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麺あれこれ

 「乾めん類の日本農林規格」(JAS)の「干しそばの規格」では、蕎麦粉の配合割合が四割以上の麺を標準品、五割以上の麺を上級品としている。
 「生めん」については、不当景品類及び不当表示防止法に基づく「生めん類の表示に関する公正競争規約」が定められており、その中で「そば粉三割以上」の製品について「そば」との表示が認められる。

        

 また、「良質のそば粉五割以上」含まれているものは「高級、純良、特選、スペシャル等、その他これらに類似するものとして公正取引協議会で指定する文言」の表示が認められている。原材料表示は「加工食品品質表示基準で、原料の多い順に記載するよう定められている。
 また、中華そば、焼きそば等のように、原義から離れて麺類を「そば」と通称することもある。このために、蕎麦粉を用いていないにもかかわらず「そば」の名が定着している食品もある。こうした用法の場合は「蕎麦」の字は用いず、ひらがなで表記するのが通例である。

        
             ソーキそば

 たとえば、沖縄で単に「そば」と言えば通常、「ソーキそば」で有名な沖縄そばを指す。これは、蕎麦粉を一切使わず、100%小麦粉で、ラーメン製法と同じく、アルカリ水溶液で練る。このため、1976年(本土復帰四年後)に公正取引委員会は、蕎麦粉を使わない「沖縄そば」という名称にクレームをつけ「そば」と称すべきではないとした。
 しかし、特例として「沖縄そば」の表記が認められた経緯がある。
 なお、沖縄で「蕎麦」を普通に食べるようになったのは、本土復帰後とされている。
 また、焼きそばも「そば」という名であるが、蕎麦粉を使わず、小麦粉をアルカリ水溶液で練り作られる。このため区別が必要な場合、蕎麦入りのものを「黒そば」あるいは「和そば」、小麦粉の中華麺を「黄そば」と呼ぶ場合がある。しかし、「黄(き)そば」と「生(き)蕎麦」は音が同じで紛らわしい場合もある。

 生蕎麦は、現在では二八蕎麦、十割蕎麦、五割蕎麦、と他の「蕎麦屋の蕎麦全般」を指している。
 蕎麦屋で生蕎麦の語が使われるのは、上等な蕎麦を生蕎麦と呼んでいた頃の名残である。
 元来は「そば粉だけで打ったそば・そば粉に少量のつなぎを加えただけのそば・小麦粉などの混ぜものが少ないそば」を意味するものだった。

       

  しかし、江戸時代中期以降、小麦粉をつなぎとして使用し始めたことにより、二八蕎麦が一般大衆化したため、高級店が品質の良さを強調するキャッチフレーズとして「生蕎麦」を使うようになったという。
 その後、幕末頃には「生蕎麦」の指す範囲は拡大し、二八蕎麦にも使われるようになった。
 現在では、蕎麦粉の割合が明らかに低いと思われる、駅前の低価格立ち食い蕎麦店等でも「きそば」のぼりは堂々と掲げられており、その意味は希薄化してしまっている。 そのため、蕎麦粉だけの蕎麦を売りにしている蕎麦屋は、分かりやすく表示するため「十割蕎麦」あるいは「生粉打ちそば」という表現を用いるのが一般的である。
 また「茹でる前の生麺」、「生麺・ゆで麺など水分を多く含んだ麺」いう解釈もあるが、この場合「きそば」ではなく「なまそば(生そば)」と異称されている。






蕎麦の栄養

■蕎麦の効能
 蕎麦には必須アミノ酸が多く含まれている。
 身体の発育に大切なリジンや、スタミナ源として注目されているアルギニン、トリブトファン、メチニオンなどのアミノ酸が、良質なタンパク質を形成している。
      
       

 また、ビタミンB群が多く含まれていることも注目されている。 B1は体力の低下、イライラ、食欲不振の解消に、B2は肌の健康に欠くことのできない栄養素といわれている。
 さらに、蕎麦は穀類で唯一、ビタミンPの一種であるルチンを含んでいる。
 ルチンは、血管の老化現象を予防する効果があり、ビタミンCと同時に摂ることで、血管が脆(もろ)くなることを防ぐ働きをすることがわかっているという。

■そばは理想の健康食
 茹でた蕎麦は、炊いたご飯と比べてカロリーが少なく、それでいてバランスの取れた栄養素と、食物繊維とルチンを多く含んでいる。

         

 おいしく味わいながら、整腸作用でお腹をすっきりさせることができる。 コレステロールや有害物を排出して、きれいな肌、健やかな身体づくりに役立つという。
 古来、行者や修剣者たちが「そば粉」を携えて山中に入り、清水でといて食べながら厳しい修行を耐え抜いたといわれていることも、蕎麦が食品として優れている事を証明している。実際に、探検家の植村直己氏が、探検に携帯する蕎麦粉を買いに、信州の草笛まで来たという。

■酒とそばの相性の良い理由

        

 江戸の昔から、お酒の後には蕎麦が良いとされているが、これにはきちんとした裏付けがあるという。蕎麦に含まれるコリンという成分には、肝臓の働きを促進する効果があるという。飲酒による肝臓の負担を、蕎麦の効用で補う作用があるという。







安曇野

 翌朝、快晴に恵まれ、朝から強い日差しであった。スタンドで給油すると無料で洗車機を通すことができた。
 すぐに松本ICがあり高速に乗った。
 最初のトイレ休憩にあづみ野PAに到着したのは、9時15分ころである。
 降りてみると、駐車場から雄大な北アルプス連峰がそびえ立ち、中部山岳国立公園の山岳地帯を遠望できた。 西部には、燕岳、大天井岳、常念岳などの海抜3,000メートル級の象徴的な山々が連なっている。
 北アルプスを源とする中房川、烏川、梓川、高瀬川などが、犀川に合流する東部は、「安曇野」と呼ばれる海抜500から700メートルの概ね平坦な、複合扇状地の平野となっている。

      


 安曇野市は、長野県のほぼ中央部に位置し、平成17年(2005年)に、豊科町・穂高町・三郷村・堀金村・明科町の五町村が合併して誕生している。 松本から電車で約30分の位置にある。北は大町市、松川村、池田町、生坂村、筑北村、南は松本市に隣接している。
 北アルプス連峰登山の拠点として、毎年多くの登山者が訪れている。特に夏場は、アルプス中央登山口のJR穂高駅前には、登山案内所・補導所が設けられ、登山案内人が常駐し、登山コースの案内をしており、登山計画書の受付もしている。

       

 安曇野は、わさび田でも有名で、全国有数のわさびの産地でもある。 北アルプスから湧き出る清流に、青々と茂るわさびの若葉と、白く小さなわさびの花は、厳しい寒さの続く安曇野に春の到来を告げ、信州の風物詩のひとつでもある。わさびの花は三月中旬から四月下旬が見頃とあった。
 犀川には、昭和59年に初めて白鳥の飛来が確認されて以来、毎年多くの白鳥がここ安曇野で冬を過ごしていることで知られ、白鳥湖と名付けられている。
 また、四月中旬から五月中旬には、休耕田に広がる黄色い絨毯を敷き詰めたような菜の花が咲き誇る。
 自然豊かな信州の盆地平野である。





姨捨山

 次のトイレ休憩に立ち寄ったのが姨捨(おばすて)PAで、10時5であった。
 ここは、善光寺平が見渡せる絶景地であり、眼下の景色すべてが川中島の戦の戦場であった。この時は、その知識が無く、トイレを済ますと、すぐに出発した。
 ただ「姨捨(おばすて)」と言う特異な名が気になって帰ってから調べると、やはり姨捨(おばすて)山伝説がこの地にあった。
 信州の姨捨(おばすて)山は、長野県千曲市と東筑摩郡筑北村にまたがる山で冠山とも更科山とも称される。正名は冠着(かむりき)山で、古称は小長谷山(おはつせやま)というとあった。

       
           冠着(かむりき)山

 名称の由来は、一説には奈良時代以前から、この山裾に小長谷皇子(武烈天皇)を奉斎する、部(べ)の民「小長谷(小初瀬)部氏」が、広く住していたことによるらしい。
 この小長谷(おはつせ)部(べ)氏の名から、「オハツセ」の転訛が、北端で長谷(はせ)の地名で残り、南西部に「オバステ」で定着したものとされている。
 奈良県桜井市初瀬町にある、長谷寺に参詣することを「オハツセ詣で」と言われるのと一脈通じている。
 ここで注釈を入れる。
 「部の民」とは、ヤマト王権の制度の部民(べのたみ)制の人々のことであり、王権への従属・奉仕の体制、朝廷の仕事分掌の体制をいう。その種類は極めて多く、大きく二つのグループに分けることが出来る。一つは何らかの仕事にかかわる一団で、もう一つは王宮や豪族に所属する一団である。
 前者には語部(かたりべ)・馬飼部(まかいべ)、後者には蘇我氏・物部氏や大伴氏などがあげられる。
 語部は、伴造(とものみやつこ)である語造(かたりべのみやつこ)氏に率いられ、朝廷の儀式の場で詞章(かたりごと)を奏することをその職掌とした。蘇我氏や大伴氏が、蘇我部や大伴部を所有した。彼らが王権を支える臣(おとど)・連(むらじ)として、朝廷組織のなかにその位置を占めていたからである。
 律令制の実施に伴って廃止され、律令制の実施後の部称は、たんに父系の血縁を表示するだけの称号であり、所属する集団との関係を示すものではなくなっている。

 さて、信州の姨捨(おばすて)山伝説は、姨をこの山に捨てた男性が、名月を見て後悔に耐えられず、翌日連れ帰ったという民話から名付けられたとされている。
 日本各地には、様々な棄老の風習が、民話や伝説の形で残っており、『今昔物語集』や『大和物語』にも棄老にまつわる話がでてくる。
 しかし棄老伝説は、古代インド(紀元前200年頃)の仏教経典『雑宝蔵経』の説話に原点があるとされている。
 日本の古代法制度下では、二十歳以下の若年者、六十歳以上の老齢者や障害者には、税の軽減など保護がされていて、法制にも棄老の制度は無かった。このため、個人的な犯罪行為か、村落という狭い共同体における掟であったのか、歴史研究家によって見解が分かれる。
 しかし、それぞれの物語で、親を棄てなければならなかった人間に、同情的な描き方がされていることから、貧しい農村では口減しのための「必要悪」として容認されていた地域があったのかもしれない。
 姨捨伝説については、深沢七郎が『楢山節考』に著述している。また柳田國男の『遠野物語』には、ダンダラ野へ棄老するという風習が紹介されている。
 また、信濃の国伝説の他に、筑後地方伝説、奄美民話、沖縄民話など全国にある。
 ところで長野と松本を結ぶ篠ノ井線の姥捨駅は、ウバステではなく、オバステと読む。現在は千曲市となっている。

       


 以下は、信濃の国伝説の骨子である。
 昔ある村の母親が六十歳に達し、掟で山に捨てに行かなければならなかった。
 いざ、その日になり、やむなく掟に従い、姥となった親を背負い山を上り始めた。
 気がつくと、姥は、白い花(枯れ枝の場合もある)を摘んでは、道筋に落としていった。息子は、(これを辿って帰るつもりだ)と思い、
 「頼む、これも定めだから勘弁してくれ」
と言った。しかし、姥は、悲しそうな目をするだけであった。息子も辛く、それ以上何も言わなかった。
 とても姥が一人では帰れない程の奥地に着き、姥と最後の別れを惜しんだ。
 勘弁してくれ、勘弁してくれ」
 息子は、何度も言い、親に謝り続けた。姥は、悲しそうな目をしながら、手を振って、早く帰れと言ってるようであった。

         

 息子は、ついに姥を置いて、山道を戻り始めた。
 しかし奥地に来て、別れの時間をかけ過ぎたため、辺りは暮れたきた。
 かつて来たことが無い山で、日が落ちてきたから、息子は途中で迷子になってしまった。冬期のことで、このままでは凍死するかもしれず、途方にくれた。ところが、焦る男の目に、薄明かりの中で、白いものが見えて来た。姥が、山登りの途中で、散らしてきた白い花であった。
 それは点々と、しかし確実に帰り道に向かっていた。息子は、その時に始めて、親は自分が帰るためではなく、遅くなって男が迷わないよう、花を点々と散らして来たのだという事を知った。息子は、これを知って号泣したという。
 姥は、掟で姥捨て山に捨てられるのは覚悟の上で、我が息子のため、最後の愛の表現を残したという。




伝説の原形

 古代大和朝廷には、語部(かたりべ)という専門職が配置され、古伝承を儀式の際に語ることを職掌とした。
 民間伝説も、古老などによる古代伝承が口伝で継承されてきた。
 口伝というのは、伝言ゲームと同じで、幾人もの口を経るうち、少しずつ、時に大胆に脚色され、やがて大きな変貌を遂げて、事実とは大きく乖離するのは当然であろう。
 ところが、ある時点でそれが文字として記録されると、それが真実のようにして、また語り継がれる。
「或る記録によると・・」と、物知り顔で語られるうちに、また尾ひれが付いたり、一部が欠落してゆく。今日各地に伝承されている、あるいは記録にある「姨捨山伝説」もその一つである。
 そこで、「姨捨山伝説」について一つの原形としての仮説を建ててみたい。
 単に口減らしというだけで、年老いた親を、山に遺棄するとは考え難いからである。
 
          

 長崎の大村藩では、痘瘡(とうそう)(天然痘)に罹ると、定めにより藩庁に届けなければならなかった。
 届けを受けた藩庁では、しかるべく定められた男が、その老若男女にかかわらず、指定された山中に、生きたまま山捨てに連れて行くのである。
 大村藩では、伝染性の高い痘瘡患者を極端に恐れ、強制隔離する藩の定めがあった。 
 例え老人であれ、新妻であれ、幼気(いたいけ)ない子供で有ろうが、強制隔離されたのである。 このため、多くの悲しい物語が生まれている。
 ただ、山中に野ざらしで置き去りにするのではなく、山小屋が建てられており、そこへ収容されるのである。当然、水や食料も定期的に搬入され、露命をつなぐ手段は整えられていた。無事に治癒すると、下山も許された。ただ、痘瘡に罹患すると、無事に治癒しても、失明したり、顔が爛(ただ)れたり、鼻が削(そ)げたり、手足に多くの障害が出、人目を忍ぶことになった。
 大名で痘瘡に罹った有名な武将では、大谷吉継がいた。いつも顔に頭巾を被り、失明した目だけを露出させていたという。
 
        

 痘瘡は伝染性が強く、有効な治療方法が無く、痘瘡に罹ると多くの人々が亡くなった。
 のちに、ジェンナーが開発した牛痘法による種痘が伝わるまでは、有効な手段がなかった。このため、大村藩では、「姥捨山」のような強制隔離施設に収容した。
 この隔離施設に患者を運んだり、食料や水を運んだり、その他の管理に従事したのは、かつて痘瘡に罹患し、自然治癒した人が行った。
 一度痘瘡に罹り治癒した人は、二度度罹患しないという「免疫」については、経験的に知っていたからである。
 この痘瘡は流行性の病だけに、全国何処にでもで見られ、どこの藩や村でも極端に忌み嫌われた。
 当然、「掟」として山に隔離されたり、あるいは遺棄された可能性が高い。
 その中で有名なのが、藩全体で強制隔離した大村藩であった。
 その悲惨さを知る大村藩の藩医の長与俊達が、やがて長崎で蘭学を通して牛痘法を知り、オランダ商館に頼み、遠くオランダ領バタビヤから、牛痘の種を移入することに成功し、大村藩で初めて種痘が行われた。
 これが、我が国で種痘が行われた最初である。

          


 余談ながら、長与俊達を中心に大村藩の種痘物語を「赤絵」という題で小説にしたいと思い、多くの医学史資料を集め、長崎にまで行った事があるが、未だに手つかずである。
 さて、「姥捨山伝説」に話を戻すと、一様に「殿様の定めに従い」の記述や、「村の掟」により、山に捨てたと伝説にある。
 そして一様に、姥捨をした男達に同情的であり、且つ、親子の情愛を伝えている。
 しかし幾ら村が貧しいからという理由だけで、年貢を納める農民を、六十又は七十を超えると「山に捨てよ」と藩主が命じるはずが無い。
 「山に棄てる掟」が有ったとすれば、当然「伝染性の病」を得たという条件がなければならない。これは、前述の大村藩の事例にもあり、各地で暗黙の「掟」として存在したであろう。
 この痘瘡で山棄て同然に隔離された話が、各地で伝説として伝承されて行くうち、忌まわしい病が欠落して、「姨捨山伝説」として伝承され、やがて親子の情愛を総和として入れたのではないか、と類推している。
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更埴(こうしよく)JCT

 姨捨山伝説に触れている間に、更埴ジャンクションを通過した。
 更埴JCは、長野県千曲市にあるジャンクションで、更埴は開通時の所在地の旧市名で、現在はさらに合併し千曲市となっている。
 変わった名の旧更埴(こうしよく)市は、更級(さらしな)郡の稲荷山町と八幡村、埴科(はにしな)郡の埴生町と屋代町との合併により、「更級」と「埴科」の頭文字から「更埴」と名付けられた。その当時の名残として、JCTにその名を留めている。
 
       

 更埴JCでは、長野自動車道と上信越自動車道の上越方面が本線で、ここから上信越自動車道の藤岡方面が分岐している。 道路標識を見ると、このまま走行し上越方面へ走行すれば、北陸方面へ行くことが出来る。また高崎方面を目指せば、関越自動車道で東京方面へ行くことが出来る。
 さらに長野自動車道は、中央自動車道で東京の杉並へも行くことが出来る。
 今走行している長野自動車道は、厳密には長野県岡谷市の岡谷JCTから千曲市の更埴JCTに至る高速道路である。

       


 長野県中央部を縦断する高速道路でありながら、中央自動車道で、東海地方や東京方面、更に北陸地方を結ぶ役割をも果たしている。 正式な路線名は、中央自動車道長野線である。
 上信越自動車道は、群馬県藤岡市の藤岡JCTから、長野県長野市を経て新潟県上越市の上越JCTに至る高速道路である。

        

 中央自動車道長野線は、東京杉並区から、長野市に至る路線であり、東京杉並区―山梨県大月市間は、中央自動車道富士吉田線と、杉並区―長野県岡谷市間は、中央自動車道西宮線と、さらに千曲市―長野市は、関越自動車道の上越線と重複しているから、大変ややこしい。
 ともかく、現在は高速道路が発達して複雑に交差し、網の目のような交通網を整備しているから、長野から、高速道路で東京方面、群馬方面、山梨方面、そして岐阜や名古屋方面に自在に行く事が出来るのである。
 広域地図を改めて眺めると、信州地域はまさに関東の裏山に当たる。
 東京時代に、土日には新宿から、長野の白馬その他のスキー場への夜行バスが運行されていた。
 

       

 目指す長野ICで降りて、国道18号線を経由して長野市街を走り善光寺を目指した。
 国道18号線は、東和田で平林街道と分岐している。ナビのルートに従い、東和田で左折し平林街道をしばらく走ると、善光寺の大門があり、少し走ると信州大学の角の若松交差点を右折した。途中細い道になったが、善光寺西の交差点に出、都合良く駐車場が有り此処に駐車し、善光寺の左前側の西門から境内に入る格好になった。
 近くに東山魁夷記念館もあった。
 現在の平林街道の名は、長野市柳町交番前交差点から東和田交差点をさしているが、現在の国道406号線で、長野県大町市から群馬県高崎市に至る一般国道である。
 かつては、中山道の一部であったであろう。

      

 

回向柱(えこうばしら)

 土産店直営の駐車場に車を停めると、すぐに善光寺の西側の入り口があった。そこから境内に足を踏み入れたが、境内の中にも駐車場があった。あとで境内地図で照合するとちょうど大勧進の後ろ側に出ている。
 境内に入ると、すぐに大回向柱が目に付いた。
 調べてみると、回向柱(えこうばしら)とは、善光寺の七年に一度の御開帳の際に、本堂の前に建てられる大きな柱だとある。
 御開帳期間中には、善光寺本堂の前に建てられ、参拝者がこぞってこの柱に触れるという。
 その由来は、この回向柱が「善の綱」によって「前立本尊」と繋がっているため、阿弥陀如来の命を宿すとされているためだという。「前立本尊」については後でふれる。
 つまり、回向柱(えこうばしら)に触れることにより、直接善光寺の御本尊に触れるのと同じ功徳を得られると信じられてきたからである。
 この大回向柱は、善光寺の御開帳を象徴するものであり、御開帳期間中の回向柱の周りには、常に多くの参拝者が集まっていくるという。

                  

 新しい大回向柱は、およそ45㎝の角柱で、高さ約10m、重さ約3トンにもなる巨大なもという。御開帳期間が過ぎた後の回向柱は、境内の西にある一角に建て変えられるという。 我々が、西門から境内に足を踏み入れたため、最初に目にしたのがこの回向柱(えこうばしら)であった。
 御開帳前の白い木肌も、御開帳を終えると多くの参拝者に触られ、黒ずんでくる。  
 そして七年に一度、順に建てられる回向柱(えこうばしら)は、古い順に根本(ねもと)から土に還っている。  このため、歳月を経た回向柱(えこうばしら)は、腐った分だけ地中に深く埋められ、その高さを減じているという。つまり背の低い回向柱(えこうばしら)ほど、古いものだという。
 当初は、何故こんなに高さの違う追善供養の「卒塔婆(そとば)」が建てられているのかと、不思議に思った。もっとも「卒塔婆(そとば)」であれば、角柱は用いられないから、知識不足であった。
 



経蔵

大回向柱の前を通り過ぎると、左手に古い由々しげな経蔵(きようぞう)があった。
 経蔵は宝暦五年(1755)に造り始め、同九年(1757)に完成した歴史的建物であり、宝形(方形)造りで正面、奥行きともに15.4メートルの正方形の建物であった。
 経蔵の前には、輪廻塔があり、「南無阿弥陀仏」の文字が刻んだ石車がついており、これを回すことで功徳を積むことができると言われている。 経蔵の内部は石敷きで、中央に八角の輪蔵(わぞう)がある。

          

 輪蔵は、水平に柱が角のように出ていて、押すと心棒をめぐって独楽(こま)のように回転する。
 輪蔵の中には、鉄眼黄檗(おうばく)版
一切経(いつさいきよう)(6771巻)が収められているという。経文を読まずとも輪蔵を回すだけで、お経を読んだことになり、功徳をもたらしてくれるという。
 この輪蔵(わぞう)は、確か奈良の興福寺で回した記憶がある。
 ただ、善光寺の経蔵の扉が開けられるのは、正月やお盆、彼岸に限られている。
 経蔵の中には、輪蔵のほかにも、伝教大師や慈覚大師像、中国で輪蔵を発明した傳大士像、釈迦三尊像、如意輪観音などが安置されているという。
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善光寺山門

 経蔵(きようぞう)を過ぎると、左手には善光寺本堂が見え、右手には山門が見えたので、とりあえず山門へ向かった。いきなり本堂の横手から本堂に入るのは憚(はばか)られたからである。
 善光寺の山門は、桁行(けたゆき)き約二十・四m、梁行(はりゆき)き約八m、高さ約十八mの入母屋造りの大楼門である。

       

 寛延三年(1750)、五年の歳月を経て建立されている。
 長い歴史を持つ山門は、1847年の善光寺地震などに耐えてきたが、建物や屋根の老朽化が進み、2002年より平成の大修理が行われ、2007年12月に五年の歳月をかけ、建立時の姿を復活したという。
 山門の二階部分には、四天王に囲まれた木像文殊菩薩坐像、四国八十八ヶ所の札所本尊を模刻した、百体仏が祀られている。文殊菩薩坐像が安置されていることから、山門のことを別に「知恵の門」とも呼ばれているという。四国八十八ヶ所の巡礼満願達成の暁には、高野山と善光寺へお参りするとされているのは、この事によるらしい。

           

 また、山門正面には、有名な「善光寺」の額が掲げられていた。
 これは、通称「鳩字の額」とも呼ばれており、良くみると鳩が五羽隠されているという。さらに、善光寺の「善」の字が、牛の顔の形に見えると言われている。
 ここからも、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を伺い知ることが出来るが、この時には、それらの知識が無く見落とした。ただ、現在の額は、「国宝善光寺本堂昭和大修理」の際に掛けかえられたもので、古い額は、善光寺資料館に展示されているという。






善光寺

 善光寺は、山号は定額山(じようがくさん)といい、長野市大字長野字元善町にあり、創建以来約千四百年の古刹ながら、天台宗本坊「大勧進」と、浄土宗大本願の両派の仏教寺院から構成されているから、一般の寺院とはかなりその成り立ちが異なっている。

       


 我々は、この大勧進の裏側から境内に入っている。
 さて勧進とは、人々に仏法を説き善をなすように勧誘策進することで、大勧進は、天台宗別格大本山で善光寺25院の本坊であり、住職は善光寺の住職を兼ねている。 
 浄土宗大本願は、浄土宗の七大本山の一つで、定額山(じようがくさん)善光寺と称し、大本願の本坊であり、やはり善光寺の住職を兼ねている。つまり、本来宗派の異なる天台宗と 浄土宗の両方の別格本山が、共に善光寺住職を兼ねているというから、少しややこしい。
 古くから四門四額(しもんしがく)と称し、東門を定額山善光寺、南門を南命山(なんみようさん)、北門を北空山(ほくくうさん)雲上寺、西門を不捨山(ふしやさん)浄土寺とし、天台宗と浄土宗の別格本山ともなっている。
 宝永四年(1707年)に、現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられた。現在は、天台宗の大勧進と25院、浄土宗の大本願と14坊により運営されている。
 



善光寺境内の案内   善光寺HPとリンクしています  
   
境内のご案内
境内のご案内
本堂のご案内
参拝のご案内
車椅子でのお参りについて
ご参拝モデルコース
  
  
       


 大勧進の住職は「御貫主」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が、歴代住職を勤めている。
 大本願は、大寺院には珍しい尼寺で、門跡寺院ではないが、代々公家出身者から住職(大本願では「上人」という)を迎えている。現在は鷹司家出身の鷹司誓玉が百二十一世法主となっている。そして、大勧進の御貫主も大本願の尼僧の法主上人も、共に善光寺住職を兼ねている。
 特徴として、日本で仏教が諸宗派に分かれる以前から存在する寺院であるため、各宗派の枠を超えて、珍しい二つの機構で運営されている。
 また女人禁制があった旧来の仏教の中で、稀な尼寺を併設し女人救済をも掲げ、一貫して男女平等の救済を説く寺院として知られた。そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺詣りの特徴である。当時の参拝の様子を描いた絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれている。
 こうして、一生に一度は、牛に引かれて「善光寺詣り」すると、極楽浄土に行けると伝えられ多くの信仰を集めてきたという。

      


 国宝の善光寺本堂は、2007年には、宝永四年(1707年)に再建されてから三百年を迎えており、千四百年余りの歴史を刻んでいる。
 宝永四年(1707年)に再建された善光寺本堂は、それ以前は現在商店が建ち並ぶ仲見世通にあったという。
 現在の仲見世通りの中ほど、三門に向かって左手に大きな延命地蔵尊が祀られているが、ここが再建前の本堂の瑠璃壇(るりだん)があり、御本尊が祀られていた。 
 現在の仁王門から三門までの間を、当時は堂庭(どうにわ)と呼び、その広い敷地の真ん中に前本堂が建っていたという。
 
 現在の本堂最奥の「瑠璃(るり)壇」と呼ばれる部屋には、善光寺の絶対秘仏とされてきた本尊が、厨子に入れられ安置されていると伝えられている。 瑠璃とは、仏教でいう七宝の一つで、青、赤、白、黒、黄、緑、紺などがあり、ガラスの類をさす。
 この瑠璃で装飾されている部屋のためこの名がある。
 その本尊は、善光寺式阿弥陀三尊(善光寺本尊を模した像)の元となった「一光三尊阿弥陀如来像」で、その姿は善光寺僧侶ですら目にすることはできないという。
 「一光三尊阿弥陀如来像」は、中央に阿弥陀如来像、右側に観音菩薩像、左側に勢至菩薩像が、一つの光背の中に配されているという。

              
                善光寺式阿弥陀三尊

 瑠璃壇の前には金色の幕がかかっていて、朝の勤行(ごんぎよう)や、正午の法要などの、限られた時間のみ金色の幕が上がり、金色に彩られた瑠璃壇の中を、部分的に拝むことができるという。
 また古くから戒壇巡りという習わしがあり、ご本尊が安置される瑠璃壇と御三卿の間の床下にある回廊を巡る。 真っ暗な中を右側の壁を腰の高さを伝ってすすみ、途中ご本尊の真下にある錠前にふれることができれば、ご本尊と結縁し極楽往生がかなえられるという。
 また、日本百観音(西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、結願したら、長野の善光寺に参るといわれている。
 今日では、年間約七百万人も参詣者が訪れる日本を代表する霊場寺院である。
 平成十年(1992)二月に行われた長野冬季オリンピックの開会式では、善光寺梵鐘が、テレビを通じて世界平和の祈願を込めて全世界に向け響き渡った。
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善光寺縁起

 善光寺の本尊である秘仏の「善光寺式阿弥陀三尊」は、現存する日本最古の仏像とされている。
 欽明天皇の時代(552年)に、インドから朝鮮の百済国に伝わり、百済の聖明王から仏典と共に大和朝廷に献呈されたものとされている。 渡来当初は、難波(なにわ)の百済寺にあったが、飛鳥時代に物部氏(もののべし)と蘇我氏との仏教の受容を巡っての争いで、崇仏・廃仏論争の最中に、廃仏派の物部氏(もののべし)によってこの仏像は、難波の堀江へと打ち捨てられたという。
 紆余曲折を経て、推古天皇の命により、本田善光の手で信濃へ遷(うつ)され、初めは現在の飯田市に安置されたという。
 「善光寺縁起」については、院政期に書かれた『伊呂波(いろは)字類抄』にその引用があり、日本への仏教公伝とされる552年から丁度五十年後の、推古天皇十年(602年)に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が、仏像を入手して信濃に持ち帰ったと、記されている。

          
              善光寺式阿弥陀三尊

 更に百六十六年を経た神護景雲二年(768年)に至って、現在の地に遷座したと伝えられる。
 皇極天皇三年(644年)に、勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられた。その後、創建以来十数回の火災に遭ったが、その度ごとに、復興され、護持されてきた。
 また初めに遷座したとされる場所には、元善光寺が現在も残っている。 難波(なにわ)の百済寺のあったとされる地も、善光寺のある地域も五世紀頃から百済や高句麗出身の人たちが移住した地域として知られている。
 「善光寺」の名については、百済最後の王の息子で、日本に定住した百済王氏の始祖である「善光」の名から、名付けられたとの説もある。

       
            

 推古天皇の時代には、すでに信濃国の大部分は、ヤマト王権(大和朝廷)の支配下にあり、他の東国諸国とともに大和朝廷貢納を行っていたと推定されている。
 また768年前後には、称徳天皇・弓削道鏡(ゆげどうきよう)の下で、仏教振興政策が取られており、善光寺などの既存寺院の把握も行われたとされている。
 この事から、「善光寺縁起」による本田善光の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したとしている。
 境内地から白鳳時代の川原寺様式を持つ瓦が発見され、七世紀後半頃には、かなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかっている。
 平安後期の十二世紀後半に編集された『伊呂波字類抄』(辞書)には、八世紀中頃に善光寺の御本尊が、日本最古の仏像として中央にも知られていた事を示している。
 また、十一世紀前半は、京の貴族を中心に、浄土信仰が盛んになった時期であった。こうした浄土教の隆盛とともに、善光寺聖(ひじり)と呼ばれる民間僧が、善光寺縁起を唱導し、全国各地を遍歴し、民衆の間に善光寺信仰を広めた。
 鎌倉時代に入り、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行ったという。
 善光寺信仰が広まるにつれ、全国各地には新善光寺が建立され、御本尊の模刻像が多く造られた。
 現在の前立御本尊は、この鎌倉時代の作とされている。
 鎌倉時代には、多くの高僧の帰依も受け、東大寺再建の勧進聖(かんじんひじり)として有名な俊乗坊(しゆんじようぼう)重源(ちようげん)をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人、時宗の宗祖・一遍上人なども善光寺に参拝したと伝えられている。
 中世以降の善光寺信仰の広まりから鎌倉時代以降、信仰者が夢で見たとされる善光寺本尊を模した像が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や新善光寺を名乗る寺も建てられた。 さらに、全国に広めたのは勧進聖たちによってである。




数奇な変遷と秘仏

 戦国時代、善光寺平(盆地)は、信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と、北信濃国衆を庇護する越後国の上杉謙信の争いの舞台となり、寺は兵火を被り荒廃した。
 この為、善光寺仏は地方に流転することになり、行く先については諸説あるが、実に数奇な運命を背負っていた。 一説には、善光寺の焼失を懸念した信玄により、本尊は善光寺別当の栗田氏と共に、武田氏居館のある甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の甲府市にある甲斐善光寺であるという。

       
          甲斐善光寺

 別の説では、善光寺を保護したのは逆に上杉謙信であり、本尊は越後国直江津(現在の上越市)に移され、その寺跡には十念寺(浜善光寺)が大本願別院として法燈を伝えているという。
 更に本尊は、武田家が織田・徳川連合軍に敗れ、織田信長の手で岐阜へ遷されたという。
 また、信長の政権を引き継いで天下を統一した豊臣秀吉により、方広寺の御本尊とし京の都へ遷された。の
 ち徳川家康の手で、再び尾張へ遷されるなど転々とした。
 そして最後に慶長三年(1598年)、秀吉の死の前日に阿弥陀如来像は、四十数年ぶりに信濃へ遷されたという。
 江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げたという。
 実に目まぐるしい変遷を繰り返した最古の仏像である。善光寺に再び遷座して以来絶対秘仏とされている。
 この変遷の間、大本願の尼僧衆は、本尊に付き従って移動し、大勧進の僧集団は長野に残って、本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。

 江戸時代には、「お伊勢参り」の帰りに「善光寺参り」を行う場合もあり、信仰が広がったという。
 鎌倉時代から本尊が秘仏であることは知られていたが、江戸時代に偽仏が出回った事から、幕府が元禄五年に、秘仏を検分する使者を差し向け、阿弥陀如来の本尊の寸法などを実測記録したとされている。
 善光寺で最も有名なのが七年に一度行われる御開帳である。
 四月上旬から五月下旬ごろまで、約五十日間にわたって開催されている。
 「開帳」とは、寺院で特定の日に厨子(仏像や経巻を納める両開きの扉のついた箱)の帳(とばり)を開き、普段拝観できない秘仏公開することを言う。
 しかし善光寺の御本尊である、「一光三尊阿弥陀如来」は絶対秘仏であり、御開帳でも公開されない。
 このため、普段は善光寺御宝庫に安置されている「前立本尊」(重要文化財)を本堂へ遷して、参詣者に公開しているという。「前立本尊(まえたてほんぞん)」とは、御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」の前に配置されている分身の仏像であることから、このように呼ばれている。

           
              前立本尊

 このため、正しくは「善光寺前立本尊御開帳」が正式名称だという。
 御開帳の期間中は、一尺五寸角(45センチ角)、高さ三十三尺(十m余)の大回向柱(えこうばしら)が本堂前の参道に立てられ。
 この大回向柱は、白布から五色の糸を経て、前立本尊中央の、阿弥陀如来の右手に結ばれた金の糸とつながっているという。そのため参拝者が大回向柱に触れると、前立本尊に直接触れるのと同じ功徳が得られると信じられ、この回向柱に触れるため、全国から多くの参拝者が訪れるという。
 
 ここで、詮索好きな筆者は余談を挟みたい。
 この数奇な変遷を遂げてきたとされる絶対秘仏について、「誰も見たことがない」という記事が何度も出てくる。現在の善光寺住職の、大勧進の小松貫主や大本願の鷹司上人ですら見たことがないという。それに日本最古とされる仏像が、国宝に指定されていないのが不自然である。
 善光寺は、創建以来十数回の火災に遭っている。現在国宝の善光寺本堂は、宝永四年(1707年)に再建されてから三百年を迎えており、それまでは、現在商店が建ち並ぶ、仲見世通りにあったという。
 その善光寺本堂が、国宝に指定されている以上、それより遙かに古く、欽明天皇の時代(552年)に、百済の聖明王から、仏典と共に大和朝廷に献呈されたものとするなら、これ以上の国宝は存在しないであろう。
 結局、絶対秘仏とされているのは、すでに三百年前の火災で焼失しているのではないかと、詮索する次第である。ただ、善光寺の信仰上の理由で、「絶対秘仏」として存在しつづけねばならないのは理解できるが。





仁王門

 我々は、駐車場の関係から善光寺本堂の西門から境内へ入ったから、仲店通りを通らず、従って仁王門も潜らず、山門から直接本堂を参拝する仕儀になった。
 このため、山号の定額山(じようがくさん)の額が架かっている仁王門は、本堂参拝後に訪れた。

 仁王門は、宝暦二年(1752)に建立されたが、弘化四年(1847)の善光寺大地震で消失している。
 その後、元治元年(1864)年に再建されたが、明治二十四年(1891)の火災でまた焼失した。
 現在のものは大正七年(1918)に再建されたものという。

      

 高さは十三m余、間口も十三m、奥行き七mのけやき造りである。
 門の扁額には、金字で「定額山」と山号が書かれている。この字は伏見宮貞愛親王の筆になるという。
 仁王門には、当然迫力ある仁王像があるが、善光寺の仁王像は通常とは逆で、左側に阿形を置いている。 「阿(あ)形」は、左手に金剛杵を持ち右肩を上げている。
 右側の「吽(う)形」は左手を振り上げて右手をまっすぐのばしている。
 仁王像は、巨匠である高村光雲と米原雲海の合作による彫刻だという。
 また、仁王門の背後の右裏には、竃(かまど)神、火伏せの神として広く信仰されている「三宝荒神」を、左裏には大黒・弁財・毘沙門の各身が合体した「三面大黒天」が安置されている。
 何度も火災によって焼失し、そのたびに再建されてきた善光寺ならではの、火伏せの神の「三宝荒神」なのであろう。





大本願

 仁王門に向かって西側(左側)にあるのが大本願であった。
 この時は、善光寺の山内浄土宗の本坊である「大本願」とはしらず、僧坊の一つかと思い立ち寄らなかった。
 ただ、「大本願」だけで、下に院や寺の名が無いのが少し不思議でもある。京都の浄土宗の本山である本願寺が有るからであろうか。

      
          大本願

 ところで大本願の住職は、伊勢の慶光院、熱田神宮誓願寺住職とともに「日本三大上人」と称せられており、善光寺の住職を兼ねている。この大本願の住職は、現在はただ一人の上人号となっている尼僧という。
 大本願の境内は約三千坪あり、明治二十四年の火事で焼失し、今の建物はその後再建されたものという。開山は、第三十五代皇極天皇の大御本願によって、善光寺が創建(642)されたとき、その御杖代として、大臣(おおとど)蘇我馬子の姫君を、善光寺御守護の寺務職としたことに始まっており、代々皇室ゆかりの尼公上人が入山しているという。
 大本願の本堂(本誓堂)には、本尊に一光三尊善光寺如来が祀られ、また善導大使像、法然上人像、本田三卿像が奉安されているという。

          
              一光三尊善光寺如来

 本堂以外にも、宝物殿などがあり、宝物殿には歴代皇室の遺品や、浄土宗宝(二十五菩薩来迎図)などの宝物が展示されているとあった。
 また、文殊堂には、文殊菩薩と、普賢菩薩(ふげんぼさつ)が祀られている。
 文殊菩薩は知恵を、普賢菩薩は理性と慈悲を司る仏様とされている。大





仲見世通の石畳

 善光寺の境内入り口から、約四百五十mの参道には、碁盤の目のように整えられた七千七百七十七枚の石畳(敷石)が敷き詰められている。
 境内入り口から、本堂までの敷き詰められた敷石は、正徳四年(1714年)伊勢白子出身の江戸の豪商、大竹屋平兵衛が寄進したものだされている。現在は長野市の文化に財指定されている。
 仲見世通りには、並んだ石畳に沿うように、お土産物店や食堂が並んでいる。この石畳に関しては、ひとつの伝説が残されている。

       
 
 江戸中橋の豪商である大竹屋平兵衛に、一人息子がいた。
 しかし、酒と女におぼれ、家に寄り付かなかった。
 ある夜、平兵衛の家に盗賊が入り、剛胆な平兵衛がそれを察して組合となり、突き刺してしまった。
 強盗の頭巾を取ってみると、なんと我が子だったという。
 これを悔やみ、平兵衛は善光寺に来て出家し、私財を使って敷石を寄進したと言われている。この敷石は、善光寺近くの郷路山の安山岩を使用しており、現在は正確には6479枚あるという。
 ところで、社寺の境内や参道にある店を仲見世といい、その参道を仲見世通りという。
 かつて東京へ裕江と訪れたとき、浅草の浅草寺(せんそうじ)を訪れ、浅草の仲見世通りを歩いた事を思い出している。善光寺の仲見世通りは、浅草の仲見世通りに比べると人通りは少ない。
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門前そば

 駐車場で仲見世通りにある「丸八たきや」の割引券を貰っていた。
 昨夜の「そばきり みよ田」の蕎麦が大変旨かったため、昼食にまたその信州蕎麦を食べようと思っていた。
 仁王門から山門へ仲見世通りを歩くと、山門の少し手前でその「丸八たきや」を偶然見つけた。
 出来れば蕎麦専門店が良いとは思ったが、割引券があるのでついその店に入った。一階が信州みやげ店で、二階はそばを中心とした食事処とあり、左端に階段があり、「手打ちそば」の暖簾があったので二階に上がった。

       

 二階には、中央に長い団体客用テーブルと、両脇に幾つかのテーブルがあった。
 その空いている個別のテーブルをと思っていると、店の仲居が、真ん中の長い団体客用テーブルへ、どうぞと言う。
 窓際の端には、すでに別の客が居た。その横へ詰めて座れと言う。二人連れなのに、他の客と同席せよというのである。立て込んでいれば仕方がないが、われわれは団体ではない。しかも、他の個別のテーブルが空席なのに、詰め合わせをするのである。
 現に、後から来た客は、個別のテーブルに勝手に座った。従業員の仲居の都合の良いように、ひとまとめに座らせようとしたのである。
 この一事をもって、少し腹を立てた。だから、注文は「天麩羅そば」ではなく、一番安いザル蕎麦を注文した。
 ところが、その蕎麦がなかなか出てこない。それ程客が立て込んでいる訳ではない。
 つい、未だかと問うと、「順番ですから」とにべもない返事であった。
 (順番ですからとは、何事ぞ。此処は共産圏か?お客を何と心得ているのか)
 小人の筆者は、この言葉でまた腹を立てた。通常の、多少の接客訓練を受けているレベルの店なら、
「申し訳ありません。お待たせしております。もう少しお待ちください」
 という言葉が聞こえるはずであったのにである。
 この故か、出てきたザル蕎麦が、どうにも不味(まず)かった。とても水ぽく、蕎麦もその辺の立ち食い蕎麦のレベルの味と感じた。せめて、出石の「皿そば」並の味であれば、その立腹も癒えたかもしれない。
 店を出て、ぶつぶつ不平を言う筆者に、妻はまた少し不機嫌な度をみせた。
 生真面目な妻は、いつも店内でクレームを付けるのを極端に嫌うのである。
 ところで、調べてみると、「丸八たきや」のホームページに、
「善光寺仲見世に面し、厳選した国産そば粉を使った手打そばが好評です。一階は信州みやげ処、信州の名産品を取り揃えております。名物、手打ちそば本場戸隠のそば打ち名人がウデによりをかけ、そばにうるさい地元の方も推薦してくださる本場の味です」
とある。
(笑止千万、看板通りの本物の蕎麦を提供せよ、従業員の接客教育をせよ)
と言いたい。所詮は「門前そば屋」であった。
 以前、奈良の春日大社を訪れたとき、急に空腹を覚え「門前そば屋」に入った。そのとき「うどん」を注文したが、不味い上になんと七百円の値段であり、店を出て、やはり
ぶつぶつ不平を言い、妻の裕江が呆れた顔をした事を思い出している。




長野県

 さて、長野県についてふれる。長野県は、本州内陸部に位置する、内陸県である。
 面積は全国第四位ながら、盆地・山が多いため、可住地面積では、海岸沿いの都市部の千葉県や愛知県と大差ない。
 かつての信濃国にほぼ相当するので、「信州」と呼ばれることも多く、特に観光ガイドでは「信州」と呼ぶ。前にも触れたが、古代は科野(しなの)と表記した。
 県庁所在地は長野市で、善光寺の門前町として発展し、第18回冬季オリンピックの開催地となった。
 本州の中部に位置し、長野県は内陸県であるため、「日本で最も多くの都道府県と隣接する県」である。県境を接しているのは、群馬県・埼玉県・山梨県・静岡県・愛知県・岐阜県・富山県・新潟県と、八県に隣接にしている。長野県の面積は広域で、東西に短く、南北に長い地形で、北海道を除く46都府県のうち、岩手県、福島県に次ぐ面積を持っている。
 
      
               
 これは東京、神奈川、埼玉、千葉の面積の合計に近いほど、広大である。
 中央部を高地が占める山地型の地形ではなく、むしろ北西の県境の飛騨山脈、南東の県境の赤石山脈の標高が高く、間の幾つかの盆地(伊那谷、松本盆地、佐久盆地、長野盆地など)を中心とした地域が形成されている。
 大半は内陸部の地域であり、北部の長野盆地、白馬山麓は、完全な日本海側の地域である。
 分水嶺がその中央を走っているために、県内の南半分は太平洋側に近く、飯伊地域の多くは東京都よりも南であり、県の最北端は群馬県の最北端よりも南である。

       
       長野盆地

 自然が豊富であり、地域医療への関心も高いことから平均寿命も長く、世界一の長寿国日本の都道府県で一番の長寿を誇っている。
「日本の屋根」と呼ばれ、県境に標高二千m~三千m級の高山が連なり、内部にも山岳が重なりあう急峻で複雑な地形である。
 数多の水源を擁し、天竜川(南信、諏訪湖を水源とし伊那谷を通る)、木曽川(中信)は南下して太平洋へ、千曲川(東信、北信)、犀川(中信)は長野市で合流して北上し、県境を越えて信濃川と名称を変えて日本海へ、姫川(中信)も日本海に流れている。

      
           長野市街の千曲川

 長野県に流域をもつ一級河川としては、信濃川水系・天竜川水系・木曽川水系・姫川水系・矢作川水系・富士川水系・関川水系・利根川水系がある。
 内陸側なので、気象など自然地理学では、中部地方の中央高地として分類される。
 長野県の最大人口は、長野市の383,316人、最大面積は、松本市の919.35km²、最大人口密度は岡谷市の640.76人/km²。となっている。






日本一物語 

 長野県をより理解するために、長野県の日本一について触れたい。
 まず、自然環境の日本一では、三千m級の山の数である。
 日本三千m級の山の数は、全部で二十三座あるが、そのうちの十五座が長野県にあり全国一である。ただ県境が接している山十二座を含んでいる。

     
         白馬三山

 また、河川の長さで日本一の信濃川がある。
 信濃川は、長野・新潟県境で「千曲川」から「信濃川」と名を変えて日本海に注いでいる。流路延長は、三百六十七㎞で全国一長く、長野県内の延長は二百十三㎞で、流域面積は、利根川、石狩川に次いで第三位である。
 面白い事に、就業率と、高齢者就業率でも日本一なのである。
 平成17年の長野県の就業率は61.3%で、五年ごとに実施される国勢調査で、昭和60年以降、いずれも全国一高い率となっている。工業立地に恵まれない県なので不思議に思っていると、なるほど、総農家数でも昭和50年以降日本一なのである。
 平成17年度の、全国の農家数は2,848,166戸で、長野県はその中の4・4%~占めている。
 この故に、長野県は「農業先進県」と称され、実に多くの農業生産品を全国へ送り出している。

 主な日本一の農業生産量を誇る農業生産品を列挙すると、
 巨峰(ぶどう)生産量。22,600t。北信、長野地域が主産地。
 プルーン生産量。2,214t。長野、佐久地域が主産地。
 あんず生産量。1,324t。千曲市、長野市が主産地。特に千曲市森の、あんずは一目十万本と言われ、春は大勢の花見客が訪れる。
 くるみ生産量。145t。東御市が主産地。
 ブルーベリー生産量。332t。
 レタス生産量。174,700t。佐久、上小、松本地域が主産地。

      
         レタス

 セロリー生産量。13,900t。諏訪、松本地域が主産地。
 加工用トマト生産量。16,300t。松本、上伊那、上小地域が主産地
 パセリ生産量。1,550t。諏訪、松本地域が主産地。
 つけな(多くは野沢菜)生産量。36,000t。佐久、松本、長野地域が主産地

      
         野沢菜

 カーネーション生産量。71,100千本。諏訪、佐久地域が主産地
 えのきたけ生産量。78,100t。北信、長野地域が主産地。
 まつたけ生産量。35t。三年連続日本一。
 なめこ生産量。5,335t。これまで常に全国 一。
 水稲の単位当たりの収穫量。
 平成20年産水稲十アール当たり収量は634㎏で、全国平均の543㎏を大きく上回って全国一。
 うさぎ飼養羽数。主に血清用、実験動物用として飼養されている。15,000羽。
 寒天の出荷額。10,101百万円(国内シェア77.9%)
 味噌の出荷額。51,582百万円。
 ジュースの出荷額。77,767百万円。
 野菜缶詰(瓶詰・つぼ詰を含む)。6,991百万円

     

 これら農業生産品は、本来農業に適さない寒冷地であり、しかも平地の少ない山間部の多いという悪条件を克服して、成し遂げられている。だから、水稲の単収では日本一とは言うものの、稲作地域は限られている。
 この故にこそ、先進農業としての作物研究がなされた結果であろう。そして、その先進農業のお陰で、総農家数で日本一となり、就業率でも日本一となっているのであろう。
 ところで、その先進農業に従事する人々が多い故か、一人当たり老人医療費は全国一低いのである。当然、長野県の平均寿命は全国に比べて高く、平成17年では、男性が七十九・八歳で全国一位 、女性が八十六・五歳で全国五位となっている。
 人間は、やはり体を使い、自分の役割を果たすことで、活き活きと長生きできるのであろう。

 長野県では、農業以外の工業製品でも日本一がある。
 まず、小型モータの出荷額で、日本一である。

      

 携帯電話のバイブレーター、デジタルカメラの駆動部分等に使用される小型モータである。
 また、顕微鏡・拡大鏡(国内シェア79.9%)、眼鏡レンズ(コンタクトレンズ含む)の出荷額でも日本一である。
 次に、ギター(電気ギター含む)や縫針・ミシン針の出荷額でも日本一である。
 変わったものでは、打上花火等の生産額でも日本一である。

 長野県における花火の歴史は古く、江戸時代から作られていたという。特に打上花火等(打上花火と仕掛花火)の生産が盛んであり、精巧で精緻な技術力は高い評価を受けているという。 
 精緻な技術力のついでに、時計についても簡単にふれる。
 かつて製糸業で栄えた信州・諏訪湖一帯に生まれた時計工場があった。
 後に、創業期の服部時計店(セイコー)の工場部門「精工舎」の傘下に入り「第二精工舎」諏訪工場と称し、工場長は地元商店街の時計店店主だった山崎久夫である。
 化学繊維の登場で壊滅的な打撃を受けた町を、何とか蘇らせたいと時計作りを決意したのである。
 職を失っていた女工を雇い、ゼンマイ腕時計の生産を開始した。
 女工たちが繊細な指先で組み立てた時計は、その正確さで評判となった。

       
            1920年の精工舎全景

 後に独立し「諏訪精工舎」となっているが、さらにエプソン(株)と合併し、セイコーエプソン(株)となっている。現在でも、はやはりセイコーグループの一員である。
  この諏訪精工舎の当時、不可能と言われていたクオーツ時計を、世界に先駆けて開発している。今やクオーツ時計は、全世界の腕時計の98%を占めるまでになった。
 高給時計の分野で言えば、やはり日本一なのである。
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長野市

 北信濃の東端に位置する長野市は、長野盆地にある善光寺の門前町として古来より繁栄してきた。
 長野の名は、善光寺の所在地の水内郡(現埴科郡(はにしなぐん))長野村に由来し、現在の県名にもなっている。長野村という地名は、中世末期から見られ、中世末から近世にかけての水内郡長野村は、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する。
 慶長六年(1601年)に、水内郡箱清水村、七瀬村、及び三輪村の一部ともに善光寺領とされた。
 また江戸時代には、信濃最大の十万石の松代藩の藩領でもあり、城下町でもあった。
     
     
         長野市航空撮影

 長野村のうち、善光寺南の参道は門前町として、また北国街道が通っている事から宿場町としても発展した。
 市街地化した区域、および松代藩領で、隣接して同様に市街地化した妻科(つましな)村(現長野市大字南長野)及び権堂村(現長野市大字鶴賀の一部)のそれぞれ一部も含めて、町場全体の総称として善光寺町という呼称が行われるようになった。
 その結果「長野村」とは、同村のうち町場の「善光寺町」および善光寺境内を除いた北西部の農村区域を指すものとされていた。ただ、検地帳上の公的な村名は、善光寺町の区域も含めて「長野村」であり、そのまま明治維新後に至った。

    
       長野市街
 
 長野市は、明治三十年四月に、 上水内郡長野町の区域が長野市として誕生している。
 以後近隣の町村合併を繰り返し、昭和四十一年 に篠ノ井市、埴科郡松代町、上高井郡若穂町、更級郡川中島町、更北村、上水内郡七二会村、更級郡信更村を合併し、ほぼ現在の市域となっている。
 長野新幹線が開通したことにより、最短で東京→長野を 1時間25分で結んでいる。
 長野新幹線の駅は、東京、上野、大宮、熊谷、本庄早稲田、高崎、安中榛名(はるな)、軽井沢、佐久平、上田、長野となっている。この長野新幹線に、軽井沢から東京間を利用したことが一回だけある。
 文友社のクローバー会のゴルフが軽井沢の名門コースで行われた帰りに、長野新幹線に乗っている。行きは、文友社の東京本社から車に便乗させて貰ったが、帰りは時間の都合で長野新幹線を利用した。
 また高速道路も整備され、東京(練馬IC)→藤岡JCT→長野IC で、約2間15分とある。 大阪からは、大阪(吹田IC)→小牧JCT→岡谷JCT→長野IC 約五時間十分とあったが、渋滞で実際には松本ま迄で、八時間近く要した。
 有名な千曲川にほぼ沿うように、上越自動車道路が通っている。
 長野市の現在の人口は三十七万余の中核都市で、長野県の県庁所在地である。
 ついでながら中核都市とは、日本の大都市制度の一つで、現在の指定要件は、法定人口が三十万人以上であり、所属する都道府県議会と、その市自身の市議会の議決を経て、総務大臣へ指定を申請する。さらについでながら、日本の大都市制度には、政令指定都市・中核市・特例市の別がある。
 いずれも都市の規模に応じ、市に都道府県の事務権限の一部を移譲する制度であり、中核市には、政令指定都市に準じた事務の範囲が移譲されている。
 余談ながら、東京都を除く府県で二つの「政令指定都市」が存在しているのは、神奈川県(横浜市・川崎市)と大阪府(大阪市・堺市)だけである。
 
      
         善光寺と長野市街

 長野市は、1998年長野冬期オリンピックが開催されたことで、世界に知られる都市となっている。このため、長野市オリンピック記念アリーナがあり、俗称エム・ウェーブと称されている。アリーナの断面構造が、英文字の『M』に似ているため、エム・ウェーブとも称されている。元来は、信州の山並みをイメージした構造であり、天井の梁には地元長野県産のカラマツ材を用いている。

         
            長野市オリンピック記念アリーナ

 長野オリンピックの、スピードスケート会場として建設され、同大会では男子五百mで、清水宏保選手の金メダルなどで沸いた。このアリーナは、世界でも有数の高速リンクの四百mダブルトラックを有する、屋内スケートリンクとして営業している。2002年にはフィギュアスケートの、世界選手権も開催された。2004年には、 世界スプリント選手権も開催されている。

     

 冬季営業外では、各種スポーツ大会、大規模展示会のほかコンサートなどの興行も行なわれる。
 また国立大学の信州大学の本部が、善光寺の近くにある。信州大学は、旧制松本高等学校、新八医科大学である旧制松本医科大学(旧松本医学専門学校)、旧制長野県立農林専門学校(旧長野県立農林専門学校)、旧制上田繊維専門学校(旧上田蚕糸専門学校)、旧制長野工業専門学校(旧長野高等工業学校)、旧制長野師範学校等を統合し、1949年に新制大学となっている。
 繊維学部があるのは、信州の地が、かつて生糸の産地であった土地柄を反映している。
 現在、この繊維学部を設置しているのは信州大学のみであり、日本における繊維素材科学研究においては屈指の学術機関である。
 「繊維」に関する論文数では、世界の10%弱を報告し、世界トップを誇り、「ナノファイバー」では、国内一位、世界ランキング五位となっている。 また、国立大学の中で最も高い場所(農学部の標高773メートル)にキャンパスを有する大学であり、歴史的経緯から典型的なタコ足大学として語られることが多い。





松代藩

 江戸時代松代藩は、信濃国埴科(はにしな)郡松代町(現在の長野県長野市松代町)にあった。
 信濃国内の藩では最高の石高を有し、長野市の松代城を居城とし、川中島四郡を領した。
 川中島四郡は、信濃国北部の高井郡、水内郡、更級郡・埴科郡の四郡を指し、戦国時代の川中島の合戦で武田氏と上杉氏の係争地となった所である。
 その支配の中心は、武田信玄が、上杉謙信との戦に備え、山本勘助に命じて築城させた海津城(後の松代城)に置かれた。
 松代藩主は、酒井家(左衛門尉)、松平家(越前)、真田家が代々統治し、真田家十代で明治維新を迎えている。

         

  
 信濃の近世大名領の成立は、関ヶ原の戦い後の、森忠政が十三万万七千石で川中島に入封したことに始まっている。
 森忠政は、「右近検地」と呼ばれる徹底的な検地により、川中島領の領国化に勤めたが、全領一揆が起こり十分な成果が上がらぬまま慶長八年(1603年)美作国津山藩に転封となっている。
 その後、徳川家康の子の松平忠輝が、慶長十五年(1610年)までの七年間、十四万石を領有し、のち越後高田藩へ居城を移した後も、元和二年(1616年)改易されるまでの間領有した。この期間を特に、一般には川中島藩と呼んでいる。
 
 元和二年(1616年)に、結城秀康の子松平忠昌が十二万石で藩主となって以降、松代藩領と呼ばれるようになった。結城秀康が転封となり、次いで酒井忠勝が、十万石で松代藩主となった。
 更に元和八年(1622年)に、酒井忠勝が転封となり、信濃国上田藩から、真田信之が十三万石で藩主とんった。後、明暦四年(1658年)に、三代真田幸道の相続時に、分地の沼田領三万石が独立し、以後十万万石の松代藩として、幕末までこの地は真田家の所領として続いた。

    
       真田十万石祭り

 真田家は、その出自から外様大名とされることが多いが、幕府の扱いは譜代大名であった。この扱いは、豊臣政権下での真田昌幸(信之の父)が、徳川家康の与力大名であった事と、真田信之の妻が、徳川家康の養女(本多忠勝の実娘)であった事で、譜代大名扱いを受けた。
 なお、支藩(分地)としては、沼田藩以外に埴科(はにしな)藩もあったが、後年断絶している。
 真田信之は、上田藩時代より蓄財した二十万万両という大金をもって松代藩に入城したという。このため当初は裕福であったが、三代幸道の時代、幕府による度重なる手伝普請などの賦役(ふえき)により、信之の遺産を使い果たした。
 また、享保二年(1717年)松代城下は大火に見舞われ、復興に幕府より一万両を借り受け、逆に借財を抱えるようになった。
 四代真田信弘は、質素倹約を旨とし財政は持ち直した。
 ところが、五代信安の時代、松代城下を襲う水害に見舞われ、再び幕府より一万両を借財し、千曲川の河川改修が行われ、再び財政は悪化した。
 信安は、河川改修の中心を担った原八郎五郎を家老に抜擢し、家臣給与の半知借上、年貢の前倒し徴収を行うなどの財政再建に努めた。ところが、これが家臣の反発を招き、足軽によるストライキという、全国的にも極めて稀な事態となった。
 その後も財政再建に苦しみ、藩内でさまざまな騒動を起こしている。

 幕末期の八代真田幸貫が、老中として幕政に関与している。
 真田幸貫は、寛政の改革を主導した松平定信の子(第八代将軍徳川吉宗の曾孫に当たる)であり、幸貫以降、真田家は国主以外で自分の領地の国主名を名乗れるという特権を得ている。また、幕末の奇才で有名な佐久間象山を登用している。
 弘化四年(1847年)、善光寺地震が発生し、また復旧資金の借り入れにより、藩債は十万万両にも達した。さらに九代真田幸教は、ペリーの浦賀来航時に、横浜警備を命じられ藩財政は破綻寸前となった。
 ところが、明治維新の際には、比較的早くから倒幕で藩論が一致し、戊辰戦争には新政府軍に参加するという、離れ業を演じている。これこそ、戦国武将として乱世を生き抜いた真田昌幸の処世術が、末代で生かされたと言えるであろう。
 明治四年(1871年)廃藩置県により、松代県となり、その後、長野県に編入された。
 明治十七年(1884年)の華族令施行に伴い、真田藩主家は子爵を授けられた。(のちに伯爵)




真田十勇士

 松代藩主となったのが、真田昌幸の長男が真田信之であり、次男が真田幸村である。 真田幸村の配下の「真田十勇士」として子供時代から親しみを持っている。
 筆者の子供時代には、豪傑伝や真田十勇士の武将漫画が流行していた。
 特に猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道等の名を今でも覚えている。猿飛佐助は、甲賀流の忍者として描かれており、謂わば忍者物の初代であろうか。

     
         真田十勇士

 信濃の戸隠(とがくし)山にある鳥居峠の麓に住む郷士の息子で、猿と遊んでいたという。
 やがてその才能を見いだされ、真田幸村に仕え、霧隠才蔵、三好清海入道らと共に、真田十勇士の一人として知られる。 
 知将真田幸村の下で、小人数で大軍を翻弄するという痛快な時代劇漫画であったと記憶している。
 司馬遼太郎の『風神の門』には、明治末期~大正年間に「立川文庫」の作者達が創作した説を紹介し、猿飛佐助の命名は、作家達が作り上げた説を補筆しているが、その存在を、司馬遼太郎は「なかば真実かもしれない」としている。
「すでに江戸時代には、大阪の庶民の間で語りつがれていた」とする説を紹介し、『淡海故録』および『茗渓事蹟』を出典に、「三雲佐助賢春」が猿飛佐助であると実在説を支持している。
 それ以外にも、伊賀下忍・下柘植ノ木猿の本名が上月佐助である事から、上月佐助こそが猿飛佐助であるとの実在説もある。
 これについては、大阪夏の陣後、家康の命を受け、服部半蔵宗家が、本拠地の三重県柘植野を徹底的に殲滅・残党狩りをしている。
 大阪夏の陣で、当時の忍術(諜報・特殊部隊)を駆使したことの傍証とも取れる。
 ともかく実在にしろ

架空にしろ、「立川文庫」最大のヒーローとして、庶民に親しまれて来た事には変わりない。
 存在が曖昧であるからこそ、想像する楽しみがあるとし「実在か架空かを断じる事こそが、野暮である」と考える人もある。
 真田十勇士の原型は、江戸時代中期の小説『真田三代記』に見られるが、「真田十勇士」の表現を初めて用いたのは、大正時代に刊行された立川文庫である。
 真田十勇士は、架空・伝承上の人物ながら、歴史的な由来を持つ人物でもあり、また実在を唱える説、実在の人物がモデルであるとする説も多い。
 現在のヒーローとしてのイメージは、「立川文庫」によって定着したものである。
 小説・映画・人形劇・アニメなどの、派生作品が制作されており、彼らに影響されたキャラクターが数多く生み出されている。
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真田昌幸

 真田氏の話を続ける。
 真田昌幸を「表裏比興(ひきよう)の者」と評した文書がある。
 これは天正十四年(1586年)の上杉景勝上洛を、秀吉がねぎらう内容の文書で、豊臣家奉行の石田三成・増田長盛が、景勝へ宛てている添書条に記されている。
 これは家康上洛に際して、家康と敵対していた真田昌幸の扱いが問題となった。このため家康の真田攻めで、上杉景勝が、真田昌幸を後援することを禁じた際の表現で、「比興」は現在では「卑怯」の当て字で用いられる言葉ながら、「くわせもの」あるいは「老獪(ろうかい)」といった意味で使われ、武将としては褒め言葉である。
 これは、地方の小勢力に過ぎない昌幸が、周囲の大勢力間を渡り歩きながら、その勢力を拡大させていった手腕(知謀・策略)と、場合によっては大勢力との衝突(徳川との上田合戦等)も辞さない手強(てごわ)さを、合わせて評したものである。
 実際、昌幸を「比興の者」と評したと目される石田三成は、のちに真田家と縁を結んでいる。

        


 戦国時代の武将列伝で有名な真田昌幸は、天文十六年(1547年)、真田幸隆の三男として生まれている。天文二十二年(1553年)、七歳で武田氏への人質として甲斐へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった。 武田信玄は、昌幸の父の真田幸隆にも劣らぬ才能を早くから見抜いて、「我が眼」と称して寵愛したと伝えられている。

        
            武田晴信(武田信玄)

 昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」を称した。
 初陣は、『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄四年(1561年)の、第四次川中島の戦いと言われ、足軽大将となり、武田家奉行人にも加わったと言われている。
 元亀三年(1572年)から、武田信玄の上洛作戦に参陣し、三方ヶ原の戦いにも参加している。
 元亀四年(1573年)、武田信玄が病死すると、家督を継いだ武田勝頼に仕えた。

 天正二年(1574年)に、父の幸隆が死去した。このとき既に真田家の家督は、嫡男の真田信綱が継いでいたが、天正三年(1575年)の長篠(ながしの)の戦いで、真田信綱と次兄の昌輝が討死したため、昌幸は真田姓に復し、真田家の家督を相続した。 
 武田家の勢力が三河、遠江から大きく後退し、真田昌幸の岳父(がくふ)尾藤頼忠は、兄が羽柴秀吉の家臣となっていたのを頼り、近江に行き秀吉の弟の秀長の家臣となっている。
 天正六年(1578年)、越後の上杉謙信の死後に、甲越同盟が成立すると、真田昌幸は北条氏の所領であった東上野(こうずけ)の沼田領へ侵攻し、沼田城や名胡桃(なぐるみ)城などを奪取している。

        
            名胡桃(なぐるみ)城跡

 天正九年(1581年)、武田勝頼の命で、新たに韮崎(にらさき)へ築城された新府城の作事奉行を務めた。 
 天正十年(1582年)、織田信長による武田征伐が開始された。
 すでに長篠の戦いで衰退し、団結力も崩壊していた武田軍には、組織的な抵抗力が無く、織田軍に次々と領土を侵食されて行った。
 なお江戸期編纂の文書に拠れば、このとき昌幸は、勝頼に甲斐を捨て、上野(こうずけ)吾妻に逃亡するように進言し、岩櫃城(いわびつじよう )へ迎える準備をしていたが、勝頼は小山田信茂の居城・郡内岩殿城を目指して落ち、その結果途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになった。
 このような武田家への忠誠を示す逸話が知られているが、一方で武田滅亡以前から北条氏直との接触をしていたともいう。

          
              織田信長

 ともかく武田氏滅亡後、真田昌幸は機敏に情勢を判断して、織田信長の家臣となり、本領を安堵され、織田家の重臣・滝川一益の与力武将となった。
 織田氏に従属してから、僅か三ヶ月後の天正十年(1582年)六月、本能寺の変で織田信長が横死すると、旧武田領の織田勢力は衰微し、甲斐・信濃・上野(こうずけ)の空白地帯をめぐって徳川家康、北条氏直、上杉景勝らが争った。真田昌幸は、滝川一益の配下として神流川(かんながわ)の戦いに敗れると、逆に北条氏直に臣従し、北条家の信濃侵攻の先手を務めた。
 与力分の依田氏も、北条に引き込み、信濃の北条支配を実現するかの動きであった。

           
             北条氏直

 ところが一転して、徳川家康の懐柔に乗り北条を裏切っている。これが契機となって、徳川と対陣する北条は和睦の途を選択する。 しかし、北条との大同団結を選択した徳川家康は、北条氏直に和睦の条件として、上野の沼田領を譲渡するという条件を出した。
 真田昌幸は自力で獲得した沼田割譲について、代替地が不明瞭だったことに反発、今度は、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に臣従している。

            
               上杉景勝

 これは徳川・北条連合と対立していた上杉・羽柴連合への参加に他ならない。
 天正十一年(1583年)、真田昌幸は千曲川領域を抑える城が必要になり、川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする地に、松尾城(後の上田城)と、その周囲に当時流行の城下町も築いた。
 天正十三年(1585年)、真田氏の制圧を狙った徳川家康と、北条氏直は、約七千の兵力を、真田昌幸の居城である上田城に、北条氏邦を沼田城に侵攻させた。
 真田昌幸は、わずか二千の兵力で、徳川軍に大勝をおさめている。
 この第一次上田合戦を契機に、真田氏は、武田の旧臣から、信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。

           


 同年には、次男の信繁(幸村)が景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、真田昌幸は正式に豊臣家に臣従した。
 このように記すと、如何にも節操がなかったように見えるが、司馬遼太郎によると、戦国時代というのは、如何にその家系を残すかが重要な命題であり、様々な状況判断と、主君の能力を見て、その能力と運を持った武将に仕えるのが当然とされていた時代であったという。
 翌天正十四年(1586年)には佐久に侵攻し、後北条氏の沼田城攻めを招き、家康との対立も続いていたが、同年には秀吉が争いを止めさせ、真田昌幸ら信濃の諸大名を家康の与力衆とした。
 翌天正十五年(1587年)に、秀吉の命により真田昌幸は駿府で家康と会見し、結果として徳川家康は大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となっている。
 
         
            豊臣秀吉

 秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が政権の実権掌握し、慶長五年(1600年)七月、家康は上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた昌幸もこれに従っている。
 ところが、家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送り多数派工作を始めた。
 この時、真田昌幸は、下野国(しもつけこく)犬伏で書状を受け取った宇田氏を通じ、石田三成と姻戚にあった関係から、次男の信繁(幸村)と共に西軍に与し、上田城へ引き返している。
 このとき長男の真田信之を、徳川方に与させている。これは西軍が勝っても、東軍が勝っても、真田家が生き残れるよう、したたかな手を打っているのである。
 こうして真田信之は東軍に参加し、戦功ををたて、結果的には真田信之の真田家は、戦後に上田城を安堵され、のち松代藩の藩主として明治時代まで真田家の命脈を保っている。

 さて、石田三成の挙兵に対して、これを打つべく、東軍先鋒の徳川秀忠の部隊およそ三万八千の大軍は、江戸を発して中仙道を下った。九月十二日には、これに対抗する上田城攻略を開始した。
 真田昌幸は、僅か二千の兵力で篭城して迎え撃ち、関ヶ原の戦いの前哨戦である上田合戦が行われた。ところが、昌幸の知略縦横無尽の戦略に翻弄され、ついに秀忠軍は美濃への着陣を促され、上田攻略を諦めざるを得なかった。

      

 徳川秀忠軍の上田合戦は、結果的には、秀忠軍を関ヶ原合戦の参陣を遅らせる要因となっている。
 関ヶ原の戦いでは西軍が敗れ、戦後処理における処分は『上田軍記』などに拠れば、昌幸と信繁(幸村)は、上田領没収と死罪が下されるが、東軍に属した長男の信幸(後の信之)の助命嘆願で赦免され、上田領は信幸に安堵された。
 十二月には、紀伊高野山麓の九度山に蟄居させられた。
 当初は高野山配流であったが、信繁(幸村)が妻を伴っていたため、「女人禁制」の関係で九度山に代わったと言われている。 九度山では、上田藩の信幸から援助を受けつつ、真田庵で暮らした。
 後世に便利物と名高い「真田紐」を作成し、全国に売り歩かせ、全国の情報をあつめて分析し、再起を狙っていたという。真田昌幸は、晩年には赦免を願っていたが病を得て、慶長十六年(1611年)に病没している。享年六十五歳であった。
 
         
            真田紐

 ところで、真田幸村は、豊臣家の遺臣たちによって、大阪冬の陣と夏の陣で活躍している。
 真田昌幸の晩年、幸村は大坂城方に参陣するにあたり、助言を請うたところ、
「おまえは残念ながら、わし程の働きは出来ぬ」
と言った。幸村は、何か秘策があれば教えてほしいと懇願すると、
「おまえは、戦略や策においては、わしより勝っている。ただ残念ながら、わしのような実績と武名がない。だから、わしのような働きができない。策というのは、実績とその武名があってこそ、その働きができる」
と言ったという。
 事実、真田幸村は、その戦略に置いては並び立つ者が無いほどに優れた頭脳を持っていたし、現に大阪城に入城して、様々な献策を行った。 が、その実績が無かったために、総大将になれず、一侍大将としてしか活躍の場を与えられず、豊臣方の拙劣な戦略であえなく落城している。

       
          真田丸の想像図

 それでも、幸村の築いた真田丸によって徳川方は翻弄され、真田家の武名を残している。
 真田丸の跡は、現在真田山として天王寺付近にその名を今日も止めている。





千曲川


 何十年ぶりかに松本や長野を訪れたため、長野の風土や小笠原氏、真田氏に深入りしすぎた。旅を急がねばならない。善光寺仲見世通りで蕎麦を食べたのが12時まえで、蕎麦を食べるとすぐに車をだした。
 次の目的地は諏訪湖にした。帰りの渋滞も予想されるから、他に立ち寄るには時間が足りない。諏訪湖なら帰り道に近いからである。
 途中、高速の千曲川PAに12時50頃に到着し、トイレ休憩した。
 長野自動車道路は、この千曲川に概ね沿って走っている。ここでは、用をたしてすぐに出発したが、この稿では、千曲川について簡単にふれておきたい。

     
         犀川(さいかわ)と合流する千曲川  長野市

 千曲川は、新潟県にはいると信濃川にその名を変え、日本一長い河川であることはすでに述べた。 千曲川の流れは、山梨県、埼玉県、長野県の三つの県境が交わる甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)を源流として、川上村、佐久、小諸、上田、長野を流れ、新潟県へ入る。長野市に入ると、松本方面から流れてくる犀川(さいかわ)と合流する。
 犀川は、安曇村の北アルプスの槍ヶ岳を源流とし、梓川として安曇(あずみ)平を流れ、楢川村を源流とする奈良井川と、松本で合流し犀川と名前がかわる。日本一長い河川のため、幾つもの川と合流している。自然豊かな千曲川は、かつて武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の決戦が行われた古戦場としても有名である。
 また、旅情をさそう詩でも有名である。特に島崎藤村の詩が有名である。

「小諸なる古城のほとり」
 
  小諸なる古城のほとり
  雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
  緑なす蘩蔞(はこべ)は萌えず
  若草も藉(し)くによしなし
  しろがねの衾(しとね)の岡辺
  日に溶けて淡雪流る

  あたたかき光はあれど
  野に満つる香りも知らず
  浅くのみ春は霞みて
  麦の色はつかに青し
  旅人の群はいくつか
  畑中の道を急ぎぬ
  暮れ行けば浅間も見えず
  歌哀し佐久の草笛
  千曲川いざよふ波の
  岸近き宿にのぼりつ
  濁り酒濁れる飲みて
  草枕しばし慰む


       

「千曲川旅情のうた」  

  昨日またかくてありけり
  今日もまたかくてありなむ
  この命なにを齷齪(あくせく)
  明日をのみ思ひわづらふ
 
  いくたびか栄枯の夢の
  消え残る谷に下(くだ)りて
  河波のいざよふ見れば
  砂まじり水巻き帰る
 
  鳴呼(ああ)古城なにをか語り
  岸の波なにをか答ふ
  過(いに)し世を静かに思へ
  百年(ももとせ)もきのふのごとし
 
 
  千曲川柳霞みて
  春浅く水流れたり
  ただひとり岩をめぐりて
  この岸に愁(うれひ)を繋(つな)ぐ
 




島崎藤村

 島崎藤村は、長野県山口村(馬籠(まごめ) 現在の岐阜県中津川市)出身で、本名春樹で、生家は中山道(なかせんどう)馬籠宿の本陣、庄屋・問屋も兼ねた名家に生まれている。
 上京して明治二十四年(1891)、明治学院(現明治学院大学)卒業し、仙台の東北学院教師時代、『文學界』に参加し、浪漫派詩人として詩集「若菜集」を出版している。
 この詩集によって、近代叙情詩の創始者として名声を得た。
 明治学院時代の恩師の木村熊二に招かれ、明治三十二年(1899)、信濃の小諸義塾に赴任し、六年間小諸で過ごした。小諸時代に作家に転じ「破壊」によってその地位を確立した。

          
            島崎藤村

 この頃から現実問題に対する関心が高まり、散文へと創作法を転回している。
 小諸を中心とした、千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。
 自伝的小説へと向かい、『破戒』『春』などを著し、田山花袋らと共に自然主義文学の方向を決定した。
 ほかの作品に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした、晩年の歴史長編「夜明け前」では、幕末・明治維新を生きた父島崎正樹の生涯を描いた大作である。
 「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」
 で始まる冒頭の記述は、当時の木曽路の有様を生き生きと表現している。
 夜明け前の原稿は、生家の馬籠本陣跡に建てられた藤村記念館に展示されている。

     
         藤村記念館

 この「千曲川旅情のうた」は、藤村の代表作として親しまれてきた詩でであり、小諸時代の藤村が、千曲川の旅情を詩情豊かに歌い上げたものである。
 広田瀧太郎がつけた曲が有名である。小諸城趾「懐古園」に、この歌の歌碑と、「藤村記念館」があり、小諸時代の藤村を偲ぶことが出来る。

 島崎藤村は、自作でさまざまに、「親譲りの憂鬱」を深刻に表現した。これは、父親と長姉が、狂死したこと。
 すぐ上の兄の友弥が、母親の過ちによって生を受けた、不幸の人間であったこと。
 後に藤村自身が、長兄の娘、つまり姪のこま子と不倫事件を起こしている。この事は、次兄の計らいによって隠蔽された。翌年から、留学という名目で三年間パリで過ごし、帰国した後、またこま子との関係が再燃してしまう。この姪との過ちの近親相姦については、のちに藤村自身が『新生』に著している。
 藤村のこま子との不倫事件の時、兄の口から、「実は、父親も妹と関係があった」ことを明かされている。 これらの事から、藤村自身について、「血の呪い」を深刻に感じていたとされている
 藤村の親類にあたる精神科医の島崎敏樹は、藤村自身が奇人であったこと、彼の子供達の幾人かに、精神病気質が見られたことを伝えている。
 ただ、島崎藤村の「詩」は、アルプスの山々から流れ下る清冽な流れのような、透き通るような人間の詩情をかき立て、未だに歌い継がれている。
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諏訪湖PA

 少し寄り道したが、諏訪湖PAに到着したのが、三時頃である。
 長野自動車道路から、山梨方面の中央自動車道路に乗り入れると、延々と渋滞に巻き込まれてしまった。
 たまたま、この八月十五日が「諏訪祭り」の日で、諏訪湖湖畔で盛大な花火大会がある事を、道路規制標識で知った。
 本来は、諏訪ICで降りて、諏訪湖を楽しみ、諏訪神社を参拝して帰路につく予定であったが、この渋滞で身動きが取れなくなってしまったのである。
 やむなく、諏訪湖PAで諏訪湖を遠望して帰ることにした。

     

 知らなかったが、この諏訪湖PAそのものが、花火見物の絶好ポイントで知られ、早々と駐車して場所取りしている人が多かったのである。
 このため、諏訪湖PAへの入り口は交通規制があり、ピタリと車が動かなくなった。
 何度も列を離れて、諏訪ICで降りて、Uターンして帰路につくべきかと迷った。ところが、諦めかけていると、一 台車が動く。また暫く待つうちに、気の短い車が、諦めて列を離れた。こうして、四十分も待つうちに、運良く何とか諏訪湖PAに駐車することができた。
 はるぱる大阪から諏訪湖までたどり着いたから、とりあえずは、トイレの用を済ませるとその風景を楽しんだ。
 パーキングエリアは高台にあるため、その境界に沿って低い屏があった。屏の外はなだらかな傾斜地であった。この屏に腰掛ければ、眼下に諏訪湖の眺望を楽しめる。
 花火大会を見物する絶好の見物場所のため、既に場所取りされていた。
 場所取りした人は、時間も早いから、それぞれ車で昼寝するか、サービスエリアの施設を利用しているのか、誰も居なかった。





諏訪湖花火大会 
 
 長野の日本一について触れた稿で、打上花火等の生産額でも日本一と書いたが、その故か諏訪湖の湖上花火大会は相当の規模らしい。
 第61回(平成21年8月15日)「諏訪湖祭湖上花火大会」の概要は、打ち上げ数37セット予定とあり、約四万発も打ち上げられるらしい。
この打上総数と規模ともに全国屈指の花火大会とあった。
 「宗教行事」として毎年月八月一日に行われている、大阪のPL花火大会の規模を調べると、公称十万万発~十二万発だったが、2008年より数え方を玉数から打上げ数に変更したため、二万発となったが規模は変わらないという。 諏訪湖の花火大会が、打上げ数で約四万発なら、大阪のPL花火大会の倍ほどの規模となるから凄いものであろう。

      

 費用を調べてみると、昨年の実績でスポンサーの協力により、約八千三百万余円の協賛金が寄せられ、60回の記念大会にふさわしい、全長二㎞のナイヤガラなど圧倒的なスケールを誇る演出が目白押しで、四万三千発が打ち上げられたという。
また、四方を山に囲まれた諏訪湖から打ち上がるため、その音は山に反響し体の芯まで響き、迫力満点で、 昨年の人出 約五十万人、露店数約600店の規模だという。
 花火大会の主催者は、諏訪湖祭実行委員会であった。

       

 ところでこの花火大会は、有料の見物席が設けられ、特別マス席一マス(20人)で十二万円、一般マス席で十万円と大層な金額である。接待などに利用されているのであろう。
 他に一般の湖畔ブロック席四千円、湖湖畔の石彫公園、湖畔公園の自由席は三千円、近くの公園の自由席では、二千五百円、湖上の仕掛け花火が見えない立地の悪い旧東バル跡地自由席で、千円とあった。しかし今まで花火を数千円も支払って見物したことがない。
 諏訪湖の花火大会は、主催は諏訪市観光協会、後援は市・商工会議所・南信日日新聞社などで昭和24年に始まっている。
 なお、ここでは別に九月に「全国新作花火競技大会」も実施されている。
 諏訪湖は、花火の打上げ場所と観覧場所として全国でも有数のロケーションであり、この諏訪湖を舞台に、全国の意欲ある若手煙火師が、従来の枠にとらわれない斬新な発想と、独創の技術で創作した芸術性の高い新作花火を競う大会とあった。
 無論この花火大会も有料とあった。





諏訪湖

 諏訪湖は、長野県岡谷市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町にまたがっている。
 河川法では、天竜川水系の一部として扱われている。湖沼水質保全特別措置法指定の湖沼である。
 諏訪湖はかつて非常に水質のよい湖であり、江戸期には琵琶湖や河口湖から蜆(しじみ)が放流され漁業も行われていた。 しかし、戦後の高度経済成長期にかけて生活排水などにより、湖の富栄養化が進み、水質が悪化した。 特に七十年代から八十年代にかけては、アオコが大発生し湖面が緑色になり、悪臭が漂い発泡するといった環境悪化が見られた。
 近年は、市民や行政が積極的に水質改善に取り組み、現在では大幅に水質が改善されているものの、かつての姿を取り戻すまでには至っていない。
 
     
          諏訪湖

 かつては、毎年のように分厚い氷が湖面をおおい、湖面ではワカサギの穴釣りをはじめ、アイススケートなども行われていた。 近年は水質悪化や地球温暖化などが原因となり、全面氷結が見られる年は年々減少している。また、氷の厚さも薄くなっており、スケートなどを行うのは危険となっているという。ただ、ワカサギの穴釣りを楽しむ観光客がたくさん訪れている。

 諏訪湖では、「御神渡(おみわた)り」と称される現象が起きる。
 冬期には、諏訪湖は氷結する。
 氷は、膨張した後に更に気温が下がると収縮する。この為、気温が下がる夜中に、氷が収縮し亀裂が入る。
 その亀裂の隙間に水が入り、薄い氷ができる。
 日中、気温が上がると、氷はまた膨張し、周囲から圧力がかかって薄い氷が割れ、湖水が吹き上げられる。
 これが連続し繰り返されると、「御神渡(おみわた)り」と称される。

      
          御神渡(おみわた)り

 正確には、諏訪大社の上社から、下社の方向へ向かうものを御神渡という。
 伝説によると、上社の男神の「建御名方命(たけみなかたのみこと)」が、下社の女神である「八坂刀売命(やさかとめのみこと)」に会いに行った足跡とも、ミシャグチ神が通った跡とも言われている。
 神が諏訪湖へ降り立ったといわれる諏訪市側を、下座(くだりまし)、下諏訪町側の、神が岸へ上がったとされる部分を「上座(あがりまし)」という。

       

 「御神渡(おみわた)り」が観測されると、諏訪市の縣社八剱神社(やつるぎじんじや)の神主により、神事が執り行われるという。御神渡りが観測されてからは、大総代等の役員は質素な生活を送り、身を清める「精進潔斎(しようじんけつさい)」にはいり、拝観式に備える。
 御神渡りは、できた順に「一之御神渡り」「二之御神渡り」と名づけられる。そのうち、二本の御神渡りが交差するものは「佐久之御神渡り」と呼ばれる。
 御神渡りの亀裂の入り方などを過去の記録と照らし合わせ、その年の天候、農作物の豊作・凶作、世相などを占うという。 御神渡りが観測されなかった年は「明けの湖」と呼ばれる。
 御神渡りは、湖が全面結氷し、かつ氷の厚みが十分でないと発生しないので、湖上を歩けるか否かの目安の一つとなる。
 御神渡りの記録は、「神渡帳(みわたりちよう)」に記録されている。
 この記録は十四世紀頃から続いており、当時の農作物の成育状況がともに記されていることから、地球で現存する気象記録の中で、最も古い物のひとつに数えられている。

 諏訪湖の周囲は、上諏訪温泉のほか下諏訪温泉、諏訪大社などの名所が点在する観光地となっている。
 諏訪湖では、毎年夏に開催される諏訪湖祭湖上花火大会が日本有数の規模をもつ花火大会として多数の観客を集めているほか、湖畔が公園として整備されている。
 諏訪湖観光汽船の遊覧船が発着している。
  湖の東側には1954年に花火の打ち上げ場として作られた人工島の初島があり、近年では冬期にイルミネーションの設置やライトアップも行われている。
 
 また、武田信玄の水中墓伝説 もある。
 武田信玄が死に際して「自分の死を三年間秘密にせよ。遺骸は甲冑を着せて諏訪湖に沈めよ」と遺言したという。 『甲陽軍鑑』にも同様の記述がある。 このため諏訪湖には古くから信玄の水中墓伝説がある。
 国土地理院のソナーによる湖底地形調査で、湖底に一辺が25mの菱形の立体物が発見された。これが信玄の水中墓ではないかとされ、信州大学、読売新聞、日本テレビなど複数の団体が十数年に渡り調査を行った。
 最終的には、謎の菱形は湖底の窪地の影であるとの結論が出された。
 しかし、問題の菱形が自然にできたとは思えない程はっきりとした形をしており、湖底は泥が深く、目視による実地調査が困難であることから、水中墓説を支持する声は現在でも多い。

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諏訪大社

 信濃國一之宮である諏訪大社は、出雲大社や伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮、伏見稲荷大社などと並ぶ、古来から有力神社のひとつで、全国に一万を越える諏訪神社の総本社である。
 今日、大社と呼ばれるのは、島根県の出雲大社、静岡県の三島大社、長野県の諏訪大社、和歌山県の熊野速玉(はやたま)大社、熊野那智大社、熊野本宮大社、滋賀県の日吉大社、多賀大社、京都府の松尾大社、伏見稲荷大社、大阪府の住吉大社、奈良県の龍田大社、春日大社、福岡県の高良大社などがある。
 全国に神社の数はおよそ十一万社あると言われており、その中で末社の数では伏見稲荷大社を総本社とする稲荷神社が三万を越え一番多く、二番目にはおよそ二万五千社の八幡神社、そして諏訪神社は三番目に多いと言われている。

     
         諏訪大社

 「お諏訪様」と呼ばれる諏訪神社の総本社には、上社(かみやしろ)と下社(しもやしろ)がある。
 上社が本宮(諏訪市)と前宮(茅野市)、下社が秋宮・春宮(共に下諏訪町)に分かれ、二社四宮で構成されている。 明治四年までは、上諏訪社、下諏訪社として別のお宮であった。それ以前は下社と上社の間で、仲違いなどがあったらしい。明治以降は、四つのお社で一つの諏訪大社として運営され、現在もその形で宗教法人諏訪大社は形成されている。
 上社は、大国主命の子の男神「建御名方命(たけみなかたのみこと)」を祭神とし、古くは風の神、水の神、農耕・狩猟の神として信仰を集めていた。
 下社は、女神である「八坂刀売命(やさかとめのみこと)」を祭神としている。
 中世以降は、「建御名方命(たけみなかたのみこと)」を東国第一の軍神として崇拝され、名将たちが全国各地に分霊を持ち帰ったとされ、全国に一万余りの御分社が祀られているという。
 諏訪神社は、「諏訪造」と称される、本殿を持たない建築様式で、社殿と神宝は国の重要文化財に、社叢は県の天然記念物に指定されている。

      
          御柱祭

 毎年真夏に行われる御舟祭(おふねまつり)や、七年に一度の御柱祭(おんばしらまつり)は全国的に有名である。御柱祭(おんばしらまつり)は、七年目毎の寅と申の年に、諏訪人二十二万人をあげ盛大に行われる諏訪大社氏子のお祭りである。

      
          御柱祭

 その勇壮さと規模から、天下の大祭として全国的にも有名である。
 直径約一m、長さ約十七m、重さ約十二トンもの巨木を、諏訪大社氏子が総出で、山から切り出し、里へ曳き、最後には上社・下社の各社殿を囲むよう、四隅に建てられる。 巨木を山から里へと曳く「山出し」は四月に、里から各社殿へと曳き建てる「里曳き」は五月に開催している。
 また、諏訪地方の各地区にある小宮と呼ばれる神社でも、秋に御柱祭が行われるなど、一年を通して神事があるという。





高島城

 諏訪地方は、元来この地方の豪族である諏訪氏代々が支配してきた。
 その頃の高島城は、諏訪市の背後にそびえる茶臼山に築かれた中世的な山城であった。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻略し天下を統一すると、時の城主諏訪頼忠は武蔵に移され、秀吉配下の武将日根野高吉が二万七千石で高島城に入城した。
 文禄元年(1592、日根野高吉は、茶臼山の山城を廃し、諏訪湖畔に新しい城の築城に着工、慶長三年(1598)に完成した。

      
          高島城

 完成までに七年余を要したのは、文禄・慶長の役(秀吉による朝鮮出兵)のためである。
 日根野高吉が築いた高島城は、諏訪湖といくつかの河川が周囲を巡って天然の堀となり、諏訪湖の水も城壁に迫り、あたかも水中から城郭が浮き出た形であったので「諏訪の浮城」と呼ばれ、その威容を誇った。
 しかし、慶長五年(1600)の関ケ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康の天下となると、日根野高吉は、下野(しもつけ)壬生(みぶ)に転封となった。
 代わって翌慶長六年(1601)諏訪頼忠の長男諏訪頼水が、二万七千石で高島城主に返り咲いた。
 以後、諏訪氏は、先祖伝来の諏訪の地を離れることなく、高島城は諏訪氏十代の居城として明治維新を迎えている。
 諏訪氏は元々、諏訪大社の神職の出身で、諏訪大社への崇敬を通じて領民と結びついていた特異な豪族であった。 一方、日根野高吉が新しい城を築いた時、領民には重い年貢や労役が課せられ、中には村をあげて逃散した例もあるという。 関ケ原の合戦後、高島城に入城した諏訪頼水は、領民の歓呼の声で迎えられたという。それほど諏訪氏と、この地方の領民の絆は強かったといえる。

      
         高島城縄張り図

 高島城は、諏訪湖畔に突き出した小島に築かれた水城で、小規模ながらも諏訪湖と低湿地に囲まれた要害の城であった。 本丸、二の丸、三の丸、衣の渡郭の四つの郭(くるわ)から構成され、本丸西北隅に三層の天守が築かれていた。
 関ケ原の合戦後に入城した諏訪頼水は、城下町の整備につとめ、湖水の水位を下げる工事を行なったため、次第に高島城は諏訪湖から離れ、「浮城」の名とは異なる姿となってしまった。明治になって廃城となり破壊された。 
 平城としては日本で最高の標高760mの地に築かれた高島城も、現在では本丸跡が残るのみで、高島公園として整備されているが、諏訪湖岸とは離れてしまい、周囲は埋め立てられ、「諏訪の浮城」と呼ばれた面影はない。 昭和四十五年、本丸跡に三層の天守と二層の隅櫓(すみやぐら)が復元され、在りし日の高島城の姿が蘇った。天守内部は資料館となり、三階からは眼下に諏訪湖が一望できる。
 本丸跡に残る石垣は野面積みで、稜線のところだけ加工した石を用いている。
 地盤が軟弱なため、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいるのが特徴である。
 本丸跡の北側と東側の一部に堀が残り、堀越しに眺める石垣と天守や隅櫓の景観はなかなかのものという。本丸跡への入り口には冠木門も復元されている。
 高島公園内にある三之丸御殿裏門は、その名の通り、藩主の別邸であった三之丸御殿の裏門で、昭和六十三年に移築された。ここは、かつて御川渡御門と呼ばれた門があった場所で、城が湖に面していた頃は、ここから舟に乗ることができた。
 高島公園は小規模ながら、今では美しい庭園となっているが、堀、石垣、復元天守や隅櫓などから「諏訪の浮城」と呼ばれた往年の高島城の姿を偲ぶ事ができる。
 
 



駒ヶ岳PA

 諏訪湖PAで、折角駐車場を確保出来たから、花火大会を見て帰るかと少し躊躇した。
 が、三時間以上も待機せねばならず、またその後、長距離を深夜に走るのも億劫になり、花火なら大阪で見学できると思い直し、三十分程度で出発した。
 上り線にいるから、甲府方面の諏訪ICまでに走り、一旦出てすぐにユーターンして下り線に乗り、やがて長野自動車道路へ戻り、続いて中央自動車道路に乗り入れ、最初のトイレ休憩が駒岳PAであった。時間は17時23分頃であった。まだ日暮れに少しだけ時間があり、
日没前の一時を、おやつに飲むヨーグルトを食べ、一息いれた。
 
     


 ところで、今回の旅行で初めて高速道路のPAやサービスエリアに、暑さ対策として微霧を発生させるミスト機があるのを知った。かなりの勢いで、やや荒い霧を噴出しており、しばし凉を取ることができた。
 夏場のPAやサービスエリアへの集客をめざしているのであろう。
 また、パーキングエリアでも、コンビニを併設したり、スターバッスを入れたり、焼きたてパンの店を導入したりしている。 今までの官僚指導の売店だけでは魅力が薄いと、様々な活性化を図っている。これは、従来の道路公団から、民営化されたNEXCOに変わってからである。
 思えば、かつての国鉄時代から民営化されたJRになってから、様々なサービスを受けられるようになった。駅員の態度がよくなり、構内の空きスペースにコンビニが誕生したり、さまざまな店が増えたりしている。民営化するのは、それなりに利用者にとってはメリットが生まれるものである。

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駒ヶ岳

 駒ヶ岳の名称は駒とは馬のことで、山体が馬の形をしている、雪形に馬の形が出るなどで名付けられている。
 また、遊具の独楽(こま)の形に由来するという説の山もある。
 ところで、駒ヶ岳という名の山は全国にある。一部を列挙すると、北海道駒ヶ岳、秋田駒ヶ岳 、山形駒ヶ岳 、会津駒ヶ岳 、箱根駒ヶ岳、甲斐駒ヶ岳 、越後駒ヶ岳、若狭駒ヶ岳 と枚挙に事欠かない。
 木曽駒ヶ岳は、長野県にある標高2,956mの山で、木曽山脈すなわち中央アルプスの最高峰で、上松町、木曽町、宮田村の境界にそびえる。
 写真の山が、木曽駒ヶ岳で、日本百名山の一つであり、省略して「木曽駒」と呼ばれる。
 
     
        木曽駒ヶ岳

 木曽前岳(2,826m)、中岳(2,925m)、伊那前岳(2,883m)、宝剣岳(2,931m)を含め、木曾駒ヶ岳とも表記される。 新田次郎原作のドキュメンタリー小説、『聖職の碑』の舞台でもある。 二つの駒ヶ岳に挟まれる伊那谷では、本山を西駒ヶ岳または西駒、甲斐駒ヶ岳を、東駒ヶ岳と呼ぶこともある。
 標高2,650mの千畳敷カールまでは、通年運行の「駒ヶ岳ロープウェイ」で簡単に登れる。 
 大正二年(1913年)に、長野県中箕輪高等小学校(現箕輪町立箕輪中学校)の集団登山で、将棊頭山付近で校長と生徒十人が死亡した遭難事故が発生している。
 現在の上伊那地区の中学校では、当時の教師たちの遺志を尊重し、また慰霊の意味もこめて、学校行事として集団登山を行っている。

 木曽駒ヶ岳には、雪解けの時期にはいくつかの雪形が見られ、昔から農業の目安にされてきた。
 中岳には山名の元にもなった駒(馬)、極楽平の南には島田娘と種蒔き爺などが現れる。
 ついでながら、千畳敷カールとは、長野県駒ヶ根市と、宮田村にまたがる宝剣岳の直下に広がるカール地形(圏谷)のことである。 千畳敷カールの麓には、通年営業の駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅があり、登山客の玄関口となっていることから広く親しまれている。
 夏はお花畑、冬は雪山の厳しさという両極端の姿を見せる。
 春には、この時期だけリフトを設置し、千畳敷スキー場が開設されている。




恵那峡

 恵那峡(えなきよう)PAに付いたのは、18時22である。
 かなり薄暗くなってきたが、なんとか写真撮影ができる程度の、日没直前の薄明かりであったが、ただ手ぶれで少しぼやけた写真しか撮影出来なかった。
 恵那峡は、岐阜県恵那市・中津川市を流れる木曽川中流の渓谷である。
 この恵那峡は、当時の地理学者の志賀重昂が、大井ダムの湖景と一帯に見られる奇岩の調和を称え命名したものである。

      
          恵那峡
          
 全国にはダムの開発によって景観が損なわれたケースが多いが、この恵那峡は全く逆のケースで、自然の造形と人工物の融合によって誕生した景勝地である。
 恵那峡県立自然公園の中枢で、一帯には奇岩が多く、屏風岩、軍艦岩、獅子岩、鏡岩などがあり、それらを見物するためのジェット船が周航している。
 地質学的にも貴重な場所であり、鉱物博物館がある。
 また、首都圏にも近いことから、行楽地として栄え、近辺には恵那峡ワンダーランドや恵那峡カントリークラブなどがあったが、徐々に観光客が減少し、恵那峡ランドの閉鎖に伴い、恵那峡ロープウェイが休止されている。





一宮PAと多賀SA

 一宮PAに到着したのは19時53分で、すっかり暗くなっていた。
 昼と夜の長さが同じ夏至(げし)は、二十四節気の一つで、六月二十一日頃だから、凡そ二ヶ月たっており、八月の夏の盛りながら、幾分日暮れが早くなってきた。夜道の高速道路は、特に疲れる。
 若い頃は、平気で時速120㎞位のスピードを出して、先頭を走行していたが、今はその気力がない。
 出来るだけ他の車の後ろを走るようにしているが、時に80㎞以下の安全走行の車の後ろに付くと、追い越したくなる。

     

 長距離の高速だから、せめて100㎞位が理想だが、なかなか思うように走行できない。
 高速で追い越す時、やはりFITではパワー不足を感じ、クラウンのパワーと安定性を懐かしく思う。
 しかし、燃費の良さを考えると、今の状況では妥当な車であろう。
 ここで一息入れ、眠気防止のドリンクを飲んだ。
 妻は、筆者の眠気を気にしているが、交代する気はなく、娘達にメールをしていた。

 最後に立ち寄った多賀SAに到着したのが21時09分であった。
 此処から吹田SAまでひたすら走り続けた。 此処で食べた「うどん」がシンプルでとても旨く感じた。

     

 ようやく大阪へたどり着いたという安心感もあり、少し落ち着いた。自宅にたどり着いたのは、たぶん十一時前後であったろうか。 往復約千キロの道のりであった。

 信州紀行 おわり


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