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  Medical History
   
        目     次


     第一章 人類と病 
 
  
   人類の起源と拡散  
   ・人類と疾病   
   ・文明と疾病  
 
       
   
  第二章 古代の伝統医学

    
   古代エジプトの医療   
   ・インド伝統医学   
   ・中国伝統医学   
   ・ユナニ医学


   
  第三章 中世ヨーロッパの医

   
   神学と西洋科学  
   ・大学設立と医学教育  
   ・瀉血  
   ・修道院とホスピタル  
   ・ペストの大流行 
  
        
    
  第四章 近世西洋医学の夜明け

   
   占星術的医学  
   ・錬金術と古典的権威の破壊  
   ・解剖学と生理学  
   ・病理解剖
          
   
・ハーヴェイの血液循環論  
   ・細菌の発見   
   ・ワクチンの開発
 

    
  
 第五章 外科の夜明け

               
   ・床屋外科  
   ・銃創治療  
   ・麻酔治療   
   ・野戦病院とナイチンゲール  
   ・産褥熱
   ・無菌手術のはじまり   
   ・ホメオスタシスの発見  
   ・実験医学  
   ・胃腸外科
   ・難病であった虫垂炎  
   ・心臓外科の夜明け
 
 
 更新履歴

 人類の起源と拡散   2015.11.6  
 人類と疾病 
      2015.11.6
 文明と疾病       2015.11.6

 古代エジプトの医療  2015.11.14  
 インド伝統医学     2015.11.14
 中国伝統医学     2015.11.14
 ユナニ医学
      2015.11.14

 神学と西洋科学      2015.11.23
 大学設立と医学教育  2015.11.23
 瀉血            2015.11.23
 修道院とホスピタル   2015.11.23
 ペストの大流行
     2015.11.23

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 ■外部リンク

Medical History 


世界の医学史  


 

  第四章 近世西洋医学の夜明け    第五章 外科の夜明け

第一章人類と病  

    

 

 
人類の起源と拡散




    
 

 人類の祖先は14〜20万年前頃に、熱帯アフリカで共通の祖先から分岐して誕生したとされている。
 ミトコンドリアDNAは、母から子に受けつがれる特性を生かして家系を追跡する研究によって、現代人の共通祖先の分岐年代は、14万3千年前頃とされている。
 つまり現代の世界中の人々の母系先祖は、東アフリカの1人の女性であると推定することができるという。
 いわゆるミトコンドリア・イブの理論である。ただ人類の系統や移住の足跡をたどるには不十分で、父系の系統をたどることができる、Y染色体の分析と併せ検証するか、人類の核DNAそのものを分析する必要があるが、ここでは深入りしない。

 二足歩行と発達した脳を持った初期の人類は、狩猟採集で生活を営み、その集団は大きくても血族を中心とした数十人で構成され、狩猟採集のためにつねに移動をおこなっていた。やがて火利用した調理を行い、炉で暖を取り、火を利用して猛獣から身を守った。
 小さな集団での狩猟採集民の時期には、狩猟能力や移動能力に限度があり、集団の大きさが一定以上に大きくなることはなかった。

 次第にさまざまな道具を使用するようになって活動範囲が拡大し、他の狩猟採集民との接触が頻繁となり、小さな集団は婚姻によってやがてより大きな部族集団を形成しつつ、道具の製造法や形態は格段に洗練された。
 刃物や鏃(やじり)、槍の穂先などに使用された黒曜石、火打石としてのフリントなどの良質の石材の発見と利用や、動物の骨・角を精巧に細工するようになり、 「切る」「突く」「削る」「穴をあける」など道具の種類が増え、槍を遠くへ飛ばす投槍器、もりや釣針、後には弓矢も登場している。この頃には部族集団での共通言語が発達し、集団行動や役割分担も巧みになった。


   


 やがて森林の後退によって、部族集団は生活の拠点を草原へ移し、集団による草原での狩猟技術も発達し、狩猟・採集の規模が飛躍的に拡大した。こうして大型動物も狩猟対象になり、それらを追って徐々に移動をはじめた。
 人類の祖先は、環境への高度な適応能力をもっていた事と、狩猟採集生活という生存条件から、次第に熱帯から移動して温帯地域のユーラシア大陸などへと広域へ移動していった。

 ヨーロッパ人とアジア人の共通祖先の分岐年代は、7万年前頃と推定されている。人類はさらには長い時間をかけて北上し、寒帯地域いたるまでの、地球上の広い地域へ移動拡散をした。
 こうして各地域への移動と拡散は、およそ1万年前頃には、ほぼ完成したであろうとされている。つまり、その頃には地球上のほとんどの場所に、人類が住むようになったといわれている。

 このように人類は本能のように移動拡散し、狩猟採集の生活圏を地球上のあらゆる地域へ拡大していった。
 この時代は地球の最終氷期であり、平均気温は現在より4〜5度も低かった。
 ユーラシア大陸の北辺は氷河に覆われており、現在のフランスにツンドラが広がっていたともいわれる。
 しかし人類は、糸と針で毛皮を縫い合わせた衣服、炉を備え寒さをしのげる住居を作りだし、果敢に寒冷地へ挑んでいった。
 2万5千年前には、マンモスやトナカイなどの大型獣を追いつつ、北緯60度より北、極寒のシベリアにまで達している。
 氷期には、地球上の水が大量に氷となって陸上にあった。このため、海面は今より低く陸地は広大で、ユーラシア大陸のシベリアと北米大陸も陸続きであった。こうした状況で人類は、アメリカ大陸のアラスカにも足を踏み入れたと考えられている。
 1万千年前ころ氷河が後退すると、人々はアラスカから自然豊かな北米大陸の中心へ、さらには南アメリカ大陸へと広がっていった。
 北部のカナダから、南米の最南端まで達するのに、わずか千年しかかからなかったとする説もある。一方、この頃には溶けた氷によって海面が上昇し、ユーラシア大陸とアメリカ大陸は海で隔てられてしまった。以後1万年以上、両大陸の人類は、それぞれの環境に対する適応能力を発揮し、独自の生活様式を発達させた。  
 さらに驚くべき事は、5万年前には人類がオーストラリア大陸に渡っていることである。インドネシアの島々はまだ大陸と陸続きで、現在よりも海は狭かったが、それでもオーストラリア大陸とは、最短で百qは離れていた。そんな状況でも、人類は小さな丸木舟で未知の大洋に乗り出していったのは、どのような状況であったのだろうか。              
 ともかく、千年前頃までには、ハワイ、ニュージーランド、イースター島など南太平洋を乗り越え、孤島にまで人類の居住圏が広がっている。
 約1万年前に氷期が終わって気候が温暖になると、人類はますますその数を増やし、全世界で4百万人に達したとの推測もある。
 激増した人類の活発な狩猟活動は、環境の激変に脅かされていた野生動物にも大打撃となった。まず、マンモスなどの大型の草食獣が姿を消し、草食獣が滅びると、それを餌としていたサーベルタイガーのような肉食獣も滅びた。                

 とくに、アメリカ大陸では、マンモスや古代のゾウ・マストドンなど、大型草食獣をはじめ、ウマ、ラクダ、バクなどが狩りつくされた。
 北アメリカでは大型動物の73%が、南アメリカでは実に80%が絶滅した。オーストラリアでも、狩猟により大型動物の86%が消えたといわれている。 こうして人類は、南極大陸を除いて、地球のほぼ全域に移動拡散し、あらゆる地域で生態系の頂点に立ち、環境破壊をしていった。
 一方、約1万年前頃の気候が温暖な時代なると、人類は自然と居住地に有用な植物を栽培し、また有用な動物を家畜化することを始めた。
 このような消費する以上に農業で生産することで、部族集団はその地域に定住し、農業の生産力によって養いうる人口を増大させた。
 発見されている最古の農業の痕跡は、1万年ほど前のものである。  レバント(歴史的シリア周辺、肥沃な三日月地帯の西半分)で、最初の農業が始まったとも言われる。シリアのテル・アブ・フレイラ遺跡(紀元前9050年頃)では、最古級の農耕の跡(ライムギ)が発見されている。
 他にもエジプトやインドで、それまで野生に生えていた植物の種を植えて収穫したことを示す遺跡が見つかっている。


 

 また、中国の黄河流域や長江流域、アフリカのサヘル、ニューギニア島、南北アメリカの各所で、それぞれ独自に農業が始まった。
 最初期の農業では、まずエンマーコムギと、ヒトツブコムギが作物として栽培され、続いてオオムギ、エンドウ、レンズマメ、ヒヨコマメ、アマが栽培された。このように、地球のいたるところで自然発生的に農業が発生し、それぞれの風土に適した作物がつくられ、穀物の生産性によって人類は定着することで村落を形成し、やがては小規模な都市国家を形成するに到る。

 人類の自然環境にたいする適応能力のひとつとして、人類の肌の色の変化がある。紫外線の強い熱帯アフリカにいた頃は、その紫外線から身を守るために、皮膚のメラニンを多くもった黒褐色の肌を必要としていた。
 やがて温帯地域へ移動し、農耕によって定住を始めた人類は、穀物の偏食とともに、黒褐色の肌では日照不足となってビタミンDの不足を招いた。この結果、農耕を始めた当初は、くる病、?骨軟化症や骨粗鬆症などに悩まされはじめた。
 やがて人類は、その自然環境への適応能力によって、しだいに皮膚のメラニンを減らし肌の色を変化させてその適応を図った。
 こうして、ユーラシア大陸の北部へ定着したヨーロッパ人種は、白色の肌をもって日照環境に適応して行った。


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 人類と疾病


 
 インドネシアジャワ島発見された化石人類は、学名ピテカントロプス・エレクトスと命名され、最古の人類とされている。通称ジャワ原人といい、170〜180万年前のものとされている。
 1891年に脳頭骨と大腿骨が発見され、さらに1971年に顔面(上顔部)の大部分が残った頭骨が見つかり、ジャワ原人の特徴解明に大きな成果があった。この化石の分析で、ジャワ原人の骨には、結核が悪化してできる膿を持った塊があると証明されている。


   

 人類の起源は、微生物や病原菌と共にはじまり、体内微生物ともに生命を維持し、毒性の強い病原菌との戦いの歴史でもある。
 原生動物、菌類、細菌等の微生物は、地球上のあらゆる環境に存在し、哺乳動物の起源より遙かにふるい。
 人体内には約百兆個もの腸内細菌が棲みつき、腸内の内容物を分解し、ビタミンを産生し、免疫にも関与しているといわれている。この常在細菌は病原体の侵入を防ぐなど、人体と共存している。
 ところが、人の免疫機能が低下して抵抗力が弱ったときには、無害の常在細菌が感染症を引き起こすことがある。一方で、人体に侵入すると、ただちに感染症を引き起こす、毒性の強い病原菌が存在している。人間や哺乳類動物を経由して、つぎつぎに伝染して発病させる。
 哺乳動物にはダニ、ノミ、蝿などの節足動物や、蠕虫(ぜんちゆう)類などの消化管寄生虫が寄生しており、多種多様の原生動物、菌類、細菌、ウイルスに感染している。これらの野生動物を食してきた人類の祖先も、同じように寄生虫、細菌やウイルスによる感染症をかかえて生活していたと考えられる。

 人類の祖先である狩猟採集民の集団では、感染症や飢餓に常時さらされ、生存ぎりぎりの水準で生活していたであろうと推測されている。
 このため結核、ハンセン病や風土性トリポネーマ症などの細菌感染症は、それぞれの小さな集団のなかだけで流行していた可能性がある。
 たとえば熱帯地方では、昆虫やダニなどの吸血活動によって媒介されるアルボウイルスの感染や、マラリア原虫に感染していた可能性が高い。ただし、それらはみな地方病のレベルにとどまって、小さな集団を越えて大流行することはなかった。その理由は、採集狩猟民の部族集団の規模は、その集団がなんとか維持ができる程度の人数を維持し、大きな集団を形成するにいたっていなかったからである。

 一方で、つよい毒性を持つ病原菌が体内に侵入しても、人体の免疫機能の働きでその病原菌への免疫を獲得し、感染症を回避するメカニズムをもっている。
 このためその小さな部族集団が全滅するという事態にはならず、この免疫機構の働きで、その集団で流行した感染症については一部の人類は免疫力を獲得し、健康状態は比較的良好だったのではないかと推測されている。げんに、現代の採集狩猟民の調査によると、彼らには癌、肥満、糖尿病、高血圧や心臓病などの成人病はほとんど見つからないという。このため乳幼児期の危機を乗越えた成人では、健康と栄養の観点からは、のちに出現する農耕生活よりも、狩猟採集生活のほうが食物の栄養のバランスも良かったと推測されている。

 人類が草原に進出し粗放な農耕をはじめ、やがて農耕技術の発展が順次はじまり、集約的農耕が必要とする人口が、その限度を超えて成長した。人口が一定限度を超えて増えると、それに伴って文明が発生し、文明圏の人口基盤が集約的な農耕を促進し、この農耕の発展がさらに人口を増加させるという、相乗効果を生んだと考えられている。こうして農業を基盤とする都市文明圏を形成するようになった。

 文明圏での農耕の発展が、人間の健康にもたらした影響は二つの面がある。ひとつは農耕が食生活に与えた影響であり、もうひとつは人口の増大ともに感染症流行の拡大である。
 農耕生活が食生活に与えた最大の影響は、栄養面での変化である。
 狩猟採集時代でも、人びとの食事の多くは植物に依存していたが、農耕時代にはいると、高カロリーの炭水化物など、栽培植物に依存する割合が高くなった。 人口の増大に伴って、炭水化物への依存がさらに高まり、長期的には食事でタンパク質、ビタミン、ミネラル不足が生じるようになった。
 穀物の偏食によるビタミンB1欠乏症である「脚気」、必須アミノ酸のナイアシン欠乏症である「ペラグラ」ビタミンD欠乏や代謝異常による「くる病」は、農耕時代になってはじめて生じた病原菌以外の疾病である。


    

 「脚気」はビタミンB1(チアミン)の欠乏によって、心不全と末梢神経障害をきたす疾患で、下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。
「ペラグラ」は、ナイアシンの欠乏によって、手足や顔、首などに皮膚炎が起こる。また、下痢や頭痛、めまい、神経障害などの症状を引き起し、さらに、ナイアシン不足が続くと、脳機能にまで影響を与える。
 「くる病」は、ビタミンD欠乏や代謝異常によって起きる骨の石灰化障害である。脊椎や四肢骨の湾曲や変形が起こり、成人では骨軟化症を引き起こし骨粗鬆症の原因となる。
 このように人口が増え、相対的に栄養バランスが悪化すると、免疫力が低下して感染症の流行がおこりやすくなる。
 大きな人口集団になると、病原体がつねに集団のどこかに潜んでいて、他の人びとに感染するチャンスが生じる。
 人口集中による都市の形成は、衛生状態の悪化、貧困の増大、食糧の不足などで、寄生虫疾患の病状を悪化させ、また流行病への抵抗力を低下させ、流行病の蔓延をさらに促進させた。

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 文明と疾病

 エジプトの5千年前のミイラの調査によって、癌、関節炎、糖尿病、そして肺炎や塵肺症に似た、肺疾患に苦しんでいたことが分かる。
 また重症のアテローム静動脈硬化(粥状硬化症)や、変形性関節症に罹っていたことを示すミイラもある。
 先史時代の重要な感染症には、感染動物の毛や肉から感染する炭疽症とボツリヌス症の二つの、ヒト獣共通感染症がある。炭疽症の中でも肺炭疽症では、死亡率は90%以上とに非常に高く、獣肉の食中毒であるボツリヌス症を発症させる、ボツリヌス毒素は毒性が非常に強く、約0・5sで当時の全世界人口の致死量に相当するともいわれる。
 他にもペスト、結核、赤痢 、天然痘、インフルエンザ 、ウエストナイル熱、エボラ出血熱など、数多くのヒト獣共通感染症がある。
 いずれも致死率の高い感染症であったが、採集狩猟民の部族集団内の流行レベルにとどまっていた。部族集団内で生き残った人々は、その感染症に対して免疫力を獲得し、生涯その疾患には罹患しなかった。


  


 エジプトミイラのCTスキャン
       

 人類の感染症で新しい展開期となったのは、農耕文明期からである。
 寒冷期の後に、奇跡の1万年と呼ばれる時代がある。
 温暖な時代が続いたこの時代に、農耕文明が各地に成立し、集団で定住して農耕をはじめ、さらに一部の野生動物を家畜化した。開始された農耕は、その生産性の高さと安定した食糧供給によって、人口の飛躍的な増大をもたらした。
 人類が農耕をはじめた1万1千年前ころは、世界の推定人口は5百万人で、紀元前5世紀には1億人、紀元前後には約3億人となったという推測がある。
 一方、定住と野生動物の家畜化は、寄生虫病を増加させ、鼠などの小動物が介在するペストなどの感染症、動物に起源を持つ天然痘などのウイルス感染症が流行し、さらにヒトから家畜に感染した結核菌などの病原体もある。
 定住と野生動物の家畜化という農耕文明によって、新しい感染症の危機を招き人類は広域の疾病文明圏をつくることで、疾病と独自の共存関係をつくりあげた。

   
 


 つまり疾病文明圏では、流行するいくつもの疾病を区別認識し、個々に対処するための呪術を含む医療行為体系をつくりあげた。それぞれの社会階層に応じて、さまざまな種類の治療法と治療者が誕生し、それぞれに分化をとげている。
 人類最初の疾病文明圏は古代エジプトと西アジアでおこり、中国、インド、さらに地中海地域もそれを確立させた。
 紀元前10世紀から紀元前5世紀ごろに形成された疾病文明圏の誕生によって、文明は疾病に対処する技術や思想を生み出した。それは医療行為という技術だけにとどまらず、その社会行動やそれを正当化させるイデオロギーにまでおよんだ。

 古代エジプトの初期では、神々や悪霊がさまざまな症状の原因とされ、神への訴えから処置を開始するなど、医療処置には神がかり的な要素が含まれていた。宗教と医術の両方は、魔術を起源にしていると人類学者たちはいう。古代人の原始的な人々にとって、魔術は霊的な力をもって人を助けたり傷つけたりすると信じられていた。
 古代エジプトでは神官と医者に明確な区別はなく、医学は宗教から完全に分離していなかった。病にたいして多くの癒し手は神官であり、まじないや魔術を処置法の一部として用いた。魔術や宗教の信仰によって、強いプラセボ効果が生じて治療が成功したように見えたであろう。
 病気は、敵意をもった魂によるものか、神の怒りが原因であると信じられ、従って医薬は痛みを和らげるだけが期待されるもので、呪文やまじないや祈りのような魔術だけが、病気を取り除くことができるとされた。
 医者達は空気・水・血を運ぶ水路について、川がつまると作物は活力を失うという原理を、人体に適用したのである。つまりエジプトの医療処置として、水路のつまりを解消するために瀉下薬を用いた。
 また医療処置として、「身体を洗い、脇の下などを剃毛する」というものがあった。これは感染症の予防になったと思われる。他にも生の魚や獣の肉を避けるように患者に勧めていた。
 3千年の歴史を有する古代エジプトでは、やがて巨大で多岐にわたる古代エジプト医学の体系を作り出した。

 
          医学書エドウィン・スミス・パピルス

 エドウィン・スミス・パピルスは、紀元前三千年ごろのもので、古代エジプトの外傷手術に関する世界でも最初期の医学書で、人体解剖的研究、質問検査、機能試験、診断、治療、予後診断などが多数記されている。
 頭蓋縫合、髄膜、脳外部表面、脳脊髄液、頭蓋内振動、心臓が血管と接合されていること、血管により空気が運ばれること、肝臓、脾臓、腎臓、尿管、膀胱などについての記述がある。
 古代の外科教本では、魔術的な思考をほとんど全て排除し、数々の慢性病の検診・診断・処置・予後についても詳述している。エジプト医学は最終的に、解剖学・公衆衛生・臨床診断の領域で実用的な手法を開発した。
 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、エジプトには多くの医師がいて、医学の技術は、一人の医者は一つの病気だけを治療するというほどに専門化されていると記し、「ある医師は眼病だけを取り扱い、他の医師は頭、歯、腹、または内臓の病気だけを取り扱っている」と記している。

 何千年にもわたるエジプト人の記録には、吐剤、下剤、浣腸、利尿剤、発汗剤およびさらには瀉血まで使っていたことを示している。
 彼らは動物、植物、鉱物から得た豊富な調剤書を持っていた。世界で広範に行われたことで、エジプト人の初期の記録にあるものは、分泌物および動物体の部分を医薬品に使うことである。
 この行為は古代から行われているもので、パピルス文書は最古の記録である。乾かされ粉にされた唾液、尿、胆汁、糞、身体の種々の部分、蠕虫、昆虫、ヘビ、は調剤書の重要な成分であった。ギリシャの長編叙事詩『オデュッセイア』の作者ホメーロスは、その中でエジプトを「実り豊かな地球が、薬を最も多く貯蔵する」土地で、エジプトでは「全ての人が医者」だと記している。
 薬草が用いられ始めた時期を特定することは出来ないが、おそらく人類が文字を用いる以前から、薬草は用いられていたと考えられている。長い年月にわたる試行錯誤の末、世代を通じた知識が、部族社会の文明として集積され、シャーマンが治癒の専門職として機能したと思われる。
 エジプト医学では、特に一つの分野が高度に発達していた。
 つまり衛生思想である。住居、都市、および個人の清潔は法律によって規制され、頻回の入浴、全身をそること、衣服を完全に洗うこと、において僧侶は素晴らしい実例になった。 
 ディオドロス(ギリシアの歴史家:紀元前1世紀後半)が述べているように、彼らの生活様式は一様に規制されていて、法律家によるよりも医師が行っていたかのようであった。 

 古代中国でも神官が、人々の病も癒す呪(じゆ)術(じゆつ)師として存在した。
 最初の医療は、占いや魔よけにあたるものが主流で、やがて経験の積み重ねで生薬などの薬物療法や、鍼灸の原初的段階が組み入れられていった。
 中国医学では、陰陽五行説によって身体や宇宙の均衡を考え、病と健康を説明している。陰陽五行思想は、陰陽思想と五行思想を組み合わせたものである。陰陽思想は、全ての事象は、陰と陽との相反する形(明暗、天地、男女、善悪、吉凶など)で存在し、それぞれが消長をくりかえすという思想である。
一方、「五行思想」は、万物は「木火土金水」という五つの要素により成り立つとするものである。
 万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説である。また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。陰陽思想と五行説が統合され、観念的な陰陽五行思想として完成した。

 


 その特徴は、相生と相剋という、それぞれの要素同士が、互いに影響を与え合うという考え方である。相手の要素を補い、強める影響を与えるものを「相生」、相手の要素を抑え、弱める影響を与えるものを「相剋」という。この陰陽五行思想は、中国文明の思想と深く関わりをもち、古くから身体に関する理論が発達し、薬草や鍼灸などの技術もそれに連動して発展してきた。
 それとともに神に仕える巫祝(ふしゆく)も、巫(みこ)を専門とする神官的な存在と、医を専門とする医師的な存在に別れていった。
 扁鵲(へんじやく)は、古代中国、とくに漢以前の中国における半ば伝説的な名医である。その行動、人格、診察、治療については「漢方医で脈診を論ずる者はすべて扁鵲の流れを汲む」とも言われ、またその言動業績から、「六(ろく)不(ふ)治(ち)」など多くの漢方医学の用語や概念がうまれた。
 六(ろく)不(ふ)治(ち)とは、逆説的に「どうすれば病気が治らないか」に焦点をあてている。いわば現代の予防医学的な考え方を、紀元前655年ころに唱えているのである。
第一の不治  驕恣(きようし)(欲ばりで、おごりがひどいこと)で、物事の道理に従わない生活。
第二の不治  財をけちって身(健康)を軽んじる状態。
第三の不治  衣食住を適切(清潔)にしない、できない状態。
第四の不治  陰陽が五臓にとどこおり(相剋し)、気が安定しない状態。
第五の不治  身体が衰弱しきって、薬を服用できない状態。
第六の不治  巫を信じて医を信じない状態。
 この一つの状態でもあてはまる場合は、病気は治らないか、治すことができても治療は非常に困難である、とされる。


 

 
 アーユルヴェーダ(生命の知識)は、インド大陸の伝統的医学である。
 ユナニ医学(ギリシャ・アラビア医学)、中国医学と共に世界三大伝統医学のひとつであり、相互に影響し合って発展した。トリ・ドーシャと呼ばれる三つの要素、つまり体の基礎となるエネルギーとしてヴァータ(風)、ピッタ(火)、カパ(水)があり、体液、病素のバランスが崩れると、病気になると考えられていた。
 これがアーユルヴェーダの根本理論で、その名は、寿命、生気、生命の意のサンスクリットの「アーユス」と、知識、学を意味する「ヴェーダ」の複合語である。
この理論は、医学だけでなく生活の知恵、生命科学、哲学の概念も含んでいる。
 つまり病気の治療と予防だけでなく、より良い生命を目指す健康の維持・増進や若返り、さらには幸福な人生、不幸な人生とは何かまでを追求する、まさに生命の知識体系である。
 ひとつの体系としてまとめられたのは、早くても紀元前5~6世紀と考えられている。
 アーユルヴェーダの古典では、医学は以下の8部門に分けられている。
 ・治病医学 内科学(カーヤ・チキッツァー)
 ・小児科学(バーラ・タントラ)
 ・精神科学 = 鬼人学(ブーダ・ヴィディヤー)
 ・耳鼻咽喉科学及び眼科学(シャーラーキャ・タントラ)
 ・外科学(シャーリャ・チキッツァー)
 ・毒物学(アガダ・タントラ)
 ・予防医学 老年医学 = 不老長寿法(ラサーヤナ)
 ・強精法(ヴァジーカラナ)
 アーユルヴェーダは、古代ペルシア、ギリシア、チベット医学など、各地の医学に影響を与え、インド占星術、錬金術とも深い関わりがある。アーユルヴェーダの研究生は、上記8部門とは別に、調剤と施術に必要な10科の技術を学ぶことになっていた。
 すなわち、蒸留法・手術法・料理・園芸・冶金・砂糖の製作・薬学・鉱物の分析と分類・金属の混合・アルカリの調剤である。
 広範な内容が、直接的な臨床科目の説明の中で教授された。例えば、解剖学は外科の授業の一環として、発生学は小児学と産科学の授業の一環として、生理学と病理学の知識はすべての臨床科目に織り込まれた。
 古代インドでは、イスラーム勢力の拡大以降、支配者層や都市部でユナニ医学が主流となり、その隆盛はトルコ系イスラーム王朝のムガル帝国時代に最高潮に達し、アーユルヴェーダは衰退し、周辺部や貧しい人々の間に受け継がれた。一方で、各地の文明圏の成熟にともない、各地域間での人の交流が、陸路や海路を通し活発となり、これに伴って物産の交換と共に疾病の交換という事態が生じた。
 紀元2世紀頃には、シルクロードの交易ルートが、東地中海から西アジア、インド、中国にまで確立していた。
 これによって文明圏特有の疾病は、それと異なる文明圏と交流することで、相互の疾病の交換が活発になり、ユーラシア大陸の各文明圏では疾病の均質化が達成されようとしていた。
 しかし外部からの感染症に対する免疫力には、それぞれの文明圏によって違いがあった。例えば中国と、ローマ帝国のヨーロッパ世界は、2世紀から7世紀を通して疫病の流行が繰り返したが、疾病の交換の規模が当時まだ小さく、それぞれの集団にとって、免疫の獲得されていない感染症が数多く存在したからである。
 10世紀なって中国とヨーロッパ世界は、感染症に対する生物学的適応が、ユーラシア大陸のなかで最初に達成された。
 この時期以降、免疫力の確立で、中国とヨーロッパの地域は人口増加に転じた。これは西アジアとインドという疾病文明圏に対する、相対的な力の優位を意味する。つまり軍事遠征や交易の発達により、アジアやアフリカの周辺諸民族も、疾病が循環する圏内に組み込まれることになった。
   
 

 ユーラシア大陸全般の疾病の交換で、大きな影響を与えたのは、遊牧民の大規模な移動である。疾病文明圏が確立して以降、遊牧民が文明圏の住民に劣らない高い免疫能力を次第に獲得していき、病気の運搬者としての機能を果たすようになった。
 特に地球レベルでの感染症の拡散では、13世紀から14世紀の半ば頃のモンゴル帝国の軍事遠征と支配である。
 彼らは東西の疾病の交換を急速に推し進めた。彼らが運んだ最大の感染症は、ペストである。もともとペストは、それよりさらに南のヒマラヤ山麓の地方病であった。
 このペストが野生の齧(げつ)歯(し)類(るい)から、文明圏に住むネズミに、ノミを介して感染したために、ペストは最初の世界規模の流行病になった。
 この時期のペストの患者は、内出血によって遺体の皮膚は黒ずんだため、この病気は「黒死病」と呼ばれた。
 この流行によって、ヨーロッパの人口の4分の1から3分の1が死亡したといわれている。実は6、7世紀には、ローマや地中海地域は、しばしば腺ペストが大流行していたが、集団の免疫はすでに消失していた。7世紀のペストに比べて、14世紀のペスト流行は、死者の規模や流行の広さにおいて、空前のものであった。
 ヨーロッパでは18世紀になるまで、ペストはくり返し流行する。インドでも東アフリカでも、13世紀以降にペストが流行している。
 この時期のユーラシア大陸で、広範囲にわたる疾病の交換がおこなわれた感染症は、ペストのほかには天然痘と麻疹(はしか)である。
 14世紀のユーラシア大陸での、広範囲の疾病交換によって、疾病文明圏の人口は三割から半数近くに減少したと推定されている。

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古代エジプトの医療

 紀元前30世紀頃に始まった古代エジプト第一王朝は、世界最古の文明であるとされてきた古代メソポタミア文明と同時並行的に成立している。
 古代都市国家の成立はメソポタミアの方が早く、紀元前40世紀頃に成立したとされているが、統一王朝のシュメール王朝の成立は、紀元前28世紀頃とされている。ともかく古代エジプトの医療の歴史は、世界最古のパピルス文書によって、今日その当時の医療水準を知る重要な手がかりを与えてくれている。
 古代エジプトでは病気は悪魔の呪いや、神の祟りと信じられていた。このため古代エジプトの医師は、多くは神官であり、呪(じゆ)術(じゆつ)師であり、卜占や呪(じゆ)術(じゆつ)によって治療を試みた。科学知識が未開な時代の人々は、悪魔や神の祟りを極度に恐れていて、神に仕える呪(じゆ)術(じゆつ)師が、患者に手を当て呪文を唱えることで、強いプラセボ効果が生じて免疫力が高まった可能性がある。


 古代エジプトの医師

 また薬や、医学的処方を用いて身体の病を治療し、心の病は聖職者として呪い、あるいは宗教的儀式で癒した。特に外科医は、女神セクメトの神官と呼ばれていた。女神セクメトは、人類を滅ぼそうとした破壊の女神とされていたが、疫病や人に悪影響をもたらす精霊たちを司るとも考えられていた。
 一方で女神セクメトの神官たちは、女神の怒りを静める呪術力を持つとされていた。この女神の神官に女性が多かったように、女性の医師もいたようである。
 この時代は、病が精霊や女神などの呪いや祟りによるとされていたために、治療には呪文や儀式が必要であった。
 例えば、小さな護符や神像を包帯の中に巻きこんだり、寝床の側に神の像を置いたり、薬を調合するとき、呪文を唱えてから混ぜ合わせるなどの行為を伴った。医者は神官であり、呪術師であり、それらの儀式によって精神的な癒やし効果の相乗効果によって強いプラセボ効果が生じたと思われる。

  
 
           女神セクメトと神官たち 

 エジプトのファラオは、神権により国を支配した神権皇帝であった。 このためファラオの名前の一部には、ホルス名、セト名といった神の名前が含まれ、ファラオの関係している神や、その神官グループとの繋がりを示している。
 ファラオは神々を祭るために巨大神殿を造り、その巨大神殿こそが神権皇帝の象徴であり、権力の象徴であり、従って政治の中心でもあった。
 ファラオによって土地を与えられたわずかな貴族階級が、土地を所有しエジプトを支配していた。しかしファラオが交替したり王朝が変わると、土地を取り上げられることもあり、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。特に神官は、その貴族階級のなかから神殿に併設されているペル・アンク(命の家)で神学を学ぶ神々の書記学と、科学と医学を学ぶことが義務づけられた。
 神々のことを学んだ書記官のなかから、神殿に祭られているオグドアド(「八」の意)と呼ばれる八柱の神々に、専門に仕える神官が任命された。中でもトートの神は魔法に通じており、女神イシスに数多くの呪文を伝えたとされ、病を治す呪文も熟知していることから、医療の神ともされている。魔術は医療の処方や宗教的な儀式、占星術および数学の技術と混じりあって、これらを利用している。
 トートの神官は魔法の書物を書き、この世のあらゆる知識を収録する42冊の本も書いたと考えられている。
 
 古代エジプト人は、人体の解剖は全く行わなかったにもかかわらず、解剖学についての知識を持っていた。例えば古代のミイラ製作のプロセスの中で、ミイラ技師は鼻孔から長い鉤上の器具を挿入し、頭蓋の薄い骨を破って脳を摘出する方法を知っていた。
 また体腔にある臓器の位置についても、大まかな知見もあったようで、左鼠蹊部の小さな切り込みから内臓を摘出している。
 古代エジプトの医師はスィヌと呼ばれ、その登場は古く、紀元前2686年頃の第三王朝まで遡る。

 
               古代エジプトの外科手術

 古代エジプトの医者には、内科医・歯科医・眼科医・外科医・獣医など専門職が分かれていた。
 このように古代エジプト医学はきわめて発展しており、単純な外科手術・接骨・広範な薬局方などが含まれていた。
 生物医学上のエジプト研究によって、かなりの治療法は効果的であり、また既知の処方の約7割は近代のイギリス薬局方に適合していたとされている。
 うがい薬、軟膏、吸入剤、座薬、燻蒸剤、吐剤、湿布剤、絆創膏があり、彼らは阿片、ドクニンジン、銅塩、海葱、およびヒマシ油の使い方を知っていた。
 外科学はあまり進歩していなかったが、メスおよび実際の焼灼は自由に使われていた。外科的医学書には、外傷・骨折・脱臼など48の症例が記述され、骨折などは副木をあて、包帯で固定するなど、近代の治療法と変わらず、さらに義足や義肢、義眼などももあった。出血を伴う腕の外傷には、傷部分に分厚い生肉の切身をあてた。生肉には止血を助ける酵素が含まれていることを知っていたからであろう。止血すると、傷口にハチミツを塗った。ハチミツには吸湿性があり、傷の水分が吸収されることで腫れが引く。現代の所見では、ハチミツには抗菌性があることが知られている。ペニシリンを発見する5千年も前から、エジプトには感染症対策を施していたことになる。

 
          死者の書パピルス
   
 眼病の手術は専門家によってなされ、パピルスには眼炎の多くの処方が存在している。眼科の専門医は、目の炎症などの感染症のほとんどにハチミツで治療していた。またもう一つのの治療はで、黒と緑の染料を塗った。古代エジプト人は、すり潰した孔雀石をアイシャドウに使った。この孔雀石には銅が含まれており、銅には抗菌効果がある。
また黒のアイラインは鉛を使用したが、鉛は少量の使用であれば、病原菌を殺すので、目の感染症を防ぐことが可能であった。
一方で、医師たちはすでに脈拍の存在、また脈拍と心臓の関係についても気づいており、心臓は体のあらゆる部位に血液を送っていると書かれている。
 ただし心臓については、心や感情をつかさどるものと考えられ、死後、オシリス神の前で審判を受けるとき、心臓とマアト(真実)の羽を天秤にかけ、釣り合うかどうか調べると信じられていた。 
 心正しき者は羽と釣り合い、悪しき者は心臓が重いとされ、死後の生活に重大な影響があると考えられていたらしい。
 ただ体系的な循環系については、把握できておらず、また血管・腱・神経の区別もできなかったようである。血液、精液の他、体液は全部同じ静脈、動脈を流れ、最後は閘(こう)門(もん)にたどり着き、再生されると考えていた。このため、高い地位の医師は、「王の閘門の保護者」という称号が与えられた。また空気と食物を、血管が体の各部分へ配給する作用が生命維持のメカニズムであると理解していた。

 医師たちは、それぞれの専門科の医学書の処方に従って治療をすすめたが、その結果で患者が死亡した場合は、その責任を問われなかった。しかし医師の創意工夫で独自の処方を施して、その結果で患者が死亡した場合は、医師の責任を問われ、場合によっては死刑もあったという。
 メリト・プタハ(紀元前27世紀頃)は、古代エジプトの最初の医師であり、科学分野の歴史に登場する最初の女性である。

イムホテプ 

 イムホテプは古代エジプトの高級神官(トート神の神官)で、第3王朝のジェセル王に仕えた宰相とされる。また、史上初のピラミッドといわれる、サッカラの階段ピラミッドを設計した建築家としても知られるが、内科医としても優れた実績を持ち、その死後「知恵、医術と魔法の神」として神格化され、ギリシャの医神アスクレーピオスと同一視された。
 エジプトの大神殿には、医学を学ぶペル・アンク(生命の家)が併設されていた。

 
            ペル・アンク(生命の家)

 医師になるには、まず書記学校で神学と基礎学力を学んだあと、「生命の家」と呼ばれる神殿に属した医学校で学んだ。神官たちは、ここで医学の専門知識と技術を習得し、さらに併設のサナトリュウムで患者への臨床研修も行った。
 医学を学ぶほとんどは神官ながら、一部は民間人もいたという。
 またペル・アンク(生命の家)は、学者たの研究の場でもあり、神官・医師・書記官などが、天文学や地理学まで学んでいたというから、今の大学のような機能もあったようである。
 生命の家は医学の知識を学びつつ、同時に、患者たちを看る臨床研修の場所でもあった。中でも、デンデラのハトホル神殿は、大規模な病気療養施設のサナトリュウムを併設していて、女神ハトホルの救いを求める多くの人々が訪れていたようだ。

 
            ハトホル神殿

 このハトホル神殿のサナトリウムで療養すると、ハトホル女神が夢に現れ、病を癒してくれると信じられたという。
 今日の医科大学付属病院のようなもので、医学生の臨床研修と医学の進歩ににも役立ったに違いない。
 その後、神殿が閉鎖されて以降も、癒しの女神への信仰は続き、ハトホルのご利益に少しでもあやかろうと、人々は、神殿の柱を削って粉にして服用していたという。現在も神殿の外側下部には、石を削り取った痕跡が多数残されている。
 生命の家では、医師の養成だけでなく、医学研究と臨床治療に基づく長い経験から、それぞれ専門科の医学系を、パピルス医学書に残している。
 現在、外科的医学書の「「エドウィン・スミス・パピルス」や、内科的医学書の「エーベルス・パピルス」など、七つの専門医書が発見されている。
 これら医学書によって、古代エジプトの医師の知識レベルが判明している。内科的医学書では、877の処方と薬の調合方法や、様々な治療に使われていた5百種類にのぼる天然成分の解説が書かれている。
 一方、877例の処方のうち、12例は呪文を唱えることで治るとされている。
 処方薬はいずれも十数種類の薬草を、特別な計量カップで注意深く量って調合した。古代エジプト人の薬剤師が使っていたヒエログラフには、カップ半分、カップ4分の1、カップ8分の1などを示している。

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 インド伝統医学

 古代のインド亜大陸では、紀元前26世紀から紀元前18世紀の長い期間、インダス川流域に西アジアから移住した民族の、インダス文明が栄えていた。高度な文明を持ち、古代都市遺跡、モヘンジョ・ダロ遺跡やハラッパー遺跡などが発掘されている。
 ところが、紀元前18世紀ころから急に滅亡していった。滅亡の原因は諸説あるが、紀元前20世紀前後に起こった気候変動や、インド・アーリア人侵略説などが挙げられている。紀元前15世紀ころから、インド・ヨーロッパ語族のアーリア人が、中央アジアからインド西北部を経て、本格的にパンジャーブ地方に集団移動し侵略した。
 インド・アーリア人は鎧を身につけ馬曳戦車を駆使し、青銅製の武器を使うなど戦闘能力に長けており、先住民族をつぎづぎに支配してガンジス中流域にまで移動し小国家を建設した。
 サンスクリット語のアリアは、「高貴な」という意で、アーリア人が自称した。
 彼らの宗教はバラモン教であり、バラモン教の聖典リグ・ヴェーダは、インド・イラン共通時代にまで遡る古い神話を収録している。
 後のヒンドゥー教は、バラモン教から聖典やカースト制度を引きつぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら、徐々に形成されてきた多神教である。

 
 
          ヒンドゥー教寺院
    
 インド・アーリア人の国家の建設、聖典ヴェーダの成立、カースト制度の確立、バラモン教の成立するまでの時代をヴェーダの時代と呼ぶ。
 ヴェーダ医学は、呪術に基づく治療体系であり、病気は悪神鬼神や、悪霊などが体内に入り込むことによって、病気が発生すると信じられていた。これらの先史時代の医療は、民族を問わず神々に奉仕する神官や僧侶が、卜占師や呪術師を兼ね、占星術をもとに呪文を唱え、悪霊の厄払いの儀式が主であった。
 病気は悪い霊すなわち悪魔によるものであった。これらの悪魔は、現在の「病原菌」とか「微生物」に相当するものであろう。 
 このため僧侶が唱える呪文は、古代の医師の処方に相当するものであった。この故に病気によって呪文は異なり、信頼する患者にとっては神秘的なものである。
 病気の治療が僧侶の手にある限り、儀式にともなって同情的魔術の頭の下に都合よく纏められた聖なる祭文は、処方された薬の摂取と同じように重要なものとみなされた。

 

          占星術 ナクシャトラ
 
 この時代は病気を二つに区分していた。
 第一は身体の内部をおかす病気で、外部からは状況が判断できない病気である。この外部から状況が窺うことが出来ない病の原因は、タブーを破ること、神々に呪いをかけること、魔術や妖術の動きかけ等であると、当時の人々は信じた。第二は身体の外部が侵され、身体の外部の変化を観察できる病である。
 この時代でも病気に対して合理的な態度で臨んだ。つまり病気の判断を占いだけに頼らず、病気の症状を観察することを重視していた。主な症状の時間的な変化や、最も有力なものや反復するものを観察し、それぞれを悪しき存在と結びつけて治療法を考えた。
 そして厄払いの儀式には、身近な動物の血や脂、そして乳や糞、雑多な植物の根や葉、岩塩や鉱物の粉などを使用された。
 こうした呪術に基づく治療経験から、吐剤・下剤・浣腸などの薬効のある植物や鉱物、動物についての知識を積み重ねて使用し、また呪術師としても活躍していた。
 また種々の症状に対して有用な、ニンニクやショウガなどの食事療法や、逆の断食療法、さらに有用な動植物、鉱物などの薬効成分の経験知識を累積していった。それらの薬効成分の処方が増えるに従い、医療は次第に専門家として、神職から分離して医師として専業化をしていった。

 古代インドではこうした多民族、多宗教、多神教の歴史のもとで、インド伝統医学のアーユル・ヴェーダが、紀元前5~6世紀頃に体系とし完成していったとされている。
 インド伝統医学は、ユナニ医学(ギリシャ・アラビア医学)、中国医学と並んで世界三大伝統医学とされていて、相互に影響し合って発展してきた。アーユルヴェーダの名は、サンスクリット語の、生命や生気を意味するアーユスと、知識(一大叢書)を意味するヴェーダの複合語である。生命(アーユス)は、身体・感覚機能(五感)・精神、我(アートマン、魂)の結合したものであるとしている。従ってアーユルヴェーダの基本的な考え方は、人間の精神と肉体、さらに生活行動と生活環境などの調和を重要視している。
 心に影響を与えるトリグナという三つの心のエネルギー、サットヴァ、ラジャス、タマスが存在する。

 
 



 これに対し、身体にはトリ・ドーシャ(三体液・ 三病素)と称する、三つの体液、つまり三つの生命エネルギーが存在しているとしている。 すなわち運動エネルギーのヴァータ(風=変化)、変換エネルギーのピッタ(火=胆汁・熱)、結合エネルギーのカパ(水=粘液・痰)の三つの体液を複合的に有しており、この三大エネルギーのバランスが崩れると病気になるとしている。
 ドーシャは生命を維持し健康を守るエネルギーながら、同時にそれが増大・増悪すると病気を引き起こす三病素になるとされている。
 ドーシャのバランスは、日々の心身の状態や生活行動や季節によって変化し、特定のエネルギーが増大・増悪すると病気と考えたらしい。
 とくに心の乱れや不安定が、不健康な食生活、不完全な老廃物の排出、睡眠不足、その他ストレスなどによって、アーマと呼ばれる毒素が体内に蓄積し、身体の生命エネルギーのバランスを崩すと考えた。

 

 これは中国医学の「気」の医学に近い。心の不安定状態が、気の流れを乱し、肉体のバランスの崩れを招く、すなわち病気の状態とされている。
 従ってアーユルヴェーダによる医療の基本は、身体の浄化作用と活力回復に働きかけることであったらしい。
 司祭階級のバラモンの中から呪術師が撰ばれ、神々と関わる神官として特別な権限を持って呪術を行い、まずは心に影響を与えるトリグナという三つのエネルギーの乱れを正すべく悪神鬼神を払いだす呪術の儀式を行う。
 つぎに病んだ人々の身体の浄化作用と、活力回復に働きかけるのが医療行為であった。呪術の儀式には、ニンニクやショウガ、山羊の乳などとともに、さまざまなハーブやミネラルを含有した製剤、生物製剤などを複合して処方した。
 次第に神官である呪術師の指導の下で、シャマナ治療法という個別の身体に現れた症状に対する医療行為を行う医師が生まれ、経験を積み重ねて数千種類もの薬剤処方をもっていた。ショーダナ治療法という体内の浄化療法もあり、この治療の方法として、身体の特定部位の毒素を集めて、そこから蓄積した有害物質を体内から押し出すことであった。
 ともかくアーユルヴェーダによる医療の基本は、心と身体を総合的に治療することにあった。

 

 またアーユルヴェーダの医学大系は、長い臨床経験から来る治療技術の集大成でもある。
 病気の原因としては、生理学・解剖学の基礎的知識は欠如していたから、すべての疾患は根源的には、体液障害であるとした。
 また 因果応報としての、苦楽の結果を招く業による病もあるとした。 産児の聾、盲、白痴は欠陥のある精液・卵子、妊婦の悪行によるとした。また、身体・精神の特発的疾患、外傷性障害、季節的疾患、悪魔・神による疾患、自発的疾患(老齢、飢餓、渇、など)などがあるとした。また、人の気質を七つに分類し、長命の判断にした。
 病の診断方法では、綿密な患者の症状の観察と検査をした。つまり問診、視診、触診が主で、それに打診、聴診、味覚、臭覚を使った。
 例えば、視診で体重減少から肺結核を診断し、触診に含まれる脈診には脈博の見事で科学的な体系分類があった。また味覚を用いて尿や糞便の検査をし、甘い尿では糖尿病を認識していた。さらに、舌、皮膚、声、痛み、季節、年齢も考慮し診断した。

 

 
 一方で、患者を死なせると医者の権威が保てないことから、不治病と判断されたときには治療をしなかったらしい。
 使用された薬物には、7百6十種の生薬、また蜂蜜、骨粉、胆汁、乳液など動物性薬物、水銀など金属の鉱物性、塩類もあった。さらに5百種もの生薬も性質、味、効能、主要素で分類された。水薬には、水、ミルク、葡萄酒、象の尿、牛の尿などがあった。また、多種の吐剤、下剤、悪血を瀉出するのにに蛭などを使った。

 
 

 外科手術の高度な技術も持っていて、手術用具は鋼鉄性で、鈍器は百種ほど、鋭器は20種があった。鋏、直腸鏡、内空を広げるもの、ありの頭を鉗子として腸を縫うなどもあった。また軟膏による科学的外科も行った。  
 外科的治療には、同時に薬の処方を組合せしたが、薬物で直ると判断した場合は外手術科は行わないと基本方針であった。このため外科手術の対象は、骨折、脱臼、白内障、結石の手術であった。外科手術には、葡萄酒、麻薬、仏弟子ギバの麻酔法も用いた。火傷の治療は、症状から4度に分けていた。外科手術には清潔を保ち、包帯の種類も豊富で、術後のアフターケアも整っていた。さらに整形外科もあり、刑罰で切除したものの成形としての造鼻・造唇術、また戦争による矢傷の治療(特に体の重要な部分に関して)として発展したものである。
 アーユルヴェーダの医学大系では、幾つもの伝染病についての知見を持っていた。大量のネズミの死後にペストが流行したこと、マラリアの伝染パターン、マラリアと蚊との関係、肺結核の喀血、らい病は接触伝染性があることなどを理解していた。らに糖尿病による化膿性炎症、肝臓病の腹水、てんかんなどの発作的病気、破傷風、象牙病、丹毒、産褥熱、骨髄炎、膿瘍と腫瘍とを区別し、甲状腺腫と腺病とを区別していた。
 
 インド伝統医学のアーユルヴェーダ医療は、北部インドに16世紀に成立する、トルコ系イスラーム王朝のムガル帝国時代までは、インド亜大陸での主流の医学であった。
 やがてインドにはイスラム教徒の勢力が拡大し、支配者層や都市部では従来のインド伝統医学から、ユナニ医学にもとづく医療行為が主流となっていった。一方アーユルヴェーダ医療は、都市周辺部や山間の貧しい人々の間に脈々と受けつがれた。

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中国伝統医学



 
伝統医学とシャーマニズム
 世界三大伝統医学は、民族固有の文明と死後の世界観を底本にした宗教が基になっている。シャーマンや卜占師や僧や神官による呪術や祈祷による儀式が、病に対する原初的医療行為であった。こうしたことから医の源は巫術でもある。呪文や祈りが、現実に人の心身の気を動かし、病気を治癒させる働きがあった。古代の人々は病気に対して、二つの病因を考えた。一つは祖霊・悪鬼・精霊・神々などが、人の行為をとがめ、罰として人の心身に干渉することで発症すると考えた。
 古く甲骨文時代から、すでに伝染性のある病気が知られていた。これを「癘疾(れいしつ)」、「列」などとよんで、この疫病は天が下す災いとしていたらしい。
 この故に医術の起源はシャーマニズムにあり、また巫術は古代中国文明の根元である。巫術には悪鬼・悪霊を祓い出すために、呪文とともに艾(もぐさ)や大蒜(にんにく) などの香草を身体につけたり薫べたり、さらには毒草の酖(ちん)の薫蒸法も行った。

 

 もう一つは、外部の自然界の調和の乱れや変化が、人の身体の内部のバランスを崩し、身体の変化や偏りをもたらして病気になるとも考えた。
 中国古代思想には「天人相関説」がある。つまり自然の秩序と、人間の心身の調和間には、有機的連関があるとしている。
 中国古代思想では、宇宙は陽と陰の二つの霊魂からなり、タオ(道・すなわち宇宙の秩序)の作用によって、自発的に作られたものであるとしている。
 陽は光、温、出産、生命を代表し、全ての恩恵を与える天球である。陰は暗、寒、死、および大地であり、大地は陽または天によって生命を与えられない限りは、暗、寒、死である。
 陽と陰は、それぞれ神と鬼と呼ばれ、無数の善と悪の魂に分けられる。すべての人間と生物は、一つの神と一つの鬼を持っていて、誕生のときに入り、死のときに離れて、陽と陰に戻る。
 この故に中国伝統医学では、二種の病因論のどちらかが常に他を伴って現れることが多い。自然の秩序とは、天にある六つの気で、陰・陽の二気、風と雨の二気、悔(夜)と明(昼)の二気としている。
『春秋左氏伝』には、「陰気が過多になると寒病になり、陽気が過多になると熱病になり、風気が過多になると手足の痺れの病になり、雨気が過多になると腹の病になり、悔気が過多になると心が惑乱し、明気が過多になると心が過労になる」としている。
 殷王朝(BC1600頃〜BC1050年頃)のころから、この二つの病因論が重層的・相補的に語られ、明・清・現代中国までこの状態は基本的に変わっていない。この時代には、身体の気、自然の気 という概念が整理され、人の身体は全ては、気の凝集物として存在すると認識した。つまり「気が凝集したものが生あるものであり、気が分散するのが死である」とした。


 
宗教と医学
 古代中国では道教が、漢民族の各地の土俗的民間信仰を収斂させた宗教である。
 道教の発生は、中国古来の巫術もしくは鬼道(悪鬼妖怪を退治する神)の信仰、不老長生を求める神仙思想などを基盤としている。「道(タオ)」の字義は、太極にもある二元論的要素を表し、陰陽の思想で説明されている。この道教に大きな影響を与えたのがインド由来の仏教であった。
 中国と中央アジアとは、シルクロードを介して古くから交渉があり、インドや西域から多くの文物とともに薬物・技術、さらに仏教という新しい宗教を布教する人々の登場により、インドやイランの医学思想がもたらされた。
 後漢末に仏教を伝えたとされる安世高は、同時にインドの仏教医学書や医薬をもたらしている。仏教の布教には、信仰に基づく奇跡治療や、インド医学による治療を伴っている。新しい宗教が広まるには、教義よりはむしろ、奇跡的病の治療効果が大きい。
 この時代は、戦乱と飢饉、異民族の侵入、さらには伝染病など受難の時代であったからこそ、大きな効果をもたらしたと考えられる。
『出三蔵記集』や『梁高僧伝』など、初期の僧の事跡や、経典伝来の様相を物語る書は、仏教を広めることと、奇跡治療とが表裏一体であったことを物語っている。
 小乗とほぼ同時に伝えられた大乗仏教の教えは、仏法修行の道場である敬田院、病者に薬を施す施薬院、病者を収容し癒す療病院、さらに身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院の四つの院を設けた。
 こうした他者救済事業は、とりわけ重要な位置を占めている。仏教者による治療には、仏教由来の呪文や祈りなどを中心に、薬の調合である方剤やインド医学的手術も行った。
 これらの古代インド医学などの思想と知識が、中国伝統医学に大きな影響を与えたが、中国伝統医学の特徴である、心身を有機的総体として捉えることに変化はなかった。
 さまざまな薬物とその方剤がもたらされたが、それが中国の本草学に本質的な変化はもたらさなかった。このことは、古代からの中国の本草学が発達していて、どんな新しい薬物をもその体系の中で分類整理するほど成熟していたことである。


 ・『脈書』と絡脈
 世界の各地の伝統医学の違いは、生命や病気に対する思想の違い、つまり世界観の違いと言える。このことから病気の症状の判断の相違によって、異なった病気の解釈となる。伝統医学の系譜が異なると、症状が同じであっても、別の病気の実体と診断されることになる。
 陰陽と五行の思想が結合し陰陽五行が唱えられたのは、BC300年頃と推定されている。

 

 全ての事象は、陰と陽という相反する形(例えば明暗、天地、男女、善悪、吉凶など)で存在し、それぞれが消長をくりかえすという思想である。五行思想は、万物は「木火土金水」という五つの要素で成り立つとするものである。
 後に、陰陽思想と五行説が統合され、観念的な「陰陽五行思想」として完成した。この思想が伝統医学に大きな影響を与えた。
 戦国時代末期の『呂氏春秋』には、人の身体を、360の骨節、九つの穴、五臓六腑をもつものとして捉え、その中を血脈が「流れ通じ」、精気が「行(めぐ)」れば、病気が生じることはないと記している。この360の骨節は、後代の医書の中で、神気が出入りし、絡脈が注ぐ孔穴(鍼灸のつぼ)として捉え直されている。 
 近年発掘された漢墓から出土した『脈書』は、秦の時代・戦国中期より末期までの医学書である。『脈書』の中に記されている経(けい)絡(らく)と呼ばれる気血のルートの発見は、中国伝統医学の独自性を際立たせている。
 経絡は、メインルートの十二本の経脈(正脈)と、経脈をつなぐサブルートや、バイパスである絡脈、及び「奇経」と呼ばれる管理・調節機能を有する八本の別の経脈から成っている。
 戦国時代の地理博物の書『山海経』には、薬物名が多く記されている。柴胡(さいこ)、桔梗、薑(はじかみ)、桂、烏頭(うず)、地(じ)黄(お)、甘(かん)草(ぞう)などなじみの深いものから、動植物から鉱物、更に想像・伝聞上の品まで百三十種も薬物が記載されている。ただし、この当時の薬物の使用法は、「食らう」とするものが最も多く、また「服す」、「佩(はい)す」と指示され、まだ身につけて悪鬼や悪霊を祓う薬も多かった。


 
医師について
 戦国から秦漢期にかけての政治理念、統治機構の理想をまとめた儒教の基本経典の一つに『周礼』がある。この書に記載されている王朝の医療機構の記述で、医者は三種に分けられている。「医師」と「食医」と「疾医」である。
 医師は医事全体を司り、食医と疾医は医師のもとで各々の職分を遂行する。ユニークなのは食医で、それは王の飲食をバランスよく配分し、調和のとれた食事で身体を調えるよう試みる職である。四季に相応しい食事、肉類と穀物の配合の法則等が説かれる。
 疾医は、理念上「万民」の疾病を司る。病気については、四季毎にその季節に起こりやすい病が記述され、治療には「五味・五穀・五薬」を用いる。五味・五穀とも飲食物であり、五薬は、草・木・虫・石・穀の五種の薬剤である。
 良医たる者は、先ず食物により治療を試み、効が見られなければ、初めて薬により治療することが出来る。薬はその本性上剛強で、万が一誤れば、人々を傷つけてしまう。医師は一年の終わりに、医官の一年間の治療成績を考慮し医官の俸禄を定める。10人中3人の治療に失敗した者までは合格で、4人失敗は俸禄を下げられた。
『周礼』には、医師以外にも医薬衛生の仕事に携わる官職が記されている。そのうちで重要なのは巫祝(ふしゆく)(神に仕える者・シャーマン)である。
 シャーマンの仕事は疾病を除くことながら、具体的な方法の記述がないが、薬草(『周礼』の定義では毒草)を、くすべて燻(いぶ)し出して、伝染病の源となる疫鬼や、害虫の類を追い出したり、除いたりする積極的な行為が記されている。



 医学書『黄帝内経』
 醫(医)の字義は、酒つぼに薬草を漬け込み薬酒を醸すことに由来している。古来、医者は「巫」と同じ仕事を意味するものであった。歴史的には漢以後、医は鍼灸療法と、草根木皮の成分を利用する本草療法に別れてゆく。
 紀元前2世紀頃の前漢時代に編纂された、中国最古の医学書『黄帝内経』は、現代中国医学理論の礎をなしており、素問(そもん)と霊枢(れいすう)から編成されていて、鍼経と素問の合計18巻が伝えられていた。素問は基礎医学倫理、霊枢は実際の技術的な内容であった。

 


 『霊枢』経脈篇には、「気血が盛んでありすぎれば瀉出し、虚であれば補う。熱によるものは鍼を疾(すみ)やかに抜き、寒によるものは鍼を留める。脈の走向部位が落ち窪んでいるものには灸を施す。気血が盛んでも虚でもないものは、その病いがどの経にあるかによって鍼刺部位を取る。」とある。
 また『黄帝内経』には多くの脈診法が記されている。診脈は、心を平静にした医師の呼吸を基準に行われ、50回の脈動の頻度・間隔・強弱・深浅・形状などを探る。
 四季・臓腑経路のそれぞれに相応しい脈状があり、それらと対比することにより病気の所在を知ることが出来るとしている。現在の西欧医学の脈診法も、そのルーツは中国の伝統医学の脈診法とされている。
『素問』移精変気論篇には、精神疾病について、気の連続的変化の一つの極点、陰陽の気の偏った亢進による偏りとして、この偏りを調和の取れた位相に戻すことが、即ち治療であるとしている。心身を一元的に捉える思想から、意識の下にある無意識的「心」の働きと身体との関係性に言及している。
『黄帝内経』の医学では、病因として、風・寒・暑・熱・燥・湿などの自然環境、五味などの飲食物、そして過労、外傷や寄生虫と、喜・怒・哀・楽や憂・驚・思など、意識の下にある無意識的「心」の諸相すなわち七情によるものがあるとしている。
 その診断には、脈診と望診によって行われ、全身の形態、心のあり方、皮膚・顔面・眼色、脈絡の色、さらに患者の声音の状態や、問診なども重要な指針である。

 

           鍼術治療用鍼

 治療法は、火(ひ)鍼(ばり)(灼熱した針で切開や瀉血などに用いた)を含む鍼刺の外、方剤の服用、五味すなわち、辛・酸・鹹(かん)(塩からい味)・苦・甘の食物による治療、薬物による薫蒸、膏薬の貼付、導引(現代の気功)、按摩あるいは心理的療法(呪術的も含む)があった。
 これ等の治療法に共通する原則は、先ず自己にとって異者として扱うべき邪気を駆逐して、それから気血(生気と血)や津液(しんえき)(気が体内で液化したもの)のバランスを調えるという考え方である。
 臓腑経絡の体系的考え方は、固体としての臓器・骨格などの構造だけでなく、流動的で見えない営衛気血(生命活動に必要な物質と機能)や律液の有機的循環と捉えていた。
 つまり中国の伝統医学では、他の伝統医学の主流である「液体病理説」を越え、心身を有機的総体として捉えることに特徴がある。
 身体には臓腑経路システムがあると認識し、四体液説や陰陽五行説といった考え方を越えて、心身の全体をシステムとして捉えている。この方法論は身体を部分に分けず、身体全体を連続的に捉え、また病気と健康、異常と正常すらも連続的にとらえるという思想である。
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 ・鍼灸
 鍼(しん)灸(きゆう)は、鍼(はり)や灸を用いて身体の一部に刺激を与えて、多様な疾病への治療を行う物理療法で、生薬方と共に東アジア各国の主要な医療技術として普及発展した。
 鍼術は、細い針を患部にあるていど深く挿し込む治療法である。体表面には鍼術を行うことができる約388箇所があり、長い経験で、どこが危険かが教えられた。たとえば動脈は避けるべき経路として示されている。診察手段が体表面観察と触診しかなかった古代から、体表面からの病態診断法として「証」と呼ばれる病態の分類法が発達し、それに対応する治療法として、生薬方と鍼灸を二本柱とする治療技法の体系が成立した。

 

            中国の鍼療法の図

 春秋末から戦国時代には、すでに「灸(きゆう)」は用いられていて、「孟子」に灸治療に対する最古の記載がある。
 鍼灸治療法が記載される最古の医書としては、馬王堆漢墓(前漢・B.C.168)出土の竹簡(ちつかん)と帛書(はくしよ)(絹に書かれた書)に、「足臂十一脈灸経」「陰陽十一脈灸経甲本」「脈法」「陰陽脈死侯」「五十二病方」などの名があり、全て「灸」に基づいた治療法の書である。
 施灸点としての「経穴」や「経絡」という概念も登場しているが、これら経絡・経穴に対する「鍼」の適用法が確立したのは、後漢(~A.D.3世紀)の時代とされている。
 鍼灸の古典医書『黄帝内経』は、前述の出土医書群の直系とされているが、記述される内容は、完全に「鍼」が主体の体系に移行している。
 これは、前漢から後漢に至る2〜3世紀の間に、本来「灸」による物理療法として生まれた治療技術体系が、太古から用いられていた?石(へんせき)(石鍼ともいう。石のメスによる瀉血)療法などを基に、より簡便な「鍼」による物理療法として発展したものである。
 物理刺激による鍼灸治療法は、その後の治療的経験則の数世紀に亘る集積として今日でも利用されている。


 
傷寒論
 後漢から六朝時代に至る数百年間は、中国にとって受難の時代であった。1世紀初めに6千万人を超えていた人口は、4世紀初めには1千6百万人まで減じている。その主な要因は、長く続いた戦乱と異民族の侵入、天候不順による飢饉などが背景にあるが、さらに度重なる伝染病の流行が、それに追い討ちをかけた。
 伝染病の認識は殷時代からあったが、その時代には「悪気で互いに汚染しあう」病と認識されていた。
 後漢以降になると連年のように、伝染病の記録が史書に残されている。
『漢書』平帝紀には、伝染病による死者について、3〜4割、過半、或いは6〜7割という死者の比率が記されている。この結果として、三百年間ほどで人口が4分の1までに減ってしまった。
 この深刻な伝染性の病気に対する治療法を中心とした『傷寒論』が、後漢末期から三国時代に、張仲景によって編纂された。張仲景自身が、一族の多くを傷寒で失ったため、この伝染病の治療法を研究し編纂したといわれている。
『黄帝内経』で取り扱う傷寒は全て熱証であったが、張仲景は寒証・虚証の型についても分析、対策を産み出した。この張仲景の傷寒論は、その後数多くの治療家によって校訂されている。

 
              傷寒論

 傷寒には広義と狭義の意味がある。広義では「温熱を含めた一切の外感熱病」で、狭義では「風寒の邪を感じて生体が傷つく」ことで温熱は含まれない。傷寒については、さまざまな説があるが、現在医学でのチフス、インフルエンザ、マラリアに似た疾患ともいわれている。傷寒論は古典であるため、後世さまざまに解釈されているが、主に内容から、.風邪(ふうじや)などの外感熱病の専門書という解釈と、疾病一般の診断とその治療法、つまり弁証論治の総合書という解釈もなされている。
『傷寒論』の編纂は、中国医学の代表古典『黄帝内経』を土台としているとされている。
 

          傷寒論の疾病の経過6時期
 
 傷寒すなわち、腸チフスなどの急性悪性感染症と、かぜ症候群などの急性良性感染症(中風)とを対比させて、その初発から終末までの時系列的病態変化を大局的に分類し、その病態分類に応じて、治療処方とその応用の仕方を、きわめて簡明直截に述べた経験医学書である。
 『傷寒論』がとくに優れているとされているのは、傷寒すなわち腸チフスや風邪などの治療法を述べているだけではなく、その基本は疾病そのものに対する見方や、処置の仕方を述べているものであり、そうした内容の書は他に類をみない。
 疾病の経過を、太陽、陽明、少陽、太陰、少陰、厥陰の6時期に分け、それぞれの時期の病状の推移を詳細に観察し、それに応じた治療法を述べている。
 症候としては特に脈拍の性状を重視し、治療はもっぱら薬物療法により、それも湯剤の使用が多いという点に特徴がある。
 例えば有名な「葛根湯」の方剤は、葛根、麻黄、桂枝、生(しよう)姜(が)、甘草、芍薬、大棗(たいそう)の7種の生薬からなる処方である。

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ユナニ医学

 世界三大伝統医学のひとつとされているユナニ医学は、ギリシャ・アラビア医学ともいわれ、イスラーム文化圏で行われている伝統医学で、古代ギリシャの医学を起源としている。ユナニの語源は、「ギリシャを源にするもの」という意ながら、イスラーム医学とも呼ばれ、イスラーム世界で発展してきた。
 アスクレーピオスは、ギリシア神話に登場する名医である。
 
 アスクレーピオスの像

 優れた医術で死者すら蘇らせ、後に神の座についたとされることから、医神として、現在も医学の象徴的存在となっている。
 ギリシャの旧1万ドラクマ紙幣に肖像が描かれていた。
 有名なアスクレーピオスの座像の杖に、ヘビ(薬師蛇)の巻きついた「アスクレーピオスの杖」(蛇杖)は、医の象徴として世界的に用いられている。
 ヘビ(薬師蛇)は、古代ギリシャでは神秘的な魔術の力と結び付けられ、超自然な力の象徴と考えていた。


 世界保健機関(WHO)のマーク

 さらに蛇は何度も脱皮して若返ることから、再生と不死身のシンボルとされている。このため、ギリシアの医神アスクレピオスは蛇のからまった杖をもつとされている。
 この蛇杖のマークは、医術の象徴として世界中で用いられている。世界保健機関(WHO)、米国医師会等のマークにも使われている。薬学のシンボルとして、薬局の看板などに用いる国もある。また世界各国の救急車や、軍隊の軍医や衛生兵などの兵科記章や資格章に用いられていることも多い。日本でも、陸上自衛隊の衛生科職種の職種徽章に用いられている。
 古代ギリシアでは、医神アスクレーピオスから、病院を「アスクラピア」と呼んだ。アスクレーピオスの子どもたちは、いずれも医術にかかわっており、息子ともに医学の知識に長け、トロイア戦争で活躍したマカーオーンとポダレイリオスが、娘には衛生を司るヒュギエイアや治癒を司るパナケイアがいる。ヒポクラテスは彼の子孫であるとも言う。

 ユナニ医学は10世紀に確立し、イスラーム世界の拡大とアラビア語の普及に伴い、ヨーロッパやインドでも広く行われた。ヨーロッパの大学では、15〜16世紀には主にユナニ医学が教えられており、18世紀までイブン・スィーナーの『医学典範』など、ユナニ医学の文献が教科書として使われていた。ユナニ医学は、ギリシャ医学の思想を受けつぎ、自然治癒と病気の予防を重視している。
 生活習慣や生活環境を病気の原因と考え、生活指導や食材の性質を考慮した食事療法を行った。理論としては、ガレノス医学を受けつぎ四体液説を採っている。

 
           四体液と四つの基本性質

 これは、四種類の基本体液のバランスがとれていれば健康で、どれかが優位になれば病気になるとする考え方である。体液の調和を回復させるために、患者の気質と薬剤の性質を考慮して処方され、瀉血や下剤なども用いられた。
 アッバース朝では東西交易が盛んになり、地中海や中近東地域だけでなく、世界各地の生薬が広く用いられるようになった。西洋近代医学が台頭してからも、ヨーロッパでは
19世紀まで世界各地の生薬が治療に活用された。
 ユナニ医学の思想の基本は四体液病理説であり、人間の身体は基本となる四体液の調和によって身体と精神の健康が保たれ、バランスが崩れると病気になるというものである。古代ギリシャやインドで唱えられたものを継承している。
 四体液説では、自然界に存在するものは「空気・火・土・水」の四大元素から構成され、神が定めた法則によって運用されているとしている。
 また、人に気質があるのと同様に、自然界に存在するあらゆるものに気質があるため、食材や生薬にも「熱・冷・湿・乾」の四つの基本性質があるとしている。この故に、治療には患者の気質と食材、そして施す生薬の性質を考慮し、食事指導や薬の処方がなされた。

 

 四大元素は、四つの基本性質「熱・冷・湿・乾」のうち二つを持ち、相互に変換可能であると考えられた。火は熱・乾、空気は熱・湿、水は冷・湿、土は冷・乾の組み合わせであり、配合によって強弱があるとしている。
 この四大元素 と四つの基本性質の配合の状態を、アラビア語でマザージュといい、「本質」「気質」「体質」「性質」などを意味している。この考え方から、人間にはそれぞれ気質があり、身体の各器官や身体の部分にも特定の性質があるとしている。また動物植物の各部分にも、特定の性質があるとしている。また、民族によって、それぞれ生活環境に適した気質を持っていると考えられた。
 熱性と冷性は、エネルギーの集合や分散であり、湿性と乾性は、肉体の状態を表すものであるとされている。
 これらの内、気質(マザージュ)が重視され、病理、診断、治療の基礎になっているつまり人によって優位な体液があり、体液の過少と人の気質には関係があると考えられていた。このため患者の診察には、身体の状態や言動、環境などが細かく観察され、触診が行われる。また体液病理説のため、体液の状態を知るために、尿検査や便診、脈診、血の状態を見るための瀉血などが行われ、診断材料とされた。
 治療の方針は、過剰な体液を除き不足するところに加えて、体液のバランスを安定させることであった。
 イブン・スィーナーの『医学典範』では、三つの方法を挙げている。
 まず健康の保全と栄養についての手当がある。健康の状態は生活習慣に基づくもので、健康を保つために守るべき諸注意があり、薬の処方と適合しなければならない。栄養については、患者の気質や体液の状態、病気の度合いを基に、食材の性質を考慮し内容を指導するため、特定の食材を禁止したり、量を調整することも行った。
 生薬を使った治療については、病気の質と反対の質の薬が処方される。
 医師は、罹患している患部の性質、および症状の度合いを把握し、患者の性別、年齢、習慣と癖、季節、地域の環境や気候、職業、体力や体格に合わせて薬を処方しなければならないとしている。
 さらに身体摩擦法があり、現代でいうマッサージ、整体、整骨などによる身体調整法があり、瀉血なども行われた。
 四体液説のユナニ医学の治療法では、下痢・嘔吐・瀉血などで悪い体液を排泄する治療や、吸玉療法(カッピング療法)、焼灼術も行われた。焼灼術は、焼いた鉄製の器具を用いた治療で、中国の鍼灸の影響を受けている。さらには、イブン・スィーナーは、精神療法も行っており、音楽療法も積極的に取り入れ、また電気ウナギを使った電気療法も行ったという。
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アラビア医学
 7世紀のサラセン帝国の進展の時代に、イスラム世界に発展したのがアラビア医学である。ギリシャ、ローマの古代医学を受けついでいるが、さらにシルクロードを経て中国やインドからも伝わった伝統医学からも大きな影響を受けた。
 医学思想は古代ギリシャ医学を引きついで四体液説であり、診断法や治療法についてはアラビア医学の独創的な要素は少ない。
 しかし中東が世界の文化の中心であった時代であり、東西交易の接点として、周辺地域の伝統医学を集大成したもので、ユナニ医学として位置づけされている。しかし錬金術の流行で、多くの化学薬品や薬物の抽出法などを編み出している。
 化学を意味する「ケミカル」の語源は、アラビア語の錬金術を指す「アル.ケミア」を由来としている。

 
 
         錬金術で生まれたアランビック蒸留器 

 さらには、アルコール、アルカリ、 カンフルなどの用語や、シロップやエキスという語もアラビア語に由来している。錬金術が盛んに試みられる過程で、蒸留や昇華のような化学操作も考案され、化学物質も多く造られた。
 現在の西洋医学における医薬品の発達の基礎は、この時期のアラビアの薬品医学に負うところが多いといわれている。
 しかし、度重なる西洋キリスト世界との戦争という、負の交流が繰り返され、少しずつ西洋医学に同化、吸収されていき現在に至っている。
 しかし、インドなど東アジアの国々ではユナニ医学とよばれて、今もアラビア医学は受けつがれている。

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 ・古代ギリシャ医学
 紀元前4世紀ころのヒポクラテスは、古代ギリシアの医者で、病気とは自然に発生するものであって、超自然的な力、つまり鬼神や邪神あるいは呪術などの仕業ではないと考えた最初の人物とされている。
 ヒポクラテスの最も重要な功績のひとつに、医学を原始的な迷信や呪術から切り離し、臨床と観察を重んじる経験科学へと発展させたことが挙げられている。つまり医学を宗教から切り離し、病気は神々の与えた罰などではなく、環境と食事や生活習慣によるものであるとして、臨床治療を実行した。一方で、現代の解剖学的、生理学的には誤りである四体液説を信じ、これに基づいた医療行為を行っていた。
 古代ギリシア医学は、クニドス派とヒポクラテス派(コス派)の二つの学派があった。
 クニドス派は患者の診断を重視し、症状を詳細に分類し、身体のどこが、どんな病気に罹ったかを特定し、それに基づいて治療する方法であった。しかし、当時は人体解剖はタブーであり、医師は解剖学・生理学の知識をほとんど持っていなかった。この故に、結果としてクニドス派は診断を誤ることも多かったという。
 クニドス派で最初の生理学者と呼ばれるエラシストラトスは、脳を研究して大脳と小脳を命名し、運動神経と感覚神経を区別し、さらに心臓弁膜の構造と機能を詳しく記述するなど、後世の生理学の基礎となる学説を発表している。また人体を粒子アトムからなるとも考えた。
 さらに尿道閉塞時に使用する、カテーテルのような器具を考案したとされている。

 
             ヒポクラテス  
 
 一方、ヒポクラテス派は、病後の経過を診断以上に重んじ、症状の経過観察にもとづいて効果的な治療を施し、大きな成果を上げた。これには医師各々が臨床にあたって、診察した症状と治療法を、客観的に明確に記録することが義務であった。このため、顔色、脈拍、熱、痛み、動作、排泄など、多くの症状に注意を払い、規則正しい記録をつけた。また病歴を聞くとき、患者が嘘をついていないかどうか、病歴や家屋の環境にまで広げていた。この事により、他の医師がその記録を参照し、その治療方法を採用することができた。
 ヒポクラテス派の医学思想は体液病理説であり、季節・大気といった環境の乱れと食事の乱れが、体液の調和を崩し病気を引き起こすと考えた。
 ギリシア自然哲学は、万物の根源を探求し、水、土、火、空気の四元素論を築き上げたが、体液説も同じ出発点を持っている。
 ヒポクラテスの四体液説の原点は、人間は風邪を引けば、鼻から粘液が出る。傷を負えば血が出る。嘔吐すれば、苦味のある汁を出す。つまり身体から出てくる液体を観察する限り、人体には大きく分けて四つの液体が備わっているという。たとえば以下のように説く。

 

 胆汁だけを嘔吐して死亡した者はひとりもなく、胆汁を導きだす薬剤を服用した場合には、まず胆汁を嘔吐し、ついで粘液を嘔吐する。そのあとで黒胆汁の嘔吐を余儀なくされ、最後に純粋な血液を吐く。粘液を導く薬剤によっても同じことが起こる。彼らはまず黄胆汁を、つぎに黒胆汁を吐き、最後に純粋な血液を吐いて死亡する。
 つまり身体は、四体液すべてによって成り立っている、というのである。この故に、患部という概念はなく、病気はつねに身体全体であり、一つであると解釈した。
 四体液説とは、人は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四体液をもち、それらが調和していると健康であり、どれかが過大・過小また遊離し孤立したとき、その身体部位が病むとした。
 当時の医術の基本は、「排出物」の観察にあった。
 身体に悪いものは嘔吐、下痢、排尿、排便、発汗、喀出、出血、化膿など、いろいろな形で体外に排出される。排出が順調になされれば、一定の期間をおいて、病気からの分かれ目である「分利(,体内における病気の分かれ目を指すヒポクラテス医学の用語)」が起こり、患者の回復が望まれる。
 そしてそれは、「人間の本性(ピュシス)」に宿る自然治癒力によるとされる。 この思想から、ヒポクラテス派の医術は、人に本来備わっている「自然治癒力」を重要視した。つまり四体液のバランスをとり戻して治癒するために、自然の力を引き出すことに焦点をあてた。
 自然治癒力の思想から、治療には休息、安静が最も重要であるとした。さらに、患者の環境を清潔な状態に保ち、適切な食事をとらせることを重視した。
 これら四体液は、季節による増減を具体的に指摘している。
 寒い冬には鼻汁や痰は、もっとも粘液性となり、湿潤で温暖な春には、赤痢になったり鼻血が出ることが多く、その血はもっとも熱く鮮紅色である。ここに、四元素である土・水・火・空気、四性である乾・湿・熱・冷、そして四体液と四季が組み合わされ、身体観が築かれている。

 

 ヒポクラテスの時代には、薬物による治療はまだ未発達で、医者のできることは病気の程度とその経過を診断し、他の症例を参考にして病気の進行を予測し手当をすることぐらいであった。例えば、創傷の治療でも、きれいな水と、ワインだけを用いた。その他鎮痛効果のある香油も塗布薬として用いた。
 ヒポクラテスは病気を急性・慢性・風土病・伝染病の四つに分類し、病後の経過を悪化・再発・消散・分利・発作・峠・回復といった用語で分類した。分利(crisis)とは、病気の進行中の段階のひとつで、この段階で患者が病に屈して死を迎えるか、反対に自然治癒で回復するかのいずれかが起こるとしている。また、病気が一旦回復した後に再発した場合は、もう一度分利を迎えるとしている。分利は罹患して一定期間後にみられる危篤日に起こるが、分利が危篤日から大きくずれて見られた場合は、病気の悪化が懸念されるとしている。

 ヒポクラテスの「体液病理説」での病とは、四元素、四性、四体液によってなる自然のバランスを失うことである。
 あらゆる病状は、その喪失の過程を示すものである。つまり病とは複数あるのではなく、医術の対象も、いくつもの個々の病にあるのではない。ミクロコスモスである、一個の人間存在そのものにあるとしている。 その自然のバランスを回復するために、過剰な体液を放出することは、浄化でもあとしている。「浄化を欲するならば、体液は流れやすい状態にされなければならない」という。心身を柔軟にし、常に快適な自然体を知れば、過剰な体液は、おのずと排出される。
 楽天的なヒポクラテス医学は、その後長く信奉され、その誤謬がわかったのちも医術の理想として謳いあげられてきた。
 ヒポクラテスの死後百年年以上経ってから編纂された『ヒポクラテス全集』には、臨床記録、医学の教科書、講義録、研究ノート、哲学的エッセイといった文書が順不同の形で収められている。専門家から門外漢まで幅広い読み手を想定して書かれている。
 著名な文書としては、『ヒポクラテスの誓い』、『予後論』、『急性病の養生法』、『箴言』、『空気、水、場所について』、『流行病』、『神聖病について』、『古い医術について』などがある。
 ヒポクラテス派は、厳格な職業意識、規律、厳しい訓練で有名で、『ヒポクラテスの誓い』には、ギリシア神への宣誓文である。内容は患者の生命・健康保護の思想、患者のプライバシー保護、さらに専門家としての尊厳の保持、徒弟制度の維持や職能の閉鎖性維持なども記されている。
 さらに医者というのは、身なりを整え、正直で、冷静で、理解に富み、真面目であることを推奨している。また手術室の照明、人員、器具、患者の位置、包帯の巻き方などにも事細かな仕様があったり、さらに指の爪をきれいに切りそろえることも求められたのである。
 一方で、ヒポクラテスは「医療において、これからおこる事態や、現在ある状況は何一つ患者本人に明かしてはならない」「素人である患者には、いかなる時も何事につけても、決して決定権を与えてはならない」と記している。このことだけは、現在医師の立場とは正反対の見解である。
 ヒポクラテスの立場は、親権主義あるいは家父長主義といわれるが、当時の医療は、まだ呪術や迷信が中心であった時代であり、患者は病に対して無知であったから、医師の診察と治療方針に従わせるしか方法はなかったとも言える。また「人生は短く、医術の道は長い」と言う有名な言葉もある。
 これらヒポクラテスの功績は、古代ローマの医学者ガレノスを経て、後の西洋医学に大きな影響を与えた。このことから、ヒポクラテスは「医学の父」、「医聖」、「疫学の祖」などと呼ばれている。

 ピポクラテスの時代には、人体解剖は許されておらず、人体の諸器官を系統的に把握するには限界があった。古代ギリシャ時代に、人類で初めて公に動物や人体の解剖を行ったのが、アレクサンドリアのヘロフィロスである。解剖の結果、人体の仕組を明らかにし、それまでに通用していた心臓を精神のありかとする考えに対し、初めて脳こそが精神のありかであるという認識を示し、さらに静脈と動脈とを区別するなど、新しい解剖学の地平を切り拓いた。彼らは心臓の弁、十二指腸、脳の多くの重要な部分を記録した。
 さらに神経の機能を認識し(それまでは腱と混同していた)、運動神経と感覚神経を区別し、脳を感覚機能と自発運動の座(場所)とみなした。ヘロピロスは水時計を使って脈を数え、その速さとリズムの多くの詳細な解析を行った。
 彼はコス島にあったピポクラテスが創立した医学校で学び、のちにアレクサンドリアで医学者として名声を確立し、宮廷でも厚遇されていた。当時のアレクサンドリアは、地中海世界とアラビア、インドとの貿易の商港、商工業の中心地として、ヘレニズム最大の都市として繁栄し、人口約80万を数えた。また、プトレマイオス一世ソーテルは、ムセイオン(学問研究所)と、付属の大図書館を建設している。
 このため文献学と自然科学が興隆し、ギリシア語訳『旧約聖書』もここでつくられ、ヘレニズム文化の中心都市でもあった。こうした雰囲気の中で、プレトマイオス二世によって、公開解剖が許可されたのである。
 その後長く、ヘロフィロス学派がアレクサンドリア医学界で主流となり、地中海世界の医学を主導した。
 動物実験解剖を除けば、次ぎに人体解剖が行われるのは、ルネッサンス期のイタリアの天才、レオナルド・ダビンチまで行われることは無かった。

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 ・ローマ帝国時代の医療
 ローマ時代の医療はユナニ医学の系譜であり、病の治療よりも、むしろ病気の発生を予防することに重点を置いていたことに特徴がある。ローマ時代の医学思想は、現代の予防医学の立場であり、健康法や公衆衛生のような考え方が一般に普及していた。
 古代ローマ遺跡からも、上水道・下水道の整備、公共浴場の建設、さらに集中暖房設備や公衆トイレの設置など、ローマはまさしく健康都市をめざして発展していったと考えられている。
 このローマ時代の医療と医学は、医学者ガレノスに代表される。
 ガレノスは古代都市ペルガモンに生まれ、神殿で医学の神アスクレーピオスに仕える神官として神殿で4年間医学を学んだ。さらにギリシア各地で医学を学び、ローマで臨床医者として活動するとともに、執筆活動や講義、公開解剖などを行って名医としての評判を得た。
 ガレノスの解剖知識は、生きた動物を使った臨床実験によって広がりを見せた。豚は解剖学的に人体とよく似ているという理由から、豚を使った解剖実験を行っている。
 そのひとつに、神経の束を切断し、その結果を観察するために、生きた豚を解剖することを行った。このとき、豚に悲鳴を上げさせないために、喉頭の神経を切断した。
 この神経は現在、英語では「ガレノスの神経 (Galen's nerve) 」とも呼ばれている。

 
          ガレノスの生きた豚の解剖 

 豚の脊髄神経を切断すると、身体の一部に麻痺がおこること、さらに大脳を傷つけると、体の反対側に障害がおこること、また水分を多く摂取すると尿量が増加すること、また腎臓から尿が送られることを見るため、生きた動物の尿管を結んで確認するなど、実証的解剖実験で発見していった。
 解剖実験には、豚の他にバーバリーマカク猿や山羊も使った。これらのことから、ガレノスは実験医学の創始者ともいわれている。
 公開解剖を行ったのは、他の医学派の理論に対する論駁のためであり、解剖の結果ガレノスの理論が実証され、価値の高いものであった。
 また、古代ローマの医学研究では、実証的解剖が主要な手法の一つであった。ガレノスの外科手術としては、白内障の手術や、脳外科も含めて技巧に頼った無謀な手術も多く行ったという。
 こうした臨床医としての豊富な経験と、多くの実証的解剖などによって、体系的な医学を確立し、多くのギリシア語での著作がある。代表的な著作に『人体の諸部分の有用性』17巻がある。
 ガレノスはまた、哲学や文献学についても執筆し、同じく解剖学についても広く執筆し、彼の全集は22巻にも及んでいる。その生涯のほとんどは、臨床医としての活動とと共に多くの執筆に費やされた。

 
         ガレノス学説の血管系についての図
 
 しかしガレノスの医学理論は、独創的なものではなく、ヒポクラテスの人体理論の上に構築されたもので、この四体液説を基にして、これらの体液の製造には、肝臓と脾臓が関わっていると、そのメカニズムを説いたのであった。
 栄養の基となる食物は、腸管から吸収されてかゆ状の「乳び」となり、不要なものは排泄される。乳びは門脈から肝臓に運ばれてさらなる調理を受け、血液に変わる。血液は、さらに肝臓で、成長と栄養の力をかたどる「自然プネウマ(精気)」を与えられ、大静脈を通じて全身を行き来する。この静脈血の一部は、心臓の右心室に入り、そこから動脈性静脈(肺動脈)とその弁を通って肺に達し、栄養を与える。
 一方、右心室に残ったわずかな血液は、心室中隔にある「見えない孔」を通って左心室に滴り落ちる。そこで静脈性動脈(肺静脈)を通って吸い込まれた空気と混合して動脈血を造る。この動脈血は、「生命プネウマ(精気)」が与えられ、動脈に入って諸器官に活力が与えられる。
 
            ガレノスの生理学体系
 
 また、脳に達した動脈血は、もっとも崇高な第三の精気である「精神プネウマ」が与えられて、神経を通って生体に運動と感覚を引き起こす。
 そして左心室に残った血液と生命プネウマの混合物は、有害な気体を発して血液とともに左心室からでてゆき、肺からは、有害な気体が体外に排出されるという。
 つまり食物の摂取によって、肝臓ではつねに新たな血液が造られ、それは生体内で燃焼して四体液を製造し、そこから立ち上る煙は、呼気として吐き出されてゆくと考えられたのである。この時、肝臓の調理熱の温度加減によって、適温ならば血液、過度の熱が加えられてしまうと胆汁、低温ならば粘液となる。
 この調理熱の高低加減によって出来てしまった胆汁は、胃に寄り添う脾臓で吸収されて血液となるものの、脾臓の機能が悪い場合には、黒胆汁が出来るという。その黒胆汁は、あたかも葡萄酒の発酵の時にできる「澱(おり)」のようなもので、「腐食性」があり、「酸味」があり、身体を腐食させ、泡を発して沸騰のような発酵状態を呈する。
この黒胆汁の過剰によるさまざまな症例は、ギリシア・ローマ医学がアラビア経由でヨーロッパに輸入された。
 また古代以来、過剰となった体液の排泄として頻繁に瀉血という療法があったが、この瀉血をヒポクラテスも推奨し、ガレノスによって身体のバランスを崩す悪しき体液は、肝臓からの経路である静脈を切開して、体外に排出しなければならないと理論付けした。ガレノスという権威が確立した瀉血は、以後実に19世紀まで、また民間療法では今日まで行われている療法である。

 

 ガレノスの多くの著作による医学理論は、ユナニ医学の集大成を行っておりその意義は大きい。こうしてローマの高名な医学者として名を成し、請われて皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスの典医にまでのぼりつめた。
 ガレノスが体系づけた四体液説の学説は、その後ルネサンスまでの千5百年以上にわたり、ヨーロッパの医学やイスラーム医学において支配的なものとなった。彼はアリストテレスが学問を支配したように、医学思想を支配した。ルネッサンスまで、大胆な精神もこの医学における法王の無過誤性を疑うものはいなかった。
 ヒポクラテス以来の「医学の基礎には哲学が必須である」という考え方が、ガレノスの著作によって、後のイスラム世界やヨーロッパの医学思想の方向性を決定付けたのである。
 ようやく16世紀のルネサンス期になって、アンドレアス・ヴェサリウスが、初めて実際に人体を解剖し、解剖結果を詳細に記録した『人体の構造』を出版した。こうしてボローニャ大学で、体系立てた解剖学の研究が始められ、古代からのガレノス解剖学の多くの誤りを指摘した。
 この近代医学の夜明けが訪れるまでの長い間、ガレノスの解剖学・生理学が医学の理論を支配していた。
 古代ローマの博物学者プリニウスは、ローマ帝国の有名な医師たちの履歴を書き記し、ある者たちは、他の時代には見られなかった程の高収入であると記している。プリニウスの時代の医師たちの、正道をはずれた遣り方について強い言葉で非難している。
「困ったことは、目の見えない医師たちの無知を罰する、法律や法則が無いことである。医師たちによって、生命を失うにもかかわらずである。彼らによって手術されたり、薬を誤用されて起きた結果にたいして、報復をした人は知られていない。医師たちは、我々の生命を危険にして技術を学び、薬の有効性と実験のために、我々を殺すのを何とも思わない」と彼は言っている。さらにつづく。
「裁判官は注意深く選ばれるのに、医師たちは事実上、患者たちの処置について裁判官である。患者に急に死刑を宣告し、天国または地獄に送り込むのに、彼らの能力とか、価値について、尋問とか試験を行わない」


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 神学と西洋科学

 ヨーロッパの中世期は、医学や医療技術の面からは、長い停滞の時期にあたる。その原因は良くも悪くもキリスト教にある。
 中世期のヨーロッパでは、至る所で学問は神学の侍女であった。
 ロジャー・ベイコンは、13世紀イギリスの哲学者、カトリック司祭でありながら、理論だけでなく経験知や、実験観察を重視したから近代科学の先駆者といわれる。
 ベーコンは神学や学問において、先人に対して単純な追随を否定した。彼の『大著作』では、数学、光学、化学に関する記述があり、宇宙の規模まで言及されている。さらに驚くべきことに、顕微鏡、望遠鏡、飛行機や蒸気船が発明されることまで予想している。

         
            ロジャー・ベイコン

 また、宇宙の運行が、人間の運命と心身に影響すると考えていた。さらに他にもユリウス暦の問題点を指摘し、アイザック・ニュートンより400年も早く水の入ったグラスで光のスペクトルを観測していた。
 ベーコンは、その先見性と、実験観察という新しい方法に強い魅力を持っていたが、その彼ですら、すべての科学は、女王である神学に仕えるものに過ぎない。という中世に支配的なの信念を受け入れていた。
 こうした背景で、自然科学は中世のヨーロッパでは、キリスト教の価値観を出発点として発展してきた。

      
         神に由来する宇宙 天動説


 唯一絶対の神によって世界が創造されたから、この宇宙には一定の法則が存在するはずである。
 この神に由来する宇宙の秩序と法則を、いろいろ理解するべく試みたのが、西洋科学の発端であった。したがって、自然科学は神学のカテゴリーの一部とされてきた。
 科学は客観的真理を解き明かし、宗教は、道徳倫理や心の問題にかかわる主観的な問題であると考えられる。しかし一方で、神学は、あくまでも、理性的営みであり、科学と共通であるとされてきた。
 被造物としての自然と人間、その関係を求める実在論的神学では、自然科学と神学とは敵対者ではなく、共に神に仕えるパートナーであるとしている。神学者でもあったガリレオ、ケプラー、ニュートンなど、中世の科学者は、みな敬虔なキリスト教徒であった。つまりキリスト教は、科学を通して中世の世界観を支えてきた。


       
          ガリレオの天動説

 当時使用されていたユリウス暦では、実際の1年の長さよりも10日も短かった。カトリック教会の司祭であったコペルニクスは、この誤差に着目した。太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した。
 1年の値が2種類あるのは、基準を太陽とるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる。

       
         コペルニクスの 地動説

 コペルニクスの地動説は、単に天動説の中心を、地球から太陽に位置的な変換をしただけのものではない。
 地動説では、1つの惑星の軌道が、他の惑星の軌道を固定している。また、全惑星(地球を含む)の公転半径と、公転周期の値が互いに関連しあっている。各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定される。同様に、地球と各惑星の距離も算出できるとしている。
 コペルニクスは1543年の没する直前、思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。
 しかし、ローマ教皇庁は1616年に、コペルニクスの地動説を禁ずる布告を出した。また同じく地動説を唱えたガリレオも、二度、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられた。この時の「それでも地球は回っている」の呟きは、伝説として現在に至るまで語り継がれている。

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 大学設立と医学教育

 南イタリアの古い歴史を持つ港湾都市サレルノに、7世紀には修道院が建てられ、9世紀には施療院も付設された。
 10世紀に入るとヨーロッパ最古の医学校、サレルノ医学校(医科大学)が設置され、中世ヨーロッパ医学の中心となった。サレルノ医学校では、古代ギリシアやローマの医学書が講義されていたが、今日の解剖学教室のような、階段教室が当時からあったようだ。
 やがてサレルノ医学校の教育とその治療成果によって、ヨーロッパの医学の中心的存在となった。

      
           サレルノ修道院

 12世紀までの科学をはじめとする学問は、修道院や教会を母体とした大学に託されていた。さらに12世紀になると、ボローニャ、パリの大学にそれぞれ医学部が作られ、医学教育がさらに拡大していった。
 僧院の学校や同僚が責任を持つ(collegiate)学校、たとえばサレルノのような学舎やボローニャのような学生のギルド(組合)は、当時の教育のための必要性に応じようとした。大学(university)という言葉は、文字通り共同体を意味し、最初は教育組織には限られていなかった。
 起源は教育に特に適した場所で、学生たちが、自分たちを保護するためのギルドであり、惹きつける魅力は、ふつう有名な教師であった。
 ボローニャ大学は、法律学生のギルドから大きくなり、パリではすでに12世紀に、主として哲学と神学の教師の共同体があった。
 このように中世大学は、二種類の異なる大学が出来上がった。
 北イタリアの大学は、主として学生によって支配され、学生たちは異なる出身地(nation)にグループ分けされていた。彼らは講義を取り決め、教員たちの任命を支配していた。
 これとは別に、パリを見本にして創設された大学では、先生たちが教育を支配し、学生たちはやはり出身地グループに属し、自分たちのことを管理していた。しかし医科大学や大学医学部で講義されていた医学知識は、相変わらずガレノス医学の古代の医学であった。中世の医学・医療は、他の科学領域と同じく古い知識の盲信であり、中世は停滞の時代であったといえる。
 医学部の先駆となった、ボローニャ大学の解剖学者モンディーノ・ルッツィ(1275頃−1326)は、1315年に公開で人体解剖を行いながら解剖学の講義を行うという教育法を始め、「解剖学の再建構者」とされる。


         
          解剖の講義をするモンディーノ。
          指示しながら壇上から講義している

 モンディーノは教育のため、定期的に人体解剖を行うことを実践した。1315年1月には女性の死体の解剖を行い、子宮の剖検を行った。
 翌1316年末には、解剖学の教科書『アナトミア・ムンディニ』(日本語で「解剖学」)を書いた。
 モンディーノの生存中から『アナトミア・ムンディニ』の評価は高く、当時の解剖学の標準的な教科書となった。
 しかし、内容はアラビアを通じて伝わった2世紀のローマの医師ガレノスの著書を踏襲したものであり、多くの間違いがそのまま残されていた。人体を直接観察して解剖し、直接体内の構造を研究する手法が主流となるまでの間、『アナトミア・ムンディニ』は教科書として最も多く参照された。1470年代に入ると、『アナトミア・ムンディニ』が印刷され多く読まれた。

        
            中世の解剖学図

 中世最初の解剖学書『アナトミア』によると、解剖医自身は執刀せず、不浄な死体に手を下すのはより身分の低い執刀師(理容外科医)であり、自身は動物解剖からの類推によって、人体の構造を把握していたことが明らかとなっている。
 この解剖学黎明期において、解剖の手順も定められていった。
 フランスの外科医ギイ・ド・ショリアックは、モンディーノの実践的な解剖学書にもとづきながら、さらに解剖の順序を、1.「栄養に関わる部分」(腹腔の内臓)2.「霊的・精神的部分」(胸郭の内臓)3.「魂をつかさどる生命的部分」(頭蓋器官)4.「末端部分」(手足)と、4段階に定式化したのである。そこには動物的・欲望的魂、すなわち生命の維持や生殖に関わる魂を横隔膜の下におき、順次、愛などの感情をつかさどる魂は心臓に、神的あるいは精神的な、つまりより高次の魂は頭部にあるとするプラトン、アリストテレス以来の魂のありかについての思想が反映されている。
 しかし何より、その順番の根拠は腐敗にある。もっとも腐敗しやすい部分から解剖し、極力、腐敗による死体の破壊とそこから漂う腐臭による嫌悪感を免れようとしたのであった


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 瀉 血

 中世の医学では、健康はこれら四体液の調和に依存していると考えられた。血液質、粘液質、胆汁質、黒胆汁質(メランコリック)は、それぞれの体液が優勢であることに関連していた。
 身体は7種のいわゆる「自然なもの(natural)」からなっている。
 すなわち、元素、気質、体液、成分(または部分)、徳(または能力)、作用(または機能)、および精神である。9種ある「自然でないもの」が健康を保っている。すなわち、大気、食べ物と飲みもの、動きと休息、眠りと目覚め、排泄と停留である。さらに熱情である。
 この思想から病気とは、ふつう体液の構成の変化によるものであり、治療の指示は、これらの学説によってなされた。患者たちは排便させられ、痩せさせられ、冷やされ、熱され、下剤をかけられ、強化された。 

      
          瀉血人体図 15世紀

 瀉血は、ヒポクラテスが推奨し、ガレノスによってその権威が確立して以降、実に19世紀まで、また民間療法においては今日まで行われている療法である。
 瀉血は、基本的には静脈切開によって行われ、中世にすでに血液を排出できる静脈は30を数えたとされる。こうしてガレノスによって確立され、17世紀にいたるまで、医学、生理学の基本となった。
 ちなみに今日の医学では、体重の約7〜8%が血液とされ、体重が60sなら、5sほどが血液という。中世で瀉血された血液量は、一人数百tから場合によっては2、3gとされるから、生命の危険にさらされることもあった。
 そして瀉血の後は、全身の力をそぐほどに極度に衰弱していたという。
 瀉血の後は、栄養価の高い食事と、赤ワインを摂ることが説かれる。瀉血の後は、血のような赤ワインを、存分に飲むことを推奨している。
 こうした瀉血は30日に一度、星辰の配置から日曜日、水曜日、金曜日がよく、40歳では回数を減らし、60歳ではさらに減すべしとされた。
 星辰の運行と、瀉血の箇所を図示する絵図は、ルネサンス期に多く残されている。例えば「羊飼いの暦」という名で月暦にも挿入され、民間にも流布していた。さらに占星学的人体も登場する。
 中世のデトックス(毒物の排出)思想から、近世ヨーロッパの王宮では、とくに瀉血熱が高まり、瀉血は日常茶飯事であったらしい。フランス国王ルイ13世(在位1601〜43)は、年間瀉血を47回、浣腸を212回、下剤を215回処方されたという。この恐るべきデトックス(毒物の排出)願望は、身体を憔悴させ精神錯乱を来すという、あやうい処方であった。
 近代医学が大きく発展するのは、レオナルド・ダ・ヴィンチに代表されるルネッサンス期まで待たなければならなかった。

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 修道院とホスピタル

 中世ヨーロッパの医療は、主として巡礼教会と修道院の果たした役割が大きい。中世以来の修道院では、自給自足の生活を行い、農業から印刷、医療、大工仕事まですべて修道院の中で手分けして行っていた。
 そこから新しい技術や医療、薬品も生まれている。ヨーロッパに古くからある常備薬には、修道僧や修道女の絵柄が多いのはそのためである。
 ヨーロッパのワイン、リキュール(薬草酒等)、ビールは、今でも修道院で醸造されているものも多い。
 こうした薬草による常備薬や、薬草酒などが製造されてきたのも、修道院における医療行為に由来している。またヨーロッパにおける病院の始まりも、そのルーツは修道院の施療院である。
 社会的弱者の貧者でも、医療が受けられるようにと、修道院や巡礼教会が施療院を付属させるようになった。貧富を問わず全ての人々を救済するという、キリスト教精神が、そのまま施療院の運営の精神であった。 初めは癩病者などの看護や介護が主体であったが、次第に修道院の薬草園で生産された医薬品を使ったり、医者が常駐して手術などの本格的医療行為も試みられるようになった。修道院では、修道僧が医師をかねる場合が多かった。

      
          サン=ジャック施療院

 中世盛期の施療院の普及には三つの段階があった
 11〜12世紀には、教会改革とクリュニー派、シトー派の修道院に続いて、巡礼者のための施療院(hospitalia)・宿坊(hospitia)が、修道院、国王、領主によって建てられ飛躍的に増加していった。12世紀中葉以降は、貧困について新たな意識を持って寄進する信徒たちによってが建立されるようになった。
 13世紀中葉から14世紀には、都市や他の共同体によって独立した施療院が運営されるようになっていく。12世紀中葉の第二段階までは、建立された施療院を「十字架騎士修道会、アウグスティヌス聖堂参事会、兄弟会」によって運営されていることが多かった。一部は巡礼者や旅人のために、また一部は地域の貧者のために役立った。
 中世後期には数多くの施療院が建立されたが、そのうちかなりのものは「主に貧者・病者の世話をするためのもの」と決められていた。貧者施療院・病者施療院の増加に反して、巡礼者・旅人のための施療院は確実に減っていった。

 こうした中世の施療院での医療行為の功績は、ユナニ医学の集大成を行ったローマ時代の医師ガレノスが体系づけた医学知識を、そのまま近世まで伝える役割を果たした。
 大教会や大修道院は、古代ギリシャのヒポクラテスの『ヒポクラテス全集』やその他の著作、ローマ時代のガレノスの著作全集22巻その他、古い医学文献を収集し、忠実に書き写して保存するという医学図書館のような存在でもあった。これによってヒポクラテスの精神が現在でも知られ、ガレノス医学が千年以上にわたって実践の医療として伝承されていった。さらには、修道院の医療を受けつぐ医者を育成する使命から、キリスト教会の資本によるサレルノ医学校や、後のボローニャ大学、パリ大学などの大学のはじまりにつながっている。こうしたキリスト教会の支援による中世ヨーロッパの大学には、神学部、法学部、医学部、哲学部の四学部が置かれ、近代の大学制度の原型となっている。

      
        16世紀のミシェル病院

 中世ヨーロッパの修道院や巡礼教会の施療院が、巡礼者や旅人を宿泊させ、歓待した事をホスピス(hospice)と言ったが、今日では、主に末期癌患者に対して緩和治療や、終末期医療、つまりターミナルケアを行う施設のことをさしている。
 自らの意思と選択で、人生最後の時間をを少しでも快適に生き、その結果として安らかな尊厳に満ちた死を迎えたいという療養施設のことである。修道院で歓待する心(hospitality)が、今日の病院(hospital)の語源でもある。施療院の目的には、医学の進歩や施療技術の進歩にはなく、あくまでもキリスト教精神によって、より多くの貧者や病める人々を救うことにあったのである。一方、キリスト教会精神に反するような、新しいことを試みることが許されなかった。


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 ペストの大流行

 14世紀の中世ヨーロッパに、ペストの大流行が発生した。
 当時は、モンゴル帝国の支配下で、ユーラシア大陸の東西交易が盛んであったことと、地中海の商業網が隆盛であったことが、ペストの大流行の背景とされている。このためペストはヨーロッパへ上陸する前後に、イスラム世界でも伝染し大流行している。紅海と地中海を結ぶ交易で繁栄していた、エジプトのマムルーク王朝は、このペストの大流行が、衰退の一因といわれている。

       
  

 1347年10月、イタリアのシチリア島の港に運ばれた毛皮に、付着していたノミがペスト菌を媒介したとされる。翌年には、アルプス以北にも伝染し、わずか3〜4年の間に、ヨーロッパ全土に伝染した。
 14世紀末までの50年間に、3回の大流行と、多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2に当たる、約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。


     
         ペスト流行の図

 元来はクマネズミの感染病ながら、ネズミの血を吸ったノミから、人へと感染が拡大した。ネズミは人と荷物の移動ともに海を渡り、ネズミから蚤を媒介して、瞬く間に人に感染した。
 ノミからペストに感染すると、2〜5日経つと、全身の倦怠感と寒気がし、高熱が出る。その後、感染の仕方によって症状が異なる。
 ペストで最も多い症状が、腺ペストである。
 ノミに刺された場合、まず刺された付近のリンパ節が腫れ、ついで腋下や鼠径部(股(もも)のつけね)のリンパ節が腫れて痛む。リンパ節はこぶし大にまで腫れ上がる。さらに、ペスト菌が肝臓や脾臓でも繁殖し、その毒素によって、意識が混濁し心臓が衰弱し、多くは1週間ほどで死亡する。死亡率は50%から70%であった。
 つぎの症例がペスト敗血症である。ペスト菌が全身にまわり敗血症を起こすと、全身に出血斑ができて黒いあざができて死亡する。ヨーロッパでは一般に、黒死病と呼ぶのはこのことに由来する。

      
         ペスト流行の図
     
 三つ目の症状が肺ペストである。腺ペストの流行が続いた後に、起こりやすいのが肺ペストで、腺ペストを発症している人が、二次的に肺に菌が回って発病し、又はその患者の咳によって、飛散したペスト菌を吸い込んで発病する。気管支炎や肺炎をおこして血痰を出し、呼吸困難となり2〜3日で死亡する。患者数は少ないが、死亡率は百%に近い。
 当時の人々は、この病気が空気から感染すると信じ、特に死者の発する臭いが原因として、あらゆる香水が振りまかれ、香草が炊かれた。
 ビャクシン、月桂樹、松、ブナ、レモンの葉、ローズマリー、樟脳、硫黄などを燻べたという。また外出するときは、香草入りオイルに浸したハンカチを顔にかぶせたともいう。さらには、町の教会の鐘は鳴り続け、別の町では大砲が打ち鳴らされたともいう。
 やがて、この病気は人から人へと伝染することが分かり、病人は看病されることなく、死を待つようになる。墓地が満員になると、巨大な穴を掘って何百もの死体を積み重ね、いっぺんに埋葬する。
 黒死病と恐れられた伝染病を、どう予防するかという観点から、自然発生的に、隔離方法が採られた。
 ミラノでは、ペスト患者がいる家の扉や窓に、外側から板で囲ってくぎを打ち込み閉鎖して隔離し、健康な人を避難隔離させた。閉鎖された家には見張りが立ったが、夜中に見張りを殺し、家人を救出し連れ去るといった事件も起こった。ヴェニスでも罹患者の隔離棟を用意し、健康な人は船に乗せて離島に移動させたという。
 罹患者の隔離が、伝染病の防御に有効だとわかってから、1377年に、ベニスで本格的な海上検疫が始まり、患者の発生を届出させ、患者の隔離と、使用した物品の焼却処分、さらに港の封鎖が始まった。
 入港した船員の上陸や、荷物の陸揚を40日間待機させ、発病者がいないことを確認したのち、上陸が許可された。
「quarantine」(検疫)という語は、イタリア語の40を意味する単語が由来である。
 一方で、ユダヤ教徒の犠牲者が少なかったとされ、彼らが井戸へ毒を投げ込んだとのデマが広まり、迫害や虐殺が行われた。ユダヤ教徒に罹患者が少なかったのは、ミツワー(戒律)に基づく敬虔な生活習慣が、比較的に衛生的であったからともいう。
 ユダヤ教徒の人々は、各国での迫害を逃れ、ポーランドに大量移民した。

     
        ユダヤ教徒の虐殺

 当時のポーランドでは、ウォッカを飲む習慣がなく、ウォッカで食器や家具を消毒し、腋や足などを消臭する習慣が定着していた。さらには、原生林にネズミを食べるオオカミなどが生息し、ペストの感染症が発生していなかった。また、ポーランドでは1264年発布のカリシュの法令により、ユダヤ教徒の人権と、広範囲の自治権が常に保障されていたのである。
 その後も、ペストは17世紀〜18世紀頃まで何度か流行した。
 1629年10月、ミラノでペスト患者が発見されたが、翌年3月のカーニバルのために、検疫条件を緩和した結果、ペストが大流行し、最盛期には1日当たり3,500人が死亡した。
 1665年には、ロンドンで大流行し、およそ7万人が死亡した。
 1720年には、マルセイユで大流行した。しかし、集権化にともなう防疫体制の整備と、衛生状態の改善から、これ以降の大流行はみられなかった。こうして先進諸国では19世紀までに、ほとんど根絶された。
 19世紀の中国とインドで、千二百万人が死亡した世界的流行は、中世のペストが、香港から世界中に広がったとされている。




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