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ザビエル公園
 
 健太は、成り行きで見知らぬ老人と、プレミアムな缶ビールを飲んでいる。
「うまかですね」
 つい笑顔をみせてしまった。まだこの老人の名さえしらない。
 南海堺駅にほど近いザビエル公園のベンチで、ぼんやりと考えごとをしていた。その前で老人が、急によろよろと転(ころ)んだのである。あわてて引き起こし、健太が腰かけていたベンチにすわらせた。別段怪我(けが)もなく、老人は照れ笑いしながら、
「どうもありがとう。ぶざまな格好を・・。お礼にどうぞ」
 さしだされたのが冷えた缶ビールであった。公園広場の子供たちをながめながら、老人も缶ビールを開け、うまそうに喉に流しこんでいる。夏の夕方、日没までには少し時間がある。峠をすぎたとはいえ、まだまだ暑気がのこっている。ちょうど喉が渇いていたから、つい勧められるままに缶ビールを飲んでいる。

「いつまでも暑いですな」
 その老人が、問わずがたりに喋りはじめた。
「樹木がおおく落ちつきますな。案内板を見ましたが、ここは堺の豪商、日比屋(ひびや)了慶(りようけい)の屋敷跡だそうですね。宣教師ザビエルがここにしばらく逗留し、日比屋了慶が援助したとありますな」
ビールをもらった手前、多少は話に応じざるをえなくなった。しかしザビエルについては知識を持ちあわせていない。話をそらした。
「堺は初めてな?」
「きのう着いたばかりです。かねてから一度は訪れたいと思っていました」
 健太は堺の町に特別の思い入れはない。たまたま派遣先会社の寮があっただけである。白髪の老人は遠くを見つめながら、問わずがたりをはじめた。

「実はー私、家を出て、放浪しているんです」
 老人の言葉に耳をうたがった。人生に失敗したホームレスかと思った。が、それにしては服装も品性も悪くない。この人懐(なつ)っこい余裕ある笑顔はどうしたものか。
 それにプレミアムなビールを持っている。ただ缶ビール一本だけの縁であり、あまり関わりを持つ気はない。すぐに立ちさるつもりでいる。
「ところで失礼ながらー あなたは今、大きな悩みをかかえているでしょう?」
 ぶしつけな言葉に、一瞬たじろいだ。が、人懐っこい笑顔につい少し気をゆるした。
「そりゃ人間やからね。それなりに悩みはあるけどな」
「その悩みを、少し聞かせてもらえませんか?」
 名も知らない、初対面の老人にいわれることではない。
「話したって、おっちゃんには関わりがないことばい」
 不機嫌に、ぶっきらぼうにいった。時は2008年の7月であった。
 派遣会社から解雇通知を知らされたばかりである。だから今は不機嫌なのだ。というより、将来にたいする不安で頭がいっぱいなのである。行きずりの老人に話てみたところで、らちがあく話ではない。蝉の鳴き声と走りまわる子供たちの歓声が聞こえてきた。健太はしばらく無言でいた。すこし間をとった老人はしずかにいう。
「悩みはひとに話をするだけで、いくらか気分が落ちつきますよ。話すことで悩みを客観的にみつめることができますよ」
 品のよい親しげな笑顔を見せられ、健太は少し迷った。
(自分が直面している社会の矛盾を、誰かに訴えたい)
 という気持ちがないではない。
 躊躇しながら一気に飲みほした。老人はすかさずもう一本さだし、笑(え)みをたやさず話をうながしてきた。
つい二本目を手にしていた。健太は大きく息をはきながら、
「世の中って、ほんなごつ不公平やな。理不尽な世の中やな」 
 ため息まじりで、つい話始めた。老人は大きくうなずいてきた。

 派遣先から突然解雇させられ、会社の寮を出なければならないことなど。ビールの淡い酔いに乗じて、一気にまくしたてた。
「まったく会社ってヤツはー。ちょっと悪くなるとポイすてすると。身勝手すぎるとよ。職をうしない突然住むところさえ、なくなってしまうんやからね」
 健太は、自分でも意外なほど堯舌(ぎようぜつ)にまくし立てた。興奮すると九州弁が自然と口をつく。老人は深く同情するような目つきで深くうなずいた。
「全くひどい世のなかですな」
「まっ、おっちゃんに話しても、ラチもない話やけどな」
「で、これから、どうされます?」
 老人はたたみかけてくる。
「安アパートでもさがし、また登録するしか仕方ないけどなー」
 あきらめ顔でつぶやくようにいった。
「でも、またいつ派遣切りにあうかも知れませんな?」
「そのくり返しやがな」
 忌々(いまいま)しそうに吐きすてるようにいった。この得体のしれぬ老人と別れようと、ベンチから腰を浮かした。老人は手のひらでベンチにすわれ、とジェスチャーする。すかさず三本目をとりだしまた健太にすすめた。
「袖(そで)すりあうも多生(たしよう)の縁といいますな。もう少しだけ、お話をしませんか。ところで、あなたはお幾つですか?」
「もう30やがな」
 老人のぶしつけな質問に、自嘲気味に、はき捨てるような口調であった。


  

三十にして立つ

 健太は対馬(つしま)の離島そだちで、福岡の私大を卒業し、大企業だけに的を絞って就職活動したが、いずれも不採用となった。地元の中小企業には興味がわかなかった。
(今年は特に大企業の求人が少ない。来年こそは)
 つよい決意で派遣会社に登録し、大阪での派遣社員の生活がはじまった。一年の雇用契約ながら、社員寮に入れる条件だった。派遣社員になるのは一時の方便で、かならず大企業へ就職するつもりでいた。ところが翌年もその次の年も、希望の就職先が見つからなかった。むしろ年ゝ景気が悪くなり、求人数は昨年を下回る状況がつづいた。
(一生を保証される大企業へ就職する)
 その夢がすてきらず、ずるずると二十代が終った。だからやけ気味になっている。
 老人は健太の顔をのぞきこむようにした。
「そろそろー 自分の足で立ってみませんか?三十にして立つというではありませんか」
「三十にして立つ?古風な言葉やな。孔子の言葉やったかな?」
「有名な論語にありますな。『子(し)いわく、吾れ、十有五(ゆうご)にして学に志す。三十にして立つ。四十にしてまどわず。五十にして天命をしる』」
 健太は、フンとうなずきながらも、不要領な顔をした。

「そろそろ、自らの足で立って、人生を自ら切りひらく。その時期ですな。必要なのはその勇気ですよ。あきらめるには若すぎますよ」
 健太は、少し説教くさい老人の言葉を聞いても、まだぼんやりとしている。
「仕事は上手にこなしてきたでしょう。でも、みずから問題解決に挑戦する。そういう努力をしましたか?理不尽な世間に、つまりは飼い慣らされてきたのですよ」
 老人は辛(しん)辣(らつ)な言葉を投げかけてきた。が、あたっているだけに反論ができない。
「自分で仕事をつくる。ここらで、そろそろ独立を考えてみたらいかがです?」
 老人の唐突で、意外な言葉に呆れた。
「独立?そんな金があるなら、そもそも苦労なんかしまへんがな!」
 語気がつよくなった。老人の横顔を改めてみつめたが、笑みをたたえ、また諭すようにつづける。
「お金よりも、何よりもー。気概と勇気が必要ですな。人生はね、自分の力で切りひらくものですよ。不幸はね、世のなかをただ嘆くことにあるのですよ」
 老人の言葉にまた虚をつかれ、まごついた。
「そやなー。いままで独立なんか考えもしなかったばい。ばってん先立つものがなけりゃ、なんも出来んやろっ」
 話しの思わぬ展開に、とまどっている。

「問題はそこですよ。あなたの心の中にあるのですよ。勇気と行動力があれば、おのずと道はひらけるのです!知恵さえだせば、お金なんて追いかけてきますよ」
 オヤジが毅然として、子を説諭するような声音(こわね)であった。
「与えられた仕事は、ちゃんと責任を果たしてきたんやで。それでも会社都合で、一方的に解雇や。これはやっぱり理不尽や!」
 絶叫するようにいった。老人の説諭と、健太の思考はまだかみあっていない。
「与えられた仕事?そこですよ。仕事はね、本来、与えられるものではないのですよ。みずから考え、発見し、つくるものですよ」
 意外な言葉に健太はおどろいた。
「そやかて、派遣さきの指示に従うのが、あたりまえやんか」
 まだ老人のいうことが納得できないでいる。
「むろんそうですね。だけどね、その仕事の本質を考え、問題点を発見し、改善提案をしましたか?どんな職場でも、つねに改善工夫が求められています。とくに生産ラインでは、生産効率とロスの低減が最大の課題でしょう?」
 たたみかけられると、言葉がなかった。派遣先の仕事を要領よくこなすことはできたが、腰かけ程度にしか考えていなかった。
 さらに容赦なく、健太の心に手をつっこむように言葉をつづけた。
「派遣先で、改善提案を積極的にしていたなら、きっと正社員になれたでしょうな」
 老人の熱をおびた話に、はじめて目からウロコが落ちる気がした。新鮮なひびきのある言葉に、少し勇気をもらった気がした。
「ベンチャービジネスを知っているでしょう?お金がなくても、起業することは可能なんですよ。革新的なアイディアさえあれば、お金はあとから追いかけてくるもんですよ」
 確信をもった言葉に少し圧倒されつつも、その老人の熱いまなざしを受けとめた。





 遊行の旅

 この行きずりに過ぎない老人は、一体なに者なのか。
「おっちゃんは、いったい、何をしてはるの?」
「失敬しました。大久保太郎です。歳は65歳ですがね。思い立って人生最後の修業に放浪の旅をしています。まっ、気ままな放浪の旅ですがね。埼玉をでて一年ほど放浪しつつ、大阪へたどりついたというしだいです」
 意外な話におどろいた。放浪のせいか、やや日焼けしているが、顔には艶がある。それにしてもいぶかしい男だ。
「へー 放浪の旅をしとると?」
「驚きました?諸国漫遊のような放浪です。ところで、あなたは九州の出身のようですが、お名前をうかがってもよろしいかな?」

「阿比留健太や。私大ば卒業したばってん景気がわるくてな。大(ふと)か会社に就職ができんやった。就職浪人つもりで派遣となったばってん、そのままずるずると続けとると」
「ほう、阿比留さん?めずらしい名ですね。対馬のご出身ですか?」
「そうや、対馬の生まれや。親はいまでん対馬で暮らしとるんや」
「やはりそうですか。阿比留氏は、かつて対馬国を支配した名族ですな。知人に対馬出身の阿比留姓の人がいました。中世の対馬支配者として活躍した歴史話を聞かされましたよ。あなたのように体が大きく、貫禄がありましたな」
「遠い先祖のことは、あまり知らんけどな。対馬ではいちばん阿比留姓が多いんや。ところで何のために放浪なんかしてるん?」
 若い年代ならともかく、定年後の年代で放浪するということが理解できない。
 大久保は遠くをみつめ、つぶやくように語りはじめた。
「お分かり頂けるかどうかー 。初めての土地をたずね、その風土のなかで生きる人の話をきき、生きることの意味や、楽しさを学んでいます。自分の人生が何であったかを問いつづけ安らかな老い方を見つけるためです」
 これだけの話では、放浪の意味がとても理解できない。

「じつは・・懺悔のような旅なんです。現役のころは仕事に夢中でした。家族との絆もつくらず、息子へは一方的な価値観を押しつけました。気のよわい息子を追いこんでいることにも、気づきませんでしたな。じつに愚な父親でした」
 先ほどの熱弁が嘘のように肩をおとし、意を決したようにつづけた。
「息子は常にトップの成績で、有数の進学校へ入学しました。過剰な期待から、
(東大進学こそが、社会的成功の唯一の鍵だ)と言いつづけました。ところが息子の興味は音楽分野へ向かったようです。しかし(音楽ではメシは食えん。音大への進学には、金を出さん)と言ってしまったんです。息子は、反抗的な態度を見せなかったんですが・・。センター試験の前日、雪のふる日に、みずから命を絶ったのです。まさに青天の霹靂(へきれき)という衝撃でした。まもなく定年を迎え、子会社への就職も断り、妻と二人で息子の菩提を弔うつもりでした。ところが妻は、二人きりの生活が苦痛だったようです。心が通っていなかったんですな。それから妻も心労が重なり、体調をくずして肺炎で亡くなりました」
 しばし沈黙した。
「人生で何にが大切だったのか。家族を亡くしてからはじめて気づきましたよ」
 健太は相づちの打ちようがない。無言で大久保の横顔をながめている。

「妻を失って途方に暮れました。半年も悩んだあと、しがらみを全てすて家を売りはらい、埼玉の片田舎で静かに余生を送る決心をしました」
「懺悔の気持ちで写経をし、座禅をくみました。これからどう生きるべきか。悟りのようなものを得られないか。一人ぐらしを4年ほどつづけました。しかし悟りのような境地には到りませんでしたな」
 ひとり語りのように話をつづけている。話を黙って聞くより方法がない。
「自然とふれうことで、しだいに心が落ちつきました。ただ朽ちはてるには、まだ身体と心が老いていない、と自覚しました。心やすらかに老いるには、どうしたらいいのか。
 このころインドの思想で、人生を四つの時期に分ける考え方を知りました。人生最後の第四期には遊行(ゆぎよう)すべしとありました」
「人生の締めくくりは、身にあるものを捨てさり、気ままに人とであい、生きる喜びや、悲しみの意味をつたえる伝導の時期、とありました。そこで決心し、各地をたずね歩く放浪の旅をしています」
 漠然とながら、放浪の原点にふれた思いがした。が、それでも健太の理解をこえる世界の話である。いちおう相づちをうち、話をうち切ってしまうつもりで聞いた。
「堺のどこに泊まっているん?」
「公園の裏ですよ。キャンピングしています」 

 大久保の話は、健太の理解をつねに超えている。街中でキャンプが出きるはずがない。
「キャンピング?車で?」
「まあ、車といえば車ですがね。二輪車ですよ」
 また訳が分からないことをいう。
「つまり、リヤカーがキャンピング・カーというわけです」
「えっ。リヤカーでキャンピング?」
「見てみます?」
 健太は大きくうなずいた。この得体のしれない初老の男に、興味が湧いてきた。
 公園西側の道路へ出ると、川沿いの空き地に自転車と、連結されたリヤカーがおかれていた。荷台が長く幅も広い大型のものである。荷台はトラック用のシートカバーでおおわれている。とてもキャンピングカーといえるようなものではない。
「この中で寝ることができるんな?」
 大久保は微笑したまま、シートカバーを手なれた手つきで後ろ側から丸めはじめた。器用に筒状にたたみ、リヤカーの手引きフレームにのせた。
「へえー アルミ製やな」
「軽くて移動に楽なんですよ」
 アルミ製のボデーで、アルミの側板で囲われている。アルミパイプのフレームを取出して四隅に金具で固定し、つぎつぎとフレームをつぎ足した。それから丸めていたシートを、パイプの上にかぶせると、テント構造が出来あがった。軽自動車の荷台部分のような空間が出来あがった。大久保は中に入り、内側からシートカバーをパイプに固定した。
 側面シートには窓があり、巻きあげるとネットを張った窓になる。組み立てに要した時間は15分くらいであった。テントの中には、マットレスやテーブルや椅子になる箱もあり、工夫された内部である。組み立が完了すると、自慢気に言った。
「これはスネイル号。カタツムリと名をつけています。毎日少しずつ移動します。バッテリーを積んでいてね、電気も使用できるんですよ」
 スネイル号は別注のリヤカーで、居住性に最大の配慮があり、キャンピングカーのような合理的な仕様がほどこされている。テーブルや椅子になるボックスは、生活必需品の収納場所という。夏は扇風機、冬には電気毛布を使用するという。電気ポットで湯も沸かせ、ノートパソコンも使用しているという。
 リヤカーの移動は、連結されている自転車ながら、モーターが後輪に取付けてある。長い坂道を移動するときは、モーターの動力を使用するという。
 このスネイル号で埼玉を出発し、旧中山道(なかせんどう)に沿って上州路、信州路、木曽路そして近江路を通って大津、京都へ至った。さらに南下して堺にたどり着いたという。
 これらの道のりを、1年もかけてリヤーカーで移動してきたという。健太には理解を超えた行動である。この不思議な初老の大久保に、ますます興味が湧いてきた。




ビジネスモデル

「そろそろ夕食時間です。阿比留さん。いっしょに食事をしましょうよ」
 ザビエル公園の北側に、「ビフテキ」と看板のあるレストランがある。レストランの方を指さしながら、歩きはじめた。健太には縁のない高級レストランのようである。 
 不思議な大久保に、大きな興味をかき立てられていた。が、食事まで誘われてまよった。大久保は思案している健太をふり返った。
「食事をご馳走させてくださいよ。これも何かのご縁です。こういう巡りあいを求めて旅をしているのですから。さ、お付きあいくださいよ」
 やや強引ながら、じょうずな誘いに健太はしたがった。
 身なりは襟(えり)のついた白の半袖シャツに、グレーの長ズボンをはき、小奇麗で清潔な服装である。何もかも捨て放浪している。といったが、お金に不自由はしていないらしい。
 大久保から諭とされた言葉に、大きな刺激をうけた。が、具体的なイメージが湧いてこない。もう少し大久保の話を聞きたい。と思いなおした。

 レストランに入ると、二階の中庭に面した小人数用の静かな席に案内された。大久保は躊躇なくサーロインステーキと、推められたワインを注文した。
 出された皿には、スライスしたパンの上にステーキがのっていた。極上の宮崎牛のサーロインで、食べやすいようにカットされている。健太は、ステーキもワインも久しぶりで、少し緊張した。大久保はワイングラスを鼻に近づけ、ゆっくり揺らし香りを嗅(か)ぎ、舌のうえに少しふくみ、ゆっくりと味わった。つづいてカットされたステーキを口に入れた。
 健太もワインを口にふくみ、霜降り肉のステーキを食べてみると、実にやわらかく、とろけるようなうま味が口にひろがった。
 が、目的はステーキにあるのではない。より具体的な方法を聞きだすことである。
「サビエル公園はいいですな。青空の下で、開放感のなかで、自由なアイディアを考えれば、どのようにも、自分の人生を面白くさせることが出きますな」
 大学教授のようなしゃべりで、健太を誘導する。
「たとえアイディアが浮かんでも、そもそも金がないんでは、何ごともはじまらんやんか」
 健太はいちばんの懸念を、大久保に投げてみた。
「しかし阿比留さん。その肝心のアイディアがありますか?もし革新的なビジネスアイディアに行きあたれば、お金はあとから、いくらでもついてきますよ。真剣に新しいビジネスモデルを考えてみませんか?」
「新しいビジネス・モデル?」
「楽天やアマゾンは、ネット通販の大手ですね。これこそ小売業の概念を変革したビジネスモデルですよ。無店舗のローコストで、低価格と甚大な品ぞろえを武器としていますね。これは流通革命なんですね。ユニクロも、新しいビジネスモデルで成功していますね。メーカーは創って卸(おろ)すだけ。小売店は販売するだけでした。その概念をこわし、素材生地を開発し、一番やすい国で生産し、自らの店で安く売る。成功したのは、その斬新なビジネスモデルが有ったからですよ。資金はそれに吸い寄せられるように、集まったのですよ」
 大久保の説く筋立ては明快ながら、健太はまだ腑(ふ)におちない。
「ビジネスモデルゆうても、ひとりでは、何んも出きないやないですか」
「そこなんですよ。いい質問ですね」
 すこし間をとった。

「三人よれば、文殊(もんじゆ)の知恵といいますね。派遣仲間に声をかければ、何人かは集まるでしょう?何人かが集り、ブレインストーミングでアイディアを出しあうのです。小さな思いつきから、次々とアイディアが触発されて生まれ、あたらしい結びつきを発見できるのです。ここから斬新なビジネスモデルが生まれます」
 ブレインストーミングの経験はあったが、それがいまの閉塞感に満ちた生活を変える。とは思いおよばなかった。
「ブレインストーミングは、実際に大きな成果をあげていますな。新製品の開発や、販売方法を検討するとき、現状が(何故(なぜ)そうなっているのか)をくり返すといいますな。
 改良すべき商品があって、現状が何故そうなっているのか。なぜを、何度もくり返しているうちに、無駄な機能や、何かが必要なこと。工夫すべき点が見えてくるのです」
「物を売るのに、なぜ店舗が必要か。むしろ立地条件や品揃えの制約がないネット通販の方が、ローコスト運営が出きる。さらに無限という品ぞろえができます。だから、アマゾンや楽天が、圧倒的な支持をうけ成長しているのですよ」
 大久保の説くビジネスモデルについて、どうにか理解はできた。
 しかしまだ完全に腑に落ちたわけではない。
「この指とまれで人を集めます。何のしがらみもない自由な討論で、アイディアを出しあえば、かならず何かビジネスのヒントが浮かぶものですよ。そのキーワードの中から、革新的なビジネスモデルを考えるんです。革新的ビジネスモデルがあれば、人生は大きく動くはずです」
「たとえ、ビジネスモデルが出きてもな、お金がなくては何ともならないやろ?」
 何よりも、お金のことが頭からはなれない。
「くどいようですがね。まずは若い情熱と、斬新なビジネスアイディアが必要なのです。革新的ビジネスモデルと人材があれば、公的制度融資や、ベンチャーキャピタルからいくらでも資金を引っぱりだすことが可能なのですよ」
 熱く語る大久保の話は、説得力があった。
 健太はしだいにその気になっていった。

「時代は大きく動いています。未来を切りひらくのは、若いあなたたちの情熱と、革新的なアイディアこそが、有力な武器となります。革新的アイディアや技術があれば、ベンチャービジネスを支援する、さまざまな仕組みや融資制度があります。
 アイディアさえできれば、向こうから、ぜひ投資させて下さい。と言ってきますな。だから、お金より何より、革新的なアイディアという武器が必要なのですよ」
 大久保はワインを飲み、間をとった。健太は柔らかい肉を口にはこんだ。
「社会に飼いならされるより、自分たちで社会を変える。これほど面白い人生はありませんな。独(ひと)りで悩まず、まずは仲間と知恵を出しあうのです。一人の力は1ですが、三人よれば9、四人よれば16の力が発揮できます。相乗効果で思いがけないアイディアが生まれるものなんです。仲間と知恵を出しあえば、掛け算の世界、乗数効果が期待出きるのです」
 健太はステーキを食べながら、アイディアの創りかたが、しだいに見えてきたような気がしてきた。
 健太は、派遣社員の仲間のうち幾人かとは親しく交わってきた。いずれは何かをなしたい。そういう希望を捨てていない人を友人としてきた。不満や愚痴だけで終始する人は、いっしょに酒を飲んでも楽しくない。笑いがなく、希望もなく、聞いていて自らもみじめになるからである。
 健太は歴史小説の愛読者で、幕末期の風雲に身を賭(と)し、自ら人生を切りひらき、面白く生きていった群像がすきだ。閉塞された時代のなかで、煩悶(はんもん)しつつも、みずからの殻を打ちやぶり、果敢に時代に抗(あらが)う主人公たちの息づかいが感じとれた。歴史小説で活躍する人間の生きざまに、大いに触発され自らを鼓舞してきた。
 ただ健太には閉塞感を打ち破ぶる、現実的な手段が見つからなかったのである。
 多層構造で複雑な経済社会の狭間(はざま)で、派遣社員を余儀なくされてきた。
 同じ仕事でも、正社員との待遇格差は歴然としている。派遣社員は契約期間が短く、突然解雇されることもあたり前となっている。雇用差別という大きな壁に絶望感を抱き、戦々恐々とした日々をすごしている。結果は「貧すれば鈍す」というジレンマにおちる。
 その突破口になるかも知れない、大きなヒントを与えてくれたのである。
一人で悩んでもなにも解決しない。仲間を募(つの)り、自由なアイディアを出しあい、時代に先駆ける斬新なビジネスモデルをつくりなさい。
新しいビジネスモデルこそが、みずからの殻をやぶり人生を切りひらく。 差別で閉塞された雇用環境を打ちやぶる武器こそが、斬新なアイディアだと教えられた。




人材あっせん業

 派遣社員のルーツ、人材あっせんの歴史にふれねばならない。
 江戸時代に「口入(くちいれ)屋」とよばれる人材あっせん業が、その必要から自然発生的に成立している。大坂や江戸が政治経済の中心として栄えはじめると、各種の生業がにぎわい、新たな人手が必要となった。それにともない地方から多くの農民庶子や職人が、職をもとめて集まりはじめた。が、身寄りがなければ、口入屋にたよるしかない。
 働き場所をもとめる庶民と、仕事をあっせんする口入屋のあいだで仮りの主従関係がとり交わされる。その口入屋から、あっせんされ人夫、小店(こだな)、大店(おおだな)などの下ばたらき奉公、武家の下男下女などが送りこまれた。江戸期の口入屋は、膨張する甚大な労力の要求に応じ、あらゆる分野に人材をあっせんし、口銭(こうせん)(手数料)を稼いだ。仮りの主従関係をむすばない、一見(いちげん)(初回だけ)の口利(くちきき)による人材あっせんもおこなわれた。
 
 戦国期以前では、地侍が有力武将と寄親(よりおや)寄子(よりこ)という仮の主従関係をもった。
 代々主従関係のある一族郎党とはちがい、地侍としての戦闘能力を売りその対価として扶持(ふち)を受ける。有力武将は多くの地侍を寄子としてかかえ、その勢力で領土をひろげた。寄子の働きによっては、領土の一部が恩賞として与えられることもある。しかし頼みとした寄親が力をうしなえば、さっさと見切りをつけ新たに寄親をさがした。
 戦国期になると、地侍や武将を寄親として農民庶子が寄子となり、戦場で兵卒として先駆けをした。ただ、あくまでも仮のものである。待遇が気に食わねば、さっさとつぎの寄親を探した。
 江戸幕府が成立すると、寄親寄子の関係をむすぶことが禁じられた。
 あらゆる身分が固定され、世襲制が確立されていった。こうした背景で、江戸や大坂では、人材あっせん業の口入屋が誕生したのである。江戸時代に発生した人材あっせん業は、時代によって名称は変わってもつづいている。
 仕事を求めるものは立場がよわく、その賃金は人材あっせん業の言いなりにならざるをえない。力関係で人材あっせん業の口銭は、一般に五割とも六割ともいわれた時代があった。あっせんを受け使用するばあい、直接雇用ではないから、労働環境についての配慮をしなくてすんだ。その劣悪な労働環境が、昭和の戦後になってはじめて、深刻な社会問題として注目された。
 戦後の「職業安定法」が成立して、ようやく労働派遣が禁止された。
 にも関わらず「業務処理請負」と名を変え、労働派遣をつづけた。とくに第一次オイルショックで倒産があいつぎ、労働者派遣がふえた。この対策として1986年、派遣労働者の保護を目的とした「労働者派遣法」が施行された。

 この法律では、派遣会社は「労働者と雇用契約」をむすぶが、派遣先の会社とは「使用関係」をむすぶ。このため指揮命令権は、派遣先企業に認められた。この法律の成立で、大企業でも積極的に派遣労働者を採用する傾向がつよまった。直接雇用とはことなり、適宜に人員の増減が容易となるからである。
 この労働者派遣法は、何度も改正されている。
 三度目の2004年の改正で規制を緩和し、製造業への労働者派遣が認められるようになった。これ以降、大手製造業にも派遣社員が一気に増加することになった。
 が、肝心の派遣労働者の適正な保護や、契約を打ちきる企業責任が、まったく盛りこまれなかった。派遣期間も一年間という制限がなくなり、2007年の改正で原則1年、最長3年間へと延長になった。
 このころ製造業の偽装請負問題が発覚し、規制がきびしい請負形態から労働派遣へとシフトをはじめた。このため2006年の製造業への派遣労働者は、前年度の3倍以上にふくれあがった。ところが2008年末に、金融危機を発端とした世界的不況で、大手製造業の大規模な派遣契約の打ちきりが行われた。
 元来、労働派遣業は、労働力の需要に柔軟に対応することで成立している。
 したがって派遣先企業は、中途解約可能な派遣契約をむすぶ。そうした規定がない場合でも、業績の急変で中途解約を当然としてきた。
 不況がつづくなかで、正規雇用が減少し派遣社員の雇用がふえた。
 一方、派遣会社では、顧客である派遣先企業に、中途解約の損害賠償を請求することは、事実上不可能であった。

 また2007年の改正で、派遣先企業にとっては「2009年問題」が浮上した。
 製造業は、同一部署で連続3年以上派遣契約をむすべなくなった問題である。3年を超えるばあいは、企業が直接採用するか、請負に切りかえなければならなくなった。3年を超えて派遣契約を行うには、三ヶ月間以上のクーリング期間をあけなければならないと定めている。しかしクーリング期間を設けると、その間に生産ラインが止まることになる。現実的には、派遣から請負へ変更するか、直接雇用に切りかえるしか対策はない。
 しかし請負に切りかえれば、「直接指揮命令」ができなくなり、品質維持に問題が生じる。こうした経緯から、請負形態をとりながら直接指揮命令をしたとして、請負偽装が問題化したのである。大きな社会問題としてクローズアップされ、マスメディアによって大々的に報じられ、「派遣切り」ということばが広まった。
 ザビエル公園で、健太と大久保が出会ったのは、この半年まえにあたる。





総合商社

 食事のあとロックで焼酎を飲みながら、風変わりな大久保が歩いてきた人生を知りたくなった。健太の熱いまなざしを受け、大久保は、訥々(とつとつ)とその人生を話しはじめた。
東京の私大を卒業し、念願の財閥系大手商社に就職した。
 あこがれの商社に就職できたことで、しばらくは意気揚々であった。配属先は紙パルプ部クラフト紙課であった。紙パルプ部は、大手製紙のパルプ原料などを供給してる。この関係で紙製品の一次代理店でもあった。クラフト紙は、各種重包装用途や建材用板紙などに使用されている。これらの実務的な流通事務が主務であった。

 やがて社内に強固な学閥や派閥があることを知った。数年も経つと、後輩が学閥の取締役推薦で出世している現実をみた。学閥や派閥に属くさない者は、一生下積みに終わると焦りを感じた。この組織でそれなりに成功するには、「人のやらないこと」に挑戦しなければならない、と自覚した。
 数年経ち営業担当になったとき、中小包装資材加工メーカーを連合させることを思いついた。洋紙や包装資材の流通経路は複雑で、三次、四次店経由が普通であった。
 中小加工メーカーは規模が小さすぎ、リスクが高い。そこで共同仕入企業をつくることを提案して回った。末端の競合メーカーを、共同仕入で連繋させるという困難なことに挑戦したのである。他製紙ルートの三次、四次店経由をターゲットとし、数年かけて全国規模の共同仕入企業を組織することに成功した。
 これは部内に大きなインパクトを与え、大久保の存在を大きくした。
一方、大手商社の事業は、高度成長とともに拡大膨張をつづけ、何度も事業本部の統廃合が行われた。ありとあらゆる分野が網羅され、世界経済の急速な膨張で、大きな収益をうむ事業本部が増設され巨大化した。かつての花形であった紙パルプ部は、やがて多岐にわたる生活産業関連事業の一部門にすぎなくなっていった。
 業績を評価され洋紙課に転属となってからも、同様に中小紙問屋の仕入共同体の組織化に成功し更に評価が高くなった。洋紙課で次の開発テーマは合成紙で、開発チームの参与を命ぜられた。合成紙は、合成樹脂を主原料とする紙で、物性は紙の弱点を補う特性をもつ高機能で新しい需要を開発できる。合成紙が完成すると、その本格的な用途開発がテーマとなる。耐水性、破裂強度、耐薬品性、耐油性などの特徴を生かし、さまざまな産業分野への開発をおこなった。そのとき耐水性、耐候性に優れたシール開発で、強力な接着剤の開発を委託した。その担当者が、ある物質を添加すると逆に剥がれやすく、しかもノリ残りしない性質があることを発見した。が、相反するもので聞き流していた。
 やがて二度のオイルショックで石油原料が高騰し、合成紙は高級素材の位置づけとなり、期待していたほどの市場規模に成長しなかった。

 つぎの開発テーマのとき、「剥がれやすく、のり残りしない」粘着剤を利用し、「貼って簡単にはがせる」再剥離式付箋の開発に成功した。これは大手文具メーカーのヒット商品に成長した。ついで再剥離式のシール葉書の開発にも成功した。
 シール葉書は、常識を覆(くつがえ)すほどの成果を上げた。シール葉書は、封書でしか通知できなかった個人情報を記入した書類を、葉書一枚で送付可能となった。
 この成果は、銀行、保険会社、ローン会社などに採用され、大きな市場となっている。開発プロジェクトを達成できたことで、その手腕を高く評価された。
 商社の巨大化とともに多くの人材が必要とされ、学閥などと縁のなかった者にもチャンスが到来した。以後、パルプ課に転任して課長代理となり、単身赴任で海外駐在を経て本社パルプ課長に就任した。就任すると、思い切ったパルプ原料の調達ルートを拡大した。広葉樹チップをベトナム、タイ、ブラジルなど新ルートを開拓し、針葉樹チップもニュージーランドなどからの輸入を成功させ、輸入原価の低減に成功した。
 こうした実績の積みかさねで、三十五年目には紙パルプ部の部長に就任した。
 しかし、かつての花形の紙パルプ部は、生活産業関連事業のほんの一部門に過ぎなくなっていた。
淡々とした回顧談を、健太は焼酎をなめつつ聞き、総合商社という大企業のなかで苦労しつつも、それなりの成功をおさめた話として受けとった。
「なるほど、成功物語やな。たいしたもんやな」
「いやいや。これは失敗物語なんですよ。なんとか上司に認められたいの一心でした。人の嫌がる単身赴任を引うけ、家族との絆を築くことさえ怠りました。しかも息子へは自分の価値観をおしつけてしまい、結果は・・惨めなものです」

 商社での成功談と、家庭の話との落差が大きい。
「上昇志向が悪かった、ということな?」
「いえ、男子たるもの、やはり青雲の志が必要ですよ。仕事に熱中することは必要なことです。ただ、ゆとりを持つことが絶対に必要です。仕事で自己の才能をみがき、社会の一員として、何ごとかをなす。社会へ貢献しなければならない。と思いますよ」
 毅然とした態度で大久保は断言した。
「ただ、私はコンプレックスがつよく、精神的ゆとりを持つことがありませんでしたな。遊び心という、ゆとりを持ちあわせていませんでした。もっと人生を楽しむことが必要だった。と思い返していますよ」
 また顔を健太にむけてつづけた。
「社会というのは、経済活動だけではなく、さまざまな芸術、絵画や音楽や舞台や映画、そして文学などがありますな。なのに一度もコンサートに行ったことがなく、歌舞伎も見たことがないのです。つまり精神的な片輪者だった、と思い返していますよ。
 仕事に熱中しながらも、心にゆとりを持ち、それらに触れることがあれば、もっと豊かな人生になったはずだと悔やんでいます」

 大久保は、本来の威厳ある顔つきにもどっている。
「仕事とともに、あたたかい家庭をきずき、愛情をもって子供を一人前にする。
 これも重要な仕事だったと気づきました。人間は、何らかの使命をうけて生まれている。親が一方的に価値観を押しつけ、強制することは間違っていました。逆に子供の才能を見いだし、それを開花させる手つだいも、親としての大切な役割だった・・。私は社会の一面しか見ることが出きませんでしたな」
 大久保は焼酎のグラスを揺らしながらつづけた。
「しかし経済力が生活のゆとりをうみ、心を豊かにするのも間違いありませんよ。
 阿比留さん。あなたの場合は、いまは何ごとかにチャレンジすることが、とても重要な時期なのです。勇気をもって仲間を集め、何かをはじめることが必要ですよ。革新的なビジネスプランをつくることができれば、思いがけない展開がはじまるはずですよ」
 健太は、大きくうなずいた。決意に満ちた笑顔を大久保にむけた。
「おっちゃん、いや大久保さん。おかげで何かにチャレンジする勇気が湧いてきました。ほんまに、ありがとう。仲間と知恵をだしあい、ビジネスモデルを考えてみるつもりです」
 レストランから広い道路にでると健太はいった。
「ウチは、この公園に仲間を集めてみたいと思っているんや。初回のとき、仲間に何かアドバイスをしてもらえへんやろか?」
「もちろん喜んでアドバイサーをつとめますよ。同じ場所にリヤカーを停めておくことが出来ません。メールをください」
 




衆知を集める

 ひとりでは社会的弱者であっても、寄りあつまり知恵をあつめることで、革新的なアイディアを創りだすことが可能となる。革新的アイディアこそが、格差社会を打ち壊すことができる有力な武器となる。社会的弱者こそ、アイディアという武器を手に入れねばならない。武器を創りだすには、志を共有できる仲間をあつめねばならない。
 このためには檄文を書かねば、と思った。しかし魂を揺さぶるような文章は容易に書けない。結果は、自分ほんらいの素直な気持ちで書くことにした。
 健太の決起集会のメールを受けとった仲間のうち、6人から同意の返信がきた。
 堺のザビエル公園に集まった7人の若者たちは、ほとんどが三十代前後の若者たちであった。樹木のあいだの芝生の上で車座になり、自己紹介となった。

 健太から紹介され、大久保が挨拶した。
「アドバイーを依頼された大久保太郎です。六十半ばの歳ですが、体力と気力が枯れるまえにと思いたち、放浪の旅をしています。生きることの意味や、楽しさを学び、時には何かの役に立てればと思っている風変わりな男です。この公園で阿比留さんと出会い、いろいろと話をさせていただきました。 
 未来を拓く鍵こそ、ユニークなビジネスモデルです。いま脚光をあびているビジネスも、ちょっとした思いつきや、キーワードから出ています。自由で奔放な発想をくり返すと、触発されて思いがけない斬新なビジネスモデルの原型が生まれてくるはずです。
 それらを具体化してゆけば、立派なビジネスプランになります。画期的なビジネスプランを創ることができれば、実践するための方法は、いくらでも自然に知恵が出てきます。自由な発想と連想が重要です」
阿比留健太 「今日は使いなれたお国言葉で、気楽に自由に語りあいたかあっち思うっちるたい。時計まわりで順に自己紹介ばしてくれんね。ウチは、みなさんを一応は知っとるけどな。初めて同士の人もいるけんね」
鈴木裕也 「ワイは鈴木裕也。和歌山の有田(ありだ)出身やから、ちっと言葉が乱暴やけどよ。としは27や。工業高校を出てぇ、工作機械会社に就職したんやけどな、上との折りあいが悪かったんよ。ほーで3年ほどで、会社をやめたちゅわけよ。そのあと車メーカーの整備工場に転職したんや。言うことがフラフラする上司でな。いろいろ改善提案をしたんやが、無視されてしもうたんや。たてついてばかりでな、やぱり3年ほどでやめたんよ。
 そのあとは派遣社員をしとるわけよ。高校では野球に夢中やったが、学校を出てからは、車がいじり大好きよ。特技としては、整備工場のとき二級ガソリン自動車整備士資格を取ってあるわ。いずれは整備工場で独立したい。と考えとるちゅうわけやな。性格はややいらち(・ ・ ・)(性急)かも知れんがや」

新居忠  「ウチは新居忠です。愛媛の松山出身で、としは29歳。商業高校を卒業しよるんよ。学校で簿記の三級をとりましたけんぞな。事務機メーカーに就職したけんど、希望の事務じゃのうて工場に回されましたけんぞな。その担当係長が、どうでもええいことに細かくて、イジメられましたぞな。そやから営業を希望したんやけど、ダメじゃったんぞな。頑張って簿記二級にも合格したけんど、やはり事務職になれんかったんよ。そんで4年ほどでやめましたけんぞな。それからは派遣社員をしよるんよ。いっそ公認会計士をめざそうか、とも考えているんよね。性格は、何でも自分で確かめんと、気が済まん所があるんよ。趣味は、イラストゆう絵をかくことが好きじやけんどな」

中園勝  「オイは、鹿児島生まれの中園勝じゃっ。としは28で、経済大学を卒業しちょいもす。大手スーパーに就職したんやっどん。とりあえずはちゅうこつで、売場に配属されもした。オイは、学生の頃から日経新聞ばっかい読んどりもした。ところが店長がロクに新聞も読んどらんで、いつも偉そぉなこつをいうから、いつもひと言、余計なこついうて店長ともうまくいきんやった。それで会社を辞め派遣社員しちょい。性格は、すこしばっかい激しいようで。協調性に欠ける、といわれるこつがあい。とっつきにくかぁかも知れんが、気があえばトコトンお付きあいをしちょいもす。いつかは大きな仕事ばしたいち思うとります。趣味はカメラいじりじゃっ。そいで写真をとるため、時々山歩きをしもす」

市ノ瀬克也 「アタシは、山梨の市川大門出身の市ノ瀬克也です。歳は31歳で、大学の農学部を卒業してるだよ。東京の食品商社に就職し、5年ほどで大阪に転勤になっちゃいました。そのあと会社が大手に吸収合併されちゃったんです。そのときの処遇にいろいろ問題があってさ、退職してるだよ。親父が地元農協の理事だったからさ、反対を押しきって食品商社に就職した手前、田舎に帰らずそのまま大阪で派遣社員になったじゃんね。
 性格は理屈っぽいといわれるだよ。仕事の関係で、自然食品に興味がつよくなっててさ、趣味は料理だね。いづれは健康食品をテーマに、店を開店したいと思ってるだよ」

横溝淳二  「オレは、岡山出身の横溝淳二じゃ。歳は26。岡山の経済大学を卒業しておるで。地元の造船会社に就職したんじゃが、年配者のおいー会社でな、その雰囲気になじめんで2年ほどで退職したんじゃ。じゃけどな、岡山じゃ大きな会社が少のうて。
 せーと田舎ぐらしに嫌気がさして、大阪へ出たいと思ったんじゃ。けどな、適当な会社がのうて、仕方なく派遣社員をしとるんよ。趣味といえるモンは何もねーな。実家がジーンズ縫製の下請けじゃから、工業用ミシンは使えるがの。縫製は性に合わんし、よそじゃ役に立たんが。人を笑かすんが得意で、漫才師にあこがれておるで。少しそそっかしい、かも知れんな」

与謝野正樹  「与謝野正樹でんねん。堺生まれの30歳やで。工業大学を卒業して、電気メーカーに4年くらい勤務してましてん。携帯アプリの開発を担当してましたが、時間に追われる毎日で、細かい作業の連続で毎日が残業つづきで、しまいにはボロホロニ疲れ果てしもたんや。そやから実家にもどって、1年くらい遊んだちゅーわけや。でもなあーんもせんのもイカンんと思いなおしてや。ぼちぼち派遣社員として、暮らしてまんねん。いずれは、ウェブで何かをはじめたいと思ってまんねん。人づききあいは、あんまり得意やのうて、気に入ったひとしか、付きあいがおまへんな。まぁ、ひとりでコツコツ仕事をするのが、性にあっとると思いまんな」

阿比留健太  「ウチな、改めて自己紹介するんは、ちょこっと気恥ずかしかばい。そうばってん30歳で長崎ん対馬生まればい。福岡ん大学の法学部ば卒業しよる。就職んとき、ふとか会社ばかりば、めざしたけん失敗ばしたとよ。仕方なかから、就職浪人つもりで派遣会社に登録ばして大阪へやっちきたばい。そいから運のなく、ずるずるっちつづけてきたばい。ここらで、何かせねばいかんっちゆう気持ちばい。今日はな、新しかビジネスモデルば、みなさんと知恵を出しあっち考えみたいっち思っちいますたい」
 それぞれ経歴は異なるがいずれも派遣社員として働きつつ、大いなる社会の矛盾に悩む若者たちであった。





新しいコンセプト

 健太は、まとめ役としてノートパソコンに、キーワードの要点を記録することにした。またA4用紙を百枚ほど準備している。抽出したキーワードをマジックで記入し、円座の中にならべ、議論を活発化させるつもりでいる。

阿比留健太 「じゃあ自由な発言ば始めましょーか。まず雑談風にはじめましょーや。そいから、ちょこっとずつキーワードば探してみたいっち思っちるけん」

中園勝 「ビジネスモデルゆうのは、商売や事業のもうけの仕組みじゃっ思うがよ」

市ノ瀬克也 「時代を先どりする、飛びっきり新しいコンセプトが必要じゃんね」

阿比留健太 〈ビジネスモデル=事業の仕組み〉と書き円座に置いた。

与謝野正樹 「そやけどな、どないな仕事をはじめるにしてもや、元手となる資本がないんと始まらないとちゃうか?」

中園勝 「その金を集める元になるのが、新しいコンセプトじゃなかか」

阿比留健太 「いろんな公的融資や、ベンチャーキャピタルゆうのんが有るらしかばい。新しかアイディアっち、そいば実行しゅる人材の必要っちなるばってん」

横溝淳二 「やっぱり斬新なアイディアが必要じゃのう」

新居忠 「こうして集まったんは、その為じゃけんな。これから考えないかんじゃろ」

鈴木裕也 「どうやったら新しいアイディアにたどり着くんか、これがややこしいやんか」

新居忠 「時代のキーワード、とゆうアプローチがあるぞな 」

与謝野正樹 「時代のキーワードいうたら、流行語かも知れへんな」

横溝淳二 「派遣切りが、不景気の流行語みたいじゃが、おえりゃせんな」

中園勝 「不景気で生産を減しよる。じゃから人員が余っちくる」

鈴木裕也 「ほーやけどな、なして派遣社員だけが、犠牲になるんかいの?それに不思議なんは、派遣会社そのものは倒産しとらんやんか」

中園勝 「人件費のピンハネ業じゃから、設備も必要なかし人員だっち少なかやろう?」

市ノ瀬克也 「不景気になると、大企業じゃ派遣社員がまず犠牲になっちゃうが、小さな会社じゃ、正社員も解雇されちゃってる」

横溝淳二 「じゃが、なんで不景気になるのじゃろうか?世のなかのお金が、とつぜん少なくなるはずは、ねーじゃろう。ぼっけー不思議じやのう?」

鈴木裕也 「そやな、どっかで眠っているんとちゃうやろか」

新居忠 「世のなか全体の活動が停滞しよるけ、そうなるのじゃろうか」

中園勝 「いまの不景気は、何ちゅってんサブプライムローンゆう、アメリカの投資ブームの反動から起きた金融恐慌が原因じゃーがよ」

市ノ瀬克也 「そうだね。金融恐慌で金が泡のごとく消えてしまったらしいじゃん」

鈴木裕也 「何んで金が急に消えてしもたぁんか。よう分からんな。どこぞに、その金があるはずやけんどな」

中園勝 「バブル経済ゆう言葉があっど。不動産や株などへ投資した会社が、もけて転売するつもりやったが、急落し大きな損失を受けるゆうこつやな」

市ノ瀬克也 「バブルの崩壊じゃんね。実態のない高値の株や不動産に大金を投資するとさ、高値の泡が消えたときは何も残らないじゃん」

横溝淳二 「その株なり不動産を、泡が消えるまえに高く売ったヤツは、儲けとるじゃろう。じゃから、どこぞに、その金が眠っちょるはずじゃろうな」

中園勝 「損する会社がありゃ、もうけた会社もあっはずやっど。じゃっどん、そのもうけた金を再投資するのを見あわしよるから、金が回らんごとなる」

鈴木裕也 「どこぞで金が眠ってるちゅうわけやな」

阿比留健太 〈不景気=資金の滞留〉と追加。

中園勝 「会社が行きずまると、借金の返済が出きんごつなる。じゃっで貸していた銀行が不良資産をかかえ大きな損失を受けとる」

横溝淳二 「銀行が損失を受けると、金を貸さなくなるんじゃな?」

中園勝 「そいで金が廻らなくなっとじゃ」

横溝淳二 「ようけの不動産や、株式投資と関係のねー普通の会社が、どがいして、いっぺんに不景気になるかが、まだ良う分からんのじゃがのう」

中園勝 「マスコミで不景気と騒ぐから、あんまい関係のなかサラリーマンまで、とりあえずは財布の紐をしめる、というこつじゃなかか」

鈴木裕也 「派遣社員が仕事を失えば、買たくてんモノを買うことが出来んしな」

市ノ瀬克也 「そう、停滞気分の連鎖だよね。とりあえずモノを買わなくなっちゃう。お金があっても買い控えしちゃう。というところじゃんね」

新居忠 「そう言いや、日本の国内総生産の6割、アメリカでは7割が、個人消費が占めとるというぞな。景気を左右するのんは、やっぱり個人消費が一番大きいじゃろう」

阿比留健太 〈停滞気分=買い控え〉と追加。

中園勝 「日本は、アメリカへ輸出している企業が多かで、いつでんアメリカの景気に左右されとる。アメリカがくしゃみすれば、日本は風邪をひく」

鈴木裕也 「中国もアメリカへの輸出が大きいはずやのに、成長をつづけてるで」

中園勝 「そいは、人口が多か発展途上の国やっで、国内の需要が大きかじゃろう?」

新居忠 「そんなら、個人の財布を緩めさせることじゃろうな」

中園勝 「動かん、つまり眠っとる個人の金を使わせるちゅうのが、ニュービジネスモデルのポイントというこつじゃな」

阿比留健太 〈ビジネスモデル=個人消費喚起〉と追加。





キーワード

阿比留健太  「それじゃ、具体的なアイディアに移りたいっち思うんやけど、よかやろか?そしたら適当なキーワードば検討しようや」

新居忠  「じゃあ、景気に左右されん会社とは、何じゃろうか?」

中園勝  「そいは、競争相手の少(す)んなか、独創的な商品やサービスじゃ思うどっ」

与謝野正樹  「独創的な商品でぇ有名なんは、やっぱアイ・フォンちゃうか。発売されて早よぅは、手ぇに入れるんが難儀なほど人気やったやんか。大きな市場に成長してるで」

阿比留健太  〈競争相手の少ない独自なもの〉と追加。

鈴木裕也  「誰も気いついてへん、あったらエライ世話なしなモンとかサービスやな」

中園勝 「そんキーワードが必要なんじゃが」

与謝野正樹  「ポイントは、時代が求めている、というキーワードやでぇ」

新居忠  「じゃあ、時代が求めているものとは、何んじゃろう?」

鈴木裕也  「やはっぱエコやないかのう。エコロジーを売モンにしとる商品が多いやんか」

与謝野正樹  「そのトップは省エネ家電やろうな」

新居忠  「それにエコカーゆうのがあろじゃろう」

横溝淳二  「エコカー減税!それに補助金も!」

 子供タレントの物まねで、絶妙のタイミングでいったから大笑いとなった。
阿比留健太  〈エコロジー〉と追加。

市ノ瀬克也  「もうひとつ健康志向だね。健康食品と、サプリメンがやたらと多いじゃん」

横溝淳二  「ヒアルロン酸、グルコサミン、ロイヤルゼリー、ポリフェノール、せーにウコンやらなんやら。耳にタコができるほどじゃが。CMを見ねー日はねーぞ」

阿比留健太 〈健康志向〉と追加。

鈴木裕也  「なんぼ金があってん、健康やなければ生活を楽しめんからな。運動は根気がのうてはつづけられへんから、サプリに頼るちゅうとこかのう?」

市ノ瀬克也  「問題は食生活だね。普通の家庭でもさ、外食が多くなっちゃってる。昼食じゃコンビニ弁当なんかで、すます人が多くなっちゃってるじゃん」

横溝淳二  「ワシャーこー、まいにちコンビニ弁当じゃけどや」

中園勝  「まだあっぞ。深刻な高齢化問題じゃが。65歳以上の年齢が、たしか四人に一人になっちくるらしか。そいに75歳以上の割合が、1割を超えたともあっど。200万人ともいわれちょるが、オイたちの親たちの団塊の世代が、いっせいに定年退職の時期を迎えとっど。高齢化そのものは確実に進んどっど」

阿比留健太  〈高齢化社会〉と書いて追加。

横溝淳二  「じゃが、高齢化社会でなにが問題なんじゃろうか?」

中園勝  「まず医療問題じゃな。健康保険はいつの間にか3割負担に増えちっが。年齢が高(たこ)なれば病院へ通う人が多うなっで、全体で老人の医療費を賄(まかな)うというこつじゃっで」

阿比留健太 〈高齢者の医療問題〉と追加。

横溝淳二  「そう言や、病院を社交場がわりに使用しちょるっちゅう話しもあるじゃのお。病院で最近顔を見ねー人について聞くと(ああ、あの人は病気らしい)っちゅうジョークがあるじゃろう。元気な人が、まいにち病院に通っとるゆーんじゃ。けーではおえんが」

中園勝  「もうひとつ年金問題があっぞ。少子化で年金をかける人が少くのうなっとるのに、受とる人が急に増えちょっど。このままじゃ年金が破綻するともいわれとるぞ」

阿比留健太 〈年金問題〉と追加。

横溝淳二  「けーは政治もんでーじゃが。ビジネスモデルとは縁がなさそうじゃのう」

新居忠  「そーじゃなかろう。最近は介護施設やら老人ホームがよーけ増えちょるじゃろう。それに高齢者を意識した商品やサービスがようけ増えとるじゃが」

阿比留健太 〈介護サービス〉と追加。

鈴木裕也 「なんせ人口の構成比が変われば、それに応じた商品やサービスが必要となる、ちゅうことやな」

市ノ瀬克也 「農村じゃ限界集落も起きてるじゃん。これも高齢化社会のひずみじゃんね」

与謝野正樹 「もうひとつあるでぇ。世界を変えるほどの情報共有化があるやんか。ネットでの情報共有化やな。中国でぇは、政府が情報統制をやってまっけどな。それでもメールで大きなデモやらに発展してまっせ。フェースブックがその役割を果たしてるって、いいまんな。またユーチューブやらの画像投稿サイトも、重要な情報の共有化やでぇ」

阿比留健太  〈ネットの情報共有化〉と追加。

中園勝  「独裁国や共産国じゃ、情報共有化が大きな脅威となっとどっ。中国じゃ、そのフェースブックへのアクセスも、遮断しているらしかど」

与謝野正樹  「日本でぇは、タダでサイトを立ち上げたり、フェースブック、ブログやツイターやらなんやらでぇ、個人が色々な情報を、発信できまんのにな」

中園勝  「その反面、出所(でどころ)のはっきりせん情報やら、ええ加減な情報も氾濫しとーが」

新居忠  「そうそう、おっとろしいチェーンメールを貰ったことがあるじゃがね。(不幸の手紙)のたぐじゃが」

中園勝  「じゃっで、実名登録が必要なフェースブックが、大きな威力を発揮し、独裁政治が批判され指導者が追放されているらしかど」

与謝野正樹   「そうでんがな。世界じゅうでネットは大きな力を持ちはじめ、政治にも大きな影響を与えていまんな。そやからアマゾンやらは、ネット通販でぇ大成功してまんな」

阿比留健太  〈ネット通販〉と追加。

横溝淳二  「モノを買うときは、ワシャ、ぜってー価格比較サイトを見るようにしちょるで。その商品をこーた人の評価も、見ることができるんじゃ」

与謝野正樹  「ヤラセのような評価もあるよってに、全面的には信用でぇけへんで」

新居忠  「ネットを使った新手(あらて)のビジネスは、ようけあるけんな。まだまだ無限の可能性をもっているじゃが。研究する価値が大いにあるぞな」

阿比留健太 〈IT技術〉と追加。

 集まった7人の若者たちは、日常生活とは次元の異なる話題に熱中し活発な発言がつづいた。日常さまざまな情報に接し、その分析や解釈をつねに行っているが、それを発言する場がないのである。自由な発言ができる場にめぐりあい、日常生活と無関係にみえる、政治や経済に関するマクロ的解釈や、時代の流れにたいする見識を発言しているうちに、何か自分たちの未来が見えてくるような、高揚感に浸ることができた。



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風力発電機と電気自動車

阿比留健太  「そいや、こんあたりで事業化のキーワードへっち煮つめていきたいっち思うっちるたい。エコロジーのキーワードから始めちゃうかねー」

鈴木裕也  「エコロジーといや、プリウスが軽をぬいて売上げトップやんか」

横溝淳二  「究極は、電気自動車じゃろう。けーから相次いで発売されるゆー話じゃが」

中園勝   「電気自動車っとは、車メーカーの専門分野じゃっど」

鈴木裕也  「じつは電気自動車ゆーのんはよ、整備工場でもつくれるんよ」

横溝淳二   「ほーか、整備工場でどがんしたら、こしらえることが可能なんかの?」

鈴木裕也  「エンジンを取りはずし、代わりにモーターを取りつけちゃれば、改造できるんやで。近距離用ならつくれるんやで。そやけど問題は、バッテリーやな」

阿比留健太 〈電気自動車〉と追加。

新居忠   「電気自動車じゃ、問題はバッテリーぞな」

与謝野正樹  「バッテリーは、日本は世界のトップレベルらしいけんど、電気自動車専用は、こっからの大きな開発テーマらしいでぇ」

鈴木裕也  「そうやで。電気自動車ちゅうのんは、バッテリーがキーワードやのうわ。ニッケル水素電池、リチウムイオン電池が実用化されとるけんど。まだ課題は走行距離やな」

横溝淳二  「モーターを取りつけるちゅう改造の電気自動車じゃ、どのバッテリーを使うのんかいの」

鈴木裕也  「鉛電池じゃパワー不足やねんけんどな、連結すりゃ近距離なら走りよるで。そやけど、かさばるから限度があるちゅうわけよ。ハイブリッドには、小型のニッケル水素電池がいくつも使用されとるちゅうわけよ。本格的電気自動車には、専用のリチウムイオン電池の開発を進めちょるがの。このバッテリーの価格が、どえらい高いで」

横溝淳二  「ほーか。ほんなら画期的なバッテリーを開発できりゃ、ぼっけー大金持ちになれるじゃのう」

阿比留健太 〈画期的バッテリー〉と追加。

中園勝  「面白か話じゃーが、専門的な知識が必要なっど」

新居忠  「ちいーと話をもどすと、住宅のエコポイント制度もあるぞな」

溝淳二  「屋根に太陽光発電パネルを置いた住宅のことじゃな?」

市ノ瀬克也 「つまりさ、省エネ基準をみたす壁や、二重窓などを設けて1割ていどの省エネを達成した住宅に、補助金が出るらしいじゃんね」

阿比留健太 〈住宅のエコポイント〉と書いて追加。

鈴木裕也  「エコはまさに、国策のようなものやな」

横溝淳二  「そんじゃ、エコロジーゆーんは、省エネっちゅうことじゃのう」

中園勝   「エコロジーは、省エネじゃっど」

阿比留健太 〈省エネ技術〉と追加。

横溝淳二  「家電製品は、ほとんど省エネを売りモンにしとるしな」

鈴木裕也  「そやけんど、省エネやと、なぜぇエコロジーなのかい?」

市ノ瀬克也  「エコロジー本来の意味はさ、生態学のことをさしているだよね。いまは地球環境にやさしい技術や活動などをさしているだよね。そもそも人類はさ、無駄っつうほどのエネルギーを使い、いろいろ便利な製品を生み出し、豊かな生活をしてきたけどさ。ここらで、ちったあ地球にやさしいモノを作ろうということじゃんね」

阿比留健太 〈地球環境にやさしいもの〉と追加。

横溝淳二  「オレたちは、その豊かさとあんまり縁が少ねーけどな」

市ノ瀬克也 「それは置いといてさ。自然が破壊されちゃうと生態系が変ってさ、やがて人類も滅びるっていうじゃん。だからさ、省エネが課題となるじゃんね」

中園勝  「石炭や石油のエネルギーは、二酸化炭素を発生させちょっが」

新居忠  「それそれ。地球温暖化問題じゃね。二酸化炭素は温室効果ガスというぞな」

横溝淳二  「温室効果ガスがオゾン層を破壊し、オゾンホールが大きくしとるじゃが」

市ノ瀬克也 「オゾン層を破壊するのは、フロンガスだよね。オゾン層を破壊する問題と、地球温暖化の問題は少し話がずれるよ」

横溝淳二  「まー温暖化の科学的な話しゃ、むじー(難し)けー。科学的なコトがどうでえーやはり時代のコンセプトは、エコロジーがキーワードじゃろね」

新居忠  「そや、究極のエコロジーは、自然に帰れーとゆうことじゃがね 」

鈴木裕也  「そやけんど、いまさら昔にはもどれんがー」

阿比留健太  「エコロジーっちいうても、色々なこつの有りすぎたいけん。ちぃっと焦点ば絞らんっち。やぱり省エネん原点にもどった方がよかばい」

中園勝 「省エネ技術は大手企業の分野で、小資本では難(む)しかっかど」

市ノ瀬克也 「エコといえばさ、太陽光発電もその筆頭にあげられるじゃん」

阿比留健太 〈太陽光発電〉と追加。

横溝淳二  「太陽の光をどげーしたら、電気に変えることが出きるんじゃろかいね?」

市ノ瀬克也  「難しいことは知らねーけどさ、半導体が太陽の熱を受けると、プラス電気とマイナス電気が生まれる、という仕掛けだね」

横溝淳二 「ほーかな。理屈はむじーけーが、屋根の上の黒いパネルのことじゃな」

阿比留健太 〈太陽光発電=半導体〉と追加。

鈴木裕也  「他にもソーラーカーを、大学やらなんやらで試験的につくられとるよね」

横溝淳二  「クリーンなエネルギーといやー、風力発電もあるじゃろう」

新居忠  「あの大きな3枚のプロペラが回るやつやろ」

鈴木裕也  「クリーンなエネルギーとして、注目されとるな」

阿比留健太 〈クリーンエネルギー=風力発電〉と追加。

市ノ瀬克也  「風力発電じゃあ騒音問題もあるらしいだよ。また立地の問題もあるじゃん」

中園勝  「大(ふと)かプロペラの低周波音で、ちかくに住んどる人は、眠れん日もあるらしかど」

阿比留健太 〈風力発電=騒音問題〉と追加。

横溝淳二  「新聞で見たんじゃが、小型の風力発電機が開発されたらしいじゃろ。家庭の屋根に取りつけて、発電できるっちゅうヤツじゃが」

新居忠  「じゃけど風力発電は、風がいつも安定して吹くこと、前から吹くことが条件じゃろう?じゃから風向きが問題となるじゃろう」

横溝淳二  「いや小型のモンは、タテ型の円筒形もあるじゃがのう。風をうける板がタテにながく、風向きに関係しねーで、回転するちゅう発電機じゃ。タテ型じゃから、せめー場所でも取りつけ可能らしいで」

阿比留健太 〈小型風力発電〉と追加。

新居忠  「そがいに、自然の太陽光や風力を利用して、電気が簡単につくれるんなら、電気自動車にも応用できるじゃないぞな?」

鈴木裕也  「こっから電気自動車が、相ついで発売されるらしか。問題はバッテリーの問題が大きいやろ。そやからハイブリットが売れているんじゃ。バッテリーだけじゃ走行能力はまだ、100から150キロくらいらしいな。車の行動半径はせまいで」

阿比留健太 〈電気自動車の走行性能〉と追加。

中園勝  「じゃっで充電できるスタンドが普及せんと、電気自動車の普及はむずかしかな」

新居忠  「そんなら、走行しながら電気を起こせば、どうじゃろか?車が動けば、風は後ろへ流れるじゃろう?。子供が風車(かざぐるま)をもって走ると、羽が廻る原理や。小さな羽を車に取りつければ発電できるはずじゃ。じゃから走行中に充電できるじゃろう?」

横溝淳二  「おー。けーは、ぼっけーえーアイディアじゃのう」

阿比留健太 〈走行風利用の風力発電機〉と追加。

中園勝  「そげな、こまかプロペラで必要な電力が出来(でく)っとか?」

市ノ瀬克也  「プロペラが小さくなりゃ、発電量は相対的に小さくなるはずだね。問題は、車を動かすほどの電気が、得られるかどうかだよね」

鈴木裕也  「そがなら、必要なだけ羽を連結すればええやんか。風で羽が回転すりゃ、うしろへ風が流れる。その風で次の羽が回り、またその後ろの羽も回るちゅうわけよ」

横溝  「おー。けーも、ぼっけーアイディアじゃのう」

新居忠   「それなら風洞のなかに、なん枚かの羽を同じ軸に取りつければ、効率よく羽が回転するはずじゃろう。何枚の羽を連結すればよいか、計算したら良いじゃろう?」

阿比留健太 〈風洞に小型羽を連結〉と追加。

横溝淳二   「おー、じつに良かアイディアが出たじゃのう。車に風洞を載せ、電気を補充しーしー走行するちゅうんは、いまで聞いたことがねーぞ」

阿比留健太 〈風洞型風力発電機〉と追加。

鈴木裕也   「風洞のなかで、なん枚もの羽を回転させ、走行しながら充電するなんちゅうのは、特許が取れるかも知れんがや!」

阿比留健太 〈風力発電の特許〉と書いて追加。

市ノ瀬克也 「車に限定しなくともさ、船や、列車にでも応用できるかも知れないじゃん」

阿比留健太 〈多用途型の風洞型風力発電機〉と書いて追加。

新居忠 「特許を取るのに、どれくらいの費用と時間がかかるんじゃろか?」

 オブザーバーの大久保は特許申請に関与した経験から発言した。

大久保太郎  「特許費用は、弁理士の費用もふくめて十数万くらいですな」

阿比留健太  「特許っち、簡単にとれるもんですか?」

大久保太郎  「特許出願には、特許請求の範囲、発明の要約書、図面などが必要となりますね。これらは弁理士に相談すれば解決しますよ。しかし審査には類似の特許や、実用可能かなど調べますからね。およそ申請してから、3~5年はかかりますな」

新居忠  「じゃ特許申請してから、当分は何んも出きないのじゃろか?」

大久保太郎  「いえ申請すれば、特許公開広報に掲載されます。だから特許申請がすめば、すぐにでも製品を売り出すことが出きますよ。そのあと特許審査に通れば、遡(さかのぼ)って特許権を行使できます」

中園勝  「そん特許を申請するときの名義は、だれにすっと?大きな問題じゃあか」

阿比留健太  「そーそー簡単に、特許申請なんて出きんっちゃ。まだアイディアば煮つめとる段階ばい。こんアイディアば、試作可能なレベルにまでそん原理やら構造ば煮つめる必要のあっけね。特許申請な、此処(ここ)にいるみなん共同名義にすれば良かろうもん?」

横溝淳二  「じゃ特許をとれたら、その特許権利を売るのんかい?」

阿比留健太  「そーやなかっち。そいば事業化するこつに意味のあっけんな。事業化できよったあとに、特許ん使用権ばどっかに使わしぇても良かも知れんばってんね」

阿比留健太 〈風洞発電機の用途開発〉と追加。

鈴木裕也  「ほあったら、さっき話を出した、中古車を電気自動車に改造し、単価の安かバッテリーをのせ、風洞発電機をのせちゃれば事業化できるぞ」

阿比留健太 〈中古車の電気自動車改造〉と追加。

中園勝  「そん中古車改造の電気自動車を、だれに売っとや」

鈴木裕也  「そらーなんぼでん、需要はあるはずやで。ガソリンをまるきし使わんエコな車やから、どえらい人気は間違いなしやで。中古車を改造するだけやから、街中(まちなか)だけを走る配達の車やら、家庭の車やらなんぼでん考えられるがや」

新居忠  「性能が期待通りにできれば、長距離トラックに使えば、運送経費が安くなるじゃろう。運送業界にとっては革命的で人気爆発するじゃろうな」

横溝淳二  「そのまえに、肝心の風力発電機を、どこでこしらえるんか?自前でこしらえるにゃー工場が必要じゃけーでーれー資金が必要やろう?」

阿比留健太 〈風力発電機の製造方法〉と追加。

鈴木裕也  「そがなら、町工場に下請けに出せばええやんか?」

中園勝  「資金ゼロからの出発やっど。特許を武器に、協力工場に資本参加してもらえば、一挙両得じゃなかか。協力工場を増やせば、大きな需要にでん対応でくっじゃなかか」

阿比留健太 〈協力工場からの資本参加〉と追加。

与謝野正樹  「中古車の改造はどないするん?整備工場やらなんやらに、風力発電機を売るだけでん、ビジネスってしては、おっきーおますやろう」

鈴木裕也  「やっぱ改造まで一貫して直接手がけた方が、広がりがあるがや。整備工場に改造委託すれば、大規模な事業化が可能やな」

阿比留健太 〈自動車整備工場へ依託生産〉と追加。

市ノ瀬克也  「やはり有力な整備工場に、資本参加してもらったら、どうだね?そうすりゃ、いくらでも資金を調達できそうだよ」

与謝野正樹  「やたらって資本参加をつのるって、経営権はどないなりまんの?」

中園勝  「普通、資本と経営者は別じゃっど。株主権だけを与えるこつにすればよか」





野菜倶楽部(くらぶ)

阿比留健太  「検討せんばいかんキーワードの多かけん、次ん健康志向にテーマば変えたいっち思いますが、良かですか」

横溝淳二  「健康志向ゆーたら、健康食品やサプリメントが、あふれちょるがのう」

中園勝  「いまさら健康食品ゆうてん、革新的キーワードになりにくかど」

市ノ瀬克也  「アタシはさ、健康の原点は、野菜にあると思うじゃんね。昔から米と野菜と魚中心の健康な食事をしてきたじゃん。それがさ、洋風化した加工食品をたべ、外食が多くなっちゃたじゃん。バランスを欠いた食事でさ、野菜を十分にとれていないじゃん。その不安からサプリを求めていると思うよ」

新居忠  「そういやー、青汁粉末がようけ売れとるじゃろう」

市ノ瀬克也 「不足してる野菜に注目したらどうか、ということだね」

中園勝  「野菜を、事業の種にするちゅうこつか?」

市ノ瀬克也 「つまりはさ、ファーストフードの革新が出きないかっつうことだね。手軽にどこででも食べられ、おいしくて野菜不足を補えるものつくりゃ面白いと思うじゃんね」

阿比留健太 〈野菜のファーストフード化〉と追加。

横溝淳二 「ファーストフードで、野菜不足を補うことができるんかのう?」

市ノ瀬克也 「ヒントがあるだよね。家庭で作れるジャガイモドーナツがあるじゃん。これは、色々な野菜に応用出来るのじゃないかっつて思うずら」

新居忠  「そーか。カボチャやニンジン、青物野菜なんかでドーナツをつくれば、ヒットするかも知れんぞな。普通のドーナツでも、チェーン店があるぞな」

横溝淳二  「ミスタードーナツがあるけん。ほんなら、ミセスドーナツやな」(笑い)

阿比留健太〈野菜ドーナツ〉と追加。

横溝淳二  「せーで、野菜をどうしたら、ドーナツにできるんかいのう?」

市ノ瀬克也  「ジャガイモドーナツはさ、ジャガイモを蒸(む)してつぶし、ペースト状に捏(こ)ね、小麦粉や卵などまぜ、揚げるか焼くと出きあがるじゃんね」

横溝淳二  「ほんなら、カボチャやサツマイモは、おんなし方法でつくれそうやけど、トマトや葉物野菜では、むずかしそうじゃが」

新居忠  「野菜を粉末にする技術があるじゃろう。青汁はサラサラの粉末じゃが」

阿比留健太〈粉末野菜〉と追加。

中園勝  「そん粉末野菜を、簡単につくるこつがでくっとか?」

与謝野正樹  「野菜を瞬間冷凍させ、真空容器で凍ったまんま乾燥をさせるんやで。乾燥したあと、パウダー加工やるらしいでぇ。フリーズドライ製法っていいまんな」

新居忠  「粉末にできるなら、どんな野菜でも簡単にドーナツができるじゃろうな」

新居忠  「野菜をファーストフードに加工するなら、ドーナツに限らず、クッキーや饅頭(まんじゆう)、それに野菜たこ焼きなんてものも、つくれそうやな」

鈴木裕也  「健康食品の野菜たこ焼きなんて、受けそうやで」

中園勝 「そんドーナツを、どげんして売っとか。野菜ドーナツチェーン店をつくっとか」

市ノ瀬克也  「やぱりドーナツチェーンのように、製造直売システムが良いじゃんね」

新居忠  「ユニクロやニトリでも、製造直売じゃろう。いちばん儲けが大きいぞな」

与謝野正樹  「せやねんなら、野菜倶楽部(くらぶ)なんて店名やったらどないや?ドーナツのほか、クッキーやら、たこ焼きに饅頭やらなんやら。粉もん専門の野菜フードチェーンやったら、独自性があってん面白(おもろ)いやんか」

阿比留健太 〈野菜フード粉もん専門店〉〈野菜倶楽部(くらぶ)〉と追加。

中園勝  「カゴメが野菜工場をつくったいうこつが、新聞記事にあったど」

阿比留健太 〈野菜工場〉と追加。

市ノ瀬克也  「そうだね、人工的に効率よく野菜を生産するシステムだよね。農地はまだ制限があるからさ、農地じゃない建物で効率的に生産するシステムだね」

中園勝  「面白(おもし)かと話じゃっど。じゃいどん、すでに売られとるかも知れんが」

市ノ瀬克也  「家庭でもつくれるからさ、専門店では売られているだね。でもさ、まだ品ぞろえの一つていどだね。野菜だけのドーナツ専門店は聞いた事がないじゃんね」

横溝淳二  「ポイントは、健康食品としてのアプローチしだいかもしれんが」

阿比留健太 〈健康食品の野菜アプローチ〉と追加。

新居忠  「もうひとつ、とにかく安くて、うまくて、健康によい食べもの。という切り口じゃな。ユニクロやニトリでも品質が良くて低価格じゃろう」

中園勝  「もちっと販売方法やらで、新しかアイディアが必要じゃっど」

阿比留健太 〈健康食品としての革新性〉と追加

新居忠  「野菜粉末をつくり、野菜スナック・フードをチェーン店で安く売れば、一貫生産でデカイ企業になるやも知れんぞな」

阿比留健太〈一貫生産〉〈製造直売〉と追加。

中園勝  「そいでん、すべて自前の事業とすっと、大きな設備資金が必要となっど」

市ノ瀬克也  「まずは野菜スナック専門店を開店するだね。そこでお客の反応を見ながら工夫するだよ。何店舗かで実績をつみ、少しずつ直営店をふやしてさ、それからフランチャイズ店を募集すればいいじゃん」

阿比留健太〈直営店とフランチャイズ店〉と追加。

 3時間の予定で始めたブレーストーミングは、かなり実現性の高いビジネスプランの原型を抽出することができた。7人の若者たちは、(いつかは、何ごとかをなしたい)という低圧の電流が、精神の底流に流れていたといえる。いわば商品開発会議のような場をえて、アイディアが共鳴しあい、やがて強い電流として放電されたのである。
 当初の予定時間を大きくこえ、すでに4時間が経過していた。健太は、とりまとめ役としていったん打ち切らざるをえない。





ザビエル7

 健太はこの同志の会を、公園にちなみ「ザビエル7」にしたいと提案し同意をえた。
 大久保と別れた後、ザビエルに興味を覚えて本を読みその事歴についての知識をえていた。このためザビエルの強い精神力について、深い感動が生じている。
 イエズス会の宣教師として、十六世紀に来日したフランシスコ・ザビエルは、イエズス会創設者七人のひとりである。日本滞在は、わずか2年あまりながら日本に大きな影響をのこしている。

 ザビエルは、バスク地方の没落貴族の子として生まれ、長じてパリ大学の聖バルブ学院に留学した。その寄宿舎で同室となったイグナチオ・ロヨラから、4年間もの執拗な説得で、ついに心霊修業を行い「回心」を果たした。のち7人でモンマルトルの丘で誓い、キリストの原点にもどり、イエズス会の伝道の騎士となるべく同盟した。
 ローマ教会でイエズス会の認可を得て、ポルトガル王の支援を受け、インドのゴアに派遣され活動をはじめた。ザビエルは訪れたマラッカで、ぐうぜん好奇心の強い日本人を知り、日本で布教することを決意し、他の宣教師と共に薩摩に上陸した。
 薩摩で布教活動をはじめたが、やがて島津氏が布教を禁止した。やむなく平戸や山口で布教しつつ、全国布教の許しを得るべく船で堺に上陸した。堺の豪商、日比屋(ひびや)了珪(りようけい)の支援のもとで、将軍への拝謁を願ったが叶えられなかった。ザビエル公園の名は、この日比屋了珪の屋敷跡であることはすでにふれた。さまざまな困難を乗り越え、山口で大内義隆から許しをえ、豊後の大友宗(そう)麟(りん)の許しをえて布教した。一旦、ゴアにもどって態勢を立て直し、また日本を目指したが、病のため中国の上川(サンチェン)島で46歳で没した。のちのローマ法王庁では、その崇高な人格を顕彰し1622年に聖人に列している。

 サビエルの固い意志とつよい精神力で、困難な未知の国での布教活動を行なったことに、健太は心を動かされた。ザビエルには、俗世間での栄達の道は開かれていた。
 それらを捨てさせた原点が、回心であったという。健太は宗教的精神世界には理解が及んでいない。だから「いままでと、まったく違う考え方をもつ」ことによって、人間は大きく変わることができる。と解釈した。
 これから自らの足で自立し、未知の世界に足を踏み入れようとしている。その出発点となったのがザビエル公園であり、イエズス会の創設が偶然にも7人であった。なにか不思議な縁を感じ、未知の世界をひらくはずの7人の会を、「ザビエル7」にしたかったのである。

 さて抽出したビジネス・アイディアを、実現可能なレベルまで煮つめなければならい。健太は、プロジェクト「ザビエル7」の定例会議を提案した。ところが与謝野正樹が、運営について別の提案をした。
「プロジェクトをつづけるんやったら、お互いの時間の制約を受けんと意見交換がでける、便利なメーリングリストゆうのんが有りまんのや。完全タダの、メーリングリストサービスが有りまんのや。メールは登録した全員に配信され、情報が共有できるんやでぇ。情報交換が簡単でぇ、議論をすんねんに、ホンマに都合のええシステムなんやで。これを利用しまへんか」
 この提案で日常はメーリングサービスで、情報交換と共有をしながら進行させ、必要な時にだけ会合を開くことにした。
 メーリングリスト(Mailing List)は、グループウエア機能があり、複数のメンバーに同じメールを送受信できる仕組みのことである。特定のあて先にメールを送ると、登録されている全員に配信される。返信メールも登録されている全員に送られる。
 双方向の情報交換が容易で、議論をするのに都合の良いシステムである。マイページを登録すると「ホームページ」ができ、メールの送受信やフォト共有機能、スケジュール機能などメンバーで使える便利な機能がすべて無料で利用可能になる。
 与謝野正樹の提案でメーリングリストを使い、議論し切れていないテーマを煮つめ、具体的な進捗をみた段階で次の会議をもつことにした。

 このホームページの名を、ザビエルの英語名「Xavier」から頭文字をとり、「プロジェクトX7」とすることを健太は提案した。
「まえーに、放映されちょった、NHKのプロジェクトXのパクリやがな」
 横溝淳二が、また絶妙のタイミングでいったから、大笑いとなった。アドバイザー役となつた大久保も、メーリングリストのオブザーバーになることを約束した。

「今日の議論で、こんな斬新なアイディアが飛び出すとは思ってもいませんでした。聞いているだけで、なんだかワクワクしてきましたね。みなさんの向上心と熱意だと思いますな。この熱意と結束力と行動力があれば、このプロジェクト成功の条件がそろっていると思いますよ。私は気ままな旅をつづけている立場ですから、遠くからこのプロジェクトの成功を見守りたいと思っています。実務的な問題で、私の経験がいかせる場合だけ、少しだけヒントを書き込むことがあるかも知れません」
 少し間をおいて、大久保はつづけた。
「さて、明日は堺を出発し、四国をめざす予定です。旅先でこのプロジェクトの進行を拝見させてもらいますよ。このプロジェクトが、やがてニュービジネスの出発点になる事を祈っています」
 翌日には、与謝野正樹がメーリングリストに「プロジェクトX Xavier7 」というホームページを開設し、7人のメンバーとオブザーバーのメールアドレスの登録が完了した。




ビジネスプラン・キーワード

 健太は「ザビエル7」の具体的な活動をはじめるには、マネーシーメント力が必要とされていることに気がついた。マネーシーメントとは、集団の具体的な行動目標を明確にし、個々の能力を把握し、その能力にふさわしい業務を割りあて、進捗(しんちよく)管理することだと理解している。ただ一度も、その知識をいかす機会をえなかっただけである。
 ブレーンストーミングで進行役をつとめ、想像を超えるビジネスプランの原型となるアイディアが湧出したといえる。このプロジェクトの発起人となった手前、それらのアイディアをまとめプロジェクトを始動させねばならない。組織リーダーの経験はなくとも、マネーシーメントをしなければならなくなった。ただ議論を一定方向へ導くことができ、ひとつの自信をもちはじめていた。抽出されたキーワードから、具体的なビジネスプランに仕立てあげることが、当面の使命だと自覚した。まずキーワードを四つの大分類と、その関連項目に仕分けをした。
 具体的なアイディアに達した、(野菜のファーストフード化)と(風力発電機)については、具体的ビジネスプランを作ることが急がれる。
 それぞれ得意とする分野で、推進担当を決めるという課題もある。しかし、たれをリーダーとするか。そこまでは意見がまとまっていない。だから健太が、個別の推進担当を割りふる、という立場にはない。とりあえず抽出された具体的なアイディアを仕分けし、メーリングリストにアップした。あとは、それぞれが推進担当の名のりを上げるのをまつことにした。

──キーワードを、私なりに仕分け整理しました。
 具体的なアイディアが出たものについては、多くの課題に取りくむ必要があります。
また、その推進担当を決める必要があります。ご意見をお寄せください。

□健康志向 ー食文化の革新
    ●野菜のファーストフード化 ●野菜倶楽部(くらぶ)のチェーン店
     ・製造直売 ー低価格のスナックフード ー直営店とフランチャイズ店
     ・野菜ドーナツなど ー粉もん専門店 
     ・粉末野菜 ーフリーズドライ  ・野菜工場 ー 一貫生産

□高齢化社会(検討が必要なキーワード)
  ○高齢者の医療問題   ○介護サービス ○高齢者向けサービス

□ネットによる情報共有化(検討が必要なキーワード)
     ○SNS  ○ネット通販 ○IT技術の応用

□エコロジー技術
     ○太陽光発電 ー太陽光パネル  ー半導体 ・住宅のエコポイント
     ●走行風を利用する風力発電機
       ・車載可能な風洞型風力発電機 ー風洞内に小型羽を連結する 
       ・風力発電機の製造方法  ・協力工場からの資本参加
     ●中古自動車の電気自動車改造
       ・自動車整備工場  ・自動車整備工場からの資本参加
     ○多用途型の風洞型風力発電機
     ○特許申請

 公園での議論の流れから、推進についてそれぞれから名乗りがアップされた。
「野菜のファーストフード化」は、市ノ瀬克也、新居忠、中園勝が手を上げ、「車用風力発電機」は、鈴木裕也、与謝野正樹、横溝淳二が手を上げた。
 阿比留健太は、市の外郭団体「財団法人都市型産業振興センター」が、公的なベンチャー企業支援拠点となっていることを知りアップした。この支援組織は、ベンチャー企業の立ちあげ指導や、関連の市立工業研究所で製品化の技術指導、効果的な製造方法の技術指導、技術シーズの提供などもしていることが分かった。
 この公的ベンチャー企業支援拠点が、プロジェクト7の開発拠点の役割を担うことになった。
 野菜フード開発は、市立工業研究所の食品開発担当から情報と支援を受けることにした。風力発電機開発も、同様に機械工学研究室から情報と支援を受けることにした。健太は創業準備支援部門から、法人の設立や公的資金の借り入れ情報を集めた。
 こうしてメーリングリストに、プロジェクト推進の活動報告や情報が再三掲示され、それぞれ具体的な進捗をはじめた。彼らが一旦行動を始めてみると、意外にも弱者に対するさまざまな支援組織があることに気がついたのである。

 二ヵ月の間で、フード開発チームは、野菜倶楽部のレシピ開発のため、市立工業研究所の食品開発部門に通い、健康食品の商品開発、製造技術、生産管理技術及び品質管理についての情報収集を行った。
 風力発電機開発チームも、機械工学研究室から小型風力発電機の技術的な情報を集め報告をアップした。試行錯誤ながらも風力発電機の羽の長さと、発電能力の関係を調べてアップした。与謝野正樹は、独自に風洞の設計概念図や、風力発電機の概念設計を行った。
 さらに鈴木裕也の先輩で、小型風力発電機の設計をしている人物の報告をアップした。
 健太は、法人設立に関する情報収集と、日本政策金融公庫や、保証協会経由の公的融資を受けるための手続き方法と、必要な事業計画書の内容などを調査した。
 二ヵ月のあいだメーリングリストで、7人がさまざまな報告や情報交換を行った。




資本金

 法人設立と運営方法の検討のため、産業振興センターに小さな会議室を借りた。
 法人格がなければ、事業推進の対外的交渉や契約はむずかしい。このため重要議題は法人設立問題であった。

阿比留健太  「はや二ヶ月がたち、ちょこっと目鼻立ちの見えてきよったごと思いますたい。これから具体的活動にな、法人の設立が必要やろう。ウチは最低ばってん、1千万円んくらいは出資金の必要ちゃろうっち思いますたい」

中園勝  「1千万円くらは必要んそ。それでん、まだ足りんかも知れんな」

阿比留健太  「仮りに一人の100万円ば出せば、700万でくったい。それで法人ば設立し、そん後からさらに有志ば集め、1000万円位まで増やして行きたいっち思とりますたい」

鈴木裕也  「100万くらいなら、ワイはいつでも出資できるが、そがなもんで二つの事業をはじめるには、ちーと無理があるように思うがな」

阿比留健太  「もちろん1000万円くらいでは、ちいと足りんっち思とりますたい。そいで法人設立後に、公的資金ば借り入れしたらいいっち思とるたい。公的融資制度の創業資金として、自己資本ん三倍くらいは借り入れ可能たい」

市ノ瀬克也  「もし100万円の出資で可能なら、有りがたいじゃんね」

新居忠  「100万円の出資なら、ウチも賛成じゃな」

横溝淳二  「ワシも100万円なら出資でけるで」

与謝野正樹  「ワテても100万円なら出資するでぇ」

阿比留健太  「そしたら、まずは700万円ん株式会社ば設立登記したいっち思いますが、よかやね?」

鈴木裕也  「ワイの先輩で、ぐうぜん小型風力発電機を製造しちゃる会社に、勤めちゃる人がいるちゅうわけよ。この先輩技術者も仲間に入れたいと思うが、ええかぇ?」

市ノ瀬克也  「じつはー アタシも食品会社の後輩でさ、いつかは自然食品の店を持ちたいっつて、夢みている後輩がいるじゃんね。そいつも仲間に入れたいと思うずら」

与謝野正樹  「ワテらと同し志で参加してくれるんやったら、ええやがな」

新居忠  「いろいろ人材と金が必要じゃけんな。人も金もぎょうさんほどええね」

横溝淳二  「そしたら、9人で900万円やな。ハァ、あと一声で1000万円になるな」

阿比留健太  「それならウチも一人、参加させか男がいるとばい。後で話をしたいっち思うとったばってんが。話しば聞いて、ぜひ参加ばしたいっちゆう人のいますたい。国立高専ば出たちょこっと風変わりやけどな。こん男も仲間に入れたいっち思いますたい」

横溝淳二  「そーしたら、これでめざす資本金1000万円になるな。ところで法人をこしらえたら、代表者が必要じゃね。でーがふさわしいやろかな?」

中園勝  「やはい、こんプロジェクトのまとめ役の、阿比留さーじゃろう。実に要領ゆうまとめてきたからね」

与謝野正樹  「わても阿比留はんが、最適やって思ってますねん。阿比留はんやったら、きっと1000万を、3000万に増やしてくれそーな気ぃするな」

鈴木裕也  「ほーか。社長ちゅうのは、借金する能力が必要なんやな。それやー阿比留はんが最適やな」

 全員から笑いがおこり、阿比留健太は苦笑した。

阿比留健太  「公的資金ん開業資金にな、そん業界経験者の必要っちなるけんが。やけんフード事業っち先にしてから、法人ば設立したらよかろうばい。だけん代表者は、市ノ瀬さんになっちもらい、開業資金ん借り入ればしたいっち思いますたい。風力発電機ん事業は、特許申請も必要やけん、どげん急いでん半年以上ん開発期間の必要やろう?」

鈴木裕也  「そーうよ。風力発電機を開発するには、かぁりの時間が必要となるやろう。そやから、すぐに売上げにつながるモンを、ヒイキすべきやと思うで。ワイも風力発電機はよ、話が大きすぎて、ちっとかりかり焦ってあったとこやからな」




持ち株会社

 新たな3人を加えた十人で、十日ほどのちに同じ会議室に集まり、会社設立について改めて具体化を話し合うことになった。新たな三人のメンバーは、鈴木裕也の先輩の田中健介、市ノ瀬克也の食品商社の後輩の山田太一、阿比留健太の友人の勅使河原(てしがわら)努であった。以下は三人の略歴である。

 田中健介ー 和歌山有田出身の29歳。鈴木裕也の高校時代の先輩で、エンジニアである。 東京の工業大学を卒業し、発電機や電動機の三木製作所で小型の風力発電の開発設計を担当していた。ただ小型風力発電の認識がまだ低く、事業としては軌道に乗っていない。会社の主力部門からは、お荷物的な扱いを受けはじめ仕事で悩んでいた。
 そこへ後輩の鈴木裕也が、走行風を利用する車用の超小型風力発電機の開発話が持ち込まれ、紀州人のフロンティア精神を掻き立てられた。

 山田太一ー 東京浅草出身の27歳。実家は仲見世で雷オコシなどの土産菓子の小売店をしている。高校を卒業し業務用の食品商社に就職し管理部門を担当していた。のちに営業部門に配属され、大阪支店で市ノ瀬克也の部下となり営業を仕込まれた。
 市ノ瀬克也は、国産の自然素材の農産物や加工食品を、熱心に販売していた。ところが、会社が最大手の食品総合商社に吸収合併された。利益率の高い中国製品の販売強化方針につよく反発し、合併から半年で退職した。山田太一は残ったが、将来、市ノ瀬が何かを始めるときは、ぜひ協力したいと申し出ていた。

 勅使河原(てしがわら)努ー 京都出身の26歳。和歌山の高専で機械工学科を卒業している。
 卒業後に大手の精密工作機械メーカーに就職した。ところがマイペースでサーフィンに熱中し、やがて変わり者というレッテルを貼られた。何かと制約の多い勤務を嫌って退職し、それ以降は派遣社員として働き、金が貯まると海外へサーフィンに出かけている。健太とは一年ほど同じ職場で勤務し、変わり者といわれる勅使河原(てしがわら)努のよき理解者であった。

阿比留健太  「不思議なご縁で、こん有志の集まりで新しかビジネスば始めるこつになりワクワクしよる。夢ば託すにふさわしか、社名ば付けたいっち思っちいますたい。自由な発言ばお願いするけんね」

鈴木裕也  「じつはな、社名を決めるまえに、出資のことで話したいことがあるちゅうわけよ。ワイと先輩の田中はんと話し合った結果、風力発電機の事業は、やっぱり市ノ瀬はんのフード事業とは、まるで関連がないやろうわ。それに開発にも、多少の時間が必要となるやろ。その開発のあいだ、フード事業で食わしてもらうちゅうのんは、気ぃが進まんちゅわけよ」

 みな鈴木裕也に注目した。

鈴木裕也  「そやからー 田中はんとワイと二人で、親戚やらなんやらから一千万円くらい集めることが出来るちゅうわけよ。そやから別会社で進めたい。と思ってるのやが」

 予想外の発言に、健太はおどろいた。さらに意外な発言がつづく。

市ノ瀬克也  「じつはーアタシらもさ、いつかは独立しようと話しあってきたからさ。独立の勇気をくれた仲間と一緒にはじめるにゃ、死ぬ気でアタシが一千万、山田君が五百を出資しようと考えているじゃんね」

横溝淳二  「けーは、でーれーことになってきたな。せーぞれ一千万円やら一千五百万円やらの資金ができるなら、別々の会社を立ちあげた方が、えーかもしれんな。兄弟会社として、協力でけるところは協力をつづけていけば、えーじゃーねーか?」

 しばらく沈黙が続いた。が、意を決するように健太が発言した。

阿比留健太 「そん気持ちはー 理解しきるがの。それでん、やはっぱり、ひとつにまとまっち事業ばする方の、将来的にはふとか会社になれるっち思いますたい。ふたつに分けるよりよりも、一緒にやる方が総合力ば発揮出きるっち思いますたい。そいぞれのアイディアっちも、まるっきし違う立場から意見ば出しあった方の、より良かアイディアが生まれるっち思うとよ。そいの一緒にやる目的ばい」

勅使河原努  「途中参加の立場もって、意見をいわせてもらいますねんわ。ウチがぜひに、参加したいと思いましたんは、これまでの考えを打ち破った、さらの発想に驚きましたさかいどす。何もないところから事業を興すちゅう、その意気込みに感動したしなんえ。まるっきし異なる事業を、いっぺんに立ちあげるんは、世のなかの常道を逸(いつ)したはるさかいこそ、面白くさかしまに可能性が高いと思いますねんやけど」

新居忠  「ビジネスは、やはり革新性と専門性が必要やと思いるんよ。どんな分野でも、専門家がおるじゃろう。専門的知識がなくては、マトはずれなコトをするかも知れんじゃろう?やはり分野が違うビジネスは、別会社の方が良かじゃろうな」

中園勝  「ビジネスの本質といや、やはい資金力がいちばんやな。こん出資金の話を総合すりゃ、全部で三千百万円がでくう。こん資本をばひとつにまとめ、阿比留さんに3倍にしてもらえば一億円ちかくに化けっぞ」

田中健介  「やはりワイは、別会社がええと思うわ。食品と発電機では、まるで業界が違いすぎるやろ。必要な技術や情報は、まったく違うやろうわ。ワイは食品に関しては、何のアドバイスもでけんし、一緒にやるメリットが考えられんわ」

阿比留健太  「業界のまるっきし異なるけん、ウチも別会社っちゆう話は妥当性のあるっち思うとよ。そばってんが、ちがう業界の事業ばひとつ会社でやるメリットの太かっち思いますたい。総合商社はな、まるっきし異なる業界ば網羅しとるよね。分社せずひとつ会社の傘下で事業ばしとるんな、企業ん総合力ば発揮しきるからだっち思いますたい。資金力だけん、情報力だけん、開発力だけん、そん総合力ば発揮しよるちゃね」

 一気にしゃべり、ちょと間をおいて、全員の顔を見わたしてつづけた。

阿比留健太  「そいやったら、時代の変化でどれかの事業が衰退してからも、そん開発力や情報力で、つぎん事業ば育成する余裕ば持っちいますたい。だけんウチは、ふとか夢ば実現するにな、はじめから、ふとか風呂敷ば広げとった方の、おおきな成功につながるっち信じていますたい。こうしてご縁のあって十人有志の集まったんやけんね。一人では何も出きんっと。そいば打ち破るため知恵ば出しあい、やっと太か可能性ば見い出したとよ。ひとつん集団として、成功に持っち行きたいっちゆうんがつよか願いなんよ」

 健太の迫力に一瞬静まりかえった。

中園勝  「そうやー。お互いの意見を、まとめる良か方法があっぞ。持株会社ちゅうのがあっやろう。何とかホールディングスちゅう会社があっやろう。あれや。
 みなん資金で持株会社を設立し、そん持株会社の下に二つの会社を作っのや。持株会社がでくれば、ひとつの集団でがっつい違った二つの事業がでくっ。そいどん、持株会社の意向を、傘下の会社に反映すっこつがでくっど 。そいに新しかビジネスモデルがまた見つかれば、ほいと、また子会社を作りゃ、色んな事業をはじめるこつも夢じゃなか」

阿比留健太  「そうや、持株会社っちゆう方法があったんよな。そいの良かろうばい」

与謝野正樹  「その持株会社ちゅうのんが宜しいな。ワテもその意見に賛成やな。二つの会社が別々に成長するよりも、なんか無限の可能性があるやんと、思えまんな。ワテもザビエル公園でぇの討論のときに、ネットの情報共有化ちゅうテーマを出したやろう。これで何ってか、二つの事業を結びつけるこってが、でけへんかって考えってるのや。その可能性に希望が出てくるやんか」

新居忠  「ウチは、まだ持株会社の役割が、もうひとつ分からんのじゃが」

中園勝  「持株会社っちは、そん会社自体はな事業活動をせじ、子会社の株式を所有すっこつで、そん管理のもとで子会社を運営すっこつぉ目的としじぁ」

横溝淳二  「せーじゃ、直接運営した方が早よーねーのか?何のためにそねーな回りくどいコトをするのかいのう」

阿比留健太  「そこがいっちゃんポイントばい。持株会社ん傘下企業な、基本的にはそん責任んもとで、自由に意志決定の出来るんやけどな。共通ん理念やら、企業イメージんもとで、総合力ば発揮する目的だっち思いますたい。そん総合力で資金ば調達し、会社ん体質ば強化したり、新しか事業に投資ばして、グループの総合力ばさらに高めるっちゆうコトの出来るとよ。個別ん企業になか、大きな力ば発揮できるはずたい」

市ノ瀬克也  「なるほど。つまりはさ、この仲間はみな持株会社の出資者というコトになるだね。その持株会社が出資して、風力発電機の会社やフード会社をつくり、それぞれがその運営に責任をもつという事じゃんね?」

中園勝  「そん通いす。みなひとつの会社としてまとまっち、それぞれん専門分野でビジネスモデルを成功に導くというコツやな」

田中健介  「ようやれ、阿比留はんのいうコトが、理解できたちゅわけよ。それなら大いに賛成やがな」

新居忠  「そうゆう意味があったんか。それじゃ何ちゃ反対の理由はないけんね」

勅使河原努 「よかったどす。それぞれ持ち味を生かして会社をつくりもって、おんなしグループとしてまとまって、助けあえるちゅうのは、理想的な仕組みやと思いまんねんわ」

横溝淳二  「じゃけどな、持株会社を設立し、すぐに二つの子会社をこしらえても、ちゃんと融資が受けられるのかの。ちっとばかし、しんぺーじゃけれどな」

中園勝  「そいは、やはり阿比留さんの、交渉力やろと思うとっぞ」

阿比留健太  「いやー、これは交渉力やないばい。だれの見ても、将来性んあるビジネスモデルさえ出来れば、どっかで融資の受けられるっち思っとるたい」

鈴木裕也  「やっぱ持株会社の代表は、阿比留はんやな。資金調達をたのみまっせ」

 全員が大きな笑い声を上げた。
 人間の気質や能力の一部は、その生まれ育った風土や、経済環境によってかなりの影響を受けている。この十人のそれぞれの風土のなかでつちかわれた伝統産業や、地域で成立したビジネスモデルの歴史にしばらく視点を移したい。
 人間の知恵や合理的な判断能力は、経済活動によって目覚めたといえる。経済行為には、モノを客観的に比較観察する合理的な判断が必要だからである。



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対馬と朝鮮交易

 阿比留健太の出身地は、九州の離島、対馬(つしま)である。
 対馬はその地勢的な位置から、朝鮮半島と日本の政権とのはざまで、翻弄されつづける運命を背負いつづけた。大化改新で律令制度の「対馬国」となり、厳原(いづはら)に国府が置かれ大宰府(だざいふ)の管轄下に入った。この時から国境の島となり、この故に何度も大陸から侵略や略奪にあっている。対馬が倭寇(わこう)の根拠地とされたから、その報復であった。
 九世紀に対馬国の在庁官人(ざいちようかんじん)になったのが阿比留氏で、四世紀もの期間対馬を支配した。事実上の国主として勢力をえたのは、朝鮮半島との交易で財をえたからである。
 ところが、正式には国交がなかった高麗と交易していることを、大宰府政庁がとがめた。が、やめることは事実上不可能な要求であった。これを口実に太宰府政庁から反乱者とされ、太宰府の在庁官人の宗(そう)重尚により征討された。こうして阿比留氏は、400年ちかい対馬国の支配階層からは没落した。しかし宗氏も、同様に朝鮮半島との交易で栄え武士化してゆく。対馬の経済の歴史は、対朝鮮交易を抜きにしては考えられない。
 のち秀吉の九州平定のとき、宗氏は豊臣政権への臣従を決め本領を安堵(あんど)された。
 見返りに秀吉から、朝鮮王(李王朝)にたいして、ー日本に臣従せよ。と交渉させられたのである。朝鮮王は承知するはずもなく、やがて秀吉は朝鮮に出兵し文禄慶長の役となった。秀吉が死去し朝鮮との戦役が幕を閉じた。

 つづく関ヶ原の戦で、宗義智はやむなく西軍に加わったが、西軍が敗北した。
 が徳川家康からも許され、引きつづき朝鮮との交渉を命じられた。度重なる戦乱で荒れ果てた対馬では、朝鮮との早い修好と交易が最大の課題であった。このため宗義智は幕府から朝鮮国王への国書を一部改作し、さらに朝鮮の使節団が対馬経由で江戸に入ったときも、朝鮮国王の国書を改作するという冒険を犯している。国書の改作は結果としては、双方の面子が保たれ、慶長条約が結ばれて朝鮮との修交が成立したのである。
 その後の鎖国体制のなかで、日朝外交の仲介者としての役割をはたしつづけた。
 国境に位置する島で、独立した地位と財政をたもつには、二つの国に両属するような、したたかな政治感覚が必要であった。対馬の人々は、つねに大陸の動向と国内の政治権力を見定め、そのはざまで、したたかな交渉力とバランス感覚を自然と身につけて生きてきたのである。対馬出身の阿比留健太も、そのしたたかな交渉力や、バランス感覚を遺伝として持っていたかも知れない。
 明治維新後も、国境に位置する対馬は、国防や交易の最前線として重視された。
 列強の対馬接近に脅威を感じた明治政府は、国境最前線である対馬の要塞化をはかった。日露戦争のときは、海軍基地のひとつとして機能し、大正時代には、陸軍の対馬要塞司令部が設置され対馬全島が要塞化された。

 軍事要塞であったため、長いあいだ開発が抑制された。ようやく昭和の戦後になって、「本土より数十年も遅れている」と指摘をうけ、昭和28年(1953年)に、「離島振興法」が時限立法として成立した。
 対馬には水産業以外に産業というものがなく、若者は福岡や大阪へ出るのが一般的であった。健太も同様に福岡で大学を卒業したが、つよい上昇志向から大企業だけに的を絞って、結果は就職に失敗した。就職浪人として派遣社員に登録し、大阪の会社へ派遣された。いらい運がなく正社員としての経験が無い。
 父親は、厳原(いづはら)の役所に勤める実直な役人であった。
 遠い祖先は阿比留氏一族の卜部氏(うらべし)であったという家系伝承が残されている。その証拠に阿比留家には神代文字(じんだいもじ)の一種である「阿比留文字」の掛け軸が伝承されている。神代文字は、漢字が伝来する以前の古代日本で、使用された日本固有の文字のことである。
 ところで対馬と韓国の釜山は最短で約50㎞であり、高速船で1時間と隣町のように近い。
 このため近年は、韓国から対馬への観光客が急増している。市が韓国人観光客の誘致に熱心であり、釜山ー厳原間に国際航路が就航してから、対馬の人口を上回る4万人近い韓国人観光客が一年間に訪れている。このため、韓国人資本のホテルやレストラン、土産物店などの進出が相次いでいる。繁華街ではハングルの文字が目だち、本場の朝鮮料理の店が並び、韓国語が飛び交うのも珍しくない状況が出現している。
 一方で、対馬では仕事が少なく、若者は福岡や大阪などへ出て行き、人口減少と高齢化が進んでいる。このような事情から、韓国人観光客を誘致せざるをえない経済的な基盤の弱さがある。
 健太は派遣社員を余儀なくされてきたが、何か現状を打ち破る現実的な手段を探し求めていた。





山梨の農業

 市ノ瀬克也は、山梨の市川大門の出身である。
 古来、稲作中心の農業国家であった日本では、甲斐国は不利な条件の風土であった。
 武田信玄時代は、産業の振興や河川域の新田開発、果樹の植樹、和紙・養蚕(ようさん)と絹織物などの産業を育成している。その資金源は、「甲州金(きん)」であった。
 甲斐には、黒川金山(きんざん)などで豊富な埋蔵量があり、信玄の時代には莫大な量の金を産出した。この甲州金(きん)で、戦国時代最強の武田騎馬軍団をつくり、領土を拡げたのである。
 「甲州金(きん)」は信玄の時代に、計数貨幣として整備され、金1両は金4匁(もんめ)(=15グラム)と定められ、「四進法」が用いられた。これを基に1両の4分の1が1分、1分の4分の1が1朱と定められた。その下に「二進法」の方形金貨がある。1朱の2分の1が朱中(しゆなか)、朱中の2分の1が糸目(いとめ)、糸目の2分の1が小糸目と、七段階に体系化されていた。

 武田信玄が定めた貨幣制度の四進法は、江戸幕府の貨幣制度に採用されている。
 武田信玄は経世にあかるく、さまざまな特産物を奨励し、領地の石高不足を補うべく、
新田開発とともに、養蚕(ようさん)を奨励して絹織物を育成し、市川大門の和紙を武田家の公用紙に指定した。その大(おおなお)直紙(し)(楮の紙)や絹織物を、宮廷や室町幕府に献上し好評をえている。和紙は特に宮廷貴族から「肌吉(はだよし)紙」という名を付けられるほど品質の良い紙であった。稲作に適しない山間部には、それに適した果樹栽培を奨励した。
 現在の山梨では、生産性の高い先進的な農業が展開され、10アール当たりの生産農業所得では、全国でも常に上位をしめている。平成17年では、15万円で全国第1位となっている。ただ低価格な輸入農産物が増加し、さらに産地間競争もあり、農協を経由しない産地直送がふえている。それでも食品全体の流通は、まだ旧態依然とした複雑な体系にある。
 農家はさまざまな規制や補助金にしばられ、農協との関係もあり閉塞感をいだいている。また後継者が年々すくなくなり、65歳以上の農業就業者の割合が60%となり、高齢化が進んでいる。こうした農業就業者の減少と、高齢化の進行にともない、農地の減少や耕作放棄地の増加など、生産基盤の脆弱化(ぜいじやくか)が進行している。

 市ノ瀬克也は、農協幹部であった父親のすすめで、信州大学農学部で食料生産学科の農学コースを専攻した。が旧態依然とした農協組織に疑問を感じ、あえて父親とは違う道を選び、反対を押し切り食品商社に就職した。ところが、コンビニや外食産業の拡大で食品商社は大規模化し、輸入加工食品の拡大と消費で、日本の食文化が大きく偏ることに関わることになった。
 市ノ瀬克也と山田太一は、ともに業務用食品商社に就職し、大阪営業所に転勤となってから同僚となった。その業務用食品商社が、総合食品商社に吸収合併され、利益率の高い輸入食品、とくに中国産の加工食品の担当を命じられた。
 市ノ瀬克也は、もともと食品に対する信念から、安全安心な自然食品を推奨販売してきた。このため支店長と衝突し、合併されてから半年ほどで退職した。
 父親の反対を押しきって、食品商社に勤めた経緯があり、実家にもどるには抵抗があった。しばくの間というつもりで、そのまま大阪で派遣社員として働いていた。
 しかし市ノ瀬と山田太一は、いずれは経験と知識をいかし、自然食品の店を持ちたい、という抱負を語りあってきた。図らずも、なり行きでビジネスプランのプロジェクトに参加し、ベンチャー企業を立ち上げようという熱気に煽(あお)られた。それだけに「野菜倶楽部」という、新しいコンセプトのフード事業構想に、あつい思いを抱いている。

 市ノ瀬克也は意を決して山梨の実家にもどり、農協をすでに定年退職していた父親に相談し、500万円の借り入れを申しこんだ。ところが父親は「野菜倶楽部」の構想をきいて、予期せず倍の1000万を、退職金から生前贈与する、と言いだしたのである。
 父親としては、克也の将来に対して思い切った決断を下したのである。
 こうした経緯で、単独で自然野菜をテーマとした、ファーストフードスタイルの店を構える腹づもりを固めていた。が、阿比留健太の説得で持株会社に投資し、その子会社としてフード事業を推進することになった。革新的な店をつくるには、食品業界を知らないメンバーのアイディアが、逆に必要とも考えはじめていた。むしろ素人だかららこそ、革新性が生まれるような気がしたのである。





仲見世の煎餅

 山田太一の実家は 浅草寺(せんそうじ)の仲見世(なかみせ)で、雷オコシ・煎餅など土産物菓子の老舗である。創業は江戸時代末期の万延元年(まんえんがんねん)(1860年)と称している。せんべい・あられ・おかき・雷おこしのほか昔なつかしいお菓子を販売している。
 雷オコシの由来は、「雷門」と「家を起こす」「名を起こす」を、かけたものとされている。江戸時代後期に、浅草寺雷門近くの露天商が、縁起物として売りはじめたのが発祥といわれている。浅草寺参詣(さんけい)の土産物として人気を博し、やがて江戸の名物として名高くなった。
 江戸最古の寺院である浅草寺は、鎌倉時代に源頼朝の保護をうけ、さらに徳川家康が、浅草寺を幕府の祈願所とさだめた。このため堂塔伽藍がさらに整備され、江戸仏教文化の中心として、大いに繁栄した。
 仲見世は浅草寺の参道であり、日本でもっとも古い門前町の商店街のひとつとされている。江戸時代に、浅草寺境内の掃除の賦役(ふえき)(夫役)を課せられた人々に、境内や参道に、出店営業の特権があたえられた事にはじまるとされ、元禄、享保(きようほう)(1688- 1735年)の頃といわれている。しだいに店がふえ、日本一といわれる門前町へ発展してきた。
 明治維新によって、浅草寺の境内は東京府の管轄となり、明治18年仲見世全店の取壊しが行われ、洋風レンガ造りの新店舗に建てかえられた。こうして東京府によって、近代的な仲見世が誕生したのである。この赤レンガの仲見世は、大正12年の関東大震災で壊滅し、2年後に現在の鉄筋コンクリートづくりの、桃山風朱塗りの堂々たる商店街に生まれかわった。ところがまた昭和20年の東京大空襲で、建物内部は全部焼失しまっている。由緒ある商店街ながら、何度もの災難を体験している。
 仲見世の権利も、災難にあうたびに転売されており、山田家の仲見世の営業権は、戦後の混乱期に手にいれたらしい。それ以前は、草加で煎餅を焼いていたという。
 権利をゆずり渡した店は、関東大震災のとき手にいれたらしい。ともかく最初の店の創業は万延(まんえん)元年と称していたから、その創業年代をも代々引きついでいる。
 山田家では戦後のしばらくは、手焼きせんべいや雷おこしを製造していたらしいが、現在は仕入販売である。 
 仲見世で焼かれている手焼き煎餅は、草加煎餅にルーツがある。草加煎餅は、雷オコシと同様に、蒸した米を原料としている。中国渡来の煎餅は、原料が小麦粉であり、同じ煎餅でもルーツが異なる。
 草加宿(しゆく)一帯の農家では、蒸した米をつぶして丸め、干した堅餅(かたもち)に塩をまぶして焼き、間食として食べていたらしい。草加宿が日光街道の宿場町として発展したことにともない、この塩味の煎餅が旅人に売出され、好評で広まったという。そのあと野田醤油をつけて焼くようになり、現在の草加煎餅の原型となった。
 手焼き煎餅の歴史はじつに古く、飛鳥時代に煎餅の製法がつたわったとされている。
「煎餅」の最初の記録は、『正倉院文書(もんじよ)』の737年の文書にある。これによると、水で小麦粉を練り、油で煎ったもので、今日のうるち米や、もち米などで作られる煎餅とは違うものであった。また空海が809年に、唐の長安で亀の子型の煎餅の製法を学び、京の小倉(おぐら)の里の和三郎という御所御用達の菓子職人にその製法をつたえたという。
 これが、京都の亀の子煎餅の発祥らしい。このとき持ち帰った小豆(あずき)の種子を、和三郎がゆずり受け栽培し、翌年採取した小豆(あずき)に、御所から下賜された砂糖を加えて煮つめ、小豆の餡(あん)を作ったらしい。これが、「小倉(おぐら)あん」のはじまりとされている。
 やがて京では、煎餅よりも、饅頭に小倉あんを入れたものが宮廷で好まれ、饅頭は京でもてはやされた。これが今日の京菓子のルーツとされている。

 山田太一は、浅草仲見世のいわば駄菓子屋のような、観光客相手の商売に魅力を感じず、食品商社に就職した。市ノ瀬克也と大阪支店で同僚となり、彼の自然食品に対する思い入れの影響で、いずれは自然食品の店をはじめたいと考えていた。このため市ノ瀬克也からプロジェクトの誘いをうけ、喜んで参加を表明した。こうして山田太一も浅草の実家にもどり、父親に懇願して独立資金として500万円の借り入れに成功している。




  
有田みかん

 田中健介の実家は、小規模な有田(ありだ)みかん農家である。
 日本屈指のミカン生産地の有田では、古くからミカン栽培がさかんで、その発祥は十六世紀に肥後の小蜜柑(こみかん)を導入したのが最初とされている。
 紀州有田地方は山が多く水田が少ない。殖産振興の必要から、紀州藩は肥後の八代(やつしろ)から、山地に育つという小蜜柑(高田(こうだ)ミカン)の苗をとりよせた。
 八代は古くから大陸と交易があり、中国浙江省から小蜜柑がつたわり高田(こうだ)ミカンとして栽培されていた。この小蜜柑の苗が紀州につたえられ、庄屋の伊藤孫右衛門が、橘(たちばな)に接(つ)ぎ木を試み成功した。孫右衛門はさらに改良を重ね、紀州小ミカンをつくりあげた。これが紀州藩によって徳川家康に献上され、全国に広まった。

 紀州は古来から黒潮を幹線海道として利用し、造船技術と操船技術にたけていた。古くは熊野水軍が紀伊半島南部を拠点として活躍し、瀬戸内海まで制していた。また進取の気性でもしられ、モノに工夫を凝らし進化させることが得意であった。
 種子島に鉄砲が伝来すると、根来衆(ねごろしゆう)の首領であった津田監物(けんもつ)は、直ちに種子島にゆき、種子島藩主から高額で鉄砲を一丁購入している。これを根来の鍛冶職人、芝辻清右衛門(しばつじせいえもん)に命じてつくらせ実用化に成功した。僧兵でしられる根来衆や雑賀衆(さいかしゆう)は、この鉄砲を自在に駆使し、戦国時代の一時期、その勢力を保った。信長が本格的に鉄砲を採用する、30年も前の時代である。
 さてミカンの有名な話である。紀伊國屋文左衛門が二十代のある年、ミカンを江戸に運ぶに、嵐で遠州灘が荒れて運ぶ者がいなかった。江戸ではミカンが高騰し、紀州で暴落していた。そこで文左衛門は、大金を借りてミカンを買いあつめ、「紀州人の船乗り魂」をよびさまさせ、命がけで暴風雨の遠州灘(えんしゆうなだ)をのりきり、ひと航海で大金を手にした。
 その後も江戸城も焼けた明暦(めいれき)の大火の時、木曾谷の檜を買占め、一気に百万両を手にしたという。これも水運にたけた紀州人の、フロンティア気質を表すエピソードである。
 現在では有田みかんのうち、有田市新堂地区で生産されたものを「新堂みかん」、湯浅町田村地区で生産されたものを「田村みかん」と呼び、ミカンのトップブランドのひとつとなっている。コクと甘味が重なりあった極上のミカンは、大半は高級料亭や百貨店や高級フルーツ専門店に売られている。
 ただ、ミカン農家は年中いそがしい。土壌改良剤の投与、春の施肥、不要な枝の剪定(せんてい)、不要なつぼみの剪定、除草作業、病害虫の除去とつづく。夏には、多すぎる実の剪定、透水シートを敷く作業、何度もの除草作業、果実の間引きと作業が間断なくつづく。 この透湿性の白いシートが、重要な役割を持っている。雨水の余分な浸入を防ぐことで糖濃度が高まり、極上の濃い味わいが生まれる。
 家族総出の作業が多く、次男であった田中健介も、子供の頃から手伝いをさせられた。こうした手間ひまかけることで、極上の新堂みかんや田村みかんが育つのである。
 山の斜面を利用した段々畑の果樹栽培であり、機械化による効率化はむずかしい。
 田中健介は、こうしたリスクが高く効率の悪い果樹栽培を嫌い大学へ進学した。
 子供のころから機械がすきで、工業高校から東京の工業大学の機械工学科へ進学した。卒業すると、大阪の小型発電機や電動機の製作会社に就職した。
 卒業のころ、風力発電機が大きな注目をうけていて、「小型風力発電機の開発研究主任」募集とあった。クリーンエネルギーは、これから大きく成長するはずと見当をつけ、あえて中堅の電動機会社を選んだのである。中堅企業に就職したのは、やはり紀州人のフロンティア精神の血が騒いだのかもしれない。
 ところが、いざ小型風力発電機の開発をしてみると、世間では注目されているはずの風力発電への認識が低く、軌道にのるには至らなかった。やがて他の部門からは、社長の道楽と陰口をたたかれ、しだいに開発予算がしぼられていった。
 そのような悶々とした立場にいたとき、後輩の鈴木裕也が、走行風を利用する超小型の風力発電機のアイディアを、持ち込んできた。専門家としてプロジェクト参加を要請され、またそのフロンティア精神を刺激され、参加を表明した。
 




湯浅醤油

 鈴木裕也は同じ有田(ありだ)でも湯浅地区の出身である。実家は元醤油醸造業であった。
 紀州湯浅は醤油発祥の地として有名で、その起源は興国寺の法燈(ほうとう)円明(えんめい)國師が、南宋の金山寺からもち帰った嘗(なめ)味噌(金山寺味噌)の醸造をはじめたのが発祥とされている。
 金山寺味噌は、大豆、小麦、米に菌をつけ麹(こうじ)をつくる。その麹に塩、ウリ、ナス、キュウリ、シソ、ショウガをもちい、発酵させる保存食である。興国寺で保存食として盛んに醸造し、やがて湯浅周辺にもその製法がつたわっていった。
 金山寺味噌を醸造するとき、野菜から余分な水分が樽にたまってくる。
 この樽底のタマリで、野菜や魚を煮てみると旨くなる。しだいにタマリを調味料として使うようになった。これが湯浅のタマリ醤油の起源で、さらに工夫を重ね新しい醤(ひしお)(発酵調味料)を創り出した。これが醤油の起源とされ、湯浅醤油がまた日本の醤油の起源とされている。
 やがて醤油が普及していくと、紀州藩では藩の専売制度をもうけた。藩が公用金を無利子で貸つけ、商人や豪農に請け負わせ利益を独占するものであった。藩は一切は委託するが、価格は藩が決定権をもっている。一方、醤油醸造では、製品になるまでに1年半から2年を必要とするから、資金を寝かせる期間がながい。専売品の卸(おろし)仕入醤油に指定されれば、公金で経営が出来るため醤油醸造所があいついで設けられた。
 湯浅醤油醸造業で規模が大きかったのは、浜口儀兵衛家である。
 天文4年(1535年)に紀州藩専売品の御仕入醤油として保護をうけ、積極的に他国へ販路を広げしだいに規模を拡大し豪商に成長した。

 醤油の全国的な浸透は、大消費地の江戸で普及してからである。
 浜口儀兵衛家は、元禄年間に関東の下総(しもうさ)外川(銚子市)に進出し醸造をはじめている。これが現在のヤマサ醤油の本社である。これにつれて多くの湯浅醤油醸造家も関東に進出した。これが野田醤油の起源でもある。それまでは江戸・大坂間を定期に航海した菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽回船によって、大量に運びこまれていた。
 前後するが、浜口梧陵(ごりよう)(七代目浜口儀兵衛)は、醤油醸造家としてよりも、むしろ「稲むらの火」としてよく知られている。「稲むらの火」の説話は、庄屋五兵衛の機転と犠牲的精神で、村人たちが地震の津波から守られた。という事実に基づく説話で、かつて小学校の国定教科書に掲載されていた。庄屋五兵衛とされているのが浜口梧陵である。
「安政南海大地震」のとき、紀州国広村を大津波が襲った。
 このとき浜口梧陵は、自身の田にあった稲ワラに火を付け、高台にある広八幡神社への避難路を示す明かりとして村人を誘導し、村人の9割以上を救ったという事実である。
 ただ、火をつけたのは稲ワラであり、刈りとったばかりの「稲むら」ではなかったが、あえて誤解のままに記されている。この教科書の説話には底本がある。
 小泉八雲(ラフカディオハーン)が、英文で書いた『 A Living God 』 が底本である。この中で、(日本では並はずれた偉業を行った人を、「生き神様」として慕われている)と引用したのが、浜口梧陵の物語である。ただ、小泉八雲の誤解もあるが、その誤解を承知のうで機転と犠牲的精神を強調する美談として、教科書に採用されている。

 ところが浜口梧陵の偉業は、むしろその後の、防災のために巨額な私財を投じ、当時の最大級の防潮堤、広村堤防を約4年もかけて築造しことにある。
 この大土木工事の目先の目的は、津波で財産を失った被災者に仕事を与え、地元の再建と復興の機会を与えることであった。広村の復興と防災に投じた4千665両という莫大な費用は、すべて浜村梧陵が私財を投じた。この「生き神様」として紹介された浜口梧陵は、代々つづく湯浅醤油の醸造元であり、これほどに当時の湯浅醤油は大きな産業であったのである。
 とこが明治維新で藩の専売制度が廃止され、さらに近代醸造法が確立された。
 古式の醸造では、近代醸造法の醤油に太刀打ちできず、年々廃業が続出している。鈴木裕也の実家も、祖父の代までは醤油醸造業であったが、父の代で廃業している。今は醤油や味噌を中心とした、食品小売店として細々とつづいている。
 鈴木裕也は、没落した実家の家計を助けるため、工業高校を卒業するとすぐに工作機械メーカーに就職した。鈴木裕也にも紀州人の血が流れており、モノに工夫をこらし進化させることに興味がつよかった。田中健介と鈴木裕也は、ともに紀州人としての進取の気性を持っている。この二人が、車用の超小型風力発電機の開発をともに担当することになったのは、まさに奇貨(きか)というべきかも知れない。





西陣織

 勅使河原(てしがわら)努(つとむ)は、京都で350年もつづいた職人家系の末裔である。
 上賀茂にある生家は、代々西陣爪掻(つまかき)本綴織(ほんつづらおり)の職人であったが、父の錦次郎の代で終わった。長男に伝統的な手仕事を嗣(つ)ぐことをすすめず、中学の時に他界したからである。
 爪掻(つまかき)本綴織(ほんつづらおり)というのは、昔ながらの手間のかかる根気仕事であり、繊細さと高度に熟練した技が必要な職人仕事である。指の爪先(つまさき)で糸を一本ずつ掻(か)きよせ、文様(もんよう)を織りこむ技法である。しかも文様を織るのに型紙などはなく、下絵をみながら職人の感性と創造力と、高度な技術で織り描いてゆく。決して同じものはできず、文様によっては、一日にわずか1㎝しか織り進めないものも少なくない。出来あがった織物は、商品というより貴重な織物芸術作品でもある。きわめて生産数も少なく、かつては雅(みやび)やかな王朝貴族の衣装を織り上げてきた。いまでは希少価値の高い、最高級の西陣織である。
 父の錦次郎はこのような伝統技(わざ)を守りつづけるのは、もう時代に合わなくなっている。と判断したのかもしれない。

 西陣織の特色の一つは、先染(さきぞめ)の糸をつかい、複雑な模様を織りだす織物である。完成するまでには20もの工程を必要とし、古くから分業化された専門職人の家内工業の集合体として、連綿とつづけられてきた。ところが明治期になって、西陣織物組合ではフランスへ製織職人を留学させ、日本で最初にジャガード織物の技術を取りいれ、近代化に成功している。
ジャガードとは、パンチカードを利用する自動織機のことである。
 模様に対応したパンチカードで、織機を制御しカードのパターン通りの模様を織る方式である。もっとも伝統の長い西陣織りに、世界最先端のジャガード織の技術が、最初に取りいれられている。ただ 綴機(つづればた)のみが、古来の織り方のままで今日までその技が伝承されている。それだけ複雑で、自動織機では織ることが出来ないのである。

 伝統を重んじつつ、一方ではハイテク技術を採用する。というのが京都の気風なのであろう。京都は伝統文化や伝統工芸品で名高いが、一方で日本の最先端技術を誇る企業が多い。京セラ、任天堂、オムロン、ローム、村田製作所、堀場製作所、日本電産などハイテク企業が、京都には集中している。いわば伝統的手工業と、裏腹のハイテク産業の工業地帯でもある。
 京都人は元来、伝統的に自己主張や自己顕示欲がつよい。
 学術研究や企業活動でも、いわば異端の立場をとり、「人のやらない新しい分野」をつねにめざしている。そうした模索のなかで、独自の技術を開発しベンチャー企業が誕生している。このため京都のハイテク産業の特色は、それぞれの企業が、ほかでは真似のできない、独自の分野を持っている。
 ところで西陣とい正式の地名はない。由来は応仁の乱の時、この地域に西軍の陣屋があったことから、この地で産する織物もしだいに「西陣織」と呼ばれるようになった。 
 爪掻(つまかき)本綴織(ほんつづらおり)の職人であった勅使河原錦次郎は、西陣織の盛衰の流れを身をもって体験している。だから350年もの伝統の技を守りつづけた勅使河原家の軛(くびき)から、息子を解放させたいとも思ったのであろう。父が死んでからは、西陣織の糸染工程にたずさわる母親に育てられた。勅使河原努は、はやく母親を楽にさせたいと学校推薦入試を受け国立の高専に入学した。修業年限5年ながら、高校段階から大学工学部レベルの教育を施している。工学・技術系の実践的技術者養成を目的とした教育機関で、一般の大学や高校と異なり、就職率はほぼ100%となっている。
 努も、卒業すると大手の精密工作機械メーカーに就職した。しかし高専時代にサーフィンを体験し、就職後もサーフィン熱はおさまらず、ますますのめり込むようになっていった。 長い伝統のある家業の軛(くびき)からの開放感からである。さらに在学中に母の死を迎えて、その歯止めが利かなくなった。結果として仕事よりもサーフィンをとって退職した。
 フリーターと、サーフィンという自由な暮らしの中で、偶然向上心のつよい阿比留健太と出あい大きな刺激を受けていた。しかし京都人特有の気質を遺伝として受けついでおり、ありきたりの会社に正社員として勤める気がなかった。
 何かまったく新しい分野での活躍を夢見ていたのである。その機会を、健太のプロジェクトに見いだそうと決心した。





鹿児島の樟脳

 中園勝の実家は、鹿児島市内の天文館(てんもんかん)商店街で郷土物産の土産店をいとなんでいる。
 中園家はその遠い先祖が、慶尚北道(けいしようほくどう)青松(せいしよう)を本貫(ほんかん)(祖先発祥の地)とする李氏である。鹿児島でおよそ400年も李氏を名のってきた。明治8年の「平民苗字必称義務令」により、中園姓を名のるようになった。
 家系伝承では、鹿児島に渡来してから代々樟脳(しようのう)の製造にたずさわってきたという。
 樟脳は、クスノキのチップを水蒸気蒸留すると結晶として得ることができる。水蒸気蒸留法の甕(かめ)や蒸留容器と管(くだ)は、すべて陶器で作られていた。この高度な樟脳製造や陶器技術は、いずれも渡来韓人がもたらしたもので、当時の薩摩には高度な焼物の技術がなかった。
 薩摩藩では樟脳を藩の専売品とし、主要な財源獲得の一翼をになっていた。
 このため樟脳生産家は、陶器技術者とともに士分格を与えられ、さまざまな藩の保護をうけてきた。
 樟脳は、鎮痛・消炎作用などがあり、主に外用医薬品として使用された。また衣類の防虫剤、防腐剤、花火の添加剤、無煙火薬の原料や、セルロイドにも使用された。
 かつては日本の樟脳は、世界市場で引っ張りだこであった。ただ天然の樟脳は、資源に限りがある。一方で樟脳にかわる化学品がうまれ、中園勝は祖々父が樟脳の製造を行っていた、という話を聞かされているだけである。
 中園家は遠い先祖が渡来した李氏ながら、薩摩藩士に取りたてられた名誉ある家系として、大きな誇りをもって育てられた。ところが長じてから、遠い先祖が朝鮮から拉致(らち)同様に連れてこられた韓人の子孫であることを知った。

 晩年の秀吉は「明国を攻める」という妄想を思いつき、無謀にも朝鮮に出兵し、文禄・慶長の役となった。当時の高麗王朝は高度な文明をもち、とくに製陶、樟脳製造、土木測量などで技能者が多かった。しかし農民や技能者は最下級庶民としてあつかわれ、半島南部では困窮した生活をしいられていた。半島南部はかつての百済(くだら)国や新羅(しらぎ)国の地であり、半島を統一した高麗王朝は征服王朝であった。
 こうした背景から、全羅北道(ぜんらほくどう)南原(ナモン)城の戦いでは、地元の身分低からぬ朱(しゆ)嘉全(かぜん)が裏切り、島津軍の道案内をし城内の守備状況をことごとく教えたという。こうして南原(ナモン)城を占領した島津義弘は、下命して工人(こうじん)(職人)を捕らえ保護させた。目的は、陶工を確保することであった。当時は茶の湯がさかんであり、茶器はとくに高麗モノが珍重されていたからである。当時の薩摩には陶器や磁器の技術はなく、玉(ぎよく)に似た慮質(りよしつ)をもつ製陶技術を手に入れたかったのである。これは九州諸藩でも同じで、有田焼や伊万里焼などは、いずれも朝鮮陶工によってつくられた。
 この大義名分のない戦いは、秀吉の急死によって事態は一変する。明の水軍をひきいる李舜臣(いしゆんしん)は秀吉の死を知り、和議を成功させ撤退する日本の船団に、総攻撃をかけてきた。 海戦に不慣れな島津の撤退軍は、わずか50艘をもって難をのがれるという有様であった。ともかく朱(しゆ)嘉全(かぜん)とその配下の韓人は、対馬・博多経由で、薩摩に連行されている。
 しかし多くの工人たちは、混乱の中で「手に技あるものは厚く保護する。のちに薩摩に来よ」と伝えたはずである。こうして島津軍撤退のちに、いくつかのルートをへて鹿児島城下へたどりついた韓人たちがいる。薩摩藩は技術者達を手あつく遇した。一方で、その姓を変えることを禁じ、また言葉や習俗も朝鮮のそれを維持するよう命じている。
 事情は不明ながら、これより2年もおくれて串木野浜に漂着した男女43人の韓人たちがいた。彼らは、人の住まない荒地であった苗代川(なわしろがわ)に移り住み、本能的に焼き物をはじめ、農民に提供し、農家の手間仕事をたよりこの地に住みついた。苗代川(なわしろがわ)に住みついた韓人の現状を、数年もたって把握した島津当主は、彼らに士分格を与え門構えの屋敷をつくることを許し、焼き物を献上するように命じた。とくに朴平意(ぼくへいい)を庄屋に取り立てている。
 この地の整備が済むと、やがて藩内の各地に居住していたほかの韓人たちも、徐々にこの地への集住が命じられた。陶工たちは、やがて美しい「薩摩焼」を造り出し、とくに朴平意は、薩摩で初めて白陶土を発見し、高級陶器「白もん」が作られるようになった。
 こうして薩摩焼は、薩摩藩の重要な産業として育成され、専売品として藩財政の一翼を担った。この朴氏の家系から、明治政府の最後の外務大臣、東郷茂徳(しげのり)が出ている。
 また、この地に根をおろした陶工の中に、沈(ちん)当吉もいた。沈家は代々、薩摩藩焼物製造細工人を努め、幕末期には天才といわれる十二代沈(ちん)壽官(じゆかん)を輩出した。藩営焼物工場の工長であった十二代沈(ちん)壽官(じゆかん)は、明治に入ってウィーン万博などに作品を発表し、以来「サツマ」は日本陶器の代名詞になっていった。現在は沈壽官窯として、十五代目が当主で薩摩焼の代表として知られている。

 これらの複雑な先祖の渡来事情を、高校時代に知った中園勝は、以後やや屈折した性格を形成して行く。何事もつねに懐疑的な目でみるようになっていった。
 先祖たちは、いわば戦時捕虜として拉致されてきたも同然である。その技術だけを利用され、薩摩藩のために奉仕させられてきたのではないか。いままで先祖が韓人であったことと、歴とした薩摩藩士であったことは、矛盾なく受けいれてきた。が、歴史的な事実を知るに及んで、単純な日本人であることに疑問をもつようになっていった。
 とはいえ、400年以上も前の話であり、長い歳月のなかで混血がくり返されている。今の自分に、どれほど韓人の血が流れているのか。また遠い祖先の郷土の風習や、民族としての風俗は微塵も残されていない。 
 一方、苗代川の沈壽官家は、堂々たる日本人として自家の伝統と技を磨きつつ、鹿児島で生きている。これに勇気をえて、堂々たる日本人として生きてゆく決心をしたのである。 しかし物事をつねに懐疑的にみる態度はかわらない。ただ大学に進んでからは、人間のいとなみの原点は経済にあると信じ、新聞は日本経済新聞しか読まない習性となっている。
 個性が強く妥協しない性格から派遣社員をしているが、いずれは何かを成したいと暗中模索している。





堺の線香

 与謝野正樹の実家は、堺で三代続いた線香製造業であった。
 祖々父の代に堺で線香の老舗に勤め、やがて独立して成功を収め祖父の代で業容を拡大したが、三代目の父のときに倒産している。
 堺は平安時代から、摂津・河内・和泉の境に位置しているところから、「さかい」とよばれるようになった。鎌倉時代には漁村であったが、地の利があってしだいに廻船業で財をなした堺の商人たちは、積極的に海外交易へと乗り出し、やがて室町幕府の遣明船派遣の拠点ともなっている。
 戦国時代には、納屋衆(なやしゆう)とよばれる大貿易商が、戦国大名の軍需物資の調達で活躍し黄金時代を迎えた。こうした背景で、室町から戦国時代にかけて二百数十年、濠(ごう)をめぐらし自治体制をしいていた。納屋衆(なやしゆう)は、南方にまで交易をひろげ、廻船業・金融業などで戦国大名をしのぐ財力があった。また早くから鉄砲をつくり、戦国武将に売りさばくとともに、武装した自衛兵力をもち、時の勢力と対抗しうる力で自治都市を運営していた。

 信長や秀吉などが堺を力攻めしなかったのは、堺のもつ経済力と鉄砲や刃物生産などの工業力、さらには物資調達の能力、そして海上輸送の手段を温存し、のちに利用することを考えたからである。兵糧(ひようろう)や鉄砲など軍需物資の調達には、堺の豪商の力が必要であった。堺の豪商たちは、経済力こそが武力よりも世の中を動かしている。という自負心があったのであろう。
 堺での鉄砲鍛造の量産化は、堺の貿易商人の橘屋又三郎がはじめている。
 橘屋又三郎は、種子島の鍛冶(かじ)に直接鉄砲の製造方法を学びにゆき、さらに各部品を専門分業化によって量産する仕組みを開発したのである。こうして堺は、鉄砲の一大産地に成長する。日本での金属加工の工業的量産化は、堺鍛冶の刃物と火縄銃が最初である。堺鍛冶の包丁は、いまでもプロ料理人の九割が使用しているほど名高い。
 堺には他にも多くの地場産業が成立している。そのひとつが線香である。
 仏教とともに香木がつたえられ、香を焚(た)くことが、重要な儀式でもあったから、さまざまな香木が堺にあつめられた。室町時代には香を焚くことが流行し、やがて「香道(こうどう)」として大流行した。世界中の香木があつまる堺に、十六世紀に中国から線香の製法が伝わり、職人技の調香で独特の「堺香」を完成させた。この堺香は、公家、寺院などにもてはやされ、やがて必須の儀礼用品となった。こうして堺では多くの線香調合所が産業として成立した。
 ところで線香は、時間をかけてゆっくりと燃焼させるため、漢方生薬と樹皮粉末を粘着剤として線香に練りこんでいる。このため、ひろく普及した江戸時代では時計のかわりとしても使用された。禅寺では、線香が一本燃えつきるまでの約40分を一炷(いつちゆう)ととよび、坐禅を行う時間の単位とした。それほど線香の品質が均一化されていた。堺の線香の生産量は、戦前まで3割以上のシェアを占め全国一であった。

 与謝野正樹の先祖は京都府与謝郡(よさぐん)の出で、明治になって与謝野姓をなのり、堺で線香の老舗に丁稚(でつち)奉公した。調香で頭角をあらわし、明治末期に暖簾(のれん)分けで独立し「与謝野香道」を立ちあげた。やがてフローラルな香りをとりいれた「香水香」をつくりあげた。西洋の香水が流行した大正期に、この香水香で一代で老舗を凌ぐほどに成功した。
 二代目与謝野正(ただし)の時代、東京へ進出し経営基盤を確立して近代的株式会社に育てあげた。ところが三代目である父の与謝野正一の代で会社を破産させた。
 本業よりも株式投機や、バブル期には多額の不動産投機を行って大失敗した。ただ会社破産であったから、個人所有の本宅とアパートが一軒残された。
 与謝野正樹は、父親の失敗をみてきただけに、事業家にはならないと決心し、エンジニアになるべく工業大学で電気工学を専攻した。卒業ののち、大手の電気メーカーに就職した。が、過当競争がつづく携帯電話部門に配置された。アプリソフトの開発担当にまわされ、神経をすり減らすほどの細かい作業がつづいた。
 一箇所でもバグがあればソフトは機能しない。分業体制で神経を使う細かい作業が、連日の深夜にも及ぶ残業がつづく事になった。こうした過酷で時間に追われるアプリソフトの開発で神経をすり減らし、退職して堺の実家にもどっていた。
 一年ほど遊んだのち、ぼちぼち派遣社員として働いていたが、いずれはネットで何か起業できないかと漠然と考えている。




児島のジーンズ

 横溝淳二は倉敷市児島の出生で、離縁した母親の井原市にある実家で育った。
 児島は元々瀬戸内海に浮かぶ島であった。児島と岡山平野に挟まれた中海は、岡山藩の大規模な干拓で陸続きの半島となった。干拓地では、塩気につよい綿花が米のかわりに盛んに栽培された。綿花は藩の専売品として、糸をつむぎ、機(はた)を織り、雲斎織(うんさいおり)などの木綿織物をつくるよう奨励した。雲斎織(うんさいおり)は、厚地の綿布で足袋(たび)の底などに使われた。
 江戸後期に足袋(たび)の販売で財をなした野﨑武左衛門が、児島地区の外海(そとうみ)側で塩田開発を成功させ、大規模化され藩の専売品となった。塩業で財を成した高田愛次郎は、明治政府の輸入した紡錘機(ぼうすいき)をいち早く払い下げてもらい、明治13年に下村紡績設を設立した。
 もともと繊維から縫製に至る一貫生産の下地があっため、近代的紡績から縫製加工までの一貫生産地となった。こうした背景から、横溝家は祖父の代から、足袋の縫製をはじめていた。

 岡山の足袋は、品質がよく大正時代には、全国一の生産量を誇っていた。
 しかし洋装化の流れで衰退し、やがて同業者と厚手を使う学生服へ品目をかえた。
 学生服は多品種小ロットで、年一回の納期が集中する厳しい業界である。このため縫製業仲間と分業体制をとり、学生服をおもな生産品目としてきた。ところが、父の代の昭和38年頃には、学生服の需要が減少しはじめた。進取の気性の父の横溝淳之介は、厚物縫製技術をいかせる新しい分野への転換を模索し、そのころ流行しはじめたジーンズに目をつけた。元々児島地区には紡績から厚物の製織、縫製と一貫生産の地盤がある。
 こうした産業の素地が、ジーンズ製造に有利と判断したのであろう。昭和40年に縫製仲間とジーンズ原反仕入れ、縫製し販売するとブームですぐに売り切れた。
 横溝淳之介は、撚糸、糸染めなど工程別の工場を説得してまわり、国内で初めてデニム生地の製造に成功した。これを契機に、あいついで仲間もジーンズ縫製を手がけはじめ、岡山のジーンズは全国に販売されるようになり、児島は「国産ジーンズ発祥の地」と言われるようになった。
 のちにユニクロなどの急成長で、低価格ジーンズと競合し新たな展開を余儀なくされた。その生き残り策が、オーダー制のプレミアムジーンズという、ビジネスプランであった。これは学生服でつちかわれた、小ロット生産の体制があったればこそである。横溝淳之介は、ジーンズへと家業を転換し、大成功をおさめた。
 ところが生来の精力家で、際限がない女漁(あさり)が目立つようになった。淳二の母はたまりかねて離縁を申しで、15歳の淳二をつれて実家の井原市にある守屋家にもどった。母親は旧姓にもどしたが、淳二は学校の関係もありそのまま横溝姓でいる。
 岡山の井原地区も、藩の指導で児島地区と同様に雲斎織(うんさいおり)の足袋の生産が行われていた。
 ところが、天和(てんな)年間に綿花の他に藍(あい)の栽培が行われるようになり、やがて藍染(あいぞめ)の厚地織物が多くつくられるようになった。参勤交代で往来する人々に藍染厚地織物が評判となり、特産品として藩の専売品となり全国に広まっていった。しかし参勤交代がなくなった明治期には、広幅織物に移行し、明治の後半には制服用に霜降り小倉織(こくらおり)、黒小倉織、紺小倉織で成功した。のちに縫製まで一貫生産をするようになっていた。

 岡山には、学生服のトップブランドのトンボ学生服がある。「帝国足袋(たび)」が前身で、昭和期にいちはやく学生服の生産をはじめた。戦後に帝国紡績を設立し、学生服の一貫生産をはじめている。岡山の学生服は、全国シェア約7割に達するほどであった。
 母親の実家の守屋家では、帝国足袋の時代から下請け縫製をはじめ、トンボに改名したあとも下請け加工場であった。ところが次第に自動縫製機が採用され、下請加工から撤退を余儀なくされた。いまはプレミアムジーンズの下請けとして縫製業をつづけている。
 横溝淳二は、地元の経済大学を卒業し、下請けの縫製業を嫌って水島にある造船会社に就職した。製造工程管理部門に配属されたが、若い世代が少なく職場になじめず2年で退職した。一方で、いずれは父親を見返すほどの何かをなしたい。という強い気持ちがあった。が、何をすれば良いかが定まらない。
 とにかく岡山の井原市という、小さな田舎町から出たい、という思いから大阪へ出た。とりあえずという気持ちで、派遣社員に身をやつしていた。こうした経緯で、健太の決起集会の呼びかけにいち早く参加を表明した。





伊予の饅頭屋

 新居(にい)忠は松山市の出身で、実家は四代つづく和菓子屋で「伊予屋」の看板を掲げている。「伊予屋」は元々松山藩御用達の和菓子屋で、江戸中期創業の老舗であった。
 明治にはいって跡継ぎが途絶え、下級藩士であった新居家の先祖が暖簾を相続している。新居家には、伊予屋から引きついだ「菓子の畫圖(えず)」というものが残されている。墨書きで菓子の略図と菓子名、その材料の加工方法、調合の割合など調製法の詳細を記したものである。それらを時代の流れに竿さして、頑固に守りつづけている。
 幸い松山市街の中心地に位置していたから、なんとか一店舗ながらも老舗としてつづいている。現在は新居家四代目にあたる新居(にい)忠の兄が経営している。

 伊予松山藩は、徳川親藩であったため、幕府の長州征伐のときには律儀に兵をだした。 鳥羽伏見の戦いでは、後方警備を担当しただけである。それでも「朝敵」としてあつかわれ、戊辰戦争(ぼしんせんそう)のとき討伐軍の土佐藩兵に松山城を包囲された。このとき松山藩は、いっさい抵抗せず恭順(きようじゆん)した。それでも土佐藩は占領政治を布(し)いた。
 伊予は、ふるくから京風文化や瀬戸内文化が沈殿している。人間の精神や気質はおだやかながらも、単純ではない。徳川家に義理をはたしつつも、時勢を見る眼は確かであったであろう。このような松山藩の下級藩士として、明治をむかえた新居半助は、藩士としての俸禄(ほうろく)を失い卒族(そつぞく)という身分になった。藩の家臣は士族となったが、同心・足軽などの下級藩士は卒族とされた。身分をうしなった士族・卒族には、俸禄にかえて明治政府から秩禄(ちつろく)を支給された。が明治6年には秩禄は廃止され、一時金の秩禄公債を支給された。さらに現金化を強制する秩禄(ちつろく)処分が行われた。
 士族たちは途方にくれたが、新居半助は下級藩士の同心という立場であったから、世間というものをよく心得ていた。同心という役職は、非常時には歩卒として働くが、普段は町や村の治安維持と罪人逮捕、そして郡(こおり)奉行の手付(てつき)や補佐役などを任務としていた。「秩禄(ちつろく)公債」をもらったとき、身の処し方については明確な見通しをたてた。もともと同心として、城下町の町人とは昵懇(じつこん)であった。とくに懇意(こんい)だったのが藩御用達の伊予屋という老舗の饅頭屋であった。その伊予屋に弟子入りして修業し、新居浜の口屋(くちや)あたりで和菓子屋を開業するという算段をしたのである。
 東予(とうよ)地方は、住友家による別子銅山があった。別子村を中心に、多くの鉱夫や人夫があつめられ、最盛期には、松山につぐ1万2千人の人口を擁していた。この新天地で、人夫あいてに饅頭屋を開業することを考えた。
 別子銅山では、銅含有量80%の粗銅(そどう)がつくられた。この粗銅は仲持(なかもち)とばれる運搬人が、けわしい山道をはこんだ。とくに新居浜村の口屋(くちや)(浜宿)は、銅山に働く人々の資材や物資、粗銅を船で大坂に運ぶ物流中継地であり、口屋を中心に新居浜は発展していた。
 この新居浜の口屋(くちや)に饅頭屋を開業すれば、必ず成功する。世間通の新居半助は、見通しをたてたのである。伊予屋に弟子入りし、材料吟味から調合方法、餅や製餡(せいあん)方法などをまなびとった。こうして新天地の新居浜で開業したのである。

 鉱夫や仲持、荷積み人夫などの作業は重労働で単身者が多い。簡便なおやつとして、甘い饅頭や団子、餅などは大い受けた。わずか10年あまりでひと財産を築いた。
 饅頭屋は、今でいえば製造直売である。利益率が一般の小売り商(あきな)いとは格段の差がある。原材料費は二割ほどで、利益高は大きかった。ところが、伊予屋の跡嗣(つ)ぎが病没し、伊予屋の暖簾を嗣いでくれないか、と年老いた当主から懇願された。律儀な半助は、松山にもどって伊予屋を嗣いだのである。
 それから代々、伊予屋の和菓子の暖簾(のれん)をあげている。新居家は、両親が亡くなってから兄が四代目となり、新居忠は兄夫婦のいわば居候(いそうろう)のような立場に置かれてしまった。
 兄は律儀なだけで、時代に応じて品目を拡大するというような才覚はない。一家族がなんとか維持できるほどの経済力しかもっていない。その兄が、新居忠の高校のとき、「大学へ行きたいなら、行ってもええぞな」と、やや消極的な言い方をした。それに反発して高校を卒業すると、大阪の事務機メーカーへ就職した。
 会社では向上心を維持したが、上司に恵まれず退職した。やむなく派遣社員として働きつつも、密かに公認会計士の勉強をつづけていた。




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成功の条件

さて十人の若者たちは、ベンチャー企業の創業としては異例の持株会社設立となった。
 運命共同体として、たがいの親交を深めつよい絆をきずく。いわばその固めの儀式として、心斎橋の居酒屋で懇親会をひらいた。一座がかなり和んだころに健太が発言した。

阿比留健太  「さて、こんあたりで社名の候補ば検討してくれんね」

横溝淳二  「素朴な質問じゃけど、成功の条件たー何じゃろうか?」

新居忠  「成功の条件と社名と、どーゆー関係なんじゃろか?」

横溝淳二  「持株会社の名じゃけんな、成功の条件にちなんだ名がえーと思うんじゃが」

中園勝  「そやーよか考えじゃな。そいなら第一の条件は、何とゆうてん世のなかをひっくい返すほどの、革新性じゃっど。こいがなければ成功はでけんしな」

阿比留健太  「アップルや楽天やら、それにユニクロやら、そん革新性で成功したっち思う。ウチらも知恵をだしあっち、どうにか革新的アイディアにたどり着いとばい」

鈴木裕也  「それじゃー つぎの条件は何やろか?」

市ノ瀬克也  「それはさ、やはり情熱じゃんね。飛っきりの熱意があればさ、いくら困難なことに出あっても、熱意が解決していけると思うずら」

田中健介  「同じコトかもしれまへんが、執念やろな。失敗してもあきらめんと、何度もチャレンジすることよ。その執念を情熱ちゅうのかぁ」

与謝野正樹  「そうでっせ。仕事を成功さすには、つよい情熱や執念が必要でんな。執念がありゃ、解決の糸口はきっと見つかりまんな」

新居忠  「情熱を持ちつづけるには、明確な目標が必要じゃろう?それに、目標に期限をもうけることが必要じゃろうな」
市ノ瀬克也 「そうだよね。目標達成のためにゃ、克服しなきゃいかん障害物とかさ、必要なものは何かをさ、冷静に見極めることが必要じゃんね。それから、もっと大事なことはね、つよい成功のイメージを持ちつづけることだね」

阿比留健太  「これがのうては、むずかしい局面をのり越えられんやろう」

横溝淳二  「せーと、そりょーを成し遂(と)げられるっちゅう、つえー自信が必要じゃろう。オレは、大切な自信を失っとったけんな。けーから必要なこたー 何とかなるっちゅう、自信をもつこコトやと思うんじゃ」

田中健介  「そうやで。プラス思考こそがよ、失敗を成功に導くんやな」

中園勝  「プラス思考には、やりたいことを、やるちゅうのがいちばんの薬じゃっど。そいで楽(らく)して儲ける仕組みを作(つく)うこつやな。それこそが革新性につながっぞ。アップルは、じつに楽(らく)して儲ける仕組みをつくったからじゃっど」

与謝野正樹  「ホンマでんな。楽(らく)して儲ける仕組っては、楽(たの)しゆうにやるこってやねんな。なんやら心が弾(はず)む気ぃがするわな。楽でぇけるほど儲かるちゅうコトやな」

鈴木裕也  「なるほど、革新性とゆうのんは、楽(らく)して儲ける仕組みのことやな。苦労ばかりするのんは、知恵が足らんということやな」

与謝野正樹  「もうひとつゆうって、情報力と分析やる能力が必要だっせ。まえにも話がでた商社の総合力ゆうのんは、その情報力やって思いまっせ」

山田太一  「まだ重要な事があるじゃん。それはね、人間のつきあいでもさ、企業同士の取引や交渉でもさ、大切なコトはさ、信頼や信義でしょう?信頼を置けない人とは、つきあいしませんよね。ボクらもさ、こうして信頼しあえると思ったからさ、一緒に大きな夢に向かって集まっているじゃん」

新居忠  「ウチも同感ぞなもし。そもそも阿比留さんから決起メールを貰ったとき、その信頼でける人柄やったから、ザビエル公園へ出向きましたけんぞな。人間としての信頼が、一番大切なことじゃろう。じゃけんね、ビジネスの成功でも信義が絶対必要じゃろう」

阿比留健太  「そん通りやね。ともに力ば結集し、同じ夢ば見ちゃうっち集まったんだけんね。お互いん信頼がなければ成功なんてありえなかやね。いちばん良か言葉やね」

横溝淳二  「それなら会社の名前は、信頼とか信義を意味する言葉にしたらえーと思うんじゃが。どうじゃろうか」

市ノ瀬克也  「いいね。成功の条件はいろいろ出たけどさ、信頼がいちばんじゃんね。またビジネスも社会に対する信義を貫くことで、永続できると思うじゃんね」

勅使河原努  「信頼ちゅう言葉は、英語では何んどしたかいな?」

与謝野正樹  「いま携帯でぇ調べたら、信頼、信義ちゅう言葉は、英語でぇは(トラスト)いうのんと、(フェース)ちゅうのがあるわ」

勅使河原努  「フェースは顔ちゅう意味ではおまへんのか?」

与謝野正樹  「(Face)でぇはなく、(faith)のスペルですねん。」

新居忠 「フェースなら覚えやすく、すっきりしたイメージがあるじゃろう」
横溝淳二  「信頼っちゅう意味のフェース(faith)と、顔っちゅう意味のフェース(Face)は、カナで表現すりゃーおんなしじゃけん、二つの意味をもたせ、十人での創業の意味と、十人の信頼の意味を兼ねて、テン・フェースっちゅうんは、どうじゃろうか」

阿比留健太  「テン・フェースか。じつに良かげな思いつきやね。また覚えやすいな。十人ん顔の見える会社っちゆう意味やし、十人ん信頼でビジネスば拡大させ、ビジネスば通してから、社会信義ば実現するっちゆう意味にもなるけんな。ほんによかばい」

鈴木裕也  「横溝はん、冴(さ)えてまんな」

横溝淳二  「ありがとう。せーはプラス思考のおかげやな。自信をもち、まえに進むことを意識しはじめたからじゃな」

阿比留健太  「ほかに何か、候補はあるやろうか?」

中園勝  「オイはテン・フェースが気に入ったな」

勅使河原努  「ええどすな。テンフェースに決めておくれやす」

阿比留健太  「ほかに意見のなければ、テン・フェースに決めたいっち思いますたい。それから企業理念についても、検討したいっち思いますが」

新居忠  「企業理念なんかが、はじめっから要るのじゃろうか?」

中園勝  「企業理念ちゅうのは、会社の価値観みたいなもんやっど。つまい、最高の理想じゃっし、こうありたい、ちゅうこつを表現したもんじゃな」

阿比留健太  「そん通りですたい。全社員が共有し、行動の基準となる考え方を示すものですたい。とくに持ち株会社ではじめるから必要ばい」

勅使河原努  「額に入れてはる(経営方針)とか(経営理念)ちゅうヤツでっしゃろ?」

阿比留健太  「(経営理念)は経営者ん心構えや、ふとか経営方針だっち思われるのよ。
(企業理念)な、中園さんのいったごと会社全員ん価値観らしかばい。優良企業では、全社員の企業価値観にもとづいて行動しとるっち、あったんやけん」

新居忠  「それなら、これから始めるビジネスでは、(こう有りたい)という理想をまとめたら良かじゃろう」

横溝淳二  「それじゃ、各個人の努力が尊重され、各個人がチームワークを最重視する。というのがよかじゃろうな」

山田太一  「個人の創造力と、チームワークのつよみを最大限にたかめ、オープンでフェアな企業活動を通し、社会から信頼される企業をめざす。ということだね」

市ノ瀬克也  「全社員一致協力、全部門の連動体制の経営。じゃんね」

鈴木裕也  「創造と工夫で、安定した成長と共存共栄を実現する。というのも必要やで」

与謝野正樹  「現実をよくみて、自ら能動的に変化する経営も要(かなめ)でっしゃろ」

山田太一  「時代の先をゆく、魅力あふれる商品やサービスを提供する」

勅使河原努 「ええアイディアをどんどん実行し、世の中をうごかし社会を変革し、社会に貢献する経営どすな」

新居忠  「むだを徹底排除し、採算をつねに考え、効率を求め、高い分配ができる経営」

中園勝  「もうひとつ、会社では共通の言葉を使うこつが、重要じゃっど。仕事でつかう言葉を整理し、一つの言葉に、共通の意味をもたせるというこつじゃっど。つまい(企業理念)とゆうと漠然としじぁが、そいを(ありたい姿)とゆうように、取り違えが起きんようにするこっじゃ」

阿比留健太  「不思議なもんやね。こうしてから十人よっち議論すれば、色んな知恵の生まれて来ますたいね。今出てきよったキーワードば整理してから、メーリングリストにアップするけん、それから最終的に決めたいっち考えとります」





企業理念

 阿比留健太は、企業理念のキーワードを、五ヵ条に整理しメーリングリストにアップした。これは明治政府の「五箇条(ごかじよう)の御誓文(ごせいもん)」や、トヨタグループの「豊田綱領(こうりよう)」が、五ヵ条の文章からなっているのを知ったからである。これに対して、さまざまな書きこみが行われて整理され、シンプルで分かりやすい理念がまとまった。

  テンフェース株式会社 企業理念
  一、全ての行動において信頼を第一義とする
  二、各個の尊厳は最大限に尊重され、自ら能動的に変化し創意と革新につとめる
  三、独断を戒め、合議にもとづき一致協力し確実に実行する
  四、研究と開発につとめ、社会を変革する有用な商品やサービスを提供する
  五、信義ある行動で社会的な共存共栄を実現し、長期安定的な成長をめざす
 
 さらに具体的経営方針を明確にする、経営理念もつくった。ベンチャー企業の立ちあげとしては、やや大袈裟(おおげさ)ともいえる、「企業理念」や「経営理念」を設けたのは、アドバイサーの大久保太郎から、メーリングリストに書きこみが行われたからである。
──「企業理念」や「経営理念」そして具体的な経営ビジョンの作成が必須。
 これらの理念を検討することで、「何を成したいか」が明確となる。さらには、対外的な協力関係をきずいたり、公的融資を受けたりしやすいメリットなどをあげていた。
 こうして「経営理念」は、会社創立の若者十人のあつい想いを、取引先や顧客、従業員などに、明確なメッセージとして伝えるものとして作成された。

 テンフェース株式会社 経営理念
 一、既成概念を打ち破り、革新的な商品やサービスを提供します
 二、革新技術はフェアな精神で共有し、共存共栄を図ります
 三、地球環境や自然との調和を第一義とした物づくりをします
 四、人々の健康増進と食生活改善に寄与する物づくりをします
 五、ネットワークを通じ、作る者と必要とする者の交流を図ります
 六、喜びを共有できるネットワークを構築します 
 七、一人一人の顔が見えるオープンな職場をつくります
 八、明確なビジョンを持ち、それを達成する挑戦者を広く募(つの)ります
 彼らが目ざしたものは、ふたつの大きな革新的コンセプトである。
 ひとつは、来たるべきEV時代の先駆けとなるはずの、走行風を利用するマイクロ風車で充電しながら走行できる、中古車改造の電気自動車をめざしている。
 ふたつは、野菜のファーストフード化で、食文化を革新するという壮大なチャレンジである。いわば徒手空拳(としゆくうけん)にちかい状態でありながらも、革新的なアイディアを種に、時代を変革するほどの事業をはじめようとしている。

 既成概念を打ちやぶるべく、若さゆえの暴挙ともいえる行動力と情熱で、ベンチャー事業のふたつの核をつくった。そこから協力会社のネットワークをつくり、時代革新の先がけとなる。偶然のなりゆきながら、ベンチャー企業を自ら立ちあげるというチャンスをつかみ、水をえた魚のように、情熱と潜在能力を発揮しはじめた。
 人間の潜在能力は、たとえればES細胞(胚性幹細胞(はいせいかんさいぼう))のようなものであろう。ES細胞は理論上では、すべての生体組織に分化する。分化多能性をたもちつつ、ほぼ無限に増殖させる事ができるとされている。ES細胞は、embryonic stem cell の略から名づけら、「発達の初期」「萠芽(ほうが)」細胞という意味である。

 人の潜在能力もES細胞のような、あらゆる能力に分化しうる多能性を持つ「萠芽」をもっている。その能力が必要とされる状況におかれれば、その必要に応じて必要な特定の能力が分化増殖し、才能として発揮されるのであろう。高度な能力が必要とされる状況になればなるほど、つよい動機があればあるほど、高度な特定能力が分化増殖する。
 歴史的な偉業をなしとげた人物は、その時代とその境遇が、その特定能力を必要としたのである。だからこそ、その潜在していた「萠芽」が分化増殖し、有用な才能として発揮され時代の偉人となったのであろう。余談ながら、勝海舟が西郷隆盛を評して
「小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」
 と明治になって語っている。西郷隆盛は、維新前夜にまさにその特定能力を必要され、必要に応じてその萠芽が分化増殖して大きく鳴ったのであろう。
 こうして十人の若者たちは、自ら転がりだす車輪のように動きはじめた。
 車輪が動きだすには、つよいエネルギーと未分化の「萠芽」を分化増殖させる必要があった。その車輪の軸となるのが「企業理念」と「経営理念」である。
 両輪を動かすエンジンが、ふたつの大きな革新的コンセプトである。



 
ファーストフード分析

 フード事業は自然野菜をテーマとした、革新的ファースト・フード店をめざしている。野菜倶楽部のプロジェクトは、市ノ瀬克也と山田太一が食材の調達や加工と調理方法の研究を担(にな)い、新居忠、与謝野正樹、中園勝が革新的な店づりとチェーン店のノウハウの研究を担当することにした。最初の課題は(ファーストフードとは何か)という定義であった。そこから革新的コンセプトを導きだす。

〈ファーストフードの定義〉
 ファースト(fast)は速い 敏速の意味
   ・調理に時間がかからない   直ぐに食べられる
   ・手軽に、手早く食べられる  食事時間が短く、食べながら仕事が出きる
   ・何処(どこ)でも食べられる     テイクアウトできる
   ・低価格           チェーン店でリピーターが多い
・洒落(しやれ)た軽食         均質な旨(うま)さでクセになる
・現代の食文化  外食が多い
   ・高カロリー食品       高脂肪、栄養素の偏り

〈ファーストフードの問題点〉   
 ー生活習慣病
 子どもや若年層は高脂肪を好み、過剰摂取される傾向がつよい。つまり肥満になりやすく、生活習慣病のリスクファクターがたかい。低価格のため後進国の貧困層ほど、食事に占めるファストフードの比率がたかい。このため「死に至らしめるのが早い (fast) 食べもの」として、ジャンクフードに分類されることもある。
 2003年の「世界保健機関(WHO」では、「ファーストフードは、肥満と関連する」と報告している。2007年の世界がん研究基金の報告書では、「がん予防のため、ファーストフードの摂取をひかえめにすべき」と勧告している。
 アメリカでは生活習慣病のひとつとされ、成人の67%が肥満でその医療費支出は900億ドルをこえている。東南アジアでも、肥満の子どもが四人に一人以上となっており、肥満問題が取りあげられている。
 ー非正規雇用
 低価格が最大のメリットであり、安さ実現のため低賃金の労働力を必要としている。
 このため社会保障の必要がないアルバイト、パートなど非正規雇用者が多い。 
〈ファーストフード分類〉
 (洋風チェーン)ハンバーガー、ホットドッグ、フライドチキン、ピザ、焼きたてパン
(和風チェーン)おにぎり、弁当、中華まん、ドラ焼き
(軽食チェーン)立食いそば、うどん、牛丼、カレー、ラーメン、回転すし、パスタ

 ファースフードの分析で明確になった問題点は、高カロリーで肥満になりやすいこと。野菜倶楽部のコンセプトは、生活習慣病のリスクが高いファーストフードへの、アンチテーゼとして生まれている。
 一年間の一人あたりの野菜消費量をくらべると、アメリカはこの20年で徐々にふえているが、逆に日本では大きく減少している。いまの日本の一人あたり野菜摂取量は、年間約94㎏である。アジア諸国とくらべても少なく、韓国の半分ちかい摂取量となっている。

 日本人は昔から米飯を主食とし、野菜や魚肉を多く摂取しバランスのよい食事をしてきた。二十数年まえでは、一人あたり野菜消費量が年間約111㎏あった。
 ところが高脂肪・高カロリーへと大きくさま変わりし、かつての85%程度まで野菜の摂取量が減少している。栄養学では、一日に必要な野菜の必要量は350グラムとされ、緑黄色野菜を120グラム、そのほかの野菜を230グラムとされている。しかし、「国民栄養調査」の結果(平成13年)では、実際には279グラムしか摂取していない。若年層では、ファーストフードの影響などでさらに少なく、250グラムほどしか摂取していない。
 野菜にふくまれている豊富なビタミンや食物繊維は、体調を維持するだけでなく抗酸化作用により、がんや動脈硬化などさまざまな病気を予防する効果があるとされている。
 これらのことをふまえ、野菜やフルーツを、健康の原点として再認識させ、ヘルシーでダイエットも期待できる人にやさしい食品として、新しい食べ方をアプローチする。




スナックフード事業概要

 健康志向のファーストフード開発は、ベンチャー企業支援組織を最大限に利用することになった。企業支援施設に、産・学・官ネットワークの研究機関があり、その専門担当者による相談・支援が行われていたからである。持ちこんだ野菜のファーストフード構想は、相談員の興味をひき、さまざまなアドバイスをもらうことができた。こうして意外にはやく、各レシピのアイディアはできた。

 □スナックフード一次加工原料
   野菜・フルーツ粉末  フリーズドライ製法の粉末
   野菜裏ごし粉末    茹(ゆで)て乾燥後に粉末加工
   野菜・フルーツフレーク  過熱水蒸気で乾燥後、熱風乾燥
   カット・フルーツ野菜   小さくカットして冷凍
   スナックベース粉末  発芽玄米粉末、上新粉、薄力粉、ベーキングパウダー  □スナックレシピ
  ・野菜ジュース    (生野菜ジュース、粉末野菜ジュース)
  ・野菜スープ     (各種粉末野菜の味付けスープ)
   ・ガスパッチョ    (トマト、胡瓜(きゆうり)、タマネギスのスペイン風スープ)
  ・野菜サラダ  (千切り野菜のサラダ)
  ・野菜フィリング   (調理野菜を詰め物とする焼きドーナツ)
  ・ファルス  (果肉野菜の詰め物揚げ。挽(ひ)き肉とタマネギ、パン粉等)
  ・野菜玄米ドーナツ  (発芽玄米(はつがげんまい)粉末と野菜粉末のドーナツ)
  ・野菜ドーナツ    (微細カット野菜入りドーナツ)
  ・フルーツ・クレープ (生フルーツのクレープ巻き)
  ・野菜クレープ  (調理野菜のクレープ巻き)
  ・野菜たこ焼き    (野菜粉末入りタコ焼き)  
  ・野菜フレーク    (野菜裏ごしを乾燥させ、小麦粉で焼いたもの)
  ・野菜饅頭  (微細カット野菜焼き入饅頭)
 これらのレシピをどのよなスタイルで販売するか。
 まずはファーストフードの現状をいったん否定する。そこから重要な要素を組みたてなおし、あらたな販売スタイルをつくらねばならない。多くの議論を必要とし、何度も意見交換しメーリングにアップした。

 ファースフード店は、徹底した合理的手法を採用している。
 セントラルキッチンで一次加工、二次加工をおこない、店頭では、食材をアソートし、焼く、揚げる、蒸すなどの最終調理でお客に提供している。この合理的手法によって、手早く均質の商品が提供されている。また食材の一括購入と集中加工で、低価格も実現されている。この集中加工処理と、店頭での調理方法が大きな課題となってきた。
 食の原点、野菜の新しい食べかたを提案する。野菜とフルーツ専門のファーストフードとしては革新的ながら、もう一工夫なにか必要と思われた。こうした状況のとき、チームメンバーではない横溝淳二から、メーリングに意見がアップされた。

『野菜倶楽部のプラン作り、ご苦労さまです。品ぞろえや販売方法で議論されていますが、ひとこと提案します。
 ・経営理念の(革新的な商品やサービス)という考え方と、自分が利用する立場からいえば、野菜・フルーツに限らず、もう少し幅を広げたらと感じています。
 ・(ネットワークを通じ、作る者と必要とする者の交流を図ります)という考え方から、お客の意見や希望を取り入れる工夫はできないかと考えています』
 シロウトの岡目八目の意見であった。フードチームは、市ノ瀬が提案した(ファーストフード的、野菜のあたらしい食べかた)に、こだわりすぎていた。と反省させられた。
 あらためて、フードチーム以外の知恵をかりるべく、全員による議論で、(日本古来のファーストフード的食文化)まで視点を広げることなった。こうして京都の「おばんざい(総菜)」の知恵をいかすアイディアがでた。
 現代の感性にフィットする、ファーストフード的総菜を開発し、カップ総菜として販売することにした。このカップ総菜と組みあわせることで、オニギリやサンドイッチも品ぞろえすればよい。また新しいカップ総菜の開発には、消費者からの意見を取りいれることも可能となる。来店客に、カップ総菜やスナック・フードのレシピを募集し、採用したレシピ提案者には、謝礼と提案者の名前を表示する。再度、総菜レシピについて、アドバイスを受けにゆき効率的な製造方法も学んだ。日替わりでレシピの組み合わせを変え販売することにし、順次レシピを追加する予定とした。

 以下はカップ総菜の主なレシピである。
 ・ミニおにぎり ・いもがゆ ・小豆のお粥 ・栗ご飯 ・ひじきチャーハン
 ・湯葉どんぶり ・干大根とわかめの酢の物 ・人参ジャム ・菜類の浅漬
 ・ブロッコリーのカナッペ ・山芋のお好み焼き ・りんごとさつまいもの甘煮 
 ・茹(ゆで)やさい(根菜類と葉物)  ・なす田楽 ・いとこ煮(かぼちゃと小豆)
・こんにゃくとゴボウのかつお煮 ・なすのごまあえ  ・生湯葉の包み揚げ

 さて店舗での販売方式は、スナックの定番メニューのほか、お客が任意に野菜やフルーツのブレンドと、「焼く」「蒸す」「揚げる」を指定できるオーダーも設けることにした。店舗レイアウトは、「スナックフード」と「デリカテッセン」のコーナーに分け、デリカテッセン・コーナーは昼食時間帯と夕方の時間帯には、コーナーを拡張するフレキシブルなレイアトとすることが決定した。
 店名はひらがな表示に変え、しゃれた雰囲気でフランス語の「ママの料理」を意味する店名とすることに決定した。 ーおいしい自然食品でいきいき 
   やさい・くらぶ 「maman plat 」
 議論百出の難産ではあったが、野菜倶楽部の事業概要がきまった。
 食材調達と加工処理、冷凍保存方法、店頭で使用する厨房(ちゆうぼう)設備や調理機器の見積もり、そして一号店の開店費用の見積、最適な立地調査など、解決すべき問題は山づみしている。これらもベンチャー企業支援組織の相談員が、多くの情報とアドバイスを与えてくれ準備は加速した。





風力発電機の開発手順 
 
 電気自動車が消費する電力を、走行風を利用して発電し、走行中に充電するというアイディアはまさに画期的である。
 大きな課題は、超小型風車で必要な電力を発電できるどうか。ただ無風状態でも自動車の速度に比例した風力がえられる有利な条件がある。
 時速20㎞の速度で走行すると、計算上の風速は5・55mとなる。40㎞の速度ならば11・1mとなる。ふつうの市街地走行では、時速20㎞~40㎞程度ながら、時速60㎞の場合は16・7mとなる。さらに高速道路で時速100㎞で走行すれば、27・8mの強風がえられるはずである。確認のため実際にデジタル風速計を車に取りつけ、何度も実測した結果、同じ値がえられた。この走行風を利用する風速を、いかに応用してマイクロ風車を設計するか。

 車用マイクロ風車のアイディアは、本格的なEV(electric vehicles電気自動車)時代を見越した、大胆であり途方もないアイディアである。しかし走行中は安定した風速がえられる反面、超小型にせざるをえない。それを補うアイディアとして、風洞のなかに超小型風車をいくつか連結して納める、というアイディアである。
 マイクロ風車発電機が完成すれば、途方もない大きな市場が見こめることは間違いがない。本格的EVカーの幕があけたばかりである。
 一方でハイブリットカーが、自動車業界を席巻(せつけん)している。
 このエコカー時代の幕あけに、中古車を電気自動車に改造し、超小型風力発電機で充電しながら走行する。これは画期的で、中古車業界や運送業界には革命をもたらすであろう。 ただ、これを技術的に可能にするには課題が多い。田中健介は、熱意をもって取りとりくんできた風力発電機の技術が生かせると判断し、その壮大な夢をともに見ることに賭けたのである。

 風力発電機開発のプロジェクトは、経験のある田中健介をリーダーとし、鈴木裕也、勅使河原努、横溝淳二が担当することなった。開発手順として、市販されている最適なEVモーターを選定し、それに適したバッテリーをさがす。問題はそれからである。
 EVモーターが消費する電力を、走行中に充電可能な能力をもつ、超小型風力発電機を設計することである。さらに風速を増幅させる風洞も設計しなければならない。超小型風力発電機プロジェクトは、それぞれが役割分担をきめて活動をはじめた。
 鈴木裕也は、工業高校で自動車工学を専攻していたから、EVモーターと必要なバッテリーの調査と、電気自動車の改造試作を担当する。
 リーダーの田中健介は、超小型の風力発電機の設計を担当し、勅使河原努は、高専で機械工学科を卒業しているから、田中健介と共同で風洞の設計を担当する。
 横溝淳二は、経済大学出身であるため、特許申請に関する情報収集を担当することにした。ただ風力発電機に関しては、いちから知識を習得しなければならない。また特許をとるには、技術的な概念や、規格を知らねばとても申請できない。そこで田中健介や勅使河原努と行動をともにし、知識を習得することにした。ただ、技術者が陥(おちい)りやすい専門的な撞着(どうちやく)には無関係であり、シロウトの発想が技術的なブレークスルーになることを期待された。

 まずEVモーターと回転数を制御するコントローラー、最適なバッテリーと充電器などはサプライヤーから購入する。つぎに中古車を実際に市販部品の組みあわせで、EVカーに改造する。それから、時速30~40㎞走行時の1㎞当たりの電力消費量を実測する。
 その電力消費量につりあう能力をもった、風力発電機を開発しなければならない。
 モーターはさまざまな電動用品として、内外のメーカーがいろいろな規格で発売している。すでに自動車を走らせる能力があるものも、いく種類か発売されていた。
 鈴木裕也が調達したEVモーターは、アメリカ製の一時間定格(ていかく)出力で、電圧72V(ボルト)、電流110A(アンペア)で、連続定格出力トルク(回転速)は3千900rpmであった。市販されている規格品バッテリーは、電気容量は異なっても出力はすべて12V仕様である。これは車の電装品の規格が、12V仕様に統一されているからである。
 EVモーターに必要な最低電圧は70Vのため、12V規格バッテリーを6個直列に連結すれば72Vの電圧がえられる。EVモーターの回転が1千回転のときは、電圧が10ボルト、2千回転のときは電圧が20ボルト、最大の7千回転のときは、電圧が70ボルト必要となる。
 試作車では、市販の最大容量をもつ12Vバッテリー6個を直列に連結することにした。連結でバッテリーの電気容量は74Ah(アンペア・アワー)、72Vの電圧がえられる。
 74Ahの電気容量は、電気仕事量のワットに換算すると、6・3キロワットの電力容量となる。すでに日本の自動車メーカーも、電気自動車の試作車を発表している。
 それらの公表データーでは、バッテリー容量が10・5キロワット~24キロワットである。 それらの走行1㎞当たりの電力消費量は、100ワット~124ワットとなっている。
 この電力消費量から計算すれば、市販規格の最大容量のバッテリー6個を連結すると、6・3キロワットの電力容量となり、バッテリーだけでも50~60㎞走行走行可能である。






風力発電機

 風力発電機は、プロペラ型、オランダ型、サボニウス型、ダリウス型、ジャイロミル型などがある。その中でプロペラ型風車がもっとも普及している。
 プロペラ型は羽が風を受け、タテに揚力(ようりよく)を発生させ水平軸が回転する。
 羽の断面が翼のような婉曲(えんきよく)ブレードで、揚力を発生させ風速以上に羽が回転する。プロペラ型は、発電効率がもっとも良く、大型化が可能でメガワット(1000kW)以上の能力をもつ、本格的な風力発電機に採用されている。欧米や日本でも海岸沿いなどに、大型のプロペラ型風車が多数採用されている。
 オランダ型風車は、水車と同様に古くから利用された動力である。構造は木製の羽の部分に帆がつけられ、その面積や角度によって、羽の回る速度を調整させている。
 この風車は大型で、回転する速度はゆるやかながら力がつよく、穀物の製粉や、川からの揚水(ようすい)などにつかわれている。

 サボニウス型風車は、円柱形をタテに二つに切り半円を左右にずらした形で、半円板が風をうけて回転する抗力型の垂直軸風車である。小型風力発電機で、風向きをとわず回転し風速がよわくても回転する。しかもプロペラ型のような風切り音が発生しない。ほかにも円柱形を四つに分割したものや、翼と同じ断面を持つ揚力型垂直軸風車で、直線翼をつかったジャイロミル型の垂直軸風車なども開発されている。ただ高速回転に限界があり、相対的に発電量が少ない。
 ダリウス型も垂直軸風車ながら、プロペラ型と同様の揚力型風車である。回転軸を中心に、弓を張ったような細い婉曲(えんきよく)ブレードを取りつけた揚力型風車である。高い周速比で大きなトルクがえられるが、低い周速比では起動に課題がある。

 田中健介が、開発してきた小型風力発電機は、主として サボニウス型風車と、直線翼を使ったジャイロミル型風車などの発電機であった。これらはタテ型の垂直軸風車で、比較的せまい場所にも設置でき、騒音問題がなく、しかも風向きを問わず回転する。風速がよわくても回転するが、その反面、相対的に発電量は少ない。
 田中健介が開発した主力の垂直軸風車では、定格風速 9・5m/秒、定格出力は2キロワットであった。最大出力は風速50m/秒で 3・5 キロワット、風車の直径は 44㎝であった。
 使用するバッテリーの電気容量にもとづき、開発する風力発電機の発電量は10~20キロワットが最終目標となっている。風力発電機の発電能力は、プロペラ型風車がすぐれている。それを極限まで直径を短くし、風洞のなかでプロペラ風車を連結し、電気自動車の走行に必要な電力を供給できるかどうか。
 プロペラ型風車の発電は、空気の流がもつエネルギーを、ブレード(羽)が機械的回転力に変換して水平軸の発電機をまわす。とうぜん風の力をつかまえるブレードの大きさに比例し、その出力電力はブレードの直径(長さ)で決まる。

 大型風力発電機のキロワットの出力能力計算は、約0・3×(羽根の直径m)の2乗となる。実際に直径45mの風車では600キロワットの出力がえられ、57~61mの超大型風車では1メガワットの出力がえられる。このため本格的な風力発電機では、直系が数十mという超大型のものが主流で、世界で1万基以上が稼働している。
 また大型風車は、風速8m~12m/秒を定格回転数として設計されている。
 このため回転数は、毎分10~50回転に設計されている。さらに風車の回転と、発電機の回転を連動させるため、遊星歯車機構をもつ増減速装置が設置されている。
 羽を回す自然な風エネルギーは、断面が翼の形をした羽が揚力を生じ、風速の3乗に比例し、風速が2倍になると出力は8倍になる。
 たとえば風速6m/秒に対し、風速9m/秒では発電量が3倍以上となる。
 このため設計時の耐風速を超えるような強風が吹いた場合、羽根のピッチを90度まで回転させ、羽根の正面で抗力を発生させ、揚力を減殺するハイドロブレーキと、機械式のブレーキを併用することで急停止が可能となっている。回転を停止したあと、羽のピッチを風の方向に対して平行にし、風の抵抗を少なくする。





シグマ・ウインズ

 課題はプロペラ風車をいかに小型化するか。マイクロ風車を風洞の中で連結し、どれほどの電力を引きだせるか。
 小型プロペラ風車の発電能力は、プロペラ直径1・2mで、定格出力(定格風速12m/秒)400ワット 、最大出力450ワット 、定格出力電圧は直流12ボルトであった。直径が1・8mになると、定格出力で1キロワットの発電能力がある。これは大型風力発電機の出力能力計算(約0・3×(羽根の直径m)の2乗とほぼ同じ値であった。
 マイクロ風車の最大直系を30㎝と仮定すると、単純な出力能力計算では、27ワットがえられることになる。12ボルト出力の場合で、電流としては0・44アンペアとなる。
 すでにふれたが電気自動車の走行1㎞当たりの電力消費量は、100ワット~124ワットである。したがって直系30㎝のプロペラ風車を4基~5基連結すれば、希望の電力に相当するはずである。このマイクロ風車を風洞の中におさめれば風力は安定する。風洞内部にテーパーをつけ円錐状にし、風を圧縮すると風速は加速される。
 風洞を円錐状にするには直径40㎝が必要で、取りつけ固定具などを計算すると、車の屋根から45㎝ほどの高さになる。つまり車の屋根に直径45㎝ほどの筒をのせた形となる。
 が、その高い省エネ効果から、やむをえないと判断した。
 田中健介が実務設計のため、プロペラ風車の文献を再点検してみると、風車を連結するという発想に、重大な欠陥と障害があることが分かってきた。プロペラ型風車の風下では、風速が遅くなる影のゾーン、すなわちウェイク・タービュランス(wake turbulence)が生じることが判明したのである。
 何度もふれるがプロペラ型風車は、揚力を発生させて回転する。
 このためプロペラの風下では乱気流が生じ、連結する風車にアンバランスな風荷重(かぜかじゆう)がかり風車の疲労強度がつよくなる。これでは実用化はできない。
 田中健介にとって想定外の、重大な障害があることが分かったのである。
 そもそもプロペラを直列に連結した風車など、存在しないことに気がついた。
「プロペラ型風車を直列に連結する」というアイディアは、風力発電にまったくのシロウトが発想したものであった。田中健介は、プロペ型については門外漢であったため、乱気流の知識がなく大きな衝撃を受けた。超小型風力発電機構想の大前提条件が崩壊し、実用化は大きな壁につきあたった。しかし簡単に諦めるわけには行かない。
 そこで急遽(きゆうきよ)プロジェクトメンバーを集め、再検討することにした。


田中健介 「設計するまえに文献を、又ねちこぉ調べたら、プロペラ風車を連結すると、揚力で風下(かざしも)に乱気流が生じてよ、つぎの風車に悪さすることが分かったんよ。プロペラ風車の連結はできんということやな。一から再検討やで。何かええアイディアがないかのう」

横溝淳二 「風車を連結するのは、でーれーえーアイディアと思っとったがのう。せーがダメなら、振りだしにもどるがな。おえりゃーせんがな」

勅使河原努 「プロペラの揚力が悪さをするなら、タテ軸にすればどないやろか」

田中健介 「直線翼も検討したんやが、ブレードの長さ2m、幅30㎝、回転直径1・35mの風車でん、出力は200ワット程度でしかないんよ。長さ2mを、30㎝に縮めちゃると、発電能力は4ワットしかないちゅうわけよ。それに回転直径が必要やから連結はでけんちゅうわけよ」

鈴木裕也 「風圧を利用する、サボニウス型でも結果は一緒やろうか?」

田中健介 「風圧を利用する抗力型でもな、同じ垂直軸風車やからな。ブレードの長さを極端に縮めちゃると、比例して発電能力は少くなるやろ。それに肝心の連結が不可能やから、はじめから検討からはずしとるんよ」

横溝淳二 「タテ型がダメなら、横に寝かしたらどうじゃろうか?」

田中健介 「タテのモンんをヨコにしてもやな、回転半径が必要やから連結できんな」

横溝淳二 「せーなら、ブレードをバラしたらどうじゃろうか?」

勅使河原努 「へぇー。ブレードをバラバラにして、どうしはるのや?」

横溝淳二 「ワシゃシロウトじゃけんね。詳しいこたー分からんがのう。個別のブレードに軸をとおし、一つ一つを横にならべ、個別に回転させたらと思うんじゃがのう。ちょうど焼き鳥の串を回転させるイメージじゃ」

勅使河原努 「こら驚きたんや!。奇想天外な発想どすな。これなら串を並べるように連結できまんねんな」

田中健介 「そやなー、直径30㎝の半円ブレードに中心軸を設けちゃれば、風圧で回転するな。しかしやで、ブレードに取りつける10㎜や20㎜の細い軸を、高速回転させても、えられるトルクはわずかやで。いくら多軸回転を集合しても、その小さなトルクではとても発電機を動かすには不足するやろな」

横溝淳二 「やっぱし、素人の思いつきはアカンかのう」

鈴木裕也 「そーや。ええこと思いついたでぇ。車に使われるトルクコンバータの遊星歯車を使えばいけるはずやで。細い回転軸の両端に30㎝のギヤホイールを取りつけ、ギヤ比を大きくすれば、大きなトルクに変わるやんか。たとえば10㎜の軸に300㎜のギヤホイールを取りつけちゃると、軸の回転トルクは30倍になるやんか。それをいくつもチェーン連結し、増減速機の遊星歯車のギヤボックスに連動しちゃると、大きなトルクで発電機を回すことが出来るのんとちゃうやろか」

勅使河原努 「思い出しましたえ。遊星歯車いうたら、太陽歯車を中心に、複数の遊星歯車が自転しながら公転する増減速機でおましたな。それに遊星歯車を固定し、外輪歯車をまわす方式もありますえ。増減速ギャを使えばいけますな。抗力型のブレードやったら、風圧で回りますやろ。風圧は風速の2乗に比例して大きくなりますさかいな。風速5mのときの風圧は0・1㎏やけど、これが倍の風速10mになると風圧は0・5㎏、風速15mの時の風圧は1・2㎏、風速20mの時の風圧は2㎏となりますさかいな。抗力型ブレードがよろしいな」
鈴木裕也 「さすがや。よう調べてはるな」

勅使河原努 「そら、空気力学を調べな、風洞の設計はできまへんさかいな」

田中健介 「そーか。ワイは今まで揚力型のプロペラ風車が、発電効率がもっとも良いという固定観念にとらわれ過ぎとったな。いまで設計したタテ軸型は、少しの風でん回転するよう、長く広幅のブレードが必要やった。抗力型ブレードを単体で横に寝かせ、ブレード自体を回転させるゆーう発想はできんかったな。横溝はんのユニークな発想は最高やな。これで最大の問題をブレークスルーしたかも知れんな」

横溝淳二 「シロウトの浅知恵も、ときにゃー役にたつな」

 横溝のおどけた表情に、問題解決ができた安堵感からみなが大笑いした。
 専門家が思いもつかない、ブレード単体を回転させるというアイディアがまとまった。議論のすえ、小さな回転力を集合させる風力発電機の名称を、「シグマ・ウィンズ」と名づけた。車用小型風力発電機と、中古自動車を電気自動車に改造する事業は、風力発電機の命名から、シグマウインズ株式会社と決定した。このブレークスルーに成功すると、全員があつまり経営方針が決定された。





法人登記

阿比留健太は実務的な事務処理で多忙であった。
 まずインキュベーション・オフィスに、活動拠点となるスペースをを借りた。
 この事務所は、ベンチャー企業支援を目的とする市の外郭団体の財団が運営している。 3年間の入居制限があるが、ビジネス拠点としては大阪の中心部に位置し、しかも格安の家賃が設定されている。専用の事務所スペースのほかに、有料で会議室や商談ブース、コピー室なども利用できる。地下には駐車場と食堂も設けられている。
 財団が運営するインキュベーション・オフィスは、まさにベンチャー企業が支援を受けて、孵化(ふか)するまでの仮住まいの事務所である。
 この壮大なプロジェクトに参加している若者たちは、派遣社員という不安定な身分を体験し、(世の中は不公平や)という思いがつよかった。ところが一朝にして考えかたを変え、革新的なビジネスモデルを作りあげ、信頼という絆で動きだしてみると、意外にベンチャーを支援する、さまざまな手あつい仕組みが用意されていた。
 拠点となる事務所には、半円形をあせた大型円形のテーブルをおき、回転椅子を周囲にならべ、フリーにどこにでも座れるようにした。ラフなスタイルで、自由な議論と発想を行う事務所をめざした。大きなテーブルは、設計図やチャートを広げるのに便利である。
 この事務所を拠点に、資本3千百万円のテンフェースの法人設立登記をした。
 設立登記がすむと、ついで野菜倶楽部とシグマウインズの二つの子会に出資し、各1千5百万円の資本金で設立登記を行った。

 テンフェースの代表には、みなの推薦で阿比留健太が就任し、他の9人は全員取締役に就任した。子会社の野菜倶楽部の代表には市ノ瀬克也が就任し、山田太一も代表権のある取締役とし、共同代表制の下に他の8人が全員取締役就任とした。
 シグマウインズの代表には田中健介が就任し、鈴木裕也も代表権のある取締役とし、同様に共同代表制の下に、他の8人全員が取締役就任とした。これらの人事は、テンフェース役員全員が参加し、議論の末に合意したものであった。
 持ち株会社だけでなく、二つの子会社にまで、全員が取締役につくことには異論もでた。 二つの子会社は、それぞれ代表権をもつ二人が、資本金の大半を出資しているという意識が前提としてある。このため、(出資金に応じた経営の裁量権があってしかるべき)という意見もでた。しかし、テンフェースを、持ち株会社として設立した経緯は、二つの子会社に対するコーポレート・ガバナンス(企業統治)を明確にし、総合力を発揮させることにある。阿比留健太は、すでに「資本と経営は別」という認識に変わっていた。
 通常の大企業は、大株主といえども経営は経営者にまかせ、株数に応じた配当金を受けとるだけである。事業展開しだいでは、外部資本を受け入れることも予想されるから、資本とコーポレート・ガバナンスは、明確に分けておきたいと考えたのである。

 このため、テンフェースの全役員の連帯責任で、子会社の運営にあたる。というのが当然と考えた。そもそも持ち株会社を設立した経緯は、二つの異なる事業を個別に立ちあげ、それぞれが独自の運営をするより、ひとつの持ち株会社のもとで結集し、総合力を発揮することに意味があったはずである。二つの子会社が、それぞれ独断に走ることだけは避けたかった。
 十人の情熱と信義と知恵を、総結集して運営するには、子会社にも全員が取締役として参加し、連帯責任を負う仕組みがベストだと説得した。こうした説得で、創業の原点に立ちもどったのである。「立場が人をつくる」のたとえどおり、阿比留健太はまとめ役として、統率力という萌芽を芽ばえさせていた。





先行技術調査

 横溝淳二は、まず先行技術の特許出願調査した。
「特許電子図書館」の検索窓で特許検索をしてみて驚いた。車の走行風を利用して発電し有効活用することを目的とする、「移動式風力発電機」について、特許申請がいくつもあったのである。
 車載可能な羽根車を発電機に結合し、発生電力を制御装置を用いてバッテリに充電するようにした、風力発電による車載バッテリ充電装置。

 空気取入ダクトを車両の進行方向に形成し、そのダクトの空気取入口を車幅方向に開口し、車幅方向に回転軸を有し、車幅方向に長い複数の羽根を有する羽根車を、ダクトの取入空気により回転可能に配設し、上記回転軸に発電機を接続してなる車両搭載バッテリ充電用発電装置。風車による回転力を高めるための変速装置と、変速装置を介して風車の回転力で作動する発電機とからなる風力発電機。
船舶の航行中の風圧によって風車を回転させ、この風車の回転力で発電機を作動させて電気を発生させ、この電力で船舶を推進させるようにした提案。

 さらに、これらの先行技術をふまえた上で、新たに車載用風力発電機の特許申請があった。
「移動式風力発電機」「自動車用風力発電機ユニット」などである。 考えてみれば、「走行風を利用する風力発電機」は、プロペラ型の大型風力発電機の弱点を考慮すれば、たれでも容易に考えつくアイディアである。
(やはり素人の浅知恵じゃおえりゃせんな)と呟(つぶや)きながらも、必要部分をコピーして持ちかえった。臨時のプロジェクト会議を開き、先行技術の出願資料を検討した。

横溝淳二 「いろんな特許出願があって、驚きやで。走行風を利用する発電機の特許申請は遅かったかも知れんな。けーは駄目かもしれんな」

鈴木裕也 「いろいろあるもんやな。ワイらが知らんだけで、みな色々考えてはるな」 

 しばし沈黙がつづいた。なんども資料をめくる音だけがつづいた。
 やがて発言がはじまった。

田中健介 「車載可能なーとあるけどな、ワイたちが考えとる形とはずいぶん違うやんか」

勅使河原努 「そうどすな。走行風を利用する風力発電機ちゅうだけでは、特許にはなってしまへんな。いくつも特許申請をしてはるゆうことは、走行風を利用するちゅうだけやのうて、ややこしい仕組みのちがいで申請されとるさかい、請求の範囲が問題どすな」

鈴木裕也 「そうやなー。この〔電気自動車〕の特許を、よーく見るとやな、特許申請の【要約】があって、その中の【課題】として(車両走行風を適正に活用し得る車両搭載用風力発電機構を案出し・・走行可能距離の長い電気自動車を提供する)となっているやんか。つぎに【解決手段】 として具体的な発明内容があり、それにもとづいて【特許請求の範囲】がいくつも書かれとるで」

田中健介 「そうやなー。同じ車載可能で走行風を利用する風力発電機でもや、その走行風を利用する手段がことなれば、いけるんやで!」

勅使河原努 「そうどすな。ウチが設計してる風洞は、単なるダクトやのうて、ずいぶん違う仕組みどすえ。風圧を増減させる仕組みも全くちゃいますえ」

田中健介 「ここに、<ダクトの空気取入口を車幅方向に開口し、車幅方向に回転軸を有し、車幅方向に長い複数の羽根を有する羽根車を、上記回転軸に発電機を接続してなる>とあるけどやな、図面をみると、ひとつの回転軸に複数の羽根をこしらえる形やで。
 ワイらのブレード単体を回転させ、それを増幅し集合させるちゅうシグマウインズとは、まるで違うやないか。表現は似とるけど・・構造はまったく違うやんか」

横溝淳二 「ワシゃー、勘違いしとった。要は【課題】の【解決手段】がまるっきし違やーええっちゅうことじゃね」

鈴木裕也 「それに、よーく見るとやな、どれもこれも審査未請求やでぇ」

田中健介 「ホンマやな。審査未請求ちゅうこコトは、実用化に自信がないのとちゃうか。
まだアイディア段階やから、審査未請求のままで、見なし取り下げまでの時間稼ぎをしているように思えるな。似たような特許が申請されるのを牽制する効果があるのやろうな」

勅使河原努 「そうどすやろな。審査未請求ゆうのんは、実施可能なところまでは煮詰まってへん。単なるアイディア段階どすな。そやさかい、ウチらの実施可能なアイディアを、はよう試作できるまで工夫しまひょう。そして早よう審査請求したら、ええのんとちゃいますやろか」

 結果としては、走行風を利用する「移動式風力発電機」の、先行技術を研究する良い機会となった。唯一、シグマウインズのように、「ダクトの空気取入口を設け、そのなかで羽根車を回転させ発電機を回す」という申請があった。が、一つの回転軸に一つで複数羽をつけただけで、小型化すれば実用的な電力がえられるか疑問である。
 シグマウインズのように、「風を受けるブレードを単体軸で回転させ、その回転力をギヤホイールで増幅させ、複数の回転力を集合させて増速機に連結する」という概念とは全く異なることが判明した。
 さらには、風洞もたんなる「空気取入ダクト」ではなく、風圧を増幅させたり、風圧を減少させる機構をもっている。つまり殆どの審査未請求の特許申請は、可能性のアイディアだけであり、実用的な電気が得られるとは考えにくい。
 実用的な風力発電システムとしては、シグマウインズの方が、はるかに発電能力において優れている。つまり実用化に最もちかいと判断した。
 これらの特許公開情報の先行技術資料は、シグマウィンズの特許申請の参考文献として、利用価値のある資料となった。先行技術とは全く異なる、新規性の高い発電機構であり、さらに実用的な発電能力があることを、走行テストの資料で示せばよい。
 改めてシグマウィンズの設計を見なおし、設計上の発電機の回転数限度に達したときの減速方法と、風洞への風の吸引を絞る方法に工夫を重ねた。
 さらに具体的な特許申請に関する情報をあつめ、弁理士と相談しながら、発明の概念と特許の請求範囲の設定を行った。


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特許申請

 特許申請の【明細書】には発明の説明を記述し、それぞれ説明図を貼付しなければならない。実施可能な技術が前提条件であり、その具体的技術説明と図面が必須である。また【背景技術】【先行技術文献】【特許文献】などで、既存の技術と比較し、如何に新規性があるかを強調しなければならない。
 シグマ・ウインズの新規性は、風を受ける抗力型ブレードを、従来とは全く違う概念で風洞のなかで複数のブレードを単体軸で回転させる。その回転軸トルクをギヤホイールで増幅し、複数ブレードの回転トルクを集合させ、増速機でよりおおきなトルクで発電機を回転させるということである。

 田中健介が設計した風車は、直径30㎝の半円型の長さ1mのブレードの中心に、10㎜の水平軸を設置し、その回転軸の両端に直径30㎝のギヤホイールを設けて独立回転させる。
 それを4個並列にならべ、個別のギヤホイールの回転トルクを、チェーンで連動回転させ増速機に連結する仕組みである。4個並列に並べると、左右で8個のギヤホイールが独立回転する。両側の4個の回転トルクは、ワイヤーで連動されて増幅され、その回転を遊星歯車機構で増速させる。
 両側の増速機の回転トルクを、発電機の両側の回転軸に連動させる。
 合計8個の30㎝のギヤホイールの回転力が、すべて集約され増幅されて大きなトルクで発電機を回すことができる。これを風洞におさめると、小型乗用車の屋根にも取りつけ可能となった。
 電気自動車の市街地での、平均値である時速40㎞で、走行1㎞当たりの電力消費量は100 ワット~124ワットである。プロジェクトで試行錯誤で開発に成功したシグマ・ウインズ発電機は、ほぼ110 ワットの発電能力を持つことが出できた。
 トラックなどでは二段に重ねて、回転ブレードを増やすことで、必要な発電をえられる見通しもついた。これらを応用すれば、小型船舶や大型の船舶にも取りつけ可能となり、その有用性は無限に広がる可能性を秘めていた。
 以下は、特許申請の具体的内容である。

【発明の名称】各種の自力走行可能な移動体(車両、列車、船舶等)に取りつけ可能な、走行風を利用する風力発電機構。

発明の詳細な説明

【技術分野】移動時に相対的に発生する走行風を利用し発電する風力発電機に関する。

【背景技術】001 風力発電機は二酸化炭素ガスを発生させないクリーンエネルギーとして、世界中で実用化されている。しかし自然風力を利用する固定設置された手段であって、安定した電力が供給できないという課題を抱えている。
 002 この課題を解決する手段として走行中に発生する走行風を用いた風力発電機。

【発明の概要】自力走行可能な移動体に付着せしめ、走行風を適正に活用し得る風力発電機構を持ち、移動体が必要とする電力の一部又はその全量を供給する。

【発明が解決しようとする課題】自力走行可能な移動体の走行風を適正に活用し得る風力発電機構を案出し、これを移動体に付着設置し該移動体の必要とする電力を提供し大幅な省エネ効果をもたらす。
【課題を解決するための手段】自力走行可能な移動体の走行風を適正に活用し、電力を供給する風力発電機構を備え、蓄電池に電力を供給する。
 風力発電機構が走行風を適正に活用し得る風洞機構(1)を持ち、風洞内部に複数設けられた風の流入に直角で風圧で水平に回転する独立せしめた抗風型ブレード(2)と、その回転軸の両端に設けられた回転軸の30~90倍の直径をもつホイール(3)によって回転駆動力を増幅せしめ、並列して設けられた複数の抗風型ブレード(2)の両端に設けられた複数のホイール(3)の回転動力を連動せしめる回転動力伝達機構(4)(チェーン若しくはベルト等)によって、独立して回転する複数の抗風型ブレード(2)の回転動力を集合させ、それに連結する遊星歯車機構をもつ増速機構(5)で増幅した回転力で発電する風力発電機機構によって、従来の走行風を利用する車載型風力発電機の発電能力を大きく超える100ワット~500ワットの電力を発電可能とした。
 この風力発電機構は、電気を消耗する車両、列車、船舶その他の走行風を得られる移動体に取付けて発電して蓄電池に蓄電し、モータに出力する以外の別の用途(空調、照明等)にも使用可能となる。

 【発明を実施するための形態】略図省略

 【産業上の利用可能性】①中古自動車のエンジン等を取外し、モーターと蓄電池を設置した電気自動車等に、該風力発電機構を付着せしめ、電気自動車の消費する必要な電力を供給することで、長距離走行性能を飛躍的に向上させることができる。
②列車や船舶等に該風力発電機構を付着せしめ、それらの必要とする電力の一部を供給し、大幅な省エネ効果が期待できる。

  【物件名】 特許請求の範囲 (詳細は省略)
 もっとも重要なのが「特許請求の範囲」である。個別の請求項目に範囲指定漏れや曖昧さがあると、その隙をついた特許が申請される恐れがある。厳密で詳細な多数の請求項目の設定が必要で、シグマウインズでは請求項は十一項目を設定している。
 じつに煩わしい煩瑣な語句がつづくため以下は省略する。
 




知財総合支援窓口

 特許申請書類は完成したが、手続き確認のため大阪発明協会にある「知財総合支援窓口」をたずねてみた。特許庁や発明協会というのは、鈴木裕也や横溝淳二にとっては、縁の薄い未知の役所であった。厳密な書面主義で、かたぐるしいイメージがあった。不安を抱きつつも訪れてみると、意外にも親切に相談にのってくれたのである。
 特許庁では、アイデア段階から事業展開までの、知的財産(特許)に関する悩みや課題の支援を行っている。それらを専門家や支援機関と共同して、解決をはかるワンストップサービスを提供しているのが、「知財総合支援窓口」であると知らされた。
 まず特許を取得するまでの流れについても、詳細に教えられた。
 特許出願を行うと、出願日から1年半経過すると公開され、公開情報のデーターベースに掲載される。特許出願を行っても、3年以内に審査請求を行わなければ、「みなし取りさげ」とされる。審査請求を行うと、実体審査手つづきが行われる。

 実体審査とは、「特許の要件」を備えているか否か、技術専門家の審査官が審査を行う。
「特許の要件」とは、発明の新規性、進歩性の有無、先願技術との関係審査、「特許請求の範囲」「明細書」などの記載の不備等をチェックする審査である。
 これらに不備があれば、「拒絶理由通知書」が発送されてくる。この場合は、補正手続きを行い、問題がなければ、特許査定を受けることができる。
 特許査定で特許と認められれば、特許料を納付し特許権が登録される。
 ただ特許審査順番待ち件数は、年々増加傾向にあり、2008度末でも87万件に達している。このため特許審査は、順調に行っても平均27ヶ月を要しているという。このため一定の要件を満たす場合は、「早期審査制度」を利用できるという。
 一定の要件とは、出願人が、中小企業又は個人である場合と、グリーン発明(省エネ、二酸化炭素削減等の効果を有する発明)についての特許出願であるものをいう。
 早期審査が受理されれば、審査着手まで平均1・7か月(2010年)くらいに大幅に短縮される。審査着手されて「一次審査」を経て、意見と補正が行われたあと、「二次審査」をうけて特許が確定する。
 つまり早期審査であれば、約半年で特許が正式に成立する。
 ただし早期審査には、「早期審査に関する事情説明書」の提出が必要である。事情説明書には、早期審査を申請する事情、先行技術文献の開示、および対比説明などを記載する必要がある。また早期審査の申請には、ネット回線を利用した「電子出願」が条件となっている。これに必要なソフトのダウンロード、電子出願に必要な「電子証明書」の発行機関や認証局も紹介を受けた。
 驚いたことに、審査請求を行うと審査官と特許出願人とが直接に面接し、相互の意思疎通をはかる制度があることも教えられた。直接に面接とはいっても、経済産業局「特許室」のテレビ会議システムを利用したTV 面接である。しかも申込みとTV面接には手数料は不要という。
 最大の関心事は、果たして特許が成立するか否か。可能性をたずねてみた。
 相談員は申請書類をチェックし、背景技術に関する文献の不備を指摘したが、それらを補正すれば、書類上は問題ないとの回答であった。ただ特許が成立するか否かは、厳密な特許審査を経なければ分からない。という回答であった。
 相談員はさらに、外国関連出願を同時に行うと、「スーパー早期審査」の対象となるという。「実施関連出願」でかつ「外国関連出願」であることを条件として、「スーパー早期審査」を申請することが出きるという。スーパー早期審査」を受けると、一次審査から二次審査のあと、特許が成立するまでわずか90日ていどだという。
 発明協会の相談員から、予想外の親切な説明をうけ鈴木裕也と横溝淳二は顔面が紅潮する思いであった。

(世の中は、意外にも弱者にやさしい制度があるな)
 彼らは社会制度は弱者にきびしい。と、まったく根拠のない観念がつきまとっていた。それが、根底から一変したのである。
 特許法の目的は、日本の産業を発展させることにある。
 したがって「新規性」がある発明については、なるべく早く情報公開することが産業の発展のためには望ましいとされている。このため新規の技術公開を出来るだけ推進することこそが、特許法の目的である。そのため、特許の要件として「新規性」が求められているといえる。この新技術を公開することで、関連産業がそれらの特許を利用して産業が発展する。このため特許庁では技術的な支援についても、求めている技術内容を把握し、さまざまな支援機関の人材データベース、中小企業基盤整備機構、商工会、商工会議所、大学や研究機関とのマッチングを支援しているのである。
 また特許庁は、近年「世界一速い特許審査」など、知的財産立国に向けた態勢強化にのり出している。審査に入るまでに2年待たされている現状を改善し、10年後をめどに「世界に類のない」審査待ち期間ゼロ、を実現する方針を打ちだしている。
 今後5年で現在1100人の審査官を、5割増やし1600人態勢をめざしている。  また、審査の一部を外注し、効率化をはかるため、「特許審査迅速化法案」が出されている。審査の迅速化で、優れた発明の事業化を早め、日本企業の国際競争力の強化をめざしているのである。
 



ベンチャー企業支援組織

 法人登記がすむと、健太のつぎの課題はテンフェースの運営資金をいかに調達するかである。ベンチャー企業として地道な事業を行うには、資本金3千百万円は、それほど少ない資本金ではない。しかし二つの異なる事業会社を同時に立ちあげ、それぞれが革新的な発想で壮大な夢をふくらませている。
 フード事業は、健康志向のファースト・フードで、少しでも高脂肪・高カロリーの食文化を改革しようという壮大な夢を描いている。ファーストフードは、もっとも身ぢかで馴染みやすく、影響が大きいからである。このために直営の10店ほどの核店舗で、大成功させねばならない。その実績をもとに、フランチャイズ店を全国展開したいと考えている。はじめは集中加工設備などは設けず、委託生産することにした。

 シグマウインズ事業は、まさに未知の大陸を開拓するに似ている。
 走行風を利用して発電するという、新規性と実用性の高い製品である。中古車を電気自動車に改造し、消費電力を充電しながら走行出来るのである。車体規格にあわせて幾種類かを開発すれば、無限ともいえる需要が発掘できる。この壮大な計画から見れば、まさに少額の資本金でスタートせざるをえない。
 課題は特許を武器として、多くの協力工場を設けなければならない。
 それでも最低限の組み立て工場が必要となる。資金は多ければ多いほど、その可能性は広がる。こうした背景から、公的資金調達の重要性がましている。また持ち株会社という異例の創業で公的資金を調達するには、公的研究機関の指導と支援を受けた事業計画であるという裏付けが必要と考えた。このため市が設立したベンチャー企業支施設を、最大限に利用することにした。
 ベンチャー企業支援には、産・学・官ネットワークの研究機関があり、これらの支援を有効活用することであった。公的支援の指導は、公的資金の借り入れ申込みのときに、確実な事業計画である事を裏付けてくれる。と考えたからである。

 健康食品の商品開発、製造技術、品質管理や工場運営、さらに機能性食品の安全性や、有効性に関する科学的知見など、健康食品の開発に関しては専門相談員が数人も登録されていた。前にもふれたが市ノ瀬克也、山田太一、新居忠、そして阿比留健太は、何度もこの食品に関する研究機関の相談員を訪ね、さまざまな情報提供と問題解決の支援を受けてきた。この食品研究機関の助言をもとに、フードメニューや食材加工技術、保存方法及び加工委託に適した、いくつかの候補会社の紹介まで受けている。

 シグマウインズも、阿比留健太、田中健介、鈴木裕也、横溝淳二と四人で、何度もベンチャー支援の市立工業研究所に通った。シグマウインズの構想と図面をみせ、技術指導や効果的な製造方法について詳細なアドバイスを受けた。工業研究所の技術相談員は、その構想の革新性に驚き、身をのり出すようにして開発手順や稚拙(ちせつ)な技術手段を、先端技術の応用で修正してくれた。仮にプロジェクトメンバーだけでは、半年や一年は必要かと思われる技術的課題を、工業研究所の技術相談が、わずか一ヶ月でシグマウインズの多くの技術課題が解決したのである。
 風力発電機の設計上、耐風速限度を超える場合、減速装置の機械的なブレーキと、風を受けるブレードを水平に固定維持する設計であった。技術相談員は、風洞に開閉機構を設け、風の流入自体を風速に応じて調節する案をアドバイスした。これでシステム自体がシンプルとなり、故障の可能性が低くなる。これらの技術支援が、すでにふれた特許申請に大きな役割を果てしている。
 技術的裏づけにとぼしい革新的アイディアであったが、その技術的な補完を専門相談員たちは解決してくれたのである。技術相談員は専門外の技術については、工業大学の教授へも問いあわせ、技術的な問題をひとつひとつ解決していった。
 もしこの市立工業研究所の、相談員の熱心な技術支援がえられなかったら、シグマウインズの技術的な問題解決には、相当の期間が必要であったであろう。
 テンフェースの持ちこんだ、移動体用マイクロ風力発電機構想は、この支援組織にとっては、本格的技術的支援にふさわしく、将来性の高い格好の課題となったのであろう。
 




エンゲージメント

 みずから回転しはじめたテンフェースの車輪は、速度をあげて転がりはじめた。
 それぞれ担当する課題について、知識と構想力、行動力を磨き、潜在していた必要な能力を必要に応じて芽ばえさせていった。
 いくつもの課題に挑戦し、解決の糸口を見つけるたびに大きな高揚感を共有し、自発的に行動し、仲間を信頼しあい成功のために一丸となった。
 このプロジェクトチームは、エンゲージメント(Engagement)、すなわち組織への愛着心が トップレベルに達した。多くの企業が、エンゲージメントの向上を最優先課題のひとつとしている。エンゲージメントとは、組織への信頼、献身的に業務に取り組む姿勢、全体像の理解、同僚への尊敬と協力などの行動をさしている。
 大きな目標を共有したことで、エンゲージメント・レベルが最高に達したのである。

「maman plat」の開店準備と平行して、与謝野正樹はホームページの製作に着手した。ホームページは企業の顔であり、重要な顧客とのコミニケーション手段であり、また広告宣伝効果も大きい。ホームページでは、あらゆる検索キーワードで上位に表示されるよう、健康、健康食品、ダイエット、野菜、フルーツなど、30ものキーワードでヒットするようHTMLのタイトル記述に工夫をした。
 さらに店舗を(お客が育てる食文化発信のサテライト)と位置づけた。
 客席にパソコンをおき、利用するお客の批評や意見、提案を発信できるようにした。提案されたレシピはホームページで公開し、その提案レシピについて、自由に評価や意見を書き込める仕組みとした。評価の高いレシピは、期間限定で販売し、提案者には謝礼を支はらう。これが売上げ実績に貢献すれば、販売期間を延長する。
 このようなお客と一体となった商品開発の仕組みは、顧客の囲込み効果と、口コミでの波及効果が期待できる戦略である。またwiFiサーバーを置き、モバイルのネット利用ができるようにした。店の滞留時間をふやす効果と、固定客を確保する狙いがある。
つぎの課題は、開店前にどれだけ店の認知度を上げるかであった。
 開店前から大きな期待を集めるためには、パブリシティーが有効である。大阪周辺のミニコミ誌を調査し、「maman plat」のコンセプトや店作りのポイントを配布した。
 またブログやフェースブック、ツイッターなど、あらゆる発信手段を活用した。
 必要となる人材募集に関しは、ホームページと共に、人材募集の情報誌に広告を兼ねた募集を掲載することにした。
《やさいくらぶmaman platは、アルバイトは採用しません。正規社員だけを募集します。ただし新しい食文化を、共に作る意欲のある人を求めます。》

 中園勝は、maman plat の出店戦略を自らの課題として取りくみ、ファーストフード店の出店調査と坪売上げ高を研究した。アンチ・ファーストフードが課題ながらも、店舗スタイルは合理的なスタイルを真似る予定である。ファーストフードの代表は、世界中に店舗網を持つマクドナルドである。その出店戦略は参考になるはずである。
 マクドナルドの日本での一号店は1971年にオープンさせた銀座三越店であった。これは開店当時は、銀座が流行の情報発信基地であり、「銀座で話題になれば必ず成功する」との思惑からであった。このため、しばらくは、繁華街へ集中的に出店する戦略がつづいている。
 これはドミナント(=集中、集合)戦略と呼ばれ、その後に普及したコンビニの出店戦略にも引きつがれている。この大都市の繁華街への集中出店戦略で、マクドナルドが都会的な新しい食のスタイル、というイメージを定着させた。
 maman plat が、新しい健康志向の食のスタイルを提案する以上、この戦略を踏襲する必要がある。大阪で最も人が集まり、(流行発信地)としてふさわしい場所を選ばねばならない。新しい食のスタイルを提案するにふさわしい場所として、通称(ヨーロッパ通り)といわれる東心斎橋の、御堂筋(みどうすじ)周防町(すおうちよう)筋に一号店の候補地を探すことにした。
 アメリカ村にも近く、それに見あう話題作りと高い坪売上げが期待できるからであった。
 一号店をトラディショナル(母店)として位置づけ、35坪で賃料90万円、保証金350万円の物件をさがし、全体会議で協議した。この立地なら一日50~100万円の売上げは期待できると、計算したのである。その根拠は実地調査にある。

 新居忠は、周防町(すおうちよう)筋の各ファーストフード、コンビニ、カフェなどの時間帯別の、来店客数を徹底的に調べた。機械式カウンターを三個持ち、歩道の端で折りたたみ椅子に腰かける。あたかも交通量調査のようなスタイルで、堂々とカウンターを押しつづけたのである。特にハンバーガー、ドーナツなどは、11時から13時、16時から18時、19時から20時と来店客数と性別、通行人をカウントした。
 こうした地道な調査で、平均客単価を500円として一日の来店客数を平日で1千人、土日で2千人は見込めると数値をはじき出したのである。
 ただ改装費、厨房設備、客席設備その他の設備で、約700万円の設備投資が必要で、一号店の開店費用は合計1千万円を超えることになる。野菜倶楽部の自己資本は1千5百万だから、その大半を一号店に投入することになった。
 新居忠はさらに店舗レイアウトと、店舗イメージを決定する店舗ロゴや、外装看板と店内POP、店内演出を担当し、各店舗を実地調査した。素人だからこそ既成概念がまったくなく、徹底した実地調査を行った。客として実際に利用しながら、デザインや色使いなどを観察記録し、携帯のカメラで密かに写真も撮影した。
 こうして店舗のイメージをふくらませ、得意のラフデザインを何枚もえがき、会議で検討会を実施して、一応のイメージを決定した。実際のデザインは、ベンチャー支援相談員の紹介をもらって、新進の店舗デザイナーに発注した。ベースカラーは明るいライトグリーンで、若草色とモスグリーン、それに白を組みあわせた店舗イメージと、ロゴを配置することになった。 
 
 市ノ瀬克也と山田太一の二人は、肝心の食材の調達ルートの選定と、一次加工処理、二次加工の依頼先の選定に追われた。さらに課題である店内での加工処理方法、特に作り置きせずに、お客のオーダーをいかにはやく提供するか。食材の加工ロスをいかに少なくするか。原価をいかに安定させるかに苦心した。
 こうして、個別メニューの原価計算を行い、個別の販売価格を決定し、中園勝と新居忠の市場データーから、予想売上げの計算と一号店での収支計画をつくり上げた。
 一号店をトラディショナルとし、半年後には10坪程度のサテライト店を、西心斎橋、難波、天王寺、本町、梅田周辺のターミナル立地で開店する計画とした。 





公的資金借入れ

 やさい・くらぶ「maman plat 」の店舗計画は当面5店舗を開店し、運営ノウハウの確立と、メニューの見直しを行い、10店舗に拡大する。10店舗をめざすのは、集中食材加工設備をもち、低価格でも確実に利益を確保するためである。
 ベンチャー支援組織の相談実績は、公的融資を受けるには、確かな事業計画であることの裏付けとなるはずである。また公的融資制度についての情報や、申請手続きのしかた、そして肝心の事業計画書の作り方など、専門の相談員が支援してくれた。
 創業間もないベンチャー企業には、まさに到れり尽くせりの感があった。こうした支援組織の後おしによって、はずみ車のように動きだした。
 公的融資を受けるには、事業概要、事業内容の詳細、創業の動機、経営理念・経営ビジョンなど基本的な事業概要の説明書を作成する。
 もっとも重要な書類は、「開業時の資金計画」である。
 設備資金(敷金・保証金・内装工事代)、必要器具、開店時経費の見積書を準備し、開店後の運転資金、1年間の予想損益計算書の見積などが必要となる。これには予想売上高、売上原価、売上総利益、販売管理費などの予測が必要である。
 立地条件で売上げが大きく異なるから、立地と規模に応じたシュミレーションが必要となる。経理に明るい新居忠とプログラミングを得意とする与謝野正樹が、予測損益計算プログラムをつくり、シュミレーションを分担した。これらの資料を基礎に、阿比留健太をリーダーに、全員で手分けして事業計画書の作成に没頭した。
 全員で「事業内容の詳細」「販売活動の詳細な内容」1年間の「損益計算書」の予測などを点検した。詳細を全員で検討することで、より具体的な行動計画が明確にとなり、おのずと優先順位が整理された。また全体の流れを共通認識し、事業計画に整合性がとれているか。個々の数値が達成可能か。など冷静に判断できるのである。

 これらの融資申込書と事業計画書を、支援組織の相談員にもちこみ、不備がないか点検してもらった。こうして相談員の助言で、まず日本政策金融公庫の「地域活性化・雇用促進資金」を申し込むことになった。この融資制度は、雇用を促進することで、地域活性化がはかれると見なされれば、最大融資額が7千万円程度見こめるからである。
 子会社で開業資金を申しこめば、最大で資本金の3倍の可能性がある。それでは持株会社としての役割ができない。
 阿比留健太と市ノ瀬克也、山田太一の3人で、日本政策金融公庫で融資申しこみの書類を提出し、事業概要を熱心に説明した。融資担当者は、事業計画がそれなりに緻密にくみ立てられており、事業の新規性や、雇用促進も認めた。しかし創業したばかりの持株会社からの融資申し込みは前例がない。と腰を引いた受け答えであった。
 出来たばかりの日本政策金融公庫は、融資方針がまだ固まっていないのか。
 そこでなぜ持株会社を設立したのか、熱心に説明した。さらに公的支援組織の食品専門家の指導を受けた事業計画であることを説いた。特に採用する人員はすべて正規社員とすることを力説した。公的融資機関の担当者は、やはり役人であり前例を重視した。(実績が無いこと)にこだわり慎重姿勢は変わらなかった。しかし健太の熱意に、最後は(一応上司に相談する)と書類をあずかってくれた。
 それから10日ほどして融資担当者から連絡があった。窓口に担当者を訪ねると、
「幸運でしたね。いろいろ協議した結果、満額ではないのですが、資本金の倍の6千万円なら、融資を引き受けることになりましたよ」


 こうして、「やさい・くらぶmaman plat」は、年内10店舗開店のめどが付いた。テンフェースにとっては、さまに幸運であった。
 日本政策金融公庫は、平成20年10月に設立されたばかりの公的融資機関である。
 その原形は「国民金融公庫」「中小企業金融公庫」「農林漁業金融公庫」「国際協力銀行」を統合し設立された特殊会社である。
 2007年のアメリカ発の金融危機から、世界中に連動した多分野の資産価格の暴落がおき、日本の金融機関も甚大な損失をこうむった。金融機関は、自己資本比率が健全性のめやすとなる。自己資本比率改善の必要から、融資を引きあげたり貸しぶりをはじめた。
 このため中小企業や農林漁業への資金が逼迫(ひつぱく)し、さらに大企業の派遣切りも横行し大きな社会問題となっていた。
 こうした背景で、政府は小口資金を必要とする国民一般、中小企業者、農林水産業者の資金調達を支援する必要があった。こうした政府の判断で、政府系金融機関を解体し、新たに統合して日本政策金融公庫が誕生した。政府としては、長期不景気にあえぐ中小企業などを支援し雇用を増進させることが、日本政策金融公庫の設立の目的であった。
 相談した融資担当者は、かつて中小企業金融公庫の融資担当者であった。このため従来の融資実績にこだわりがあったのであろう。ところが融資課長に書類をあげ相談すると、
「政府の肝いりで設置されたばかりや。積極的、政策的な融資実績が必要なんや」
と話が一変したのである。設立したばかりのテンフェースは、日本政策金融公庫が、政策的な融資先をさがしていたという、千載一遇のチャンスに設立されたといえる。


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四国巡礼

 大久保太郎は四国巡礼の旅をはじめていた。
 鳴門市の一番札所の霊仙寺(りようせんじ)で巡礼装束(しようぞく)をととのえ、一日に一カ寺を目標として巡礼している。作法にしたがい本堂で般若心経(はんにやしんぎよう)をとなえていると、不思議に心が洗われるような心境になってくる。偏った価値観を強制し、気のよわい一人息子を自殺に追いこんだという大きな自責の念を背負ってあるいている。自責の念が四国遍路を歩かせているかも知れない。これは一生、背負いつづけ、償いつづけねばならない課題と思っている。
 こうして巡礼の遍路(へんろ)みちを、ゆるゆると公園をさがしつつ歩いている。
 公園にリヤカーをとめ、そこから札所まであるき参拝する。そのあと公園にもどってくる。公園は土地の人々との出あいをつくる場である。また日が落ちれば、リヤカーが宿泊場所となる。
 訪れた公園で気ままに人との出あいをつくり、それぞれの悩みを聞き、悲しみを聞き、また生きる喜びを聞いてきた。しかしリヤカーで旅をしている初老の人物に、たれでも奇異の目をむける。流れ者のホームレスか、と警戒感もあらわにする。
 そのような人々に笑顔であいさつし、ていねいで品のよい言葉でゆるりと世間話をはじめる。少し警戒感を緩めたころで、自らの人生の失敗を問わずかたりに話だす。
 やがて巡礼旅の動機を聞いて同情もし、心を開いてくるのである。
 人として生きている限り、たれでも何ごとか悩みをかかえて生きている。悩みというものは、たれかに聞いてもらうだけで、心がかるくなる。悩みを語ろうとすれば、悩みの根源を整理しなければならない。心を整理しつつ話はじめると、己が「何に執着」しているのか。語ることで、自己の悩みを客観視することになる。
 執着しているもの、こだわりつづけているものを、自ら手のひらの上で眺める結果となり、その執着を自ら開放させる動機ともなる。このとき、特別のアドバイスなどは必要がない。必要なのは、共感だけであろう。
 ただひたすらに、相手が語るはなしを聞くだけよい。ただ悩みを話す相手は、なんのしがらみもない相手の方が気が楽でもある。
 人には八十八の煩悩(ぼんのう)があるという。その煩悩の本質は執着心であろう。
 心の奥ふかくに閉じこめている執着心を、自ら気づかせ、自ら開放させるのが悩みを打ちあけさせる行いであろう。悩みを聞きだし、その執着心を少しだけでも開放させる。そのささやかな行いが、放浪の旅をつづけているもうひとつ目的ともなっている。
 
 埼玉を出発して、ゆるゆると中山道を一年もかけてあるき、堺のザビエル公園にたどりついたとき、ベンチで悩んでいた阿比留健太と出あった。
 わざと目のまえでころび、話のきっかけをつくり、健太をはげまし、勇気を鼓舞(こぶ)したのである。社会的成功体験をもたない若くして悩める人には、勇気をあたえ、自信を取りもどさせる方法をとっている。若い世代の悩みは、自信のなさと、現状を破ぶる勇気と、行動をおこす社会的な知恵にかけている。
「一人で悩まず、仲間と知恵を出し合い革新的アイディアという武器をつくりなさい」
 と諭す方法をとっている。たれしもみな、何らかの秘められた才能をもっている。
 が、その才能に自ら気づくこともなく、才能を引きださせる機会にもめぐまれず、社会の底辺に蹲(うずく)まっていることがおおい。だから自ら現状を破り、行動する勇気をあたえて鼓舞するのである。この若者たちを勇気づけ、(人は自らの力で、自らの道を切りひらくことができる)ことを伝えることこそが、自己に課している最大の義務であり息子への償いだとも考えている。
 阿比留健太との出会いと成り行きで、ザビエル7のメーリングリストへのアクセス権をもっている。この縁で彼らの革新的ビジネスプランづくりに成功し、予想をこえた活躍の成り行きは把握している。まるで我が子が活躍しているように思われてきた。
 なかでも健太の変貌ぶりは、大きな驚きであった。プロジェクトのまとめ役の立場におかれたことで、経験したことのないリーダー役を演じはじめた。また企業経営の根幹を直感的に理解し、統率力という才能を芽ばえさせていた。
 アドバイサーとして、メーリングに3度だけ書きこみをした。
 ひとつは法人設立のとき、 将来の企業ガバナンスのために「企業理念」と「経営方針」を徹底して議論し、みなが納得のゆくものをつくるべきと提案をした。
 二つめは公的融資を受けるには、公的企業支援を最大限利用すること提案した。
 三つめは、取引銀行は、都市銀行にすることを提案した。会社を大きくするには、全国に店舗網をもつ都市銀行に口座を設けることが、大きな信用力につながり、バックアップが期待できると提案した。いづれも健太は、それらを忠実に実行し、事業計画推進のはずみ車とした。
 明確な共通目標をもった若者たちは、それぞれの思いを変えて行動を変えた。
 能動的に行動が変われば、それぞれの習慣も変わっていった。
 各人が本来的にもっている、さまざまな能力をつぎつぎに芽ばえさせ成長させ、しだいに人格が変わってきたのである。
 社会に受け身でやや卑屈でさえあった人格が、堂々たる交渉力をもったビジネスマンとしての人格を形成していった。あきらめることを忘れ、夢の実現にむかって能動的に人格が変わっていった。人格が変われば、人生が大きく変わる。世間の常識さえ変える。大いなる成功への道をはしりだしていた。
 このような能動的な変化をみて、もはやアドバイサー役は不要と考えた。





成長の軌跡


(1) やさいくらぶmaman plat 
 テンフェースは資本金3千百万円と、6千万円の公的融資でスタートを切った。資本金の大部分は、野菜倶楽部とシグマウインズの資本金として再投資された。野菜倶楽部は、「やさいくらぶmaman plat」を、大阪都心で10店舗展開する事業計画をスタートさせた。一号店を母店として位置づけ、大阪でも流行の発信地としてふさわしい場所を選定した。開店費用は、敷金、設備費用、改装費用などあわせて、約1200万円を投資した。一号店を全力をあげて成功させる。つづいて母店を中心に、サテライト店を開店し認知度をあげる。サテライト店の開店費用は、諸費用を合わせて概算300万円ていどとして設定した。これらの店舗に食材を供給する集中加工施設は、大手の弁当チェーン店と提携することにした。
 一方、風力発電機事業のシグマウインズは、特許を取得することが第一課題である。また試作機やテストをくり返す必要があるから、すぐには売上げは見こめない。
 そこで初年度は「やさいくらぶmaman plat」10店舗展開に全力を注ぐことにした。
 テンフェースが運転資金として借りいれたなかから、3千5百万円は野菜倶楽部の運営資金として貸しつけた。こうして御堂筋周防町(すおうちよう)に「maman plat」一号店を、開店させることに成功した。計画では半年以内にサテライト店を、あいついで開店しなければならない。先行店で運営ノウハウと、売筋メニューの確認を行い、その実績にもとづきメニューの手なおしを行う。それらの実績をもとに、10店舗体制をととのえる。10店舗体制が完成すれば、自前(じまえ)の食材集中加工施設をもつのが目標である。
 自前の食材の集中加工施設が完成すれば、関西地区で100店舗まで対応できる。



(2) シグマウインズ試作機
 シグマウインズは、 田中健介の元勤務先の三木製作所に協力依頼におとずれた。
 三木社長は特許申請書類と、シグマウインズの設計図面をみて驚いた。シグマウインズの製作を約束するとともに、正式な特許を取得した時点で、株式の相互持ちあいすることを約した。シグマウインズの事業化にとって有力なパートナーとなり、三木製作所とその取引先の協力で、試作機一号と専用充電器をつくることになった。
 鈴木裕也が中古車を改造した電気自動車に、シグマウインズ試作機をのせ走行実験をくり返しおこなった。走行実験を繰り返し、風洞内部の設計手なおしと、増減速機の手なおしをした。試作機による走行実験と、改造によって希望の発電量が得られるまで、四ケ月を要した。試行錯誤の開発期間としては短い期間ながら、会社を設立してすでに半年近く経過しているから、プロジェクトとしては焦りを感じはじめていた。
 はなやかに御堂筋周防町(すおうちよう)に「maman plat」一号店を開店させたフード事業に比べると、シグマウインズはまだ試作機の段階である。これから風洞やブレード、ギヤホイールなどの樹脂部品の金型を発注するという段取りであった。
「maman plat」一号店の開店セレモニーのとき、阿比留健太は、田中健介と鈴木裕也の二人に、意外な話をした。
「じつはな、特許が成立したら、ベンチャーキャピタルから優先株2千万円の出資を引きうけたい、という話がある。あせらず確実に前へ進みましょう」
 と打ち明けられた。健太は銀行から紹介を受けたベンチャーキャピタルと、すでに交渉を行っていた。取引銀行の都市銀行は、系列のベンチャーキャピタルを傘下にもち、有望な投資先を探していたのである。



  (3) 2千万円の優先株増資
やさいくらぶ「maman plat」は、事業計画通りに先行店5店舗を開店した。
 期待した以上に若い女性たちやビジネスマンに支持され、予想を上まわる業績を確保した。(野菜ファーストフード)という革新的コンセプトと、(お客が育てる食文化発信のサテライト)というアプローチが、時代の潮流にフィットしたのである。
 カップ総菜やおにぎりまで品揃えしたことで、昼食時間帯になるとサラリーマンの行列ができた。若い女性やサラリーマンは、健康志向イコール、ダイエットという捉え方をした。ダイエット・フードとして、口コミと、ブログやツイッターなどの情報伝播と、マスメディアの取材もかさなり格好な話題となった。
 昼過ぎから夕方にかけては、学生や若者たちでスナックフードに行列ができる。行列ができると、さらに多くの客をよびこむ連鎖反応が起きた。3ヶ月は、連日売上げが100万円を超える日がつづく好調なスタートであった。
 しかし最初の半期決算で、売上高総利益率が15%であった。既存ファーストフード平均が20%以上を確保しているのにくらべかなり低い。これは低価格戦略を採用していながら、店舗数がまだ少なく材料費の調達コストが高いのが大きな要因であった。またアルバイト主体でまかなっている企業とくらべ、正社員で構成している労務費は、相対的に高くなっている。それでも黒字決算が出せたのは、店舗一人あたり年間売上高が3百万超と、既存ファーストフードと比較し格段に高かったからである。野菜中心のファーストフードは、食育(しよくいく)がさけばれていた世情にフィットしたのである。
 低価格戦略の企業は利益率だけではなく、規模のメリットによる利益総額によって競争優位の実現をめざしている。多店舗展開によってこの問題は解決する。
 話題性のある事業は、いったん勢いがつくとマスコミで大きな話題となる。
「maman plat」が、予想外の業績をつくりはじめると、関西のフード業界では、大きな注目を集めた。とくに「正社員しか採用しない」という前例のない人材募集は、派遣切りが時代背景にあったからマスコミにも再三取りあげられた。
 こうした状況のとき、取引銀行の紹介で大手食品商社との提携のはなしが持ちあがった。食品商社は、資本参加と原材料供給を引きうけたい、との話であった。このころ銀行からも増資をすべき、とアドバイスを受けていた。
 自己資本比率が低いと、信用力に欠ける。せめて自己資本比率を40%ていどまで引きあげることを推奨されていた。こうしたながれで議決権を持たない優先株の発行という条件で、食品商社から2千万円の増資を引き受けてもらうことにした。さらに食材の集中加工処理会社を合弁会社で作らないか、という話まで持ちこまれた。
 テンフェースの企業理念には、「信義有る行動で社会的な共存共栄を実現し、長期安定的な成長をめざす」と定めている。経営方針でも「喜びを共有できるネットワークを構築します」と定めている。小資本で壮大な(新しい食文化を創造する)という夢を実現するには、有力なパートナー企業が必要であった。こうしてテンフェースと食品商社の合弁(ごうべん)で、本格的食材集中加工場「mamanキッチン」を2千万円で設立し、関西圏で100店舗計画が始動しはじめた。やがて「mamanキッチン」では、冷凍野菜や粉末野菜の通販まで手がけて、独自の成長をしてゆく。



(4) 特許成立と追加増資
 シグマウインズの特許申請は、「電子出願」で早期審査が受理され、審査官と直接面接できる「TV面接」にも成功した。田中健介と勅使河原努は、審査官との面接で試作機の走行実験データを見せ、具体的事業化計画書も提示した。
 これによって審査官は、権利取得だけの申請ではなく「実施関連出願」とみなし、最短の半年で特許が成立したのである。
 まえにもふれたが、特許法では、「新規性」がある発明については、なるべく早く情報公開することが、産業の発展のためには望ましいとされている。
 審査官はこの精神にもとづき、早期審査の対象とし、最短の半年で特許が成立した。
 特許が成立すると、テンフェースは銀行系ベンチャーキャピタルから、優先株2千万円の出資を受け入れ、シグマウインズの増資にあてた。
 この時点で、テンフェースは食品商社から2千万円、ベンチャーキャピタルから2千万円の優先株の引き受けが完了し、資本金総額は7100百万円とふくらんだ。
 4千万円の増資で、自己資本比率は71%に改善され、堂々たる財務内容となった。


 
(5)EVカー改造キット
 風力発電機シグマウインズを完成させると、つぎの重要課題が中古車をいかにEVカーに改造するかである。鈴木裕也は、自動車整備工場と提携しEVカー改造のネットワーク化を考えた。このために、まず小型、中型、大型別のモーターの規格化、モーターのコントローラー、高性能バッテリーの規格化、制御メーターの規格化などの課題が多い。
 とりあえずシグマウインズ試作機の走行テストをするべく、3車種の改造EVカーをつくった。この試行錯誤の改造経験から、改造EVカーの普及には取りあつかいが簡単な「EVカー改造キット」をつくる必要があることを痛感した。
 EVカー改造キットは、エンジン関連部品を外したあとに、モーターと中古車のクラッチを接合させるプレート、電圧コントローラー、電気リレー、配電盤、ヒューズ、ブレーキ用ポンプ(通常はエンジンの吸引力を補助利用している)など、改造に必要な部品をセットにし、必要な配線コードも接続しておく。モーターをミッションに取つける接合プレートは、多様な車種のミッションに接合可能な多軸穴をもうけておく。
 このEVカー改造キットを使用すれば、エンジン、ラジエター、マフラー、ガソリンタンクなど不要部品を取りはずだけで、整備工場で多くの車種を簡単にEVカー改造が可能となる。ただ、EVカー改造キットを、一から設計する時間的な余裕はない。
 市販されているモーターを、大型車、中型車、小型車、軽自動車用の四規格を選定し、共通のコントローラー、電気部品などは市販品のパーツを組み合わせることにした。
 唯一、モーターとミッションとの接合プレートだけは、独自に設計した。
 シグマウインズ(株)は2千万円の増資ができたことで、貸工場にシグマウインズとEVカー改造キットの組みたて工場をつくった。
 シグマウインズは、中古車を電気自動車に改造し、充電しつつ長距離走行を可能とすることである。これが世にでると、トラック運送業界や中古車業界と自動車整備業界には、革命的なインパクトを与えるはずである。また電気自動車の将来を左右するほどの影響を与えるかも知れない。
 世界中の自動車メーカーでは、次世代の車としてEVカーの研究開発が進行し、あいついで発売される予定である。EVカーは、ポスト・ハイブリットカーとして注目を受けている。ただEVカー開発の盲点は、(走行中に必要な消費電力を発電する)という視点がほとんど無いのである。普通の車には、オルタネーターという発電機を装備している。これはエンジンの回転と連動し、電装品への電力供給を行うバッテリー充電を目的としている。ハイブリットカーでは、電気ブレーキの一種である回生(かいせい)ブレーキによって、モーターを発電機として使用するシステムをとっている。このシステムは、通常は駆動力として用いるモーターを、ブレーキで制動するときだけ、発電機として作動させるものである。運動エネルギーを電気エネルギーに変換し、回収するから回生ブレーキの名がある。
 

(6) ドミナント出店戦略
 フード事業では、本格的な食材集中加工場「mamanキッチン」を中園勝を代表として稼働させたことで、食材の原価コストは25%まで改善された。
本格的な多店舗展開の体制がととのい、ドミナント出店戦略にもとづき、地下鉄御堂筋線周辺にサテライト店10店舗を集中出店を行った。ダイエットフードとして、半年で大阪のフード業界の風雲児として注目をうけた。
栄枯盛衰のはげしい飲食業では、つねにテナントの入れかわりがはげしい。このためテナント探しをしている不動産会社から、引きあいがあいつぎ、容易に好条件で希望立地に出店が可能となった。
 店舗の人材は、一号店で養成し、優秀な人材をサテライト店の店長として送りこんだ。この10店舗の実績をもとに、山田太一を本部長としフランチャイズ本部を立ちあげ、直営店の出店とあわせて、フランチャイズ店の展開の事業計画をたてた。
 フランチャイズ店の場合は、加盟金が入ると共に、開店費用の大半はフランチャイズ店の負担である。またロイヤリティーフィーを売上高の5%としたから、運営資金にゆとりがでる。フランチャイズ店の募集条件は、ターミナル立地の軽食店で、マンネリ化で長期低迷している経営者を主な対象とした。直営店とフランチャイズ店の組みあわせで、大阪都心と周辺のターミナル駅周辺に100店舗の事業計画が完成した。
 100店舗構想での予想原価構成比は、材料費23%、労務費39%、諸経費35%と設定した。100店舗の計画はフランチャイズ店50店舗、直営店50店舗の計画であった。
ところが、フランチャイズの開店希望が増加しつづけ、2年で直営店とあわせて150店舗を達成してしまった。こうした徹底したドミナント戦略で、関西地域でゆるぎのない知名度を確保した。このあと、3年目には東京圏と中部圏への出店を果した。



 (7) 3億円増資
 鈴木裕也と田中健介は、大手自動車整備工場に試作改良型のシグマウインズを搭載したEV改造車を持ちこみ、デモンストレーションを行った。整備工場の社長は、EV改造車に試乗しその性能を確かめておどろいた。これは自動車整備工場に、革命をもたらすと確信したのである。
 自動車整備工場は、もともと車検整備と自動車修理という受け身の事業である。
 中古車をEVカーへ改造し、シグマウインズを搭載すればEVカー車時代を先どりできる。これにEVカー改造キットがあれば、どの整備工場でも簡単に電気自動車に改造できる。中古車を、本格的な電気自動車に生まれ変わらせることが可能である。
 待ちの姿勢から、中古車を本格的なEVカーに改造することで、大きな改造整備需要を掘りおこすことが期待できる。さっそく加盟している業界公益団体の、大阪府自動車整備事業協会に紹介してくれた。自動車整備事業協会では、さらにその本部組織である社団法人日本自動車整備事業協会連合会へと紹介された。
 都道府県ごとに組織されている整備事業協会は、社団法人日本自動車整備事業協会連合会の組織下にある。全国には自動車整備事業者約9万事業所がある。
 全国組織の整備事業協会連合会は、インターネットを活用した「整備情報提供システム」を持っている。整備マニュアル情報をはじめ、故障整備事例、新型車・新機構の紹介、回路図、点検基準値、標準作業点数など、自動車整備に不可欠な情報を発信している。
 さっそく理事会に諮(はか)られ、シグマウィンズの特許とEVカー改造キットが紹介された。
 こうして全国の自動車整備事業者から、あいついで問いあわせが集中した。
 この情報は、中古車業界に旋風のように伝播(でんぱ)し、大手の販売店や自動車メーカーの系列販売店からも問いあわせがあいつぐことになった。
 全国の整備事業者からは、EV改造車の試作車を作るために、あっというまに1万台の受注を受けてしまったのである。わずか約500坪の工場設備しかもたないシグマウインズ(株)としては、途方にくれる思いがした。こうした事情を知った整備事業協会連合会の理事長から提案があった。全国会員から出資者300社をつのり、1社当たり100万円の出資金をつのると3億円が集まる。この3億円の資金を優先株にわりあて、本格的な製造組み立てラインをもけるよう提言があった。
 シグマウインズ(株)にとっては、千載一遇のチャンスが到来したのである。
 立ち上がりは、予定より大きく遅れたが、整備事業協会連合会の支援があり3億円の増資とともに、50億円もの受注を抱えてしまった。
 テンフェース(株)の役員会では、(会社が乗っ取られるのではないか)と不安さえ口にする者もいた。しかも資本金を7100万円に増資したばかりである。しかし阿比留健太は動じなかった。現在のテンフェースには、3億円は桁(けた)が大き過ぎるともいえる。
 しかしその内訳は、1社あたり100万円の出資金である。しかも議決権をもたない優先株という条件の引き受けである。さらに自動車整備事業協会から、EV改造キットとシグマウインズをあわせ、50億円もの受注金額をうけている。それだけ、全国の自動車整備工場が、EV改造とシグマウインズに、未来を託するという意気込みが感じられた。



 (8) シグマウインズの急成長
 時代の先端をはしる事業展開には、経済界、産業界から時代の風雲児と脚光をあび、周囲から大きな追い風がふいた。工業新聞、経済新聞、自動車関連の業界新聞に大きく取り上げられ、マスメディアの取材が集中した。
 シグマウインズは特許成立のあと、想像を絶する自動車関連業界からの熱気にあおらつづけれた。国際特許も、アメリカ、欧州、中国など10ヵ国で取得した。
 風力発電関連の部品メーカー、EVカー改造キット関連の電装品メーカ、バッテリーメーカーなどから、支援協力と増資に応じたいと申し出があいついだ。
 こうしてわずか2年あまりで、テンフェースの資本金は6億円にふくらんでいった。
 ところがそのあと、予想しなかった展開がおきた。
 自動車整備事業協会連合会と、中古車販売店連合会によって「中古車EVカー改造推進協議会」が組織されたのである。この協議会によって、独自のEVカー改造キットが発売されることになった。これは大手のトラック運送業界から、自動車整備事業協会連合会に、大型トラック用の改造を依頼されたからであった。こうしてトラック運送業界が本格的にEVカー改造に乗り出すことになった。こうした経緯で、急遽大型トラック用のシグマウインズを開発した。
 共存共栄をうたっているテンフェースとしては、この時代のうねりにのらざるをえず、シグマウインズ(株)としては、風力発電機事業に特化することになった。ただEVカー改造キットが売れれば売れるほど、シグマウィンズの需要は拡大して行くから、それほど問題ではなかった。問題は膨大な需要に対応するには、生産ラインの増設が不可欠である。生産ラインの新設には、さらに膨大な資金を必要とする。
 製造業の安定成長にはつねに増資が必要であり、増資をくり返すこととなった。
 この旺盛な資金需要にたいして、親会社のテンフェースにたいし、銀行、商社、取引先企業、投資ファンド、保険会社、証券会社など、あいついで名のりをあげてきた。
 いずれ株式の上場があることを見こんでのことである。
 テンフェースは、わずか5年余りで資本金は10億円を突破し、売上げも500億円を突破した。このころから証券会社の勧めもあり、株式上場をめざして準備をはじめ、証券会社から人材を受けいれた。証券会社からは従業員持株会をつくることと、役員もできるだけ自社株の購入を推奨され、増資のつど役員も増資に応じていった。
 創業8年には株式上場をはたし、社名をテンフェース・ホールディングスと改めた。


 (9)レストラン・セイン500
 maman platは、健康志向の野菜ファーストフードとして展開をはじめた。
 消費者には「ヘルシー」イコール「ダイエット」と認識されて人気を博した。
 低脂肪、低カロリーで食物繊維が多く、ビタミン、ミネラルなどのバランスの良い食事は、ダイエット・フーズといえる。こうして maman platは、創業5年で関東地区と中部地区への出店を果たし、500店舗を達成した。

 この頃に本格的ダイエット・レストランまで展開してこそ、新しい食文化の創造になるのではないか。社内から提案があがり、時代の要請であるダイエットをコンセプトとしたプロジェクトを始動させた。
 プロジェクトリーダーは、フランチャイズ本部長の山田太一で、他のメンバーすべては、御堂筋周防町の一号店で採用され、のちに店長として育成された人材である。
 ところで、バランスのよい食事だけではダイエットにはならない。職業、年齢、性別、体重や身長などで、一日の必要カロリーが大きく異なる。
 また単に低カロリーの料理を提供しても、レストランとしての魅力と、満足感が得られねばたれも足を運ばない。成功させるには、家族そろって食事を楽しめる雰囲気と、家庭料理とは違った華やぎがなければならない。豪華に見える料理でありながら、低カロリーのメニューが必要となる。
 平均的男性の1日のカロリー目安は2千400kcal、女性で1千950kcalとされている。しかしレストランで食事をすれば、1千500kcal以上の摂取量になってしまう。
 しかし一食だけでも一日500kcalに抑える食事を、1月つづければ確実にダイエット効果が期待できる。こうした背景からレストラン・プロジェクトでは、メニューのカロリーを500kcalに押さえることを課題にした。
 食事としての満足感がえられるには、手の込んだ野菜料理などでボリューム感を与えるとともに、ゆっくり時間をかけて食事することがポイントになる。照明や装飾などで高級レストランの雰囲気をつくり、さらに癒し効果のたかいBGMをながす。
 時間をかけた食事こそが、一番の満足感がえられる。
 課題は調理方法によって、カロリーが大きくことなる。まずは素材の100gあたりのカロリーを調査し、それから調理方法を検討することになった。
 料理のカロリーを500kcalを目安とするためには、素材の100gあたりのカロリーを調べる必要がある。実際の調理には調味料や小麦粉、油などを使用するから、厳密にカロリー計算を行った。これらの素材のカロリーを考慮しながら、おいしい料理を創造しなければならない。maman plat には栄養士や調理師がいる。彼らに幾種類かの500kcalのメニューを考案させ、試食会で検討をつづけた。そのとき、二十代後半の調理師が、
「お客の提案レシピを採用したら如何でしょうか?」と提案した。
 これを採用して、与謝野正樹に相談し、maman platのホームページに、「セイン500」のコンセプトと個別食材のカロリーを掲載し、500kcalのレシピを募集した。
 こうしてmaman platの固定ファンから、さまざまな提案レシピが寄せられ、メニュー案がまとまっていった。
 さらに新しい試みとして、店内に本格的な体脂肪計を設置することにした。
 設置する業務用体脂肪計は、全身体組成と体型判定・推定骨量・体内年齢・体水分量・筋肉量・内臓脂肪レベル・基礎代謝レベルなどが測定できる。また標準体重から必要カロリーを算出できる、専用電卓を各テーブル席に設置することにした。
 必要カロリーは、電卓に身長を入力するだけで理想的な標準体重と、その必要カロリーが表示される。さらに健康カードを来店客に配布し、体脂肪計のデーターを貼りつけてもらう。それにもとづき内臓脂肪レベルの目標数値を記入し、その数値を達成した体脂肪計数値を貼りつけレジに提出すれば、食事券3枚を景品とする。これによってダイエットの動機付けと固定客確保をめざすことにした。このような従来のカジュアルレストランとは異なる、新しいスタイルの準備が整った。
 具体的な出点計画を関西地域で検討しはじめたころ、銀行からファミリー・レストラン買収の話が、持ち込まれた。横浜を中心に川崎などで15店舗を運営する会社が、経営に行きづまりはじめているという。店舗と従業員を引きつぐ条件で、株式発行額面の3千万円での買収の案件であった。こうした経緯で、創業5年目にヘルシー・レストラン「やさいくらぶ セイン500」は、横浜桜木町を本店としてスタートを切った。
 店名のセイン(sain)はフランス語で、健康、好ましいの意味がある。500の名は、好ましい一食での500キロ・カロリーという意味を含んでいる。
 レストラン事業は、関東地区をメインに、野菜ファーストフードmaman platと相乗効果をあげつつ展開を図っていった。


 (10)SNS事業
 もう一つ革新的な事業が急拡大している。
 与謝野正樹と4人のスタッフは、テンフェースのウェブサイトを運営し、二つの事業の急成長で、必要となる人材募集に関わってきた。こうした背景から、新しいコンセプトの会員制のSNSを事業化した。コンセプトは、
「仕事を求める人の適正能力と、企業職種が必要とする職務適性とを結びつける」
という新しい転職の仕組みを考えた。
 原点は、「やさいくらぶmaman plat」の人材募集にある。
《アルバイトは採用しません。正規社員だけを募集します。ただし新しい食文化を共につくるという、意欲のある人を求めます》
 この募集要項で、意欲の高い人材を多数確保できた。この意欲の高い人材が、あいつぐ出店で大きな成果をあげ、次々に開店させた店長として育ったことが背景にある。
 新卒で希望を膨らませて就職しても、仕事の内容と質、職場の環境に適応できずに、30%前後もの人が3年以内に退職している。就職難といわれる時代にありながらも、大企業に就職しながらも、3年以内に会社をやめる割合が30%前後もある。
 入社後3年以内に会社を辞める人の割合を、離職率で表している。一般的には、高校卒50%、大学卒30%が3年以内に会社を辞めると言われている。
 特に外食産業の離職率が極端に高く、平均離職率は64%である。離職理由の大半は、人と仕事のミスマッチが原因であるとされている。やむなく派遣社員としてはたらき、潜在的能力を発揮できず、うもれた人材が多いはずである。
 入社後3年以内に会社を辞める人は、ある意味で自己の能力や、ほんとうにやりたい仕事が何かについて、多少とも見極めがつきはじめた人材といえる。
 就職する時点では、自己の潜在能力や、仕事の適正能力が判然としないまま、企業の知名度だけで応募している。また企業の採用担当者も、試験や面接だけでは潜在能力の見きわめができない。学校名、専攻科目や学業成績と学校からの推薦状、自己申告の内容だけをたよりに選定している。
 それぞれ配属された職場で訓練をうけ、それぞれ適応力を発揮すべく努力する。が、やがて会社が求めている成果や業績があげられず、大きな壁にぶちあたる。
 しだいに与えられた仕事の内容や質が、自己の性格や能力に適していない。と自己診断できるようになってゆく。また努力すればするほど、疎外感を感じるようになってゆく。
 複雑化と複層化している現代社会で、自己の潜在能力や、適正能力のある仕事をえられる確率は非常に少ない。これらの事情は世界共通であり、(人と仕事のミスマッチ)は社会的、経済的に大きなロスを発生させている。多くの失業者をかかえている欧米や、後進国でも同様といえる。
 すでに転職サイトや、人材登録データーベース、そして有料職業紹介サイトはウエブでいくつも存在している。大手の転職サイトでは、会員学生は54万人ともいわれ、民間企業に就職希望する学生が、転職サイトで企業情報の入手や、説明会予約などもできる。
 しかしミスマッチを防止するための、徹底した「個人特性分析」による職業適正診断と、企業がもとめる職務に必要な職業適正基準とのマッチングについては無策である。
 大企業では、職種別のスキル基準は備えているが、採用時点で厳密な「個人特性分析診断」はほとんど行われていない。
 一方、大企業では、社内研修制度が充実している。だから社内で人材を育成できるという慢心がある。また社内では、適宜な配置転換制度もある。しかし結果としては、大企業でも離職率30%という数値がこの事情を物語っている。



 (11)ヒューマン&フェイス
 こうした分析で創業3年目に、与謝野正樹を代表に「ヒューマン&フェイス(faith)」を立ちあげた。急成長している企業は即戦力の人材を必要としている。
 即戦力を必要としている企業へ、最も適していると診断された人材をマッチングさせることを目的とした。 
「ヒューマン&フェイス」は会員制のネットワークで、求職者は登録無料で、すべての「適正診断」を受けることを条件とした。人材を求める企業は有料登録で、募集職種が必要としている職種別の「適性診断」チャートを使用する。
 双方が同じ適性診断チャートを使用することで、機械的なマッチングが可能となるソフトを開発した。仕事をもとめる人の情報は、企業側にはマスキングされているが、募集する職種別適性診断基準チャートはたれでも閲覧できる。
 仕事をもとめる会員同士は、付与されるコードで情報交換できる仕組みとした。登録されている企業に採用された人のコメントも読むことができる。
 業界情報や個別の企業情報、職種別離職率表、ユニークな企業紹介などの情報を提供することにした。適正診断表の構成は、大学専門家の指導のもとに、以下の診断項目をチャート化した。
【性格解析】情緒性向、思考性向、活動性向、努力性向、積極性向、自制性向を診断。
【ストレス耐性解析】対人性向、障害回避性向、忍耐作業性向、ストレス転換性向を診断。
【社会性解析】順応性向、リーダ性向、表現力性向を診断。
【意欲解析】興味、関心の分野、やる気がある分野を診断。
【能力解析】社会人基礎能力、対人基礎能力、交渉能力、情報収集能力、情報分析能力、      表現力能力、問題解決能力を診断。
 各解析診断の点数は12段階評価とした。
 企業が求める職種別の解析診断基準の評価点数表と、仕事をもとめる人の評価点数表のマッチング度が70%に達したばあい、「ヒューマン&フェイス」から、双方に情報がつたえられる。求職者の同意があれば、企業に個人情報を通知し定額の紹介手数料を受けとる仕組みとした。
 クライアントは、最初に自動車関連業界、電機関連業界と食品関連業界に焦点をしぼった。つぎの目標は、当然離職率の高い飲食業界、卸・小売業界、その他製造業界、建設業界、サービス業界等を主に狙いをしぼった。最大のポイントは、ユーザー登録者全員の「仕事適正診断チャート」をもち、クライアント企業の職種別「適正診断基準チャート」をマッチングさせるシステムにある。
 このシステムで企業の人材育成ロスを排除できることである。ユーザーとしては全国の大学や高校、専門学校などのほか、派遣社員や契約社員など離職経験者へアピールすることにした。就活活動をしている学生や、就職浪人たちは、ほとんどが大手の転職サイトを利用している。このため一歩進んだマッチング・システムに抵抗なく登録をはじめた。
 スタート時点では、クライアント数も少なかったが、マッチングシステムの成功率が高まると年々その知名度を向上させた。
 サイト立あげから3年で、登録ユーザーは30万人を突破し、クライアントは1万社に達した。年々利用者が増えつづけ、10年目には登録ユーザーは100万人を突破し、クライアントも50万社を超えた。これで大手の転職サイトに比肩しうる規模となった。
 事業収益は500億円の大台にたっし、純利益貢献度ではテンフェース事業の核に成長した。



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創業二十年

 持ち株会社テンフェースを設立して20年が経過した。
 テンフェースは、創業8年で株式上場をはたし、テンフェース・ホールディングスと社名を変えた。フード事業と風力発電機シグマフィンズの二つの事業を両輪の車としてスタートし、3年目にはSNS「ヒューマン&フェイス」を立ちあげ、三つの事業をそれぞれ日本を代表する企業に成長させ、奇跡のようなサクセスストーリーをつくっていった。

 フード事業グループは、市ノ瀬克也を代表として、野菜ファーストフード「やさいくらぶmaman plat」1500店舗を運営している。
 2年目に稼働した食材集中加工場「mamanキッチン」は、中園勝を代表に食品商社との合弁で設立し、創業20年目で全国に30のセントラルキッチンを運営している。
 山田太一を代表に5年目にスタートさせた、ダイエット・レストラン「やさいくらぶ セイン500」は、関東地区、中部地区、関西地区の大都市圏を中心に120店舗に達している。創業7年目には新居忠を代表に「mamanやさい工場」を設立し、フード事業の一部の新鮮野菜の供給をになっている。埼玉、長野、滋賀の3工場を運営している。
 創業20年で、フード事業グループの売上は2千億円にたっし、最終利益は100億円という堂々たる企業に成長した。

 田中健介が代表のシグマウインズは、自動車整備事業協会連合会の大きな期待をバックに急成長を遂げた。発売時期が電気自動車時代の幕開けとかさなり、シグマウインズをのせた改造EVカーが話題をよんだ。幸運な時代背景のもとで、爆発的な支持をえ輸送業界や中古車市場と自動車整備業界に旋風を巻き起こしつづけている。
 国際特許を取得したことで、創業8年に中国に「中華シグマウインズ」を設立し、鈴木裕也が赴任した。生産体制は本社堺工場と千葉工場、そして中国工場の三つの工場での生産基盤が完成した。さらに横溝淳二を代表に「中華EV自動車」を設立した。EVカー改造キットの組みたて工場で、主に東南アジアやアメリカ欧州への輸出を目的としている。
 シグマウインズは創業10年で、アメリカとドイツに販売子会社を設立し、「中華シグマウインズ」と「中華EV自動車」から供給する体制をととのえた。
 創業5年目に、勅使河原努が船舶用の大型風力発電機を開発し、事業部門の規模が急激に拡大した。製造ラインや販路がことなるため、創業10年目に「オーシャンズ・シグマ」を神戸に設立し、勅使河原努がを代表となった。現在は造船王国の韓国に主軸を移している。
 テンフェース・ホールディングスを上場したことで、これらの旺盛な資金需要を一般市場から容易に増資として集めることができた。シグマウインズと、EVカー改造キット、オーシャンズ・シグマなどの事業の連結決算は、5千億円に達している。

 ヒューマン&フェイスは、日本での成功を基礎にアメリカと韓国、上海にもネットワークを拡大した。SNSの最大手の「Facebook」にちなんで、アメリカでは「Job book」ともいわれ、類似のサイトも立ち上がり、しだいに世界的な転職サイト・ネットワークに拡大しつつある。世界の会員登録数は1千万人となり、連結売上げ高は1千億円規模に達している。
 テンフェース・ホールディングス傘下の、企業グループの連結売上げは8千億円、資本金は100億円にふくらみ、最終利益は640億円で取締役は20人となっている。
 特にシグマウインズ関連事業の利益率が高く、最終利益のうち480億円を稼いでいる。




テンフェース・ホールディングス

 テンフェース・ホールディングス創業二十周年記念イベントが、東京六本木にある高層ホテルの大ホールで開催された。出席者は経済団体、各種工業会、政治家、高級官僚、取引銀行関係者、取引先企業関係者など、錚々(そうそう)たるメンバーが招待され、グループ企業の役員など千人も集(つど)うことになった。
 阿比留健太は会長にまりあげられ、代表は商社出身で主な役員は銀行、証券会社、電機メーカ出身者などがつとめている。株式上場以来くり返してきた増資とともに、増資引受先から派遣されてきた人々であった。
 創業家ともいえる阿比留健太ら十人の役員年俸は、二年ごとの改訂で現在の年収は2500万円となっている。証券会社の勧めもあって、増資のたびに持株をふやしてきた。
 健太は年収の3割を増資資金として積みたて、現在の出資金は約5千5百万円である。他の役員も同様にそれぞれ数千万円の出資をしている。それでも十人の持ち株合計は5億8千万円にすぎず、資本金100億円にくらべれば5・6%にすぎない。筆頭株主は大手商社で7%を占めている。
 大企業に成長したテンフェース・ホールディングスの資本金は、個人投資家のほかに多くは商社、銀行、取引先企業、投資ファンド、保険会社、証券会社などが大株主として株式を保有している。成長するたびに増資をくり返し、現在は8割が法人株主となっている。健太はテンフェースの取締役会長に就任しているが、実質な経営は商社、銀行などから出向してきた執行役員らによる経営委員会で裁量権を発揮している。

 企業は成長して行くにしたがい、企業を取りまくステークホルダー(利害関係者)がふえつづける。企業は成長しつづけ、配当をうみつづけることが、唯一の存在意義となる運命を背負っている。企業は成長するにつれ仕事は分業化され、多くの部署が必要となり、多くの専門家を必要とする。財務、法務、総務、店舗開発、IT管理、生産システム、生産管理、研究開発、輸出入管理、広報、国際特許管理、組織開発など、さまざまな実務専門家と外部の顧問を必要とする。
 ステークホルダーから派遣された役員と、かれらが採用した専門家で企業は配当をうみつづける機関として機能しはじめる。一部の例外をのぞけば、企業が一定の規模に成長すると、個人の思惑とは無関係に、自己増殖をくり返して行くことになる。
 創業家にあたる十人は、それぞれがテンフェース・ホールディングス傘下の、一部の子会社の代表に就任している。その各子会社にも、それぞれ専門家集団が形成され、1%程度の株式しか所有していない代表一人では、経営の重要事案の決定は出来なくなっている。
重要な事案は、経営委員会へ専門知識を有する部下が、詳細な分析データーが付された資料をあげてくる。結果として最もリスクが少なく、成功確率の高い事案を採用せざるをえない。このため代表者の事案決済とは、いわば儀式のようなものになっている。
 いまの代表取締役の仕事は、日常業務の形式的報告書や形式的稟議書への決裁の押印と、関係先への挨拶回りが主な仕事となっている。
 テンフェースの企業規模が50億円に達するまでは、創業一族にあたる十人が、それぞれの担当部署で、リーダーシップを発揮することができた。社員数が100人ていどまでは、会議やグループミーティング、そして個別面談で代表の思いを熱くかたり、ともに行動することでエンゲージメント・レベルを維持できた。この会社にいれば、自分の有りたい姿に向かって成長できる。自己実現のための努力が、会社のビジョン実現にも貢献できる。そいう思いを共有でき、これが会社飛躍の原動力となってきた。
 ところが短期間に売上げが50億、100億円と急成長し、社員数が急激に膨張しはじめると、分業化と専門化と多様化がすすみ組織が複雑になってゆく。
 いまや創業に関わった十人が、実務面でリーダーシップをとるには組織が肥大化しすぎている。

 テンフェース創業二十周年記念イベントが終了し、六本木の高層ホテルのスイートルームに、十人が久しぶりに顔をそろえた。
 業容が拡大するにつれ、それぞれの拠点がかわり、グローバル化していった。テンフェース・ホールディングスの役員会には、テレビ会議での参加となり、株主総会には阿比留健太に委任状をわたしている。十人全員が一同に会するのは4年ぶりであった。
 阿比留健太は、「テンフェース・ホールディングス」の東京新宿を拠点としている。
「やさいくらぶmaman plat」の市ノ瀬克也は、東京青山に本社をかまえ、「セイン500」の山田太一は、横浜桜木町に本社をかまえている。食材加工「mamanキッチン」の中園勝は、千葉幕張(まくはり)に本社をかまえ、野菜工場「mamanやさい工場」の新居忠は山梨に本社をかまえている。
「シグマウインズ」の田中健介は、堺に本社をかまえ、「オーシャンズ・シグマ」の勅使河原努は、神戸に本社をかまえているが、主に韓国ソウルを拠点としている。
「中華シグマウインズ」の鈴木裕也は上海に本社をかまえ、「中華EV自動車」の横溝淳二は香港に本社をかまえている。
「ヒューマン&フェイス」の与謝野正樹は、本社を大阪梅田に置いているが、活動の中心はニューヨークに置いている。
 健太は記念イベントで、奇妙な孤独感を味わっていた。
 徒手空拳から革新的なビジネスプランで、大成功を果たしたといえる。が会社が成長するにつれ、素朴に会社とは何かを自問してきた。組織の成長とともに個性や私情は無用となり、企業利潤だけが目的の組織となっている。持ち株会社で創業し、大きな夢を抱いた当然の帰結ながら、個人の理想や意思が通用しない状況が、何か釈然としない。
悶々とした気分が鬱懐している。
 そもそも会社とは何か、改めて会社の源流とその原点を探ってみたい。





会社の源流

 会社の起源は十六世紀の大航海時代にさかのぼる。
 リスクの高い大航海は、共同で資本を出しあい会社をつくり船を仕立てた。
 船の建造費や船員の報酬、航海中の食料など莫大な資金を必要とする。しかも遠洋航海技術はまだ未熟で、難破や船員の疫病などで無事に帰還できる保証はなかった。
 しかしぶじに航海をおえて帰港すると、金銀や香辛料などで、ばく大な富をもたらした。この時代の会社は、投資というより投機的な意味あいがつよかった。共同出資し船団を組み航海するのは、リスク分散の発想からであった。 この時代の会社は、航海のつど出資者をつのり、航海がおわるたびに配当し清算を行って終了する事業であった。

 のちにオランダが、インドネシアを勢力圏におさめ、植民地支配と貿易会社とをかねた、「オランダ東インド会社(1602年)」が設けられた。十七世紀につくられたオランダ東インド会社は、継続的な資本をもった最初の株式会社の源流とされている。東インド会社は約200年間つづき、株主への配当は、平均で年利25%、最大で年利75%というハイリターンを実現している。
 アジア海域の覇権をめぐって争い、イギリスはインドにおける覇権を確立し「イギリス東インド会社(1600年設立」)を設立した。当時のイギリス東インド会社は、航海ごとに出資者をつのり、航海を終えるとその資産のすべてを出資者に配当する方式であった。
 この方式では、継続的に商業活動をいとなむオランダ東インド会社との対抗が、時代を追うごとに困難になっていった。
 このため会社組織を永続できるよう改組され、利潤のみを株主に分配する方式へ改めた。同時に株主は、会社経営に参画できる「株主総会」方式が採用された。
 イギリスでは、十八世紀の産業革命の勃興とともに、多額の資本を必要とする事業が急速に増加した。その必要な資本を集めるために、株式会社という事業形態が普及した。
 株式会社は法律上の法人格を認められ、取引契約を行うことができるようになった。
 株主総会で運営され、資本金に見あう資産をもち、財務・資産内容を公開をすることを条件に、株主の有限責任が認められるようになった。

 二十世紀に入り重工業が隆盛になると、増資をくり返し巨大株式会社が出現してゆく。こうして多数の個人株主が生まれて株が分散し、経営者が会社の実権をにぎることになっていった。
 現代の大企業が、永続して利益を生みつづけるためには、倒産しない仕組みが必要となる。このため株主以外の利害関係者の金融機関や、取引先などが株式を保有し相互監視をする仕組みが出きあがっていった。戦後の日本の大企業は、財閥解体もあってグループを維持する必要から、会社間の株式の持ちあいが増加した。また増資をくり返した結果、資本金に見あう資産がない会社が多くなっている。
 会社という組織は、資金を提供した株主に利潤を配当する目的でつくられた。
 経営者はその利益高のみで評価されるから、形振(なりふ)りかまわず利潤のみを追求することになっていった。従業員を劣悪環境と低賃金で酷使したり、優越的な地位で下請けに過酷な条件をおしつけたりした。また公害問題を引きおこしたり、脱税をしたり、ときには産地や品質の偽装、詐欺商法まがいの取引をしたり粉飾決算まで横行した。

 企業の社会的責任は、良質な商品やサービスの安定した提供だけでない。従業員への待遇や福祉、取引先との良好な関係、また環境保護、コンプライアンス(法令遵守・企業倫理の遵守)、独占禁止法遵守(じゆんしゆ)、さらには利潤の社会的な還元、つまり慈善事業、文化活動への支援まで求められている。しかし企業活動における、社会正義や倫理を逸脱した行いは、あとを絶たない。これらは経営者があいかわらず、株主への配当を第一義に考えている証拠である。元来、株主権のことを残余(ざんよ)請求権ともいう。
 大航海時代の東インド会社時代から、株主の権利は、賃金支払いや諸費用と債務返済をしたあとに残る、会社の残余利益をとることであった。
 




三方よしの経営

 商取引では、当事者の売手と買手だけでなく、その取引自体が社会全体の発展や幸福につながるものでなければならない。これを経営理念としたのが、「三方よし」の精神であった。売り手よし、買い手よし、世間よし、という「三方よし」の理念は、近江(おうみ)商人の経営理念に由来する。
「三方よし」の原典は、近江の麻布(あさで)商人の中村治兵衛の書置(かきおき)(遺書)である。これに、
「他国(たこく)へ行商スルモ 総(すべ)テ我事(わがこと)ノミト思ハズ 其国(そのくに)一切(いつさい)ノ人ヲ大切ニシテ 私利ヲ貧(むさぼ)ルコト勿(なか)レ」とある。「三方よし」の表現自体は、近江商人研究者の明治期の井上政共編述『近江商人』によって、「取引は売買当事者双方のみならず、その取引自体が社会をも利する、三方よしの精神を示している」と解釈がほどこされた。以後「三方よし」という経営理念の解釈がひろく行われている。

 鎌倉時代から江戸時代にかけて活躍した近江商人は、大坂商人、伊勢商人とならぶ日本三大商人の一つとされている。近江(滋賀県)は、もともと東西交通の要衝にあったことから、自然と全国の地理や風土と物産情報が集まった。
「どこで何が求められているか」をいち早くしり、上方(かみがた)(京・大坂)にちかい地理的メリットをいかした行商(ぎようしよう)を行うことで、多くの大商人が誕生した。

 鎌倉時代初期のころは、京、美濃、伊勢、若狭などを中心に行商を行っていた。
 江戸時代の封建制度確立と鎖国成立後は、六十余州、二百六十余りの諸侯が分割統治する封建制の垣根をこえ、北海道から九州まで全国に出向いたことは、進取の気性に富む人々であったことの証しである。
 そもそも近江商人は、上方の商品を地方へ行商する、持下(もちくだ)り商いからはじまっている。地方でえた売上で、地方の物産を仕入れ、上方で売る。このような産物回しという、先進的な商人へと成長している。持下り商(あきな)いは、他国の縁のないところで得意先を開拓し、地盤を広げていかなければならない。他国へ持下り商いに出かけるとき、(どこで何が求められているか)の情報にもとづき、地方で喜ばれると自信をもったものだけを持ち、高利をむさぼることをしなかった。
 取引の基本的な立場は、自分の都合だけを優先せず、自他ともに成り立つことを考えた。売買価格の決定さえも、そのときの成行に従うことを求めている。だから損もあれば、益することもある。損益は、長期的平均にみることが大事だという。

 商いは永続することが基本であり、信用をえて基盤をつくることを第一と考えた。
 このため「売り手よし、買い手よし、世間よし」という理念を維持し、地方での社会貢献をはたし、信用をきずいてきた。世のなかに貢献することが先で、結果として商売繁盛し利益が生まれる。このようにして近江商人が信頼を勝ちえた。
 持下り商いで基盤ができると、その地に出店(でみせ)をもうけその土地に根づいていった。
 現在のチェーン店の考えにちかい出店(でみせ)・枝店(えだみせ)を積極的に開設し、徹底した合理化による流通革命で、ネットワークをきずいて大商人が誕生した。
 出店を東西に展開するようになると、出店相互間の情報ネットワークを利用し、広範囲で需要と供給を調整し、価格の地域差をたくみに利用することが、近江商人の豊かな富の源泉となった。出店を設ける場所の選定は、「三里四方、釜の飯を食うところに店をだせ」
という家訓が残っている。豊かな購買力がある、と見込みをつけたところが開店地として有望であるという意味である。出店(でみせ)を中心に、さらに要地をもとめて開いた支店を枝店とよんだ。こうして近江の本宅を頂点に、出店(でみせ)・枝店(えだみせ)をもけてネットワークによって商機を見いだしていった。

 多店舗展開の資金調達のひとつの方法として、乗合(のりあい)商い(組合商い)と呼ばれる一種の合資形態をとった。つまり共同企業体の形成であった。合資形態をとったのは、資本の有効活用、リスク分散、人材の活用という経営合理主義であった。また独特の「利益三分主義」といった経営方法を導入して成功している。
 利益三分主義とは、店の純利益は本家に五分を納め、本店積立金に三分、店員配当に二分の配分率で「三つ割(わり)銀」といわれた。店員への配当によって、勤労意欲を喚起するとともに人材育成にも狙いがあった。本店積立金は剰余金として積み立て、つぎの事業拡大のバネとすると共に社会貢献として、治山治水、道路改修、貧民救済、寺社や学校教育への寄付をさかんに行った。
 その商才を、江戸っ子から妬(ねた)まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒 伊勢乞食(こじき)」とさげすまれた。が、近江商人のその実は、当時、世界最高水準の複式簿記とされる「江州(ごうしゆう)中井家帳合(ちようあい)の法」の考案や、定宿(じようやど)制度の創設、現在のチェーン店の考えに近い出店(でみせ)を設け、さらに枝店を積極的に開設するなど、徹底した合理化とネットワーク形成による、流通革命だったと評価されている。行商の旅を、安全で快適で便利なものにするために、東海道や中山道などの、主な街道に定宿(じようやど)をもうけた。定宿は情報収集の場所であり、為替の取組みや、商品の保管を依頼するなど、商用の旅にとって大きな利便性があった。
 
 近江商人は行商のときから卸商であり、売る側が悔やむくらいの薄い口銭で我慢することを商いの極意とした。
 西川甚五郎家(現、西川産業の祖)の家訓も、たとえ品薄のときであっても、余分の口銭を取るような世間の害になる取引を禁じている。顧客の望むときに、そのときの相場で、損得に迷わず売りわたし、先々の値上がりを思惑して売り惜しんではならないという。
 売った方が悔やような取引であれば、買い手の商人にも利益の出ることは間違いない。将来を考えた、長つづきする取引への配慮をうながした家訓である。
 初代伊藤忠兵衛の家訓に「利は 勤とむるに於(お)いて 真んなり」とある。
 これは商人の手にする利益は、権力と結託したり、買占めや売り惜しみをして得てはならない。物資の需給を調整して世のなかに貢献する。商人の「本来の勤め」をはたした結果、手にするものでなければならない。
そうした利益こそ真の利益であるという意味である。創業は六代伊藤長兵衛と弟の忠兵衛が、安政5年、近江麻布(あさで)類の持下り行商から始まっている。のちに忠兵衛は、大阪本町に呉服、太物(ふともの)店(綿織物・麻織物)を開店し「紅忠(べにちゆう)」と称し、明治26年、綿糸卸商の「伊藤糸店」を大阪・安土町に開店した。
 初代伊藤忠兵衛は、利益三分主義の成文化、洋式簿記の採用など、画期的な経営方式を次々と取り入れ、店主と従業員の相互信頼の基盤を創りあげ、合理的な経営を実現している。兄の長兵衛は、のち博多新川端で「伊藤長兵衛商店」を開業している。この兄弟の商いが合併と分割をくり返し、現在の商社、伊藤忠商事と丸紅となっている。
 近江商人のネットワーク組織は、明治以降は企業として発展し、今日の大企業の中に近江商人の系譜を引くものが多い。
 近江商人の系譜を引くおもな企業を列挙すると、高島屋、大丸、西武グループ、西武百貨店、伊藤忠商事、丸紅、トーメン、ニチメン、ヤンマー、日清紡、東洋紡、東レ、日本生命、ワコール、西川産業などがある。百貨店や商社、そして紡績関係や衣料関連の企業が多く、今日でも日本を代表する企業群が多い。ただ、商人の系譜ゆえに、紡績を除き製造業が少ない。




会社は誰のものか

 ホテル高層階のスイートルームからの眺望は、都心の夜景を一望できる絶景が広がっている。窓からは、神宮外苑の奥に新宿の高層ビル群がみえる。
 テンフェース・ホールディングスが入居している高層ビルが、ひときわ目立って偉容を誇っている。健太は、眼下の夜景を大きな窓から見おろしつつ、かつてザビエル公園で熱心に議論したことが遠い昔になったことを実感している。
 一方で、ひとつの頂点に達したという実感がない。これが本当に(ありたい姿)だったのか。そろそろ結論を出そうと考えている。
 セレモニーでは、ろくに食事もとれていない。
 再会した十人のグループ経営者は、改めてスイートルームで食事をしつつ、それぞれ大いに飲んでは、創業当時の苦労話に花がさいた。緊張感がゆるみ、昔のように各自のお国言葉をつかって喋りはじめた。
 一段落ついたころ、健太が、みなを見まわしながらゆっくり喋りはじめた。

阿比留健太 「今日な、みなさんに相談ばしたいコトのあっけん、聞いてくれんね。じつはな、悩んだ結果やばってん、ウチは会社ば、やめちゃうかっち考えっちるけん」

鈴木裕也 「えっ。テンフェースの会長を辞めるちゅうことか?」

阿比留健太 「役職だけでなく、会社そんもんから身ば引くっちゆうこったい」

大園勝 「ないごてな?」

勅使河原努 「意味がよー分かりまへんな」

阿比留健太 「今ん仕事な、果たしてウチの望んだ結果かなっち、悩んでいますたい。はじめた頃は、みなで徹夜で議論しあっち、手探りで方向性ば見いだしていったよね。
 あん頃がとても懐かしかばい。ばってん今は組織の大きすぎて無力感が有るったい。
 ふとか役員室で一人座っちいるときにな、とても孤独感におちいるたい。仕事っちいえば、書類の決裁印を捺すこつ、接待ゴルフや挨拶回りやセレモニーん参加ばかりや」

新居忠 「自分の思いと、会社の方向とがズレてる、ということじゃろうか?」

与謝野正樹 「会社の発展と、自己実現がひとつ方向をむいているときは幸せでっけど、大きくなりすぎると、組織自体が自己増殖をはじめまんな」

山田太一 「会社のトップはみな孤独や、と言いますじゃん」

大園勝 「経営者のトップちゅうもんは、たいした仕事はせんでもよか。居ることだけが、存在感を示すことが仕事じゃっど」

横溝淳二 「オレは中国で仕事をしとるが、仕事の中身は、ほとんどが役人や政治家との接待ばかりや。それでもちゃんと仕事は回っとるな」

鈴木裕也 「ほんま、それやな。中国人は面子(めんつ)を重んじる国やからな。ワイたち代表が接待せんと、コトが前え進まんのやでぇ」

田中健介 「ここまで会社が大きゅうなると、昔のようにはでけんな。実務面ではワイの出番はあらへんな。結局やな、役員室にいることが多いがな」

市ノ瀬克也 「私もさ、昔は一つ一つ店を手づくりでつくった、という自負心がありましたね。それがさ、いまは毎月新店情報の資料がデスクに届くだけ。今じゃ一度も行った事がない店がたくさんありますよ」

新居忠 「ウチは毎日工場を巡回し、野菜が育つのを見る楽しみがありますじゃろ。そやけど、それ以外は、あまりするコトとがないのは同じゃな」

山田太一 「私はさ、毎日一店舗を巡回してますよ。それもさ、事前通知をせずに突然お客として訪問します。そこでスタッフの働きぶりや問題を感じると、すぐに店長をよんでさ、いろいろ指導していますよ。顧客満足度こそが、レストランの命じゃんね。これだけが、今の重要な仕事ですわ。経営面については配したことはないじゃんね」

大園勝 「オイたちは、いわばサクセスストーリーの主人公やっど」

勅使河原努 「そうどすえ。有能な部下に支えられて、するコトがおまへんというのは、成功した証(あかし)どすえ」

与謝野正樹 「ワテは、阿比留はんの気持ちがよー分かりまんな。ネットワークを立ちあげて成功すると、することがあらしまへのや。一人で采配をふるうには、組織が大きくなりすぎて。それでわざわざニューヨークで、スマートフォンのソフトを作らせてまんねん。やっぱ、実務に関わっていんと、楽しゅないもんでっせ」

阿比留健太 「そこなんちゃ。実務に一切タッチできんで、あやつり人形んごと動かされとうの、つまらんけんな。ウチの居なくても、会社はぴしゃーっと動いてくる。会社はもう、ウチたちんもんじゃなかっちゆう気のしとるんちゃ」

田中健介 「なんとなく、分かりまんな。会社が大きくなり過ぎたちゅうことやな。確かに、会社はもうワシ一人の言うとおりには動かんしな」

横溝淳二 「ところで会社は誰のもんじゃろうか?」

大園勝 「そりゃ株主のもんじゃっど。オイたちも個人株主としては大株主じゃっどな」

新居忠 「しかし、テンフェースの株を所有しとるのは8割が法人の株主ぞな。その株主の法人も、また大半が法人株主が多いじゃろう。株主ゆーうても、個人はほんの少ししかおらんぞな。その個人株主は大半が投機目的で、値上がりしたら売るじゃろう。ここにいる全員の株式を合計しても6%くらいじゃろう。とても我々のものとはいえんぞな」

市ノ瀬克也 「たしかに、企業が大きくなるとさ、利害関係者が複雑に入り組んで、とても個人のものとは言えなくなっちゃうね」

勅使河原努 「そうどすな。株主も従業員も、それから取引先も得意先も、みなが利益の分け前をもらいはって、みなはんがよろこべる組織やいうことどすな」

阿比留健太「個人のめざす成長ん方向性っち、組織のめざす成長ん方向性の違っちきよったっち思いますたい。もう個人ん思い入れや、理想なんかの実現はむずかしか。個人の立場はなく、組織ん成長するこつだけの目的になっちいるとばい」

田中健介 「だから辞めるちゅうこつやな?で辞めてどないしはるのや?」

阿比留健太 「持ち株ん一部ば売っち、こまか会社ばおこそーかっち考えとるとよ」

山田太一 「また一から出直しちゃうの?」

横溝淳二 「どねーな事業をおこすのじゃろうか?」

阿比留健太 「事業ゆうてもな、人ば育てるこつばしたいっち思っちいますたい。だけん起業塾のごたるもんば考えていますたい。ビジネスプランん作り方や会社ん興し方、自分ん夢ば実現するにな
、どげな経営が良かか。そげなこつば考えていますたい。ウチらもベンチャー企業支援組織にお世話になりよったやろう。あいん民間版ばやりたいっち思っちいますたい。有能なコンサルタントにお願いし、民間でしか出来んスタイルで起業塾ばやりたい。そいの今んうちん夢たい」

横溝淳二 「起業塾たーおもれーな。しかし、その教え子たちが大成功すると、ワシたちとおんなし道をたどるかも知れんな」

阿比留健太 「そこですたい。ウチの考えとるんは。(どげんありたいか)ば、徹底してから考えさせぇ、そん実現んためん、会社んつくり方ば指導したいっち考えていますたい。自分ん思い入やら理想ば実現させるにな、ほどよか会社の良かやろう。ふとか会社ば目めざすなっち、伝えたいっち考えていますたい」

勅使河原努 「阿比留はん、さすがどすな。それなら反対する理由はあらしません」


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雪蹊寺

 四国巡礼の三十三番札所は、雪蹊寺(せつけいじ)である。山号は高福山、高知市の長浜にある。
 高知空港をおり立った健太は、タクシーで長浜にある雪蹊寺を訪れた。
 石段をのぼると石柱門がある。境内にはいると右手に鐘楼、左手に水場がある。正面に本堂が建ち、その右手に大師堂(だいしどう)がある。四国八十八箇所の寺には、空海をまつる大師堂がかならずあり、四国遍路のさいには、本堂とともに大師堂にも参拝することが慣わしとなっている。客殿の奥に住職の住まいがあった。
 目的は玄空(げんくう)和尚(おしよう)にあうためである。健太は50歳になっている。
 玄空和尚とは20年ぶりの再会である。客殿から青々とした坊主頭の若い僧侶がでてきた。人影をみて声をかけてきた。
「阿比留さんですね?和尚さまがお待ちかねです」
 案内されたのは、本堂の参拝者が座る外陣(がいじん)であった。般若心経の凜(りん)とした読経の声が聞こえていた。阿比留健太は、内陣に向かって深々と一礼して正座した。
 玄空和尚は内陣(ないじん)の須弥壇(しゆみだん)(仏像を安置している壇)のまえの、導師(どうし)の席である礼盤(らいばん)(箱形の壇)に座っていた。玄空和尚は本堂で夕方の勤行(ごんぎよう) の読経を、ちょうど終えるところであった。和尚の読経の声がやみ、鈴をならす音が三度して深々と礼拝した。
「阿比留さまがお見えです」
 玄空和尚は、かるく点頭(てんとう)した。
「阿比留です。大変ご無沙汰をしております」
 玄空和尚からの言葉はなく、しばらく無言の世界が広がった。しかたなく阿比留健太は、外陣(がいじん)から内陣の須弥壇の仏像をながめた。
 雪蹊寺には、運慶(うんけい)晩年の作といわれる本尊の薬師如来像(やくしによらいぞう)をはじめ、脇侍(わきじ)の日光菩薩、月光菩薩など鎌倉仏像の宝庫といわれるほどの名品が安置されている。
 健太には仏像の知識はない。が、しずかに座して、本尊の薬師如来像をながめていると、心が落ちついてきた。玄空和尚の無言の応接は、心しずかに由緒ある薬師如来像をみつめ、心を落ちつかせるためであったのであろう。

 内陣から出てきた和尚は、健太の顔をみてかるく会釈すると、こちらへという仕草で先にあるいて行く。本堂から廊下をわたり、客殿へ行き、さらに奥へつづく廊下をあるき三畳の茶室に招じ入れた。
 玄空和尚とは、ザビエル公園で出あった大久保太郎のことである。もし大久保太郎と遭遇しなかったら、今の健太は存在しない。落ち込こでいた健太に「三十にして立つ」ことをさとした。勇気をふるい起こし、派遣仲間を集(つど)い「ザビエル7」プロジェクトを立ちあげた。
 大久保太郎は四国にわたり、ゆるりと巡礼をしつつ、人の悩みの根源である執着心を、少しだけでも開放させることが旅の目的であり、自らの懺悔の修業と考えていた。
 一方で、メーリングリストで、そのあとの成り行きの大半は承知していた。
 また健太とは、年に何度かのメール交換をしていたから、大久保太郎が十数年前に、高知の雪蹊寺で得度(とくど)した(仏門に入る)ことは知らされていた。
 20年の歳月がたち、健太は50歳をこえ、大久保太郎はすでに85歳になっている。仲間たちと自立した健太は、十三の会社を傘下におさめる、持ち株会社の代表をつとめてきた。
 大久保太郎は、放浪の旅で四国巡礼を何巡もつづけたあと、住職との出あいでこの寺で得度し、いまは法名(ほうみよう)を玄空と称し、雪蹊寺住職の地位にある。
 玄空和尚は、かってザビエル公園で出あったときの、柔和な風姿とは異なっていた。
 どことなく浮世ばなれした、威厳を感じさせる立ち居(い)ふる舞いであった。
 しずかに茶を点(た)て、健太にすすめた。
「しばらくぶりですな。ここは茶室で私的な場所ですから。くつろいでくださいよ。茶の作法などどうでも良いことです」
 玄空和尚は、はじめて昔のような柔和な笑をみせた。
 




心眼を開く

 玄空(げんくう)和尚は、問わずがたりに、第十九世の大玄(たいげん)和尚との出あいをしゃべりはじめた。
 大久保太郎は、ゆるゆると四国八十八ヵ所をめぐり、お遍路さんへの「お接待」に何なんども出あった。四国の人々の大らかさと、豊かな自然と信仰の篤(あつ)さから四国を離れがたくなり、八十八ヵ所巡礼をくり返した。四国八十八ヵ所の巡礼は、全行程をあるくと1千280㎞もの道のりである。
 70歳になった七回目の巡礼のとき、三十三番札所の雪蹊寺で、第十九世の大玄(だいげん)和尚と出あった。夏の終わりに近い夕ぐれであった。巡礼者が途絶えた境内のベンチにひとり腰かけ、ぼんやりとしているとき、住職から声をかけられたのである。

「よろしかったら、お茶を一服(いつぷく)さしあげたい」
 と、この茶室に招(しよう)じいれられた。リヤカーを引っばりながら巡礼をつづけている姿を、大玄和尚は何度か目にしていたらしい。茶室で大久保太郎の放浪のいきさつと、人々の悩みを聞くことを自からの修業とし、七巡目の巡礼をくり返していることを知った。
 高齢の大玄和尚は、ゆるやかに大久保太郎につげた。
「そろそろ、心眼をひらくときですな。まだ迷いがありますな」

 心眼(しんがん)を開くにはまず分別(ふんべつ)をすてよ。 と大玄和尚はいう。がんらい分別とは、善悪や道理をわきまえるために、人が持つべき最も大切な理性とされている。人が人として生きていく上で絶対不可欠のものであり、この分別があってこそ、人間社会はなり立っている。と大久保太郎は信じてきた。ところが、
禅では、そのもっとも大切な分別意識こそ問題である。 分別意識は、人が便宜上(べんぎじよう)つくりあげた架空のものである。架空のものには実体がない。実体のないものに、尺度や差別をつけ分別している。人は常識的であればあるほど、その実体のない観念にとらわれ、ふり回されている。そこに「こだわり」の意識が生じ、悩んだり苦しんだりするという。
これを禅では「迷い」という。 禅の修業はただ一つ。この迷いの元を絶つことにある。その迷いの元こそ、分別なのだという。さらに実体のないものは妄想だ。だから、
分別をすてよ。 と諭された。人の悩みを聞きだすことで、その執着心を少しでも開放させ、その人の背負っている肩の荷をかるくする。そう信じてきた。それまでのしがらみを全てすて、リヤカーを引っぱって、放浪の旅を6年にわたりつづけてきた。若くして悩んでいる人には勇気を与え、自立する知恵をだすよう諭してきた。

 しかし、それらは、すべて「こだわり」からくる分別だ。 己の価値観を一方的におしつけ、息子を自殺におい込んだという自責の念が、つよい「こだわり」となっている。と和尚はいう。
 心眼を開くには、まず分別をすてよ。 分別をすてることで「こだわり」を開放させる。これが「迷い」から抜けだす唯一の方法だ。迷いがなくなれば、やがて心眼を開くことができる。心眼を開くことができれば、在(あ)るがままのものを観(み)ることができる。と諭された。

 臨済宗(りんざいしゆう)の十七世山本太玄(たいげん)和尚の教えの根本は、「心眼を開け」であったという。
 雪蹊寺は、弘法大師(空海)の開基で、創建当初は「少林山高福寺」と称し、真言宗に属していた。そののち寺運が衰え、廃寺となっていた。
 のちに土佐の戦国大名の長宗我部(ちようそかべ)元親(もとちか)の後援で、臨済宗の寺として復興し、長宗我部氏の菩提寺(ぼだいじ)となった。このとき再建した元親の号にちなみ、雪蹊寺と名を変えた。
 ところが明治維新初期の廃仏毀釈(はいぶつきしやく)旋風のとき、また廃寺となった。
 明治17年に、名僧として知られた十七世山本太玄和尚の努力で、臨済宗の寺として再興し、今日までつづいている。四国八十八ヵ所札所(ふだしよ)のうち、二ヶ所だけ臨済宗の寺がある。
 阿波藤井寺と雪蹊寺である。このような経緯で、真言宗ではなく臨済宗の寺としてつづいている。幸いなことに、二度の廃寺に遭遇しながらも、そのたびに本尊の薬師如来像をはじめ、脇侍(わきじ)の日光菩薩、月光菩薩など鎌倉以来の仏像は、篤志家(とくしか)の手によって寺外に運び出されて保護されてきた。





禅の心

 雪蹊寺住職の第十九世の大玄和尚から諭され、目からウロコのように感じた。
 もっと話を聞くべきだと感じ、三日間にわたって夕方には雪蹊寺にかよい、大玄和尚の話を聞いた。つぎの日には、、雪蹊寺中興の祖とたたえられている、山本玄峰(げんほう)和尚の事歴(じれき)を聞いた。
 岡本芳吉は、慶応元年に和歌山に生まれた。筏(いかだ)流しなど肉体労働に従事していたが、19歳のころに目を患い失明した。わずかに光芒が感じ取れるていどであったらしい。やむなく家督(かとく)をゆずって四国巡礼の旅にでた。

 四国巡礼には「お接待」という風習がいまでも残されている。お遍路にたいするお接待では、食べものや飲みものなどを無償奉仕し休憩所を開放している。また遍路に宿を無償で提供する「善根宿(ぜんこんやど)」まであった。巡礼者にたいする四国の人々の手篤(てあつ)いお接待は、それを奉仕する人の行(ぎよう)でもあり、功徳(くどく)(神仏のめぐみ)となるという考えかたである。
 ところで四国巡礼だけが遍路(へんろ)とよばれている。
 四国巡礼は、交通路が整備された江戸期でも、道が未整備なところが多かった。
 関西や関東の有名寺社への観光化された巡礼にくらべ、四国巡礼は辺地(へち)とよばれる険(けわ)しい山道がおおく、よほどの覚悟がなければ、歩き通せないほど厳しい修業であった。
 辺(へち)の路(みち)をあるくことから、覚悟をもって四国のみちを歩く巡礼者を、遍(辺)路とよぶようになったらしい。
 岡本芳吉はこのお接待によって、露命をつなぎ巡礼をつづけることができた。

 ところが七度目の四国遍路のとき、雪蹊寺山門で行きだおれとなった。このとき十七世山本太玄和尚にたすけられ、寺男(雑役の下男)として雪蹊寺にとどまることになった。やがて岡本芳吉の勤勉ぶりと、ただならぬ才覚を買われて出家し、十七世山本太玄和尚から「心眼を開け」と諭され精進をつづけた。
「心眼を開く」ことは、簡単なことではない。
思慮分別で物ごとを観(み)る(全体を知る)のではなく、さまざまな「こだわり」をすてよという。「こだわり」を捨てるには、まずは自己を観(み)つめよという。
 いまの自分をみつめる(念ずる)ことで、さまざまなことに気づく。「念ずる」とは、今の心をみると書く。
さらに自己をもすてよという。さらに自己をすてたという心もすてよ。 こうして「心眼を開く」ことができるという。
 
 やがて、その精進ぶりを買われて十七世山本太玄和尚の養子となり、玄峰の法名をもらって法統(ほうとう)(仏法の伝統)を受けついだ。
 そののち十七世山本太玄和尚が、玄峰にあとの復興をたくし、各地の荒廃した僧堂をめぐり、再興に従事していたころ遷化(せんか)(亡くなること)した。
 山本玄峰は跡を嗣(つ)いで住職につき、その才覚をいかして雪蹊寺の本格復興につとめた。復興を完全にはたしたのち、雪蹊寺住職を後進にゆずり、師のあとを継ぎ、全国をめぐって修行をつづけ、龍沢寺(りゆうたくじ)、松蔭寺(しよういんじ)、瑞雲寺(ずいうんじ)など白隠(はくいん)慧鶴(えかく)の臨済宗の古刹(こさつ)を再興した。

 そののち大正15年(1926)からアメリカ、イギリス、ドイツ、インドなど諸外国を訪問し、「禅の心」を世界に広めるという先駆的な業績をこのしている。
 山本玄峰が世界でつたえた「禅の心」とは、
人々は過去の習慣にしばられ、未来に心をうばわれ、いつも「今」を忘れてくらしている。日々の心配ごとや悩み、怒りにとらわれ、今ここでの人生の不思議をしっかりと見つめることを忘れている。「念」とは今を思う心のことである。
 フォーゲットフルネス(自己の心を忘れる)のくらしから、マインドフルネス(念じて気づく)の生活をすることで、輝いて生きることができる。
  この今こそが、すばらしい一瞬だと気づく。
生きとし生けるものすべてが、「幸福」へ歩んでゆくためには、「理解と愛」が必要となる。「気づき」とは人を理解することで、人の願いや苦しみを理解したときに、そこから本当の愛(慈悲(じひ))がはじまる。人をいつくしむ心こそ、自分が幸福にいきる条件となる。この諭しは、世界の人々に大きな影響をあたえた。
 帰国後に推薦をうけ、臨済宗(りんざいしゆう)妙心寺(みようしんじ)派の管長(かんちよう)(一宗一派を管轄する長)となり、のちに管長を辞して龍沢寺の住職となった。

 物ごとに執着しない自然体の生き方が尊敬をうけ、多くの政治家からは、心眼を開いた禅師(ぜんじ)としてうやまわれた。終戦時には鈴木貫太郎、吉田茂の心の師となっている。また終戦の詔勅(しようちよく)(天皇が意思を表示する文書)、
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍(しの)び・・ 」
 の文言(もんごん)を進言(しんげん)し、採用されている。さらに戦後の憲法草案のとき、「天皇を国家の象徴」と定義する(象徴天皇制)を発案し、これも採用されている。
 1961年6月、静岡県三島市(みしまし)の龍沢寺で96歳をもって断食、遷化(せんか)した。葬儀には、外遊中の池田勇人首相の名代(みようだい)として、大平正芳官房長官などが列席した。
 山本玄峰和尚は、まさに行雲流水(こううんりゆうすい)のように、物ごとに執着しない自然体の人生をおくった人である。十七世大玄和尚の教えの「心眼を開く」ことに成功した数少ない禅師(ぜんじ)であった。





禅の公案

 十九世大玄和尚から教えを請うのも三日目となった。
 きょうの茶室での教えは看話禅(かんなぜん)についてであった。看話禅とは、禅宗における坐禅流儀の一つで、公案(こうあん)を重視し理解することで、悟りに至ろうとすることである。
 公案とは、禅宗の修行者が、悟りを開くための課題として与えられる問題のことである。禅の精神を究明するための設問であり、俗に「禅問答」ともいわれ、分別をもっては回答がみつからない。
 現在の日本の臨済宗は、江戸時代に白隠(はくいん)慧鶴(えかく)禅師が再興したものである。それまでとは異なり、公案に参究(さんきゆう)(参禅して探求)することで、見性(けんしよう)しようとする。見性とは、自己の本来の心を見極めることで、悟りに至る道となる。

 白隠禅師は、自らの悟りの機縁(きえん)となった「隻手(せきしゆの)音声(おんじよう)」を公案の第一に位置づけ、禅の修行者に必ず参究するようにさせた。
「隻手(せきしゆ)声あり、その声を聞け」
と問うのである。 隻手(せきしゆ)とは片手のことである。双手(そうしゆ)(両手)を打ちあわせると音がする。しかし隻手(せきしゆ)(片手)にも声がある。その音声(おんじよう)を聞け。それを答えよ。という課題である。
 公案は、ほとんどが無理会話(むりえわ)といわれている。片手では音が出るわけがない。
 片手の音声を聞けという課題は、とうぜんと思ってきた思慮分別からはなれ、理屈や常識を超えたものと対峙(たいじ)することを要求している。
 おおくの巡礼者は、本堂で般若心経(はんにやしんぎよう)を読経する。その経文(きようもん)のなかに
「不生不滅(ふうしようふうめつ)。不垢不浄(ふくうふじよう)。不増不減(ふうぞうふうげん)。無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)。」
の文言(もんごん)がある。意訳すると、
「生まれることなし、滅(め)することなし。清らかなものなし、汚れたものなし。増えることなし、減(げん)ずることなし。眼も耳も鼻も舌も身も意もなし。」
 般若心経では、一切の対立観念を否定し、完全無分別の世界を示している。
 眼でものを見、耳で音を聞き、鼻で匂いを嗅(か)ぎ、舌で食べものを味わい、意で心を動かす。この六根(ろつこん)(六つの感覚器官)から、あらゆる妄想が生まれてくる。だからそれらのものを否定する。妄想から放(はな)れることで、これまでの思考や分別を払(はら)いさる。分別から放(はな)れることができたとき、大いなる心の自由をえて、すべての迷い(こだわり)から解放される。すなわち悟りをうるというのである。
「心眼を開く」ことで、在(あ)りのままに物ごとを観(み)る(全体を知る)ことができる。
 心の迷い(こだわり)からはなれることで、しかるべき答えが、おのずと見つかるという。隻手(せきしゆ)(片手)にこだわりつづけると、分別からはなれることができない。
 一切の対立観念を否定し、妄想をうみだしている六根(ろつこん)から放(はな)れることで、完全無分別の世界にたどりつく。

 白隠禅師は、はじめて「悟り」をえたあとの修行が、さらに重要とし、悟りをくり返すことで真の世界を悟るにいたるという。白隠禅師は生涯に36回の悟りを開いたという。
 こうして大久保太郎は、三日間をかけて禅の心を教えられた。
 古希(こき)といわれる70歳に達してはじめて、いかに思慮分別にふりまわされてきた人生であったか、を諭されたのである。十九世大玄和尚はさらにいう。

 岡本芳吉は七度目の巡礼のとき、雪蹊寺山門で行きだおれとなり、当時の住職の十七世山本太玄和尚にたすけられた。それが機縁(きえん)となり、のちの山本玄峰和尚となっている。
 偶然にも大久保太郎も七度目の巡礼で、雪蹊寺の十九世和尚に声をかけられている。
これこそまさに機縁ですな。 と十九世大玄和尚がいう。機縁とは、きっかけ、機会という意味だけでない。
仏の教えを受ける衆生(しゆじよう)の能力(機)と、衆生と仏との関係(縁)をいう。 十九世大玄和尚のさとしを受け、雪蹊寺で得度し修業をはじめることになった。
 雪蹊寺で3年ほど十九世和尚の下で修業したのち、京都の本山である妙心寺で5年修業し、玄空(げんくう)の法名を授けられた。高齢の十九世和尚の隠退にともない、78歳で雪蹊寺の住職となった。いかにして仏門に入ったかを語ることで、「禅の心」を健太に伝えたのである。茶室で食事を供され、話は払暁におよんだ。
 ただ、阿比留健太がどのような迷いをもっているか。一切問わなかった。
 健太も、それを口に出す必要を感じなくなった。
自分の今の心を、静かに見つめる時間をつくること。自分の今の心を見つめることで、「気づき」がおきる。「気づき」によって、人の願いや苦しみを理解したときに、そこから本当の愛(慈悲(じひ))がはじまる。人をいつくしむ心こそ、自分が幸福にいきる条件となる。
 阿比留健太にとって、これ以上の言葉は必要がなかった。
(完)


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