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日本の伝統美

 
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浮世絵の世界


   東洲斎写楽   喜多川歌麿   葛飾北斎   北斎漫画 

    歌川広重     歌川国芳      鈴木春信             

    

 

 

   歌川広重

  江戸時代末期の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。
 江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。
 安藤広重として知られているが、安藤は本姓、広重は号であり、安藤広重と名乗ったことはない。
 ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。
 幼い頃からの絵心があり、歌川豊広(1774年-1829年)に入門。
 師と本名から、一字とって歌川広重の名を与えられ、一遊斎の号を使用してデビュー。
 
 役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめたが、師の豊廣没後は風景画を主に制作した。
 天保元年(1830年)一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。
 翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。
 各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けている。
 また、短冊版の花鳥画でもすぐれた作品を描き、歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。
 さらに、肉筆画・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。
 それらの総数は2万点にも及ぶと言われている。安政5年没。享年62。






  
    東海道五十三次之内 日本橋




  
    東海道五十三次之内 蒲原





  
     東海道五十三次之内 庄野





  
     東海道五十三次之内 岡崎 矢矧之橋




  
    




              
                 富士三十六景之内 甲斐御坂越




   
      左:広重  右:ゴッホの模写





   
      左:広重  右:ゴッホの模写





              
                名所江戸百景 大はしあたけの夕立





  
    東都霞ケ関山王祭諌込ノ図




  
      不二三十六景                       ボストン美術館








            
               富士三十六景・駿河薩多海上




   
      雪中おしどり                        北九州市立美術館






   
       「木曽海道続ノ一  日本橋雪之曙」





   
      「木曽海道六拾九次之内 洗馬」





   
        「木曽海道六拾九次之内 妻籠」

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   歌川国芳 

  江戸時代末期を代表する掟破りの浮世絵師の一人であり、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。
 幼少期から絵を学び、12歳で描いた「鍾馗提剣図」を初代歌川豊国が目に留め、15歳で入門。豊国は華麗な役者絵で一世を風靡した花形絵師であり、兄弟子に歌川国貞がいる。
 国芳45歳の時、老中・水野忠邦の天保の改革で、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になった。江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけ、絵のいたるところに隠されている悪政に対する風刺が込められた。江戸の人々は浮世絵の謎を解いては溜飲を下げて大喜びした。
 幕府を風刺する国芳に江戸の人々は喝采を浴びせた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。
 一方、密かに西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方の研究に励んだ。国芳は「西洋画は真の画なり。世は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり」と語っている。
 国芳56歳の時、47人の志士が揃う忠臣蔵を西洋画の技法で描く事を思い立ち、あくまで戯曲化され、舞台で演じられる役柄として、てリアルに描いた。が、写実的な肖像画は受け容れられず、すぐに打ち切りとなった。
 華々しい武者絵の世界を築いた国芳はひとつの時代の終焉に合わせるかのように文久元年(1861年)に65歳の生涯を閉じた。






           
             源頼光シリーズ 水野忠邦の悪政を風刺したもの  ロサンジェルス美術館




  
      源頼光シリーズ 水野忠邦の悪政を風刺したもの         ロサンジェルス美術館





  
     大物浦にて義経主従と戦う平知盛の霊の海中の陣





  
     近江の国の勇婦於兼







            
             『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』
             はて、何人が隠されているか?






  
    「里すずめねぐらの仮宿」





  
    「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」   大判錦絵三枚続     神奈川県立美術館




 
    




           
              金魚づくし/百ものがたり




           
              坂田怪童丸(金太郎)






  
   相馬の古内裏 大判錦絵三枚続




            
              猫の宛字







  
     『浅草金龍山弁天山雪中之図』




  
     高祖御一代略図  甲斐国石和川鵜飼亡魂化




   
      猫づくし





    
       白面笑壁のむだ書





   
     仮名手本忠臣蔵  西洋画の遠近法と陰影の技法を用いた





   


   
      仮名手本忠臣蔵


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   鈴木春信 

  京都に出て西川祐信に学び、後に江戸に住んだといわれる。または西村重長の門人とも伝わる。姓は穂積、後に鈴木を名乗る。通称次郎兵衛。
 細身で可憐、繊細な表情の女性像で知られる美人画の浮世絵師。
 初期には紅摺絵の役者絵も知られているが、浮世絵版画における「錦絵」技法の大成者として有名。江戸神田白壁町の戸主(家主)で、平賀源内の友人。
 宝暦10年(1760年)3月上演の芝居に基づく細判の役者絵『市村亀蔵の曾我五郎と坂東三八の三保谷四郎』が初作とされており、この細判紅摺絵を手始めに亡くなるまでの10年間浮世絵師として活躍した。宝暦年間はこのような役者絵、美人画の他、古典的画題の紅摺絵、水絵を制作していた。
 錦絵が大流行するきっかけになったのが、旗本・大久保甚四郎(俳名 巨川)と阿部八之進(俳名莎鶏)が、薬種商の小松屋三右衛門(俳名百亀)らと協力して、金をかけて画期的な多色摺りの技術を開発した。彫師や摺師と協力、木版多色摺りの技術開発、色彩表現の可能性を追求、様々なデザインの絵暦が競って作られ、やがて錦絵の流行に発展していった。
 春信の作品が当時の知識人をパトロンとし、彫師、摺師との緊密な協力による制作であることをも示している。春信の描く美人は、人物が一般に小柄で手足もか細く、色彩も胡粉を混ぜた中間色を使っており、その叙情性も幻想的にさえなる。その優れた錦絵作品は一時代をなし、後世にまで大きな影響を与えている。
 明和年間、錦絵の草創期に中判を標準形式とし、叙情的な美人風俗画に一世を風靡、多数の追随者を出した




              
                 「中納言朝忠(文読み)」





              
                 智(手習い)





   
      見立菊慈童




              
                  夕立




             
                ボストン美術館





             
                見返り美人





   
       縁先美人図                    摘水軒記念文化振興財団




   
       お仙





            
               雨夜の宮詣





            
                若侍の身支度




   

    


             
                夜の梅