留健太は50歳になっていた。玄空和尚とは20年ぶりの再会である。 客殿から青々とした坊主頭の、若い僧侶がでてきた。人影をみて声をかけてきた。 「阿比留さんですね?和尚さまがお待ちかねです」 案内されたのは、本堂の参拝者が座る外陣(がいじん)であった。般若心経の凜(りん)とした読経の声が聞こえていた。阿比留健太は、内陣に向かって深々と一礼して正座した。 玄空和尚は内陣(ないじん)の須弥壇(しゆみだん)(仏像を安置している壇)のまえの、導師(どうし)の席である礼盤(らいばん)(箱形の壇)に座っていた。玄空和尚は本堂で夕方の勤行(ごんぎよう) の読経を、ちょうど終えるところであった。和尚の読経の声がやみ、鈴をならす音が三度して深々と礼拝した。 「阿比留さまがお見えです」 玄空和尚は、かるく点頭(てんとう)した。 「阿比留です。大変ご無沙汰をしております」 玄空和尚からの言葉はなく、しばらく無言の世界が広がった。しかたなく阿比留健太は、外陣(がいじん)から内陣の須弥壇の仏像をながめた。 雪蹊寺には、運慶(うんけい)晩年の作といわれる本尊の薬師如来像(やくしによらいぞう)をはじめ、脇侍(わきじ)の日光菩薩、月光菩薩など鎌倉仏像の宝庫といわれるほどの名品が安置されている。 健太には仏像の知識はない。が、しずかに座して、本尊の薬師如来像をながめていると、心が落ちついてきた。玄空和尚の無言の応接は、心しずかに由緒ある薬師如来像をみつめ心を落ちつかせるためであったのであろう。 内陣から出てきた和尚は、阿比留健太の顔をみてかるく会釈すると、こちらへという仕草で先にあるいて行く。健太もしずかに後にしたがった。本堂から廊下をわたり、客殿へ行き、さらに奥へつづく廊下をあるき、三畳の茶室に招じ入れた。 玄空和尚とは、ザビエル公園で偶然であった大久保太郎のことである。 もし大久保太郎と遭遇しなかったら、今の阿比留健太は存在しない。 落ち込こでいた健太に「三十にして立つ」ことをさとした。勇気をふるい起こし、派遣仲間を集(つど)い「ザビエル7」プロジェクトを立ちあげた。 大久保太郎は四国にわたり、ゆるりと巡礼をしつつ、人の悩みの根源である執着心を、少しだけでも開放させることが旅の目的であり、自らの懺悔の修業と考えていた。 一方で、メーリングリストで、そのあとの成り行きの大半は承知していた。 また健太とは、年に何度かのメール交換をしていたから、大久保太郎が十数年前に、高知の雪蹊寺で得度(とくど)した(仏門に入る)ことは知らされていた。 20年の歳月がたち、健太は50歳をこえ、大久保太郎はすでに85歳になっている。仲間たちと自立した健太は、十三の会社を傘下におさめる、持ち株会社の代表をつとめてきた。 大久保太郎は、放浪の旅で四国巡礼を何巡もつづけたあと、住職との出あいでこの寺で得度し、いまは法名(ほうみよう)を玄空と称し、雪蹊寺住職の地位にある。 玄空和尚は、かってザビエル公園で出あったときの、柔和な風姿とは異なっていた。 どことなく浮世ばなれした、威厳を感じさせる立ち居(い)ふる舞いであった。 しずかかに茶を点(た)て、健太にすすめた。 「しばらくぶりですな。ここは茶室で私的な場所ですからくつろいでくださいよ。茶の作法などどうでも良いことです」 玄空和尚は、はじめて昔のような柔和な笑をみせた。 ■心眼を開く 玄空(げんくう)和尚は、問わずがたりに、第十九世の大玄(たいげん)和尚との出あいをしゃべりはじめた。 大久保太郎は、ゆるゆると四国八十八ヵ所をめぐり、お遍路さんへの「お接待」に何なんども出あった。四国の人々の大らかさと、豊かな自然と信仰の篤(あつ)さから四国を離れがたくなり、八十八ヵ所巡礼をくり返した。四国八十八ヵ所の巡礼は、全行程をあるくと1千280qもの道のりである。 70歳になった七回目の巡礼のとき、三十三番札所の雪蹊寺で第十九世の大玄(だいげん)和尚と出あったのである。夏の終わりに近い夕ぐれであった。巡礼者が途絶えた境内のベンチにひとり腰かけ、ぼんやりとしているとき、住職から声をかけられたのである。 「よろしかったら、お茶を一服(いつぷく)さしあげたい」 と、この茶室に招(しよう)じいれられた。 リヤカーを引っばりながら巡礼をつづけている姿を、大玄和尚は何度か目にしていたらしい。 茶室で大久保太郎の放浪のいきさつと、人々の悩みを聞くことを自からの修業とし、七巡目の巡礼をくり返していることを知った。 高齢の大玄和尚は、ゆるやかに大久保太郎につげた。 「そろそろ、心眼をひらくときですな。まだ迷いがありますな」 心眼(しんがん)を開くにはまず分別(ふんべつ)をすてよ。 と大玄和尚はいう。 がんらい分別とは、善悪や道理をわきまえるために、人が持つべき最も大切な理性とされている。 人が人として生きていく上で絶対不可欠のものであり、この分別があってこそ、人間社会はなり立っている。と大久保太郎は信じてきた。 ところが、禅では、そのもっとも大切な分別意識こそ問題である。 分別意識は、人が便宜上(べんぎじよう)つくりあげた架空のものである。 架空のものには実体がない。 実体のないものに、尺度や差別をつけ分別している。 人は常識的であればあるほど、その実体のない観念にとらわれ、ふり回されている。 そこに「こだわり」の意識が生じ、悩んだり苦しんだりするという。 これを禅では「迷い」という。 禅の修業はただ一つ。この迷いの元を絶つことにある。 その迷いの元こそ、分別なのだという。 さらに実体のないものは妄想だ。 だから、分別をすてよ。 と諭された。 人の悩みを聞きだすことで、その執着心を少しでも開放させ、その人の背負っている肩の荷をかるくする。そう信じてきた。それまでのしがらみを全てすて、リヤカーを引っぱって、放浪の旅を6年にわたりつづけてきた。若くして悩んでいる人には勇気を与え、自立する知恵をだすよう諭してきた。 しかし、それらは、すべて「こだわり」からくる分別だ。 己の価値観を一方的におしつけ、息子を自殺におい込んだという自責の念が、つよい「こだわり」となっている。と和尚はいう。 心眼を開くには、まず分別をすてよ。 分別をすてることで「こだわり」を開放させる。 これが「迷い」から抜けだす唯一の方法だ。迷いがなくなれば、やがて心眼を開くことができる。 心眼を開くことができれば、在(あ)るがままのものを観(み)ることができる。と諭された。 臨済宗(りんざいしゆう)の十七世山本太玄(たいげん)和尚の教えの根本は、 「心眼を開け」であったという。 雪蹊寺は、弘法大師(空海)の開基で、創建当初は「少林山高福寺」と称し、真言宗に属していた。そののち寺運が衰え、廃寺となっていた。 のちに土佐の戦国大名の長宗我部(ちようそかべ)元親(もとちか)の後援で、臨済宗の寺として復興し、長宗我部氏の菩提寺(ぼだいじ)となった。このとき再建した元親の号にちなみ、雪蹊寺と名を変えた。 ところが明治維新初期の廃仏毀釈(はいぶつきしやく)旋風のとき、また廃寺となった。 明治17年に、名僧として知られた十七世山本太玄和尚の努力で、臨済宗の寺として再興し、今日までつづいている。四国八十八ヵ所札所(ふだしよ)のうち、二ヶ所だけ臨済宗の寺がある。 阿波藤井寺と雪蹊寺である。 このような経緯で、真言宗ではなく臨済宗の寺としてつづいている。幸いなことに、二度の廃寺に遭遇しながらも、そのたびに本尊の薬師如来像をはじめ、脇侍(わきじ)の日光菩薩、月光菩薩など鎌倉以来の仏像は、篤志家(とくしか)の手によって寺外に運び出されて保護されてきた。 ■禅の心 雪蹊寺の住職であった第十九世の大玄和尚から諭され、目からウロコのように感じた。大玄和尚からもっと話を聞くべきだと感じ、三日間にわたって夕方には雪蹊寺にかよい、大玄和尚の話を聞いた。つぎの日には、雪蹊寺中興の祖とたたえられている山本玄峰(げんほう)和尚の事歴(じれき)を聞いた。 岡本芳吉は、慶応元年に和歌山に生まれている。 筏(いかだ)流しなど肉体労働に従事していたが、19歳のころに目を患い失明した。わずかに光芒が感じ取れるていどであったらしい。やむなく家督(かとく)をゆずって四国巡礼の旅にでた。 四国には「お接待」という風習がいまでも残されている。お遍路にたいするお接待では、食べものや、飲みものなどを無償奉仕し、接待所とよばれる休憩所を開放している。 また遍路に宿を無償で提供する「善根宿(ぜんこんやど)」まであった。 巡礼者にたいする四国の人々の手篤(てあつ)いお接待は、それを奉仕する人の行(ぎよう)でもあり、功徳(くどく)(神仏のめぐみ)となるという考えかたである。 ところで四国巡礼だけが遍路(へんろ)とよばれている。 四国巡礼は、交通路が整備された江戸期でも、道が未整備なところが多かった。関西や関東の有名寺社への観光化された巡礼とくらべ、四国巡礼は辺地(へち)とよばれる険(けわ)しい山道がおおく、よほどの覚悟がなければ、歩き通せないほど厳しい修業であった。 辺(へち)の路(みち)をあるくことから、覚悟をもって四国のみちを歩く巡礼者を、遍(辺)路とよぶようになったらしい。 岡本芳吉は、このお接待によって、露命をつなぎ巡礼をつづけることができた。 ところが七度目の四国遍路のとき、雪蹊寺山門で行きだおれとなった。 このとき十七世山本太玄和尚にたすけられ、寺男(雑役の下男)として雪蹊寺にとどまることになった。 やがて岡本芳吉の勤勉ぶりと、ただならぬ才覚を買われて出家した。 「目も見えず、読み書きもできませんが、坊さんにしてもらえますか」と和尚に問うと、 「親から授かった目は年を取れば見えなくなるが、仏さまからさずかる心の目は一旦開かれれば、つぶれない。お前の心眼は修行次第じゃ」と弟子入りを許された。 十七世山本太玄和尚から「心眼を開け」と諭され精進をつづけた。 「心眼を開く」ことは、簡単なことではない。 思慮分別で物ごとを観(み)る(全体を知る)のではなく、さまざまな「こだわり」をすてよという。「こだわり」を捨てるには、まずは自己を観(み)つめよという。 いまの自分をみつめる(念ずる)ことで、さまざまなことに気づく。 「念ずる」とは、今の心をみると書く。 さらに自己をもすてよという。 さらに自己をすてたという心もすてよ。 こうして「心眼を開く」ことができるという。 やがて、その精進ぶりを買われて十七世山本太玄和尚の養子となり、玄峰の法名をもらって法統(ほうとう)(仏法の伝統)を受けついだ。 そののち十七世山本太玄和尚が、玄峰にあとの復興をたくし、各地の荒廃した僧堂をめぐり、再興に従事していたころ、遷化(せんか)(亡くなること)した。 ために山本玄峰は跡を嗣(つ)いで住職につき、その才覚をいかして雪蹊寺の本格復興につとめた。 復興を完全にはたしたのち、雪蹊寺住職を後進にゆずり、師のあとを継ぎ、全国をめぐって修行をつづけ、龍沢寺(りゆうたくじ)、松蔭寺(しよういんじ)、瑞雲寺(ずいうんじ)など白隠(はくいん)慧鶴(えかく)の臨済宗の古刹(こさつ)を再興した。 そののち大正15年(1926)からアメリカ、イギリス、ドイツ、インドなど諸外国への訪問をおこない、「禅の心」を世界に広めるという先駆的な業績をこのしている。 山本玄峰が世界でつたえた「禅の心」とは、 人々は過去の習慣にしばられ、未来に心をうばわれ、 いつも「今」を忘れてくらしている。 日々の心配ごとや悩み、怒りにとらわれ、今ここでの人生の不思議をしっかりと見つめることを忘れている。 「念」とは今を思う心のことである。 フォーゲットフルネス(自己の心を忘れる)のくらしから、 マインドフルネス(念じて気づく)の生活をすることで、輝いて生きることができる。 この今こそが、すばらしい一瞬だと気づく。 生きとし生けるものすべてが、「幸福」へ歩んでゆくためには、「理解と愛」が必要となる。 「気づき」とは人を理解することで、人の願いや苦しみを理解したときに、そこから本当の愛(慈悲(じひ))がはじまる。人をいつくしむ心こそ、自分が幸福にいきる条件となる。この諭しは、世界の人々に大きな影響をあたえた。 山本玄峰禅師 帰国後に推薦をうけ、臨済宗(りんざいしゆう)妙心寺(みようしんじ)派の管長(かんちよう)(一宗一派を管轄する長)となり、のちに管長を辞して龍沢寺の住職となっている。 物ごとに執着しない自然体の生き方が尊敬をうけ、多くの政治家からは、心眼を開いた禅師(ぜんじ)としてうやまわれた。終戦時には鈴木貫太郎、吉田茂の心の師となっている。 一九四五(昭和二十)年四月、山本玄峰老師は鈴木貫太郎枢密院議長(元海軍大将、侍従長)に会った。
鈴木貫太郎の「合いたい」という希望を受けて、赤坂の内田博士(眼科医で玄峰の信者)の邸宅に出かけて行ったのである。そこで玄峰と鈴木の間に交わされた会話は次のようなものであった。
峰老師は鈴木貫太郎に 「一刻も早く戦争を終わらせなければなりません。負けて勝つのです」と献策、 鈴木は1週間後に首相に就任。八月十二日に鈴木首相の使者が訪れ、終戦の決意を伝えたのに対して、 「これからが貴下の本当のご奉公。忍び難きを忍んで、行じ難きをよく行じて、国家の再建に尽くしていただきたい」との書状を托した。 また終戦の詔勅(しようちよく)(天皇が意思を表示する文書)、 「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍(しの)び・・ 」 の文言(もんごん)を進言(しんげん)し、採用されている。 さらに戦後の憲法草案のとき、「天皇を国家の象徴」と定義する(象徴天皇制)を発案し、これも採用されている。 あるとき山本玄峰老師は、座禅について問われて以下のように諭している。 坐禅を行(ぎょう)ずるといっても、何もそう七面倒くさいものではない。 形よりも心、心さえそれにあれば、行住坐臥、日常茶飯みなことごとく坐禅である。 仏壇がなくとも、どこにも仏さまはござる、経文がなくとも、どこにも経文は満ち満ちている。 坐禅堂に坐るばかりが禅ではなく、床の間に向かっても坐禅、机に向かっても坐禅、汽車、電車に乗っても坐禅、そういうようにとらわれる処がなければ、寝床の上でも立派に坐禅はできる。
むかしから、茶禅一味、剣禅一味などともいわれておるが、そんなものばかりではない。
喫茶、喫飯皆これ禅定の手段ならざるはなく、語黙動静(どもくどうしょう)、しゃべるのも、だまるのも、うごくのも、うどかないのも、皆これ禅、われわれの日常生活はすべてこの中に在る。 1961年6月、静岡県三島市(みしまし)の龍沢寺で96歳をもって断食、遷化(せんか)した。 葬儀には、外遊中の池田勇人首相の名代(みようだい)として、大平正芳官房長官などが列席した。山本玄峰和尚は、まさに行雲流水(こううんりゆうすい)がごく、物ごとに執着しない自然体の人生をおくった人である。十七世大玄和尚の教えの「心眼を開く」ことに成功した数少ない禅師(ぜんじ)であった。 ■禅の公案 十九世大玄和尚から教えを請うのも三日目となった。 きょうの茶室での教えは看話禅(かんなぜん)についてであった。 看話禅とは、禅宗における坐禅流儀の一つで、公案(こうあん)を重視し理解することで、悟りに至ろうとすることである。 公案とは、禅宗の修行者が、悟りを開くための課題として与えられる問題のことである。 禅の精神を究明するための設問であり、俗に「禅問答」ともいわれ、分別をもっては回答がみつからない。 前にもふれたが、現在の日本の臨済宗は、江戸時代に白隠(はくいん)慧鶴(えかく)禅師が再興したものである。 それまでとは異なり、公案に参究(さんきゆう)(参禅して探求)することで、見性(けんしよう)しようとする。見性とは、自己の本来の心を見極めることで、悟りに至る道となる。 白隠禅師は、自らの悟りの機縁(きえん)となった「隻手(せきしゆの)音声(おんじよう)」を、公案の第一に位置づけ、禅の修行者に必ず参究するようにさせた。 「隻手(せきしゆ)声あり、その声を聞け」 と問うのである。 隻手(せきしゆ)とは片手のことである。双手(そうしゆ)(両手)を打ちあわせると音がする。しかし隻手(せきしゆ)(片手)にも声がある。その音声(おんじよう)を聞け。それを答えよ、という課題である。 公案は、ほとんどが無理会話(むりえわ)といわれている。片手では音が出るわけがない。 片手の音声を聞けという課題は、とうぜんと思ってきた思慮分別からはなれ、理屈や常識を超えたものと対峙(たいじ)することを要求している。 おおくの巡礼者は、本堂で般若心経(はんにやしんぎよう)を読経する。その経文(きようもん)のなかに 「不生不滅(ふうしようふうめつ)。不垢不浄(ふくうふじよう)。不増不減(ふうぞうふうげん)。無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)。」 の文言(もんごん)がある。意訳すると、 「生まれることなし、滅(め)することなし。清らかなものなし、汚れたものなし。増えることなし、減ずることなし。眼も耳も鼻も舌も身も意もなし。」 般若心経では、一切の対立観念を否定し、完全無分別の世界を示している。 眼でものを見、耳で音を聞き、鼻で匂いを嗅(か)ぎ、舌で食べものを味わい、意で心を動かす。この六根(ろつこん)(六つの感覚器官)から、あらゆる妄想が生まれてくる。だからそれらのものを否定する。 妄想から放(はな)れることで、これまでの思考や分別を払(はら)いさる。 分別から放(はな)れることができたとき、大いなる心の自由をえて、すべての迷い(こだわり)から解放される。すなわち悟りをうるというのである。 「心眼を開く」ことで、在(あ)りのままに物ごとを観(み)る(全体を知る)ことができる。 心の迷い(こだわり)からはなれることで、しかるべき答えが、おのずと見つかるという。隻手(せきしゆ)(片手)にこだわりつづけると、分別からはなれることができない。 一切の対立観念を否定し、妄想をうみだしている六根(ろつこん)(六つの感覚器官)から放(はな)れることで、完全無分別の世界にたどりつく。 白隠禅師は、はじめて「悟り」をえたあとの修行が、さらに重要とし、悟りをくり返すことで真の世界を悟るにいたるという。白隠禅師は生涯に36回の悟りを開いたという。 こうして大久保太郎は、三日間をかけて禅の心を教えられた。 古希(こき)といわれる70歳に達してはじめて、いかに思慮分別にふりまわされてきた人生であったか、を諭されたのである。十九世大玄和尚はさらにいう。 岡本芳吉は七度目の巡礼のとき、雪蹊寺山門で行きだおれとなり、当時の住職の十七世山本太玄和尚にたすけられた。それが機縁(きえん)となり、のちの山本玄峰和尚となっている。 偶然にも大久保太郎も七度目の巡礼で、雪蹊寺の十九世和尚に声をかけられている。 これこそまさに機縁ですな。 と十九世大玄和尚がいう。機縁とは、きっかけ、機会という意味だけでない。 仏の教えを受ける衆生(しゆじよう)の能力(機)と、衆生と仏との関係(縁)をいう。 十九世大玄和尚のさとしを受け、雪蹊寺で得度し修業をはじめることになった。 雪蹊寺で3年ほど十九世和尚の下で修業したのち、京都の本山である妙心寺で5年修業し、玄空(げんくう)の法名を授けられた。高齢の十九世和尚の隠退にともない、78歳で雪蹊寺の住職となった。いかにして仏門に入ったかを語ることで、「禅の心」を阿比留健太に伝えたのである。 茶室で食事を供され、話は深夜におよんだ。 ただ、阿比留健太がどのような迷いをもっているか。一切問わなかった。 阿比留健太も、それを口に出す必要を感じなくなった。 自分の今の心を、静かに見つめる時間をつくること。 自分の今の心を見つめることで、「気づき」がおきる。「気づき」によって、人の願いや苦しみを理解したときに、そこから本当の愛(慈悲(じひ))がはじまる。人をいつくしむ心こそ、自分が幸福にいきる条件となる。 阿比留健太にとって、これ以上の言葉は必要がなかった。 pageTOP ■Top Pageへ |