大船観音
夫婦同伴のOB旅行会は、今回はN氏の幹事で10時5分大船集合となった。
昨日はレンタカーを利用して、妻を東京見物に案内し懐かしの新宿に宿泊した。
余裕をもって、東京駅9時15分発の東海道線スカイライナーに乗るつもりが、土日の発着ホーム変更にまごついた。ともかくも滑り込みで、予定の東海道線スカイライナーに乗って、集合時刻の十五分前に無事大船駅に到着した。
幹事は、今回の旅行に大型のトヨタ・ハイエースグランドキャビンというレンタカーを、手配していてくれた。 さっそく乗り込んでみると、なんと十人乗りのマイクロバスのような広々とした車内であった。
こうして、今回は幹事の運転するグランドキャビンで、総勢八人は鎌倉から箱根へのクルージングへと出発した。
大船駅からスタートしたキャビンから、すぐ右手の樹林の上に巨大な白い大船観音の頭部が突き出ているのが見えた。 帰ってから大きさを調べてみると、胸部から上の彫像で、高さは二十五・三九mとあった。もし、この観音様が立ち上がったら、80mもの巨大な観音立像となるであろう。20数階建てのビルに匹敵する高さとなる。
さて、この大船観音は、大船駅の西口に近く、大船観音寺境内にある。
永遠平和を祈願して地元有志が、昭和4年( 1929)に大船観音の建立に着手し、昭和9年に像の輪郭ができあがった。
当時の日本は、第一次世界大戦後の不況や飢饉などで、不安定な社会情勢の中にあった。そこで、観音信仰によって、国民の平安と国家の安寧を祈願しようと、地元有志が護国大船観音建立会を設立して、寄付を募り観音建立に着手したものである。
ところがその後、軍部独走によって満州事変(昭和六年)が拡大し、さらに支那事変(昭和十二年)などが勃発し、資金や資材不足となり、戦争により未完のままになった。
太平洋戦後、曹洞宗管長高階(たかしな)瓏仙(りゅうぜん)禅師らが中心となり、吉田内閣国務大臣安藤正純、東急会長五島慶太等を中心に、財団法人大船観音協会が設立され、修仏工事が着工され1961年に現在の像が完成した。
高台から大船の町を見守る白衣の観音の姿は、電車からも見えて大船の人々に親しまれている。
大船観音協会は、昭和56年に宗教法人大船観音寺と改組し、曹洞宗大本山總持寺の末寺として、寺院の伽藍が整備され現在に至っている。
男はつらいよ
大船に来たのは初めてながら、大船と言えば、松竹の大船撮影所が有名である。
大船撮影所は、帰ってから調べてみると、平成12年6月に一部の施設を除き閉所されているとのことであった。
松竹のドル箱であった『男はつらいよ』は、柴又の「とらや」のシーンは、ここ大船撮影所で撮影されている。渥美清が演じた『男はつらいよ』の実家の「とらや」の、撮影で使用された茶の間のセットは、「葛飾柴又寅さん記念館」へ移されている。それでも「とらや」の看板など一部が、まだ大船撮影所に今でも残されているという。
幹事の運転するグランドキャビンは、大船駅から北鎌倉の市街抜けて行く。
秋の北鎌倉の市街を眺めつつ、これから始まる「鎌倉と箱根の旅」に胸を弾ませながら、全国を気儘に旅し続けた「フーテンの寅さん」について触れてみたい。
松竹の『男はつらいよ』の映画シリーズは、1969年から1995五年までに、山田洋次が全48作の原作、脚本を担当し、46作を自ら監督した。
全作品がヒットして、松竹のドル箱シリーズとなり、30作を超えた時点で、世界最長の映画シリーズとしてギネスブックにも認定された。
渥美清の死去により、1995年に公開された第48作をもって幕を閉じた。
渥美清が演じる主人公、車寅次郎(フーテンの寅)は、父親、車平造が芸者の菊との間に作った子供で、実母の出奔後、父親のもとに引き取られ、16歳の時に、父親と大ゲンカをして家を飛び出したという設定になっている。
第一作は、テキ屋稼業で日本全国を渡り歩く渡世人となった寅次郎が、家出から20年後に、突然、腹違いの妹さくら(倍賞千恵子)と叔父夫婦が住む、生まれ故郷の東京都葛飾区柴又に戻ってくるというシーンから始まる。
テキ屋稼業の寅次郎は、柴又に帰るのは数えるほどしかなく、一年中日本各地を旅している。このシリーズは原則としてお盆と正月の年二回公開されたが、お盆公開の映画の春から夏への旅は、南から北へ、正月公開の秋から冬への旅は、北から南へ旅することが多かった。
シリーズの撮影は、ほぼ全国で行われているが、高知県と埼玉県、富山県では撮影が行われていない。但し、高知県では次回作の撮影が決定していたが、主演の渥美清の死去により実現しなかったので、寅さんと縁がなかったのは、埼玉県と富山県だけということになる。
シリーズで訪れる日本各地の、なつかしい風景が「男はつらいよ」の魅力の一つでもある。
そして、「男はつらいよ」の魅力の最大のものは、誰でもが一度は憧れる、何事にも拘束されずに、気の向くままに旅ができる渡世人の設定である。
男は誰もが、さまざまな「しがらみ」から解き放たれて、気の向くままに旅に出ることを密かに憧れている。そのような思いを、代償満足させてくれるから楽しいのである。
そして、寅さんの魅力は、人情味溢れる世話焼きと、困った人を放っておけない、男の美学を持った四角い顔が特徴の、憎めない粋な人物である。
かくも日本人に愛された、渥美清が演じた主人公「車寅次郎」は、表向きはヤクザな渡世人ながら、粋で、世話好きで、話好きで、困った人を放っておけないのである。
思った事をずばずば言う反面、惚れた女性に対しては、非常にナイーブで誠実な一面もある。いつもユニークな話術で周りの人達を笑わせ、私欲の為に人を蹴落とすという事はできず、どちらかというと損をするタイプである。
マドンナや旅先で知り合った人達からは「寅さん」として慕われ、それなりに頼られている。
寅次郎は、人の痛みが良く分かり、人情味に厚みがある。
しかし自分の理屈に合わない考え方や物事に対しては、すぐに怒り出すという短気な面も持ち合わせている。寅次郎には自分のフーテンさを棚に上げて人の事をあれこれ言う癖がある。
そういう性格が災いし、いつもちょっとした事で家族といさかいが起こる。
いさかいが鎮まりかけた頃には、決まって裏の印刷工場のタコ社長が一言余計な事を言ってしまう。
これが元で、またいさかいが始まり、結局、寅次郎は家を飛び出す事になる。しかし妹・櫻だけは、最後まで寅次郎の事を気遣ってくれる。
家を出る事を除けば、これらはどこの家でもあるような事柄ばかりで、いさかいの後は、何事もなかったように普通の関係に戻る。誇張されているが、これが真の家族ではないかと思う。
気持ちの良いいさかいシーンは、家族愛の表現の一つなのかもしれない。
寅次郎は数多くの女性と接してきたが、とうとう最後まで独身だった。
寅次郎に恋愛感情を持ったマドンナは何人かいたが、そんな時は、決まって寅次郎の方が逃げ腰になってしまう。
その理由は、寅次郎の恋愛とは、相手に惚れる事であり、決して惚れた相手を独占し、いっしょに安住するといった事が、目的ではないからである。つまり、恋する事そのものが目的であり、恋が成立しそうになると、自ら身を引いてしまうという事である。
たとえ安住したい気持ちがあったとしても、渡世人の寅次郎にはそれができない。
惚れた相手との距離が近づくに連れ、お互いの住む世界の違いを感じ、そこが引き際となるのである。寅次郎の恋が成立しないのは、喜劇とは別な意味で、実はそこには日本人的な独特の「男の美学」が隠されているのではないかと思う。
建長寺
大船駅から鎌倉街道を東に走り、北鎌倉駅前を過ぎて、やがて予定通り北鎌倉にある建長寺に到着した。
観光案内地図によると、大船から鶴岡八幡宮までの道が「鎌倉街道」とあり、鶴岡八幡宮から東は、「金沢街道」と名を変えている。
鎌倉幕府が整備した古道の「鎌倉街道」とは違うのかもしれない。調べてみると関東から関西にかけて「鎌倉街道」という名が多くあったが、よく分からなかった。
ここでは古道については、深入りしないことにしたい。
建長寺の正式名称は「巨福山(こふくさん)建長興国禅寺という。
鎌倉五山の第一位で、北条時頼が建長五年(1253)に、宋から高僧「蘭渓(らんけい)道隆」を招いて創建したものである。
総門・三門・仏殿・法堂などの主要な建物が、中軸上に並ぶ大陸的な伽藍配置をしている。
仏殿の前にある、樹齢約七百三十年というビャクシンの古木が、寺の歴史を物語っている。鎌倉五山の第二位の円覚寺と、双璧をなす禅寺だが、歴史は建長寺の方が長く、円覚寺は1282年創建である。
建長寺開山は、京都などの旧仏教に対して、新仏教の禅宗を取り入れて、北条時頼が権力の象徴として建立したと言われている。
最盛期には七堂伽藍、四十九の塔頭(たっちゅう)を備えていたが、残念ながら数度の火災ですべて焼失した。現在の建物は、江戸時代に将軍家からの寄進を受けて、再建されたものがメインになっている。最盛期の四十九の塔頭には及ばないものの、現在でも十二の塔頭寺院が、老杉に囲まれて点在している大寺であり、壮大な三門や仏殿など見どころは多い。
建長寺は、宋朝風の臨済禅を修行する、初めての専門道場として誕生している。
専門道場の意味は、中国杭州の径山万寿禅寺で修行するのと同じように、禅宗だけを研鑽するということである。 中世を通じての各寺院は、一ヶ寺で、天台宗と真言宗・浄土宗などを兼ねている例が多かったのである。
だから建長寺のような臨済禅だけを修行する専門道場は、たいへん珍しかったという。
建長七(1255)年二月に造られた、国宝のつり鐘の銘文に、「巨福山建長禅寺鐘銘」とか、「建長禅寺住持宋沙門道隆」とある「禅寺」の呼び方は、わが国で最初の例である。
開山禅師のもとで、森厳な修行が始められた翌年の建長七(1255年)二月、北条時頼は、「建長禅寺ここにあり」という心意をこめて立派な梵鐘を造った。
これが、現存するみごとな国宝の梵鐘である。(写真参照)
陽刻の銘文は、開山禅師がみずから撰文して書いたもので、真面目でととのった美しい書風が偲ばれる。鐘をつくった鋳物師は、当時の関東で最高の技術者といわれた、物部重光という人であったという。こうして、禅宗は、建長寺を中心として、次第に全国へと流布していくことになった。
かつて、寿福寺で禅の修行を重ねていた、日本の臨済宗の開祖、明庵栄西(えいさい)が他界してから、ほぼ四十年の歳月が流れていた。
栄西が、鎌倉の地に蒔いた「禅」という種子は、建長寺が創建されたことで、やっと実を結び、開花したともいえる。
さらに、嘉元三(1305)年に無住道暁が著作した、鎌倉時代の仏教説話集である『雑談集』は、
「隆老僧、唐僧にて、建長寺、宋朝の作法の如く行はれしより後、天下に禅院の作法流布せり」
とのべ、これより先にまとめられた『野守鏡』も、
「禅宗の諸国に流布することは、関東に建長寺を建てられしゆへなり」
と伝えている。
これら禅宗の普遍ぶりを記しているのは、建長寺が創建されてから、およそ五十年後のことである。
建長寺が建てられる以前、この地は「地獄谷」とよばれ、罪人の処刑場になっていた。延宝六年(1678)の「建長寺境内図」に「地獄谷埋残」「わめき十王像」など記されていて、地獄谷が後世まで伝承されていたことがわかる。
極楽寺のある谷も地獄谷とよばれ、化粧坂の瓜ヶ谷地獄やぐら、名越坂のまんだら堂跡など、鎌倉の境界にあたる所は、多くの庶民の墓地や葬送の場でもあった。
そのため、この地には地蔵菩薩坐像を本尊とする、心平寺があった。
この心平寺は、のちに衰えて地蔵堂だけが残っていたが、北条時頼が建長寺を開創するにおよび本尊の地蔵は、建長寺の仏殿に千体地蔵とともに安置されている。
この本尊にまつわる、済田地蔵の話がある。
無実の罪で、斬首されようとした済田佐衛門金吾は、日ごろ信仰していた一寸八分の地蔵尊の身代わりで、救われたという話しである。
無実の罪で、刑場で斬首されたにもかかわらず、不思議なことに金吾の首は落ちなかった。
何度試みても、金吾の首は落ちず、役人は恐れて金吾を無罪放免した。
金吾自信も不思議に思って、懐に持っていた小さな地蔵を開けてみると、地蔵の背に、くっきりと刀傷が残っていたのを発見した。
地蔵尊の身代わりで救われた事に、左衛門は感謝して、小像を心平地蔵の頭中におさめたという。この身代わり地蔵尊は、さらに建長寺が創建されると、仏殿本尊の胎内に
移塔に納まり別に安置されているという。
栄西禅師
鎌倉の寺は、いわゆる「鎌倉五山」を始めとする禅宗寺院が多く、独特の凛とした空気がただよう。
建久二年(1191年)に、南宋から帰国した僧侶栄西によって伝えられた禅宗は、その後鎌倉時代の末期まで、幕府は次々と大寺院を建立し、幕府の庇護のもと隆盛を極めた。
鎌倉五山とは、建長、円覚、寿福、浄智、浄妙寺の五カ寺をいう。いずれも栄西禅師が開いた禅の教え、臨済宗の五大官寺である。
寿福寺の「木造栄西禅師坐像
五山の制度は、印度の五精舎(しょうじゃ)にならい、中国南宋末期に、禅宗の保護と統制のため格式高い五つの寺を定めたことに由来し、北条氏が中国に倣って鎌倉各寺の格を定めたとされる。
官寺を格付け管理し、官が任命権をもって順次格式の高い寺に昇任させる制度である。鎌倉幕府が滅びたのち、京都を中心とする順位が定められた。
京都の南禅、東福、建仁寺と鎌倉の建長、円覚寺で五山とされた時代もあった。
室町初期には鎌倉・京都それぞれに、五山が定められ、それに次ぐ十刹(じゅうさつ)と緒山が選ばれこの制度が定着したと いわれる。
現在の五山の順位が定められたのは、室町期の至徳三年(1386)足利義満のとき、五山の上に南禅寺がおかれ、京五山として天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺、
鎌倉五山として前記の五寺が定められた。
円覚寺舎利殿
禅宗の隆盛は、個性豊かな文化芸術を育んでいる。いわゆる「禅宗美術」もその一例である。建長寺の伽藍配置や円覚寺舎利殿に代表される建築はじめ、水墨画などの絵画、頂相(高僧の肖像)彫刻など、さまざまな分野で花開いた。
栄西禅師( 1141~1215 )は、臨済宗を宋から伝えた臨済宗の開祖として有名だが、同時に、わが国の茶道の祖としても有名なのである。
栄西禅師は、臨済禅と共に、初めて抹茶の製茶法、抹茶式のお茶のたて方を、わが国へもたらしている。更には、わが国最初の茶専門書『喫茶養生記』を著している。
栄西禅師は、岡山の吉備津宮の神官の家に生まれた。
十四歳で比叡山に上がり、その後二度にわたって中国に留学している。中国では、黄龍派の臨済を学んでいる。
栄西は、帰国後、最初は博多の聖福寺(1195)を拠点として活動を始めた。
これは、当時京都では、天台宗・真言宗の二大平安仏教の勢力が強く、臨済禅という新しい仏教に対して、支持者や認知者が全くいなかった為である。
博多の聖福寺を拠点に精力的な活動を続け、ある程度の支持者が増えると、都を素通りして、頼朝が開いた鎌倉幕府のお膝元・鎌倉へ赴き、ここで幕府の中核に働きかけ、北条政子の援助で寿福寺(1200)を建てることに成功している。
寿福寺
栄西は、臨済宗禅を普及させるための、戦略的な考え方と手腕があったといえる。
そして更に、幕府の庇護のもとで、ようやく京都にも建仁寺(1205)を建てた。以後栄西は、京都と鎌倉を頻繁に往復して、精力的な活動を続けている。
この栄西の精力的活動により、仏教には天台・真言以外にも、色々あるということが人々に認識され以後の道元(曹洞宗)、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)らの活動を支える下地が形成されることになった。
京都建仁寺境内
後に鎌倉仏教と称されるように、多くの宗派が生まれている。
鎌倉時代は、公家の政権から武家の政権への転換期であり、また天災・飢饉・戦乱などによって民衆の苦悩は深まっていた。また仏教史観によれば、末法の時代でもあった。
そうした中で貴族階級中心の平安仏教に代わり、民衆の救いへの願いに応える仏教が生まれたのであった。
禅とは、仏教における瞑想の技法であり、釈迦の時代から重要な修行法として使用されてきた。
釈迦が、菩提樹の下で瞑想をして、悟りに到達したのは有名な話である。
この禅を行うことを、その中核に据えたのが禅宗であり、その歴史は一般にインドから中国へやってきた達磨(だるま)大師(六世紀)に始まるといわれている。
その後、五祖の一人「弘忍」のあとを、正式には「神秀」が継いだものの、「弘忍」自身は、実はひときわ大きな器を持った「慧能」にも密かに衣鉢を与えている。
「弘忍」は、騒ぎを避けるため、「慧能」を南方に逃し、以後「神秀」の系統を北宗禅、「慧能」の系統を南宗禅といっている。
そして、その後の禅は、南宗禅の系統が発展し、これにより「慧能」は六祖とされ「慧能」の偉大さ故に「祖」を付けるのは「慧能」までとしている。この「慧能」の弟子の「行思」の系統から、やがて曹洞宗が「懐譲」の系統から、やがて臨済宗が生まれた。
日本の禅は、この臨済宗・曹洞宗と、江戸時代にインゲン豆で知られる「隠元」禅師が伝えた黄檗宗(おうばくしゅう)、そして虚無僧で知られる普化宗がある。ただし、黄檗と普化はいずれも臨済系の一派である。
北条氏
北条時頼が創建し、歴史の風雪に耐えてきた建長寺の境内にまだ居る。
長くなるが、鎌倉の歴史の旅を続ける。
鎌倉の歴史を語るには、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族の北条氏を語らねばならない。
北条氏は、桓武(かんむ)平氏・平貞盛の子孫で坂東平氏と称し、時方のとき伊豆介となって伊豆国北条郷(静岡県伊豆の国市)に土着し、北条氏を名乗ったというが、詳細はわかっておらず、平氏ではなく、地元の土豪とする説が有力である。
征夷大将軍の源頼朝
北条時方の子の時政は、娘の北条政子が源頼朝の妻となったことから、頼朝の挙兵に協力し、鎌倉幕府の創立に尽力した。
やがて源頼朝が、征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得た。
北条時政は、頼朝亡き後も、頼朝の子の源頼家・源実朝の外戚として、幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となった。時政は、さらに二代将軍頼家を追放し、修善寺に幽閉した上で謀殺した。
つづいて、三代将軍に就いた実朝をも暗殺して、娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、娘の政子や息子の義時に反対され出家させられた。
北条時政の像(静岡県韮山町「願成就院」)
二代執権になった北条義時から数代にわたって、他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立した。源実朝(さねとも)が暗殺されると、義時は京都から九条頼経を四代将軍に迎え(摂家将軍)、将軍の地位をたんに名目的なものとすることに成功した。
さらに、鎌倉幕府から政治的な実権を取り返すべく画策した後鳥羽上皇の、「承久の乱」に勝利し、鎌倉幕府を安定させることに成功した。
三代執権北条泰時は、幕府の統制力を高めるため、御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定し、幕府の御家人支配をゆるぎないものにした。
北条氏は、得宗と呼ばれる嫡流を中心に、名越、赤橋、常葉、塩田、金沢、大仏などの諸家に分かれ、一門で執権、連署、六波羅探題などの要職を独占し、評定衆や諸国の守護の多くも北条一族から送り出した。
重要文化財 北条時頼坐像 建長寺蔵
五代執権北条時頼は、五代将軍九条頼嗣を追放し、宗尊親王を六代将軍に迎えた(皇族将軍)。
八代執権北条時宗は、中国の「元(げん)」からの国書を黙殺して、御家人を統率して二度にわたった蒙古・高麗軍の元寇と戦った。
時宗の息子・九代執権北条貞時は平禅門の乱で内管領の長崎頼綱を滅ぼして得宗専制を確立する。
貞時の子の十四代執権北条高時は、後醍醐天皇の倒幕挙兵計画であった「正中の変」を未然に防いだ。ところが、後醍醐天皇の二度目の倒幕計画である「元弘の変」に続いて、正慶二年(1333)に再度挙兵した。
足利尊氏木像 京都市北区 等持院
すると、御家人筆頭の足利高氏(尊氏)が、これに呼応して京都の六波羅探題を滅ぼし、上野(こうずけ)国の新田義貞が、高氏(たかうじ)の嫡子千寿王(足利義詮)を奉じて、鎌倉を陥落させた。
この結果、北条一族のほとんどが討死または自害し、北条氏はついに滅亡した。
北条政子
北条氏のなかでも、特筆すべき人物である北条政子についても触れねばならない。
政子は、平家を打倒して鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である。
北条時政の娘で、保元二年(1157)に生まれ、嘉禄元年(1225))に没している。源頼家、源実朝、大姫、乙姫(三幡)を産んでいる。
大変な権謀術数にたけた女傑であり、「尼将軍」とも称され、鎌倉幕府の実権を握った。
北条政子像(静岡県韮山町「願成就院」)
父時政は、平治の乱で伊豆に流されていた、源氏の源頼朝の監視役であったが、政子は頼朝と恋仲になってしまう。
驚いた時政は、治承元年(1177)、伊豆目代(もくだい)の山木兼隆と結婚させようとするが、政子は強引に頼朝の元へ行ってしまう。政子が二十一歳の時である。
まもなく長女・大姫を出産した。時政もついに二人の結婚を認め、これによって北条氏は、頼朝の重要な後援者となった。
北条一族の支援を受けて挙兵に成功した頼朝は、鎌倉に幕府を開き、政子は御台所となった。
北条政子は、鎌倉幕府内に強い影響力を及ぼし、一一九五年には頼朝と共に上洛し、娘の大姫を宣陽門院に嫁がせようと、宣陽門院の生母の丹後局と協議していたが、大姫急死により挫折する。
建久十(1199) 年に頼朝が死去すると、剃髪して尼御台と呼ばれるが、政治の実権を握り続けた。
二代将軍の源頼家を補佐し、父時政や弟の北条義時と共に、北条氏による合議制を確立する。
建仁三 (1203) 年には、頼家を修善寺へ幽閉して殺害し、外戚として勢力を持った比企氏を滅ぼしている。さらに政子は、弟の義時と共に父時政を失脚させ、承久元
(1219) 年には、政治的には無能な三代将軍源実朝も暗殺させた。
源実朝(さねとも)像 大通寺蔵
建保六(1218) 年には上洛して、宮将軍の擁立を画策する。
承久三 (1221) 年の後鳥羽上皇の、討幕運動である「承久の乱」で、政子は、動揺する御家人を前に、頼朝以来の恩を説き、鎌倉方をひとつにまとめた。
北条義時の没後は、甥の北条泰時を執権に据えて、政子は政治の実権を握り続けた。
源頼朝と恋仲に落ちて、源氏の再興に力を貸した北条政子は、自らの権力を維持するために、政治能力に欠けていた我が子も粛正して、源氏の嫡流をも絶ってしまった。
なんともすざましい、権力に執着した悪女列伝のトップを飾る女傑であった。
一二二五年に死去、享年六十八歳であった。墓所は鎌倉市の寿福寺にある。
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鶴岡八幡宮
幹事の運転するグランドキャビンは、秋の鎌倉を楽しむ観光客がそぞろ歩く鎌倉街道を悠然と抜けて、鶴岡八幡宮のちょうど裏側に位置する駐車場に滑り込んだ。
駐車場から境内に入ると、いきなり朱塗りの本殿があって少し面食らった。
あとで聞いた話だが、N氏は、晩秋の鎌倉~箱根の旅の幹事を務めるため、事前にマイカーで同じルート巡って、入念に事前調査をしたとの事であった。
大型のグランドキャビンを使用する前提で、入出庫しやすい駐車場の確保や、渋滞による時間などを計算して、余裕のある路程を決めたという。
だから、以後も駐車場を決めるのに何ら迷うこともなく、大型のグランドキャビンをスムーズにベストの駐車場へ直行させ、全く時間ロスのない快適な旅となった。
綿密な計画と周到な事前調査によって、今回の旅をエスコートしてくれた。
鶴岡文庫の下にある大きな駐車場から、少し南へ下って左に折れると丸山稲荷があり、そこを通るといきなり朱塗りの八幡宮本殿の左側に出た。
境内案内地図を掲載したが、正式の参拝であれは、段葛から三の鳥居を潜って、参道から舞殿を経由して本殿という道順となるであろうが、駐車場の関係で逆に歩くことになった。
だからいきなり本殿を参拝し、隣の宝物殿で八幡宮の秘宝の、考古資料、御輿、武具、工芸品等)を拝観した。
それから長い大石段を下って舞殿へ向かった。
「舞殿は、静御前が義経を慕い、心を込めて舞ったところです」
と、舞殿を見下ろしながらN氏が説明してくれた。
大石段を下っていると、舞殿から古式豊かな雅楽の音が聞こえて、きらびやかな巫女の姿も垣間見て、何やら催事をやっている様子であった。
近づいて見ると、舞殿では、本物の神前結婚式が、粛々と行われていた。
帰ってから調べてみると、
「当宮では、舞殿、若宮におきまして挙式をお受けいたしております。
神社の緑豊かな杜に囲まれた境内の中心に位置する「舞殿」は、静御前が源義経を慕って舞を納めた「若宮回廊」の跡にあります。
一年を通じて様々な神事が執り行われる神聖な場所です。広々とした舞殿周辺にご親族、ご友人にご参集いただき多くの方々の祝福のもと、神道による厳粛な結婚式を執りおこない、お二人の門出をお祝い申し上げます。
挙式は巫女の先導のもと、控所より舞殿へと進む参進、殿内着座後の雅楽の調べに合わせて始まります。・・・・中略・・・
舞殿へのご昇殿人数はご新郎・ご新婦・媒酌人ご夫妻を除き、ご両家で三十六名までとなりますが、舞殿周囲からの参列人数に制限はありません。
舞殿での挙式は初穂料として十五万円をお納めいただきます。」
とあった。
参拝者の多い境内で、歴史の由緒ある舞殿で、一般参拝者にも祝福される結婚式は、それなりに意義のある人生のスタートになるかも知れない。
白無垢の花嫁姿に見とれていると、突然、鳩が舞殿の屋根あたりから、一群が隊列をなして一斉に飛び立ち、参道の参拝客が歩いている頭上をかすめて、低空飛行して三の鳥居のある段葛まで飛行し、鳥居からUターンして、また舞殿とその周囲の電線などに戻ってきた。
訓練されているのか、それを何度も繰り返していた。
監察すると、鳩にもリーダーがいて、リーダーは状況をきちんと把握し、鳥居から遅れて戻る鳩を待ち、タイミングを見計らっている様子であった。
リーダーが、また先頭に立って飛び立つと、それに続いてまた隊列を組んで、一群が羽音高く低空飛行をして、観光客の目を引きつけ、歓迎のそぶりを見せている。
参道の往復飛行を終えて、舞殿やその周辺の電線などで羽を休める時、リーダーその他の鳩も、必ず元の位置に戻ってくるから、それなりに序列があるのだろう。
人間でも、動物や鳥でも、群れを形成する生き物は、不思議なもので必ずリーダーが出てくる。
群れは、リーダーに従って行動し、謂わば運命共同体を形成するのである。
さて、鎌倉の象徴でもある鶴岡八幡宮の由来について触れておきたい。
鶴岡八幡宮は、源頼義が康平六(1063)年、奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として由比ケ浜辺鶴岡に、京都の石清水八幡宮を勧請(かんじょう)し、鶴岡若宮と称したのが始まりとされている。
神道では、祭神を分詞することを勧請するといい、京都の石清水八幡宮も、元は大分の宇佐八幡宮を勧請したものである。
同様に全国にある出雲神社や、住吉神社なども、出雲大社や宗像大社から勧請したものである。
木造源頼義坐像(鶴岡八幡宮所蔵)
源頼義が、鶴岡若宮を造営してから百年余の治承四年(1180)に、源頼朝が源氏にゆかりの深い鎌倉に入り、ここを源氏再興の本拠地に定めた。
頼朝は、鎌倉に入ると直ちに、源氏再興と源氏一族の結束を固めるために、頼義が造営した由比郷の八幡宮を現在地に移して祀(まつ)った。
同時に、隣接地に幕府邸を構え、京都の朱雀大路にならって若宮大路を築造するなど、大規模な鎌倉の町づくりを行った。 源頼朝は、鶴岡八幡宮で、幕府の重要な儀式や行事をたびたび催し、国家鎮護の神として位置づけた。
建久二年(1191)には、火災を機に鎌倉幕府の宗社にふさわしく、上下両宮の現在の姿に整えた。
鎌倉は、この頃すでに事実上、京都と並んで政治文化の中心となっており、頼朝は、関東の総鎮守として鶴岡八幡宮を崇敬した。
以後、鶴岡八幡宮は、武門の守護神としても尊ばれ、名実ともに鎌倉の象徴として発展してきた。
鎌倉時代以降も足利、豊臣、徳川家によって手厚く保護された。
現在の朱塗りの本殿は、文政十一年(1828)江戸幕府十一代将軍徳川家斉(いえなり)の造営で、代表的な江戸建築である。
また、二代将軍徳川秀忠公が修造した若宮とあわせ、国の重要文化財に指定されている。
境内には源平池を始め、舞殿、鎌倉幕府三代将軍源実朝が斬殺された大石段脇には、大銀杏が樹齢千年の貫禄とともに、八百年の長い歴史を伝えている。
この大銀杏に公暁が隠れて、三代将軍源実朝を待ち受けて斬殺したと伝えられている。(写真参照)
鶴岡八幡宮は、現在も多くの人々から尊崇され、正月三カ日の初詣客は、毎年百八十万人を数えると言われている。
我々一行は、時間の都合もあり舞殿周辺から駐車場へ引き返したから、有名な流鏑馬神事が行われる流鏑馬馬場までは降りなかった。
源頼朝と義経
ここで、鎌倉幕府を開いた源頼朝について改めて調べてみた。
源頼朝は、久安三年(1147)、源義朝の第三子として京都で生まれた。
平清盛と源義朝の勢力争いに、院の近臣らの争いがからんで戦乱となったのが、平治の乱(1159)である。十三歳で初陣した頼朝は、平治の乱でむなしく敗れ、父とともに東走し、途中関ガ原の雪深い山中で、父義朝の残党一行とはぐれたところを、平頼盛の家人の弥平兵衛宗清に捕えられて京都に護送された。
平治物語絵 巻三条殿夜討巻
ここで源頼朝は、当然、平清盛の前で斬殺される予定であった。
ところが、頼盛の母で、平清盛には継母にあたる、池禅尼の涙ながらの歎願により、
一命を取りとめた。
平治の乱では、清盛が勝利をおさめ、義朝は殺され、その子頼朝は、伊豆に流されて源氏は完全に力を失い、平氏が政治の実権をにぎった。
命を助けられて、伊豆国蛭ヶ小島へ流罪となった頼朝は、それから二十年の歳月を伊豆で過ごすこととなった。
頼朝と政子夫婦の像
『吾妻鏡(あずまかがみ)』は、流罪での蛭ヶ小島の生活を、その始めは写経・読経の毎日であったが、日が経つほどにこの地方の豪族たちと接触する機会も増えていったと伝えている。
『吾妻鏡』は、鎌倉幕府によって編まれたもので、種々の史料から治承四年(1180)から約九十年間の出来事をあつめ、日記の体裁でまとめている。表紙には「東鑑」とある。このお陰で、鎌倉時代のことが真偽は別として、日付とともに詳細に分かる。
流刑地の伊豆では、監視役の伊東祐親、北条時政の下で勤行の日々を送った。
しかし、ゆるやかな監視で、頼朝はかなり自由に行動できたらしい。そして祐親の娘の八重姫との間に千鶴丸をなすが、怒った祐親に仲を裂かれ、子の千鶴丸は殺された。
さらに治承元年(1177)には、頼朝の監視役である北条時政の娘政子と、また恋仲に落ち、時政に猛反対された。
しかし、気丈な政子は、親である時政の反対を押し切って頼朝の妻となった。
政子に子供が生まれて、時政もついに結婚を承諾し、頼朝は時政の邸宅に住まうようになった。
「英雄色を好む」の譬え通り、流刑地にありながらも、頼朝の周囲に女性の影が多い。結果として、北条時政が頼朝のバックボーンを形成することになる。
源頼朝坐像(山梨・善光寺)
治承四年(1180年)、以仁王(もちひとおう 後白河天皇の第三皇子)が、平家の横暴に対して、平家追討を命ずる令旨を諸国の源氏に密かに発し、四月伊豆国の頼朝にも、叔父の源行家より令旨が届けられている。
しかし企てが事前に発覚して、奈良に逃れる途中、以仁王は、源頼政やその嫡子で伊豆守の源仲綱と共に、宇治で平家に討たれた。
そこで平家は、令旨を受けた諸国の源氏を討つべく準備を始めた。
一方頼朝は、京より下った三浦義澄、千葉胤頼らの報告を受け、源氏の再興する時が来たことを確信し、まず伊豆に勢力を持つ伊豆目代(もくだい)の平兼隆を討つ事を決意する。
仕えていた工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉を一人ずつ私室に呼び、皆に、自身のみが抜群の信頼を得ていると思わせ、奮起させたのである。
伊豆目代の平兼隆を討ち、伊豆を得た頼朝は、相模国土肥郷へ向った。
従った者は、北条義時などまだ三百騎のみであったが、さらに三浦義澄、和田義盛らは頼朝に参じるべく三浦を発していた。
しかし合流の前日に、石橋山の戦いで、平家に仕える大庭景親ら三千余騎と戦い、わずか三百騎のみを率いていた頼朝は、あっけなく敗れて僅かな従者と共に山へ隠れた。
平家方は手分けして頼朝を捜索し、平家方の梶原景時が、山中の頼朝の居所を突き止めた。
が、元々梶原景時は平家に不満を密かに抱いていため、「ここに人跡は無い」と、大庭景親に述べ、他の峰に誘った。
梶原景時の配慮で、死を逃れた頼朝は、真鶴岬から船で安房国へと向った。梶原景時は、この縁でのち頼朝の有力な御家人となっている。
梶原景時像 (万福寺)
治承四年(1180年)八月、安房国へ上陸した頼朝は、房総に二万騎を率いる上総広常と千葉常胤の加勢を得た。
十月初めに武蔵国に入ると、葛西清重、足立遠元に加え、一度は頼朝らを滅ぼそうとした畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも頼朝に従い、源氏として大きな勢力を得た。
千葉常胤の
「房総はさしたる要害の地にあらず。また義朝ゆかりの跡でもない。すみやかに相模国に出ずべし。」
の言葉にさとされ、多くの武将とともに治承四年十月、相模へ赴いた。
そして父祖以来源氏ゆかりの地であり、かつて父義朝と兄義平の住んだ鎌倉へ入った。
鎌倉では、先祖の源頼義が、石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を、北の山麓に移すなど整備をつづけて源家の氏神とし、同時に鎌倉の中心にすえて都市鎌倉の街造りを進めた。こうして鎌倉は、後の鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げる事となる。
駿河国富士川で源頼朝と武田信義が率いる源氏方東国武士団と
平家の追討軍が激突した「富士川の戦い」
十月、頼朝追討の宣旨を受けた、平維盛(これもり)率いる数万騎が、駿河国へと達すると、これを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川で武田信義、北条時政らが率いる二万騎と合流した。富士川の戦いで、維盛軍と対峙し、浮き足立った維盛軍を破った。
頼朝は勢いに乗って、その翌日には上洛を志すが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らは、常陸源氏の佐竹氏が未だ従わず、まず東国を平定すべきと諌め、これに従った。
この頃、奥州の藤原秀衡を頼っていた異母弟の源義経が参じている。
頼朝は、幼い頃に見た弟との対面に涙を流し、これまでの身の上を語り合い、「共に平家を滅ぼし、父の仇を討つ」事を誓った。
中尊寺所蔵の源義経像
関東を平定した頼朝は、頼朝追討の宣旨を出している後白河法皇に、「全く朝廷への謀叛の心無し」との書状を送るが、清盛の遺命を受けた平家が、頼朝を許す筈は無く、奥州の藤原秀衡に頼朝追討の由宣が下され、京からも再び追討軍が発される。
しかし、この頃の追討軍は、直接鎌倉へは向かわず、越後国で反乱を行う源義仲に向った。
一方、養和元年(1181年)、肥後国の菊池高直、尾張国の源行家らも、平家打倒の兵を挙げ、そうした中で平清盛が熱病で世を去った。その遺言は
「我の死後は、堂塔も孝養も要らぬ、ただ頼朝の首を跳ね、我が墓前に供えよ」
と伝わっている。
この頃、妻の政子は、嫡男の源頼家を孕み、頼朝は、安産祈願の為に鶴岡八幡宮の参道を、御家人らと共に自らの手で築いた。
頼朝は、武田信光の讒言(ざんげん)を受け、木曽義仲を討つべく鎌倉を発する。
義仲は、越後国関山で二千余騎を率い待ち構え、頼朝は十万余騎を率いて、信濃国佐樟川へ陣を取った。しかし、義仲は、劣勢を悟ると越後国府へと戻り、頼朝に忠誠を誓う書状を送る。
頼朝と和した義仲は、行家と共に平家との戦いに勝利を続け、平家を西国に追い、京に入ると、後白河法皇に召され、平宗盛ら平家一門追討の命を得た。
木曾義仲像(徳音寺所蔵)
しかし都に入った義仲とその兵は、軍規がみだれて略奪など傍若無人な行動で、公家の反感を買った。頼朝の上洛を恐れる義仲は、平家追討の戦いに敗れると、すぐさま京に戻り、頼朝追討の命を望むが許されず、十一月には頼朝が送った源義経率いる軍が近江国へと至った。
木曾義仲像 木曾古文書歴史館所蔵
平家と義経に挟まれた義仲は、院を攻めて後白河法皇を拘束すると、頼朝追討の宣旨を引き出し、寿永三年(1184)一月には、征夷大将軍に任ぜられた。
しかし源範頼と義経は、数万騎を率いて京に向かい、防ぐ義仲は、近江国粟津で討たれた。
義仲を討った源範頼と源義経は、平家を追討すべく京を発し、元暦元年(1184年)、摂津国一ノ谷の戦いで勝利し、平重衡を捕え京に連れ帰った。
一ノ谷の戦いの図
頼朝は、四国に逃れた平家を更に追討すべく、九州と四国の豪族に、平家追討を求める書状を下している。ところが、京に在った義経は、頼朝の内挙を得ずに、朝廷から「検非違使(けびいし)」という官位を貰った。今日で言えば警察庁長官といったところであろうか。
それを知って憤った頼朝は、義経を平家追討軍から除いた。追討軍から除かれていた義経は、讃岐国の屋島に拠る平家を追討すべく四国へと向かった。
屋島の戦い
一方、九州の源氏方から、兵糧と船を得た平家追討軍の源範頼は、周防国から豊後国へと渡った。
二月、義経は屋島の戦いで平家を海上へと追い、三月、壇ノ浦の戦いで安徳天皇らを入水させ、平宗盛、建礼門院らを捕え、遂に平家を滅ぼした。
『安徳天皇縁起絵図』赤間神宮所蔵
頼朝は、この戦功により内挙を得ず、勝手に朝廷から任官を受けた、関東の武士らに対し、任官を罵り東国への帰還を禁じた。
文治元年(1185年)四月、平家追討で侍所所司として、義経の補佐を勤めた梶原景時から、「義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」
と記した書状が届いた。
五月に義経は、平宗盛父子を伴い、相模国に凱旋するが、頼朝は、義経の鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。
腰越に留まる義経は、許しを請う「腰越状」を送るが、頼朝は宗盛との面会を終えると、義経を鎌倉に入れぬまま、六月に宗盛父子と平重衡を伴わせ、帰洛を命じた。
義経は頼朝を深く恨み、
「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」
と述べ、これを聞いた頼朝は、義経の所領を全て没収する。
十月十七日、頼朝の命を受けた土佐坊ら六十余騎が、京の義経邸を襲ったが、応戦する義経に行家が加勢し、襲撃は敗北に終わる。
義経は、土佐坊が頼朝の命で送られたことを確かめ、頼朝追討の宣旨を再び朝廷に求め、後白河法皇はその圧力に負け義経に宣旨を下した。しかし、義経の下に追討の兵は集まらず、頼朝は、源行家と義経を討つべく、自ら鎌倉を発したため、義経は戦わずして京を落ちた。
木造後白河法皇像
後白河法皇はあわてて、今度は義経と行家を捕らえよ、との院宣を諸国に下した。
しかし頼朝は、自身への追討令を発した朝廷を責め、義経に組した貴族を蟄居させた。
文治二年(1186)年、鎌倉の頼朝の下に、義経の妾である静御前が届けられた。
頼朝が、四月八日に鶴岡八幡宮の舞殿で、静御前に舞を求めると、静御前は心をこめて義経のために舞い、義経を追慕する歌を詠んだ。
静御前の錦絵
頼朝は憤るが、妻の政子は、頼朝との伊豆での馴初めから石橋山の戦いまで、自身が頼朝を想い案じた心を静になぞられ、頼朝の怒りを宥(なだ)めた。
七月に、静御前が、義経の子を産むと、頼朝は子の殺害を命じ由比ヶ浜へと棄てられた。
「三衡画像」より藤原秀衡像(毛越寺一山白王院蔵、江戸時代)
義経は奥州に逃れ、藤原秀衡(ひでひら)の庇護を受ける事となった。
しかし文治三年(1187)藤原秀衡は、子の泰衡らに義経を将軍とする様に遺言して没している。
しかし翌年四月に頼朝により、「義経を召し進せよ」との宣旨が下され、頼朝の圧力に屈した泰衡は、文治五(1188)年、衣川の館に住む義経を襲い、自害へと追いやった。
建久元年(1190)十月、頼朝は遂に千余騎の御家人を率いて入洛し、かつて平清盛が住んだ六波羅の跡に建てた新邸に入った。
建久三年(1192)三月に後白河法皇が崩御し、同年七月、前から望んでいた「征夷大将軍」へと任ぜられた。鎌倉幕府は、頼朝の征夷大将軍へと任ぜられた事により開かれたと、一般にはされている。
その後上洛し、娘の大姫を後鳥羽天皇の妃にしようと目論んだが、土御門通親や丹後局、親頼朝派の九条実も反対する。程なく、大姫も病死し、計画は失敗した。
建久九年(1198)十二月、相模川で催された橋供養からの帰路で、体調を崩している。原因は落馬とされるが、定かでは無い。
翌建久十年(1199)一月十一日に出家し、十三日に享年五十三歳で死去した。
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源義経伝説
義経は、九郎の通称から明らかなように、清和源氏の流れを汲む、河内源氏の頭領である義朝(よしとも)の九男にあたり、牛若丸と名付けられた。
一説には、実は八男だったが、武名を馳せた叔父「鎮西八郎為朝」が八郎であったのに遠慮して「九郎」としたともいわれる。
源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前(ときわごぜん)から生まれた同母兄として、阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。
弁慶と牛若丸
また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条良成があった。
義経の正妻は、河越太郎重頼の娘(郷御前)であるが、愛妾の白拍子、静御前が義経の夫人として非常に有名である。
子は、女児二人と男児一人があった。頼朝の挙兵前、奥州で数年を送っていた間に娶った妻から生まれた女子は、後に伊豆の源有綱(摂津源氏の源頼政の孫)に嫁いだ。静御前を母として生まれた男児は、出産後間もなく頼朝の命で、鎌倉の由比が浦に遺棄された。
平治の乱で、平清盛と戦った父義朝の敗北により鞍馬寺へと預けられ、稚児名を遮那王と名乗った。
後に奥州平泉へと下り、その途で父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服している。熱田神宮にて儀式を行い、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って諱(いみな)を義経とした。
その後、奥州藤原氏の、宗主鎮守府将軍藤原秀衡の庇護を受けている。
兄頼朝が、平家打倒の兵を挙げると、それに呼応し馳せ参じた。
そのごの経緯は、頼朝の稿で詳しく触れた。
戦略の天才
どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。
一ノ谷合戦図
これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。また、義経自身の報告によると、西の一ノ谷口から攻め入っているのであり、僅かな手勢で断崖を駆け下りるという無謀な作戦は実施していない。
屋島の戦い
屋島の戦いでは、水軍を味方に付けて兵糧・兵船を確保し、四国の反平家勢力と連絡を取り合うなど一箇月かけて周到に準備している。
そして、義経が陸から、梶原景時が海から屋島を攻めるという作戦を立てていたのであり、景時が止めるのも聞かずに嵐の海に漕ぎ出したわけではない。
壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦いの前にも、水軍を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を奪い、軍備を整えるのに一箇月を要している。
また、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平家方も応戦するはずである。当時、平家方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである。
義経は頼朝の代官として、平家追討という軍務を遂行しつつ、朝廷との良好な関係を構築するという、相反する任務をこなし、軍事・政治の両面で成果を上げた。
また、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、「政治センスの欠如」という評価は当らないとしている。
鎌倉政権内部には、発足当初から「親京都派」と「東国独立派」の路線対立があった。東国御家人は、親京都政策と武家棟梁の権威・権力による支配に反発していた。このことが、親京都政策の先鋭であり、武家棟梁権の代行者であった義経の失脚を招いたのであるとしている。
伝説の誕生
優れた軍才を持ちながら、非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓(はんがんびいき、ほうがんびいきともいう)というようになった。
また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。
武蔵坊弁慶との五条の大橋での牛若丸
義経伝説の中でも特に有名な、武蔵坊弁慶との五条の大橋での出会い、陰陽師鬼一法眼の娘と通じて、伝家の兵書『六韜(りくとう)』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川合戦での弁慶の立ち往生伝説などは、死後二百年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。
特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが、後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。
後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。このような伝説、あるいは伝説に基づいて義経は、北方に逃れたとする主張を、「源義経北行説」と呼んでいる。
義経北行伝説の原型となった話は、室町時代の御伽草子(おとぎぞうし)に見られる「御曹子島渡」説話であると考えられている。
これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島」と呼ばれていた北海道に渡って、さまざまな怪異を体験するという物語である。
このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地(北海道)のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が、蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。
アイヌの王となった義経伝説
江戸時代頃には、アイヌの間では、義経が農業の知恵を授ける神として信仰されているという話が伝わるようになった。また義経とされる神はオキクルミといい、義経の木像がオキクルミの像として尊崇されている、といった話もある。
この説が誕生した背景として、アイヌの人々が和人との接触の中で、義経の島渡説話を神話として取り入れた、あるいは江戸期に蝦夷地を支配してゆく幕府や松前藩が行ったアイヌへの文化宣伝、懐柔策であったといった見方もある。
この伝説は、和人とアイヌの政治的・文化的接触で生じた和人側のアイヌ理解の一例として理解すべきであろう。
北海道の義経伝説
北行伝説の中でも、現代の日本人の間で広く流布しているのが「義経=ジンギス・カン説」である。この説は、義経が衣川で自刃したのが一一八九年であり、ジンギス・カン(チンギス・ハーン)の名が中国の歴史書に初めて登場するのが、一二OO年頃であるという時間の関係に着目して、義経は北海道を経て大陸に渡り、モンゴルの諸部族を統一してチンギス・ハーンになったのだ、と主張する。
この伝説の萌芽も、やはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代であった。
清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、という噂が流布した。
また十二世紀に栄えた金の将軍に、源義経というものがいた、と記した偽書『金史別本』が珍本として喜ばれたりした。
義経ジンギスカン伝説
このように江戸時代に、既に存在した義経が大陸渡航し、女真人(満州人)になったという風説は、明治時代になると日本人が世界に名だたる征服者であって欲しいという願望から、義経がチンギス・ハーンになったという説が唱えられるようになった。
明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を、留学先のロンドンで読んだ末松謙澄は卒業論文にまとめて発表、『義経再興記』として和訳出版される。
アイヌの王となった義経伝説
大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題の解決を目指す運動に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために、大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。
彼はこの調査で、義経がチンギス・ハーンであったことを確信し、大正十三年(1924年)に、著書『成吉思汗ハ源義経也』を出版した。
左が笹竜胆紋 右モンゴル人の兜の紋章
彼の主張の根拠は、モンゴルで使われていた紋章が、源氏の旗印である笹竜胆に似ている、「源義経」の音読みであるゲンギケイがジンギスになまったのだ、などといったものである。
紋章の話に対しては、笹竜胆は村上源氏のものであり、義経は清和源氏なので、笹竜胆は用いないという反論があり、信憑性は薄いとされる。
小谷部の著書は、判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーになり、日本人の間に義経=ジンギス・カン説を爆発的に広めることになった。
同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版されたりしたが、この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、日本の英雄が大陸に渡って世界を征服したという物語が、日本が大陸へ進出していた当時の時代的な風潮に適合したことが指摘されている。
鎌倉パークホテル
鶴岡八幡宮の駐車場から、グランドキャビンは若宮大路をまっすぐ南下した。八幡宮参道の若宮大路は、平安京の朱雀大路を模して造ったといわれている。
こ の若宮大路に並行して走っている小町通が、鎌倉一の繁華街で、お土産店、ブティック、レストランなどが並び、いつも観光客で賑わっている。キャビンから、小町通りの賑わいが窓越しに見えた。若宮大路は、由比ヶ浜までまっすぐに伸びている。
鶴岡八幡宮の参道の若宮大路には、三つの鳥居が建てられている。
由比ヶ浜の海岸方面から一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と三つの鳥居が立っている。
由比ヶ浜から程近いところに立つ一の鳥居は、初期のものは建保二(1214)年に 建てられ、現在のものは寛文八(1668)年に立て替えられたもので、国の重要文化財に指定されて.いる。
二の鳥居は、鎌倉警察署前にあり、この二の鳥居から八幡宮前の三の鳥居までのあいだには、若宮大路の真ん中に土手を築いた、四百数十メートルの歩道が作られている。この歩道は、段葛(だんかずら)と呼ばれている。
この段葛は、頼朝が寿永元年(1182年)三月、夫人政子の安産を祈って、多くの武将たちに命じて築かせたものといわれている。
この段葛は、今は鎌倉の桜の名所の一つになっており、また、桜が終わればツツジが咲きほこり観光客を楽しませているという。
三の鳥居が、古都鎌倉にふさわしい、風格のある駅舎の鎌倉駅の近くに立っている。
JR鎌倉駅は、キャビンの中からほんの一瞬、まさに垣間見えた。三の鳥居前の金沢街道(横大路ともいう)を左に突き当たると、美しい萩の花で知られる宝戒寺がある。
ここは、北条義時はじめ、代々の執権が住んでいた屋敷跡だといわれている。
元弘三(1333)年、新田義貞が鎌倉に攻め入ったとき、全部焼失し、同時に百年以上続いた北条氏は滅びてしまった。
建武二年(1335)足利尊氏が、北条一族の霊を慰めるため、後醍醐天皇の命で寺を立て、宝戒寺と名づけたという。
鎌倉市は、「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」に基づき、固有の文化遺産として後世に継承されるべき、歴史的風土を保存するための、歴史的風土保存区域が約982ヘクタール指定されている。このうちの約570ヘクタールが歴史的風土特別保存地区となっている。
鎌倉市街
グランドキャビンは、若宮大路から由比ヶ浜を右折し、相模湾を左手に見ながら、国道一三四号線を西に向かって走った。
やがて、南フランスのリゾートホテルのような、瀟洒な二階建ての鎌倉パークホテルにすべりこんだ。駐車場からホテルのエントランスへ向かっていると、フロントから出てきた支配人のような人が、
「お待ち申しておりました」
と、にこやかに声を掛けてきた。じつにそつのない手慣れた客あしらいである。
きちんと予約を入れてくれていた為、気分良く出迎えてくれたのである。
鎌倉パークホテル
鎌倉パークホテルのパンフから引用する。
「相模湾を一望するロケーション。太陽の光と潮風が心地よいシーサイドリゾート・鎌倉パークホテル。R134号沿い、鎌倉・由比ガ浜、稲村ガ崎よりの海辺に建つヨーロピアンスタイルのアーバンリゾートホテルです。ゆとりある空間を演出するのは、イタリアの調度品や絵画。海辺で過ごす上質のひとときをお楽しみください。」とあった。
フロントとラウンジ&バーを抜けた奧に、「甲羅」という、かに料理、日本料理のレストランへ案内され、一番大きな個室のオーシャンビューの和室へ通された。
和室に入ると、幹事の提案で、各奥方には海が見える方へ座ってもらい、夫達は窓を背にしてそれぞれの奥方の前に陣取った。それぞれの奥方に、普段いろいろ苦労を掛けているであろうから、旅行ではできるだけ大切にしようではないかという、幹事の深謀遠慮であろう。
ここでは、予約されていたボリュームたっぷりの「かに飯」を頂いた。
鎌倉パークホテルのパンフによると、
「相模湾のとれたての素材を使用した料理と、北海道直送のかに料理と、繊細に、そして楽しく素材の美味しさを楽しむ和の旬をお楽しみいただけます」とあった。
幹事は飲めないのに、我々男たちは無責任にも、ついビールを要求したが、奥方には、幹事の配慮で一品茶碗蒸しが添えられていた。
前々回N氏が幹事の時の箱根強羅温泉では、夜の宴会でOB会としては初めて、コンパニオンの手配があって、男達だけで盛り上がった思い出がある。
そのN氏の提案で、夫婦同伴のOB会となってから、旅の目的が変わった。
メンバーはみな、還暦を超えた初老の紳士ばかりとなり、人生の伴侶を今まで以上に大切にして行こうというのが暗黙の了解となっているように思える。
人生で、ベターハーフといわれるような、最良の伴侶に巡り会えるかどうかで、その人の人生が、特にその晩年が、充実したものかどうか決まるように思われる。
それぞれが紆余曲折を経て、現在のベターハーフである伴侶と巡り会い、こうして夫婦同伴の旅を共にしている。お互いに不思議な縁(えにし)であるといえる。
帰ってから調べてみると、鎌倉パークホテルは、レストランや宴会場が充実しているホテルであり、また結婚式にも力をいれているようであった。
湘南海岸に面した、絶好のオーシャンビューという好立地を活かして、ホテルでは宿泊客よりも、記念すべき食事会や宴会<そして晴れの結婚式などのイベントに利用される事を目的にしたホテルである。 この瀟洒な湘南海岸のホテルで、多くの出会いと縁が結ばれることであろう。
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長谷観音
鎌倉パークホテルから、国道134号線を少し戻って、由比ヶ浜バス停を左折すると長谷駅があり、踏切を越えて山手へ向かうと、すぐ左に長谷寺の参道があった。
多くの観光客に混じって、参道をそぞろ歩き、紅い大きな提灯の下がっている山門を潜って、石段を上り詰めると、観音堂が現れた。
長谷観音は、正式には十一面観音といい、木造の仏像としては日本最大(約九m)とされる巨大な十一面観音像懸仏、境内に梵鐘(重文)がある。坂東三十三ヶ所第四番札所である。
足利尊氏が施したと伝わる金箔も見事で、その荘厳な姿に驚かされる。
長谷寺 十一面観音
また、庭園の美、海を望む景観の美、文化財が展示された宝物館など尽きせぬ魅力に溢れている。
長谷寺は、養老元年(717)大和(やまと)長谷寺の道徳上人が諸国行脚の途中この地に立ち寄り、寺院を建立したと伝えられ、遠方から多くの参拝者が訪れたという。昔のおもかげを残す山門のある参道は、かつて米良荘(めらのしょう)に通じる主要道路で、長谷寺の境内を通っている。
大永二年(1522)の大火によって、宝物・古文書などほとんど焼失したが、本尊像の十一面観世音(高さ六・七メートル)と脇侍(わきじ)の聖(ひじり)観音・勢至(せいし)観音(高さ各五・五メートル)の三尊像だけは、頭部が無傷で残された。
伊豆から日向へ下向して、都於郡(とのこおり)に城を築いた伊東氏の、第七代城主伊東尹祐(いとうただすけ)が、寺院の再興を図り、越前から仏師を招いて三尊像の復元を行った。
それから伊東氏の祈願所となり、再び栄えていたが、伊東氏の滅亡後は、次第に荒廃し、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって廃寺となった。
長谷寺本堂
明治十一年、地元地域の人々によって、御堂が再建されたが、昭和二十年の枕崎台風により再び倒壊した。しかし、不思議なことに、三尊像の頭部のみが、この時もまた無傷で残った。現在の御堂は、昭和五十六年に地元の人々によって再建されたものである。
寺伝によると、養老五年(721)に霊夢を見た徳道上人が、一本の楠の霊木から二体の観音像を彫った。
うちの一体は奈良の初瀬(はせ)に、長谷寺を創建して祭り、もう一体はどこかで衆生を救ってくれるようにと、祈りを込めて海に流した。
十年余りの後、三浦半島の長井浜に打ち上げられたので、天平八年(736)、藤原(中臣)鎌足の孫、房前(ふささき)が、徳道上人を開山として鎌倉の長谷寺を創建したとされる。また、金箔は足利尊氏が施し、光背は足利義満が納めたと伝えられている。
当山は、観音山の裾野に広がる下境内と、その中腹に切り開かれた上境内の二つに境内地が分かれており、入山口でもある下境内は、妙智池と放生池の二つの池が配され、その周囲を散策できる回遊式庭園となっている。
また、その周辺にとどまらず、境内全域は四季折々の花木に彩られ、通年花の絶えることのないその様相を、「鎌倉の極楽西方浄土」と呼んでいる。
上の境内には、本尊である十一面観音菩薩像(長谷観音)が安置される観音堂をはじめ、主要な諸堂宇が建ち並ぶほか、鎌倉の海と街並みが一望できる「見晴台」と、傾斜地を利用した「眺望散策路」があり、鎌倉でも有数の景勝地となっている。
観音堂(十一面観音菩薩)の創建は、本尊である長谷観音流着の縁起に由来し、天平八年(736)まで遡る。当山が鎌倉でも有数の古寺に数えられる所以である。
その後、幾星霜を経るなか、幾度と無く堂宇も再建がなされたが、関東大震災による罹災は甚だしく、旧来の建物は止む無く建替えとなり、災害につよい鉄筋による再建が進められた。
そして、昭和六十一年、罹災から実に六十年以上の歳月を費やし現在の堂宇は完成に至っている。
本尊である十一面観音像は、錫杖を右手に携え、岩座に立つ独特の像容で、大和長谷寺の本尊をはじめ、全国に所在する長谷寺に祀られる観音像に多く見られることから、これらを総称して「長谷寺式十一面観音像」と呼んでいる。
縁起に曰く、本尊の造立は、養老五年(721)と伝えられているが、現在の像が創建当初からのものとは言い難く、また後世の修復も多く加えられているため、制作年代については未詳である。
但し、本尊に付随する光背や、御前立の観音像の修復年代が、室町時代まで遡ることから、現在の尊像が存在していた時期についても、室町時代に準ずるものであることは確かといえ、さらに鎌倉時代より当山に伝世する大型の懸仏や板碑類の存在から、その当時には、巨大な尊像が造立されていたものと推測されている。
阿弥陀堂の 阿弥陀如来坐像は、伝承に曰く、鎌倉幕府初代将軍である源頼朝が、自身の四十二歳の厄除けのために建立したものといい、その伝承に因み「厄除阿弥陀」と呼んでいるという。ただ、この像はもともと長谷寺で造立されたものではなく、その銘文によれば市内の誓願寺(現廃寺)の本尊であったという。
現在この尊像は「鎌倉六阿弥陀」のひとつにも数えられている。
ちなみに、最初の阿弥陀堂は現在の地蔵堂辺り(階段中段部)に建てられていたことが、古い境内図などによって知られている。眺望散策路は、観音堂左手の広場へ通じている。この広場は海を見るには鎌倉屈指のスポットである。左手には三浦半島、正面に由比ヶ浜の海を間近に見ることができる。
この眺望を楽しんでいると、長谷寺の「海光山」という山号もうなずける。
鎌倉大仏
長谷寺を出て、少し北の山手側へ鎌倉市街を初めて歩いた。
大仏のある高徳院まで、ほんの少しの道のりであったが、観光客に混じって歩いた。
鎌倉の観光客は、意外に若者や外人が多かった。
古都鎌倉は、京都や奈良の、雅た雰囲気とはまたひと味違う、武家と禅の都であったから、なにやら質素で凜とした雰囲気がある。
鎌倉大仏の正確な名称は、大異山高徳院清浄泉寺の「阿弥陀如来坐像」という。
国宝にも指定されている、鎌倉時代の代表的な青銅彫刻の傑作である。
日本の二大大仏のひとつで、一辺1~2mの鋳型を、下から徐徐に接ぎ合わせて造られたというが、大仏の原型作者も、鋳物師も明らかになってはいない。
大仏は、台座を含め高さ13・35m、顔の長さ2・35m、目の長さ1m、耳の長さ1・9m、重量約121トンというスケールである。
鎌倉を代表する名所となっている、長谷の高徳院本尊である大仏は、奈良東大寺のような大仏を、東国にも造ろうとした源頼朝の遺志を受け継ぎ、鎌倉幕府第三代執権・北条泰時の晩年になってから作り始めた。
『吾妻鏡」によれば、北条泰時の時に、淨光という僧が諸国を勧進して、庶民から浄財を集めて歩き、暦仁元年(1238)から大仏と大仏殿を造り始めた。
北条泰時も、その建立に援助をしたというが、東大寺の大仏と異なり、多くの庶民の浄財によって建立されている。そして大仏開眼は、五年後の寛元元年(1243)六月十一日に行われた。泰時は前年の六月に、六十二歳で亡くなっていた。
完成した四年後の宝治元年(1247)に、この大仏が、暴風雨の為に倒壊してしまった。
有志の尽力によって再度勧進されて、建長四年(1252)に、あらためて金剛の大仏が造営された。
ところが、再建された大仏殿は、建武二年(1335)にまたもや台風で一部損壊し、さらには志安二年(1369)の台風で完全に倒壊してしまった。
二度も台風によって倒壊した大仏殿は放置され、百年程の後に再建された。
三度も建て直しされた鎌倉大仏殿は、なんとした事か、またまた、明応四年(1495)の大津波で押し流されるという不運に遭遇している。
大津波というから、たぶん地震による津波であったのであろう。
これほど、何度も自然災害に遭遇した仏像も少ないが、金堂の「阿弥陀如来坐像」は、びくともせずに鎮座している。以来、大仏殿は再建されることはなく、現在の様な露座の大仏のままとなってしまった。
津波で大仏殿も多く寺院伽藍も流され、長く廃寺となっていた。
江戸時代の正徳二年(1712)、増上寺の祐天上人が、豪商野島新左衛門の協力を得て、寺院と大仏を復興し、現在に至っている。
大仏は、緑青の姿が定着しているが、完成当初は全身金箔を施した華麗な姿であったという。現在も、耳の下にその名残を見ることができる。
大仏は体内が空洞になっており、胎内拝観も可能で、中に入ると頼朝の守り仏や祐天上人像を見学することができる。
大仏殿の再建の計画が何度か立てられたが、結局財政事情で実現せず、室町時代からずっと露座の大仏となっている。
九百五十年以上もの歳月と、再三の自然災害をものともせずに、緑青の悠然とした大仏を仰ぎ見て、四十数年ぶりの再会であったが、あらためて感動を覚えた。
境内には女流歌人与謝野晶子が詠んだ
「鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼(しゃかむに)は美男におわす夏木立かな」
の歌碑が立つ。
境内奥の観月堂は、もともと朝鮮李王朝の月宮殿だったものを移築したもので、徳川秀忠が大切にしていた聖観音が安置されている。
余談ながら、大仏殿の話しである。
高徳院境内にある鎌倉大仏周辺で、発掘調査を進めている鎌倉市教育委員会は、大仏を納めていた大仏殿の高さが、40mに近いと推測されると発表している。
新たな疎石跡が見つかり、大仏殿の規模が、これまで考えられていたより大きいことが分った。
鎌倉の大仏殿は、奈良・東大寺の大仏殿より一回り小さいものの、巨大な建物だったことが明らかになった。
大仏殿の奥行きはこれまでの推測より約4・5m大きく、約42・5mだったことが分った。
幅は約44mで、前回の調査と変わらず、専門家が分析した結果、屋根の高さは40m(前回調査では20m)であることが分った。
鳩サブレー
鎌倉大仏の高徳院から、長谷観音近くの駐車場へ戻る途中で、
「この辺りで、鎌倉のお土産を買いたいわね」
と、だれかが言い出した。
長谷観音や鎌倉大仏の参道を歩いているから、両脇の店は殆どがお土産店ばかりであった。適当な土産店を少し冷やかしながら歩き、
「鎌倉のお土産は、何が良いかな」
「鎌倉土産のお菓子なら、鳩サブレーがいいよ。この先に、有名な豊島屋の店があるから、そこで買うといいよ」
歯切れの良い東京弁で、案内してくれた。
案内された小綺麗な豊島屋で、鎌倉銘菓の「鳩サブレー」を買いながら、私は福岡銘菓の「ひよこサブレー」と似ていると感じた。
もともと「ひよ子饅頭」という「ひよ子の形」をした福岡銘菓があり、のちに姉妹品の「ひよ子サブレー」が発売されている。
帰ってから改めて調べてみると、なんと「東京銘菓・ひよ子」とあった。
関東、東北では「ひよ子」が東京銘菓で有名であるという。
よく調べてみると、福岡銘菓の「ひよ子」を作っている吉野堂(株式会社ひよ子)は、東京での販売のため別会社東京ひよ子を作り、埼玉に工場を設け東京での販売を始めた。銘菓「ひよ子」は、東北新幹線の開業とともに「東京銘菓」として東北方面に広がっていったため、東京銘菓として知られるようになったという。
吉野堂の「ひよ子」は、大正元年に、筑豊飯塚で明治より続く菓子屋を営んでいた先々代店主・石坂茂が、独創的なアイディアで創作している。
チャレンジ精神旺盛だった石坂茂は、大人にも子供にも愛される菓子を作りたいと願って「ひよ子」を生み出した。試行錯誤の末に誕生した、立体形のひよ子は、業界の常識を覆すもので、独創的で姿も愛らしく、たちまち人気を博した。
ひよ子サブレーは、鳩サブレーと同様な平型の抜き型である。
鳩サブレーは、形はひよ子サブレーに似ているが、ひよ子と全く関係なく「鳩型」でしかも大型で、豊島屋の歴史もまた古い。豊島屋もまた三代目である。
以下は、鳩サブレーの誕生の物語である。
豊島屋は、「古代瓦煎餅」が看板商品で店を開業している。
店を開いて間もない明治三十年頃、異人から初代の久次郎が、大きなピスケ(ビスケット)を貰った。この今までにない味を何とかしてと、夢中になってピスケを研究し、このピスケにはバターが使われていることを知った。
バターは、当時の鎌倉では手に入れようもなく、ようやく横浜の異人館で手に入れた。バターを手に入れた初代は、試作に取りかかった。
菓子業界では配合率のことを「ワリ」と言う。初代はこんな「ワリ」、あんな「ワリ」と、毎日試作を繰り返し、どうにか納得のいく味の「ワリ」が仕上がった。
ちょうどこの試作が出来上った頃、欧州航路から帰朝したばかりの友人の船長に、早速この試作のピスケを食べてもらった。
するとその船長が
「久さん、コイツは、私がフランスで食った、サブレーちゅう菓子に似とるぞ」
と云った。初代は、このサブレーと云う音に、「三郎」の語感が似ており、親しみを抱いた。もともと、鶴岡八幡宮を崇敬していた初代は、八幡さまの本殿の掲額の(八)の字が鳩の抱き合わせであり、境内に一杯いる鳩が子供達に親しまれているところから、かねて「鳩」をモチーフに何かを創ろうと考えていた。
そこで、あたかも八幡太郎義家、源九郎義経のごとく、鳩三郎すなわち「鳩サブレー」としたという。
かくして鳩形に抜かれた「鳩サブレー」は生まれ、初代は意気揚々とこの新作を焼き続け店に並べたものの、明治末の頃のことで、まだバターやチーズの味に馴染まず、ほとんど売れなかった。
初代は、かねがね一つのものを売り込むには十年はかかる、世に「名物にうまいものなし」と云われるが「名物にうまいものあり豊島屋の菓子」なる戯れ唄を詠み、その味を守り悠然と構えていた。
十年程経てから、鳩サブレーは少しずつ知られるようになり、大正に入り有名な小児医博より、「離乳期の幼児食に最適である」と推薦を受けた。その後、自然と鳩サブレーが売れ出し、やがて御用邸各宮家からも御用命を頂くようになって、鎌倉銘菓の地位を得た。
鎌倉はあの関東大震災を受け、地震、火災、津波の三重苦にさらされ、ほぼ全滅、豊島屋も潰されてしまった。大震災の痛手にもめげず、初代はいちはやく店の再建を図った。昭和の時代は激動の時代の連続で、大不況に始まり、経済統制、大東亜戦争へと突入し、原料の砂糖など入手出来なくなって、昭和十六年には休業した。
「決してヤミはやってはならない、お天道様に恥じず、真っ向から菓子が作れる迄店は開けるな」
と頑なに云い続けた初代は、「鳩サブレー」を再び作れる日が訪れる日を見ずに逝ってしまった。
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菓子の歴史
菓子と言えば、我が「佐野家」も実は和菓子屋で、博多一番の繁華街、東中州で祖父が、和菓子を「さのや」の商号で営んでいた。
祖父の創業は無論明治末期であった。太平洋戦争末期に、「さのや」を休業して福岡県朝倉郡へ戦時疎開した。戦後すぐに福岡へまた戻って、祖父と父で和菓子や「さのや」を復興させた。
戦後の物資不足の中で、砂糖や水飴などの確保が大変だったようだが、ともかく作る端から売れたという。
「さのや」の主な和菓子は、時代によって若干異なるが、桜餅、柏餅、葛饅頭、よもぎ餅、破れ饅頭(田舎饅頭)、シンプルな餡餅、大福餅、最中、きんつば、などを作っていた。
お盆には干菓子の落雁(らくがん)や、寒天と砂糖を原料にした干菓子(名を失念した)などを作っていた。
時代が落ち着いて来た頃には、彩色と手の込んだ装飾生菓子を作っていたが、祖父が亡くなってからわずか五年後に父も他界し、生菓子製造は中止された。
その後、「さのや」は、菓子を仕入れて売る和菓子店として、母が切り盛りした。母はその後、時代の変化を見て、森永製菓の「エンゼルストア」のチェーン店に加盟して、洋菓子も販売したが、兄も私も、家業を継がす、「さのや」はあえなく二代で消滅した。しばらくは、実家には様々な和菓子の木型やブリキの抜き型、その他の道具、大釜、蒸籠、餅つき機などがあった。
和菓子というのは、やはり職人芸である。
繊細な手先と、菓子材料に対する豊富な知識、そしてその個別材料の加工方法と、それらを組み合わせる配合比率の「ワリ」に工夫と勘が必要である。
また同じ材料を使い、同じような餅なり饅頭を作っても、祖父と父とでは微妙に味が違った。
材料の「ワリ」が同じでも、入れるタイミングや練りの時間、蒸す時間などの違いで、微妙に違いが出る。和菓子の世界は、量産される焼き菓子と違って、日本料理と同じように繊細なもので、しかも独特のセンスが必要でもある。
さて、菓子の歴史の話しである。
□上古時代 (弥生時代~飛鳥時代)
菓子を、主食の食事まで間の、おやつ、中間食と位置づけると、当然人類の歴史と同じだけ遡ることができる。
弥生時代には、農耕が始まり、穀類を主食としてほかに、魚介類、鳥類を食していた。この時代は、一日二食であり、途中空腹になれば、野生の果物、木実を補助食として 食べていた。
それ故、菓子の原点が果物とされ、「菓子」の文字を与えられている。果物を、水菓子と言うのも、この名残りであり、ちなみに後に出てくる唐菓子も、輸入当時は唐果物と言われた。
当時から現存している果物は、・梨・榴(ざくろ)・林檎(りんご)・桃・李木(すもも)
築(なつめ)橘(たちばな)・梅・柿・琵琶(びわ)・あけび・いちご他に・瓜・茄子(なす)などがある。
木の実として、・栗子(くり)・椎子(しいのみ)・松子(まつの実)などが食べられていたようだ。
□唐菓子時代 (飛鳥時代~鎌倉時代 500~1200)
大陸文化の影響は、遠く弥生時代からあるとされており、飛鳥時代 に入って遣随使、遣唐使など本格的な交流が始まって一段と文化、食文化が我が国に及ぼす影響が大きくなった。
この頃「唐菓子」の輸入(又は製法の伝授)が始まり、唐菓子が現在の和菓子の原形となったといわれている。
この「唐菓子」の持つ大きな意義は、菓子を加工食品に仕上げた事である。
それまでの日本の菓子とされるものは、果物を中心に、せいぜい穀物を搗(つ)く、焼く(焼米)等の原始的な加工だけであった。
「唐菓子」は、穀物を挽(ひ)いて粉にして、米粉(新粉)、餅粉、小麦粉、そば粉などに加工する技術により、二次加工、三次加工を加えて、現在の菓子の原形が出来上がった。
当時の「唐菓子」で現存しているものでは、・団喜(だんご)・煎餅(せんべい)・椿餅(つばきもち)・おこしの類である。
□点心時代 (鎌倉時代~室町時代 1200~1500)
元来、中国では点心とは、食事と食事の小食、間食の事を言い、中国の禅曽では、間食に喫茶が行われ、喫茶に使用する菓子を点心と言い、又、「茶菓子」とも「お茶受け菓子」ともいった。
お茶が日本に伝来したのは、遣随使によるとされているが、本格的に茶を伝えたのは、宇治に茶の分栽を成功させた栄西禅師であることは前に述べた。
更に、茶道として流行したのは室町時代からで、信長、秀吉の安土・ 桃山時代にその極に達し、更に千利休によって茶の湯が確立した。 茶の湯とともに、点心菓子が工夫された。
点心菓子は三種類に分類される。
・羹物(あづもの) 現在の味噌仕立ての「すいとん」のようなもの。
・麺類(うどん、そうめん)
・蒸菓子(蒸まんじゅう、蒸羊かん)
ここで特筆すべき事は、饅頭の出現である。南北朝時代(1340年)の元の僧侶であった曽林浄因によって、饅頭の製法が伝えられ、奈良の地で始まったことから「奈良まんじゅう」と呼ばれた。後に京都で本格的に製造され始めた。
饅頭の出現により、菓子業が成立するようになり、この時代の創業者が現在の日本最古の老舗につながって行く。(塩瀬、虎屋、鶴屋八幡、駿河屋等)
□南蛮菓子時代(室町時代~江戸時代初期 1500~1650)
日本の名が西欧に紹介されたのは、マルコ・ポーロの東洋見聞録によるとされている。これに惹かれて西欧から来たのが、ボルトガル人(室町時代1412)であり、本格的に貿易が始まったのは1571年であった。
当時ポルトガル人を南蛮人と言っていたので、輸入された菓子を「南蛮菓子」と称した。
この貿易はボルトガル人を皮切りにスペイン、オランダ、イギリスと続 いた。
南蛮貿易の出現に伴い、日本菓子にも重大な革命をもたらした。それは、白砂糖の大量輸入と、その製法である。
これにより、無糖時代(唐菓子にも 砂塘は一部使用されていたが、主に黒砂糖)から、有糖時代(白糖)の転機をつくった。
当時輸入された南蛮菓子では、・カスティーラ(カステラ)・ボーロ・金平糖・ビスカウト(ビスケット)等である。
菓子以外では、パン、馬鈴箸、南瓜(カボチヤ)、てんぷら等などが伝わっている。
カスティーラ製造は、安土・桃山時代の後期、若しくは江戸初期には始められ、 その時の創業以来、なんと今日迄続いている老舗が「福砂屋」である。
□京菓子・江戸菓子時代 (江戸時代 1600~1870)
江戸時代二百七十年の間、菓子は「京菓子」と「江戸菓子」の二系統に別れ、それぞれの特長を生かして歴史を刻んできた。
元禄時代と文化文政時代に、菓子の製法が創意工夫を遂げ、格段に技術が向上し、今日の和菓子はこの時代に完成の域に達したとされている。
京菓子は、
・御所を始め、宮家、公郷家が献上品や又自家用等に菓子を用いた。
・茶道が盛んで、特に千家を始め家元が存在し、茶菓子が大いに用いられた。
・宗教都市でもある京都は、総本山も多く、行事や祭事で大いに菓子が用いられ た。
・京都の廻りでは、近江丹波等が控え、その気候風土が菓子の原料に適合し上質なものが産出した。
このような背景で、京都では、早くから菓子が多いに発展をとげ、特に茶菓子による京都趣味の優雅さと、すぐれた技術が生みだされた。
江戸菓子は、元禄時代頃になってから、江戸文化がようやく爛熟した頃、菓子もその時期に急速な進歩をとげた。京都からも菓子職人が江戸に下り、元禄期頃に創業した菓子店が老舗として現存している。
ただ幕府が、白砂糖の使用を制限したため(京都も白砂糖を使用出来る店 の制限はあった)、大名と上級武士にのみ許された、「白砂糖」を使用した上菓子と、「黒砂糖」を用いた庶民的な駄菓子に分かれた。
特に庶民用の菓子は大いに人気があり、それに伴って菓子の製法も進歩を遂げ、 今日よく食べている和菓子は、この時代完成されている。
当時の菓子は、羊かん、大福、金つば、桜もち、団子、おこし、 干菓子、塩せんべい、甘納豆等々で、現在と余りかわらない。
□洋菓子輸入時代(明治・大正・昭和初期 1870~1940)
明治時代の西洋文化模倣時代に、菓子も流行を追って洋菓子輸入が行われたが、バ ターやチーズ、ミルク、卵を中心にした洋菓子は、その味になかなか馴染めず不急に時間が掛かった。
然し、国内で明治八年銀座の米津風月が、明治三十二年に森永が、洋菓子専門工場を設立した頃から、洋菓子製造会社が続出した。しかし明治終り頃でも、洋菓子は、まだ菓子全体の一割程度であった。
その後、カフェ(喫茶店)の出現と共に、昭和初期にかけて洋菓子は需要は順調に伸びていった。
□最近の菓子
最近の菓子は、そのバラエティーが豊富で、食生活の変化とその多様性で、菓子の定義をし直す必要があるかも知れない。特にスナック菓子やファーストフードを主食としている人も増加している。
ドーナツやホットケーキを、菓子とするか食事とするかは、その人のライフスタイルによって変わる。
また最近は、菓子のことを「スイーツ」などと言う。 また料理と同じように、大変手のこんだ職人芸のケーキや、甘さ控えめの伝統的素朴な和菓子も健在である。
鎌倉彫
鎌倉大仏の高徳院から駐車場へ向かう途中、土産物店が並んでいる参道を歩きながら、記憶力抜群で詳細な昔話しを得意としているH氏が、
「鎌倉と言えば、鎌倉彫(かまくらぼり)が有名やで」
と独り言のように言った。
そう言われて気をつけて店頭を見ると、土産物屋に木彫りの商品が多いのに気がついた。それまで、鎌倉彫について何も知らなかったが、透かし彫りの鍋敷きのような木彫りが売られていたので、一枚記念に買った。
帰ってから調べてみると、鎌倉彫は、約八百年前に、中国から伝来した「木彫漆塗り」で、禅宗寺院の仏具や、調度品を唐風に仕上げたことに始まるという。
室町時代には、公家への進物の品として用いられ、また時代が下っても、鎌倉彫を珍重する風潮は続き、桃山、江戸時代には茶道具として大いに普及した。
明治時代に入ると、鎌倉は保養地や別荘地に一変し、それまでの寺院の仏具や茶道を中心としていた需要は、生活様式や家具調度品を主体とするようになった。
鎌倉彫の生地は、昔はヒノキ、イチョウ、ホオノキが使われていたが、今はほとんど、北海道産のカツラ材を使っているという。
カツラは軟らかく彫刻しやすいこと、大木で幅の広い材が得られること、又くるいや割れが少ないことなどから、鎌倉彫に適した木材として利用されている。
生地の作り方には、ロクロにかけて丸く挽く挽物(ひきもの)生地(盆・皿・茶托・椀など)、板を組み合わせて作る指物(さしもの)生地(文箱・硯箱・重箱など)、
板から削り出して作る刳物(くりもの)生地(変形の盆・皿・鉢など)がある。
木地は北海道産の桂 文様の輪郭線を小刀で直角にたち込む
鎌倉彫では、生漆と透漆をうまく使い分け利用している。
漆は、漆の木の幹につけた傷からにじみ出てくる液を<少しずつ何日にもわたって採取したものである。漆の木から取ったままのものを生漆(きうるし)といい、これをよく練り合わせて水分を蒸発させたものを、透漆(すきうるし)または黒目漆(くろめうるし)という。
生漆は、下地や艶出しに、透漆は、顔料で色付けして中塗や上塗に使う。
漆は乾くと、酸やアルカリなどの薬品や熱にも強い、丈夫でしかもしっとりした、艶のある美しい塗膜になる。
鎌倉の地が急速に発展するのは、治承四年(1180年)源頼朝が、ここを全国制覇の拠点に定めてからのことである。
禅宗寺院が相次いで建立されたが、寺院建築や仏像彫像も、奈良・京都の大工や仏師に頼った。
最初に、仏師として奈良より招かれたのが成朝(せいちょう)で、以後、十二世紀から十三世紀半ばにかけて、鎌倉幕府のために造仏をおこなった中央仏師は六人以上に及んだ。
この中で、もっとも数多く造仏したのが、東大寺などの造仏で有名な運慶である。
奈良仏師の運慶が、鎌倉とその周辺地域に与えた影響は、きわめて大きい。
鎌倉幕府が登用した仏師は、ほとんど運慶の一派である慶派仏師と、言われる人たちである。
鎌倉仏師と呼べる存在がいつ誕生したのか、まだ定説はないが、おそらく十三世紀半ば頃だと考えられている。
当然、彼らが学んだのは、運慶をはじめとする慶派仏師の作品であった。このことは、仏師の一派として台頭してきた三橋家と後藤家が、後生になって「運慶末流」を自称しだすことからもわかる。
鎌倉時代は、禅宗をはじめ、中国の宗教、思想、文物が多量に入ってきた時代でもあった。
漆器では、堆朱(ついしゅ)や堆黒(ついこく)、紅花緑葉(こうかりょくよう)の器物が輸入された。
このような時代に、良質な木材を多量に産する日本の風土が、木彫漆器を生み出すことは自然のなりゆきでもあった。
鎌倉彫は、鎌倉の仏師たちが、その技を使って禅宗寺院の仏具や調度品を作ることから始まった。
円覚寺牡丹文前机(重要文化財)
頼朝の開いた鎌倉幕府時代に、幕府の保護で臨済禅宗が広まり、同時に宋より、絵画、磁器、漆器など多くの品物が流入した。
鎌倉五山といわれる建長寺など、多くの禅宗寺院が建立され、同時にそこで使われる前机、須弥壇(しゅみだん)、香合などの什器類も作られた。建長寺の須弥壇(重文)、円覚寺の牡丹文前机などは特に有名である。
建長寺獅子牡丹文須弥壇(重要文化財)
これらを作ったのは、奈良からやって来た慶派の仏師達といわれている。
高度な木工技術を持つ人達が、鎌倉にやって来て、宋文化に影響された禅宗寺院で使われた多くのものを、作ったのであろう。
一方、宋から伝えられた中には、堆朱(ついしゅ)と呼ばれる盆、大香合などの漆芸品があった。
これは朱漆を何十回も厚く塗り重ねた漆の表面に、花鳥・山水・人物などの文様を彫ったもので、中国では剔紅(てつこう)といわれ、日本へは鎌倉時代に伝来している。黒漆の場合は堆黒(ついこく)、黄漆の場合は堆黄(ついおう)という。
これは大変手間を掛けた高価なもので、数も限られていたため、木に同じような文様彫刻をし、その表面に漆を塗った、いわゆる木彫彩漆のものが作られるようになった。
これが時を経て、日本の湿潤な風土の中で、独自の工芸品へと移り変わり、作風も日本的なものへと変化して行った。
菊剣菱茶器
室町時代にかけて作られた、京都の南禅寺、知恩寺、金蓮寺ほか多くの寺院に伝えられている大香合、また鎌倉国宝館の獅子牡丹文猿面硯台などの優品は、このような背景の中から生まれた。
また東北地方の中尊寺、示現寺などにも、意匠化された独特の椿文様の笈が残されている。現在、これらは一般的に鎌倉彫と呼ばれ、人々によく知られている。
この時代の公家の日記、「実隆公記」に、鎌倉物という言葉が初めて現れている。
この頃、堆朱や青磁などと共に、鎌倉物といわれる盆、香合類が、公家の間での進物や書院の飾り物として多く使われていたことも記されている。
広く陶磁器をさして「瀬戸物」と呼ぶが、同じように「鎌倉物」という言葉から、鎌倉の地域で多くのものが作られていた事を伺い知ることができる。
円覚寺屈輪文大香合
江戸時代になると茶道が普及するにしたがい茶入、香合、香盆などが多く求められるようになった。
この頃は精緻な蒔絵が非常に発達した時代であっが、雅味のある鎌倉彫も人々に好まれたようで、元禄に出版された「万宝全書」という茶道具の手引書の中には「鎌倉彫」の名が出てくる。
図柄として、牡丹、屈輪、また堆朱の盆などに好んで使われた楼閣人物図を思わせるものが多く彫られ、「唐物」が珍重されていた時代である。
しかし、江戸も末期になると侘び、寂びに偏重したものが多くなって、力強い彫刻的な魅力は失われていった。
明治になると、神仏分離令が公布され、続いて起きた廃仏毀釈の運動により、仏師達は仕事を失い、多くを数えた仏師は三橋、後藤家を残すのみとなった。
この二軒の仏師は、これを転機に本来の仏像制作から、生活の中で使われる工芸品を作ることに転換した。
明治二十二年、横須賀線が開通するとともに、鎌倉は別荘地として栄えるようになり、ここを訪れる多くの人達への、日用品やお土産の茶托、銘々皿、盆、菓子皿などを作るようになった。
これが現在の鎌倉彫へと展開してゆくことになる。
後藤運久作 硯箱 秋草
戦後、人々の生活にゆとりが生まれるようになると、大量生産される工業製品に対して、手仕事のもつ暖かさが求められ、鎌倉彫は徐々に生産を増やすことになった。
鎌倉彫の製作が盛んになる一方、趣味の教室活動も始まって、現在各地でひらかれているカルチャー教室のさきがけとなった。
鎌倉彫協同組合により、鎌倉彫会館、鎌倉彫資料館が設立され、多くの人々の勉強の場として広くその門戸が開かれるようになった。
一九七九年、当時の通産省から、伝統的工芸品としての産地指定を受け、後継者の育成、需要の開拓などの振興策が図らた。 現在、鎌倉を中心に約二百名の人達が鎌倉彫の仕事にたずさわっているという。
H氏の言葉に刺激を受けて、衝動買いした木彫りは、透かし彫りしたもので、漆の一度塗されている。
これに本漆を、下塗り、中塗り、上塗りと仕上げれば、立派な鎌倉彫となるだろう。本物の鎌倉彫なら、数万円はするであろう。
湘南海岸
長谷寺と大仏を拝観した我々一行は、観光客の多い参道を三々五々で歩き、お土産を買い込んで長谷寺近くの駐車場へ戻った。
幹事の運転するグランドキャビンは、南下して江ノ電の長谷駅踏切を超えて右折し、やがて極楽寺駅前を通ると、しばらくは右手に江ノ電を見ながら平行して進行した。極楽寺駅をすぎると「極楽町」という珍しい町名表示板があった。
これを見て、H氏が冗談を飛ばした。
「極楽町とは、ええ名前やな。生きている内から極楽やな」
と言った。帰ってから調べてみると、極楽寺のあるこの谷は、昔は「地獄谷」と呼ばれ、化粧坂の瓜ヶ谷地獄やぐら、名越坂のまんだら堂跡など、鎌倉の境界にあたる所で、多くの庶民の墓地や葬送の場でもあったという。
墓地や葬送の場であったからこそ、極楽寺が建立され、寺の名にちなんで町名となったようである。
車はしばらく江ノ島電鉄と平行して走ったが、湘南地方を走っている江ノ島電鉄の歴史は古い。
明治三十一年に、はやくも江之島電気鉄道が創立され、電気鉄道敷設特許状、命令書が交付され、明治三十五には、藤沢~片瀬間が開業している。当時の使用車両は、四両編成であったという。
明治四十三年には、大町~小町間を開業して、当時の江ノ島電鉄の全線が開通している。
鎌倉を中心とした湘南地方が、早くから開発されたことが分かる。
現在の江ノ電の路線は縮小されて、鎌倉を始発駅として、由比ヶ浜、長谷、極楽寺、稲村ヶ崎、七里ヶ浜、鎌倉高校前、腰越そして江ノ島が終着駅である。
湘南の地元の足として長年愛されていると共に、観光客にも親しまれている江ノ電である。
やがて、稲村ヶ崎駅を過ぎて、湘南海岸を走っている国道134号線に出た。
グランドキャビンは、七里ヶ浜、腰越そして江ノ島と、湘南海岸を悠然と走り、湘南海岸の景観を楽しんだ。
鎌倉という地名は、西の芦屋と並び称されるように、高級住宅地で有名で、芸能人や財界人の高級別荘などもあり、双方ともに大正期頃から文化人のハイカラな街のイメージがある。
そして湘南は、湘南ボーイなどと言われる、夏の海と波乗りの若者のイメージが強い。
湘南海岸は、相模湾をなだらかな弧を描いている、日本でも有数の白い砂浜のある海岸である。
漁港のような大きな湾入が無く、なだらかな円弧を描いている相模湾だから、風が吹くと結構白波が立っている。秋とはいえ海はかなり寒いはずなのに、ウインドサーフィンや波乗りをしている若者の姿が目に付いた。
やがて、車は渋滞に巻き込まれ、単調な海岸の景色に、つい眠気に誘われた。
箱根湯本
幹事の運転する車は、渋滞する湘南海岸の相模湾を左手に眺めながら、やがて渋滞を抜けて西湘バイパスを走り、箱根口インターを降りて国道一号線へ出た。
箱根登山鉄道と平行するように走ると、やがて箱根湯本駅の前に出た。
箱根湯本駅から箱根山方向を見ると、山頂に向って大きな象の背中のようにどっしりとした尾根が続いている湯坂山が見えた。
湯坂山という名は「温泉の出る急坂の山」という意味でつけられたそうで、その由来通り、この山にある横穴からは、今でもこんこんと温泉が湧き出しているという。
豊かな温泉が自然湧出する、湯坂山の麓に広がる湯本温泉は、江戸時代にぎわった箱根七湯の中で、もっとも古い温泉であり、奈良時代の天平年間(721~748)に発見されたと伝えられている。
湯本、湯坂山、浅間山、鷹巣山、芦之湯、芦ノ湖畔を通る、湯坂路と呼ばれる山道は、「鎌倉古道」とも呼ばれ、鎌倉幕府が開かれて以降、江戸幕府によって東海道が定められるまで、多くの旅人たちが行き来した。
源頼朝も、この道を通って箱根神社へ参拝し、鎌倉幕府の有力な武将たちが湯治に訪れ、この頃から宿場として湯本は発展してきた。
戦国時代になると、北条早雲の遺言によって「早雲寺」が創建され、湯本は、門前地としても賑わった。また、北條氏綱をはじめ、小田原北條の武将たちは、早雲寺に参詣するたびに温泉に浴したといわれ、「北條氏の足洗いの湯」とも呼ばれ、湯本は温泉場としてさらに開けていった。
後北條氏の菩提寺である早雲寺境内には、連歌師の宗祇(そうぎ)の供養塔や、千利休の高弟の山上宗二の追善碑などがある。
■古くから湯宿の設備の整った湯本は、魅力ある多くの旅館やホテルがある。
寛永二年(1625年)に創業した老舗旅館「萬翠楼」は、国の重要文化財(国指定有形文化財建造物)に、稼動中の旅館としてはじめて指定された。
二宮尊徳の一番弟子だった福住正兄が当主で、明治初期に建て替えている。
建物内部は日本間ながら、外観は洋風なモダン造りである。
いわゆる擬洋風と称される、西洋建築に模した建築様式は、明治初期特有のもので、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)をはじめ、萬翠楼の名付け親の木戸孝允、伊藤博文、福沢諭吉などの政治家や文化人などが訪れたという。
箱根旧街道沿いにある正眼寺は、鎌倉時代に地蔵信仰によって生まれた。
父の仇討ちを果たした、曽我兄弟とのゆかりも深く、裏山に建てられた曽我堂の中には、曽我兄弟の木造地蔵菩薩が安置されており、毎年「正眼寺地蔵尊縁日」(九月二十一日)には一般公開されている。
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箱根十七湯
箱根火山が活動を始めたのは、およそ五十万年前からといわれている。
その後、何度か激しい噴火を繰り返し、そのたびに箱根山の形は変わっていった。そして、三千年程前に中央火口丘の神山が大規模な水蒸気爆発を起こし、芦ノ湖が生まれて、ほぼ現在の箱根の地形ができあがった。
箱根温泉は、火山である箱根山一帯にある温泉の総称で、古くから温泉が湧き出ていた。
しかし、いわゆる温泉場として人々に広く知られて、賑わうようになるのは江戸時代以降のことである。
江戸期から明治中期にかけては、湯本、塔之沢、宮ノ下、堂ケ島、底倉、木賀、芦之湯の諸温泉が、いわゆる「箱根七湯」と呼ばれていた。
これらのうち、芦之湯を除いては、いずれも早川の渓流ぞいに立地した温泉集落で、これらの温泉集落が箱根の中心地域を形成していた。
文化八年(江戸時代・1811年)に、箱根の案内書『七湯の枝折(しおり)』が編集されている。
本のタイトル通り、当時の箱根には、湯本以下の七つの温泉場が開けていた。
『七湯の枝折』より 『蘆の湯風呂内の全図』の一部
『七湯の枝折』には、
「箱根の七湯は、それぞれ効能は違うが、どの温泉も養生を主としていて、筋肉や肌を強くし、胃腸をととのえ、内蔵を温めて万病に効く。ほかにもいろいろ効能があるので、湯宿でよく聞いて入ること」
など、各湯の泉質の特色や効能などが書かれている。また、
「自分の手拭いで湯壺の端を洗い温めて、そこに腰をかけ、両足を湯壺の中に浸しながら湯を両手ですくって顔を洗い、心をゆったりさせながら肩や背中、腰に湯を何度もかけて自然に温まるのを待ってから入ること」
「入湯は一日二、三度~六、七度まではよいが、何度か入る時は、ほてりがおさまって入ること」
などと、温泉の入り方まで説明されている。
『七湯の枝折』より 『蘆の湯風呂内の全図』の一部
■明治になると箱根十二湯ともいれ、昭和和には七湯に、大平台、小涌谷、強羅、宮城野、二ノ平、仙石原、姥子、湯ノ花沢、蛸川、芦ノ湖を加えて「箱根十七湯」と呼んでいる。
そして現在では二十湯ともいわれ、温泉ファンの増加とともに箱根の温泉場も増えてきた。
金型はこね荘
箱根湯本で道が分岐し、左は箱根旧街道、右が一号線であった。
塔ノ沢温泉、大平台温泉、堂ヶ島温泉、宮ノ下温泉を経て、彫刻の森美術館で道が分岐している。
そこを左の道を取り、大型のグランドキャビンは、細い坂道を上り、底倉温泉を抜けて小涌谷駅を経て極端なヘアーピンカーブを器用に上ると、小涌谷温泉の外れにある瀟洒な「金型はこね荘」に到着した。
大型の車で細い山の中の道を辿るから、客席に乗っている我々はそれなりに心配したが、N氏は細い山道を悠然とすり抜けて、やや高台になっている「金型はこね荘」の玄関口へピタリと横付けしてくれた。
パンフによると、箱根登山鉄道小涌谷駅下車、徒歩五分とある。正式の住所は、神奈川県足柄下郡箱根町小涌谷箕作沢450―24である。
N氏から、今回の旅のスケジュール表を貰い、旅行予算なども丁寧に知らせて貰ったが、意外に宿泊費用が安く、金型保険組合の保養所とあった。
秋の観光シーズンで、適当なところに予約が取れなかったか、遠方からくる九州組に費用の関係で配慮したのだろうと考え、宿泊ホテルに関しては全く期待して居なかった。
ただ、幹事は、関東のOB会は、毎年「金型はこね荘」で開いており、気に入って貰えると、自信をもって言っていた。
到着してみると、なるほど予想していた私の「保養所」のイメージと異なり、豪華な広いロビーがあった。大きな油絵が掛けられ、落ち着いた雰囲気の良いロビーであった。
客室へ案内されると、さらに驚いた。なんと部屋が三つに分かれている広い室内であった。十畳くらいの和室と、やはり十畳くらいのリビングにソファーと座卓があり、さらに三畳の小部屋が付属していた。創造していた質素な保養所ではなく、豪華なホテル以上の雰囲気であった。
今までのOB会で宿泊したホテルでは一番広々とした部屋であった。
リビングのソファーの前は、大きな一枚ガラスで、箱根小涌谷の山と緑が見渡せ、実に気分の良い部屋であった。やはり空間の広さと、窓からの景観の良さが、ホテルとしての最高の贅沢である。
大浴場でさっそく温泉を楽しんだが、透明の単純炭酸温泉であった。
大浴場の周囲も大きな一枚ガラスで、緑の垣根に覆われており、露天風呂の雰囲気を楽しめた。廊下やエレベーターホール、食堂、それに宴会場などに、必ず立派な大きな油絵が飾られていた
。有名画家の作品ではなさそうだったが、それぞれに日展会員の名前が表示されている作品であった。 かなり絵画に造形の深い人が、この保養所を運営しているのだろう。
ともかくも、たいへん贅沢な空間演出が大変気に入った。煩瑣な日常から逃れて、心身共にリラックスするための、まさに癒しの空間を「金型はこね荘」は提供してくれた。
小涌谷温泉
翌朝予定通り九時に、小涌谷の「金型はこね荘」をグランドキャビンで出発した。
小涌谷は、昔は噴煙が上がる荒涼とした地形であり小地獄と呼ばれていたが、明治六年(1873)、明治天皇が宮ノ下へ行幸の折、地獄というのは不吉であるとの理由で小涌谷と改名された。
この地域は、もともとは底倉村の共有地だったが、箱根への交通網が急速に発展し始めた明治十年代後半、横浜の実業家の榎本猪三郎たちによって温泉場として開発され始めた。明治十六年(1883)に榎本猪三郎・恭三親子が開業した三河屋旅館には、歌人の与謝野寛・晶子夫妻も逗留し、名湯としての歴史を刻み始めた。
昭和三十四年(1959)に建てられた「箱根ホテル小涌園」は、箱根における大型ホテル第一号ともいえるホテルで、小涌谷を大きく発展させた。
また、人気スポットとして、水着で楽しめる日帰り温泉「ユネッサン」や、その他、バラエティに富んだ日帰り温泉施設がそろっているという。
大涌谷
車は小涌谷の山道を抜けてすぐに国道一号線に出たが、少し走って国道一号線と分かれて、箱根の神山や冠ケ岳を周回できる観光道路を走り、箱根ロープウェイの早雲駅下を過ぎ、直線のロープウェイを大回りしながら、やがて大涌谷分岐をUターンするように上って、ロープウェイの大湧谷駅に到着した。
車を降りると、硫黄の匂いが鼻を突く。
そして底冷えの冷気と、いかにも荒々しい地獄を思わせる水蒸気と硫気を噴出している後背地があり一陣の冷気が吹き抜けて一瞬身を縮めた。
大涌谷は、「かながわの景勝五十選」の雄大な富士山の眺めを楽しむことができるポイントであったが残念ながら七合目より上には厚い雲が覆っており、神々しい冠雪の富士山頂を一瞬しか見えなかった。
急いで富士山頂をカメラに捉えたと思ったが、残念ながら富士山頂には雲が掛かっている写真しか撮れなかった。まさに、一瞬の富士山頂の眺望であった。
八年前のOB会でN氏の案内でここを訪れたときは、素晴らしい快晴で富士山の眺望を存分に満喫することができたことを思い出した。
「おお、寒い」全員首をすくめた。あまりの寒さに、記念撮影もせずにロをープエィに乗り込むことになった。
ここから、箱根ロープウェイに乗って、一気に芦ノ湖の桃源台駅へ降りる予定だという。無論、グランドキャビンを西原氏が運転して、桃源台駅へ先回りしておくという計画であった。箱根でロープウェイに乗って箱根山の景観を存分に味わって貰おうという幹事の配慮である。車で先回りするN氏の車に、H氏が万一のトラブルに備えて同乗して出発した。
大涌谷は、約三千年前に箱根の最高峰の神山が、箱根火山最後の水蒸気爆発をおこし、山体を吹き飛ばした爆裂火口で、今もなお熱い水蒸気と硫気を噴出している。
このとき山崩れによって生じた土石流は、西に向かって流れ出し、その先端は仙石原を通り抜けて、外輪山の内壁に届いている程の大爆発であった。爆裂火口の跡地が、すなわち現在の馬蹄形の凹地の大涌谷である。
箱根の最高峰の神山
上の高台を閻魔台、下の沢は地獄沢と呼ばれている。またここ大涌谷には、一周三十分ほどの自然研究路と自然科学館があり、生きた火山を体験することができるとか。
大涌谷の背後に見える冠ヶ岳は、大涌谷の大規模な崩壊のあと、爆裂火口からマグマが絞り出されて溶岩塔を形成したものである。
これは、溶岩ドームの中でもとくに急傾斜で、溶岩が横に広がらず柱状になった火山岩尖と呼ばれるものである。
古来より此処は「大地獄」と呼ばれていたが、明治六年に明治天皇・皇后両陛下が箱根に御静養に来られる際に、
「両陛下がお出になる地に、地獄があってはおそれ多い」
ということで「大涌谷」と改称されたという。
ロープウェイの大涌谷駅でN氏とH氏は、そのまま車で桃源台へと下り、我々ロープウェイ組の六人は、箱根ロープウェイの大湧谷駅から桃源台を目指した。
Y氏夫人が、ロープウェイ大涌谷駅で待ち合わせをしている時、
「箱根でロープウェイに乗るとは思っていなかったな。初めての経験だけど、もう二度とここへ来ることはないよね。初めてにして、最後の見納めね」
「ほんとね、なかなか同じ処へ行くことは殆どないものね。観光は初めてのところばかに行くからね」
H氏夫人が応じていた。Y氏夫人は、実母を亡くしたばかりで人生の儚さを実感しているから、本来陽気な性格ながらも、少し感慨に耽っている感じであった。
ケーブルカーの狭いキャビンに十人ほどが乗り込み、窮屈な姿勢で座り、ゆらゆらとケーブルカーに揺られて下った。
ゴンドラに乗り正面を見回すと、約三千年前の大崩壊による、土石流が残した地形がはっきり見えてきた。ロープウェイの支柱が並ぶ波打ったようなスロープは、神山が崩壊した時の土石流が堆積したものなのだという。
キャビンの右手前方には、雄大な富士の裾野は見えるが、残念ながら中腹から上の部分には雲がかかり、一瞬でも晴れないかと思っていたが、期待は裏切られた。
箱根ロープウェイのケーブルカーは、一九二一年(大正十年)から、高低差二一四mの急斜面を上り下りしている。ロープウェイのゴンドラは、一分間隔で発着し、定員十二名、全長約四km、高低差三O四mを、中央火口丘最大の神山の北斜面を横切って芦ノ湖畔の桃源台まで、空から箱根火山の景観を観察することができる。
箱根のハイライトとも云うべき大涌谷を真上から眺め、また、大涌谷から姥子(うばこ)へ下るゴンドラの車窓から右前方、長尾峠越に見る富士山の姿もまことに雄大だというが、残念ながら富士山の全容姿を見ることができなかった。
落葉樹の多い林に覆われた右側の単調な斜面に対して、左側は宮城野や早川をへだてて明神ヶ岳から火打石岳.乙女峠に連なる古期外輪山を眺めることができた。
ロープウェイの姥子(うばこ)駅で停止して一旦扉を開けられたが、誰も降りる客はいなかった。姥子駅近くのバス停「大石」から「大石上」にかけて、大きな石(数百トンもあるといわれている)があるという。
これは神山から流れ下った巨石の堆積物で、「流れ山」と地元では呼んでいる。
これらは土石流に巻き込まれて流れ下ったもので、土石流のすざましさを示している。また、ロープウェイのゴンドラからは、湖尻から仙石原にかけて、土石流堆積物が扇状に広がっているのがよく見える。この山崩れの土石流は、仙石原で早川の流れをせき止め、それで芦ノ湖が出現したという。
姥子から終点の桃源台までは、なお神山の斜面を下り続け、神山から次第に遠ざかるため外輪山とカルデラ、中央火口丘などの配置が見やすくなり、左下方には雄大な芦ノ湖の景観がひろがり、箱根火山の立体的な構造がよく見えた。
芦ノ湖に、小さく観光船の海賊船も見えた。湖面の中央部には小さなボートが何艘も浮かんでいる。
芦ノ湖
ケーブルカーが桃源台駅にゆっくりと近づくと、コンドラから西原氏と広瀬氏がゴンドラを見上げているのが確認できた。
奧方が大きく手を振ったので、やがて二人とも我々の乗っているゴンドラを確認できたようだった。こうして、やや窮屈なゴンドラで空中散歩しながら、雄大な箱根火山の景観を満喫できた。
芦ノ湖は、約四十万年前に、箱根火山のカルデラの中にできた周囲二十キロmの細長い湖である。
今からおよそ四十万年前頃に、箱根火山の活動が始まっている。連続的な噴火がくり返された結果、およそ二十万年前には、古箱根火山と呼ばれる、高さ二千七OOmほどの富士山型の成層火山ができあがった。
この活動が終わった約二十万年前に、山の中央に陥没がおこり大きなカルデラができた。このカルデラ内に水がたまって、巨大な湖ができたと思われる。カルデラの陥没にひきつづいて、第二期の活動が始まった。
二十万年~八万年前の活動によって、溶岩がカルデラの内部に厚く広く噴出し、傾斜のゆるやかな楯状火山が形成された。 今からおよそ五万年前に、爆発的な噴火活動が始まり、この噴火により楯状火山の西側が大きく陥没、新しいカルデラができた。
二番目のカルデラが形成された時も、再びカルデラ内に水がたまり、湖ができた。
これにひきつづいて第四期の活動が始まり、数万年~数千年前の間に、小規模な噴火が続き、神山・駒ケ岳・二子山・冠ケ岳等の中央火口丘が形成された。
この活動の中頃の、約二万八千年前、神山から噴出した火砕流が、早川をせきとめ仙石原一帯に湖を造った。この時の湖を仙石原湖と呼んでいる。
三千年ほど前に起こった、神山の水蒸気爆発によって大涌谷が生まれ、噴きとばされた山体が土砂崩れとなって流れ下り、現在の湖尻付近で早川をせきとめ、現在の芦ノ湖が誕生した。
桃源台駅からロープゥェィを降りると、大湧谷から高低差二一四mあるせいか、寒さもいくらか緩んでいる感じであった。
桃源台駅でトイレを済ませ、駅の観光みやげ店を冷やかして、駐車場へ向かった。
桃源台は、夏場なら芦ノ湖の湖畔であり、キャンプなどには最適に違いない。
芦ノ湖には海賊船の形をした観光船があり、観光スポットでもあるから、広い駐車場があった。
ケーブルカーから見えた湖面のボートは、帰ってから調べてみると、やはり釣り船で、虹マス、ブラックバス、わかさぎ等が生息しているとのことであった。
大きな湖だけに、多くの人が釣りを楽しんでいるとこのことであった。
ここで、もうここへ来ることはあるまいと思いながら、全員並んで記念撮影をした。
三国峠
桃源台駅を出発して、グランドキャビンは芦ノ湖スカイラインに出た。車に乗り込んでから、H氏が、
「逆さ富士が見えるのは、富士五湖のうちどれだったかな」
と、逆さ富士の話しを持ち出したが、皆思い出せないでいた。
帰ってから調べてみると、この芦ノ湖の南岸の杉並木街道から眺めるとき、天気がよければ「逆さ富士」が見えるとのことであった。
芦ノ湖の南岸の逆さ富士
芦ノ湖スカイラインは、左下方に芦ノ湖を眺めながら進み、やがて三国山峠の展望台に出た。芦ノ湖スカイラインには、三ヶ所の展望所があり、三国峠はその中でも最も標高が高い一O七Omの展望広場であった。
実に雄大なパノラマが展開しており、息を飲む景観であった。
三国峠とはよく付けた名で、ここは実質三国の境にまたがる峠である。
国とは無論旧分国のことで、この峠は、相模の国(神奈川)甲斐の国(山梨)、駿河の国(静岡)の三つの県境にある三国峠である。
三国峠からの富士山
ここからは雄大な富士山の裾野の広がりが眺められ、裾野市、沼津市が一望できた。
ここからも、残念ながら富士の頂上には雲がかかり、富士山の頂上は見ることが出来なかった。
ところで、「三国峠」へ行ってきたと言っても、実は三国峠は日本全国に多数ある。
三国峠とは、その名の通り、全国の国境の峠に名付けられており、他にも有名な三国峠がある。
上越の三国峠もその一つで、上越国境の峠で、新潟県湯沢町と群馬県新治村の境にあり、猿ケ京温泉から三国峠を超えて苗場、湯沢へと出る峠の温泉である。
川端康成の有名な『雪国』で、主人公は国境のトンネルを抜け雪景色に変わったことに驚き、感動をしている。この三国峠は、上越国境を抜ける大動脈である国道17号線にある。
埼玉・長野・山梨県の境にも三国峠がある。
実質三国の境界にある峠で、武蔵、信濃、甲斐にまたがる峠で、中津川林道にある。
奥秩父にある三国峠から十文字峠への縦走路の中津川林道は、埼玉県側は未舗装でダートだが、長野県側は既に完全舗装されているという。
北海道にも、大雪山三国峠がある。
三国峠の名前は、十勝国・石狩国・北見国の境界にあることから名付けられている。
糠平から層雲峡、旭川へと続く国道273号線の峠である。標高一一三九mは、国道では北海道一の峠の高さである。トンネルを抜けるとすぐに層雲峡で、峠からは目の前にニペソツ山、ウペペサンケ山など大雪山系の山々の美しい稜線が広がっている。
近畿では、近江の三国峠が有名である。丹波、若狭、近江の境の山に三国岳があり、そこに三国峠がある。また、九州にも中国地方にも三国峠はあるが割愛する。
芦ノ湖スカイラインから、やがて箱根新道へ出て、昨日通った箱根湯本に出た。
この箱根新道は、箱根旧街道に沿うように作られている有料道路の新道である。
箱根旧街道は、昔の東海道の当時は石畳であった。
小田原箱根口から、芦ノ湖畔までの上り四里、三島までの下り四里をあわせ、「箱根八里」といい、東海道の中でも箱根越は苦難の道であった。
旧東海道に残る古道の石畳は、現在畑宿から湖畔まで、往時の石畳が保存整備され、多くの人々が当時の面影をしのびながら散策している。
「箱根の山は天下の険」と謡われているように、箱根山越え八里約三十二キロの道は、江戸時代の東海道きっての難所であった。
今は、大型のグランドキャビンでも楽々と、有料道路の箱根新道を走っている。
箱根湯本の山崎インターから降りて一号線を走り、箱根口インターから小田原厚木道路を経由して小田原東インターを出た。
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小田原城跡
時間の都合で訪れるのは割愛となったが、小田原城について触れておきたい。
小田原城は、室町時代に築かれたのが始めといわれている。戦国時代には、小田原北条氏の本拠地として、最盛期には、周囲九キロメートル余り総構を巡らした、中世の日本最大規模の城郭として、関東地方に覇を唱えた。江戸時代には、江戸城の西を守る役目を担っていた。
こうした歴史を持つ小田原城は、中世と近世の築城様式の過渡期に築城された、日本の城郭史の上からも貴重なもので、今日も比較的良好な状態で残存している所が多くある。
この小田原城郭を保存、整備していくために、小田原市では、平成五年「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」を策定し、現在、この構想に基づいて、江戸時代末期の小田原城跡の復元を目標に、整備を進めている。
小田原城がいつ建てられたかは明らかではないが、室町時代、大森氏が八幡山に城を築いたのが始まりといわれている。
明応四年(1495)、北条早雲(伊勢新九郎)が、当時の城主であった大森藤頼から小田原城を奪いとっている。
その頃の小田原城は小規模であったが、天守閣裏辺りに接していた事が城絵図等から推定されている。その後、城は八幡山の古郭を中心に、同心円状に広がり、曲輪が配置された。小田原北条氏の勢力が拡大すると、城も大型化してきて現在の本丸(天守閣)や二の丸にまで広がった。
また、永禄四(1561)年に上杉謙信が、同十二年(1569)に武田信玄が攻めてきた際には、「蓮池の東門蓮池口の四つ門(後の幸田門付近)で激戦した」との記録もあり、当時、城構えがあったことが裏付けられている。
小田原北条氏は、その後も城域を広げ、武田信玄の来攻後や、天正十五(1587)年には大普請を行い、三の丸総構と呼ばれる城郭を完成した。
天正十七(1589)年に豊臣秀吉と断交すると、小田原北条氏は大動員をかけて、大外郭と呼ばれる城構えに着手し、翌年の小田原合戦前に完成させている。
その城域は、広く市街地を取リ囲んだ大規模なもので、周囲約九キロメートルもある、日本中世史上最大の城郭であった。この守りは堅く、豊臣氏の攻撃にあっても一部しか破壊されなかった。
小田原合戦後、小田原城主となったのは、北条氏の旧領を受けた徳川家康の家臣大久保忠世である。大久保氏は二代忠隣の時に失脚し、城の一部が取り壊された。
失脚の理由の一つとして小田原城が、当時の江戸城より大きかったためともいわれている。
この時、三の丸の門・櫓・石垣・外郭の門等が破壊されている。その後、明治三年(1870)に廃城となるまで、城として利用されてきたが、この間、幾度も改修されている。
小田原蒲鉾
小田原と言えば蒲鉾が有名で、N氏からは毎年お中元やお歳暮に「蒲鉾」を送っていただいている。
蒲鉾は、祝いの膳には欠かせない加工食品で、何やら華やぎがある。特に正月には絶対に欠かせないというイメージがある。
博多の雑煮はすまし汁で、ブリや鶏肉と一緒に必ず蒲鉾がはいる。
やはり小田原のお土産として蒲鉾を買いたいということで、幹事が「籠清」という小田原一の名門の蒲鉾屋へ案内してくれた。
子供のころから食べ慣れているが、改めて調べてみると、歴史も古く、じつに栄養価の高いバランスのとれた健康食品である。
蒲鉾の歴史
かまぼこの歴史は、我が国の歴史とともに古いようである。
熊襲(くまそ)を亡ぼし、新羅(しらぎ)を征服した、神功皇后(西暦170年~269年・仲哀天皇の后)は、古代の大変な女傑だが、彼女は三韓征伐に出かける前に、生田(神戸)の社(やしろ)で休息した。
そのとき、鉾(ほこ)の先端に魚肉をつぶしたものを塗って焼いたのが、「蒲鉾」のはじまりとされている。魚の身をすりつぶし鉾(ほこ)の先につけて焼いた、その姿が「ガマの穂」に似ていたことから蒲鉾と名づけられたという説である。
もう一方の説では、その昔、かまぼこと呼んだのは、今の竹輪のことであるという。
平安時代の料理法を記した文献によると、すりつぶした魚肉を、竹の管に塗り、それを焼いた形が蒲(がま)の穂に似ているので「蒲鉾」の名が生まれたという。
ともかくも、古い書物には『かまぼこは、蒲の穂に、にせたるものなり』とあり、その形が蒲の穂に似ているから蒲鉾の名ができたということである。その後の書物では、ほとんどこの説をとっている。
妥当な説に従えば、本来のかまぼこは、現在の竹輪に似たものであったことになる。
江戸時代の書物に、
『後に、板に付たるが出来てより、まぎらはしきにより、元のかまぼこは、竹輪と名付けたり 竹輪こそ実のかまぼこなれ。今の板に付たるを蒲ぼこといふは、名のうつりたるなり』
とあり、江戸時代には、すでに元のかまぼこは、竹輪と呼ばれ、板についたものが蒲鉾と呼ばれていたようである。
「はんへん」「はんべん」「はんぺん」などの板付き蒲鉾の名は、室町時代の料理書に見られ、半片、半弁、鱧餅、半平などの漢字を当てている。
一般的には、江戸時代の書物に
『半平、はんぺんは、蒲鉾と同く磨肉也。椀の蓋等を以って製れ之、蓋、半分に肉を量る、故に半月形を以って名とす』
と書かれているように、その形から来たものらしい。
室町時代の古い書物に
『板に付やうは かさをたかく(中略) あぶりやうは 板の方よりすこしあぶり 』と書かれており、現在の小田原の蒸しかまぼことは少し違うが、焼き抜きかまぼことして、室町時代にはすでに作られていたことがわかっている。
その頃は焼くだけであったが、江戸時代の末に蒸す方法も考え出された。
やがて、かまぼこといえば、板付かまぼこを指すようになる。
江戸時代の終わり頃になると、今日のような蒸しかまぼこが登場してくる。
そのころの書物には、
『三都ともに、杉板に魚肉を推し蒸す。けだし京阪にては蒸したるままを、しらいたという。多くは蒸して後焼いて売る。江戸にては、焼いて売ることこれ無く、皆蒸したるのみを売る』
と書かれている。
このように江戸地方では、蒸し板ばかりになり、特に、小田原式の白かまぼこは、江戸好みの代表となり発展した。小田原生まれの二宮尊徳が手土産に使ったことが江戸末期の日記に書かれている。
蒲鉾の原料と作り方
かまぼこの原料にする魚は、魚肉が白く、熱を加えると「こし」のある弾力、つまり、シコシコした歯応えのあるものが適している。
昔は、タイやムツ、ハモなども使われていたが、明治になって東シナ海での漁業が盛んになるにつれ、グチやエソが主原料になった。
小田原でも、それまでは、オキギスを始め、トラギス、ムツ、イサキ、タカベ、アジ、カマスなど近海物を使っていたが、次第にグチへと移っていったという。
やがて、グチを原料にした小田原蒲鉾は、味の逸品として全国にその名を広めた。
「蒲鉾には、北洋のスケトウダラのスリ身が多く使われていますが、伝統の味を守る「籠清」の蒲鉾はグチで作られ、さすが小田原かまぼこという評価を保ちつづけています」
とあった。この伝統の味を持った「籠清」の蒲鉾をお土産に買った。
「箱根八里は馬でも越すが、食べずに通れぬ小田原こまぼこ。エーッサ、エッサホイサッサ、小田原提灯ぶら下げて、お猿の駕籠屋だ、ホイサッサ。」
江戸時代から、小田原名物は、小田原提灯と蒸し蒲鉾であった。
このころの小田原は沿岸漁業が盛んで、たくさんの魚が獲れていた。この豊富な魚の保存利用として、小田原で本格的に生産され始めたのが小田原蒲鉾である。
漁獲される魚の評判を聞き、日本橋の蒲鉾職人などが、小田原に移り住んだともいわれている。
江戸時代、箱根に向かう湯治客や、東海道を往来する旅人、参勤交代の大名たちは、小田原の白いかまぼこを食べるのが道中の楽しみであったらしい。
江戸時代のカマボコの製造工程
東海道中膝栗毛の弥次さん、 喜多さんも、小田原の宿でかまぼこを食べいる。
長い間蒲鉾は高価なぜいたく食品で、庶民には縁の遠いものであった。
大衆食品になったのは、明治三十五年頃、動力による蒲鉾製造機械が発明されてか
らである。また、発動機付き漁船の底引網漁業や、遠洋漁業の発展で、原料魚の大量入荷が可能になったこともあり、蒲鉾は庶民の口にも入るようになり、現在蒲鉾は、水産加工食品の中で、上位の生産量を誇るようになっている。
蒲鉾と水
蒲鉾が小田原名産となったのは、原材料である魚が相模湾で豊富にとれたことと、富士山の伏流水と相模湾の海水が地下で混ざり合い、かまぼこ造りに適した水が豊富であったことが大きい。
更には、参勤交代の大名が箱根越えの時に、新鮮な魚がないため、代わりに小田原の蒲鉾を食し、その美味さを諸国に広めたからという。
生の魚から蒲鉾をつくる時、大量の水を使用する。特に魚の臭みや脂、小骨、皮、血液、その他の不純物などを取り除いていく「水晒(さら)し」という工程に水は必要不可欠である。その水も、天然のマグネシウムやカルシウムなどの、ミネラル成分が豊富に含まれていないと、魚肉が膨潤してしまい、上手に晒すことができない。
小田原の地下水は、これらをほどよく含み、蒲鉾づくりに大変適していた。
かまぼこの種類
「板付き蒲鉾」蒲鉾に、なぜ板が付いているのか、不思議に思ったことがあるが、蒲鉾を山高でボリュームを持たせる事と、形を統一して成型するために不可欠だという。
もう一つ、品質にもよい影響があるという。木の水分吸収力と通気性を利用し、かまぼこの水分を加減し長持ちさせる機能があるという。さらには、木の繊維が臭みを吸着するため、魚肉の臭みを緩和させている。
「むし板かまぼこ」蒸気で加熱する板付かまぼこである。現在では、かまぼこ製品の中では最も代表的なもの。
「焼板かまぼこ」むし板かまぼこの表面を焼いたもので、関西地方に多い。
「焼ぬきかまぼこ」西日本地方が主な生産地で、焼色をつけないように加熱するが、関西では焼色をつけた製品もある。板付のものや、なんばん焼、角焼きのように板のついていないものもある。
「リテーナ成型かまぼこ」板付き蒲鉾をフィルムで包み金属製の型枠にはめ込んで蒸気で加熱する。
「ゆでかまぼこ」はんぺん、なると、つみれ、魚そうめんなどで、湯浴で加熱する。
「揚かまぼこ」すり身を油で揚げたもので、鹿児島では、つけあげ、関西ではてんぷら、関東ではさつまあげと呼んでいる。
「焼ちくわ」金属製の串にすり身をまきつけて、電気、ガスなどで加熱する。形状や焼き方によって大ちくわ、豆ちくわ、平ちくわ、野焼き、ぼたん焼きなどと呼ばれている。
「ケーシング詰かまぼこ」ポリ塩化ビニリデンフィルムに詰め、密封して湯浴やレトルトで加熱している。
「卵黄製品」すり身に卵黄や砂糖を多量に加えて、ガス、電気などで焼いたもの。焼いた後、ロール状に巻いたものをだて巻と呼んでいる。関西では梅型に焼いた梅焼がある。
「味の細工かまぼこ」カニ、エビなどの海産物や、チーズ、ハム、玉子、木の芽などをいろいろと配合したかまぼこ製品で、形状も工夫を凝らしてバラエティーに富んでいる。
「祝儀用加工かまぼこ」主としてご祝儀用に使われる細工かまぼこには、蒲鉾の表面に文字や絵を描く「絞り出し」、なると巻のように切り口に同じ模様が現れる「切り出し」、型にはめ造る「一つ物」などがある。
健康食品のかまぼこ
かまぼこには、卵と肩を並べるほどタンパク質がたっぷり含まれている。
しかも魚のタンパク質だからとっても良質である。カルシウムも、つみれや揚げかまぼこは、特に豊富に含まれている。
また、嬉しいことに低カロリー、低脂肪である。欧米ではいま日本食がブームで、かまぼこも人気を集めているという。
さらに魚のタンパク質は、塩分に含まれるナトリウムを排出する上で効果があり、同様に含まれているカリウムの力で、血圧を下げるという効果もある。
このような機能性が認められ、日本独特の健康食品として蒲鉾が大いに見直されているという。
かまぼこの主原料となる魚には、良質なタンパク質が豊富で、必須アミノ酸も多く含んでいる。
牛肉や豚肉のタンパク質にも、必須アミノ酸が含まれているが、しかし、肉を主なタンパク源とすると、脂質の取りすぎになり、エネルギーが過剰になってしまう。
その点、かまぼこは、低エネルギーな上、原料の魚に含まれるカルシウム・ビタミンBやDHA・EPAなどの脂肪酸も含んでおり、脂肪が体内に蓄積されにくいという特徴も持っている。
蒲鉾は、様々な栄養を持っている上に、食べても太りにくいというダイエット食品でもあるという。
相州とり銀
小田原駅の新幹線口の駅前に、昼食の予約があった。「鳥ぎん」という鳥料理の名物店へ案内された。幹事は、我々を「鳥ぎん」で下ろして、トヨタレンタカーへグランドキャビンを返却に行き、少し遅れて合流した。店にはいると、N夫人に店の人が、「ご主人は?」と聞いて来た。どうやら、夫妻の馴染みの店のようである。
「相州鳥ぎん」と、じつに古風な店名の通り、粋な和風な造りで、古民家を思わせる大きな黒い梁があり、落ち着いた雰囲気の塗り壁のある店であった。
幹事のお陰で、十人乗りワゴンでゆったりとクルージングを楽しみ、気配りの効いたエスコートを受け、全員無事に予定通りに小田原駅前に到着した。
N氏はその緊張感から解放されて、ほっとしたのか、昼食前のビールを実に旨そうに飲み干した。自宅へは、マイカーを、夫人が運転して帰るとのことであった。
ここでは、名物の焼き鳥や、とり刺などでまずビールを飲み、奥方と旦那方ペアでとり釜飯セットを食べた。この「鳥ぎん」の昼食でも、奥方には茶碗蒸しが一品余分に添えられていた。
幹事の、旅行のコンセプトが、「日頃の感謝の意味を込めて、奥方を慰労する」ことであったことは、疑いの余地がない。
H氏は、事前に昼食がとり専門の店と聞いて、
「俺は、鶏はまったくダメなんだ」と言うと、N氏は、
「いや、料理はいろいろあるから大丈夫ですよ」と言う会話があった。
最初にビールと「焼きとり」が出てきたところ、H氏は焼きとりを食べている。
「いや、白身の鶏はダメやけど、焼き鳥なら食べられる」
と言う。人の好き嫌いとは実に面白いものだ。
「とり銀」の名の通り、焼き鳥が主力の店ながら、釜飯も専門といえる程に、その種類が多かった。
店の雰囲気もよく、帰ってから調べてみると、じつにメニューの種類が多いのに驚いた。
やきとりは、九州から直送させ、備長炭で焼き上げているという。
焼き鳥のメニューは、鳥足軟骨、野鴨、砂肝、つくね、ぼんちり、もも、軟骨つくね、れば、ぎんなん、おやき田楽、にんにくつくね、かしら、かわ、ねぎまなど、三十六種類のメニューがある。
釜飯は、注文の都度、生米から炊きあげているという。
あなご飯、かに釜飯、しらすたらこ釜飯、かにいくら釜飯、親子釜飯、麦とろ釜飯、 かにあさり釜飯、五目釜飯、えび鮭釜飯、とり玉飯など実に三十六種類のメニューがある。
他に、酒菜として鶏刺し、さつま地鶏のもも肉たたき、珍味三点盛り、まぐろのサラダ、大阿蘇地鶏の唐揚げ、本場薩摩のつけ揚げ、いかわた陶板焼きなど三十六種類のメニューがある。
地酒も豊富な品揃えがある。
加賀鳶(石川)、繁升麹屋(福岡)、黒牛(和歌山)、真澄辛口一本(長野)飛良泉山廃(あきた)など三十六種類がある。
こんな店が地元にあれば、私でも贔屓にしたいと思った。
新しい「食文化の提案」で、多くの人々に愛されているから、フランチャイズ店が展開可能なのだろう。
さて、「とり銀」で昼食を終えて、旅も終わり、新装になった小田原駅で解散となった。
終わり
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