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琉球紀行3


       沖縄本島南部    摩文仁の海岸

       

      

    琉球紀行  三章


    目次
 琉球国の祖先  最後の国王  琉球帰属問題  日清戦争
侯爵尚泰  華族令  沖縄県知事  ゆいレール 
道の駅糸満  ひめゆりの塔  姫百合学徒隊   慟哭の手記 
無差別攻撃  平和創造の森公園  沖縄平和祈念堂  平和の丘 
沖縄戦跡国定公園  沖縄平和祈念公園  国立沖縄戦没者墓苑  平和の礎 
摩文仁の丘  牛島満  ぶくぶく茶  ハブ酒
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琉球人の祖先

 さて、琉球人の祖先にふれたい。
 琉球王国というが、当時の名称は琉球國(ルーチュー・クク)であった。ついでながら韓国語でも、國はクックという。この「琉球」の名の由来からふれたい。
[リュウキュウ]という名は、七世紀の中国の史書『隋書』に、「東夷流求國」という記述が最初らしい。
 610年に「隋」に服属した国として「流求國」の記述があり、これに由来するという。
 東夷とは、中国(隋)から東にある、野蛮な國という蔑称からきている。
 ただ、この[流求國]が、今日の沖縄をさしたものではなく、今日の台湾をさしたのであろうとされている。のちに明国では、[大琉球]を沖縄諸島、小琉球は台湾をさしていた。明との交易が本格化した14世紀頃には、沖縄周辺の呼称として自らも「流求國」と名乗った。 この「琉球國」という国号は、1872年の江戸幕府による琉球藩設置(琉球王国の廃止まで用いられ続けた。

        

ところで、琉球を統一した初代王として、面白い説がある。
琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもらさうし』、『鎮西琉球記』『椿説弓張月』などでは、12世紀、源為朝(鎮西八郎)が、鎮西(九州平定)を名目に、九州で威を振るい、保元の乱では崇徳院側について奮戦したが敗れ、琉球の地に逃れた。その子が琉球王家の始祖「舜天」になったとしている。
 「舜天」は、琉球の地が乱れ群雄割拠していた時代に、善政を敷き天下を統一した 浦添の按司であったとされている。
 源為朝は、源義経と同様に伝説的人物で、平安時代末期の武将で、源為義の八男である。
 大男で腕力が強く弓の名手で、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎為朝を称した。
 保元の乱で敗れた為朝は、伊豆に流刑となったが、その途上に船が嵐に遭い、沖縄本島の今帰仁に漂着し豪族となった、というものである。
 [日本史では、源為朝は伊豆大島へ流されたが、そこでも国司に従わず、伊豆諸島を
事実上支配した。やがて追討軍が派遣され、自害したとされている。

          
               第二尚氏初代・尚円王

 真偽は不明だが、源為朝の子が「舜天」となった、と琉球王国の正史として扱われている。『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年の仕置書(令達及び意見を記した書)で、「琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたから、有形無形の名詞はよく通じる。話し言葉が本土と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからである」
「王家の祖先だけでなく、琉球の人々の祖先が、日本からの渡来人である」と記している。 琉球王府摂政の羽地朝秀の時代は、薩摩藩の支配下にあっ把時代であり、屈辱の時代でもあった。このため、あえて琉球人の祖先は本土から来たと強洲することで、民族としての誇りを持たる「政治的な意図」があったかもしれない。

         

 首里城の稿と重複するが、折口信夫の説によると、[第一尚氏]の出自は、「肥後国」の八代を拠点としていた名和氏の一部が、南北朝の争乱のとき戦いに敗れて琉球本島に渡り、肥後佐敷に因んで、この地を佐敷と名付け、次第に勢力範囲を広げ、のち第一尚氏になったのではないかと推測している。
 いずれにしても、最近の「遺伝子研究」で、沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。
琉球王の先祖が誰であるかの詮索はともかく、多くの日本人の血が流れているのは間違いが無いであろう。
それと共に、中国大陸や、東南アジアとの交流か深く、当然これらの地域の人々との混血もあったはずである。まさに、チャンぶる!な國であると言える。




最後の国王

 本土で明治維新か成立し、廃藩置県か施行され、薩摩藩は鹿児島県に移行された。
 翌年の1872年(明治5年)、明治政府の強制で「琉球藩」が設置されることになった。
 薩摩藩の支配下であった琉球王国を解体し、明治政府の律令下に置く必要があった。
 この手続きのため、一方的に「琉球藩」とし、その後に廃藩置県を行い最終的に「沖縄県」へ移行する法的手順を踏むことになった。
 ついでながら、沖縄の名の由来である。
 琉球人は自らを「ウチナー」と称していた。薩摩藩の役人には、これが「オキナー」と聞え、幕府に文字で「おきな」と届けた。時の幕府の宰相新井自石がこれに、沖縄という漢字で表記したのが始まりとされている。
 ともかく、こうした経緯で琉球王国を消滅させ。「琉球藩」とした。これを明治政府の「第一次琉球処分」という。しかし、琉球国王の「尚泰」が、一方的な明治政府の「琉球処分」に反発し、政府の度重なる勧告を無視し、「清国」への朝貢貿易を続けた。

               
                  琉球国王「尚泰」

 琉球王国は、元々中国大陸の「明国」や、その後の「清国」と冊封関係にあった。
 その保護に基づき、貿易によって経済を維持してきた。
 形としては、清国に属する琉球王国として、その政体を維持してきた。
ところが、その貿易の利権を目当てに、薩摩藩に武力で侵略された。その薩摩藩の意向で「清国」との朝貢交易を続けてきたから、両属関係にあったのである。
 明治政府の琉球処分をめぐって、日清間でその帰属を巡って政治問題が起こっていた。
 このため、一方的な明治政府の「琉球処分」に、「尚泰」は服従しなかったのである。その背後には、強大な軍事力を有していた「清国」が控えていたからであろう。
 ところが、日清間で政治的な事件が勃発した。
 1871年(明治4)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送するため帰途についた「琉球御用船」が、台風による暴風で難破した。難破した船には、役人と船員ら69名が乗っていた。漂流の後、台湾南部に漂着した。
 漂着した乗員66名は、台湾先住民のパイワン族(排湾族)に救助を求めたが、逆に拿捕され集落へ拉致された。

         
              台湾のパイワン族(排湾族)

 先住民との話しが通じず、拘束されて不安を感じた遭難者達は集落から逃走を図った。
 ところか、ハイフン族はその報復を恐れてか、逃げた者を次々に捕らえ、54名を斬首した。12名の生存者は、偶然、漢人の台湾移民によって保護され、「台湾府」により、福建省の福州経由で宮古島へ送り返された。 台湾府とは、漢人の台湾移民の国名である。 一方、パイワン族は、台湾南部に住む原住民で、インドネシア語系に属する高砂族の一種族である。
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琉球帰属問題

 明治政府は、「琉球は日本国の領土」であることを、清国に明確に示す必要から、台湾府の宗主国である清国に対し、琉球島民殺害事件の賠償などを求めた、が、清国政府は管轄外として拒否した。
 明治政府は、国内的には征韓論などで沸騰しており、事件はその後、三年間も放置された。その後、征韓論を封じ、廃藩置県によって失業した士族の不満のはけ口として、1874年(明治7年)に台湾出兵を行った。
   
        
          日本海軍旗艦  龍驤(りゅうじょう)

 これは明治政府が行った最初の海外派兵である。
 明治政府の台湾出兵に、清国側は直ちに抗議し撤兵を強く求めた。このため明治政府は、全権大使として大久保利通を北京に派遣した。
 清国との交渉は難航したが、結果的にはイギリスの仲介もあり、清国は日本の出兵を「義挙」と認め、50万両(テール)の賠償をすることで琉球島民殺害事件については決着した。これは、琉球の帰属問題で、日本に有利に働いた。
 しかし清国は、琉球の日本帰属を正式に承認したわけではなかった。明治政府は翌1875年、「琉球藩主」の尚泰に対し、清国との冊封関係と朝貢関係の廃止と、明治年号の使用などを命令 した。
 しかし琉球王としての「尚泰」は、体制の維持を目的に、清国との朝貢関係存続を継続する意向を表明した。清国でも、琉球の朝貢禁止に抗議するなど、外交上の決着はつかなかった。
尚泰は琉球王として、その後も清国への朝貢を続けた。
 ところが、1879年(明治12年)、明治政府は、姑息な手段を講じた。
 琉球藩主の尚泰に、東京に藩邸を与えると称して東京へ呼び寄せた。
 尚泰の留守の間に、内務官僚・警察隊・熊本鎮台分遣隊を派遣し、鹿児島県へ編入することを強行し、同年中に沖縄県を設置したのである。
 これに反発し、宮古島では士族の反乱が起き、県役人殺害事件などが起きたが、沖縄県の警察官によって、これらを鎮圧した。これを「第二次琉球処分」という。
 一方、清国はその後も日本に再三抗議し、八重山への出兵を検討したが、アメリカ元大統領の仲介もあり、1880年北京で日清の交渉が行われた。
 この時、日本政府は、沖縄本島を日本領、八重山諸島と宮古島を中国領とする妥協案と、「日清修好条規」に、中国内での日本人の通商権を追加する案を提示した。

      
          日本の琉球分割案


日清戦争

 しかし清国は、当時の世最新の「北洋艦隊」を有しており、軍事的優位を背景に、強硬な意見を貫いた。
 二島だけの領有を望まず、二島を琉球国に返還した上で、琉球王国を復興し、清国に併合することを望んだ。また分島にたいする琉球人の反対もあり、清国は調印せずに終わった。

       
          黄海海戦で清国の北洋艦隊を撃破した日本海軍

 ついに朝鮮半島をめぐる「日清戦争」が勃発し、黄海海戦で日本海軍が北洋艦隊を撃滅し日本側が勝利した。 1895年(明治28年)3月、清国の全権大使李鴻章が門司に到着し、日清講和条約が調印された。こうして、清国と朝鮮国の宗藩(宗主・藩属)関係を解消し、清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い、日本に最恵国待遇を与える等が決まった。
 また、琉球列島も日本領土であることを清国に認めさせ、国際的にも琉球帰属問題は決着した。




侯爵尚泰

 ところで、最後の琉球国王となった、第二尚氏王統の第19代尚泰王の、その後の身分のことである。
 琉球王国は消滅し、尚氏一族は首里城の屋敷の一つ中城御殿に移った。
 その後、華族令の発令に伴って、尚泰は侯爵となった。他の元大名との石高の比較からは、尚家は伯爵に相当するが、元「国王」という敬意により、特別に侯爵に叙せられた。
 元琉球国王に相応しい、破格の経済待遇を与えられたといえる。また、尚家の分家も男爵に叙せられた。
これら琉球藩設置から、沖縄県設置までの一連の流れを、琉球処分という。

             
             最後の琉球国王 第二尚氏王統の第19代尚泰王 

 ただ華族令にもとづき、華族として明治政府より東京在住を命じられた。
 尚泰は、1901年(明治34年)、59歳で没している。
 その墓所は、那覇市の琉球王家の陵墓・玉陵(たまうどうん)にある。なお、尚家
は、現在も沖縄に存続している。




華族令

最後の琉球国王「尚泰」が、特別に「侯爵」に叙せらだことは既にふれた。ついでに明治政府の華族令についてふれたい。華族令とは、公卿・諸侯など家格、勲功に基づき授爵し、国家に勲功ある者も華族に列した法令のことである。位は、元々古代中国の「周に」さかのぼり、諸侯の封号として爵位が授けられ、その慣行は清代まで続いた。
 明治維新の日本での華族制度は、旧組織の温存と論功行賞として用いられ、五爵といい、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵かある。

         

叙爵内規では、「公爵」は、臣籍になった皇族、旧摂家(公家の頂点であった五家)、徳川将軍家と特に勲功ある者。合計十一家が公爵に叙せられた。
 「侯爵」は、旧清華家(摂家に次ぐ大臣家)、徳川旧三家、十五万石以上の大藩の知事、旧琉球藩王、国家に勲功ある者。合計二十四家が侯爵に叙せられた。
 「伯爵」は、大納言以上の旧堂上家、徳川旧三卿、五万石以上の藩主知事、国家に勲功ある者。(堂上家は御所の殿上間に昇殿する資格の家柄)合計76家が伯爵に叙せられた。
 「子爵」は、大納言以下の旧堂上家、五万石以下の藩主知事、国家に勲功ある者。
合計327家が子爵に叙せられた。
「男爵」は『御三家の家老、大名・公家の分家、寺社門跡と国家に勲功ある者。合計74家が男爵に叙せられた。

        

 具体的には、「公爵」で偉功ある者として、三条家、岩倉家、薩摩藩主島津忠義、島津久光、毛利家が公爵に叙せられた。
「侯爵」で、偉功ある者として琉球藩主「尚泰」、木戸孝允、大久保利通が侯爵に叙せ
られた。「伯爵」で偉功ある者として、西本願寺、東本願寺の世襲門跡(管長)家の両大谷家、他に伊藤博文、黒田清隆、井上馨、・西郷従道、山県有朋、大山巌等の維新の元勲達が伯爵に叙せられた。
明治維新によって、旧制度で特権を維持してきた階級が失業する事になった。
 このため、天皇家を除く上級公家や幕府体制での藩主と、維新の功労者に対し、特に爵位を授け、爵位相当の一時金と「金禄公債」が支払われ、その生活を保障した。

        

金禄公債は、旧制度の家禄を基本に元金が決められ、その元金の利息として年5%の利息か支払われた。
 元金は五年間据え置き、六年目から毎年抽選で元金を一括支払った。
元金を一括支払い受けた場合は、金禄公債の権利が消滅する。残りは、30年間で順次償却する制度であった。
 総数512華族平均で、元金は6万527円で、その年間利息は3,026円であった。
 明治期中頃の、教員の初任給が10円の時代である。当時の3千円を、現在の教員の初任給で単純に換算すれば6千万円相当となる。
 福沢諭吉は、明治33年の叙爵を断り、5万円を一時金で支給されている。単純な換算では、現在の一億円か若しくは数千万円に相当する。
 また明治維新に偉功ある者で、叙爵された者には、伯爵35,000円、子爵20,000円、男爵10,000円の金禄公債が支給されている。
 当時の明治維新は旧体制を破壊はしたが、旧体制側に大変な経済的な支援を施している。明治維新というのは、このように旧体制への配慮が大きく、フランスの市民革命とは全くその様相が異なっているのである。
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沖縄県知事

 琉球処分によって「沖縄県」が成立した。が、東西で約千㎞、南北で約400㎞に及ぶ広大な県域を持っており、49の有人島と160もの無人島がある。
 南国の自然風土のなかで、琉球王国の統治か500年と良く、王府独特の政治体制や、租税の仕組み、琉球文化と生活慣習が本土とは全く異なる。
 明治政府の律令体制に強引に組み入れはしたが、江戸時代から幕藩体制下にあった「藩」が、廃藩置県で「県」という新行政組織に変更されたように、簡単に移行するのは困難である。
 こうした背景で、初代から数代の県令(のちの知事)には、特別な配慮で派遣されている。初代は、子爵で佐賀藩の支藩であった鹿島藩最後の藩主であった鍋島直彬が任命されている。門地を重んじる沖縄諸島の民心をふまえ、華族の権威を利用し、琉球処分から間がない沖縄県政の確立を企図したものであった。
 鍋島直彬は、明治政府の方針にしたがい、土地・租税・地方制度などの旧制度をすべて継承する「旧慣温存」を表明し、勧学と勧業を重点施策に掲げ実行に移した。

             
              初代沖縄県知事 鍋島直彬

 旧藩主であった鍋島直彬は、新県庁職員に、三十数名の鹿島藩の佐賀出身者で要所を占めさせ、ともかくも沖縄県の行政組織の基礎作りに貢献した。
 従来の特権を有していた鹿児島系商人と対立し、また琉球士族らの反抗もあり二年ほどで辞職している。
 二代目県令の上杉茂憲も、出羽「米沢藩」の第13代で最後の藩主で伯爵であった。
 明治維新後にイギリスに自費で留学し、帰国後に沖縄県令となっている。

              
               二代沖縄県知事 上杉茂憲
 
 上杉茂憲は、沖縄県の現況を把握するため、ほぼ全島を視察し、直に住民から実状を聞きとっている。
 視察時の記録をまとめた「上杉県令巡回日誌」は、当時の沖縄全県の世情・風俗を知る
上での重要な史料となっている。こうした背景で、産業発展には人材育成が要として1882年に五人の第二回県費留学生を、東京に留学させた。沖縄県は旧王族、士族層の不満を抑える目的で、琉球時代からの旧制度温存が政府方針となっていた。
 しかし改革のためには旧制度温存を打破する必要があると考え、上杉茂憲は上京し上申書を提出した。が、政府方針に反し急進的過ぎるとして、二年で県令を解任された。それでも、離任時には1500円の私財を、奨学資金として県に提供している。現在の価値に換算すれば、数千万円以上という大変な金額である。

 明治政府は、強引とも言える琉球処分で沖縄県を設置した経緯があり、沖縄県令に、 かっての藩主を県令に据えるという、大変な気遣いをし、ゆるやかに本土の明治政府の律令体制に組み入れた。
 ただし、三代目以降の県令には、実務型の人物を派遣している。
 三代目の県令の岩村通俊は、異色の実務型の人物である。 土佐藩の岩村英俊の長男として生まれ、酒井南嶺の下で学問を学び、岡田以蔵の下で剣術を学んでいる。
 明治2年(1869年)に政府に出仕し、北海道の開拓使判官として札幌の開発に関与し、その手腕を見込まれ、明治6年(1874年)佐賀県権令(副県令)に任命され、同地で治績を挙げた。その後の鹿児島県令でも治績を挙げ、問題のある沖縄県令に任命された。
沖縄県令として功績をあげ、後に北海道庁が設置され、初代長官に任命されている。




ゆいレール

 博物館で沖縄の歴史に深入りし過ぎた。予定では10時頃に博物館を出発するところが、11時30分頃に博物館を出た。次の目的地は、日本最南端の「道の駅糸満」である。
市街を走ると、モノレールの「ゆいレール」の駅があった。
 沖縄都市モノレール線で、那覇空港駅と首里駅を結ぶ沖縄都市モノレールである。
 那覇空港から、漫湖(干潟)を渡って旭橋から、那覇市の繁華街の久茂地、牧志を抜け、国際通りを跨ぎ、首里に至る全長約13㎞の跨座式のモノレール線であり、現在の沖縄での唯一の鉄道である。
 「ゆいレール」の名は愛称で、「ゆい」は琉球語の「ゆいま-る」(村落共働の意)の「ゆい」から取られたものらしい。沖縄県の交通手段は。現在、自家用車、タクシー、バスが中心であり、そのため那覇都市圈では渋滞が悪化している。 そこで、国、沖縄県、那覇市と、沖縄都市モノレールが一体となって建設を行い、2003年、戦後初の鉄道となっている。

       

 昨夜は、ホテルから、この「ゆいレール」に乗って国際通りに出て食事の予定が、無精してホテルで食事したから、乗りそびれた。
 沖縄本島では、大正時代に軽便鉄道や路面電車、馬車鉄道といった数々の鉄道路線が開業し、昭和初期に入ると、沖縄電気の路面電車と糸満馬車軌道が、バスとの競争に敗れて廃止された。
 残った沖縄県営鉄道と、沖縄軌道も太平洋戦争末期に運行を停止し、鉄道施設は空襲や地上戦によって破壊された。
 戦後、アメリカによる統治下では、軍用道路の整備が優先され、鉄道は復旧されることなく、そのまま消滅してしまった。





道の駅糸満

 みちの駅糸満を目指しだのは、そこで食事ををするか、弁当を購入する目的であった。
 平和記念公園などを訪ねる予定ながら、適当なレストランを見つけることができず、道の駅を目指したのである。 見晴らしの良い公園で、弁当を食べるのもよいかと考えていた。
 事前に調べると、2009年9月にオープンしたばかりで、日本最南端に位置し、四つの施設からなる大規模な道の駅とあった。

     

 「沖縄県内最大9000坪の敷地内には、新鮮な農産物や海産物の直売所、お上産品が揃う物産センター、リーズナブルなカフェ、惣菜店など魅力的なお買いもの施設が勢揃いしています。」とあった。
 店内に入ると、お土産売り場と、総菜店と大衆食堂のような店があった。食堂は、洒落た感じではなく、食事をする気はになれず、隣の農産物直売所を覗くと、弁当売り場があった。品数も多く、結局弁当を購入した。




ひめゆりの塔

道の駅を出て暫く走ると、すぐに「ひめゆりの塔」があった。
 その周辺には、多くの土産物店が軒を連ね、食堂もたくさんあり、駐車の呼び込みまであり、驚いた。
「ひめゆりの塔」は有名ながら戦争遺跡だから、観光客が押しかける場所とは想像していなかった。しかも、周辺の各店の駐車場は有料かと思いきや、無料でありまた驚いた。 駐車して買い物や食事をして貰うための駐車場であるらしい。
 大きな土産物店で食堂が併設されている店に車を入れた。買い物は後にして、まず見学する事にした。
 ところが、入り口には仏壇花まで売られていた。つい花でも手向けようと、妻が花を買ったが、ここは墓所ではないはずだ。
ところで、「ひめゆりの塔」という名から、高い記念塔が建っていると思い込んでいた。
 が、それらしい高い塔が見当たらず、犠牲となった人々の名を刻んだ石板の記念碑が建っていた。これが有名な「ひめゆりの塔」だと思い、記念撮影した。 ところが、後で「塔」と名は付いているが、実物は写真のように高さ数十㎝ほどの小さな慰霊碑が建っていた。

     

 この事情は、建立されたのが終戦直後の物資不足の時代であり、まだ米軍統治下であった時代に建立されたという事情による。
 この種の慰霊碑は、沖縄本島には数多くあり、最も早く建立されたのは、ひめゆりの塔と同じく、「金城夫妻」が、米須(こめす)霊域に建てた「魂魄の塔」らしい。
 しかし、1949年に石野径一郎が、「ひめゆりの塔」に関する逸話を小説化し、さらに同名の映画が作られて有名となった。
 沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、「ひめゆりの塔」は現在でも見学する人が絶えない。
「ひめゆり」慰霊碑の名称は、当時の旧陸軍病院「第三外科」に、学徒隊として従軍していた「ひめゆり学徒隊」に由来している。

       

「ひめゆり」の名は、学徒隊員の母校である「沖縄県立第一高等女学校」と[沖縄師範学校女子部]の校誌名に由来している。[沖縄県立第一高等女学校]の 校誌名が「乙姫」であり、「沖縄師範学校女子部」の校訪名が「白百合」であったから、両方の名をとり『姫百合学徒隊』と名付けられたという。
 戦後に、仮名で「ひめゆり学徒隊」と記載されるようになり、これが定着したらしい。
 このため、植物のヒメユリとは関係がないが、記念碑にはヒメユリの装飾が施されている。
 ひめゆりの塔は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院「第三外科」が置かれた地下壕の跡に立つ慰霊桙である。その奥に「ひめゆりの塔記念資料館」があった。
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姫百合学徒隊

戦争末期の1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒回222名と、教師18名の総計240名が、南風原の沖縄陸軍病院に看護要員として動員され従軍した。
 しかし、次第に米軍の艦砲射撃が激しくなり、日本軍の防衛戦が前田高地附近にまで撤退した。4月24日頃には、山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになった。
5月25日には、陸軍病院そのものの機能が失われ、やむなく重傷の負傷兵や学徒を置去りにし、南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜むことになった。

      

 この時、負傷兵を収容する地下壕が不足し、歩ける負傷兵は原隊復帰が命じられ、陸軍病院としての組織的機能は失われた。 沖縄本島に上陸した米軍が本島南部にまで迫り、戦局か絶望的になり、6月18日、「姫百合学徒隊」は解散を命じられた。
 しかし、すでに地下壕から出ることは、ほとんど死を意味した。
最も被害を受けたのは「第三外科壕」の学徒隊である。第三外科壕は、6月19日朝、手榴弾などの攻撃を受け、地下壕にいた96名のうち、87名が死亡した。

      

 さらに壕の生存者8名のうち三人は壕から脱出後に死亡した。結果として、学徒隊のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに生徒5名だけであったという。
第一外科壕、第二外科壕は、米軍の攻撃前の6月19日未明までに地下壕から脱出した。
 しかし、これらの学徒隊もその後の激しい砲撃で、多くが死亡した。
 職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名である。このうち「解散命令」以後に死亡したのは、12名である。
 さらに判明しているだけでも47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっている。
戦後に、戦死した学徒の親であった金城和信氏によって、学徒が死亡した地下壕が発見されている。戦後、米軍により居住地区に指定された真和志村(現那覇市中央部)に住む人たちによって遺骨が集められ、慰霊碑が建てられた。     

 なお、ひめゆり学徒隊以外にも別の学徒隊があり、県立首里高等女学校の「ずゐせん学徒隊」などが有名である。
 ここれらの学徒も、ほぼ同様の運命をたどり、それぞれの名にちなんだ慰霊碑が建てられている。
「ひめゆりの塔」が特に有名なのは、石野径一郎の小説が、6本も映画化されたからである。以下はその映画の概要である。
  東映・1953年。今井正監督。
  大蔵・1962年作品。小森白監督。
  日活・1968年。舛田利雄監督。
  芸苑社/東宝・ 1982年。今井正監督。
  東宝・1995年。神山征二郎監督。
  エイシア・2007年。柴田昌平監督。




慟哭の手記

 記念資料館の中に、ひめゆり学徒隊の生存者の手記の閲覧台があった。
 手記を拡大印刷し、汚れ防止のラミネートされた大判のものが何枚か閲覧できるように綴じられていた。その手記をひとつだけ読んでみた。

    

 その概略の内容を記しておかねばならない。
『水を汲みに都志さんと一緒に地下壕を出て、坂を下り始めたら、後ろで大きな砲弾の炸裂音がした。私は風圧で倒れたが、後ろを振り返ると、仲良しの都志さんが、下半身を飛ばされて倒れていた。小さな声で助けて・・。
 私は必死で駆け寄り顔を抱き寄せた。
 しかし泣きながら、何もしてあげることが出来ないまま、私の腕のなかで、私をひと目みて都志さんは亡くなった。
 呆然としていると、地下壕の方から、「戻ってきなさい」と、声が聞こえた。
 立ち上がろうとしたら、その地下壕に砲撃が命中して炸裂した。無我夢中で、また坂を転げるように下りて、私だけが助かった。ごめんね。私だけが助かって。
ごめんね都志さん」
読んでいるうちに涙があふれてしまい、急いで手記の閲覧台から離れた。
可憐な少女達が、こうして無謀な戦争の犠牲者となり、殺されていったのである。今は、黙祷するしかない。




無差別攻撃

 米軍は、宜野湾に上陸した後、沖縄戦での最大の激戦と言われる嘉数高台での攻防戦で大きな犠牲を支払った。 特に、高台の反対側に設けられた、地下壕に隠蔽した重火器で、戦車を破壊され、歩兵隊を分断され孤立するなどし、結果として退却を余儀なくされた。
 このことは、嘉数高台の稿ですでにふれた。
 米軍はこの苦い経験があり、日本軍の地下壕に対して、恐怖心を抱いたらしい。こうした経緯から、その後、那覇や首里など攻め落とし、終盤の沖縄本島南部地域の糸満方面での戦いで、徹瓜した地下壕の攻撃を行った。

      

  元々沖縄守備の日本軍主力の32軍は、「首里攻防戦」を沖縄決戦としていた。このため、南部地域の住民は、そのまま居住地から避難していなかった。
 沖縄本島北部へは、中部地域の民間人が軍の要請で北部に避難していた。
 沖縄本島の中部の宜野湾に上陸した米軍は、沖縄本島を分断する形となった。このため、北部地域の民間住民と、中部地域から北部地域に避難した民間人を、米軍の占領地域として管理下に置いて収容した。
 このため、南部地域の人々は、避難できずにそのまま居住し続けていた。
ところが、日本軍主力の32軍は、嘉数と首里攻防戦で大半の戦力を失った後、急遽、南部糸満の摩文仁の地下壕に、司令本部を移転した。
 首里の海軍司令部も、陸軍と糸満で合流する予定であったが、連絡の齟齬が生じ、一旦首里に戻ることになった。

       

 その後、米軍の攻撃が激しくなり、南部地域への移動が困難となった。
 6月6日、海軍司令部は大本営へ決別の電報を送り、大田中将は他の司令官と共に自決した。
 米軍は圧倒的に優勢な重火器を武器に、首里を占領し、着実に南部地域へ侵攻した。とくに、南部各地の高台などの塹壕や地下壕を徹底して攻撃した。
南部地域は、一般の民間人か避難出来ずに、軍と共に右往左往する事態となっていた。
 追い詰められて、一部では「集団自決」がおり、また集団投降などもあったらしい。
 陸軍では、民間人が投降することで、軍の動向が知られることを恐れ、「集団自決」を勧めたという形跡もあるらしい。     
 民間人は、軍の地下壕ではなく自然の洞窟に非難したが、米軍は識別が付かず、いわば無差別に攻撃した。このような状況下で、地下壕に非難していた野戦病院看護の「ひめゆり学徒隊」も、多くの人が米軍の砲火に倒れたのである。
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平和創造の森公園

 「ひめゆりの塔」を出て、気分を変え弁当を食べる見晴らしの良い所を探していると、右手の海岸方面に「平和創造の森公園]という表示を見つけた。
 行くと想像以上に広い公園があり、駐車場も整備されていた。海岸が見える見晴らしの良い草原で弁当を広げた。天候もよく、こういう野外で弁当を食べるのは、高級レストランよりも贅沢という気分になれる。
平和創造の森公園は、糸満市米須霊域の南側に位置する、面積22ヘクタールの広大な森公園であった。
 1993年に、天皇皇后両陛下を迎えて行われた、第44回「全国植樹祭」の会場として整備され、1998年に開園した公園という。

      

 糸満地区はすでにふれた通り、沖縄戦の最後の激戦地域となり、山容か変わるほど砲撃を受け、自然が破壊し尽くされた。この大戦で失われた自然をとりもどし、緑に親しみ、緑に憩い、緑に学び、平和への思いを新たにするばとして、植樹祭跡地を中心に整備が行われたという。
 広大な園内には、リュウキュウマツやフマギ、モンバノキ、ディゴなど多数の樹木が植えられている。糸満市米須霊域は、平和記念公園から2・5㎞ほどの南西の糸満市米須にある霊域である。
 霊域とされているのは、この地で多くの人々が戦争の犠牲者となり、域内には、各都道県の慰霊碑や、将兵自決の地下壕や慰霊塔などがあるからである。また、中心にある「魂魄の塔」は、沖縄各地に存在する戦争犠牲者の慰霊塔では最古のものとされている。
「ひめゆりの塔」でもふれたが、ひめゆり学徒の両親である金城夫妻が建立したのが「魂魄の塔」である。
 公園の施設としては、造林樹展示園、お手植えの木、多目的広場、噴水、展望台、水車小屋、東屋、池、草スキー場、遊具、マヤーガマ(沖縄戦のとき、山城集落の住民の約3分の1が避難していた洞窟)などかある。

       

 マヤーガマの他にもガマ(洞窟・地下壕)があり、第24師団の第一野戦病院として使われた壕で、学徒隊として従軍した、県立第二高等女学校「白梅学徒隊」の女学生が、ここで多数亡くなったという。この公園内に「白梅の塔」や「萬魂の塔」が建っている。




沖縄平和祈念堂

偶然見つけた「平和創造の森公園」で昼食を食べ、次の目的地の沖縄平和祈念公園を目指した。予定より遅れ、13時45分ころ公園を出て、国道331号線を走ると、十数分で沖縄平和祈念公園に到着した。
 広大な敷地であり、何処に車を駐車してよいか分からず、沖縄平和祈念堂を過ぎて、平和祈念資料館の近くに駐車した。
 とりあえず目指しだのが、公園中央にそぴえる時計塔を日指した。
 時計塔へ行くと、奥に七角形の灯台のような「沖縄平和祈念堂」が見え、反対側には大きなモニュメントが見えた。
 七角形堂塔が資料館だと思い、時間の都合で見学しなかった。

      

  調べてみると、資料館ではなく、沖縄平和祈念堂には、平和祈念像が安置され、さらに連作絵画の「戦争と平和」などが展示されているという。
 平和祈念像は、沖縄出身の芸術家山田真山画伯が、全戦没者の追悼と、世界平和を希う沖縄県民の心を表現するため、晩年の全生涯を捧げて制作されたものとあった。
 高さが約12m、巾が約8mの大きな彫像で、人間の祈りの姿を象徴した座像で、仏像ではないという。宗教や思想、政治や人種、国を超えて、すべての人が戦没者の慰霊と、平和を希求する心と姿を、合掌の形に表現したという。
連作絵画の「戦争と平和」は、堂内の壁面に飾られている。
「戦争と平和」は、国際画壇で活躍する、西村計雄画伯が制作した20点連作の絵画である。西村画伯は、東京美術学校卒で、藤島武二に師事したとあった。
 昭和53年に沖縄を訪れた西村画伯は、沖縄の暗い過去と、対照的な現在に伝わる素晴らしい文化、美しい自然、人々の温かい心に触れ、連作絵画の制作を決意したという。
 以来7年の歳月を費やし完成したこの絵画は、すべて沖縄を題材に描かれ、平和を願う沖縄の心が表現されているという。
 「戦争と平和」は、平和祈念像と調和して平和の象徴である芸術を通し、平和の尊さを訴えているという。




平和の丘

 時計塔から、広場の向こう端にあるモニュメントこそが、平和祈念公園の中心であり、戦没者追悼弍典がわれる「平和の礎」かと思い、見学してみたが、これは「平和の丘」というモニュメントであった。
 黒御影石製のアーチは、平和のくさびで、彫像の中心には琉球石灰岩の要石を、沖縄に見立てて配置されているという。下層部は、ガマ(自然壕)をイメ-ジしているらしい。

     

 下層部の奥に進むと、天井から「平和の光」が差し込む造りになっている。
 近寄ってみると、実に大きな造形物である。
 ところで「平和の礎」の認識に誤りがあり、結局この「平和の丘」の前の広場が、やはり戦没者追悼式典が行われるらしい。

      

 この彫像は、一般公募のデザインの中から、藤波耕司氏(福岡県)の案が採用されたという。
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沖縄戦跡国定公園

 ところで、広大な広場に立つ時計塔や「沖縄平和祈念堂」、「平和の丘」などは、すべて「沖縄平和祈念公園」にあると思い込んでいた。
 ところが、「沖縄平和祈念公園」を含む多くの慰霊施設は、「沖縄戦跡国定公園」という広大な国定公園地域の中にあることが分かった。
 沖縄戦跡国定公園は、沖縄県の沖縄本島南端部、糸満市と八重瀬町にまたがる、沖縄戦の戦跡と、自然景観を有する国定公園である。
 「沖縄戦跡国定公園」の広さは81.3平方km(陸域31.27平方㎞、海域50.03平方km)という広大な地域の国定公園である。

    

 戦跡としては唯一の国定公園であるという。
 1965年(昭和40年)、琉球政府立公園に指定され、1972年(昭和47年)の本土復帰に伴い、国定公園に指定された。
 公園内の戦跡は、沖縄戦の激戦地であり、また終焉の地でもある。
 1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍の攻撃により、首里(那覇市)にあった日本軍司令部は、この沖縄本島南端部(島尻)に撤退した。
狭い島尻には、南下侵攻する米軍から避難する一般住民と撤退抗戦する日本軍の軍人が混在し、混乱状態に陥った。
 日本軍による組織的抵抗は、6月23日に、司令長官牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより事実上終了した。
 アメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けた。
 沖縄戦跡国定公園には、多くの慰霊施設・慰霊碑・慰霊塔がある。その数は。主要なものだけでも100余にのぼるという。




沖縄平和祈念公園

糸満市の摩文仁地区にあるのが、沖縄平和記念公園であった。
 付近一帯は、「摩文仁の丘」とも呼ばれる。

    

 園内には、国立沖縄戦没者墓苑である「平和の礎(いしじ)」「黎明之塔」、日本各県出身地別の慰霊・平和祈念施設、式典会場や駐車場などの付属施設もある。
 公園に隣接して沖縄平和祈念資料館、沖縄平和祈念堂がある。





国立沖縄戦没者墓苑

国立沖縄戦没者墓苑は、18万余柱の遺骨か安置されている納骨・慰霊施設で、1979年(昭和54年)に建立されいる。 赤瓦の「参拝所」と、琉球墳墓風の「納骨堂」、とそれを囲む広場があった。我々は関係者ではないから、参拝は割愛した。

       
          琉球墳墓風の納骨堂

 また近くには、各府県や各種団体の慰霊碎・慰霊塔が多数建立されている。

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平和の礎(いしじ)

 広い公園内を歩き廻って、ようやく「平和の礎」という戦没者の名を刻んだ祈念碑に辿り着いた。「礎」を[いしずえ]と読んでいたが、銘板をみると『いしじ』と記してあった。
 調べてみたが「礎」とは、建物の柱の下の石の意で、物事の基礎となる意味がある。
 「いしじ」は、石地を意味し、石の多いやせた土地の意もある。

    
       平和の礎

 この摩文仁の地は元々石地で、農業などに適さない疲せた土地であったのであろう。
 この地が沖縄戦の終息の地となり、此処に「平和の基礎」となるべき「平和記念公園」を作ったから、両方の意味をこめて、平和の「礎」を「いしじ」としたのであろう。
 世界の恒久平和を願い、国籍や軍人・民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなった全ての人々の氏名を刻んだ祈念碑である。

     
           戦没者名が刻まれた祈念碑

  1995年(平成7年)6月に、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建立されたという。海岸線を見わたす平和の広場に建てられ、屏風型の花崗岩に銘が刻まれている。
 現在も追加刻銘を受け付けており、刻銘者数は2009年6月時点で24万856人となっているという。
我が叔父(大塚家)である父の兄二人の軍人も、終戦間際にその属していた旅団が南方方面に移動を命ぜられたが、輸送船が米軍に撃沈された。
祈念碑は県別に建てられていたから、佐賀県の祈念碑を探してみると、大塚静夫、大塚為男の名があった。これが叔父なのかは、分からないが、改めて冥福を祈った。




摩文仁の丘

 1945年(昭和20年)4月1日、米軍の宜野湾岸への上陸により始まった沖縄地上戦は、5月中旬には、沖縄防衛の第32軍が司令部を置く、首里近郊にまで迫ってきた。
首里城を中心に築いた陣地に立て籠もり、最後の攻防戦を展開するべく、諸部隊も首里周辺に集結しつつあった。ところが第32軍司令部では、本土決戦の時間稼ぎのためか、首里で決戦せず、戦線を後退させつつも、戦闘を続行すべきと方針を変更し、南部の喜屋武(きやん)半島へと後退の方針を固めた。
5月22日、南部への後退命令が下達され、数日の間に各部隊は首里戦線を放棄し、南部方面へ後退した。
     
        戦後直ぐの摩文仁の丘

 首里城地下壕に設けられていた第32軍司は、摩文仁の丘のガマ(自然壕)に移転することになった。6月1日、司令官の牛島中将、参謀長の(ちょう)長勇中将も摩文仁の丘の指令部に移動した。
 突然の後退命令は、軍の後退に伴い、首里防衛という盾を失い、南部の住民は所在場所を失い、軍の後を追い避難をはじめた。
 が、多くの民間人がその途中で、米軍の砲撃で悲惨な死を遂げたのである。
米軍機による攻撃で、犠牲となった多くの住民の遺体は、野ざらしとなったという。 第32軍は、当初は、約10万の兵力であった。
 しかし、首里城攻防戦で、持久戦としては不手際な総攻撃で消耗し、南部地域に後退した兵力は3万ほどでしかも。その半数は臨時召集の県民であり軍人ではなかったという。
 6月17日になると、南部戦線の重要防衛陣地の八重瀬岳と、与座岳の戦線が米軍によって突破され、指令部のある「摩文仁の丘」近くにまで迫ってきた。
 この日、米軍第10軍の司令長官シモンーバックナー中将から、牛島軍司令長官宛に、降伏勧告状が届けられたらしい。

      
         沖縄戦跡国定公園と奥が摩文仁の丘

 喜屋武半島の海域は、米軍の艦艇で埋め尽くされ、降伏を呼びかける小型艇が岸近くを往来していたという。
 バックナー中将は、この翌日の18日に半島南西端近くにある米海兵隊の進撃状況の視察中に、地下壕に隠されていた、日本軍の八九式加農砲(対空砲)の砲撃によって戦死している。米軍史上、米軍の司令長官が戦死した事例は他にはないという。
奇しくもこの18日は.牛島軍司令長官が、戦闘状況判断から今後の各部隊への指揮は困難と判断し、軍としての最後の命令を下した。
 「自今、諸氏は各々その陣地に拠り、所在の上級者の指揮に従え。生きて虜囚の辱めを得くることなく、悠久の大義に生くべし」
という問題の多い内容であった。
 この文を作成したのは長野英雄作戦参謀で、最後の『生きて虜囚の辱めを受くることなく』の文言は、長勇参謀長だという。
 続いて大本営に向けて決別の電報が打たれ。
この最後の命令書により、万に一つの勝ち目のない無駄な戦闘がつづけられ、多くの民間人を含む戦死者を増やすことになった。

         
              摩文仁の丘の指令部に近づく米兵

 この夜、軍司令部の洞窟からは、司令部付きの参謀4名が、残存部隊を指揮するために出撃して行ったが、いずれも戦死もしくは消息不明となった。
 21日、ついに摩文仁の丘前面に、米軍戦車が迫った。日本軍は唯一残っていた二門の八九式加農砲の水平射撃で、数輌の戦車を破壊したが、反撃の集中砲火を浴び全滅した。 残った兵士は、爆雷を抱き戦車に対する肉弾攻撃が続けられた。
 翌22日、喜屋武岬方面で孤立して奮戦していた第62師団長以下、師団の将校たちが自決した。また喜屋武半島中部の真壁付近で孤立した第24師団も、師団長以下全軍が斬り込み戦死した。

        
            摩文仁丘の司令部の洞窟

22日、摩文仁丘の司令部の洞窟周辺にまで米兵が迫り、洞窟上部の山頂部も制圧さ れてしまった。指令部の洞窟開口部は、陸側と海側の二ヶ所あったが、陸側は防御のために塞がれていた。司令長官牛島中将は、山頂で自決するべく考えていたが、すでに米軍の征圧下にあった。
その夜、指令嬢にいた全員が集められ、牛島中将は、酒とパイナップルの缶詰を振舞い、今までの労をねぎらった。6月23日御前4時頃牛島中将は、長勇参謀長、佐藤三代次大佐と、指令部洞窟で割腹自決をした。解介錯は、副官の坂口勝大尉であったという。
 古風な割腹自決は、軍人として最後を飾る意味があったのであろう。

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牛島満

沖縄平和祈念公園の隣に、「黎明之塔」があり、司令長官牛島満中将と、参謀長の長勇中将を祀る慰霊塔である。 戦跡と太平洋を見渡す摩文仁の丘の上にあり、司令官が自決した司令部壕跡の上に遖っている。
 しかし、軍の司令長官としては、多くの批判がある。

      
          黎明之塔

 島民を、戦闘前に疎開させた、硫黄島の栗林忠道大将や、沖縄戦でも玉砕前に大本営に沖縄県民に対し特別の援護の要望を打電した。 「縄県民斯ク戦ヘリ」の電文を打った太田実海軍中将と比較し、牛島中将の最後の采配には問題があるとされている。
 ただ、牛島中将は沖縄戦では、万事を長勇参謀長ら参謀に一任し、自らは責任のみ負うとしたらしい。その補佐すべき参謀に、人材を得なかった。

 大打撃を受けた5月4日の首里城での無謀な大攻勢や、民間人に多数の犠牲を出す首里撤退は、提案したのは長勇参謀長(中将)や、八原高級参謀とはいえ、その決済判断は誤っていたと非難されている。
一方、牛島個人は、民間住民を戦禍に巻き込まない方法を、着任してすぐ県知事と協議している。当初は、輸送船を使って住民疎開を始めたが、避難児童を乗せた「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。また60歳以上の老人、国民学校以下の児童、これを世話する女性たちを、北部に疎開させるよう指示を出したという。

           
              司令長官 牛島満

 牛島としては、本島北部に住民を避難させ、軍民一体となった「決戦」を防ぐ事を考えたらしい。
 しかし、北部のヤンバルと呼ばれた密林地帯に食糧の備蓄は無く、長期の避難では、栄養失調や餓死者が出るということは、容易に想像が出来た。
 また牛島は5月、沖縄県庁幹部と協議し、非戦闘員である住民を、知念半島に避難させるよう命じている。
 そのため、6月上旬に、米軍に軍使を送り、知念半島の非武装化を提案した。
 米軍も一旦、非武装化地域を設けることに同意したが、米軍の軍使が、目本軍の狙撃兵によって殺されるという不手際が生じた。また避難命令の不徹底により、計画は途中頓挫したらしい。しかし、米軍の公刊「沖縄戦史」によると、知念半島で住民一万人を保護したという記録が残っている。
陸軍指令部の最大の誤りは、東京の大本営が、すでに沖縄作戦を諦め、援軍派遣を打ち切った後も、本土作戦の時間稼ぎと考え、首里城決戦を途中放棄し、南部方面への撤退を命令したことである。

        
            南部へ撤退する一般市民

 結果として、南部への撤退の過程で民間人に多数の犠牲を出した。
 指令部の参謀将校たちは、首里からの撤退は装甲車を用い、深夜に移動したから、民間人の野ざらしになった死骸や、親を失って泣き叫ぶ幼児などを見る事は無かったであろう。
 また、鉄血勤皇隊(沖縄の14-17歳の学徒隊)や女子看護学徒隊(ひめゆり学徒隊など)に、突然「爾後、各個の判断において行動すべし」と解散命令を出したことも、批判される大きな要因である。
 戦乱の中、軍の援護も一切無く、何らの情報も与えられず、状況が全く分からない中、鉄血勤皇隊や女子看護学徒隊たちは、進むことも、退くこともできず、その多くが死傷、行方不明となったり、軍の勧めで「集団自決」した人たちも多い。

            
               捕虜となった鉄血勤皇隊の少年

 いわば混乱した戦地で、軍が見捨てたと同様であり、その責任を問う声かおる。
そして、最後の命令が、また混乱と犠牲を増加させることになった。
「自今、諸氏は、各々その陣地に拠り、所在の上級者の指揮に従え。生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と、「降伏を拒否せよ」と受け取れるからである。なぜ、先に自決した大田海軍中将のように、「沖縄県民 斯く戦ヘリ」と、犠牲となった県民や、兵士たちに賛辞を贈り、軍の解散を命じなかったのか。

      
         なす術もなく降伏する 鉄血勤皇隊の少年

 残された兵士たちは、半数以上が沖縄の民間から徴用された人々であり、また食料、武器弾薬も殆ど残されていず、抵抗の方法もなかった。
 「司令長官や参謀は、自決しただけであり、無責任である」と、
戦後の沖縄県民は牛島中将ら軍指令部に対し厳しい批判をした。
 この沖縄戦は、現在の日本領土で、唯一の住民を巻き添えにした地上戦であった。
 結果として昭和の日本軍部に人材がなく、参謀本部が独走し、それを阻止できる有能な政治家もなく、軍部は無謀な戦争を始め、多くの日本国民が犠牲となった。
 せめて明治初期のような政治家がいればと、ため息がでる。




おきなわワールド

 平和記念公園で、また多くの頁を割いてしまった。
 ひめゆりの塔からは、「沖縄戦」に関する事柄に多くの頁を割くことになってまった。
 少し気分転換を図る意味もあり、琉球の文化にふれるべく、おきなわワールドへ向かった。当初の計画では「斎場御嶽」を見学する予定であったが、時間が落ちたので割愛した。
 平和記念公園からは、30分ほどの距離にあり、15時頃に到着した。
 二日目に見学した「琉球村」とほぼ同じようなテーマパークだとは思ったか、沖縄の芸能をとことん体験したいと思ったから、見学することにした。
 入場すると、さっそくエイサー開演のアナウンスかおり、急いで入場したが、いきなり広い土産物店の店内があった。

     
         おきなわワールド 正面入り口

 二階の広場を目指し、土産物店を抜け階段を上がると、勇壮な太鼓の音が響いていた。
 昨日デジカメのメモリーを買ったから、しっかり録画するつもりでいた。
 琉球村とは異なり、テントの設備があり、舞台かあった。
 幸い、ペンチ椅子に腰を下ろすことが出来た。
 カメラを準備しようとしたら、正面に「撮影禁止」の表示が眼に停まった。周りを見渡すと、至る所に「撮影禁止」の表示がある。
しかも、イベントの司会者が「カメラはご遠慮ください」という。
これは当てか外れたと思った。
 しかし、このような公開イベントで『撮影禁止』とは腑に落ちなかった。
 あとで、エイサーの動画DVDを販売していることが分かった。要は、このために撮影禁止という次第であった。

      
          二回ステージのエイサー

 エイサーの踊りは、「琉球村」で見たより、躍動感がありうまいと思った。また「撮影禁止」と言われれば、盗み撮りしたくなる。
 客席の中央に通路があり、エイサーの踊り手が、通路まで迫出してきたから、膝の上で動画を少しだけ撮影した。
 後で考えると、琉球村と比べ、何とも商売気の強いところであった。
 入るときも、出るときも土産物店を通らねばならないレイアウトであり、更にイペントホールから、琉球城下町へ行くにも、また土産物店と琉球酒造所などを抜けねば行けないレイアウトであった。
 琉球酒造所では、地ビールのパブや、ハブ酒の製造やビールの製造所を見ることが出来た。ともかく、琉球城下町にゆくと、確かに有形文化財に登録された旧民家4棟があったが、いずれも、物品販売と体験ができる「紅型工房」や、「紙すき工房」、「琉球藍の藍染工房」であり、すべてビジネスに利用されてい。
 あまりにも商魂が見えすぎていて、おおらかな琉球文化がかすんで見え、少し興ざめする思いがした。
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ぶくぶく茶

そのような中で、「ぶくぶく茶」を飲める古民家があった。
 「ぶくぶく茶」という琉球独特のお茶かおる事は、調べていた。
 戦後40年間も作られることが無かったから、「幻の茶」とも呼ばれている。
 躊躇せず、古民家の座敷に上がって、珍しい「ぶくぶく茶」を注文した。無愛想な中年女性が居て、挨拶もなく台所で準備した。
 出されたぶくぶく茶は、少し香 ばしい香りがあったが、淡泊なお茶であった。

     
         ぶくぶく茶

 茶菓子に、沖縄名菓の「ちんすいこう」が出され、これで500 円であった
ぶくぶく茶は、沖縄にしかないお茶で、主な原料は白米と玄米だという。
 作り方は、白米または玄米を洗い、焦げ茶色になるまで煎て、煎米を作っておく。
 鍋で硬水(井戸水)を沸騰させ、そこへ煎米を入れ、弱火で10分ほど煮て煎り米湯を作る。別に、さんぴん茶や前茶を急須に入れ、茶湯を作る。
煎り米湯と、さんぴん茶湯を、15:2の割合で混ぜ、茶筅で泡立てて作るという。
茶湯は、さんぴん茶がもっとも泡立ちがいいらしい。さんぴん茶は、ジャスミン茶の中国語(香片茶シャンピエンツァー)から転じたものらしい。
 出来上がった「ぶくぶく茶」は、ソフトクリームのように盛り上がっていた。
 香ばしい香りと、茶を泡で飲むという、珍しいお茶である。
 昔は、船出やお祝いの時に飲まれていたという。古くから琉球で呑まれた歴史あるお茶
ながら、戦後はアメリカ文化が浸透し、殆ど忘れられていたらしい。観光用に復活され、 観光客に人気があるという。




ハブ酒

 琉球酒造所をガラス越に見ると、ハ酒を製造していた。
 泡盛のタンクに、何匹ものハブが入れられていた。数ヶ月、泡盛に漬けておくと、ハブ酒が出来という。このハブ酒は、健康酒として販売されている。
 ハブには、12種類の必須アミノ酸がバランスよく含まれ、また、良質のタンパク質が牛肉よりも豊富に含まれているらしい。

      

 ハブの天敵であるマングースは、ハブを食べると、その後数日間は食事の必要はないないらしい。
 おきなわワールドでは、「ハブとマングースの戦い」のショーがあったが、見学はしなかった。ところで、ハブといえばその猛毒で知られた蛇である。ところが、ハブ酒に含まれる栄養素は、ハブの持っている猛毒に含まれているという。このため、ハブ酒を作るとき、毒を抜くことはしないという。
 しかし、強いアルコールに数ケ月漬けることで、この毒素は完全に解毒されるという。
 ハブを三ヶ月ほど水の中で養い、体内のものをすべて排出させて臭いを取る。
 この間でも、ハブはまだ生きているという。そして40度の泡盛に数ヶ月浸けて熟成
すると、必須アミノ酸が抽出される。さらに13種類のハーブを加えると、爽やかな風味の薬用酒となるという。
 ただし、薬用酒としての化学的根拠は示されていない。




ハブ

 ハブ酒のついでに、ハブにもふれておきたい。
 クサリヘビ科ハブ属に属する毒蛇で、正式名は「ホンハブ」(本波布)で、日本では最大の毒蛇であり、もっとも危険な毒蛇のひとつである。
ネズミを追って人家に侵入することもあり、世界的にも非常に危険な毒蛇の一つに数えられている。 
沖縄では1960年代後半頃までは、年間に500人以上の人が、ハプに咬まれていた。最近は都市化の影響から、ハブを含む毒蛇の被害は約100人に減少している。
 かつては、「ハブに咬まれたら助からない」と言われるほど危険なヘビであった。
 最近は、血清治療の発達で、今では死亡率は1%以下にまで改善されている。
しかし、咬まれた後の手当てが遅れると、後遺症を残す場合があるという。
ハブの毒性は「出血毒」で、咬まれた直後から細胞組織の破壊が始まるため、患部は大きく腫れ上がり、激痛を伴う。しかし、毒の回りは遅く、組織を破壊しながら、ゆっくりと全身に回っていくという。
 これはハブの毒が、獲物を消化する消化酵素であり、「出血毒」はタンパク質を分解するのである。飲み込む前から、獲物の内部から消化を始めることで、体内で消化する時間を短縮することができるという。             
          

  
 ハブの餌は、九割以上がネズミなどの小さい哺乳類である。ハブは、熱を感じる器官で獲物をみつけると素早く咬みつき、牙から毒を入れ、すぐに獲物を放すという。
 やがて毒が効き、動かなくなると丸呑みする。ハブの歯は、獲物を食い千切ったり、噛み砕くことはできず、丸呑みする。
ハブの顎の骨は特別なつくりで、大きく囗を開くことができる。下顎の先端が左右に離れていたり、首の部分の皮膚がよく伸び縮みする。
 一方で、ハブは長期間餌を食ずに生きることかできるらしい。餌を食べずに約三年間も生きたという例がある。ただし、水がないと2~3ヵ月しか生きられない。それにしても、なんとも生命力の強い生き物である。
琉球列島は、隆起と沈降(地続きと島の分断)の歴史があり、現在の形になったとい
われている。琉球列島が、大陸と陸続きであった時代(150万年~170万年前)に、当時
のハブ属のヘビが、大陸から台湾を通って北上し、陸の北端であったトカラ海峡(屋久島と口之島の間)まで分布を広げた。
 その後(50万~ 100万年前)、海面の上昇で各諸島が海で切り離され、各諸島独自の
種類か誕生したといわれている。このため、(ブは、南酉諸島では、飛び石状の特異
な分布をしている。多くの島でハブが息している一方で、宮古諸島や沖永良部島、与論島、座間味島には生息していないという。




ハブとマングース

 マングースは、インド原産のジャコウネコ科の雑食獣で、コブラの天敵として知られている。主にネズミや鳥、昆虫などを食べる。日本には、1910年、インドから輸入された21匹のマングースが、沖縄本島に持ち込まれたのが始まりとされている。
明治時代、ハブの毒を消す血清がなく、かまれると死亡するケースが多く、ハブの被害は深刻な問題だった。そこで東大の教授が、コブラの天敵マングースに注目し、ハブと戦わせる実験を行つた。
 マングースは、ハブに咬まれても死ぬことはなく、最後はハブの頭に食いつき、見事にしとめた。早速、ハブ退治として沖縄本島に導入さ放された。

       

 ところが、マングースは肝心のハブは食べず、二ワトリやアヒル、野鳥などを襲いながら、次第に数を増やしていった。
 やっかいなハブと戦うより、手近にニワトリやアヒルなどいたからである。
 繁殖を繰り返し、ついには、沖縄の貴重な生き物のヤンバルクイナが生息する森林地帯にまで範囲を広げている。  一方、奄美大島は、10万匹以上のハブが生息し、人間や家畜が受ける被害は沖縄以上に深刻だった。

       

 1979年頃、奄美大島のハブ対策として、30頭のマングースが放たれた。
 それから沖縄同様に、ニワトリやアヒル、野鳥などを襲い、自然繁殖を繰り返し、推定生息数1万頭まで増え、島全域に広がる勢いだという。もともとハブを退治のため、持ち込んだ野生動物ながら、結果は沖縄本島より深刻だという。
奄美大島は「東洋のガラパゴス」と呼ばれ、古くから生き続けている珍しい動物が多い。
 国の天然記念物に指定されている、アミノクロウサギやトゲネズミ、ケナガネズミ、ルスリカといった天然記念物を襲い、それらの希少な品種の減少と絶滅へと追い込むという、皮肉な結果を生んでいるという。
 南西諸島など、隔離された島の動物は、長い時間をかけて微妙なバランスを保つ生態系をつくりだしてきた。南西諸島には、もともと肉食獣が生息せず、ハブなどのヘビ類を生態系の頂点とし、主要な天敵はヘビに限定されていた。
このため在来種は、天敵ハブからの防御だけの行動や形態を進化させてきた。だから突然外部から移入された、未知の肉食獣の攻撃を回避する能力を持っていないのである。隔絶された島では、新たな肉食獣に対し、極めて脆いことを示している。
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SEGWAY

 ようやく駐車場の出口に近づいた所で、映像で見たことのある二輪車に乗った人を見た。それが、SEGWAYであった。
 音もなく、軽やかに自在に広場を動き回っていた。そこに千円で試乗できるとの表示を見つけた。とにかく珍しい物に興味があるから、
「何分乗れるの?」
「お好きなだけ、どうぞ」
 この返答が嬉しくなり、チャレンジすべく千円を支払い、未知の乗り物に乗ってみた。

       

 恐る恐る乗ってみると、ハンドルだけがあり、他にはアクセルもブレ-キもない。しかも乗ると、動き出した。「停めるのは?」「真っすぐ立ってください」
 と係の女性がいう。なるほど、この乗り物は、体重の微妙な動きで動く。
 垂直に立つと止まり、前に体重を移動すると前進し、体重を後ろに反らすと後退する。 ハンドルを右に倒すと、右に曲がり、左に倒すと左に曲がる。実に不思議な乗り物であった。全く初めて乗るSEGWAYだから、その微妙な体重移動の加減か分からず、前に進むから、止めようと体を反らすと、今度は後ろに動く。
 ブレーキのない乗り物は初めての体験であり、大変緊張した。
 「肩の力を抜いてください」
 と言われても、緊張感からハンドルを握る手に力が入った。
 電動モーターで動くから、全く音がなく環境に優しい乗り物という感じだが、慣れないから、自在に動かすことは出来ず、緊張の連続であった。
 セグウェイ(Segway Personal Transport)とは、アメリカの発明家ディーンーケーメンを中心に開発された電動立乗り二輪車である。

            

 平行な二つの車輪と、その間のプレートと、プレートからハンドルが伸びている。
 搭乗者は、車輪の間のプレートに立って操縦する。
二つの車輪はそれぞれが電動サ-ボモーターで駆動され、バッテリは家庭用電源から充電できる。内部のジャイロセンサーやエンコーダーにより姿勢情報を得て、マイクロコンピュータが二つのモーターを制御する。
 左右二輪の車輪だけで前後の支えがないから、一見不安定に見えるが、加速度センサやバランスセンサーが内蔵され、自立安定性能は高いという。
 体重移動による直感的操作で、速度調節から前後進を行うことができる。
 一回の充電で。約40㎞の走行か可能とある。
 発売後、アメリカの一部の地域の、警察や郵便局に無料で貸し出された。
 走行中の環境負荷が低く、機動力などその能力の高さが評価され、各地の警察や民間警備会社などで正式に導入された。歩道での走行を禁じ、セグウェイの公道利用を認めていない自治体もあるが、多くのアメリカの州では、歩道や自転車道の走行が可能となっているらしい。
 一台50~60万円くらいの価格らしいが、日本では公道は走れない。




大津波警報

 16時30分ころテーマパークを出、美浜アメリカンビレッジへ向かうことにした。
 そこは本島中部の北谷町美浜にある都市型リゾートで、アメリカン雰囲気の中で、多くのショップやレストラン、レジャー施設と、さらにビーチもある。
 最後は、ここでアメリカン衣料でも買い、洒落たレストランで食事を楽しむ予定であ
った。ナビに行き先をセットし、高速道路を目指して走り始めた頃、妻の携帯が鳴った。
 「えっ、大変なことになってるって?」
会話の内容から、何か大変な事態が起きているらしい。
 電話は娘からで、東北で大きな地震があり、津波警報が出ているという。全国各地に津波警報か発令され、沖縄本島全域も、警戒警報が出ているという。
 「沖縄は、テレビ報道で、真っ赤に表示されている。海岸には近づかないように」
との情報であった。
 すぐに高速の入り囗があり、ともかく高速道路に乗った。ホテルに戻るにしても、予定通り「美浜アメリカンビレッジ」へ向かうにしても、高速道路が便利である。
 正確な情報を得るため、途中の中城サービスエリアに立ち寄りSAのテレビを見ると、東北地方で大規模な地震があり、大津波警報が出され、沖縄でも海岸には近づかないよう警告していた。
すでに、福島県の相馬港では15時50分に、30m以上の大津波が観測され、他の東北地域の大洗港や宮古港また釜石港の観測点でも、4m以上の大津波が計測されたと報じている。沖縄本島への津波の到着予想では、18時ころで、最大2m以上の大津波警報が出されていた。

      

 「美浜アメリカンビレッジ」はまさに海岸地区にある。急遽、観光は中止しホテルに戻ることを考え、次の高速の出口で下りた。が、ホテルがまた那覇港のすぐ近くに建っている。しかし客室は7階にあるから心配はない。しかし「車が流されたらどうする?」
と妻が心配する。高速を降りて、ともかくコンビニに立ち寄った。
 那覇港でも1以上の大津波警報が出ていた。
コンビニは高台にあり、少し様子を見ることにした。最悪の事態を考え、コンビニで「おにぎり」と飲料水を買い求め、那覇港の津波の第一波の到着予想の18時までコンビニの駐車場で待機した。
 結局、那覇港には20㎝の津波か來ただけで、何の被害も無いとの情報を確認しホテルに戻った。津波は何度も繰り返す。二波、三波の方が大きい場合もある。
 仕方がないからホテルに籠城することにした。

       

 テレビでは、全ての番組が中止され、次々と大被害の情報を流し続けていた。
 想像を絶する大津波が東北の太平洋沿岸を襲い、住宅や車がおもちやのように流される映像を見て、驚愕した。最大で17mを超える大津波があり、沿岸部の幾つもの町や市そのものが、水没している映像に釘付けとなった。




覇空港の混雑

 昨年の結婚記念日の旅行でも、伊勢に向かったときチリの大地震の影響で、津波警報が発令され、伊勢湾からの船がすべて運航停止となった。
すでに伊勢の近くまで来ていたので、急遽予定を変え「スペイン村」で宿泊したことがある。我々の旅行は、どうやら津波に縁があるらしい。
 朝からテレビの報道を見て、ともかくホテルで朝食をとり少し早めにホテルを出発した。 沖縄は、津波の影響が全く無く、普段と変わらない様子であった。
 公設市場で最後の土産物を調達し、予定通りにレンタカーを返却し那覇空港へ向かった。 ところが、空港内は予想以上の人であふれていた。

      

 東北方面や東京への飛行機はすべて運航が中止されており、那覇空港は大混雑であった。
 チェックインするのに、何処に並んだらよいのか全く分からない。東京方面など運行停止路線が多く、名古屋などへ乗り換える人で混雑していたのである。
 関西方面は通常の運行であり、心配は無かったが搭乗手続きに大変時間が掛かった。
 旅行客は、この空港の大混雑で搭乗手続きに時間か掛かり、予定の飛行機に搭乗するのが大幅に遅れていた。従って、飛行機は殆どが出発を遅らせていた。
 混乱で、意図しない割り込みを行い、ようやく搭乗手続きを済ませ、コ-ヒーで一息いれた。食事をせずに搭乗したが、やはり30程遅れて飛び立った。
 飛行中に昨日の残りのおにぎりを食べた。こうして、無事に旅行を終え、関西空港へ到着した。

 琉球紀行 完

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