松本城は、
戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏が、
支城の一つとして深志城を築城したのが始まりといわれている。
現存する五重六階の天守の中で日本最古の国宝の城である。
甲斐の武田氏による侵攻で、天文19年(1550年林城・深志城などが落城し、
信濃守護・小笠原長時は追放された。
武田氏滅亡後、越後の上杉景勝に擁立され、小笠原洞雪斎が奪還した。
さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。
松本城は、標高590mの盆地内平地に築かれた平城で、
城郭を囲む三重の水堀と、土塁・石垣、出入り口や土塁の上に櫓や城門などを備え
三の丸内に武士を居住させて、防備を固めていた。
典型的な平城で、本丸・二の丸・三の丸ともほぼ方形に整地されている。
南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、
さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。
これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城。
5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、
東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。
大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は、2重目南北面と
3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。
大天守は、構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、
2重目の屋根は天守台の歪みを、入母屋で調整する望楼型の内部構造を持ちながら
外見は入母屋を設けず、強引に寄棟を形成している。
各重の屋根の隅は様々な方向を向いており、松本城天守の特徴のひとつとなっている。
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