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 随縁記     ■随 筆  徒然なるままに 話題提供

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八十八箇所 遍路紀行




 巡礼について

  人はなぜか、聖地巡礼の旅にでる。
  それはあるいは人生の必然なのかもしれない。
  なぜなら、人はなぜか、それぞれの信仰のもとに生きているからである。
  若いときには「自分の力で生きている」と自負し、
  信仰心なぞはまったく持っていないことに誇りすらもっていた。
  信仰にたよって生きるのは、心が弱いひとたちだ。
  と、勘違いをしていた。
  ともかく、どん底に落ちたり、また這いあがったりしてきた。
  すべて自分の力で這いあがってきた。 そう自負していた。
  だから、いまでも特定の宗教教団には属していない。

  ところが、それなりに精神が成熟するにともなって、
  やがて「生かされている」という実感をもつようになった。
  そのことに気づいたときから、「感謝の心」がめばえたように思う。 

     
    
  ふりかえると、なんども人生の危機に遭遇した。
  が、そのつど暗中模索のなかで新しい道がおのずと見えてきて、それなりに生きることができた。
  これらのことを思い返すと「生かされてきた」という実感にかわってきた。
  あのとき、もし別の選択をしていたら、まったく違う人生になったかも知れない。
  ともかく何かに導かれるようにして、今日まで生きることができた。 
  毎日車を運転していたから、一瞬の、まさに一秒か二秒の差で、事故に遭わないですんだとき、
  「有り難うございます」と自然に思うようになった。
  もし交通事故に遭遇すれば、人生は大きく変化するだろう。 
  大きな経済的負担が生じたり、大きな精神的ダメージを受けるだろう。 
  毎日車を運転しているが、何度も一瞬の差で危機を回避できたのも、
  これに感謝せずにはいられない。
  こうした自覚が芽ばえると「神(あるいは仏)に守られている」という実感がある。
  ただ特定の宗教教団には属していない。 
  たぶんこれからも宗教教団には属さないつもりでいる。
  それでも、神という絶対的な存在を身近に意識するようになった。
  しかしその守護神は、特定の宗教に依存しない、独自の信仰に基づいている。
  その守護神へ祈るため、その窓口として神社や仏教寺院に参詣している。 

       

  まだ苦境にあるとき、偶然のきっかけで「西国三十三箇所巡礼」をはじめた。
  いわば物見遊山のような、いわばスタプラリーのような、
  気楽な日帰りの二人旅としてはじめた。
  家に籠もっていると、自然と心が鬱状態になるから、気晴らしに外出したかった。
  いわば手軽な日帰りの、観光目的地として寺院を撰んだのかも知れない。
  しかし静寂な古刹寺院の境内にはいると、心が洗われるような安心感があった。
  その頃は、経済的な問題以外にも、おおきな人生の負の課題を背負っていた。 
  ともかく祈るしかなかった。
  こうして始めた「西国三十三箇所巡礼」もほぼ7割も終えたころ、
  二回目のクラウンの車上荒らしに遭った。
  一度目の時には、納経帳はのこされていたが、
  二度目のときには、鞄に入れていたから、納経帳も盗難に遭った。

      

  このため巡礼は沙汰止みとなっていたが、偶然、また箕面の勝尾寺を観光で訪れた。
  このとき平成20年4月、妻が、もう一度「西国三十三箇所巡礼」を始めようと言いだした。
  二回目の巡礼をはじめたころは、経済的にはようやく苦境を脱して、なんとか安定し始めていた。
  二人とも出歩きがすきだから、意見は一致した。
  こうして、この後も巡礼をつづけて、平成25年5月、高野山の金剛峯寺で結願した。
  この巡礼のお陰なのか、老後の最大の悩みが解消した。
  ともかく、またもや「生かされている」という感謝の気持ちがつよくなった。





 宗教について

 キリスト教やイスラム教など、他の宗教にも聖地巡礼がある。
 貧しい人も、一生に一度の聖地巡礼を行うようである。
 これが敬虔な信者のつとめなのかも知れない。
  しかし一方で、見知らぬ土地を訪ねるという、一大イベントであり、観光もかねている。

      
            サンチャゴ巡礼の道
    

      
          サンチャゴ・デ・コンポステラ大聖堂の西側正門

 
 我が夫婦は、これから四国の遍路に出ようと思っている。
 これからの遍路については、きちんとした遍路装束に身を固めて、般若心経をいいちい読経するつもりでいる。
 しかし敬虔な真言宗の信徒とはいえない。
 現実にはどこの寺院の檀家でもない。たまたま祈りの窓口として、巡礼したいのである。
 偶然にも、「西国三十三箇所巡礼」を歳月をかけて結願することができたので、つぎの目標を四国遍路においているだけである。

    
   

 半分は四国一周の物見遊山であり、この遍路旅をつうじて、夫婦の絆をつよくしたいと思っている。
さらに新たな発見や出会いがあれば、人生の充実になるだろう。
 そしてこの結願によって、また何か新しい自分を発見したいとも思う。
 本来、巡礼は宗教的な行為なのだが、いまだに特定の寺院や教団に属したいとは思っていない。
 現実の宗教界では、さまざまな教派や教団が存在し、些末な違いで他の教団との違いを強調している。
 世界宗教のキリスト教でも、カトリック系とプロテスタント系がある。
 が、同じプロテスタント系でも幾つもの会派があって、どう異なるのか分からず近づきがたい。
 イスラム教ではスンニ派とシーア派が相克し、中東の一部では、いまだに戦争をしている。
 共存なぞ望むべくもないほど激しい。

     

 仏教にも幾つもの宗派があるが、一神教のような激しさがないため、いわば共存共栄しているようである。
 神社は、日本古来の素朴な信仰であり、氏神さまのような身近な存在でもある。
ともかく神社もそれぞれに異なる祭神を祀っているから、じつに多様でもある。
 ともかく現実の宗教会派に属するのは、煩わしい。
 宗教教団は、あたり前の事ながら人間集団の組織である。
 組織には素朴な信仰心とは関係なく、煩瑣な規約や仕来りがあり、教団のどうでもよい指導階級が存在し、
それらの立場から、指導がましいことを言われるは、耐えがたい。
 また、教団維持のため、お布施が強要されるであろう。
 神への素朴な感謝と、現実の教団へのお布施を強要されるのは違う。
 お布施は、それら教団に属する人々へのいわば給与にあたる。
 教団の上層部は、組織の中での立場を得て、きれい事や理想的生き方を説くだけで、
 教団に依嘱して生きているにすぎない、と思ってしまう。
 本来、神や仏などの守護神は、その守護にたいして、何らの対価を求めていない。
 このような考え方をもっているから、現実の教団や会派に属して、特定の人間にかしづくつもりはない。


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 遍路のかたち

 ともかく駐車場で菅傘をかぶり、白衣をはおり、袈裟を首に掛けて錫杖をもって鈴をならしながら歩くと、
 形としては一応「遍路姿」となった。
 今回の遍路は、形から入る事にした。
 遍路衣装に身をかため、本堂とともに大師堂へもお参りし、
 蝋燭に火を点し、線香を上げる。そして合掌して般若心経を読経する。
 さらには参拝した印に、「お札」を納める。そういう参拝の形を踏襲してゆくことにした。
 このため、遍路の「お札(ふだ)」も購入した。
 薄い短冊の紙で、お参りした日付と、住所と名前を記入して、お札入箱に投入する。
 今回は、筆者が声をあげて読経し、妻は「お札(ふだ)」に住所や氏名を記入して入れてくれた。
 あとで聞くと、お札に丁寧に、正確な住所を記入したという。妻の真面目な性格からであろう。

     
       納経札 落款印と日付と、住所は市名だけにした

 ところで、必ず蝋燭二本と線香二本をあげてきたが、帰ってから調べると、
 灯明は一本、線香は三密を表す三本あげる。とあった。
  三密とは、密教で仏の「身」「口(く)(言葉)」「意(心)」の三つの行為のことをさしている。
 人間の理解を超えて いるので密というとあった。

      

 さらに灯明は、他人の蝋燭から火を点けない。
 理由は、その人の「業」を貰うからとあった。
 今回は、すべて他人の蝋燭から火を点じた。
 二人でお参りしたから、蝋燭を二本はまちがいではないが、線香は二本しか上げなかった。
 これらの作法は、調査不足であった。
 そもそも信仰のかたちとは、合理性とはことなる世界だから、こん後はそれらの形をまねてゆきたい。 
 そもそも、四国88カ所のお寺は札所ともいう。
 つまり遍路が巡る寺院は、一番札所から八十八番札所まである。
 各札所に参拝した印に「お札を納める」のが基本で、さらには納経帳に御朱印をいただく。
 この御朱印をいただく場所は、どこも納経所と表示されている。
 西国33箇所札所巡礼のときは、納経帳に御朱印を頂くことだけで満足した。
 「お札」とはそもそも、江戸時代に霊場に参拝するときに、
 巡礼者が本堂や大師堂に木の「お札」を打ちつけたことに由来するらしい。
 のちに名を書いた「木の札」から、木版で擦り込んだ「和紙の名札」を貼り付けるようになった。
 ただ貼り付ける場所に限りがあり、やがて「札を貼り付けること」は禁じられて、
 所定の札所入れに入れるようになっている。
 いづれにしても、参拝した霊場と結(けち)縁(えん)をし、
 なんらかの加護を祈念するという意味合いがあるのであろう。
 遍路装束の菅(すげ)笠(がさ)、袈(け)裟(さ)と錫(しやく)杖(じよう)には、
 「何無(なんむ)大師遍照金剛(へんしようこんごう)」と「同行二人」と書いてある。
 いつも「弘法大師と一緒に巡礼している」という意で書きつけるらしい。

      

 本来の遍路は、弘法大師の修業された跡をたずねて、
 辺鄙な難路を修業して歩くということから、同行二人と書いて、
 道中の安全を祈願したものであろう。
 錫杖(しやくじよう)には鈴が付いていて、杖を突くたびに鈴が鳴る。
 むろんこれは魔除けであり、
 また熊や蛇その他の動物に、人がいることを知らせるという意味合いもある。
 ところで「袈)裟(けさ)」は、僧侶が身につける布状の衣装のことで、
 梵語でカシャーヤ(Kasaya)を音訳したものという。
 遍路の行者は、いわば在家ながらも、
 僧侶のような修行を行うということから、袈裟を架けるのであろう。
 袈裟の由来は、出家僧侶は、一切の私有物を禁じられ、
 捨てられたぼろ布、汚物を拭う(=糞掃)端布を拾い集め、綴り合せて身を覆う布を作ったという。
 作業着にあたる安陀会(あんだえ)(五条)、普段着にあたる鬱多羅僧(うつたらそう)(七条)、
 儀式・訪問着にあたる僧伽梨(そうぎやり)(九条から二十五条)の三枚がある。
 これに食事や托鉢に使う持鉢(はち)をあわせて、三衣一鉢(さんねいつぱつ)と呼び、
 僧侶の必需品とされた。
 中国に伝わってからは、僧侶であることを表す装飾的な衣装となった。
 日本に伝わってからは、さらにさまざまな色や金襴の布地が用いられるようになり、
 その組み合わせによって、僧侶の位階や特権を表すものになった。
 特に江戸時代までは「紫衣(しえ)」、「紫袈裟」は、天皇の勅許が必要であった。
 なお、一般の僧は黒い衣であったことから「黒衣(こくえ)」と称された。
 菅笠をはじめて被ったが、頭に馴染みにくい。
 ただ、菅笠には、ビニールで覆っているから、雨よけにもなっている。
 また、この菅笠を被ってさえいれば、白衣を着ていなくても、
 遍路と一目で識別がつくから、便利でもある。







 八十八カ所霊場
  
 さて、遍路をはじめるまえに、八十八カ所霊場の起源の話しである。
 今から約千二百年前、空海が42歳のとき、衆生を救うために開いたのが四国霊場であるとされている。
 空海が31歳のとき、遣唐使の留学僧として唐にわたり、
 唐の長安にあった青龍寺の「恵果(えか)和尚」に師事した。
 空海の天才ぶりに恵果和尚が驚き、やがて伝法阿闍梨(あじやり)の灌頂(かんちよう)を授け、
 「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する
 「遍照金剛(へんじようこんごう)」の灌頂名を与えたという。

      
        
 唐の長安から帰国後、朝廷から許しを得て、高野山で真言密教の本山金剛峰寺を開山した。
 高野山の七里四方に結界をむすび、伽藍建立に着手した。
 この時期、『即身(そくしん)成仏義』(人がこの肉身のままで、究極の悟りを開き仏になること)
 『声字実相義(しようじじつそうぎ)』(言葉と文字(声字)の本質を、
 密教の立場から解明したもの)など多数の教義を立て続けに執筆し、
 真言密教の確立に力をそそいでいる。
 
      
 
 一方で、精力的に四国へ再三訪れて、各地の霊場を開きつつ、
 満濃(まんのう)池(香川県の日本最大の農業用溜め池)の改修を指揮して、唐で学んだ最新土木技術を駆使し、工事を成功に導いた。
 この当時の空海の精力的な四国霊場開基が、のちに整備されて八十八カ所霊場となるのである。
 弘仁13年(822)、太政官((だじようかん)符(ぷ)により、東大寺に灌頂(かんちよう)道場「真言院」を建立し、平城上皇に潅頂を授けている。
 さらに、弘仁14年年(823)正月、官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。

         


 空海が没したのちに、朝廷より「弘法大師」の諡号(しごう)(いみな)が贈られている。
 現在では、空海よりも「弘法大師」の名が有名だが、生前に弘法大師と呼ばれたことは一度もない。 
 諡号とは、諡(おくりな いみなとも言う)のことで、死者の生前の徳行と事跡を基につけられる名のことである。
 ついでながら、天皇の名はすべて諡号であり、史上有名な推古天皇、神武天皇、仁徳天皇、近くは昭和天皇など すべて諡名(おくりな)である。
 生前の天皇は、今上天皇(きんじよう‐てんのう)と称する。清少納言や紫式部などの名も諡号であり、本名は全く伝わっていない。

 四国八十八箇所の霊場めぐりの、四国遍路の話にもどる。
 弘法大師の没後、高弟たちが、大師の修行の跡(霊場)を遍歴したのが、四国遍路の始まりと伝えられている。
 四国で空海が、山岳修行時代に遍歴した霊跡は、江戸初期の僧侶「真念」によって札番号を付けてまとめられた。それらは四国八十八箇所の寺々とその他多くの霊跡としていまに残り、霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。

     

 人間には煩悩が八十八あり、霊場を八十八ヶ所巡ることで煩悩が消え、願いがかなうと言われている。
 八十八ヶ所の巡礼は、阿波で脚を固め(発心の道場1番~23番)、土佐で心落ち着け(修行の道場 24~39番)、伊予で信に入って(菩提の道場 40~65番)、讃岐で諸願成就する(涅槃の道場 66~88番)、そして最後に、高野山「奥の院」参拝で大願成就すると言われている。 
 このようにして、行者たちが修行を行った、四国の山岳や海辺の難所は聖地とし、山中には昔ながらの遍路道が今も残り、古代の標石を見る事ができる。
 そして今も多くの人々が訪れている。そして、八十八の霊場をめぐる聖地巡礼を「遍路」といい、その寺を「札所」と呼んでいる。
 聖地をめぐる巡礼は普遍的なもので、キリスト教やイスラム教、その他多くの宗教にあり、むろん日本各地に数多くある。が、四国の八十八ヶ所巡礼だけが「遍路」とよばれ、巡礼者のことを「お遍路さん」と呼んでいる。
 ところで、歩き遍路の場合、約50日前後が平均的な日数とされている。
 一日に歩ける距離の平均は30~50㎞くらいとされている。が、途中、体調が悪くなったり、ひざが痛くなったり、天候が悪くなって足下が歩きにくかったりと、なかなか計画通りには進まない。
 歩き遍路ならば、およそ40日から50日を要するだろう。


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 辺地(へち)と辺路(へじ) 
  
 この「遍路」について調べてみると、それは遍路の起源にたどりつく。
 四国を修行する人々についての最初の記述は、平安時代に入って書かれた『今昔物語集』である。『今昔物語集』は、平安末期(推定1120~1150年)に編集された説話集で、作者は不明ながら、説話の合計が千話にものぼり、全31巻にも及ぶ甚大なもので、印度、中国、日本の三部で構成されている。

        
               『今昔物語集』

 これによって、当時のさまざまな世相をみることができるが、このなかに、
「仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云(いう)は、伊豫・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也」
 とある。修行者たちが、伊豫、讃岐、阿波、土佐の海岸を選んで修行していることから、当時、海の彼方にあると信じられていた、古代神道上の世界「根の国」へ渡ることを願った修行の一環ではないかと考えられている。
 注目すべきことは、修行が行われていた海岸沿いの道や土地のことを、『今昔物語集』では「辺地」(へち)と称している。 そのご、仏教が伝来し、仏教の影響で四国の「辺地」修行の形が変わっていった。

       


 仏教では、海の彼方にあるとされていた「補陀落(ほだらく)浄土(観音菩薩が住むとされる浄土)」と、古代神道の「根の国」の思想が、仏教の拡大と共にしだいに習合された。
 『梁(りよう)塵(じん)秘(ひ)抄(しよう)(1169年)』の中でも、海岸沿いを修行する人々の記述があり、ここでは室戸岬を金剛浄土の入り口と称している。

      
   
 『梁塵秘抄』は、後白河法皇が編集した歌集で、当時の民間に流行した詞(うた)を撰述している。この中に、
「われらが修行せしさまは、忍辱袈裟(にんにくけさ)をば肩に掛け、また笈(おい)を負ひ、衣はいつとなく、しほたれ(潮垂)て、四国の辺路(へじ)をぞ、常に踏む」また、 
「御厨(みくり)の最御崎(室戸岬にある人窟)、金剛浄土の連余波(つれなごろ)(仏の国へ通じる道という意)」
とある。この頃には、仏道による修行が多くなっていたと考えられる。
 この中では、海岸沿いの道や土地のことを、「辺路(へじ)」と称している。







 遍路の起源
 
 平安期以降日本各地で空海のもち帰った真言密教の広まりとともに、その死後に弘法大師への信仰が広がった。
 弘法大師は、讃岐の国(香川県)の出身で、青年期に四国の山中や海岸、太龍岳、室戸岬、石鎚山などで山岳修行を行い、虚空蔵(こくうぞう)求聞持法(ぐもんじ‐ほう)の智恵を得たとされている。 

          

 「虚空蔵(こくうぞう)求聞持法(ぐもんじ‐ほう)」とは、虚空蔵菩薩を本尊とする修行法で、記憶力を増大させることができるという。そうした事から四国には、弘法大師にあやかろうと、多くの僧が悟りをもとめ、各地から大師ゆかりの遺跡や霊場に、修行参拝に訪れるようになった。
 『高野山往生伝』の中では、沙門蓮待(初期の高野聖)が、承徳2年(1098)ごろ、土佐金剛定寺(現在第26番金剛頂寺)で、弘法大師にならって修行したと記されている。
 このほか多くの高野山真言宗の僧が、弘法大師ゆかりの四国を訪れているが、これらの僧が訪れた場所も、また現在の札所と重っている。
 また有名な西行(さいぎよう)法師も、聖(ひじり)として各地を旅し、『西行法師家集(歌集)』の中で、弘法大師ゆかりの旧跡を訪ね、歌を呼んでいる。

           
            西行法師(菊池容斎画/江戸時代    

 その後、大師信仰が四国に広まるにつれ、海の向こうにあるとされた浄土を目ざし、「補陀落(ふだ)らく)浄土」をねがう修行者と、大師信仰による庶民の巡礼者とが行き交う、修行の地となったと考えられている。
 このことから、遍路の札所の原形は、根の国信仰、補陀落渡海の修行の地、そして大師ゆかりの遺跡や霊場での修行参拝などが、習合されたものであると考えられている。
 それにともない、海辺の道や土地を表す言葉の「辺地(へち)」や「辺路(へじ)」は、次第に「偏禮(へんれい)」「邊路(へじ)」となり、そののち「遍路」と変化した。
 また、その読みも、中世以降は「へち」「へじ」から「へんろ」と変化していった。 この変化について、「辺」という言葉が、「端」や「外」を示すことから、験(げん)が良くないため「邊」や「遍」などの文字が使われはじめたという。このようにして現代では「遍路」は、四国八十八ヶ所巡礼だけを意味するようになった。
 


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 庶民の霊場巡礼
  
 いまのような「大師信仰」による遍路の姿が、歴史資料に登場してくるのは、江戸時代になってからである。
遍路が広まりを見せる江戸期前後は、現在の第四十九番札所「浄土寺」に、享禄4年(1531)に四人の僧の落書きが残っていて、そのなかに「大師宝号」が書かれている。
 このことから、少なくてもこの頃には、大師信仰による巡礼が浸透していたことを示している。
四国に限らず、霊場巡礼は、もともと僧が中心の修行であった。それが江戸時代ころに、庶民の姿が多くみられるようになった。

       

 それには江戸期における、社会情勢の変化がある。
 弘法大師信仰が庶民にも浸透してくるにつれ、在家の人々の中にも四国巡礼を願う者が現れてきた。実際に庶民遍路の姿が、歴史資料に現れるはこの頃からで、江戸期以降から庶民の手による巡礼記や歴史資料が登場する。
 この江戸時代に庶民へ広がる巡礼熱は、四国に限らず伊勢、西国、坂東、東北など、全国各地へと広がり、各地の霊場を巡礼する庶民の姿が、書かれるようになるのも江戸時代を境としている。特に「お伊勢参り」は「おかげまいり」とよばれる集団巡礼となり、庶民の間で大流行した。なぜこうした民衆巡礼がさかんになったのか。
 江戸時代は、社会の安定がもたらされ、封建制度が確立され、民衆の中に商人を中心とした裕福層が生まれた。彼らは農民に比べ金銭的にも時間の自由あり、巡礼には時間とお金が必要であることから、江戸時代当初の民衆巡礼層の多くは、この商人を中心とした裕福層で占められていた。
 その後、江戸期における政権の安定は、しだいに農民層にもゆとりを生み、上位農民層にも巡礼が広まってゆく。一方江戸期の封建制度は、そまでの政権以上に民衆に大きな生活規制を強いて、庶民が一時的であれ居住地を離れることは難しくなっていた。
 ただ神社仏閣に巡礼に行くことはだけは、唯一の例外として認められていた。このことが庶民の巡礼をさかんにさせる要因のひとつになった。
 また、徳川幕府はその統治の必要性から、大規模な街道の整備をおこなった。
 江戸から各地に通じる街道を全国規模で整備し、街道沿いに宿駅(宿場、公用の荷物や通信物を運ぶ業務を行う)を設け、政治、経済、軍事上の大動脈として街道は大きな役割を果すようになった。
 このようにして、ある程度の交通環境が整備され、民衆の巡礼が可能な背景となっていった。
 民衆の巡礼の増加にともない、有名な神社仏閣のまわりには、大規模な宿泊設備が整えられ、神社や大寺へつながる街道や周辺の街は栄えた。

       

 「おかげまいり」が流行した伊勢神宮では、つらなる街道に宿場が栄え、周辺は歓楽街として多いににぎわった。
 伊勢神宮の古市は、当時、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊郭の一つとして知られるようになった。
 このような神社仏閣周辺の歓楽街の発展は、参拝をさらに観光化させる要因にもなった。
 このような江戸時代の社会状況の変化は、四国でも例外ではなかったが、その発展は本州に比べ緩やかであった。理由は四国の地が海を隔てていたことや、霊場が広範囲に分布する巡礼であったため、その霊場に通じる街道や交通の整備は遅れていた。
 しかし、その一方で遍路道には、巡礼を案内する標石や道しるべなどが置かれ、地図に霊場の位置などが書かれた『四國偏禮霊場記』などの、民衆を対象にした遍路案内本が大量印刷されて刊行された。

        

         
              『四國偏禮霊場記』

 各地には遍路屋と呼ばれる遍路専門の宿が整備され、その後、木賃宿(農民が営む宿)なども広まった。
 また、讃岐の金毘羅)参拝が有名になるにつれ、四国への定期航路が整備されてゆく。
 こうしたことから、四国にも徐々に庶民が訪れるようなった。
 が、四国遍路はまだまだ困難なもので、川橋は少なく渡し舟さえまばらであった。
 遍路道には多くの難所があり「へんろころがし」と呼ばれた。
 しかし、それが、かえって他の巡礼参拝のような観光化が進まず、素朴な信仰が保たれることになった。それでも江戸中期には、民衆による遍路は最盛期をむかえ、土佐藩の記録では、元禄13年(1700)2月から7月にかけて、1日に二~三百人の遍路が関所を通ったと記録されている。






  
 職業遍路

 江戸時代を境に、全国で民衆の巡礼が盛んになったが、四国巡礼者のなかに、特異な「職業遍路」があらわれるようになる。かれらは、普通の遍路ではなく、四国を「巡りつづける」ことを、いわば職とした人々のことである。
 つまりは帰るべき所がなく、終生、四国の遍路道を巡礼しつづける、いわば難民なのである。
「職業遍路」の誕生は、さまざまな理由で、その地域や社会から、はじきだされた人々が遍路となり、「お接待」と呼ばれる風習により、かろうじて生き延びた姿であった。「お接待」とは、遍路に対して支援する昔ながらの風習で、無償で宿を提供し、食べ物などを支援した。険しい道のりだった四国遍路において、お接待は遍路の存続を大きく支えてきた。

          

 現在でも四国に残るお接待は、遍路の歴史に大きな影響を与えることになった。
 日本の難民と呼ばれた、職業遍路はどのような人々だったのであろうか。なかでも職業遍路が、四国に流入したことは、この接待を抜きには考えられない。
 職業遍路、つまり難民の代表的なものが、病気によって故郷をでた人々である。
 中でもよく知られたのが、癩(らい)病(ハンセン病)者の遍路で、長い間癩病は遺伝性であると考えられていたため、家族に病人がでると、人に知られる前に遍路に出したのである。 
 すこし余談となるが、ハンセン病と結核は、じつは同じ抗酸菌の疾病であり、治療薬のない時代には、いずれも偏見と差別の対象であった。戦後、治療薬が開発され、いずれも完治する病となった。
 ところが、結核は完治する病として一般に認識されていったが、ハンセン病患者に対する偏見と差別は、長い期間根強く残っていった。

         
 これは、旧厚生省が「国立療養所」で「終身隔離政策」を続けたことによる。
 この誤りを認めたのは、ごくご最近の小泉政権になってからの話しで、憤りを感じるが、この稿の主題ではないのでこれ以上は深入りしない。  
 ともかく、四国には接待があったが故に、癩病患者が流れこみ、お接待をした心優しい住民にも、感染が広まってしまった。という悲しい歴史が残されている。
 その他にも、重病の病人や、身体障害者などが遍路となり、四国を巡りつづけた。

 
             
 彼らは「病気遍路」や「へんど」などと呼ばれ、時には、一般の遍路と差別されることもあった。
 彼らは一般的な遍路道を避け、遍路屋に泊まることも出来ず、野宿や本堂の軒などで一夜を過ごすなどして、一般の遍路とは離れて四国を巡りつづけたという。
 一方で、敬虔な巡礼者の、さまざまな病気が治癒したり、歩けなかった足が動くようになったという奇跡の話しも多い。
 そのような奇跡が起こったという話しから、病気の巡礼者が集まる原因になったという事情もある。
 世界の巡礼地でも、同様に巡礼者の病気が治癒したり、さまざまな奇跡が起きたという話しが残されている。
 その他の職業遍路の主な人々は、貧困による難民層であった。
 身分制度の中で、低階級の労働者の生活は厳しく、貧富の差は広まる一方であった。
 失業者には何の保証もなく、路頭に迷った多くの人々が、接待をあてに遍路になったという。

 天明元年(1781)、豊後日出(ひじ)藩(大分)の布令の中で、失業者が増え、多くの人々が四国遍路に流れたことが書かれている。また、飢饉が起こるたびに、各地から多くの人々が四国に流れた。
 天保の飢饉の際、加太浦(和歌山市加太)の船着場には、四国へ渡る極貧者があふれ、そういう人々を無料で乗船させたと記されている。
 故郷を追われて遍路になった人々は、札所を一周しても帰る所もなく、結局は接待を当てに、死ぬまで四国を歩きつづけなければならなかった。
 こういった人々の中には、まったく巡礼はせず、ただ接待を当てに四国を巡る者や、賊化して空巣や強盗をはたらく者たちも現れるようになる。
 このような遍路は「偽遍路」や「乞食遍路」などと呼ばれ、こういった事態に、各藩では遍路の規制に乗り出すことになった。


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 遍路の減少期
  
 各藩では法令を出し、職業遍路による犯罪や風紀の乱れ対策を打ち出した。
 これによって、遍路には「往来手形」を提示させ、滞在期間にも期限を設けた。また、規定の遍路道を外れて歩くことも禁止し、再三にわたり遍路の規制法令を出した。
 しかし、明治に入っても職業遍路は減ることなく、規制はより厳しいものとなってゆく。
 明治政府が、神道を国家宗教にしたこともあって、たびたび「遍路狩り」が行われるようになり、一般の遍路までが捕らえられることもあったという。

       

 気候が温暖であった土佐は、もっとも乞食遍路が多く、特にきびしい規制、弾圧が行われた。このような流れから、土佐藩では「遍路自体を拒絶すべし」との極端な論議も生まれ、土佐を中心に遍路を冷遇する空気ができていた。
 こうして明治から大正にかけて、遍路は減少期をむかえるに至った。
 遍路の規制に加え、廃仏毀釈(仏教を廃し神道に拠るとする思想運動)や、戦争に向かう時代の中で一般遍路の数は急激に減少していった。
 大正7年(1918)から、『九州日日新聞』に連載された、高群逸枝による『娘巡礼記』の中で、当時の四国遍路は、巡礼者というより、貧困者や病人の難民といった印象が窺える。このころの遍路は、貧しい人の最後の行き所といった印象が強く、善根宿には、職業遍路が溢れていたとある。病気や障害、貧困のほかに、罪や偏見などによって、故郷を追われた人々などが遍路となった。
 日本に社会福祉制度が確立される昭和40年代まで、貧困者の数を減らすことはなく、四国遍路は行き場を失った人々の、最後の受け皿となっていた。
 このような人々に、お接待は、彼らの生計を支えることになり、故郷に帰ることなく、人知れず果てた無縁仏の遍路墓が今も無数に残っている。





 
 
  
 ■お接待
 
 貧しい人々や重病の人々が四国に流れ、遍路によって生き長らえたことは、四国に「お接待」という風習抜きでは考えられない。
 遍路に施された接待とはどのようなものだったのだろうか。
 天保7年(1836)ころ、野中彦兵衛の『万覚帳』の中で、三ヵ月にわたって遍路した野中彦兵衛は、「飯36回、銭4回、わらじ5回」の接待を受けたとある。
当時の接待は、米・味噌・漬物などの食べ物を遍路に与えることが多く、品もそれぞれの地域によってさまざまであった。

       

土佐の紙漉きの村では、ちり紙、山村では山芋であった。
阿波の北方では、藍商人が多かったため、お金を接待する人が多く、吉野川の周辺では善船といわれた、無料の船渡しが出ていた。 又、遍路を無料で宿泊させる「善根宿」も、四国のいたる所にあり、善根宿には個人の家を開放することもあった。
文政2年(1819)新井頼助が残した『四国順拝日記』では、第65番三角寺の周囲に12軒もの接待所があったとある。
  接待を行っていたのは、地元の人々はもちろんだが、他国からも多く人々が接待を行うために四国を訪れていたという。
 毎年決まった土地から、「講を組んで」接待に訪れる人々を、接待講と呼び、「紀州接待講」、「有田接待講」「野上接待」講などは現在でも続いている大変歴史のある接待講である。
 紀州接待講は文政2年(1819)には、23番「薬王寺」に、専用の接待所まで建てている。また、有田接待講では、多いときで二十隻もの船がつらなる大掛かりなものであったと伝わっている。
 現在、接待はほとんど四国以外では見られない風習だが、昔は、接待は日本のどこの霊場のでもみられたようである。かつて僧たちが、修行や巡礼で各地を巡るときに、「お布施をささげて、仏恩(仏の恵み)を受けよう」と勧めた行いを起源としている。
 これを「報(ほう)謝(しや)」「托(たく)鉢(はつ)」や「喜(き)捨(しや)」などといわれたが、江戸期に入って一般の人々に巡礼が広まると、その人々へも布施と同じように施しを与える風習が定着し、これが「お接待」となったと考えられている。

        

 しかし、各地の巡礼記などみても、接待についての記載は四国遍路以外はほとんどみられない。なぜ、他の地域での接待は姿を消したのか。
 それは他の霊場巡礼地が、観光化していったことが挙げられる。
 民衆の巡礼ブームのなかで、霊場の周辺は観光地としての色合いが強くなってきた。現在の有名観光地の多くが、有名な霊場の周囲になるのはこのためである。
 当然これらの霊場へ向かう人々は、巡礼というよりも、観光旅行といったおもむきが強くなっている。
 接待は、そもそも修行をおこなう人々を支援することで、仏恩(仏の恵み)を受けようといった行いである。本来は「私の分まで宜しくお参り下さい」という、代参を託す意味合いや、接待自体が行でもあり、功徳となるものでもあった。
 観光色の強くなった巡礼地には、当然このような思いを向ける人々も減ってゆき、接待は徐々にその姿を消していったと考えられている。 

        

 それでは、なぜ四国遍路にだけ、今も接待が残るにいたったのか。 
 それには四国独特の、きびしい巡礼事情が関係している。現在でさえ四国八十八ヶ所、約千三百㎞を歩き抜くことは大変ことである。
 四国はまさに辺地であり、江戸期以降も街道の整備が遅れていたため、当然、遍路道も大変険しく、山道も多い。
 したがって、八十八ヶ所を歩き通すことは、今では想像を絶する困難な道のりであったと思われる。たとえば標高九百mを超える雲辺寺など、山頂や辺境などさまざまな場所に霊場が点在し、起伏が複雑な山道の登り降りは「へんろころがし」といわれ、そのような難所跡が現在もいくつも残っている。
 四国のこの厳しい巡礼に行くには、「それなりの覚悟と思い入れ」が必要で、物見遊山的観光気分で遍路する、というわけにはいかない。
 そういう困難な巡礼だけに、観光化されることが少なく、遍路者が純粋な信仰者として、人々に支援され続けられてきた要因となった。 
 お遍路接待の伝統は、江戸期にかぎらず、その後の明治、大正、そして昭和を経て、いまに至るまで続けられている。
 現在の観光気分のお遍路さんに対しても、いまでも各所でさまざまな「お接待」をいただくことができるという。まことに四国の人々の、お遍路さんに対する心の優しさ、霊場にたいする敬虔な心に頭が下がる思いである。


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 霊場参拝の作法

 さて、そろそろ霊場を参拝しなければならない。
 霊場を参拝するには、その作法がある。
 最大の目的は納経である。
 「納経」とは、お経を納めることによって、巡礼者の「願意を本尊に伝える」大切な宗教儀式とある。
 遍路では、本堂と大師堂の2つに納経するのが仕来りらしい。今回は、律儀に両方で納経するつもりでいる。

     


 ところで大師堂は、四国88カ所のすべての寺院にあり、弘法大師を祀っている。
 これは遍路自体が、弘法大師信仰を基にしているからである。本堂は、各寺院によって、その本尊が異なる。霊仙寺の本尊は「釈迦如来」とある。
 納経には、実際に読経して納経する方法と、写経所で「写経」して納める方法である。
 写経所で毛筆で写経するのは、時間が必要で一般的ではないであろう。
 ところで「般若心経」を読経するだけが、納経の作法かと思っていたら、正式の読経手順では、開経偈(かいきようげ)にはじまり、懺悔文、三帰、三賁、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、般若心経、御本尊真言、十三仏真言、光明真言、御宝号、回(え)向(こう)をあげる。とある。
 開経偈とは、経典を読む(読経)前に読まれる偈(げ)とある。これは、仏教の真理を、韻文形の詩の形で表現したもの。
 その偈では、「無上甚深微妙の法は、百千万にも遭い遇うこと難し。我今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解し奉らん」という。
 これらの作法について帰ってから気づいたが、霊仙寺の売店で装束を買い求めたとき、「四国遍路 作法とお経の意味」という小冊子を頂いていた。これに遍路の心得や、参拝の作法、そしてお経の意味などがシッカリ記載されていた。
 しかし、正式の真言宗の門徒ではないから、これらの読経の作法や真言は割愛し、肝心の「般若心経」だけを読経した。

      
         真言宗の法具  五鈷杵  (平安時代 12世紀)

 遍路に使う頭陀(ずだ)袋に代用するショルダーバッグに、納経帳、線香、蝋燭、数珠、般若心経の教本、お札などを入れていたが、線香、蝋燭は、箱ごと入れていた。
 若い世代では頭(ず)陀(だ)袋(ぶくろ)は通用しないかも知れない。一般には頭陀袋とは、なんでも入れる雑納鞄のことをいう。
 が、由来は僧侶が托鉢にもち歩く袋のことである。
 托鉢修行を頭陀行といい、このとき首から下げた袋を頭陀袋といい、仏具や托鉢で得た食べ物などを入れた。
 のちには葬儀のとき、死者の首に掛ける袋も「頭陀袋」というようになった。これは、これから仏教修行の旅に出るという意味合いであり、白い布製の頭陀袋の中には、紙に描いた六文銭を入れる。
 遍路の一般的な形では、この頭陀袋を下げて教本、納経帳、線香、蝋燭、数珠などをいれていく。この頭陀袋は買わず、使い慣れたバッグを使うことにした。
 さて、菅笠を被り、錫杖を持っているから、実際に大師堂にお参りするとき、まず錫杖を錫杖入れに立て、菅笠を錫杖に掛ける。
 そしてまず蝋燭を箱から出して点灯し、箱を鞄に収めてから、さらに線香の箱をとりだす。わずかに二本や三本を取り出し、蝋燭で火を付ける。
 それから「お札」を取りだして、妻が名前を書く。そして数珠と教本を取りだし、読経をする。
 とにかく初めての作法なので、ひとつひとつの所作にまごつきが多かった。
 とくに予想とは異なり、霊仙寺から小雨がふりだした。
 このため、格別に蒸し暑く、汗が噴き出した。汗を拭きながら、蝋燭をとりだし、線香をとりだす。いずれも箱に入っているから、取り出しがとても煩雑であった。
 やっと灯明をあげ、線香をあげ、読経にはいるが、気がつくと数珠が鞄にはいったままであった。なかなか手際よく所作が決まらなかった。
 この不慣れな作法を本堂でも繰り返し、やっと納経所に入る。
 納経所にはいると、冷房が効いていたほっとする。御朱印は西国巡礼のときと同じ300円であった。
 今年は四国八十八ヶ所霊場開創1200年にあたり、各寺院では納経帳に記念スタンプを押印し、さらにご本尊白黒御影と、記念のカラー御影の二枚をいただくことができる。
 白黒御影は、掛け軸に表装するらしい。西国33箇所のときは、御影を頂いたが、基本はスタンプラリーでもあったから保存しなかった。
 今回の遍路では、二千円もする豪華な「ご本尊御影保存帳」をかったから、丁寧に保存して行くつもりである。
 四国霊場開創1200年記念事業として、「御本尊の御開帳」や「記念法要」などの特別催事を実施する札所がいくつもあるらしい。秘仏が多いから「御本尊の御開帳」に巡り会えれば幸いであろう。霊場開創1200年記念事業は、平成25年12月~平成27年5月末まで行われる。
 出来れば来年の5月までに、遍路の結願を達成したいと思う。









 般若心経

 何度も読経してきた般若心経は、正式には『般若波羅蜜多心経』といい、大乗仏教の空・般若思想を説いた般若経典の一つである。

    

 般若思想とは、あらゆるものは「空」であると説く思想である。
 これは、あくまでも「実体」が「有る」としているものに、とらわれて、しがみついて、こだわり執着する。
 そんな「実体は無い」と言うことを強調するために、あえてすべての存在を否定し、「空」であると説いている。
 すべてが「空」であると自覚することで、智慧を目覚めさせ、「自他不二」・「一切無差別平等」を、如実に知見していかなければならない、という。
 日本の仏教は大乗仏教の系統であり、宗派を問わず『般若波羅蜜多心経』を唱える。原典は玄奘三蔵の漢訳とされている。このため、玄奘三蔵が、サンスクリットをそのまま音写している「阿耨多羅三藐三菩提」の部分は、漢字としての意味はない。梵語の翻訳ではじめて意味が理解できる。
 また、最後の「羯諦羯諦(ギヤーテーギヤーテー)波羅羯諦(ハラーギヤーテー)波羅僧羯諦(ハラソーギヤーテー)菩提薩婆訶(ボジーソーハーカー)」は、梵語のマントラである。
 真言と漢訳されるが、密教では、仏に対する讃歌や祈りを象徴的に表現した短い言葉である。
 ともかく、わずか三百文字たらずの経文に、大乗仏教の心髄が説かれているとされ、複数の宗派で読誦経典の一つとして広く用いられている。
 各宗派で用いるときは、頭部に「仏説」(仏の説いた教え)や、「摩訶」(偉大な)の接頭辞をつけて、『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』や『摩訶般若波羅蜜多心経』とも表記される。
 これからこの般若心経を幾度も唱えることになる。


          




 「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」

  観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。
  照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。
  色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。
  受想行識亦復如是。舎利子。
  是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
  是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。
  無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。
  無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。
  無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。
  菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。
  無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。三世諸仏。
  依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知。般若波羅蜜多。
  是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。
  能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多呪。
  即説呪曰。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経」


     



 般若心経の現代語訳

 読経は、いちいち意味を考えながらでは誦(ず)経(きよう)できない。
 形として読経しているが、漢文だから文字だけでは理解しにくいところが多い。
 現代語訳がネットでいくつかある。そのひとつである。

 「観音菩薩が、深遠なる「智慧の波羅蜜」を行じていた時、
 〔命ある者の構成要素たる〕五蘊は「空虚」であると明らかに見て、
 すべての苦しみと災い〔という河〕を渡り切った。
 シャーリプトラ(釈迦の弟子の名)よ、
 色(肉体)は「空虚」と異ならない。「空虚」は色と異ならない。
 色は「空虚」である。「空虚」は色である。
 受(感覚を感じる働き)、想(概念)、行(意志)、識(認識する働き)もまた同様で ある。シャーリプトラよ、
 すべての現象(一切法)は「空虚」〔ということ〕を特徴とするものであるから、
 生じることなく、滅することなく 汚れることなく、汚れがなくなることなく
 増えることなく、減ることもない。 
 ゆえに「空虚」〔ということ〕の中には、
 色は無く、受、想、行、識も無い 眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、
 色、声、香、味、触、法も無い
 眼で見た世界(眼界)も無く、意識で想われた世界(意識界)も無い
 無明も無く、無明の滅尽も無い 老いと死も無く、老いと死の滅尽も無い
 「これが苦しみである」という真理(苦諦)も無い
 「これが苦しみの集起である」という真理(集諦)も無い
 「これが苦しみの滅である」という真理(滅諦)も無い
 「これが苦しみの滅へ向かう道である」という真理(道諦)も無い
 知ることも無く、得ることも無い もともと得られるべきものは何も無いからである
 菩薩たちは、「智慧の波羅蜜」に依拠しているがゆえに 心にこだわりが無い
 こだわりが無いゆえに、恐れも無く
 転倒した認識によって世界を見ることから遠く離れている。
 過去、現在、未来(三世)の仏たちも「智慧の波羅蜜」に依拠するがゆえに
 完全なる悟りを得るのだ。
 それゆえ、この「智慧の波羅蜜」こそは 偉大なる呪文であり、
 偉大なる明智の呪文であり、超えるものなき呪文であり、
 並ぶものなき呪文であり、すべての苦しみを除く。
 〔なぜなら〕真実であり、偽りなきものだからである。
 〔さて、〕「智慧の波羅蜜」という呪文を説こう、すなわち呪文に説いて言う
 「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
 (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に正しく往ける者よ、 菩提よ、ささげ物を受け取り給え) 〔以上が〕般若心経〔である〕。


    



 般若心経  ひろさちや氏現代語訳

 観自在菩薩が かつてほとけの智慧の完成を実践されたとき、
 肉体も精神も すべてが空であることを照見され、あらゆる苦悩を克服されました。
 舎利子よ。存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。
 存在がすなわち空で、空がすなわち存在です。感じたり、知ったり、意欲したり、
 判断したりする精神のはたらきも、これまた空です。
 舎利子(釈迦の弟子)よ。
 このように存在と精神のすべてが空でありますから、
 生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしません。
 そして、小乗仏教においては、現象世界を五蘊(ごうん)・十二処・十八界といったふうに、
 あれこれ分析的に捉えていますが、すべては空なのですから、
 そんなものはいっさいありません。
 また、小乗仏教は、十二縁起や四諦といった 煩雑な教理を説きますが、
 すべては空ですから、そんなものはありません。
 そしてまた、分別もなければ 悟りもありません。
 大乗仏教では、悟りを開いても、その悟りにこだわらないからです。
 大乗仏教の菩薩は、ほとけの智慧を完成していますから、
 その心にはこだわりがなく、こだわりがないので恐怖におびえることなく、
 事物をさかさに捉えることなく、妄想に悩まされることなく、
 心は徹底して平安であります。また、三世の諸仏は、
 ほとけの智慧を完成することによって、
 この上ない正しい完全な悟りを開かれました。
 それ故、ほとけの智慧の完成は すばらしい霊力のある真言であり、
 すぐれた真言であり、無上の真言であり、無比の真言であることが知られます。
 それはあらゆる苦しみを取り除いてくれます。
 真実にして虚妄ならざるものです。
 そこで、ほとけの智慧の完成の真言を説きます。
 すなわち、これが真言です。
 「わかった、わかった、ほとけのこころ。すっかりわかった、ほとけのこころ。
 ほとけさま、ありがとう。


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一番札所 竺和山(じくわさん) 霊仙寺
 

  本尊 釈迦如来(伝・弘法大師作)
  ご詠歌 「霊山の  釈迦の御前に  めぐりきて  よろずの罪も  消えうせにけり」

 四国88ヶ所霊場の全行程は、およそ1460㎞、365里におよぶ。
 この霊場を札所番号の順に巡拝するには、ここが「発願の寺」の起点となり、「同行二人」の長い旅がここからはじまる。
 讃岐出身(香川県善通寺市)の弘法大師は、古代から修験者の修行の地であった辺地の四国で、自らも何度も修業をおさめた。
 のちに唐の長安に留学し、青龍寺の恵果(えか)和尚から密教のすべてを伝授された。
 帰国後、朝廷から真言宗開創の許しをえて、高野山や東寺を賜り、『即身成仏義』や『秘密曼荼羅十住心論』などを著し、密教を中心に仏法興隆に努めた。


      

 以下は霊仙寺の由緒である。
 空海と名を改めてのち、伝説であろうが、この四国の地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生の厄難をはらい、心身の救済ができる88の霊場を開くべく、この地で37日間の修法をされたという。
 その時、仏法を説く一老師を、多くの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得たという。
 弘法大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で、釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で、「竺和山・霊山寺」と名づけられたと寺伝にある。
 このときの念持仏が「釈迦誕生仏像」であり、本尊の前に納められたことから、四国88ヶ所の第一番札所とさだめ、霊場の開設・成就を祈願されたと伝えられる。
 誕生仏は白鳳時代の作で、身の丈約14㎝余の小さな銅造らしい。
 こののち、四国の鳴門から右廻りに巡教され、88の寺院を選び、四国88のヶ所霊場を開創された。と伝えられている。このため、一番札所から順に阿波、高知、愛媛、讃岐と、札所がつづいている。
 かっては、阿波三大坊の一つとされ、荘厳な伽藍を誇っていたらしい。が、天正10年(1582)、長宗我部元親の兵火により堂塔は全焼した。
 その後、三代阿波藩主・蜂須賀光隆によって復興した。が、明治24年(1891)の出火によって、本堂と多宝塔以外の堂宇を再び焼失している。 以来百年年、いまは往時の姿となっているが、おおかたが近年の建物である。


     

 寺伝によれば奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創されたという。
 弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ、21日間(三七日)留まって修行したという。
 その際、天竺(インド)の霊鷲山で、釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し、天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から、竺和山霊山寺と名付け第一番札所としたという。
 本尊の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像である。
 室町時代には三好氏の庇護を受け、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。 
 その後徳島藩主蜂須賀光隆によって再興されたが明治時代の出火でまた多くの建物を失った。本堂と多宝塔以外は近年の再建である。

      

 寺伝その他の言い伝えでは、空海が弘仁6年(815年)に四国霊場を開き、札所と札所番号を定めたことになっているが、これは史実ではない。
 四国は奈良時代から山岳信仰(後の修験道)の修行地で、空海も渡唐前には私度僧として修行のために故郷でもある四国で修行をしたが、唐から戻って後、特定の八十八箇寺を札所として定めたことはなく、後の人々が空海ゆかりの寺々を霊場に定めたものと推定される。
 実在の人物としての空海は、弘仁年間には都で密教の普及に努めていた。
 江戸時代に入り庶民による霊場巡礼が盛んになると、四国を修行した僧などが案内書を出版するようになる。
 そのうちの一人が大坂で四国邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)を出版した真念であり、この真念がはじめて八十八箇所を特定し札所番号を定めた。
 当時大坂から四国へ渡るには淡路島を経由し鳴門から四国入りするのが一般的であったので、鳴門の撫養(むや)の港に最も近い霊山寺を第一番札所と定めたと推測される。
 境内は、本坊側駐車場にある発心の門をくぐると、山門前に出て、山門を入るとすぐ左に手水鉢があり、
その後に鐘楼がある。先に進むと左手に多宝塔、その向かいの池の先に大師堂がある。
 多宝塔の並びには十三佛、不動明王が祀られ、正面の最も奥に本堂がある。



つづく


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